カテゴリー「読書感想文」の26件の記事

2020年2月 7日 (金)

福川裕一千葉大名誉教授監修の「ニッポンのまちのしくみ」が酷い

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (6)

 こんな本をみかけた。

 お子様向けにまちづくりの仕組みを解説する本のようで、千葉大学工学部名誉教授の福川裕一氏が監修しているという。

 

 ただ、その中身がヒドイのだ。

 

 

 まずは、首都高。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (3)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (4)

 ここでも「オリンピックに合わせて急いで高速道路を通す必要があったから空いていたお濠の上を通した」「渋滞だらけの町を世界に見せるわけにはいかなかった」と書いている。

 へー、千葉大学工学部名誉教授様は流石言うことが違う。事実と。

 

 首都高を河川や道路等の公有地の上に通す方針を決めたのは、1957(昭和32)年7月。

 現在の河川の上を走るルートは、1957(昭和32)年12月だ。

 

 ちなみに、東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催は、1958(昭和33)年1月である。

 オリンピックの招致活動を開始する前からルートは決まっていたのである。

首都高と東京オリンピック  

 上記は、東京都技監等を歴任した鈴木信太郎氏の「私の都市計画生活 -喜寿を迎えて-」山海堂刊36頁からの引用である。

 首都高については「たまたまオリンピックが決定したので、始めからオリンピックの為ということは絶対なかったといえる。」と明言している。

 首都高のルートとオリンピックの関係については、以前にもブログにまとめているので、詳細はそちらを参照していただけると幸甚である。

・「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる 

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-f51a.html

 ・古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

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 また、東京の暗渠を説明しているところも怪しい。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (1)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (2)

 東京の暗渠は、オリンピックがきっかけで、観光客が集まる大イベントに変なものがあったら恥ずかしいだからだそうですよ。

 

 

 東京の河川の暗渠化は、1961(昭和36)年の「36答申」がきっかけである。


 1960年代に入ると、高度経済成長期に突入した東京では人口1000万人を突破、さらなる人口集中と都市化が進む。市街地がさらに拡大し、森林や田畑、未舗装地が減少していくことで、各地の湧水は涵養源を失って涸れていく。用水路も灌漑の使命を終えて送水が停止される。こうして河川の水源は枯渇していった。

 一方で、急増する生活排水に下水道整備が追いつかず、自然の水と入れ替わるように川に流入する家庭や工場の排水量が増えていく。その結果、川の「主水源」が下水であるといったような事態が発生する。また、土地の貯水機能が消失したことで、降雨時の急激な増水も多発するようになった。

 このような状況を背景に、昭和36年(1961)、東京都市計画地方審議会河川下水道調査特別部会より「東京都市計画河川下水道調査特別委員会 委員長報告」、通称「下水道36答申」がまとめられ、中小河川の暗渠化・下水道転用が打ち出されることなる。

 暗渠化の理由としては、①河川を下水に転用することでコストや時間、技術面でのメリットを享受できること(河川の水路と自然勾配の転用)、②別途下水道を整備した場合、川は「水源」を失うことになってさらに環境が悪化すること、③流域住民からの苦情や強い要請、といったことがあげられている。

 

 「東京暗渠学」 本田創・著、洋泉社・刊 107-108頁から引用

 

 ひょっとしたら、著者は分かり易くするためにオリンピックをダシにしたのかもしれないが、暗渠マニアの方の本の方がよっぽど36答申の時代背景とあわせてきちんと分かり易く書けている。 

 オリンピックが推進力になった部分があるだろうが、オリンピックのために恥ずかしいものを隠すために「臭いものにふたをした」というのは短絡的にもほどがあるのではないか?

  

 ちゃんとした?学会の論文を読みたい方はこちらなどもどうぞ。

 「36答申における都市河川廃止までの経緯とその思想」中村晋一郎・沖大幹・著 水工学論文集,第53巻,2009年2月

 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00028/2009/53-0095.pdf

 興味深いのは、この論文では「オリンピック」という言葉が一言もでてこないのだ。なんでもかんでもオリンピックのせいにする福川裕一氏と専門家の論文は対照的である。

 

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 東京オリンピック時に東京都で局長として大活躍した山田正男氏は下記のように語っている。 

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦


対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「この際年度を一年くりあげるということはあり得るけれども、それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と。

 

 発行元の「淡交社」は、茶道の本で有名だが、歴史を大事にしないと千利休が泣いているぞ。

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2019年10月20日 (日)

首都高 諸橋雅之室長の「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」発言を検証してみる

「施工の神様」という建設業界向けのウェブサイトがある。https://sekokan-navi.jp/magazine/

 

 そこに「50年前の青空を取り戻す―。事業費3200億円の「首都高地下化」で日本橋を再生する」という題名で、諸橋雅之氏(首都高速道路株式会社 日本橋区間更新事業推進室長)のインタビュー記事が載っていた。

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901

 

 その中で「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」という項がある。

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901/2#anc-1

 詳しく見ていこう。

 


「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」

――首都高は「渋滞の解消」が至上命題だったんですね。

 

 諸橋室長 現在ある日本橋は1911年に完成しました。日本の道路元標があって、日本の道路網の始点になっており、大変土木にゆかりの深い場所です。1963年、この日本橋の上に首都高が架かりました。

 

 この区間は、首都高ネットワークの中心でもあります。都心環状線は「都心部のロータリー」で、郊外からやってくる車を処理する出入り口の集合体なんです。日本橋はこの都心環状線にあるわけです。日本橋の区間は、東京オリンピックでも重要なルートでした。

 

 日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。

 

 当時はとにかく、「東京の渋滞を解消する」ことが至上命題だったので、施工スピードが求められたと聞いています。時間のかかる用地買収を伴うルートではなく、運河や幹線道路などの公共空間上のルートを利用しました。

 

 銀座付近では、築地川を干上がらせて、河川の中に道をつくりました。現在の擁壁は当時の護岸なんです。日本橋に首都高を通す際、日本橋川を干上がらせて、日本橋の下を通す案もあったようです。

 

 ただ、ここの日本橋川は神田川とつながっていて、治水上、日本橋川を干上がらせることはできなかったので、やむなく日本橋の上に架けることになりました。ところが、実際に橋が架かると、景色が激変してしまったので、反対する声が上がりました。

 

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901/2#anc-1

 

 

 私が気になるのは「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」といいう諸橋室長の発言部分だ。

 この辺は過去にブログで何回か取り上げているが、せっかくの機会なので、新資料も含めて整理してみよう。

 

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「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認し」たのか?

 

 果たして、「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」なんてことを「地元の方々」は言っていたのか?

 

 以前、このブログで「名橋「日本橋」保存会副会長、細田安兵衛氏の「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」というのは本当か?」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-d4c6.html

 という記事を書いたことがある。そこから一部再掲していこう。


 

 ――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。

 

 「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」

 

NIKKEI STYLE 2020年から見える未来

「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議

「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20830810W7A900C1000000

(オリパラ編集長 高橋圭介)

 

 

 首都高速道路の日本橋附近の地下化において、ネット上では大変多くRT等されている記事である。

 『お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』あたりが、なんとなく「いかにも江戸っ子らしい」イメージとも合致する。

 

 ところが、この細田安兵衛氏は、身内の名橋「日本橋」保存会の本の中では違うことを言っているのだ。

 

 名橋「日本橋」保存会が1992(平成4)年3月に発行した「日本橋架橋80周年記念誌」に掲載された対談「21世紀の日本橋を考える」において、細田安兵衛氏はこのように語っている。

日本橋は首都高に反対していた (1)

 

日本橋は首都高に反対していた (2)

 

 


 細田■日本橋のほうは橋の上に高速道路を掛けるときもいま一つ反対の声が弱かったし、金融機関の進出にも何ら異議を唱えなかったし、そのあたりの意識からちょっと違うんですね。

 まあ日本橋の旦那衆は大まかというか、人がよすぎるというか(笑)、仲良く遊ぶことは好きだが、この点は反省部分がありますね。

 

「日本橋架橋80周年記念誌」 名橋「日本橋」保存会・刊

対談「21世紀の日本橋を考える」103~104頁

 

 

 反対してるじゃん。「今一つ反対の声が弱かったのは反省部分」だって自分で言ってるじゃん。

 

 名橋「日本橋」保存会や地元関係者のいろんな言い分は、ブログにまとめているので併せてご覧いただきたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-d4c6.html

 

 そこでは、「八木長本店 八木長兵衛会長によると、首都高建設に当地元は大反対だったが、オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺したという。」といった、諸橋室長の「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていた」との発言と随分ニュアンスが違う記事も紹介させていただいている。

 

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では、実際の日本橋地区の対応はどうなっていたのだろうか?

 

 あまりいつものネタを使いまわすのも芸がないので、今までのブログで使っていないネタをご紹介しよう。

 

 ネタ元は、山田正男元首都高速道路公団理事長(当時は東京都建設局計画部長)の対談集「明日は今日より豊かか 都市よどこへ行く」政策時報社・刊 である。

 

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する1

 

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する2

 

 オリンピック決定前の1958(昭和33)年12月に日本橋公会堂に呼び出されて、反対派の罵詈雑言を浴びたそうである。さすが日本橋の江戸っ子は小粋である。

 

 ちなみに、灰皿を投げられてネクタイを掴まれたのは港区で、これは首都高2号線である。

 先日、ブラタモリの白金の放送回で、「白金の住民が自然を守るために首都高に反対してルートを変更した」って言っていたじゃないすか。あれが港区の首都高2号線なのである。。

 

 結果的に首都高2号線は東京オリンピックに間に合わなかった。本来は第二京浜(国道1号)の渋滞緩和のために真っ先(オリンピック決定前)に建設に着手した重要路線なのに。

 

首都高速と東京オリンピック (4)

 

 当時首都高2号線を担当した現地所長さんの発言(首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載)がこれである。

 

 

 「江戸っ子は、オリンピックに協力するために首都高には反対しなかった」というのは、印象操作かファンタジーなんすよ。「江戸しぐさ」と同類。もちろん八木長兵衛さんのように「オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺した」という方はいらっしゃったけども。

 

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 参考までに補足すると、当時の報道でも、日本橋上への架橋について地元が反対している旨の記事が掲載されている。

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する3

 1959(昭和34)年2月23日付毎日新聞

 

 中央区は「区内全線地下化」を要望したとある。

 

清水草一が知らない首都高反対の動き3

 

 これは、オリンピック決定直前の1960(昭和35)年4月13日付読売新聞に掲載された日本橋附近の「絶対反対」を報じる記事である。

 

 私の調べた範囲では、日本橋がある中央区だけでなく、港区、品川区の議会が首都高反対の決議をしているようだ。都の事業に複数の区議会が反対決議をするとは異例の事態といえないだろうか?中央区や港区に住むような人はヤボだということだろうか?やはり江戸しぐさの人がいうように本物の江戸っ子は虐殺されてしまったのだろうか?

 

 なお、首都高速道路公団においても「地元ではこの橋の下を隧道で通るように強く要望された」と記している。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 

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 また、宮様が日本橋の上に首都高をかけることについて当時の首都高理事長に懸念を伝えていたという話もある。

首都高と日本橋 (3)

 これは首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載された対談「仁丹の広告塔も見ゆ橋も見ゆ」からの抜粋で、「神崎」は当時の首都高速道路公団理事長神崎丈二氏である。

 高松宮が東京都を通して首都高理事長に「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというのである。

 

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 諸橋雅之室長は、施工の神様の記事では、「ところが、実際に橋が架かると、景色が激変してしまったので、反対する声が上がりました。」と語っているのだが、橋が架かった後どころか、東京オリンピック決定前から地元に反対されていることがお分かりだろうか?

 まあ、諸橋雅之室長も、「首都高速道路公団の歴代理事長が言っている話なんてみんなひっくりかえしてみせるぜ」というだけの物証を社内で押さえているのかもしれないのだが、その辺の判断は皆様にお任せする。

 

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 建設当時新聞は反対したのか?

 ところで、諸橋雅之氏は、「施工の神様」のインタビュー内で「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。」と語っている。これはどうなのか?

 

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (14)

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (12)

 首都高が日本橋の上に架かることを報じる1962(昭和37)年12月24日付読売新聞

 「橋脚や街燈は原型損なわない」という見出しに
「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」というキャプションがついている。

 当時の読売にとっては、日本橋なんかは感傷にすぎなかったと。

 読売は、徹底していて、首都高完成後にもこんな記事を書いている。

 1962(昭和37)年1月25日付読売新聞夕刊では

河川活用による高速道路建設

・「首都高の河川敷利用が少ないため用地買収等に必要以上の経費がかかっている」

 

・「河川が不要になったら干拓して掘割式の自動車道路を建設したり、河川を廃止できなくても高架の自動車道路を建設したりするのが世界各国の大都市における実情」

 

・「一日も早い道路整備が必要」

 

と主張しているのである。今はこんなことを社説で主張している読売新聞が。

 

首都高日本橋 (2)

 東京オリンピック開催を間近に控えた1964(昭和39)年1月1日の朝日新聞の正月特集の一面で日本橋川を塞ぐ首都高の写真を国立競技場よりも大きな写真で紹介している。

日本橋川をふさぐ首都高を「美しい曲線」とする朝日新聞 (2)

 「ビルの谷間に美しい曲線を描く江戸橋インターチェンジ」である。日本橋川は「ビルの谷間」で首都高は「美しい曲線」なのである。

 

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 ということで整理すると

 首都高 諸橋雅之室長「建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。」→新聞は建設後さえも反対していなさそう。

 首都高 諸橋雅之室長「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」→日本橋公会堂に東京都局長を呼び出して罵詈雑言。中央区議会も反対決議。

 

 名橋「日本橋」保存会副会長 細田安兵衛氏「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」→自分で「反対した」と言っている。地元の反対証言が複数あり。

 という結果になってしまった。

 

 最後に首都高速道路公団広報誌「首都高速」における神崎理事長(当時)との対談で語られた日本橋の地元の声を載せておこう。

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する4

 

  まあ、橋本室長は、事業を進めるのが仕事であって、歴史の語り部が仕事ではないのだから、私のような窓際サラリーマンの言うこと等気にせず、業務に邁進していただきたい。

 

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2019年8月13日 (火)

古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 文春新書から「昭和の東京12の貌」という本が出ている。
 この本の編集方針は下記のとおりである。


平成31年は、天皇陛下が退位して皇太子が新天皇に即位し、5月からは新しい元号になります。また、翌年には2回目の東京五輪が開催されます。一回目の東京五輪は昭和39年に開催され、それを契機に昭和後半の日本は高度経済成長の波に乗り、経済大国の道を突き進みました。しかし、平成に入ると、バブルが崩壊し、政治や社会の様々な歪みが顕著となってきました。この間、日本の首都・東京はどのように変貌を遂げたのか。
本書は、月刊『文藝春秋』で連載した「50年後の『ずばり東京』」から、主に東京の街の変遷を描いた12本の記事を選んで収録しました。毎回違うノンフィクション作家が自身で取材するテーマや街を選び、リレー形式で執筆したもので、昭和と平成という二つの時代を筆者が行き来するルポルタージュです。


https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166612000

 その12本の記事のトップバッターが、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」である。

 本当に1964年のオリンピックは「成功」だったのだろうか、と。もちろんあのオリンピックの功績が多いことは否定しない。
 しかし、東京という街を中心に考えてみると、あのオリンピックが残した「負の遺産」は思いの外多いのである。そして、オリンピック「成功」の陰に隠れて、大きな不利益を被った人々も決して少なくなかったのである。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)10頁

 

 古市氏は、こう切り出しつつ、副題にある「首都高とモノレール」に加え、東海道新幹線に対して「東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる」としつつ、「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」として、「より理想的なルート」がとれなかった、

 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁


 とし、同様に首都高の日本橋上の高架や都心環状線の片側2車線の構造を「オリンピックの負の遺産」と指摘し、それらをキーとして、新旧東京オリンピックに係る日本、東京の世相をとりまぜて批評している。


 社会学者が世相を描き、評価するのは、私の専門外だし、とやかくいうところではないが、そのイントロになっている「首都高速道路や東海道新幹線が、オリンピックに間に合わせるために急ごしらえとなったため、理想的でないルート、構造となっており、オリンピックの負の遺産となっている。」という部分については、いち「ドボクマニア」としてモノ申したい。

 

 

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 「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、今の日本でも割と広く支持されており、首都高の日本橋を覆う高架橋や新幹線の最短である鈴鹿峠を迂回した関ケ原ルート(それに伴う新幹線の雪害)について批判的に評価されることが多い。


 しかし、結論を言うと「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、事実ではないと言えよう。


 「昭和の東京12の貌」が単なるエッセイであれば「そういう人もいるよねー」でよいのだが、「ノンフィクション作家」による「ルポルタージュ」ということであれば、とりあえず一次資料を並べることで、諸兄のご判断を仰ぎたいところである。


目次

1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?


1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?


1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?


2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?


2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?


2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


3 結論


4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

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1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?

 

 


 もしも東海道新幹線の開業がもう少し遅かったら、違う未来があったのかもしれない。
 現在の新幹線は名古屋を出たあと、関ヶ原まで北上した後で京都へと進む。実は当時、関ヶ原を経由せずにそのまま京都を目指す鈴鹿ルートが検討されたことがあった。しかし技術力と工期の都合で断念されてしまう。
 そもそも東海道新幹線はカーブが多く、それが所要時間短縮を阻む一因となっている。
(中略)ここ最近はあまり速くなっていないのだ。
 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁

 個人的には、「関原」じゃなくて「関原」だろうがと言いたいところだが、今回はそれがネタではないのでスルーして、この古市氏の文を検証していく。

 

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1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「新幹線 鈴鹿峠 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。それも大手マスコミだ。


五輪前の開業へ、鈴鹿越えを断念

 

 名古屋から大阪まで、新幹線がどんなルートを取るかは、戦前の弾丸列車構想の時代から議論されてきた。最短ルートは名古屋から西へ進み、鈴鹿山脈を越えて草津付近に出るコースだったが、鈴鹿山脈を越えるには12キロメートルの長大トンネルを掘らなければならず、しかも地下水が多いことから極めて難工事となることが予想された。
1964(昭和39)年の東京オリンピックまでの開業にはとても間に合いそうになく、このルートは断念された

 代わって注目されたのが、関ケ原を越えるルートだ。名阪間には、鈴鹿山脈と伊吹山地という2つの険しい山が立ちはだかっている。関ケ原は、2つの山脈の間にたった1カ所開いた谷だった。鈴鹿山脈越えよりも10キロメートル以上距離が長くなるが、工期と確実性が優先された。

 

東洋経済ONLINE「新幹線「利用者数最少駅」は、なぜできたのか」栗原景
https://toyokeizai.net/articles/-/141928

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(だから今回はそこじゃない。)
 天下の東洋経済がオリンピックに間に合わせるために鈴鹿峠を断念したとの記事を掲載している。

 では、実際に工事を担当した国鉄の記録ではどうなっているのか?


 ネットで気軽に閲覧できるものとしては、伊崎晃氏の「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」があげられよう。

 伊崎氏は、執筆時は鉄道技術研究所地質研究室勤務で、戦前では朝鮮海峡トンネル、戦後では青函トンネル等数多くのトンネルの調査に携わった技術者だ。東海道新幹線の路線選定にあたっての現地の地質調査も担当している。


1.  ルート決定のいきさつ

 国鉄の東海道新幹線は,計画当初名古屋-京都間のルートをいかにとるかについて,非常に大きな比較問題に直面した。すなわちここを最短距離で結べば標高1000m級の鈴鹿山脈をどこかで大トンネルにより横断しなければならず,これを避けて低処を越えるとすれば,北方へ関ケ原付近まで迂回する外ない。

 そこで昭和33~34年頃図上でいろいろルートを検討したり現地で地質の概査を行って比較研究した結果,鈴鹿越えの主ルートと目されていた御池岳~鈴ケ岳付近を貫くトンネルは多くの断層に遭遇する上,伏流水に富んだ石灰岩の部分が多いので,多量の湧水が予想され,また南方の八風峠ルートは地形上片勾配の長大トンネルとなるため工期的に非常な難点のあることが明らかとなった。

 一方関ケ原付近も大きく見れば地質的には鈴鹿主脈と大差がないが,トンネル延長が比較的短かくてすむこと,および北陸方面との連絡に至便(米原で)なため,結局ここが最終案として本決りとなった次第である。

 

「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」 伊崎 晃・著「応用地質」 Vol. 4 (1963) No. 4 199~200頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjseg1960/4/4/4_4_199/_pdf

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(もうええっちゅうの。)


 「北陸方面との連絡に至便(米原で)」と書いてある。古市氏の言うような「技術力と工期の都合」だけではなく、「北陸方面と米原で連絡する」という目的もあって関ケ原経由となったのである。
 仮に「東京オリンピックまでに開通という目標が」なかったとしても、「北陸方面との連絡」が判断材料としてある以上は、やはり関ケ原経由となったのではないか?
 
 ググるだけでなく、ちゃんと図書館に行って、国鉄が発行した東海道新幹線の工事史もあわせて見てみよう。

東海道新幹線が鈴鹿峠を通らない理由

 名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。

 

「東海道新幹線工事誌 名幹工篇」日本国有鉄道名古屋幹線工事局 編


 確かにここでも「北陸との連絡に至便」とある。さらに見逃せない一文がある。


 「こうして全線の基本ルートが定められ、(昭和)33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」
 ご存知のとおり、東京オリンピック開催が決定されたのは、1959(昭和34)年である。

そして、1958(昭和33)年8月に「全線の基本ルートが定められ」たとなれば、「鈴鹿峠をやめて関ケ原ルートに決定したのは、東京オリンピック開催決定前」である

 国会ではどのように答弁されているのか?

東海道新幹線鈴鹿峠を止めて関ケ原経由にした理由

 名古屋と関が原と申しますか、米原の間のルートにつきましては、実は、昭和三十三年の夏ごろから、まだ正式に新幹線をつくるかつくらないかきまる前から、航空測量だけはいたしておりました。航空測量の結果、ルートといたしましては、名古屋から鈴鹿峠を越えまして京都に入るルート、もう一つ、それと非常に近いところで、名古屋から八風と申しますところを通りましてやはり京都に抜けるルート、もう一つは、濃美平野を真横に横切るルート、この三つのルートを航空測量で大体測量いたしまして、このいずれにすべきかということを検討したわけでございますが、前二者につきましては、非常にトンネルが多く、工事も非常にむずかしいということで、事務当局といたしましては、前二者を捨てまして、もっぱら濃美平野を横断するという案で具体的な検討を進めてまいったわけでございます。その後、昭和三十四年になりまして、徐々に東海道新幹線の問題が予算化され、また、各地におきまして地上の測量を開始したわけでございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04606020514020.pdf

 1958(昭和33)年に航空測量をして、鈴鹿峠は捨てて関ケ原経由とし、1959(昭和34)年から予算が付いたので地上の測量を始めたと磯崎国鉄副総裁(当時)が答弁している。やはりオリンピック決定前に鈴鹿峠は捨てられているのであった。


 古市氏の言うような「東京オリンピックまでに開通という目標」があろうがなかろうが、「米原での北陸線への連絡」を考慮しつつ、オリンピック開催決定前に鈴鹿峠ルートは断念されていたということである。


 東海道新幹線が最短距離である鈴鹿峠を経由しなかったことは、少なくとも古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」ではないことが明らかになったと言えよう。
 
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1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


 
 東海道新幹線が5年余りの工期で東京オリンピック開催直前に開通したことから「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」と考えている方はそれなりにいらっしゃるようだ。
 実際の経緯をおってみよう。

官報に載っていた新幹線電車予想図


1958(昭和33)年8月ということで、東京オリンピック開催決定前の官報である。
ここに、新幹線計画に着手した「日本政府公認」の理由が書いてある。


 曰く「昭和36、7年頃には東海道線の輸送に行詰りが生ずる。したがって、早急に、新たな鉄道路線を建設する必要がある。」と。東京オリンピック開催のためではなく、「(東京オリンピック開催前である)1961、2(昭和36、7)年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由なのである。


 そして、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「工期は概ね五ヶ年で完了」とされている。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (6)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001176706

新幹線工期 (1)


新幹線工期 (2)

 


 なお、答申に添付された「幹線調査会第二分科会報告」では、「新規路線の工期は、現在線の輸送の行詰りを考えると、技術的に最短期間である5ヶ年を延ばさないよう適切な措置をとる要があり、このことは投資に対する資金効率の面から見ても必要なことである。」としている。

 では、この「技術的に最短期間である5ヶ年」の根拠は何かということについては、国鉄幹線調査室・幹線局・新幹線総局・新幹線局で東海道新幹線建設に従事した角本良平氏はこのように述べている。



 五ヵ年とした一つの根拠は、新丹那トンネル完成におそらくそれくらいかかるだろうという見通しであった。

 

「新幹線開発物語」角本良平・著(中公文庫)18頁
※初版発行1964年4月30日「東海道新幹線」(中公新書)

 

 「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」のではなく、「東京オリンピック開催決定前に、工事期間が最長となる新丹那トンネルの工期に合わせて決定された」のである。古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」ではないのだ。


 そして、鈴鹿峠ルートの「工期的に非常な難点」とは、「新丹那トンネル工事の工期5年」よりも長くかかってしまうことであった。

 

 なお、新幹線の工期については、世界銀行の融資条件もからんでくる。


 当時国鉄新幹線局に勤務していた高橋正衛の記した「新幹線ノート」によると「昭和39年なかばに完了すること。(135頁)」とある。 「世界銀行が東京オリンピック開催に間に合うような融資条件を付けた」という説もあるが、私はそのような資料を見かけたことはない。

 

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1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (4)



 この表は、国鉄東京第三工事局(東北新幹線の東京都内及び埼玉県内の工事を担当)が作成した各新幹線の規格の対比表である。
 確かに、東海道新幹線は、東北・上越新幹線よりも最小曲線半径が小さい(曲線がきつい)。これは東海道新幹線が「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのだろうか?


 東海道新幹線の曲線の規格の考え方について、当時国鉄新幹線総局計画審議室長だった加藤一郎氏はこのように述べている。



 曲線半径は、開業当初の速度は200km/hとするが、将来は250km/hの可能性も考慮して、路線計画にあたってはこれに見合う曲線半径を2,500m標準と考えた。標準軌で250km/hは技術的にも可能であり、交通機関としての馬力効率(馬力/重量・速度)からみても妥当性があることが検討の結果認められている。

 

「国鉄東海道新幹線計画について」加藤一郎・著 「電気学会雑誌」81巻879号(昭和36年12月)76頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/81/879/81_879_2053/_pdf/-char/ja

 私は鉄道車両の専門家ではないので、これの妥当性を判断する術はないが、新幹線担当の室長が「曲線半径2,500mは妥当性がある」と言っているということで。


 また、当時国鉄幹線調査室調査役だった大石寿雄氏は、このように述べている。

 (前略)この点からも検討した結果、曲線半径2,500m。許容最大カント量195mmならば時速250キロで走っても危険でないことが判明したので、最小曲線半径2,500mを標準とすることになった。

 

「東海道新幹線の構想」大石寿雄・著「電気車の科学」12巻3号(1959(昭和34)年3月号)7頁


 東北新幹線が時速300キロ台で走る現在では、当初の「将来は250km/hの可能性も考慮」というのが志が低かったということになるのかもしれないが。。。
 
 なお、この「曲線半径2,500m」についても、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「標準半径2,500m」とされている。そもそも答申では東京大阪間を「概ね3時間」で結ぶこととしているのだから、必要な仕様を満たしているのである(それ以上の速度への対応は求められていない。当時の世界最速の旅客列車は140km/h程度であった。)と言えよう。


 東海道新幹線のカーブは、確かにその後に開通した新幹線よりもカーブがきついことは間違いないが、それは東京オリンピック開催前に決定されていたことであって、古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではないのだ。


 なお、古市氏は「カーブが多く」と書いている。最高速度は、カーブの数の多少ではなく半径の長短で表されるカーブの緩急に左右されるのではないかと思うのだが。。。

 

 ということで、古市氏が「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」25頁で縷々述べている「東海道新幹線に係る五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」については、実際には東京オリンピック以外に原因がある(しかも東京オリンピック開催決定前に決められている)ことがお分かりになるのではないか?


 同25頁には、「JR東海はリニア中央新幹線を自力で建設できるくらい東海道新幹線で稼いだ。ということは、そのお金をリニア用に貯めずに、東海道新幹線の値下げにも使えたはずだ。」という記述もあるが、ここは人それぞれの政策判断の箇所だから私がとやかくいうものではない。

 

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2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「首都高 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。

 


 日本道路公団による高速道路建設が動き出したころ、東京オリンピックの開催が決まります。当時の日本の道路は、地方は劣悪な未舗装路ばかりで、長距離移動には使おうにも使えないひどさでした。
 しかしクルマは増加の一途をたどっていて、東京ではひどい混雑が発生していました。
 このままオリンピックを開催しても、失敗の烙印を押される。その解決策として考えられたのが、首都高速道路でした。
 先進国では、戦前に一般道が整備され、戦後、自動車の大衆化と高性能化に合わせて高速道路が発達しましたが、日本では一般道が劣悪な状態のまま、自動車が大衆化へと向かったため、混乱が生じたのです。
 ただ、まだ自動車による長距離移動はほぼ皆無でしたから、東名のような「都市間高速道路」より、当面の渋滞対策としての都市内高速が、オリンピックに追われる形で先に完成することになりました。
 首都高はオリンピック対策ですから、オリンピックに間に合わせなければなりません。
 そのため、土地の買収に時間がかかるルートは極力避け、川や運河の上や埋め立てた川床、海上、道路上などをフル活用して、突貫工事が行われました。
 現在、首都高が景観を悪化させていると言われる原因は、土地買収に時間がかけられなかったことにあります。
 まずはオリンピックに必要な区間を優先ということで、都心と羽田空港、そして競技場のある代々木の3点を結ぶことが優先されました。 最初の開通は、1962年12月の京橋~芝浦間(料金100円)。
 その後、64年10月の東京オリンピックまでに、都心環状線の約4分の3と、そこから羽田および初台までの区間が完成しています。

 

「【高速道路】首都高の建設はオリンピック対策だった!」清水草一
https://autoc-one.jp/word/480124/


 後述するが、これはNHKの「プロジェクトX」の影響も大きいと思われる。

 

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 古市氏は、神宮外苑の内外苑連絡道路や日本橋上の高架橋をあげたうえで、次のように述べている。

 このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。
 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られたし、いくつもの川が埋め立てられ、そのまま高速道路に転用された。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)12~13頁


 東海道新幹線と同じく、この古市氏の記述に対して、一次資料で検証してみよう。


 ここでは、東京都の山田正男氏(下記参照)の著作を中心に検証していく。山田氏は「山田天皇」と呼ばれ、戦後の東京都の都市計画、都市開発(首都高、五輪対策、新宿副都心、多摩ニュータウン等々)に深く携わった方であることは言うまでもない。

山田正男
首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦
対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 山田氏はズバリ「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と述べている。古市氏とはまるで正反対ではないか。

 

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2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?

 

 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁

 

 ここで、首都高計画と東京オリンピック誘致の経緯をみてみよう。


1953(昭和28)年4月28日 首都建設委員会が高速道路網の新設を建設省及び東京都に対して勧告。

1957(昭和32)年7月20日 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用することを定めた。

1957(昭和32)年8月5日 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。東京都が作成した街路、河川等を利用した首都高の原案の審議検討を開始。

1957(昭和32)年12月9日 東京都市計画高速道路調査特別委員会が、東京都市計画地方審議会長 安井誠一郎(東京都知事)あてに東京都市高速道路網計画を報告。

1958(昭和33)年1月22日 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1958(昭和33)年12月5日 建設大臣が、東京都市計画街路に都市高速道路を追加決定するための案件を東京都市計画地方審議会に付議。

1958(昭和33)年12月10日 東京都市計画地方審議会が一部を留保して原案どおり議決。

1959(昭和34)年1月30日 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年2月25日 日本道路公団(現・東日本高速道路株式会社)が西戸越~汐留間の工事に着手。(後に首都高に移管)

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年5月26日 東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月17日 首都高速道路公団(現・首都高速道路株式会社)発足

1959(昭和34)年8月7日 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

 古市氏が「首都高の計画自体はオリンピック以前からあった」と述べているところを詳細に落とし込むと上記のとおりである。

 前述のとおり、東海道新幹線は、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、「昭和36、7年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由であったが、首都高速道路も、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、先に山田氏の対談に出てきた「昭和40年の交通危機に対する解決策」であった。

 


(前略)主要幹線街路の主要交叉点の交通量は、現在1日3万台以上となっており、なかでも江戸橋、祝田橋の如きは、8万台から9万台の自動車交通が通過している。従って、主要幹線街路の主要交叉点の交通量と街路の交通量とを比較すると、交通量、自動車保有台数の増加傾向からみて、昭和50年には、23区全部の自動車は、120万台と思われるので(現在は32、3万台)、多少交叉点によっては凸凹はあるとしても、昭和40年代にはラッシュ時における都心部の交通は、まったく麻痺状態に陥ることが推定される。ということは、自動車が歩くスピードと異ならないということになるのである。

 

「都市高速道路を中心とした東京都の道路政策」山田正男・著 「道路」昭和32年12月号
※「時の流れ都市の流れ」山田正男・著249頁に掲載

 

 これを解消するために、1965(昭和40)年全線開通を目標に首都高速道路を計画したのであり、東京オリンピックのためではない。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5) 首都高速道路当初の開通時期

 東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。

 詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 オリンピックに関係なく、「つとめて不利用地、河川又は運河を使用」「止むを得ざる場合には広幅員の道路上に設置」とある。
 オリンピックが決まってから間に合わなくなって「空中作戦」になったのではなくて、オリンピックが決まる(招致決定もしていない)1957(昭和32)年7月に河川上を利用することは建設省の方針で決定していたのである。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった
 そして、それは新聞報道等で既に広く知られるところとなっている。(1957(昭和32)年9月29日付読売新聞)

1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞
オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2
 中央区あたりを除いて、ほぼ現在の首都高速のネットワークに近い路線を「できるだけ既設の幹線道路や河川など公有地に建設」する案が公表されている。


 そして、これが1962(昭和37)年に作成された当初の都市計画の案である。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (3)


 古市氏は「首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直された。普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。」とするが、実際には、オリンピック招致以前に、道路や川の上をフル活用した計画が出来ていたのである。

 そして、前述の「昭和40年の交通危機に対する解決策」なので、開通目標は1965(昭和40)年度内の全通を目論んでいた。


 では、古市氏が言う「オリンピックが正式決定してからの計画の見直し」とは何なのか?


 この1962(昭和37)年段階の計画図が現在と違うところといえば

・日本橋川区間については、中央・総武線を跨いでから江戸橋ジャンクションまでは日本橋川を半地下として通過している。(現在の築地川区間のような構造)
・江戸川ジャンクション以東の日本橋川区間は通過せずに、人形町・浜町附近を両国まで高架で通過している。(この区間は東京オリンピック後に、日本橋川の上空を高架で通過し、箱崎ジャンクションを経由するルートに変更となった。詳しくはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html
・英国大使館、三宅坂ジャンクション周辺が半地下になっている。
・7号線小松川線の終点の接続道路が違う。


 といったあたりだろうか。(当然微小な修正は沢山ある。)

秋庭大先生2
 オリンピック決定前の首都高計画とオリンピック決定後の首都高計画はさほど変わらない。下図は首都高速道路公団発足直後のパンフレットに掲載された路線図である。

首都高速と東京オリンピック (7)
 この二つの図面を見比べたところで、古市氏の「このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。」という文にご納得がいくだろうか?


「だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られた」と古市氏は言うが、オリンピック決定前から「日本橋の上」だったし、なんなら当初は「日本橋の下」だったわけだ。

 


ということで、首都高が川の上を曲がりくねって走ること自体は、東京オリンピック招致前からほぼ決定済で「五輪に間に合わせた急ごしらえ」でも「負の遺産」でもないのである。そういう交通政策、景観政策が誤りだったという批判は有りうるが、五輪に間に合わせたせいではない。


山田氏の言う「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」の意味が分かったであろうか?

 

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2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?

 

 


 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁


 古市氏は、首都高速がオリンピック決定後に「計画を見直して、絶対間に合わない工事に「空中作戦」を採用した。」旨書いているのだと思う。(この辺、文脈がはっきり読み取れない。)
 
ところで「空中作戦」という言葉は、首都高が河川上を通過することを指す言葉としては、割と一般的に使われていると思うが、この言葉が使われるようになったのは、2005(平成17)年にNHKで放送された、プロジェクトX「首都高速 東京五輪への空中作戦」からである。


そして「空中作戦」が意味するところは厳密には何なのか?プロジェクトX以降は、主に3冊の書籍でその内容が語られている。

 

 


 オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。

(中略)

 そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。

「”空中作戦”はどうか」

 いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。

 

「プロジェクトX 挑戦者たち 28 次代への胎動」日本放送出版協会(2005年) 74~75頁

 


山田の主張によって、首都高速道路公団が設けられ、一号線(羽田・中央区本町間)、四号線(日本橋本石町・代々木初台間)を中心とする約三十二キロの建設がオリンピック関連事業として建設されることになった。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

「空中作戦だ」

 日ごろ冗談一つ言わない上司の不可解な言葉に、部下たちは目を白黒させる。

「俺の言っている意味が分からないのか」

 山田はわざとうんざりして言った。皆の戸惑いが、実のところ、いまは心地よい。

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

「じゃあ、君たちはどうしたらオリンピックに間に合わせられるんだ」

 大声で怒鳴ると、部下たちは従うしかなかった。部下だけではなく、安井の後任である東龍太郎都知事も、そして「影の知事」といわれ、実際の都政を仕切っている鈴木俊義副知事も少し首を傾げはしたものの了承した。

 こうして「空中作戦」は実行された。高速道路はまるで鉄でできた大蛇のように、東京の都心をのたうち回り、時には三回も四回も交差しながら、ビルの間を通り抜けた。

 生きた河川や由緒ある日本橋の上を高速道路が屋根のように通る形になったのも、この時である。

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀・著 2010年(鹿島出版会) 253~254頁

 


 首都高の建設ぶりを、世間は「空中作戦」と呼んだ。川や道路という公共用地の上の、文字通り「空中」に、みるみる高速道路ができていったからだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

「首都高速の謎」清水草一・著  2011年(扶桑社) 50~51頁

 

 興味深いのは、著者によって「空中作戦」の意味が違うのである。

 プロジェクトX及び東秀紀氏は
・オリンピック決定後に首都高を空中に上げた
・空中作戦と呼んだのは山田正男氏


 清水草一氏は
・首都高が空中に上がったのはオリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼
・空中作戦と呼んだのは山田ではなく、世間


 私が先にお示しした時系列と比較すると、清水氏の方が時系列の並びは正しいと思われる。

 

 では、当時の新聞や雑誌で「空中作戦」の用例を調べてみようと私は国会図書館等に通い詰めた。
 実は私が探した範囲ではプロジェクトX以前の使用例が見つからないのである。


 新聞のデータベース、首都高の広報誌、東京都や首都高職員が書いた建設関係業界誌の報文等をかなり力を入れて探したのだが、プロジェクトX以前は私の能力では見つけられないのである。


 プロジェクトX及び東秀紀氏の著書では、山田正男氏が「空中作戦」と呼んだことになっているが、山田氏の著書、対談集を読んでも「空中作戦」という言葉は出てこない。
 そして、当該番組を見ても「空中作戦」の言葉は、東京都や首都高の当時の担当者の口から出たものではなく、ナレーターのト書きの部分で出ているのだ。


 どなたかこの秘密が分かった方は是非私に教えてほしい。「空中作戦とはだれがいつどのような意味で発言したのか」を。
 (「演出の一環」ですかね。。。)
 
 ということで、「空中作戦」という言葉を使うなら、その出典が明らかでない現状では、「空中作戦(清水説)」とか「空中作戦(プロジェクトX説)」等と使い分けることを提唱する。


 そしてその視点で古市氏の「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」を読んでみると、どうやら古市氏は、内容を読むと「プロジェクトX説」に近いようだが、文献としては「首都高速の謎」をあげているので「清水説」なのだろうか??どちらでしょうか?

 

 このような現状で「ノンフィクション」「ルポルタージュ」に「空中作戦」という用語を定義づけなしに使うことの妥当性については、諸兄がご判断いただければ。

 

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2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

 

 

 首都高の整備はオリンピック後も進められたが、長らく深刻な問題に苦しめられることになる。渋滞だ。

 特に、片側2車線だった都心環状線を片側3車線にしておけば、だいぶ事態は緩和されただろうと言われている。様々なルートから車が流入する環状線が片側2車線では、渋滞は必至だというのだ(清水草一『首都高速の謎』)。これも、首都高の建設を急いだことの代償だろう。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)14頁

 

 ここで山田正男氏の登場である。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (2)
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (1)
「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」東京都新都市建設公社まちづくり支援センター

 

 実際に首都高速計画の立ち上げに関与していた山田氏によれば、
・もともと戦災復興の都市計画で街路を拡げようとしたところができなかった。
・都市高速道路はランプが近接して交通の織り込みが発生するので交通能率が落ちる。
・別ルートを作った方がまし。
・大蔵省は採算性から片側2車線でも反対していた。
 といったところか。これも「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではなさそうだ。

 なお、「別ルートを作った方がまし」という言葉を裏付けるかのように、東京オリンピックに向けての新設工事中に既に新しいネットワークの検討を行っている。
 下記は昭和37年段階での「東京都市高速道路将来計画図」である。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)


 山田の「別のルートを作った方がまし」の言葉どおり、片側2車線の都心環状線を補完するように「内環状線」が神田川の上空を通過し、「中環状線」が(現在とは違い)目黒川の上空を通過している。
 「オリンピックに間に合わせるため」だけではなく、オリンピック終了後も首都高速を河川の上を通過させる気マンマンだったのだ。


 結果的には中環状線は、目黒川の上空から目黒川の地下を潜ることに変更され「中央環状線」として開通した。
 内環状線は、ついに工事に着手されることはなかった。これが開通していれば都心環状線の渋滞は大幅に解消されていただろう。

 

 というわけで、首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではない。ただし、行政の施策としては、「別のルートを作ることは長い間できず、結果的に長期の間大渋滞を発生させていた」ということの批判を免れるわけではない。ただ「五輪の負の遺産」ではなく「道路政策失敗の負の遺産」というだけである。

 

 ちなみに、総武快速線の馬喰町駅は国鉄で一番地下深い駅として知られていたが、地下深くを施工しなければならなかった理由の一つとして両国から神田川にかけて首都高速内環状線の杭を打つ計画があったところ、それを避けているからである。あの階段を毎日昇り降りする方は「首都高の負の遺産」に苦労させられているわけだ。
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-7868.html


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2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?



古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5)
東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

 ところで、前述の「東京都市高速道路の建設について」では、「設計速度は1時間60粁を原則とする」とある。しばしば「首都高速道路は、オリンピックに間に合わせるために河の上を曲げて通しているので、(100km/h出せる東名や名神等の高速道路とは違い)60km/h」しか出せない。」と言われることがあるが、これも「オリンピック招致前からの仕様」であり、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではない。

古市氏はそこについてあまり触れていないため、詳細はここでは割愛する。

 

 

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3 結論


 以上、だらだらと述べてきたが、古市氏が指摘する首都高と東海道新幹線の「負の遺産」については、多くが「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではないというのが私の結論である。
 首都高建設や東海道新幹線建設にあたって「東京オリンピックにまにあわせる」ということが大義名分となって広く関係者に共有され、そのおかげもあって首都高や東海道新幹線が東京オリンピックに貢献できたということは事実ではあるが、なんでもかんでもが「五輪に間に合わせた」わけではないのだ。

 


<誤解されたまま広がっている東海道新幹線建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・オリンピックに間に合うように東海道新幹線の工期5年を設定

・オリンピックに間に合うように鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択

 


<実際の東海道新幹線建設の経緯>

 

・在来線が昭和36、7年頃にはパンクする虞。

  ↓

・一番長く工事がかかる新丹那トンネルの工期にあわせて、東海道新幹線の工期5年を設定

・所要時間、曲線等の規定を決定

・新丹那トンネルの工期より長くなること、米原で北陸線に接続することから鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択。


 ↓

・東海道新幹線工事着工

  ↓

・東京オリンピック開催決定

 


<誤解されたまま広がっている首都高速道路建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立

  ↓

・オリンピックに間に合うように「空中作戦」で高速道路を川の上に

 


<実際の首都高速道路建設の経緯>

 

・都内の一般道が昭和40年にはパンクする虞。

  ↓

・昭和40年に間に合うように高速道路を川の上に

  ↓

・日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)

  ↓

・首都高速道路公団法が国会で成立

  ↓

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立(日本道路公団から先行部分を引き継ぎ)

 

 世間で広がっている誤解と実際の流れを再整理してみた。

 これを元に、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を読んでいただければ。

 

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 上記で「日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)」と書いた。

 実際には、「オリンピック開催決定前」の昭和33年度に「首都高速道路公団ができる前に日本道路公団が」「川や公園の上を活用して」高速道路建設に着手していたのである。

 ※詳しくは、http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

 

 話は変わるが、先日のブラタモリで、白金の住民が公園の自然を守るために、首都高速道路のルートを変えた話が出てきたのを覚えている方はいらっしゃるだろうか?

 

 それが、この日本道路公団が先行着手した部分なのである。そして折衝等に時間がかかった結果、オリンピックには間に合わなかったのである。

 「空中作戦」にしたから有無を言わせず、オリンピックまでに間に合わせるための工事ができたわけではないのだ。

 そして「江戸っ子はオリンピックに向けた高速道路の工事に反対するなんて野暮なことはしなかったんだ」というのも眉唾なのだ。

 

 古市氏は、「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」のなかで、東海道新幹線に係る「用意買収係の悲哀」について紹介している。

 私も、当時首都高建設に従事した職員の悲哀について紹介している。是非こちらもお目通しいただきたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-422f.html

 

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4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

 東京モノレールについては、私はあまり詳しくないのだが、一点だけ古市氏に判断の参考にしていただきたい材料があるので紹介しよう。



 東京モノレールの親会社であるJR東日本も、自ら東京モノレールに死刑宣告を出すような計画を打ち出している。羽田空港と都心を結ぶ羽田空港アクセス線を整備し、東京や新宿、臨海部まで一本の電車で行けるようにするプランだ。
 ものすごく便利そうだ。しかしここで浮かんでくるつっこみがある。
「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」

 もちろん、東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる。だがそもそも1964年のオリンピックがなければ、東京モノレールの計画自体なかっただろう。そして東京モノレールがなければ、羽田空港アクセス線がもっと早く整備されていたかも知れない。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)21~22頁

 

 これに対する直接の回答ではないのだが、「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」に関する参考資料のご提供である。


菅 (前略)ただ、中央線の都心部の増強を図りたい気持ちは国鉄のなかに多分あって、かなり東西線のルートと重なるわけですよね。東西線は、結果的には日本橋を通って江東区のほうへ抜けていきますけれども、また西船橋で国鉄とつながるんですから、あれこそ営団なんかにやらせずに、国鉄が自分でやってもおかしくなかった線のはずですよね。

角本 ええ。ですから、東西線を国鉄が自分でやってくだされば、営団の資金をもっと新しい線に向けられましたね。

鈴木 国鉄がそれほど都市内の交通に関心がなかった。

角本 というより、お金がない(笑)。やはりそれだと思う。「国鉄の本来の使命にもっとお金を入れたい」ということ。特に東海道新幹線もやっていましたから。

菅 そういうことなんでしょうね。私たちが(国鉄に)入った1960年代半ばにも、「都市鉄道というのは儲からない」という議論がありました。

 

「角本良平オーラルヒストリー」交通協力会

 

角本良平(元 国鉄)
菅建彦(元 国鉄)
鈴木勇一郎(立教大学術調査員)

 

 東海道新幹線建設費用を捻出するために、既に建設が決まっていた地方路線の予算を削っていた当時の国鉄に、「羽田空港対策の余裕資金があったか」という観点でご参考にしていただきたい。

 既存の通勤電車のラッシュ対策にも手が回っていなかったのが当時の実態である。首都圏の通勤対策(5方面作戦)が行われたのは、東海道新幹線開通後である。そしてその巨額な投資は赤字転落した国鉄経営を更に苦しめて行ったのである。

 

 ※オリンピック当時の全国でのモノレールブームについては、広報ひめじに詳しい。https://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s30/pdf_s39/19640215339.pdf

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2016年12月11日 (日)

「完全版 新宿駅大解剖」(横見浩彦・監修 宝島社・刊)表紙トップの上越新幹線ネタを検証してみる

 「完全版 新宿駅大解剖」(横見浩彦・監修 宝島社・刊)という本が先月出版された。http://tkj.jp/book/?cd=02599701

 表紙にデカデカと「タカシマヤ タイムズスクエア直下に幻の新幹線駅が!?」とある。

 また、第2章に「上越新幹線の新宿駅乗り入れ計画とは?」という項が、第7章に「輸送量の頭打ちとタカシマヤ タイムズスクエアの開業」という項があり、「タカシマヤ タイムズスクエア直下に幻の新幹線駅が」あるというようなことを書いている。

 果たしてそうなのか検証してみたい。

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■タカシマヤタイムズスクエアの地下はどうなっているのか?

タカシマヤタイムズスクエア

 上記断面図は、「近代建築」51巻1号に掲載された「作品 タイムズスクエアビル 設計監理 日建設計」から引用したものである。

 新宿高島屋は地下1階までしか営業していないので、「地下3階に新幹線ホーム、地下2階に上越新幹線のコンコースがある」という考えを呼びやすいのではないかと思っているのだが、ご覧のように地下4階まで機械式駐車場がビッチリと設置されている。

 その様子は日産自動車のウェブサイト内の記事「新宿高島屋の地下にハイテクな駐車場があった!」http://www.nissan.co.jp/CARWINGS/kuruma_aruki/par_01_02.htmで紹介されている。

 このどこに新幹線駅用のスペースがあるというのだろうか?

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■タイムズスクエアの駐車場の更に下に新幹線のホーム用のスペースがある可能性はあるのか?

 「地下4階まで駐車場だからといってその下にスペースが確保されている可能性だってあるじゃないか」という向きもいらっしゃるかもしれない。

上越新幹線新宿駅構想 (5)

 上図は、「完全版 新宿駅大解剖」でも紹介されている国鉄の「新宿駅貨物敷活用基本構想」に掲載されている図面であるが、上越新幹線が地下3階、その下の地下4階に中央新線(現在、京葉線の延伸部と言われている路線と思われる。)、更にその下の地下5階に都営新宿線が走っている。「貨物敷開発ビル」が現在のタイムズスクエアであろう。

 この絵でも新幹線は「貨物敷開発ビル」の西側に位置しているのが分かるがそれはひとまず置いておいて、タイムズスクエアの地下駐車場の下の深さにホームを作ると上越新幹線は都営新宿線の上を通れないのである。

 細かいところは以前http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-9452.htmlに書いたのでお目通しいただければ幸甚である。

 ということで「タイムズスクエアの駐車場の更に下に新幹線のホーム用のスペースがある可能性はない」と言って差し支えないのではないか?

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■「新宿駅貨物敷活用基本構想」では、どこに上越新幹線ホームがあることになっているのか?

 「完全版 新宿駅大解剖」の「上越新幹線の新宿駅乗り入れ計画とは?」という項では、「新宿駅貨物敷活用基本構想」には地下に3面6線のホームが載っている旨書いてある。

上越新幹線新宿駅構想 (1)

 私のブログでさんざんネタにしたものである。

上越新幹線新宿駅構想 (25)

 平面図では地下3階の上越新幹線ホームはこのように位置している。図面の上部にある「貨物敷開発ビル」とは切り離されている(=「タカシマヤ タイムズスクエア直下に幻の新幹線駅が」ない)ように見えるのではないか?

上越新幹線新宿駅位置図

 このイメージ図でも「貨物敷開発ビル」の地下には自動車駐車場らしきものが見て取れ、上越新幹線のホームは、現在の埼京線・湘南新宿ラインのホームの直下にあるように見える。

上越新幹線新宿駅構想 (29)

 タカシマヤ タイムズスクエアの敷地は「地上・地下ともに活用可能な用地」とされている。上越新幹線のホームが設置されるなら、左端の都営新宿線や中央の中央新線上部箇所のように「地下の活用」には制約が加わるはずだ。

 「新宿駅貨物敷活用基本構想」に絶対従わないとダメとまで言うつもりはない(この「基本構想」も「貨物駅敷地を処分するにあたりどこまでは鉄道事業用地としてキープして、どこからは処分をしてもよいかを決めるための仮想設計」にすぎないと思われる。また、「中央新線ホーム」のように実際には考慮されていないと思われる部分もあり、その意味ではあくまでも「基本構想」にすぎず最終決定事項でもない。)のだが、表紙にまで「タカシマヤ タイムズスクエア直下に幻の新幹線駅が!?」と書いておきながら、本文中にはさらりと矛盾する資料をつまみぐいのように紹介するのは、編集方針として如何なものだろうか?

 監修者の横見浩彦氏の考えを聞いてみたいものである。(「そこは監修者の仕事じゃないよ。」ということであればそれまでなのであるが。)

 しかも「完全版 新宿駅大解剖」には上記のような図面は引用されていないのであるから、私のブログを見ない読者はその矛盾に気が付くことはないだろう。

 他方、「タイムズスクエアの直下にホームが計画されている。」という根拠は、私の読解力の範囲では、「完全版 新宿駅大解剖」には載っていないように思われる。

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■そもそもタイムズスクエアの下に新幹線ホームがあるってどこにソースがあるの?

 以前のブログ記事http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/index.htmlでも探してみたのだが、この明確な根拠にたどりつけていない。

 yahoo!知恵袋では「新宿駅の地下空間(高島屋、タイムズスクウェア下)が新幹線用に確保されているというのは有名な話です」となっているのだが。

 「新宿駅はなぜ1日364万人をさばけるのか」の著者・田村圭介氏もこうツイートしているのだからどこかに根拠がありそうなものだが。

 やっと見つけたのが草町義和氏の「鉄道計画は変わる」第1章 東京~大宮間鉄道計画の変転 「最後に残った上越新幹線新宿乗り入れはどうなる?」 掲載の下記の一文である。

新宿駅南東側のタカシマヤタイムズスクエアの真下に、新幹線ホームの建設スペースが確保されているといわれているが、実現する日は来るのだろうか

 

「鉄道計画は変わる」草町義和・著 交通新聞社・刊から引用

 ただ、これも「いわれる」とあるだけでその根拠は示されていないように見受けられる。

 「完全版 新宿駅大解剖」担当者にはこれで十分なのかもしれないが、国鉄の図面として「最終的にはタイムズスクエアの下にホームを確保することとなった」というようなものがあったりはしないのだろうか?

 もしご存知の方がいらっしゃれば是非ご教示ください。

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■(独り言)そもそも俺のブログと構成が似ているんですが

 

 (※ここから下は雑談なので、読まなくてもいいです。独り言ですので。)

 「完全版 新宿駅大解剖」の「上越新幹線の新宿駅乗り入れ計画とは?」では

・東京都と国鉄の間での駅設置位置の協議

・新宿までのルートが決定した当時の報道

・「新宿駅貨物敷活用基本構想」

てな具合で話が進んでいくのであるが、

・東京都と国鉄の間での駅設置位置の協議

  ↓

 俺のブログで出ているなあ。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6883.html

上越新幹線新宿駅構想 (19)

・新宿までのルートが決定した当時の報道

  ↓

 俺のブログで出ているなあ。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html

上越新幹線新宿駅乗入れ (1)

・「新宿駅貨物敷活用基本構想」

  ↓

 俺のブログで出ているなあ。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6225.html

上越新幹線新宿駅構想 (1)

 「完全版 新宿駅大解剖」には「新宿駅貨物敷活用基本構想」は運輸省のものと書いているが実際には国鉄のものですよね。そこは見なかったんですかね。(http://www.mlit.go.jp/hakusyo/transport/shouwa58/ind020103/003.htmlの(5) 収入の確保) 中(関連事業,資産処分による増収策)を参照されたし。

 とまあ、被害妄想にすぎないのだろうがモヤモヤしてしまうのである。全部公開されている資料だし誰でもちゃんと調べれば書けるはずではあるのは分かっているのだけれどもね。

 だが「新宿駅貨物敷活用基本構想は一体どこから探してきたんですか?」とは聞いてみたいものだ。この資料を上げている人は私と、(なぜか掲載している新聞記事まで私のブログと同じ部分になっている)このブログhttp://ameblo.jp/milkyht2/entry-12156318050.htmlくらいのものではないか。自力で調べたのであればどこにあったか答えられるはずだ。

 

 最近DeNAの「キュレーションサイト」等が問題となっていて、ライターや「キュレーター」が書いた(「リライト」した)記事について「専門家の監修が必要」とも言われている。

 ライターが「リライト」して、「専門家」の「監修」でお墨付きを与えたような本の作りになっていないことを願うばかりである。

 なお、下記のような指摘もでていることも付言しておきたい。

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 <追記>

 「完全版 新宿駅大解剖」(横見浩彦・監修 宝島社・刊)105頁に「上越新幹線の経路だが、荒川付近から地下を通り、池袋駅付近では地下鉄有楽町線と副都心線のトンネルの間に新幹線トンネルがあるようだ。」とあるが、これは川島令三の妄想をコピペしただけのインチキ記述にすぎず、当時の新聞も調べていないようだ。

 詳しくは、「上越新幹線新宿駅-大宮駅間ルート「川島令三案」を徹底検証してみた」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/--a64d.htmlをご覧ください。

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 宜しければ過去に書いた上越新幹線新宿駅関係の記事にお目通しください。「新宿駅貨物敷活用基本構想」等関係資料をいろいろ探索しております。それらの生資料をお読みの上、「完全版 新宿駅大解剖」と突き合わせてみては如何でしょうか?

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 <上越新幹線新宿駅関係記事>

 その1 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6225.html

 その2 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6883.html

 その3 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-d383.html

 その4 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-f365.html

 実際のところどうなっているのか? http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-9452.html

 国会でどのように答弁されてきたのか? http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-6db4.html

 報道をまとめてみた(その1) http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html

 報道をまとめてみた(その2) http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.html

 「完全版 新宿駅大解剖」(横見浩彦・監修 宝島社・刊)表紙トップの上越新幹線ネタを検証してみる http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-7007.html

大新宿構想時代(昭和50年前後)の上越新幹線新宿駅地下ホーム等の図面http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-bfa5.html

やっぱりバスタ新宿の基礎で上越新幹線新宿駅はできなくなっちゃったんじゃないの?http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1df5.html

上越新幹線 新宿-大宮間ルートの経緯を整理してみるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-6d67.html

上越新幹線の池袋駅はどうなっていたのかhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-2c6b.html

大宮駅付近に見る上越新幹線新宿-大宮ルートの痕跡http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1c4d.html

東北新幹線は浦和市営モノレールの導入空間を空けて今でも待ってるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-0765.html

上越新幹線新宿駅-大宮駅間ルート「川島令三案」を徹底検証してみたhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/--a64d.html

上越新幹線新宿駅と都営地下鉄新宿線及び大江戸線との位置関係を確認してみるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-3b1a.html

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

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2016年11月22日 (火)

「東京道路奇景」(川辺謙一・著)を読んでいて「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方に全部見せちゃう。

 「東京道路奇景」川辺謙一・著 草思社・刊 を読んでいて引用されている「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方もいらっしゃるだろう。太っ腹な私がそんなあなたに全部見せちゃう。

 ただスキャンするだけじゃアレなのでところどころにネタというか解説も突っ込んでいこう。自分も過去にこの資料をネタに幾つかブログの記事を書いているので併せてご紹介したい。

東京都市高速道路の建設について (1)

 首都高速道路公団ではなく、その設立前に東京都が作成している。

東京都市高速道路の建設について (2)

東京都市高速道路の建設について (3)

東京都市高速道路の建設について (4)

 「昭和40年の交通危機」という言葉が出てくるが、首都高速は東京オリンピックを目指して計画されたのではなく、もともと、昭和40(1965)年ごろには道路交通がパンクするため、対策を講じなければならないということで着手されたものなのだ。

東京都市高速道路の建設について (7)

東京都市高速道路の建設について (8)

 皇居の堀が見えているので日比谷交差点の風景かな?

 戦前にここに防空壕の機能も兼ねた地下道の計画(宮城外苑地下道計画)があった。

宮城外苑地下道計画1

「山田正男「宮城外苑地下道計画案に就いて」」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-6c82.htmlに紹介している。

東京都市高速道路の建設について (5)

東京都市高速道路の建設について (6)

 「都市高速道路は高架式が普通です。」と見出しをつけておきながら、写真は掘割部である。都心の河川を干拓して高速道路を作るにあたって、関係者にこの写真を見せて「こんな風に出来ます」と説明していたのだろうか。(尤も、この写真は片側3車線なので随分イメージが異なるが。)

東京都市高速道路の建設について (9)

 当初は、首都高速は「インターチェンジ」と「ジャンクション」ではなく、「ランプ」と「ジャンクション」だった。平成初期まではそうだったはず。

 この写真も「高速道路同士を立体交差で接続するときはこうなるんですよ。これをインターチェンジというんです」なんて言いながら見せていたんだろうか。

昔の首都高のインターチェンジとランプ

(「ワイドミリオン全東京1/1万」東京地図出版・刊 1992年1月発行 から引用)

東京都市高速道路の建設について (10)

 昭和28年4月28日に、首都建設委員会は「首都高速道路に関する計画」の勧告を発表している。 その路線図に着色して分かり易くしたものが下記の路線図である。

昭和28年の首都高速道路網図

 詳細は「昭和28年の首都高速道路計画」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.htmlをご覧いただきたい。

東京都市高速道路の建設について (11)

 上段部分が、路線選定の考え方を紹介している。首都高速はオリンピックに間に合わせるために河川や運河の上を通ったのではなく、オリンピック決定のはるか前から河川や運河の上を通る計画だったことが分かる。

 また、下段部分の「附帯意見」では

「2 皇居の南側において国会方面から銀座方面に通づる路線の計画につき検討する。」とある。

 これの名残が、現在のJR有楽町駅付近の日比谷地下道である。

日比谷地下道

三原橋地下街を潰すはずだった銀座地下道計画

(「都市計画と東京都」都政調査会発行(1960)から引用)

 ※日比谷地下道は、上記「附帯意見2」の首都高路線の代わりに、都道として計画されたが、紆余曲折あって今のような中途半端な地下道ができたのである。

 ブログでは「東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.htmlに記してあるのでご覧いただきたい。

 同様に「3 外濠と日本橋河を利用する区間については神田川との治水上の関連を真重(ママ)に検討のうえ可能ならば河川を通すこと」としており、昨今非難されがちな「日本橋の上を通る首都高」は、本来は「日本橋の下を通る首都高」となるはずだったのである。

首都高と日本橋の位置関係

(「東京の都市計画に携わって-元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」84頁から引用)

東京都市高速道路の建設について (12)

東京都市高速道路の建設について (13)

東京都市高速道路の建設について (14)

 首都高の一番最初の路線網である。これの大判の青焼き図面を早大大学史資料センターで見たことがある。

首都高速道路初期の青焼き図面 (2)

 右上に赤鉛筆で「大将用」と書いてある。西武鉄道の堤康次郎個人用ということだ。堤康次郎は多くの高速道路関係資料を収集していた。その目的は西武建設の名神高速建設工事であり、近江鉄道バスの名神高速への乗り入れであったりするのだが。

首都高速道路初期の青焼き図面 (1)

 赤ペンで印が入っているのは芝のプリンスホテル等であろうか?

東京都市高速道路の建設について (15)

 「民地の買収による都民の迷惑をできる限りさける」「多少の線形の屈曲を犠牲」とある。首都高はカーブが多くてなんだ!とお怒りの方は「都民の迷惑」も少しは考えた方がいいのかもしれない。

 「高架構造物の路下を建築物として利用」という点についてはおって触れたい。

東京都市高速道路の建設について (16)

 「あれ?都心環状線が無いぞ?」と気が付いた方はいらっしゃるだろうか?

 実は、本来は放射路線となっている2号、3号、4号の一部が、通称「都心環状線」を形成しているのである。

伸びゆく首都高速道路 (35)

(「伸びゆく首都高速道路」首都高速道路公団・刊から引用)

東京都市高速道路の建設について (17)

東京都市高速道路の建設について (18)

 「高架下は軌道がない限り、駐車場に利用」って、軌道すなわち路面電車とは並存する気だったのか。東急玉川線と首都高3号渋谷線は結局玉川線が地下化して首都高と一体構造として整備ということになったが、都電もそのまま残す余地があったのだろうか?

東京都市高速道路の建設について (19)

 「新しい街路にそつた土地の建物を中高層化して共同で店舗,住宅等に利用」というのはオリンピック前の青山通りの拡幅等でも採用された手法だ。

東京都市高速道路の建設について (20)

 首都高では、結局高架下に建築が入ったのは箱崎のTCAT等少数に留まったのだが、当初は積極的に高架下に建物(住宅までも!)を作って積極的に利用する計画だったようだ。

 首都高の高架下利用の経緯については「森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/kk-9f0e.htmlにまとめてある。

IMG_8117

 上記は実際に首都高が高架下に店舗を建築した例である。

東京都市高速道路の建設について (21)

東京都市高速道路の建設について (22)

 掘割式が「都市の美歓(ママ)上も、工事の点からも最も望ましい構造」だとのことである。

東京都市高速道路の建設について (23)

東京都市高速道路の建設について (24)

 こんな光景は実際には見られないような気がするがどうだろうか。。。

東京都市高速道路の建設について (25)

東京都市高速道路の建設について (26)

 先にも述べたように、オリンピック対策ではなく、昭和40年までに首都高速が出来ないと、都内の道路交通がパンクしてしまうのでその予防のための工程である。

東京都市高速道路の建設について (27)

 首都高速道路公団ができる前に、日本道路公団が2号線等の一部に着工していた。

首都高速道路は日本道路公団が建設開始していた

 「首都高速道路を当初建設着手したのは日本道路公団(JH)だった」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.htmlにそのあたりのことを書いてある。

東京都市高速道路の建設について (28)

 当初構想では、1回70円程度の料金を10年前後徴収する計画だったようだ。ここが今とは随分違う点だ。

東京都市高速道路の建設について (29)

東京都市高速道路の建設について (30)

 「東京都市高速道路の建設について」については以上である。振り返ってみると、川辺謙一氏だけではなく私も随分ネタに使っていることだよ。

(追記)

 首都高速の設立当初のパンフレットを下記のとおりUPしたので併せてご覧いただければ。

・首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-2f3b.html

・首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

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 「東京都市高速道路の建設について」とは関係ないが、「東京道路奇景」では、東京高速道路(KK線)を「都政七不思議」の観点から取り上げている。大変素晴らしい。

 21世紀に入ってからというものの、「都市計画家・石川栄耀―都市探求の軌跡」中島直人、初田香成、佐野浩祥、津々見崇、西成典久・著 鹿島出版会・刊や 「自動車と建築-モータリゼーション時代の環境デザイン」堀田典裕・著 河出書房新社・刊 のように、ロクに調べもせずに、東京高速道路は素晴らしい!石川栄耀マンセー!な本ばかりなところで貴重なスタンスである。最近では「都政七不思議」にからめて東京高速道路を論じていたのは、素で私のブログくらいしかなかったから喜ばしいことである。

 東京高速道路以外の「都政七不思議」に関心を持たれた方は、私の記事「「安井都政の七不思議」って結局どの七つなのか調べてみた。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/06/post-c0c2.htmlを是非見ていただきたい。

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2016年11月 4日 (金)

森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足

 森口将之氏が「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由http://getnavi.jp/vehicles/80733/という一文をGetNaviwebという媒体で発表しているのがひっかかった。

 ざっくりまとめると「東京高速道路株式会社線(KK線)は、ビルの賃貸料収入で運営しているので無料だ。首都高も一部でも導入していれば高速料金が安くなったのに」ということらしい。

 どうも、ツッコミどころ満載である。

東京高速道路

■ 無料ならなんでもいいのか?

 森口将之氏はこう記す。

銀座でKK線の脇を歩いたことがある人なら、下に飲食店などが入っていることを知っているはず。実はこれらのお店からの賃貸料収入で運営しているのだ。KK線が部分開業したのは1959年で、首都高速より早いのだが、そうとは思えないほど先進的な思想にあふれた道なのである。

 東京高速道路のなりたちを全く知らないような素朴な書きぶりだ。

 では、私お得意の国会議事録から東京高速道路が建設された当時にどのような扱いになっていたかを紹介してみよう。

■ 東京高速道路(KK線)は自民党議員からも「利権道路」と呼ばれていた

○久野(忠治)委員 今日交通需要が限界に達しておることは衆目の見るところでございます。こうした点から一部経済人がこれに目をつけまして、御存じの通り新橋―京橋間に東京高速自動車道路の建設が計画をされ、目下この事業が進行中でございまするが、数年前に計画されたこの事業が今もって完成をしないのであります。しかも当建設委員会におきましては、この高速自動車道路の建設については多分な疑惑の目をもって見ておりまして、そうしてこの内容についても幾多の質疑が発せられました。そのとき――この問題には関係ありませんけれども、重要でありますから一つお尋ねをいたしたいと思うのであります。その際私が質問をいたしましたことはこういうことでありました。その下部の利用は一体何にするかという質問に対して、当時の東京都の副知事――名前はちょっと忘れましたが、副知事はこう答えました。倉庫もしくはガレージに利用する、こう言ったのであります。万一その利用目的が変った場合にはどういう処置をとるかという質問に対して、撤去を命ずる、こう言いました。それからもう一つ、この都市計画全体からいって、下水あるいは雨水の排水のための重要な都市水路であるから、これは残しておくべきではないかという意見もそのときに出たのであります。その質問に対しては、地下はいわゆる水路として残しておくように設計をされておる、万一それを埋め立て等にする場合があれば、これまた当初の設計に反するものであるから撤去を命ずるということを、現に当委員会で言明をされたのであります。それは当時の建設委員会の速記録をお調べになればよくわかることでございます。ところが今日でき上りましたものを拝見いたしますると、堂々たるキャバレーができたり、あるいは飲食店ができたり、事務所ができたり、倉庫というのは名ばかりで、今ガレージなどというのは名目的に一、二カ所あるだけでございます。それから私たちが指摘をいたしましたように、地下の水路はすでに埋め立てをいたしてしまいまして、そうしてこれを地下の倉庫に利用しようといたしております。そうして莫大な利権を握って、東京都の交通難を緩和するという美名に隠れて利権のちまたにこれがなろうとしていることは、衆目の見るところであります。

○西村委員長 それからこれは今日私風評で聞いておるのでありますが、設計変更の認可もないうちに高速自動車の私営のやつが行われている。しかもこれは世間では利権道路と言っているということ、そういうことからくる都の機構、あるいはその行政の運営に対しての疑惑というものも世間に伝えられている

 この久野委員も西村委員長も自民党である。野党が政府を追及しているわけではない。

 「テナント料で費用を賄っているので高速道路料金はタダ!民間の知恵だ!PFIの先駆けだ!」と持て囃されているKK線であるが、当時の国会では与野党こぞっての「利権」集中砲火であった。

 なお、今のコリドー街やGINZA9等を考えると上記で「倉庫、ガレージ」と議論しているのは違和感を感じるが、「もともと倉庫、ガレージにしか使わせない」という目的で許可を得ておきながら後で知らぬ間に飲食、店舗等に使わせることになっていたというのも世間から指弾された点である。

 こんなことは、国会議事録で検索すればすぐ分かる話だ。

 ちなみに、当時の新聞記事ではこんな扱いである。

疑惑の東京高速道路KK線 (1) 

1956(昭和31)年9月6日付読売新聞から引用

 東京高速道路は「利権の長城」と呼ばれていたと書いてある。

 書籍ではどのように扱われているかも見てみよう。

 とくに革新系の庁内誌「都政新報」社がつくったパンフレット「東京の七不思議-裏から見た都政」は、都内の一般書店でも販売されて都民の反響が大きく、安井都政の汚職批判はかなり都民に浸透した。

 この「七不思議」のうち、もっとも有名なのはすでにのべた数寄屋橋の下の濠を埋め立て、いま京橋から新橋へかけて高速道路が走っているが、この高速道路建設の名目でその下につくれらた(ママ)貸ビルの問題である。安井知事は、このためにできた「東京高速道路株式会社」なる民間会社に、この外濠の埋立権を与え、六千坪の土地に地上二階地下一階の貸ビルをつくって営業してもよいことにしてしまった。(一九五七年七月、フードセンター、数寄屋橋ショッピングセンターなど開業。)埋め立ての費用は都が負担し、この会社からとる地代は月坪四百円。当時この辺は坪当たり地価五万円といわれていたから、会社は店子から莫大な家賃や権利をとれるはずだ

東京都知事」日比野登著 41~42頁から引用

 都民の公共資産である外堀の埋め立て地を特定の企業が安価に都から手に入れて高額なテナント料を手に入れる・・・そのおこぼれとしての料金無料なのである。

 東京高速道路は、35年たてば東京都に寄付されるはずだったが、それを拒んだため東京都が東京高速道路を相手取り、訴訟を提起した。結果は第一審から最高裁まですべて都が勝訴。結果的に東京高速道路が都から買収する形で現在に至っている。このズブズブが森口将之氏のいうところの「先進的な思想にあふれた道」なのである。

疑惑の東京高速道路KK線 (2)

1988(昭和63)年6月22日付読売新聞から引用

 コンプライアンス的に言えば、東京高速道路株式会社は、超ブラック企業である。森口将之氏はブラックだろうが利権だろうがタダになれさえすれば「先進的」と言うのだろうか。なんとも貧しいおこぼれ頂戴根性であろうか。

 

■ 首都高速は一部でもKK線のような高架下建築を導入していないのだろうか?

 森口将之氏はこう記す。

なぜ首都高速はKK線のようなビジネススタイルを取り入れなかったのだろうか。一部でも導入していれば高いと言われる料金が少しは安くなったのではないだろうか。

 首都高速も高架下への建築は「一部」くらいは導入している。

 箱崎の東京シティエアターミナル(T-CAT)等がその例だ。首都高の高架下に道路法に基づく占用許可によって設置されており、道路側に占用料収入が入っているはずである。

TCATと首都高速道路

 また、数は少ないものの高架下に建物を首都高が作り、テナントを入れている。

IMG_8117

 赤羽橋のあたりを走っていると上記のような高架下建築が見える。

東京都の「平成15年度財政援助団体等監査報告書」には下記のとおり記されている。
http://www.kansa.metro.tokyo.jp/PDF/03zaien/15zaien/15zaien362.PDF

 本事業は、2号目黒線高架下において、移転困難な地権者に対し、昭和43年から公団が施設(事務所・店舗用、駐車施設等)を設置し賃貸しているものであり、平成14年度の総収益は6,208万余円で、前年度に比べ232万余円(3.6%)減少している。一方、総費用は4,576万余円で、311万余円(7.3%)増加したため、当期利益金は1,631万余円となり前年度と比較して543万余円(25.0%)減少している。

■ 首都高速は、実はやる気マンマンであった

 下記は、1959(昭和34)年に東京都が作成した「東京都市高速道路の建設について」という冊子からの引用である。首都高設立に向けての東京都のPR資料と思われる。

首都高速道路当初の高架下建築計画

 このように現在と異なり、首都高速は東京高速道路株式会社と同様に高架下建物の建設に積極的だったように見える。これが実際にはT-CATと「移転困難な地権者向け」等に縮小してしまった(もっとも駐車場や公園としての活用はされているが。)。

 なぜ、そうなったのだろうか?

 冒頭に引用した国会議事録は首都高速道路計画の審議の際の発言である。それだけ都市内高速道路の建設にあたっては、「利権道路」東京高速道路がトラウマになっており、「KK線の再現は許さない」空気があったのではないか。事実、首都高速道路公団法案の国会審議には何度となくKK線についての質疑がなされ、東京高速道路社長まで参考人で呼び出されている。

 また、タイミングの悪いことに、国鉄でも「ガード下疑惑」のようなものが持ち上がっていた。鉄道会館事件や京急デパート事件のように身内に便宜を図ったり、ガード下にテナントが入れるように便宜を図ることで国鉄職員が収賄で逮捕されるといった疑惑・汚職を招く一方、アメ横のガード下等は転貸に転貸を重ね、地主である国鉄も管理できないありさまであった。別の記事でも触れているが国会の場で当時の総裁が何度も陳謝している状況である。

国鉄ガード下汚職

1954(昭和29)年10月9日付朝日新聞から引用

(参考)「小林一郎著「ガード下」の誕生-鉄道と都市の近代史(祥伝社新書)が糞だった(その2)」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/--c177.html

 このように世間は「高架下(ガード下)利権許すまじ」の情勢があったのは間違いない。そこに運悪く首都高が巻き込まれて高架下の積極的な利活用に制限がかかってしまったのではないか

 そして、建設省は「高架道路の路面下の占用許可について」(昭和40年8月25日付け建設省道発第367号建設省道路局長通達。平成17年廃止)を発出し、道路の高架下利用を非常に限定的に行うこととした。鉄道のバラエティあふれる高架下の利用に対して、道路の高架下の利用が公園、駐車場等が主であり、商業用施設が極めて限定されてきたのはこの通達によるものである。

(この直前に、新幹線の高架下利用が問題となっており、その影響があったのかもしれない。)

新幹線ガード下不当利用

1964(昭和39)年5月4日付朝日新聞から引用

高架下利用は抑制

(「建設のうごき」No.109号11頁から引用。)

 直接的な証拠が見つけられておらず、個人的な感想にとどまるのであるが、「KK線が高架下の活用ができているのに首都高はできない」のではなくて、「KK線や国鉄がやりすぎたので、そのあおりをくらって首都高は大した高架下の活用ができなくなった」のではないかと思っている。

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 ところでKK線は役に立っているのだろうか?

 「山田天皇」と呼ばれた東京都元首都圏整備局長の山田正男氏は下記のように述べている。

疑惑の東京高速道路KK線

(「時の流れ・都市の流れ」24頁から引用)

 「1km余で取付道路がどちらも並木通りではどうにもならないが」「遅まきながら」後付けで首都高のネットワークに取り込んでやって解決したということだ。

 商業利用が期待できる箇所だけのおいしいところどりの1km余ではどうにもならなかったのを都が救済してやったということである。

 森口将之氏は何を書いている人なのか実はよく知らないのだが、交通機関やその社会的背景等を真面目に勉強してから、書いてみた方が宜しいのではないか?

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2016年10月30日 (日)

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった?

 建設省→日本道路公団→コンサルタントと戦後の道路建設に携われていた武部健一氏の遺著「道路の日本史 - 古代駅路から高速道路へ (中公新書) 」については、今更私ごときが語るべきものではない名著であるのだが、小田原厚木道路について触れており、「ああこのことは書いても問題ないのだな」と思ったので、表記のタイトルになったわけである。

 

 先に、「清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)」で引用した「道を拓く 高速道路と私」に、その題名もズバリ「河野号令にびっくり」ということで小林 元橡氏(建設省道路局高速道路課長等を歴任)が下記のように述べている。

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった2

 (武部氏の記述よりも小林氏の記述の方が詳しいのは、実際に建設省の課長として直接河野大臣と対峙したからなのであろうか?)

1962(昭和37)年8月7日付朝日新聞では下記のように報じられている。

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった3

 小林氏の高速道路課長在任期間は、1962(昭和37)年8月10日から1965(昭和40)年1月16日までということだから、整合性はとれる。

 しかし、通常の公共工事は、大まかに言うと、前年の夏に概算要求→前年の年末に大蔵省(当時)予算折衝→政府予算案決定→年度末の国会で予算決定→新年度から予算執行できる・・・という経緯が必要なのに、8月の記者会見で「有料道路として今年末にも着手させる意向」とは驚きだ。

 もっとも、小林高速課長には「調査3日、計画設計3週間、工事3か月で完成」と下命したというのだからもっと驚きだ。

 また、「日本道路協会50年史」に収録されている座談会「富樫凱一氏を囲んで」では、下記のやりとりが収録されている。

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線だった

 富樫凱一氏、高橋國一郎氏ともに、建設省道路局長及び日本道路公団総裁を歴任している。文中の「名神高速のルート」は、「東名高速のルート」の誤植ではないか

 河野一郎氏の地盤は小田原周辺である。河野洋平氏を経て現在も孫の河野太郎氏が地盤を引き継いでいる。

 河野一郎氏は「東名を自分の方(小田原)にもってこい」というようなことを建設大臣就任時に主張して、それをはねつけた富樫凱一日本道路公団副総裁(当時)が更迭されたと読める。

 土木学会のサイトによると富樫凱一氏は「1962年日本道路公団副総裁、1966年より1970年まで総裁」とあり、コトバンクによると「(昭和)37年三菱地所取締役、39年菱和不動産社長を経て、41年日本道路公団総裁」とある。

 対談中の「河野一郎さんの頼みをはねつけてしばらくやめられた」というのが「37年三菱地所取締役、39年菱和不動産社長」という時期にあたるのか?

 河野一郎氏は、1965(昭和40)年に亡くなっているから、河野氏の没後に富樫氏は復権(道路公団総裁就任)したということか?

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 時系列で再整理してみよう。

1962(昭和37)年7月18日  池田改造内閣成立・河野一郎建設大臣就任

1962(昭和37)年8月7日 記者会見で「東海道新バイパス」の建設を発表

1963(昭和38)年3月22日 道路審議会 小田原厚木間だけを二級国道に指定するよう答申

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線  (1)

1963(昭和38)年3月30日 二級国道の路線を指定する政令を改める政令で二級国道271号小田原厚木線だけを追加

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線  (3)

 自分の選挙区に自分で国道を引っ張て来るだけの政令に署名。これぞ「ザ・政治路線」って感じですな。

https://www.digital.archives.go.jp/das/image-j/F0000000000000113272

1963(昭和38)年4月1日 上記政令施行

1964(昭和39)年1月23日 一般有料道路小田原厚木道路 事業許可

1965(昭和40)年7月8日 河野一郎氏死去

1966(昭和41)年 富樫凱一氏 日本道路公団総裁に就任(道路公団に復帰)

1969(昭和44)年3月19日 一般有料道路小田原厚木道路 供用開始

 

 いやはや物凄く短期間で異例である。

 通常、国道昇格にあたっては2年程かけて調整し、数十本の国道をまとめて昇格させるのだが、大臣の記者会見から半年で道路審議会から政令制定まで終わって、政令制定から施行も通常1年後なのに2日後に施行である。それも271号小田原厚木線一本のためだけの手続きなのである。

 すさまじいのは、法令審査の短期間ぶりだ。3月25日に道路審議会の答申があった後、同日付で建設省が内閣法制局に持ち込み、法令審査を3月28日に終え、3月29日に閣議という超綱渡りスケジュールである。はっきり言ってこんな短期間の審査はありえない。並みの政治路線ではない。

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線2

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線  (2)

 当該資料は、国立公文書館デジタルアーカイブで見ることができる。

https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001454032

小田原厚木道路は河野一郎の政治路線  (4)

 法令審査資料に添付されている図面には「厚木-小田原線」と書いてある。

 かねがね、「なぜ厚木起点ではなく小田原起点なのだろうか?」と疑問を持っていたのだが、やっぱり厚木起点だよねえ。河野一郎に配慮して小田原起点にしたのかしらん。それとも一級国道1号から分岐する方を起点とすることが法令上のテクニックとして重視されたのだろうか?

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 実は、この記事は「道路の日本史」出版前に「道を拓く 高速道路と私」で当該記述を見つけて着手していたのだが、「道路の日本史」であらかた出てしまった。そこでこのままではわざわざブログに書く意味がなくなってしまうのでチマチマと補足資料を追加していったので公開に時間がかかってしまった。(その間にwikipedia等にも出てしまい、記事としてはおもしろみが半減してしまったので残念である。)

 「道路の日本史」発売直後にコピペして金をとる記事にしてしまうような佐藤健太郎氏のような厚顔無恥ではないのでな。(「国道者」参照のこと。サイエンスライターって楽な商売だねえ。。。)

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2016年4月25日 (月)

階段国道の真相は国交省のウェブサイトに書いてある~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その8)

 青森県と北海道を結ぶ国道339号の龍飛崎付近にはいわゆる「階段国道」がある。

 日本広しといえども、階段の国道というのはここにしかない。なぜこんな変なものができたのだろうか?よく言われるのは「役人が現地を見ずに地図だけ見てここを国道に決めてしまったため」という話だが、これはいわゆる都市伝説の類らしい。青函トンネルの工事のため、いずれバイパスを作る予定があり、階段と知りながら暫定的に国道指定したというのが真相ということだ(松波成行著『国道の謎』による)。

 

 「ふしぎな国道」 佐藤健太郎著 18頁から引用

 私は松波さんとは時々お酒もご一緒させていただくようなおつきあいをさせていただいているのだが、ここについては納得はしていない。

 そもそも松波さんは市井の一趣味者でいらっしゃり、あくまでも「松波説」であり「真相」と断言できるものなのか?検証もせずに「真相ということだ」と書くのが自称サイエンスライターのエビデンスとはその程度のものなのか?(そもそも「真相ということだ」という文章自体がよくわからん。真相なのか違うのか。サイエンスライターさんが書く文章は違うねえ。)

 

 実はこれには「公式見解」が国土交通省東北地方整備局のウェブサイトに掲載されている。

広報紙「T-com」のハガキを通した読者の方々からの質問に対する回答内容について紹介しております。

ということでQ&Aの形式となっている。その「みち編」の「一般国道」にずばり下記のようなQ&Aが掲載されている。

Q

青森県津軽半島の三厩村に、階段国道(339号)がありますが、曲がりくねった幅の狭い石段が国道になっているのはどうしてなのでしょうか。 (山形県/長谷部さん)

 

A

一般国道339号は、弘前市から五所川原市を経由し、一般国道280号に接し、津軽半島を周遊することのできる幹線道路です。国道の指定は道路法で規定されており、この通称「階段国道」もこの法律に基づき指定されています。

この「階段国道」も国道に指定されるまでは階段はなく、狭く急な坂道でした。この坂道の周辺には竜飛中学校や小学校があり、学校の登下校時に児童・生徒らが頻繁に利用することから、怪我をしないようにと青森県により階段が整備されました

平成5年から平成8年まで青森県の整備事業として、更なる階段の整備が行なわれ現在に至っております。

この路線は昭和49年11月12日に重要な路線であることから国道指定されました。

当時から当該区間を車両が通行できるよう整備する必要があったのですが、近傍の林道等の整備により車両が通行できる迂回路が確保され、国道としての整備の緊急性が低くなったことから、現在も「階段国道」として残っているものです。

(路政課/土井 浩)

http://www.thr.mlit.go.jp/tohokunet/tiikiwotukuru/html/Q-A_michi-ipan.html

 「階段と知りながら国道指定した」のではなく、「坂道だったところを国道指定後に階段を整備した」というのが国土交通省東北地方整備局の回答だ。

 都市伝説を潰したつもりが新たな都市伝説を広めるあたりが流石サイエンスライターだなと感心する次第である。せめてネットで国交省のサイトの検索くらいしてから本を書くべきではないのか?サイエンスライター界ではそんなものを調べる必要もないというのが定石ということなのだろうか。

階段国道は当初は坂道だった

 TO698Y-C1-1という国道指定前1969(昭44)年9月20日に撮影された空中写真を掲載しておくが皆さんはどのように見えるだろうか?

 ところで、バスタ新宿は国道20号なので、バスタ新宿の階段も「階段国道」ではあるのだが。

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2016年4月17日 (日)

国道の番号の付け方はいい加減なのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その7)

Q.本書を読んでみて改めて思ったのですが、国道の番号の付け方やら選定方法はいい加減ですね。車が通行不能や階段や登山道、アーケードが国道指定されたりして、どうしてこんなことに?

A.道路というのは生き物で、都市の発展に合わせてどんどん姿を変えていきます。あまり細かい規則で縛ると、不都合が生じた時に変更が面倒になってしまいます。ちょっとした経路変更のたびに、いちいち国会で議決が必要となったら、手間がかかって仕方ないですからね。まあそういうゆるさが、政治色の強い道路の建設につながってしまっている面はありますが……。

 しかしそのわりに、国道起終点の規定などはやけに厳格に守られていたりして、こういう変さ加減もウォッチャーとしては面白いところです。

 

現代新書『ふしぎな国道』著者 佐藤健太郎氏インタビュー マニア歴17年のサイエンスライターが語る、あまりにディープな国道♥愛の世界

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40766?page=2

 せっかくなので、「第1回 高速道路ナンバリング検討委員会 配付資料」http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/numbering/doc01.htmlからもう一つ。

 「ナンバリングルールの検討」http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/numbering/pdf01/7.pdfという資料に「我が国の国道番号(1桁・2桁)ナンバリングの経緯」「我が国の国道番号(3桁)ナンバリングの経緯」 という資料が載っている。

我が国の国道番号(1桁・2桁)ナンバリングの経緯

我が国の国道番号(3桁)ナンバリングの経緯

 国土交通省としては、このように系統づけて国道には付番しているということだ。

 「国道の番号の付け方やら選定方法はいい加減ですね。」と断定するまでいい加減なのかは皆さんのお考えであろうが。

 

 ところで余談となるが、一級国道と二級国道の区分廃止後にもかかわらず、「鹿児島市と那覇市を結ぶ国道58号がなぜ一級国道並の番号を後から付番されたのか」という問いに対する答えが「道路セミナー」1972年6月号「沖縄における一般国道について」建設省道路局路政課長補佐末吉興一・著に掲載されている。

国道58号はなぜ一級国道並の番号を与えられたのか

昭和37年(1962年)の<第3次指定>で44~57号が「県庁所在地、北海道の支庁を連絡する路線を北から付番」としているので、鹿児島県庁所在地である鹿児島市と沖縄県庁所在地となる那覇市は「県庁所在地、北海道の支庁を連絡する路線を北から付番」したルールにのっとり58号となることは自然なのであろう。

 余談ついでに、「沖縄における一般国道について」から沖縄の復帰時に国道となった各路線についても「なぜ国道としたのか」が解説されているので紹介しておこう。

沖縄県の国道その1

沖縄県の国道その2

 このように各路線が道路法に定める国道の要件の何号に該当するかを確認できる。「網値」及び「路線値」については、「国道昇格はどのようにして決められるのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その5)」において紹介しているので合わせてご参照いただきたい。

沖縄県の国道その3

 また、類似の規模の他県や全国平均とも比較して妥当であると検証している。

 

 こういう実務者の書いた記事とサイエンスライター佐藤健太郎氏の本とを比較して各人が「国道の番号の付け方やら選定方法はいい加減」かどうかをご判断いただければよいのではなかろうか?

 

 ※「第1回 高速道路ナンバリング検討委員会 配付資料」には、旧道路法時の国道ナンバリングの絵もあって素敵だ。http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/numbering/pdf01/9.pdf

旧道路法に基づく国道路線図

 この「旧道路法に基づく国道路線図」では、沖縄の国道は何も線が引いていなくて那覇市附近に「26」と番号がふってあるだけだがどうなっていたのか?「沖縄における一般国道について」によると

沖縄県の国道その4

 路線としては、東京から那覇までと最長だが、実延長は最短の国道ということになるのだろうか。

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 この時(※引用者注:1953(昭和28)年の二級国道制定時)の採番でもうひとつ特徴的なのは、青森発の101号から始まって南下し、本州・四国・九州ときて北海道へ戻るという、何だか妙な順序をとったことだ。(略)。この時北海道が後回しになった理由は、筆者にもちょっとわからない。この後に行われた国道指定では、全て北海道から始まって南へ順に番号が振られている。

 

「ふしぎな国道」91頁

 上記の表を見ると、北海道が後回しになったのは1953(昭和28)年の二級国道制定時ではなく、1952(昭和27)年の一級国道制定時である。ここは佐藤氏の単純な間違いであろう。

 私なりに邪推してみると、上記の「旧道路法に基づく国道路線図」によると、東京からまずは1号で伊勢、2号で鹿児島、3号で大分宮崎周りで鹿児島と、東京から西・南に路線を指定したあとに、4号で札幌と北海道が最後になっている。この旧道路法時代の路線設定の流れを1952(昭和27)年の一級国道制定時に引き継いだのではないだろうか?念のために言うとこれはエビデンスが上記の路線図からの発想以外何もないものである。

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国道246号の永田町枝線はなぜ国道になったのか?~「ふしぎな国道(佐藤健太郎著)」の不思議(その6)

Q.本書では、国道にまつわる様々な謎が紹介されていますが、佐藤さんでもまだわからない謎はあるのでしょうか?

A.たくさんあります。たとえば国道246号永田町バイパスです。2006年に、永田町付近の都道が、いつの間にか国道246号の枝線に指定されていました。こういうケースは、他ではほとんど見たことがありません。で、この枝線は、途中で不自然に曲がっています。なんでこのルートなんだろうと地図をよくよく見てみたら、どうやら自民党本部と首相官邸の間を結んでいるように見えます。何か意味があるんだろうなと思いますが、謎ですね。

 

現代新書『ふしぎな国道』著者 佐藤健太郎氏インタビュー マニア歴17年のサイエンスライターが語る、あまりにディープな国道♥愛の世界

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40766?page=3

 図書館で調べれば分かる話を「不思議不思議」といってデマを書き散らしているのに「佐藤さんでもまだわからない謎はあるのでしょうか?」とは正直乾いた笑い以外何も出ないのだが、現代新書を発行する講談社のプロモーション記事(提灯記事)だからやむを得ないか。いしいひさいちの「前戯なき戦い」では、音羽会はもうちいと骨があったんじぇけどのお。

 

 ところで、国交省の「第1回 高速道路ナンバリング検討委員会 配付資料」http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/numbering/pdf01/7.pdfに、この「246号の枝線が国道となった理由」があっさりと書いてあった。

国道246号枝線の国道昇格理由 佐藤健太郎「ふしぎな国道」の不思議を一つ解決

 http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/numbering/pdf01/7.pdf

「〇三宅坂交差点への本線とは別に、平河町交差点から国会議事堂、首相官邸方面への分岐あり。

〇重要施設へのアクセスの向上、被災時の的確な対応等のため。」

 とのことである。

 これで「国道のふしぎ」が一つ解決だ。

 秋庭大先生なら「官邸と永田町を結ぶ地下道ネットワークは国家機密に関するため国が直接管理する必要があるのだ。」とか言ってくれそうなものだが、そんなにロマンティックなものではないようだ。

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