カテゴリー「東海道新幹線 開通50周年」の39件の記事

2020年5月 9日 (土)

東海道新幹線が予算オーバーした国鉄幹部は引責辞任したけど、東名・名神高速道路も予算オーバーしたのに道路関係者は辞めなかったのは、ズルイ??

 また扇情的な題名をつけてしまった。

 ただ、実際に国鉄関係者にはそう思っている方がいらっしゃるようなのだね。

新幹線の予算と高速道路の予算 (1)

新幹線の予算と高速道路の予算 (2)

「鉄道ルート形成史―もう一つの坂の上の雲 」高松良晴・著 日刊工業新聞社・刊 84~85頁

 引用した末尾には、「東京・神戸間の高速道路建設総事業費は、(略)、概算工事費の(略)ほぼ3倍であった。この東京・神戸間高速道路の建設費の増額は、十河が国鉄総裁が(ママ)辞めた昭和38年(1963年)当時、すでに明らかになっていた。だが、十河も島も、東海道新幹線の出発式に招かれることはなかった。」とある。

 最後の「だが」が文章が繋がらないのだが、要するにこのブログの件名のようなことを敢えて??書かなかったから繋がらないのである。著者の高松良晴氏は、国鉄OBである。

 鉄道(国鉄)ばかり予算オーバーの責任をとって、高速道路は予算オーバーの責任をとらずズルイズルイなのだろうか?

 この東海道新幹線の予算騒動について、建設省の高速道路担当官がどう見ていたかについても残されているのであわせて見てみたい。

新幹線の予算と高速道路の予算 (3)

「道を拓く -高速道路と私-」全国高速自動車国道建設協議会・刊 184・185頁

 当該頁の執筆者は、小林元橡氏(元・建設省道路局高速道路課長)である。

 「国鉄は黙っていたからあんなことになったけど、建設省は都度都度関係者に説明して了解を得ていたもんね」ということか。

 新幹線の予算オーバーが国会で問題になったときに、当時の国鉄副総裁も予算オーバーについて知らなかったと答弁していたのだが、(実際に知っていたかどうかはともかく)関係者への根回しをちゃんとやっていた建設省と社内でも秘密になっていた国鉄との差である。

 まあ国鉄もそうせざるをえない事情があったのかもしれないが、高松氏のように高速道路を逆恨み??するのはお門違いであろう。

 

 1964(昭和39)年2月29日付毎日新聞に「企業の森(242) 批判と称賛 -「新幹線物語」-」という羽間乙彦氏の連載記事が掲載されている。

 そこでも東海道新幹線と名神高速道路の予算問題を比較している。

 新幹線の予算と高速道路の予算 (4)

新幹線の予算と高速道路の予算 (5)  大石重成新幹線総局長の気持ちも分からないではないが、そのような国鉄の体制に世間は納得しなかったという。

 

 なお、ソースは公開できないのだが、当時の官僚が「新幹線の予算オーバーの責任をとって、世界銀行の担当者が更迭された」旨を語っているのを読んだことがある。

 十河信二、島秀雄は自己責任だが、騙された世銀担当者はとんだトバッチリである

 その後、高速道路については、東名高速道路、首都高速道路及び阪神高速道路に対して世界銀行の融資が行われたが、国鉄は東海道新幹線が最初で最後の融資となっているのは単なる偶然だろうか?

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  ところで、小林氏の話にも出てくる名神高速道路の予算だが、実際に予算管理に苦労し、当初計画から削減されたりした部分がある。

 せっかくなので、そういった部分についても紹介したい。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (4)  

「名古屋-神戸高速道路の構想」日本道路公団・刊 

 「本書は、昭和32年7月16日 大阪クラブにおける当公団 岸道三総裁の講演を要約し、さらに、その後、「整備計画の決定」等事態の推移にともない、若干の補訂を加えたものであります。」との説明がついている。 

 「名神高速道路は名古屋市も神戸市も通っていない」というのは、一部ではネタになっている。名古屋は東名高速道路が通っているが、神戸市には、中国自動車道の神戸三田ICができるまでは高速自動車国道のインターチェンジはなかった。 

 実は、名神高速道路の西宮~神戸間は、予算超過の帳尻をあわせるために、カットされていたのである。 

 名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (5)

 これは、名神高速道路の初期の計画図の一部分である。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (2)  

 よく見ると、西宮~神戸間の路線が描かれている。 

 実際には、この区間は阪神高速道路として施行された。(この当時はまだ阪神高速道路の計画も阪神高速道路公団もなかった。)

 また、岸総裁は「長いトンネルや橋は当面暫定2車線(片側1車線・往復2車線)とする」とも語っているが、これは予算の手当てがついたのか実際にはそのような区間はなかった。

 もののついでに、「道を拓く」からも当該関係個所を引用してみよう。

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (3)  

  当該部分は、斎藤義治氏(元・建設省道路局高速道路課長)である。先に引用した小林氏の文中に出てくる「斎藤氏」である。

 実際に暫定2車線とする長大橋、トンネルの名前もあげられている。 

 国鉄の新幹線と同様に、「まずは当初計画を通すために削減したけど、そのうち復活させるつもりだった」という趣旨が共通するのは興味深い。

 ちなみに、世界銀行も暫定2車線による施工を検討することを融資条件としていたようである。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (1)  

  これも「道を拓く」からの引用であり、大塚勝美氏(元・建設省→日本道路公団理事)の執筆部分である。

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 名神高速道路の予算カット部分で随分寄り道をしたが、 

 昨今では、「自ら責任をかぶった悲運のリーダー」的に語られることが多い十河、島氏であるが、「当時の霞が関ではこんな風に見られていた」ということで。 

 国鉄に騙された世銀の担当者はかわいそうだが、語られることはほぼ無いようだ。 

 

※この記事を書くにあたっては、同じベイスターズファンのけんちん氏のご協力をいただいている。末尾ではあるが感謝の意を表したい。

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2020年2月 8日 (土)

新横浜駅の土地を買い占めた元国鉄職員の名前、顔写真は?国鉄時代の経歴も!どうやって新幹線が来るって分かったの?~「東海道新幹線沿線の不思議と謎」栗原景・著発刊記念


―買い占められた新幹線用地(抄)

 

 1959(昭和34)年頃、篠原地区に、大阪の不動産業者を名乗る男がやって来て、地権者から土地を買い取っていった。(略)

 実は、この人物は鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた。1958(昭和33)年に東海道新幹線計画が持ち上がると、そのルートは弾丸列車計画に沿ったものになるに違いないと読み、いち早く土地の買い占めに動いたのである。バックには、大手企業グループがついていたといわれる。

 

「東海道新幹線沿線の不思議と謎」栗原景・著 実業之日本社・刊 92・93頁から引用

 

 この「大手企業グループ」による新幹線新横浜駅周辺の土地の買い占めについては、諸説あって警察も捜査したりしているにも拘らず、真相は明らかになっていない。当該不動産業者も積極的に嘘を流したりしているもんだから余計に訳が分からない。

 今回、栗原景氏が新刊で迂闊にも触れてしまったので、改めて整理したい。

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 栗原景氏の記事の根拠になっているのは、当該鉄道省OBの不動産業者が朝日新聞に答えたインタビューと思われる。


新横浜駅周辺 最大地主は西武グループ 30年前、買い占めがあった

 

カギ握るブローカー 当時の状況を語る

 買い占めに当たった大阪のブローカーはいま76歳。このほど30年ぶりに初めてインタビューに応じた。(抄)

  

 --新横浜の土地買収の真相は。

 「私が先代の西武鉄道会長、堤康次郎氏に話を持ち込んだ。」

 --だれから情報を得たのですか。

 「だれからでもない。私は戦前、国鉄の前身の鉄道省大阪鉄道局にいて、新幹線の原型となった『弾丸列車計画に携わった。新幹線のルートや駅は弾丸列車と同じと確信していた」

  

 朝日新聞1992(平成4)年3月7日付夕刊 

 「いや、新聞のインタビューで本人がそう語ってるやん。お前は何を言いがかりつけてんのさ。」と言われるかもしれない。

 ところが件の不動産ブローカー氏はとんだ狸なのである。


 数年前横浜プリンスホテル開業前、朝日新聞横浜支局の佐藤という記者が私宅に来られ横浜プリンスホテル開業に至る横浜土地物語を書くので、協力して欲しい、色々とうわさを聞いているので協力して欲しいと云われましたが、全部私がやった事で国鉄等にも西武にも何の関係もない、勿論裏金で買った事等触れて居ません。又、近江鉄道に対する景色保障支払いの事等一切触れずに終わりました。その後も、度々私宅に電話せられ逢って呉れと云われたが、一切触れずに終わらせました。故に、朝日の記事でも西武さんに都合の悪いことは一切報道されていません。

 

「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 128頁から引用

 ちーん。朝日のインタビューは西武との関係を隠すための嘘だってさ。

 ちなみに、朝日の記事は1992年3月で、光文社の本は2005年2月発行だ。朝日の記事は、「新横浜プリンスホテル」開業の半月ほど前に出された記事なので時系列的には同じもので間違いなかろう。

 じゃあ、「堤義明 闇の帝国」に書いてあることが正しいのかというと、実はそうでもない。こっちも負けずに矛盾点が出てくる。

 不動産ブローカー氏は、わざと言っているのか、ぼけてきたのかは別にして言うたびに話が違うのだ。裏取りせずには怖くて迂闊に使えないのだ。

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新横浜駅を買い占めた不動産ブローカー氏  

  件の不動産ブローカー氏は、中地新吾氏である。

  中地氏が取材等に対応しているものは、私が確認した範囲では、

  前述の朝日新聞インタビュー、「堤義明 闇の王国」に加え、疑惑当時の週刊新潮(7巻44号、1962(昭和37)年11月発行)くらいである。

  ここでは、週刊新潮の記事をもとに、中地氏はどんな人物なのか整理していく。


 警視庁捜査二課は、東海道新幹線の新横浜駅周辺の用地買収をめぐり、国鉄当局と土地会社の関係について内偵をすすめてきたが、さる9日朝、日本開発株式会社と、その東京出張所など数カ所を背任の疑いで一斉に捜査した。押収された証拠書類は、トラック2台分あったといわれているが、警視庁では、日本開発の中地新吾社長(42)が新横浜駅予定地を的確に知って土地を買い占め資金十数億円を担保なしで銀行が融資した点について疑惑をいだいているようで、「徹底的に追及する」といっている。

 

疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号94頁から引用

 当該記事の掲載された中地氏の顔写真が上に掲載したものである。

  その記事に、中地氏の経歴が掲載されているので、栗原景氏が書くように「鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた」というにふさわしいものか見てみよう。


 ところで、中地氏がいかに敏腕だったにせよ、国鉄の出身者だけに、それだけで、正確な情報をより早く入手できると疑われやすい立場にある。

 もっとも、昭和10年、19歳で国鉄に入った中地青年は、兵庫駅の列車連結手にすぎなかった。高小卒の学歴(国鉄に現存の履歴書による)では、ふつうなら中地青年も一生、連結手かなにかで終わるはずだった。

 ところが、彼は4、5年連結手をやったあと、吹田の鉄道教習所にパスし、宮原電車区の運転手になったkと思うと、たちまち指導運転手になった。(中略)

 だが、運転手生活もわずか2、3年間のことだった。やがて大阪鉄道管理局の列車課勤務になり、1年間勤めた後、判任官試験に合格して、ついに事務職に転じた。このとき中地氏は29歳(20年7月)。古い人事課員にいわせれば、「無事故で皆勤、上役の心証がよいうえに、よほど根性がしっかりしてなければ出来ないこと」という。ともかくこうして配属されたのが、厚生課だった。(中略)

 だから、昭和22年でしたか、やめるといいだしたときは、みんな惜しんで引きとめたが、『この辺で商売をやってみたい』といって円満にやめて、水産会社のブローカーになった。なんでも、物資仕入係時代につけたコネを活用したということでした。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号97・98頁から引用

 いかがでしたか? 

 朝日新聞記事の「私は戦前、国鉄の前身の鉄道省大阪鉄道局にいて、新幹線の原型となった『弾丸列車計画に携わった。」や、栗原景氏の「実は、この人物は鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた。」とよく比べていただきたい。 

  なお、国鉄退社については、1962(昭和37)年10月10日付の読売新聞は「戦後国鉄の物資を横流ししてクビになった」と報じているのでご参考まで。

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  中地氏の経歴はともかく、「弾丸列車の計画がわかれば土地は買えるだろう」という方もいらっしゃるだろう。関係する資料等を見ても弾丸列車は新横浜附近を経由することとなっているのは間違いないようだ(起点は市ヶ谷や高井戸等当時も各種の案があったが)。

  ところが、話は新横浜駅だけではないのだ。


 日本開発も、その発足のタイミングから考えて、東海道新幹線の用地調達のための会社であろう。現に発足直後、新大阪駅の用地買収に乗り出し、これにもマンマと成功している。国鉄では新大阪駅を東淀川にひそかに決定したが、そのとき、日本開発はちゃんと東淀川一帯を手に入れていた。そのもうけは数億にのぼったとウワサされている。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号95頁から引用

 

  中地氏は、新横浜駅周辺だけでなく、新大阪駅周辺も買い占めに成功していたのである。これは週刊誌記事だけでなく当時の国会でも取り上げられている。

  そして、新横浜駅と新大阪駅の違いは、「新大阪駅は、弾丸列車の予定地と違うところに駅ができた」ということである。

 新幹線新大阪駅決定の経緯

鉄道土木シリーズ9「新幹線の計画と設計」山海堂・刊 35・36頁から引用 

 戦前の弾丸列車の駅は、まさに東淀川駅であったし、戦後は梅田の大阪駅への乗り入れも改めて検討された。そのうえで今の新大阪駅に決定したわけで、弾丸列車の計画を熟知しているだけでは、新大阪駅は先行して買い占めることはできないのだ。 

  中地氏は、弾丸列車の計画ではなく、東海道新幹線の計画を何等かのカタチで入手していたと推測される。

 ついでに、同書から新横浜駅のルート決定経緯もおまけに。 

 新幹線新横浜駅決定の経緯

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  では、中地氏は、どのようにして東海道新幹線のルートを入手したのか?


  こんどの事件にしても、公明正大やで。新横浜駅については、3つの候補地があがっていた。いまの横浜駅と岸壁の方と菊名の3つや。しかし考えてもみなはれ。いままでの東海道線は正直に海岸線に沿って走っておった。だが十河さんの夢は、大阪へできるだけ早く行きつくことでっしゃろ。なら菊名になるにきまっとりますわ。事実、わたしがあそこに乗り込んだときは、すでに、国鉄のハバ杭が打ってあり、地元の表情はホクホクしていました。

  新大阪駅についても、こんどと同じようなこといわれましたが、あれも真っすぐなプラットホームつくるとすれば、東淀川デルタ地しかあらへんから、あれを買ったまで、国鉄から情報とったなんて、いい加減にしてくだはれ。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号98頁から引用

 

  まあ、前述のように中地氏は言うことが変わる。朝日新聞のインタビューのような弾丸列車という言葉は一言も出てこない。


一通の手紙

 

 数年前、堤義明宛に送られた一通の手紙がある。送り主は「中地新樹」という。中地は現在、千葉県松戸にある牧の原団地に隠棲し、齢は八十三を超えている。埼玉、神奈川と住まいを転々としたが、一時期の生活ぶりは困窮を極めていた。

 約三千五百字にのぼるその手紙はこう始まっている。

〈東海道新幹線の新大阪駅、新横浜駅設置場所発表前に、貴殿の父上の堤康次郎先生にお目にかかり、駅付近の用地買収を提言した中地新樹です〉

 兵庫県出身の中地は、旧国鉄の大阪鉄道局に勤めていた。当時の局長は、後に首相となる佐藤栄作である。「手紙」にはその佐藤もかかわった西武グループの用地買収や裏金作り、小佐野賢治と京浜急行とのトラブルでの立ち回りなどが仔細に記されていた。

 なかでも康次郎が新横浜駅周辺の土地買収を依頼した様子は生々しい。佐藤栄作の息がかかった情報員として土地の値上がりや価値上昇が見込まれる駅建設場所の情報を康次郎に流した中地は、こう記している。

〈その際父上(康次郎・筆者注)は新横浜に第二の丸の内を作ろうと決断され、今池袋で土地を売却した裏金が十億ほどあるから、西武の名前と裏金と言う事を一切明かさず、君の金で、君の名前で契約して目的達成をしてくれと申されましたので、金は即日私の名義で住友銀行都立大学支店、富士銀行自由が丘支店に預け、順次引き出し用地買収資金として使わせて頂きました。 

 (中略)

〈新大阪駅付近五万五干平米、新横浜付近二十万二千平方米を買収しておさめました〉

 東海道新幹線の駅前という一等地に、コクド・西武グループがプリンスホテルをはじめとする商業施設を数多く持っているのはなぜなのか。一度気になりはじめれば果てることなく謎は深まる。しかし、鉄道省出身の政治家として与党内でも台頭していた佐藤栄作が、かつての部下である中地新樹をパイプ役として康次郎につながっていたと考えれば、それは一転、あからさまなほどに明快な答えをもたらす。

 もちろん佐藤栄作と堤康次郎をつなぐ「政府発表前情報」がタダなはずもない。佐藤の代理としてやはり中地自身が駅建設予定地の土地を買い、土地高騰後に売ったカネは佐藤にも大きな収益をもたらしたと、中地の手紙には記されている。 (略)

  

「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 120~123頁から引用

 どないでっしゃろ。 

  前述のように、この本でも、怪しいことは幾つもあるので、佐藤栄作はともかくとして、「中地氏は、朝日とも新潮とも言うことが変わるんだね」ということだけが頭に入ればよろしいのではないか。

  

 ところで、栗原景氏は「バックには、大手企業グループがついていたといわれる。」とぼやかしている西武の名前が出てきた。

 ここで、西武鉄道の言い分も聞いてみよう。 


新横浜駅周辺の買収 

  

 東京オリンピックの前年のこと、東海道新幹線建設にまつわる土地の件では、厄介な問題が発生した。私はこれにも大いに働いた。この問題は、堤が東海道新幹線が通るであろう主要な土地の情報を得て、土地買収を手掛けたことから始まった。堤は、新横浜駅建設予定地を測量が始められる以前に知り、その周辺の地所を何万坪も買い占めていた。しかも、西武の名を出せば直ちに察知されると思い、関係する不動産会社を使って農家から買収していたのである。堤がどこから情報を得たかは、はなはだ微妙な問題ではあったが、国鉄筋からの情報には間違いないところであった。 

  

 「西武王国 その炎と影」中嶋忠三郎・著 サンデー社・刊 166頁から引用

  中嶋忠三郎氏は、堤康次郎の側近といわれた弁護士で、この本を当初出版する際には、西武が全部事前に買い占めて世間には出回らなかったといういわくつきの本である。(ここでも買い占めだ!)

  中地氏の言い分とは異なり、ここでは堤康次郎が国鉄のどこかしらから情報を入手し、西武が動くわけにはいかないので「関係する不動産会社(中地氏のことであろう)を使ったとしている。

 西武側の言い分としては、辻井喬こと堤清二氏も、自伝的小説「父の肖像」で触れているのであわせてご確認いただきたい。

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  「堤がどこから情報を得たかは、はなはだ微妙な問題ではあったが、国鉄筋からの情報には間違いないところであった。」

  では国鉄のどこなのだろうか?

  ここで冒頭の週刊新潮の記事を見ると、警視庁捜査二課が背任で捜査したとある。刑事ドラマ好きな方は「捜査二課」と聞いただけでピーンとくるのではないか?「汚職だ!」

新幹線土地買占めで用地部長ら召喚

 読売新聞1962(昭和37)年11月19日付によると、国鉄東京幹線工事局長の高坂繁朗氏や用地部長の赤木渉氏等が警察の任意聴取を受けている。

 そして、同日、中地氏は捜査陣に知られることなく海外へ旅立っていった。(「アメリカへ逃げた中地社長夫婦 国鉄用地買収事件の幕切れ」週刊新潮8巻5号88頁)

 アメリカ滞在中は、中嶋忠三郎が中地氏を訪ね、西武百貨店ロスアンゼルス店で用立てした滞在費を渡したという。(「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 126頁)

  

  「新評」という雑誌の1970年9月号に大変興味深い記事が掲載されている。

 その名も「消された汚職△いまだから話せる真相 怪談・東海道新幹線 --国鉄より早いN社の新幹線用地買収--」 

  「N社」とは、当然中地氏の「日本開発」であろう。

  この記事の著者が「隼太郎(警視庁7社会記者)」である。警視庁記者クラブ所属の新聞記者が匿名で立件されなかった汚職事件の「いまだから話せる真相」を語るというていである。

 引用は省略するが、国鉄と中地氏との関係を捜査していた警視庁では、「情報を得るため、便宜を計ってもらうため、幹部連が暗躍するとしたら、国鉄側の新幹線担当の最高幹部ではないか」「最高幹部の周辺を洗え」と『国鉄の新幹線担当の最高幹部』周辺を捜査した。

 警視庁捜査二課は、中地氏との関係では「海外逃亡」もあってか、「最高幹部」を立件できなかったが、建設会社との贈収賄で「最高幹部」を書類送検した。

 国鉄大石重成新幹線局長汚職で書類送検 (2)

 毎日新聞1963(昭和48)年7月3日付夕刊

 国鉄大石重成新幹線局長汚職で書類送検 (1)

朝日新聞 1963(昭和48)年7月8日付夕刊  

  前・国鉄新幹線総局長大石重成氏である。

  大石重成氏は結局不起訴となり、その後、鉄建建設社長となり、土木学会第58代会長となった。

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  東海道新幹線の新横浜駅周辺の用地買い占めについては、後に梶山季之氏が「夢の超特急」という小説を書いている。

 そこには、下記のような相関図が掲載されている。 

 夢の超特急に掲載された新幹線土地買占めの系図

 結局、国鉄の誰が中地氏に新幹線のルートを教えたかは分かりませんでした。いかがでしたか?

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 <参考記事>

・ 新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?買収資金を貸したのは三和銀行?

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-0be2.html

 ・新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?(その2)

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-345c.html

 ・国鉄新幹線総局長大石重成は、新幹線工事発注に係る収賄事件で逮捕直前だった

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d78b.html

 

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2019年12月15日 (日)

「いだてん」最終回記念~東海道新幹線東京駅乗入れと東京都、首都高との駆け引きをオーラルヒストリーから探る

 話題を呼んだNHKの大河ドラマ「いだてん」も今日で最終回だ。

 そこで、今回は

「東海道新幹線東京駅乗入れと東京都、首都高とがそれぞれ東京オリンピックに間に合わせるための駆け引きを関係者のオーラルヒストリーから探る」

 というやつをやってみよう。

 東海道新幹線が東京に乗り入れる際に、そのターミナルをどうするか?今の東京駅八重洲口に決まるまでに、皇居前とか新宿とかいろんな案があったのは、私のブログの読者様であればご存知だろう。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (5)

 東海道新幹線建設を担当した国鉄東京工事局の横山浩雄氏は下記のとおり語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (3)

 当初は皇居前地下や新宿が有力だったが、営業の要望で東京駅八重洲口に決まった旨語っている。

 では、当時国鉄新幹線局で営業担当の調査役だった角本良平氏はどう語っているのか?

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (10)

 土木の技術屋が決めるのなら事業費の関係で品川だったかもしれないが、営業サイドは東京駅がよいと。

 ところで、角本良平氏はこんなことも語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (7)

 東京都から山田正男(当時東京都建設部長)が交渉に出てきたら、あと3年は余計にかかったのではないかと。

 いわゆる「山田天皇」である。なるほど難関であっただろう。

 では、当の山田正男氏はどう語っているのか?

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (6)

 実は、山田正男氏は、別口で国鉄と交渉していたのだ。相手は当時国鉄東京工事局長だった好井宏海氏。

 それもルートは、新宿から日本橋川を通って東京駅に入ると。そして日本橋川は首都高と新幹線の二階建てだというのだ。昨今、日本橋の景観を首都高が壊しているとして話題になっているし、「いだてん」でも触れられていたが、実際にはもっとどでかい構造物が日本橋川を覆う計画を立てていたのである。

 

 東海道新幹線も首都高速道路も、概ねの計画自体は、東京オリンピック決定前に決まっていたが、工事を実際にオリンピックに間に合わせることが厳守となるとまた現場の話は変わってくる。

 そんな国鉄と東京都・首都高との駆け引きを井上孝東大名誉教授(当時は首都高課長)が語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (1)

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (2)

 井上孝氏は、技術屋といっても「都市計画屋」さんなのだが、都市計画サイドからすると都心の一極集中を防ぐためには、東海道新幹線の東京駅乗入れは了解し難いと。国鉄の営業と土木のどっちの好みといった問題ではない。国鉄との「戦争」とまで言い切っている。

 一方、首都高が国鉄の営業中の線路をまたぐ場合は、「国鉄が首都高から工事を受託して、線路の上空部分だけは工事は国鉄が担当する」ことになっているが、国鉄は「年に1か所」くらいしかできないと主張するので、オリンピックに首都高の工事が間に合わない。

 で、都は「東海道新幹線の東京駅乗入れを認める」、国鉄は「頑張って首都高の受託工事をオリンピックに間に合わせる」という取引が成り立ったようだ。

 

 これで上手くいくかというとそれはそれで用地交渉の相手がいる話だ。前述の国鉄東京工事局の横山浩雄氏はこう語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (9)

 有楽町付近の用地取得は、東京都が区画整理によって捻出するはずだったが、到底間に合わないので、新幹線の高架橋を建設するのに支障となる「寿司屋横丁」の寿司屋の二階を切り取りながら新幹線の工事を進めたというのだ。

実際に国鉄で寿司屋横丁の交渉を担当した西川正典氏はこう語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (4)

 「寿司屋を見るのも嫌になった」と。

  

 そんな関係者の成果は、神奈川県公文書館のウェブサイトの「オリンピック東京大会会場案内地図」で見ることができる。

 https://archives.pref.kanagawa.jp/archives/detail?cls=09_collect_govtpubl&pkey=3199612281

 https://archives.pref.kanagawa.jp/archives/mediaDetail?cls=09_collect_govtpubl&pkey=3199612281&lCls=04_media_govtpubl&lPkey=G000004000&detaillnkIdx=0

 <出典>

  横山浩雄氏・西川正典氏 「東工90年のあゆみ」別冊

  角本良平氏 「角本良平 オーラル・ヒストリー」

 山田正男氏 「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」 

  井上孝氏 「都市計画を担う君たちへ」

  

<関連> 

  古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

  http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

  前回の東京オリンピックの際の首都高速道路公団職員の声

  http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-422f.html

 

  なお、本当は日本道路公団もオリンピック関連事業として第三京浜道路を建設したが、多摩川を暫定二車線で渡る部分しかできなかった。

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2019年8月13日 (火)

古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 文春新書から「昭和の東京12の貌」という本が出ている。
 この本の編集方針は下記のとおりである。


平成31年は、天皇陛下が退位して皇太子が新天皇に即位し、5月からは新しい元号になります。また、翌年には2回目の東京五輪が開催されます。一回目の東京五輪は昭和39年に開催され、それを契機に昭和後半の日本は高度経済成長の波に乗り、経済大国の道を突き進みました。しかし、平成に入ると、バブルが崩壊し、政治や社会の様々な歪みが顕著となってきました。この間、日本の首都・東京はどのように変貌を遂げたのか。
本書は、月刊『文藝春秋』で連載した「50年後の『ずばり東京』」から、主に東京の街の変遷を描いた12本の記事を選んで収録しました。毎回違うノンフィクション作家が自身で取材するテーマや街を選び、リレー形式で執筆したもので、昭和と平成という二つの時代を筆者が行き来するルポルタージュです。


https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166612000

 その12本の記事のトップバッターが、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」である。

 本当に1964年のオリンピックは「成功」だったのだろうか、と。もちろんあのオリンピックの功績が多いことは否定しない。
 しかし、東京という街を中心に考えてみると、あのオリンピックが残した「負の遺産」は思いの外多いのである。そして、オリンピック「成功」の陰に隠れて、大きな不利益を被った人々も決して少なくなかったのである。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)10頁

 

 古市氏は、こう切り出しつつ、副題にある「首都高とモノレール」に加え、東海道新幹線に対して「東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる」としつつ、「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」として、「より理想的なルート」がとれなかった、

 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁


 とし、同様に首都高の日本橋上の高架や都心環状線の片側2車線の構造を「オリンピックの負の遺産」と指摘し、それらをキーとして、新旧東京オリンピックに係る日本、東京の世相をとりまぜて批評している。


 社会学者が世相を描き、評価するのは、私の専門外だし、とやかくいうところではないが、そのイントロになっている「首都高速道路や東海道新幹線が、オリンピックに間に合わせるために急ごしらえとなったため、理想的でないルート、構造となっており、オリンピックの負の遺産となっている。」という部分については、いち「ドボクマニア」としてモノ申したい。

 

 

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 「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、今の日本でも割と広く支持されており、首都高の日本橋を覆う高架橋や新幹線の最短である鈴鹿峠を迂回した関ケ原ルート(それに伴う新幹線の雪害)について批判的に評価されることが多い。


 しかし、結論を言うと「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、事実ではないと言えよう。


 「昭和の東京12の貌」が単なるエッセイであれば「そういう人もいるよねー」でよいのだが、「ノンフィクション作家」による「ルポルタージュ」ということであれば、とりあえず一次資料を並べることで、諸兄のご判断を仰ぎたいところである。


目次

1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?


1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?


1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?


2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?


2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?


2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


3 結論


4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

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1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?

 

 


 もしも東海道新幹線の開業がもう少し遅かったら、違う未来があったのかもしれない。
 現在の新幹線は名古屋を出たあと、関ヶ原まで北上した後で京都へと進む。実は当時、関ヶ原を経由せずにそのまま京都を目指す鈴鹿ルートが検討されたことがあった。しかし技術力と工期の都合で断念されてしまう。
 そもそも東海道新幹線はカーブが多く、それが所要時間短縮を阻む一因となっている。
(中略)ここ最近はあまり速くなっていないのだ。
 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁

 個人的には、「関原」じゃなくて「関原」だろうがと言いたいところだが、今回はそれがネタではないのでスルーして、この古市氏の文を検証していく。

 

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1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「新幹線 鈴鹿峠 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。それも大手マスコミだ。


五輪前の開業へ、鈴鹿越えを断念

 

 名古屋から大阪まで、新幹線がどんなルートを取るかは、戦前の弾丸列車構想の時代から議論されてきた。最短ルートは名古屋から西へ進み、鈴鹿山脈を越えて草津付近に出るコースだったが、鈴鹿山脈を越えるには12キロメートルの長大トンネルを掘らなければならず、しかも地下水が多いことから極めて難工事となることが予想された。
1964(昭和39)年の東京オリンピックまでの開業にはとても間に合いそうになく、このルートは断念された

 代わって注目されたのが、関ケ原を越えるルートだ。名阪間には、鈴鹿山脈と伊吹山地という2つの険しい山が立ちはだかっている。関ケ原は、2つの山脈の間にたった1カ所開いた谷だった。鈴鹿山脈越えよりも10キロメートル以上距離が長くなるが、工期と確実性が優先された。

 

東洋経済ONLINE「新幹線「利用者数最少駅」は、なぜできたのか」栗原景
https://toyokeizai.net/articles/-/141928

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(だから今回はそこじゃない。)
 天下の東洋経済がオリンピックに間に合わせるために鈴鹿峠を断念したとの記事を掲載している。

 では、実際に工事を担当した国鉄の記録ではどうなっているのか?


 ネットで気軽に閲覧できるものとしては、伊崎晃氏の「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」があげられよう。

 伊崎氏は、執筆時は鉄道技術研究所地質研究室勤務で、戦前では朝鮮海峡トンネル、戦後では青函トンネル等数多くのトンネルの調査に携わった技術者だ。東海道新幹線の路線選定にあたっての現地の地質調査も担当している。


1.  ルート決定のいきさつ

 国鉄の東海道新幹線は,計画当初名古屋-京都間のルートをいかにとるかについて,非常に大きな比較問題に直面した。すなわちここを最短距離で結べば標高1000m級の鈴鹿山脈をどこかで大トンネルにより横断しなければならず,これを避けて低処を越えるとすれば,北方へ関ケ原付近まで迂回する外ない。

 そこで昭和33~34年頃図上でいろいろルートを検討したり現地で地質の概査を行って比較研究した結果,鈴鹿越えの主ルートと目されていた御池岳~鈴ケ岳付近を貫くトンネルは多くの断層に遭遇する上,伏流水に富んだ石灰岩の部分が多いので,多量の湧水が予想され,また南方の八風峠ルートは地形上片勾配の長大トンネルとなるため工期的に非常な難点のあることが明らかとなった。

 一方関ケ原付近も大きく見れば地質的には鈴鹿主脈と大差がないが,トンネル延長が比較的短かくてすむこと,および北陸方面との連絡に至便(米原で)なため,結局ここが最終案として本決りとなった次第である。

 

「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」 伊崎 晃・著「応用地質」 Vol. 4 (1963) No. 4 199~200頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjseg1960/4/4/4_4_199/_pdf

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(もうええっちゅうの。)


 「北陸方面との連絡に至便(米原で)」と書いてある。古市氏の言うような「技術力と工期の都合」だけではなく、「北陸方面と米原で連絡する」という目的もあって関ケ原経由となったのである。
 仮に「東京オリンピックまでに開通という目標が」なかったとしても、「北陸方面との連絡」が判断材料としてある以上は、やはり関ケ原経由となったのではないか?
 
 ググるだけでなく、ちゃんと図書館に行って、国鉄が発行した東海道新幹線の工事史もあわせて見てみよう。

東海道新幹線が鈴鹿峠を通らない理由

 名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。

 

「東海道新幹線工事誌 名幹工篇」日本国有鉄道名古屋幹線工事局 編


 確かにここでも「北陸との連絡に至便」とある。さらに見逃せない一文がある。


 「こうして全線の基本ルートが定められ、(昭和)33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」
 ご存知のとおり、東京オリンピック開催が決定されたのは、1959(昭和34)年である。

そして、1958(昭和33)年8月に「全線の基本ルートが定められ」たとなれば、「鈴鹿峠をやめて関ケ原ルートに決定したのは、東京オリンピック開催決定前」である

 国会ではどのように答弁されているのか?

東海道新幹線鈴鹿峠を止めて関ケ原経由にした理由

 名古屋と関が原と申しますか、米原の間のルートにつきましては、実は、昭和三十三年の夏ごろから、まだ正式に新幹線をつくるかつくらないかきまる前から、航空測量だけはいたしておりました。航空測量の結果、ルートといたしましては、名古屋から鈴鹿峠を越えまして京都に入るルート、もう一つ、それと非常に近いところで、名古屋から八風と申しますところを通りましてやはり京都に抜けるルート、もう一つは、濃美平野を真横に横切るルート、この三つのルートを航空測量で大体測量いたしまして、このいずれにすべきかということを検討したわけでございますが、前二者につきましては、非常にトンネルが多く、工事も非常にむずかしいということで、事務当局といたしましては、前二者を捨てまして、もっぱら濃美平野を横断するという案で具体的な検討を進めてまいったわけでございます。その後、昭和三十四年になりまして、徐々に東海道新幹線の問題が予算化され、また、各地におきまして地上の測量を開始したわけでございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04606020514020.pdf

 1958(昭和33)年に航空測量をして、鈴鹿峠は捨てて関ケ原経由とし、1959(昭和34)年から予算が付いたので地上の測量を始めたと磯崎国鉄副総裁(当時)が答弁している。やはりオリンピック決定前に鈴鹿峠は捨てられているのであった。


 古市氏の言うような「東京オリンピックまでに開通という目標」があろうがなかろうが、「米原での北陸線への連絡」を考慮しつつ、オリンピック開催決定前に鈴鹿峠ルートは断念されていたということである。


 東海道新幹線が最短距離である鈴鹿峠を経由しなかったことは、少なくとも古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」ではないことが明らかになったと言えよう。
 
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1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


 
 東海道新幹線が5年余りの工期で東京オリンピック開催直前に開通したことから「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」と考えている方はそれなりにいらっしゃるようだ。
 実際の経緯をおってみよう。

官報に載っていた新幹線電車予想図


1958(昭和33)年8月ということで、東京オリンピック開催決定前の官報である。
ここに、新幹線計画に着手した「日本政府公認」の理由が書いてある。


 曰く「昭和36、7年頃には東海道線の輸送に行詰りが生ずる。したがって、早急に、新たな鉄道路線を建設する必要がある。」と。東京オリンピック開催のためではなく、「(東京オリンピック開催前である)1961、2(昭和36、7)年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由なのである。


 そして、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「工期は概ね五ヶ年で完了」とされている。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (6)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001176706

新幹線工期 (1)


新幹線工期 (2)

 


 なお、答申に添付された「幹線調査会第二分科会報告」では、「新規路線の工期は、現在線の輸送の行詰りを考えると、技術的に最短期間である5ヶ年を延ばさないよう適切な措置をとる要があり、このことは投資に対する資金効率の面から見ても必要なことである。」としている。

 では、この「技術的に最短期間である5ヶ年」の根拠は何かということについては、国鉄幹線調査室・幹線局・新幹線総局・新幹線局で東海道新幹線建設に従事した角本良平氏はこのように述べている。



 五ヵ年とした一つの根拠は、新丹那トンネル完成におそらくそれくらいかかるだろうという見通しであった。

 

「新幹線開発物語」角本良平・著(中公文庫)18頁
※初版発行1964年4月30日「東海道新幹線」(中公新書)

 

 「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」のではなく、「東京オリンピック開催決定前に、工事期間が最長となる新丹那トンネルの工期に合わせて決定された」のである。古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」ではないのだ。


 そして、鈴鹿峠ルートの「工期的に非常な難点」とは、「新丹那トンネル工事の工期5年」よりも長くかかってしまうことであった。

 

 なお、新幹線の工期については、世界銀行の融資条件もからんでくる。


 当時国鉄新幹線局に勤務していた高橋正衛の記した「新幹線ノート」によると「昭和39年なかばに完了すること。(135頁)」とある。 「世界銀行が東京オリンピック開催に間に合うような融資条件を付けた」という説もあるが、私はそのような資料を見かけたことはない。

 

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1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (4)



 この表は、国鉄東京第三工事局(東北新幹線の東京都内及び埼玉県内の工事を担当)が作成した各新幹線の規格の対比表である。
 確かに、東海道新幹線は、東北・上越新幹線よりも最小曲線半径が小さい(曲線がきつい)。これは東海道新幹線が「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのだろうか?


 東海道新幹線の曲線の規格の考え方について、当時国鉄新幹線総局計画審議室長だった加藤一郎氏はこのように述べている。



 曲線半径は、開業当初の速度は200km/hとするが、将来は250km/hの可能性も考慮して、路線計画にあたってはこれに見合う曲線半径を2,500m標準と考えた。標準軌で250km/hは技術的にも可能であり、交通機関としての馬力効率(馬力/重量・速度)からみても妥当性があることが検討の結果認められている。

 

「国鉄東海道新幹線計画について」加藤一郎・著 「電気学会雑誌」81巻879号(昭和36年12月)76頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/81/879/81_879_2053/_pdf/-char/ja

 私は鉄道車両の専門家ではないので、これの妥当性を判断する術はないが、新幹線担当の室長が「曲線半径2,500mは妥当性がある」と言っているということで。


 また、当時国鉄幹線調査室調査役だった大石寿雄氏は、このように述べている。

 (前略)この点からも検討した結果、曲線半径2,500m。許容最大カント量195mmならば時速250キロで走っても危険でないことが判明したので、最小曲線半径2,500mを標準とすることになった。

 

「東海道新幹線の構想」大石寿雄・著「電気車の科学」12巻3号(1959(昭和34)年3月号)7頁


 東北新幹線が時速300キロ台で走る現在では、当初の「将来は250km/hの可能性も考慮」というのが志が低かったということになるのかもしれないが。。。
 
 なお、この「曲線半径2,500m」についても、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「標準半径2,500m」とされている。そもそも答申では東京大阪間を「概ね3時間」で結ぶこととしているのだから、必要な仕様を満たしているのである(それ以上の速度への対応は求められていない。当時の世界最速の旅客列車は140km/h程度であった。)と言えよう。


 東海道新幹線のカーブは、確かにその後に開通した新幹線よりもカーブがきついことは間違いないが、それは東京オリンピック開催前に決定されていたことであって、古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではないのだ。


 なお、古市氏は「カーブが多く」と書いている。最高速度は、カーブの数の多少ではなく半径の長短で表されるカーブの緩急に左右されるのではないかと思うのだが。。。

 

 ということで、古市氏が「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」25頁で縷々述べている「東海道新幹線に係る五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」については、実際には東京オリンピック以外に原因がある(しかも東京オリンピック開催決定前に決められている)ことがお分かりになるのではないか?


 同25頁には、「JR東海はリニア中央新幹線を自力で建設できるくらい東海道新幹線で稼いだ。ということは、そのお金をリニア用に貯めずに、東海道新幹線の値下げにも使えたはずだ。」という記述もあるが、ここは人それぞれの政策判断の箇所だから私がとやかくいうものではない。

 

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2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「首都高 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。

 


 日本道路公団による高速道路建設が動き出したころ、東京オリンピックの開催が決まります。当時の日本の道路は、地方は劣悪な未舗装路ばかりで、長距離移動には使おうにも使えないひどさでした。
 しかしクルマは増加の一途をたどっていて、東京ではひどい混雑が発生していました。
 このままオリンピックを開催しても、失敗の烙印を押される。その解決策として考えられたのが、首都高速道路でした。
 先進国では、戦前に一般道が整備され、戦後、自動車の大衆化と高性能化に合わせて高速道路が発達しましたが、日本では一般道が劣悪な状態のまま、自動車が大衆化へと向かったため、混乱が生じたのです。
 ただ、まだ自動車による長距離移動はほぼ皆無でしたから、東名のような「都市間高速道路」より、当面の渋滞対策としての都市内高速が、オリンピックに追われる形で先に完成することになりました。
 首都高はオリンピック対策ですから、オリンピックに間に合わせなければなりません。
 そのため、土地の買収に時間がかかるルートは極力避け、川や運河の上や埋め立てた川床、海上、道路上などをフル活用して、突貫工事が行われました。
 現在、首都高が景観を悪化させていると言われる原因は、土地買収に時間がかけられなかったことにあります。
 まずはオリンピックに必要な区間を優先ということで、都心と羽田空港、そして競技場のある代々木の3点を結ぶことが優先されました。 最初の開通は、1962年12月の京橋~芝浦間(料金100円)。
 その後、64年10月の東京オリンピックまでに、都心環状線の約4分の3と、そこから羽田および初台までの区間が完成しています。

 

「【高速道路】首都高の建設はオリンピック対策だった!」清水草一
https://autoc-one.jp/word/480124/


 後述するが、これはNHKの「プロジェクトX」の影響も大きいと思われる。

 

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 古市氏は、神宮外苑の内外苑連絡道路や日本橋上の高架橋をあげたうえで、次のように述べている。

 このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。
 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られたし、いくつもの川が埋め立てられ、そのまま高速道路に転用された。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)12~13頁


 東海道新幹線と同じく、この古市氏の記述に対して、一次資料で検証してみよう。


 ここでは、東京都の山田正男氏(下記参照)の著作を中心に検証していく。山田氏は「山田天皇」と呼ばれ、戦後の東京都の都市計画、都市開発(首都高、五輪対策、新宿副都心、多摩ニュータウン等々)に深く携わった方であることは言うまでもない。

山田正男
首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦
対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 山田氏はズバリ「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と述べている。古市氏とはまるで正反対ではないか。

 

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2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?

 

 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁

 

 ここで、首都高計画と東京オリンピック誘致の経緯をみてみよう。


1953(昭和28)年4月28日 首都建設委員会が高速道路網の新設を建設省及び東京都に対して勧告。

1957(昭和32)年7月20日 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用することを定めた。

1957(昭和32)年8月5日 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。東京都が作成した街路、河川等を利用した首都高の原案の審議検討を開始。

1957(昭和32)年12月9日 東京都市計画高速道路調査特別委員会が、東京都市計画地方審議会長 安井誠一郎(東京都知事)あてに東京都市高速道路網計画を報告。

1958(昭和33)年1月22日 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1958(昭和33)年12月5日 建設大臣が、東京都市計画街路に都市高速道路を追加決定するための案件を東京都市計画地方審議会に付議。

1958(昭和33)年12月10日 東京都市計画地方審議会が一部を留保して原案どおり議決。

1959(昭和34)年1月30日 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年2月25日 日本道路公団(現・東日本高速道路株式会社)が西戸越~汐留間の工事に着手。(後に首都高に移管)

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年5月26日 東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月17日 首都高速道路公団(現・首都高速道路株式会社)発足

1959(昭和34)年8月7日 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

 古市氏が「首都高の計画自体はオリンピック以前からあった」と述べているところを詳細に落とし込むと上記のとおりである。

 前述のとおり、東海道新幹線は、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、「昭和36、7年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由であったが、首都高速道路も、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、先に山田氏の対談に出てきた「昭和40年の交通危機に対する解決策」であった。

 


(前略)主要幹線街路の主要交叉点の交通量は、現在1日3万台以上となっており、なかでも江戸橋、祝田橋の如きは、8万台から9万台の自動車交通が通過している。従って、主要幹線街路の主要交叉点の交通量と街路の交通量とを比較すると、交通量、自動車保有台数の増加傾向からみて、昭和50年には、23区全部の自動車は、120万台と思われるので(現在は32、3万台)、多少交叉点によっては凸凹はあるとしても、昭和40年代にはラッシュ時における都心部の交通は、まったく麻痺状態に陥ることが推定される。ということは、自動車が歩くスピードと異ならないということになるのである。

 

「都市高速道路を中心とした東京都の道路政策」山田正男・著 「道路」昭和32年12月号
※「時の流れ都市の流れ」山田正男・著249頁に掲載

 

 これを解消するために、1965(昭和40)年全線開通を目標に首都高速道路を計画したのであり、東京オリンピックのためではない。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5) 首都高速道路当初の開通時期

 東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。

 詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 オリンピックに関係なく、「つとめて不利用地、河川又は運河を使用」「止むを得ざる場合には広幅員の道路上に設置」とある。
 オリンピックが決まってから間に合わなくなって「空中作戦」になったのではなくて、オリンピックが決まる(招致決定もしていない)1957(昭和32)年7月に河川上を利用することは建設省の方針で決定していたのである。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった
 そして、それは新聞報道等で既に広く知られるところとなっている。(1957(昭和32)年9月29日付読売新聞)

1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞
オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2
 中央区あたりを除いて、ほぼ現在の首都高速のネットワークに近い路線を「できるだけ既設の幹線道路や河川など公有地に建設」する案が公表されている。


 そして、これが1962(昭和37)年に作成された当初の都市計画の案である。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (3)


 古市氏は「首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直された。普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。」とするが、実際には、オリンピック招致以前に、道路や川の上をフル活用した計画が出来ていたのである。

 そして、前述の「昭和40年の交通危機に対する解決策」なので、開通目標は1965(昭和40)年度内の全通を目論んでいた。


 では、古市氏が言う「オリンピックが正式決定してからの計画の見直し」とは何なのか?


 この1962(昭和37)年段階の計画図が現在と違うところといえば

・日本橋川区間については、中央・総武線を跨いでから江戸橋ジャンクションまでは日本橋川を半地下として通過している。(現在の築地川区間のような構造)
・江戸川ジャンクション以東の日本橋川区間は通過せずに、人形町・浜町附近を両国まで高架で通過している。(この区間は東京オリンピック後に、日本橋川の上空を高架で通過し、箱崎ジャンクションを経由するルートに変更となった。詳しくはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html
・英国大使館、三宅坂ジャンクション周辺が半地下になっている。
・7号線小松川線の終点の接続道路が違う。


 といったあたりだろうか。(当然微小な修正は沢山ある。)

秋庭大先生2
 オリンピック決定前の首都高計画とオリンピック決定後の首都高計画はさほど変わらない。下図は首都高速道路公団発足直後のパンフレットに掲載された路線図である。

首都高速と東京オリンピック (7)
 この二つの図面を見比べたところで、古市氏の「このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。」という文にご納得がいくだろうか?


「だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られた」と古市氏は言うが、オリンピック決定前から「日本橋の上」だったし、なんなら当初は「日本橋の下」だったわけだ。

 


ということで、首都高が川の上を曲がりくねって走ること自体は、東京オリンピック招致前からほぼ決定済で「五輪に間に合わせた急ごしらえ」でも「負の遺産」でもないのである。そういう交通政策、景観政策が誤りだったという批判は有りうるが、五輪に間に合わせたせいではない。


山田氏の言う「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」の意味が分かったであろうか?

 

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2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?

 

 


 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁


 古市氏は、首都高速がオリンピック決定後に「計画を見直して、絶対間に合わない工事に「空中作戦」を採用した。」旨書いているのだと思う。(この辺、文脈がはっきり読み取れない。)
 
ところで「空中作戦」という言葉は、首都高が河川上を通過することを指す言葉としては、割と一般的に使われていると思うが、この言葉が使われるようになったのは、2005(平成17)年にNHKで放送された、プロジェクトX「首都高速 東京五輪への空中作戦」からである。


そして「空中作戦」が意味するところは厳密には何なのか?プロジェクトX以降は、主に3冊の書籍でその内容が語られている。

 

 


 オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。

(中略)

 そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。

「”空中作戦”はどうか」

 いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。

 

「プロジェクトX 挑戦者たち 28 次代への胎動」日本放送出版協会(2005年) 74~75頁

 


山田の主張によって、首都高速道路公団が設けられ、一号線(羽田・中央区本町間)、四号線(日本橋本石町・代々木初台間)を中心とする約三十二キロの建設がオリンピック関連事業として建設されることになった。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

「空中作戦だ」

 日ごろ冗談一つ言わない上司の不可解な言葉に、部下たちは目を白黒させる。

「俺の言っている意味が分からないのか」

 山田はわざとうんざりして言った。皆の戸惑いが、実のところ、いまは心地よい。

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

「じゃあ、君たちはどうしたらオリンピックに間に合わせられるんだ」

 大声で怒鳴ると、部下たちは従うしかなかった。部下だけではなく、安井の後任である東龍太郎都知事も、そして「影の知事」といわれ、実際の都政を仕切っている鈴木俊義副知事も少し首を傾げはしたものの了承した。

 こうして「空中作戦」は実行された。高速道路はまるで鉄でできた大蛇のように、東京の都心をのたうち回り、時には三回も四回も交差しながら、ビルの間を通り抜けた。

 生きた河川や由緒ある日本橋の上を高速道路が屋根のように通る形になったのも、この時である。

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀・著 2010年(鹿島出版会) 253~254頁

 


 首都高の建設ぶりを、世間は「空中作戦」と呼んだ。川や道路という公共用地の上の、文字通り「空中」に、みるみる高速道路ができていったからだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

「首都高速の謎」清水草一・著  2011年(扶桑社) 50~51頁

 

 興味深いのは、著者によって「空中作戦」の意味が違うのである。

 プロジェクトX及び東秀紀氏は
・オリンピック決定後に首都高を空中に上げた
・空中作戦と呼んだのは山田正男氏


 清水草一氏は
・首都高が空中に上がったのはオリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼
・空中作戦と呼んだのは山田ではなく、世間


 私が先にお示しした時系列と比較すると、清水氏の方が時系列の並びは正しいと思われる。

 

 では、当時の新聞や雑誌で「空中作戦」の用例を調べてみようと私は国会図書館等に通い詰めた。
 実は私が探した範囲ではプロジェクトX以前の使用例が見つからないのである。


 新聞のデータベース、首都高の広報誌、東京都や首都高職員が書いた建設関係業界誌の報文等をかなり力を入れて探したのだが、プロジェクトX以前は私の能力では見つけられないのである。


 プロジェクトX及び東秀紀氏の著書では、山田正男氏が「空中作戦」と呼んだことになっているが、山田氏の著書、対談集を読んでも「空中作戦」という言葉は出てこない。
 そして、当該番組を見ても「空中作戦」の言葉は、東京都や首都高の当時の担当者の口から出たものではなく、ナレーターのト書きの部分で出ているのだ。


 どなたかこの秘密が分かった方は是非私に教えてほしい。「空中作戦とはだれがいつどのような意味で発言したのか」を。
 (「演出の一環」ですかね。。。)
 
 ということで、「空中作戦」という言葉を使うなら、その出典が明らかでない現状では、「空中作戦(清水説)」とか「空中作戦(プロジェクトX説)」等と使い分けることを提唱する。


 そしてその視点で古市氏の「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」を読んでみると、どうやら古市氏は、内容を読むと「プロジェクトX説」に近いようだが、文献としては「首都高速の謎」をあげているので「清水説」なのだろうか??どちらでしょうか?

 

 このような現状で「ノンフィクション」「ルポルタージュ」に「空中作戦」という用語を定義づけなしに使うことの妥当性については、諸兄がご判断いただければ。

 

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2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

 

 

 首都高の整備はオリンピック後も進められたが、長らく深刻な問題に苦しめられることになる。渋滞だ。

 特に、片側2車線だった都心環状線を片側3車線にしておけば、だいぶ事態は緩和されただろうと言われている。様々なルートから車が流入する環状線が片側2車線では、渋滞は必至だというのだ(清水草一『首都高速の謎』)。これも、首都高の建設を急いだことの代償だろう。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)14頁

 

 ここで山田正男氏の登場である。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (2)
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (1)
「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」東京都新都市建設公社まちづくり支援センター

 

 実際に首都高速計画の立ち上げに関与していた山田氏によれば、
・もともと戦災復興の都市計画で街路を拡げようとしたところができなかった。
・都市高速道路はランプが近接して交通の織り込みが発生するので交通能率が落ちる。
・別ルートを作った方がまし。
・大蔵省は採算性から片側2車線でも反対していた。
 といったところか。これも「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではなさそうだ。

 なお、「別ルートを作った方がまし」という言葉を裏付けるかのように、東京オリンピックに向けての新設工事中に既に新しいネットワークの検討を行っている。
 下記は昭和37年段階での「東京都市高速道路将来計画図」である。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)


 山田の「別のルートを作った方がまし」の言葉どおり、片側2車線の都心環状線を補完するように「内環状線」が神田川の上空を通過し、「中環状線」が(現在とは違い)目黒川の上空を通過している。
 「オリンピックに間に合わせるため」だけではなく、オリンピック終了後も首都高速を河川の上を通過させる気マンマンだったのだ。


 結果的には中環状線は、目黒川の上空から目黒川の地下を潜ることに変更され「中央環状線」として開通した。
 内環状線は、ついに工事に着手されることはなかった。これが開通していれば都心環状線の渋滞は大幅に解消されていただろう。

 

 というわけで、首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではない。ただし、行政の施策としては、「別のルートを作ることは長い間できず、結果的に長期の間大渋滞を発生させていた」ということの批判を免れるわけではない。ただ「五輪の負の遺産」ではなく「道路政策失敗の負の遺産」というだけである。

 

 ちなみに、総武快速線の馬喰町駅は国鉄で一番地下深い駅として知られていたが、地下深くを施工しなければならなかった理由の一つとして両国から神田川にかけて首都高速内環状線の杭を打つ計画があったところ、それを避けているからである。あの階段を毎日昇り降りする方は「首都高の負の遺産」に苦労させられているわけだ。
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-7868.html


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2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?



古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5)
東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

 ところで、前述の「東京都市高速道路の建設について」では、「設計速度は1時間60粁を原則とする」とある。しばしば「首都高速道路は、オリンピックに間に合わせるために河の上を曲げて通しているので、(100km/h出せる東名や名神等の高速道路とは違い)60km/h」しか出せない。」と言われることがあるが、これも「オリンピック招致前からの仕様」であり、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではない。

古市氏はそこについてあまり触れていないため、詳細はここでは割愛する。

 

 

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3 結論


 以上、だらだらと述べてきたが、古市氏が指摘する首都高と東海道新幹線の「負の遺産」については、多くが「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではないというのが私の結論である。
 首都高建設や東海道新幹線建設にあたって「東京オリンピックにまにあわせる」ということが大義名分となって広く関係者に共有され、そのおかげもあって首都高や東海道新幹線が東京オリンピックに貢献できたということは事実ではあるが、なんでもかんでもが「五輪に間に合わせた」わけではないのだ。

 


<誤解されたまま広がっている東海道新幹線建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・オリンピックに間に合うように東海道新幹線の工期5年を設定

・オリンピックに間に合うように鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択

 


<実際の東海道新幹線建設の経緯>

 

・在来線が昭和36、7年頃にはパンクする虞。

  ↓

・一番長く工事がかかる新丹那トンネルの工期にあわせて、東海道新幹線の工期5年を設定

・所要時間、曲線等の規定を決定

・新丹那トンネルの工期より長くなること、米原で北陸線に接続することから鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択。


 ↓

・東海道新幹線工事着工

  ↓

・東京オリンピック開催決定

 


<誤解されたまま広がっている首都高速道路建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立

  ↓

・オリンピックに間に合うように「空中作戦」で高速道路を川の上に

 


<実際の首都高速道路建設の経緯>

 

・都内の一般道が昭和40年にはパンクする虞。

  ↓

・昭和40年に間に合うように高速道路を川の上に

  ↓

・日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)

  ↓

・首都高速道路公団法が国会で成立

  ↓

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立(日本道路公団から先行部分を引き継ぎ)

 

 世間で広がっている誤解と実際の流れを再整理してみた。

 これを元に、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を読んでいただければ。

 

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 上記で「日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)」と書いた。

 実際には、「オリンピック開催決定前」の昭和33年度に「首都高速道路公団ができる前に日本道路公団が」「川や公園の上を活用して」高速道路建設に着手していたのである。

 ※詳しくは、http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

 

 話は変わるが、先日のブラタモリで、白金の住民が公園の自然を守るために、首都高速道路のルートを変えた話が出てきたのを覚えている方はいらっしゃるだろうか?

 

 それが、この日本道路公団が先行着手した部分なのである。そして折衝等に時間がかかった結果、オリンピックには間に合わなかったのである。

 「空中作戦」にしたから有無を言わせず、オリンピックまでに間に合わせるための工事ができたわけではないのだ。

 そして「江戸っ子はオリンピックに向けた高速道路の工事に反対するなんて野暮なことはしなかったんだ」というのも眉唾なのだ。

 

 古市氏は、「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」のなかで、東海道新幹線に係る「用意買収係の悲哀」について紹介している。

 私も、当時首都高建設に従事した職員の悲哀について紹介している。是非こちらもお目通しいただきたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-422f.html

 

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4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

 東京モノレールについては、私はあまり詳しくないのだが、一点だけ古市氏に判断の参考にしていただきたい材料があるので紹介しよう。



 東京モノレールの親会社であるJR東日本も、自ら東京モノレールに死刑宣告を出すような計画を打ち出している。羽田空港と都心を結ぶ羽田空港アクセス線を整備し、東京や新宿、臨海部まで一本の電車で行けるようにするプランだ。
 ものすごく便利そうだ。しかしここで浮かんでくるつっこみがある。
「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」

 もちろん、東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる。だがそもそも1964年のオリンピックがなければ、東京モノレールの計画自体なかっただろう。そして東京モノレールがなければ、羽田空港アクセス線がもっと早く整備されていたかも知れない。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)21~22頁

 

 これに対する直接の回答ではないのだが、「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」に関する参考資料のご提供である。


菅 (前略)ただ、中央線の都心部の増強を図りたい気持ちは国鉄のなかに多分あって、かなり東西線のルートと重なるわけですよね。東西線は、結果的には日本橋を通って江東区のほうへ抜けていきますけれども、また西船橋で国鉄とつながるんですから、あれこそ営団なんかにやらせずに、国鉄が自分でやってもおかしくなかった線のはずですよね。

角本 ええ。ですから、東西線を国鉄が自分でやってくだされば、営団の資金をもっと新しい線に向けられましたね。

鈴木 国鉄がそれほど都市内の交通に関心がなかった。

角本 というより、お金がない(笑)。やはりそれだと思う。「国鉄の本来の使命にもっとお金を入れたい」ということ。特に東海道新幹線もやっていましたから。

菅 そういうことなんでしょうね。私たちが(国鉄に)入った1960年代半ばにも、「都市鉄道というのは儲からない」という議論がありました。

 

「角本良平オーラルヒストリー」交通協力会

 

角本良平(元 国鉄)
菅建彦(元 国鉄)
鈴木勇一郎(立教大学術調査員)

 

 東海道新幹線建設費用を捻出するために、既に建設が決まっていた地方路線の予算を削っていた当時の国鉄に、「羽田空港対策の余裕資金があったか」という観点でご参考にしていただきたい。

 既存の通勤電車のラッシュ対策にも手が回っていなかったのが当時の実態である。首都圏の通勤対策(5方面作戦)が行われたのは、東海道新幹線開通後である。そしてその巨額な投資は赤字転落した国鉄経営を更に苦しめて行ったのである。

 

 ※オリンピック当時の全国でのモノレールブームについては、広報ひめじに詳しい。https://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s30/pdf_s39/19640215339.pdf

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2018年9月 2日 (日)

貨物新幹線の詳細な計画を国鉄新幹線総局OBが残していた

 「東海道貨物新幹線は世界銀行向けのダミー、ポーズだった」説に執拗に反論している私であるが、貴重な資料を収集したのでご披露申し上げる次第。

第13話=世銀借款

 

 この貨物問題に関しては、当初から国鉄側も頭を悩ませていた。技師長・島の頭には、のっけから貨物新幹線構想の「貨」の字もない。速度の違う旅客と貨物が同じ路線に混在するからこそ、東海道の輸送力がますます逼迫するのだ。(略)ハイウェイのように速度によって棲み分けさせることが新幹線の大前提である。しかし、国鉄内部にも根強い貨物新幹線論者が存在したし、なにより当時のアメリカでは、旅客輸送は「5%ビジネス」であった。鉄道輸送の95%は貨物であり、旅客はもっぱら自動車と航空機に移っていたのである。

 そこで、世銀への説明資料には、貨物新幹線の青写真も挟み込むことになった。将来は貨物新幹線も走らせたい・・・・・・という世銀向けの苦しいポーズである。当時のパンフレットや世銀向けの説明資料をみると、貨物新幹線のポンチ絵、つまり簡単な設計図が入っている。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 193~194頁から引用

 この高橋団吉のような一面的な見方をする方は割と多くいらっしゃるのだが、その根拠としては島秀雄氏の「D51から新幹線まで」だったりするのだろう。島秀雄氏はこの中で下記のように語っている。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (13)

 

 ところが、私が以前からブログにUPしているように貨物新幹線の実現に向けての現場の動きは着々と行われている。

 これについて実際に貨物新幹線を担当していた角本良平氏は、「角本良平オーラル・ヒストリー」において、下記のとおり述べている。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (14)

 この辺の経緯は、かつて「貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)」にまとめたところだ。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6d9d.html

 

 ところで、この角本版の貨物計画について、詳細に記している国鉄職員の手記があった。

 当時、国鉄新幹線総局に勤務していた高橋正衛氏による「新幹線ノート」である。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (1)

 ここに出てくる「開業準備委員会」は、

東海道新幹線開業準備委員会

 東海道新幹線開業後の運営に関する基本的事項及び工事過程における重要事項について総合的に調査審議するため、(昭和)37年10月設置した。

 

「昭和39年 交通年鑑」から

 ここで高橋氏が記述している場面は、十河総裁らが新幹線工事費不足等を原因に更迭されたことを受けて開業に必要(最小限)な範囲の工事範囲を議論しているものだ。新幹線の編成を6両編成にするような予算削減策も検討されたことがうかがえる。

 ここで「三、 旅客営業の開業に必要な主要設備とする。」という記載がある。つまり、「貨物は昭和39年10月の開業には含めない。」ということがここでオーソライズされたということではないか。

 よく「予算不足のため貨物新幹線は完成しなかった」と言われるが、その具体的な経緯がここに示されていると言えるのではないか?

 この後「新幹線ノート」の158頁にも「新幹線工事費の(略)最終予算額のなかに貨物輸送計画の予算は、一部貨物駅用地等の取得を除き含まれていない。」とある。

 例えば鳥飼貨物駅の用地買収費と、開通後に工事を行うことが困難な本線上空通過部分の構造物のみといった予算配分がなされたのではないだろうか?

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 ところで、東海道新幹線の建設誌(建設史)は、国鉄としての全体版がなく、各工事局毎にバラバラと出版されているのだが、これについても高橋氏は、全10巻(各500ページ)の東海道新幹線建設史の出版が部長会で承認されていたが、予算超過問題の中で無駄な出資を押さえるべきとの理由で中止され、後日各工事局で個々に発刊されることとなったとその背景に触れている。

 予算不足でできなかったのは、貨物新幹線だけではなかったのである。

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 閑話休題。貨物新幹線計画に戻ろう。

 高橋氏は角本氏から貨物輸送計画について聞き取りをしたり、資料を借りて書き写したりしている。それが「新幹線ノート」に掲載されているのである。

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (2)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (3)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (4)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (5)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (6)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (7)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (8)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (9)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (10)

 静岡の「抽木」は「柚木」の誤りであろう。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (11)

 名古屋貨物駅の「日比津」は現在の車両基地である。当時の国鉄広報誌ではここも「貨物線用の工事」として紹介している。貨物新幹線用工事の名残は鳥飼だけではないのである。

 また、貨物新幹線は在来線とは直通できないわけだが、市中に「デポ(貨物取扱所)」を設けることでカバーしようとしていたということだろうか?

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (12)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (15)

 「M補佐」は、「角本良平オーラルヒストリー」に出てくる「貨物輸送設備・制度」担当の「森繁」氏のことであろうか。

新幹線総局

 島秀雄氏や高橋団吉氏のいうように貨物新幹線が世銀融資を獲得するための見せかけの方便にすぎないものであればこのような沈滞感は醸し出されないことであろう。

 世銀のためのダミーであれば、嘘をついた十河や島もいないし、何もせずに適当に世銀向けの言い訳だけ作っておけばよいはずである。

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 高橋氏が触れている貨物輸送計画であるが、運輸界1959年6月号「東海道広軌新幹線について」矢田貝淑郎(国鉄幹線調査室総務課) ・著 10頁にでてくるA案、B案、C案とは整合がとれていることを付言しておく。

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (1)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (2)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (3)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (4)

 

 なお、高橋氏の「新幹線ノート」によれば、佐藤大蔵大臣がIMF年次総会に出席の際に世銀の意向を打診したのが1959(昭和34)年9月、島氏も触れる世銀ローゼン氏が来日したのが1959(昭和34)年10月であるから、この矢田貝氏が執筆した貨物新幹線の計画は「世銀に言われてでっち上げた」にしては時空を遡りすぎであることを申し添える。

 

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(関連記事)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d2af.html

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-a11f.html

貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6d9d.html

新幹線予算超過の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6bd1.html

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2018年1月10日 (水)

「夢の超特急」は、国鉄社内からの「新幹線なんかできっこない」とバカにする気持ちを込めた蔑称だった

 講談社の「現代ビジネス」というウェブサイトに、川口 マーン 惠美氏が「ドイツ版新幹線がお披露目した「夢」のようなポンコツっぷり」という記事を寄稿した。

 私はドイツの新幹線には関心がないのでスルーするとして、文中「東海道新幹線の構想が公にされたのは1957年。しかし当時は、鉄道は過去の交通機関で、これからは飛行機と自動車の時代という風潮が強く、「できないもの、無用のもの」という揶揄を込めて、「夢」の超特急と呼ばれていたという。」という記載に対して、鉄道趣味者の方から「初耳だ」「ソースを出せ」「どうせマスコミが(ry」といったリアクションが見受けられた。

 

 私は天邪鬼なので、「じゃあソースを探してみるか」とちょいと探したら、すぐ出てきた。

 

 国鉄幹線調査室調査役から新幹線局営業部長等を歴任した角本良平氏はこう語っている。角本氏は、中公新書「東海道新幹線」等の著書もある。

高嶋 「夢の超特急」という言い方はいつごろ出てきたんですか。

角本 最初だと思います。誰がつけたか、私は知らない。だけど、最初のころでしょう。これは2つ意味があって、「夢の」というのは「どうせできっこない」ということです。営業局の人たち、彼らは「どうせできっこない」と思っていた。実際に予算がついて、建設が始まってからも、非常に多くの営業局マンは、そう思っていた。ということは、我々、期限を切っているでしょう。「そんな期限でできるはずはない」と。実際は半年期限延びたわけですから。

二階堂 「新幹線自体が永久にできるわけない」ということではなくて、「そんなに早くできるわけがないということ。

角本 そうそう、そういう意味。それからそんなに速い速度のものができるわけがない」と、そんな意味もあったと思います。ですから、篠原研究所長、それから海軍出身の技術屋、皆それを実際にやったことがないから、「そんなのできるだろうか」という疑問でしょうね。営業から言えば。

二階堂 「できっこない」と思っていたのは営業局、という認識が、角本さんのなかで強いわけですね。

角本 私は、そう思っています。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」交通協力会・刊

 「できないもの」と揶揄して夢の超特急と呼んでいたのは、マスゴミではなくて最初から国鉄社内だったということだ。

 角本良平氏一人のコメントだけでは不十分かもしれない、角本氏と同時期に幹線調査室の総括補佐を務めていた矢田貝淑朗氏のコメントも見てみよう。

幹線調査室

中村 幹線調査室が発足した段階では、もちろん予算もついていなければ、計画も雲を掴むようなものであった、と。

矢田貝 もう何もなかったはずです。私が行ったときですら、ほとんど何もありませんでしたから。「弾丸列車、夢の超特急、速度が凄いらしいが、矢田貝さん、そんなことできるの?」とどこへ行ってもそうだったのです

中村 その段階ではもう、時速200キロという数字は出ていましたか。

矢田貝 出ておったんです。だから「夢の超特急」という言葉があったんです。これはそんなことできるわけがない」という意味の「夢」で、部内でバカにされるときの言葉なんです。そろそろ幹線調査室から幹線局になる頃にも、有名な作家で「万里の長城、戦艦ヤマトと並ぶ大バカだ」と言ったのがおったじゃないですか。

二階堂 阿川弘之です。

矢田貝 そうだ。そうやって笑い物にされたり、バカにされたり、「普通の鉄道なら地方に利益もあるだろうが、田んぼに万里の長城を造られたって困る」という雰囲気だったんですよ。そういうときですから。

矢田貝淑朗オーラル・ヒストリー」交通協力会・刊

 角本氏は「国鉄営業局が」と語っているが、矢田貝氏は「どこへ行ってもそうだった」「部内でバカにされる」と語っている。

 川口 マーン 惠美氏の肩を持つつもりもないし、余計な詮索をするつもりもないが、ジャンピング土下座を自主的にやった方がよい方もいらっしゃるのではないか。

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(追記)

須田寛は夢の超特急について嘘をついているのではなか

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4184?page=2

 JR東海の須田寛氏は「「夢の超特急」は、マスコミの方などが使われたものですね。国鉄(当時)自身では、1度も使っていません。」と語っているようだ。

 当時幹線調査室に居た二人と須田氏のどちらを信用するかが問われているな??

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2016年8月16日 (火)

恵知仁( @t_megumi )氏「幻の貨物新幹線」半世紀残った遺構、来年にも見納めに→いや、まだまだ残るわな

 「乗りものニュース」に、「幻の貨物新幹線」半世紀残った遺構、来年にも見納めに 東京〜大阪5時間半 という記事が載ったおかげでその瞬間から私のブログのアクセス数がガンガン増えたので喜んでいる次第である。

 「三島高架橋」で検索すると、阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅がヒットするもので。

 ところで、ライターの恵知仁氏は、「利用価値がないながら、管理の手間はかかるこの「貨物新幹線計画」の痕跡、あと1年ほどで消えてしまう見込みです。」としているが、実際のところは、貨物新幹線の「ジャンクション」はまだまだ現役であり当分消える見込みはないのである。

 大阪じゃなくて名古屋なのだが。で、今日なおバリバリ利用されている。

 東海道新幹線の貨物駅は、東京(品川(当初)→大井)、静岡(柚木)、名古屋(日比津)、大阪の4箇所に計画され、それぞれ用地買収も実施済だったのであるが、恵氏の記事同様、名古屋でも貨物駅への線路が新幹線の本線を跨ぐため、そこが工事され、完成しているのである。

 

 東海道新幹線の建設誌には、下記のような名古屋駅と貨物駅の配置図が掲載されている。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (1)

 実際には、貨物新幹線は実施されなかったため、全て旅客電車の基地に転用されているが、もともとは貨物線が新幹線の本線をオーバーパスするための構造物が本線の開通にあわせて建設されているのである。

 「交通技術」1963年7月号には「工事たけなわの新幹線名古屋地区」と題した記事が掲載されている。

 ホームをはずれるところから、名古屋貨物駅としての日比津ヤードとを結ぶ貨物線上下2線が分岐する(以下略)

 

「交通技術」1963年7月号34頁

 

 貨物ヤードは庄内川沿いの日比津に予定されており、貨物線は中村高架橋のところで新幹線の下り本線を乗り越す。貨物扱いは来年10月1日開業と同時に行わないことになっているが、ここでは上下本線に挟まれており、開業後では施工不能となるので、日比津への乗越部のところまで施工済である。

 

「交通技術」1963年7月号34頁

 掲載されている施工写真を見ると、まさに大阪で解体工事が進んでいる三島高架橋と同じような構造物が見て取れるのである。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (2)

 

 現在は下記のような状況である。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (3)

 東京方から大阪方面を望む。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (4)

 大阪方から東京方面を望む。右側の高架橋が貨物駅への分岐線となるはずだった。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (5)

 「日比津線」というのか。

 前掲の図面からすると赤丸のあたりである。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (6)

 件の大阪の案件も完成していればこのような姿を見せていたのであろう。

 なお、余談ではあるが、恵知仁氏は記事中

 東京新聞が2013年に報じたところによると、インフレによる東海道新幹線の建設費増大も「断念」の理由とされています。

 としているが、インフレによる東海道新幹線の建設費増大は、上記の「交通技術」記事にも出てくる「貨物扱いは来年10月1日開業と同時に行わないこと」の理由というのが正当であろう。

 昭和40年3月の国会では、国鉄柴田常務理事(当時)が

 国鉄が新幹線を開業いたしますまでには、先生も御承知のとおりに予算不足の問題がございまして、昨三十九年の十月に旅客の輸送開始をいたすまでの間に、いろいろとやむを得ない予算上の事情から、計画の変更と申しますか、一部をおくらせざるを得なかったということがございまして、その結果として、貨物輸送は、できれば一番最初は三十九年の十月、昨年の十月同時に開業するという計画でございましたけれども、ただいま申しましたような事情でおくれざるを得ない、ただいまの予定では四十三年の秋、これはどうしてもその時期になるという事情がございます

との答弁をおこなっているところだ。

 また同様に

「いつの間にか貨物列車計画は立ち消えに」(公益財団法人 交通協力会『新幹線50年史』)なってしまいました。

 とも書いているが

 「国鉄線」1972年3月号では、下記のように明確に比較検討したうえで在来線の貨物で用が足りると判断されているようだ。

貨物新幹線をやらなかった理由

 恵知仁氏も、もうちょっとググってみるとかしてはどうか。

 「乗りものニュース」のビジネスモデルとしては、大手ポータルサイトへの転載によるレベニューシェアが柱だろうから、取材やライターに大したコストはかけられないだろうというのは理解しているのだけれども。

(参考)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

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2016年5月14日 (土)

「国鉄バスに羽島を譲った?」岐阜羽島駅の駅名決定の理由とは?「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その3)

角本 (前略)ついでに今言っておきますが、岐阜羽島という駅名を決めたことについては、中畑三郎さん(※引用者注:新幹線総局 総務局長)の功績。ということは、局長会議か理事会議か私は憶えがありませんが、この問題を議論すると き、岐阜県内に1駅つくるかどうかを決定しないまま相談に出していると思います。やはり岐阜県内に1駅つくらなければ運転上困る。しかも、滋賀県の側は米原のほうから来る。したがって、関ケ原の難所を通る、という前提で議論しまして、そのときに1駅をつくる。「その場所は羽島だ」と。ところが、 羽島という場所は岡山県の国鉄自動車線に羽島とい う駅名があります。これもそのままにして羽島にするかどうかということが話題になったときに、中畑三郎が「岐阜羽島にしてはどうですか」と突然言っ た。それで岐阜羽島の駅名が瞬時にして決まった。

二階堂 なるほど、わかりました

鈴木 新岐阜というのも、名鉄にありますからね。

角本 そこらのところです。それから、岐阜羽島 という名前にすることによって、岐阜県に1駅つく るという顔が立った。羽島を識別するためじゃなくて、岐阜県を象徴するための駅名にしたということ で、大野伴睦の顔が立った。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」229頁から引用

東海道新幹線 岐阜羽島駅 命名の経緯

 新幹線の岐阜羽島駅は、岡山県の国鉄バスに羽島というバス停があったため、「岐阜」をつけたと。また既に名古屋鉄道に新岐阜駅があったため、「新横浜」のようにはならなかったということか。

 1933年3月25日付けの官報によると確かに岡山県に羽島という停車場がある

新幹線岐阜羽島駅に勝った国鉄羽島バス停

 

 ちなみに、名神高速道路のインターチェンジ名称も「岐阜羽島IC」だ。しかし、こちらは、先行して羽島PAがあった(岐阜羽島ICは、名神が全線開通した後に追加された)ためか?(高速道路のバスストップは「名神羽島」)

 名鉄電車は「新羽島」なので、羽島市へのアクセス施設の名前でズバリ「羽島」は無いことになるのか。(※誤りをご指摘いただいたので削除します。)

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新幹線予算超過の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その2)

 貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)で触れたのだが、元国鉄技術者の長・信州大元教授のウェブサイトから再度引用したい。

 東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない

(中略)

*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。

(中略)

 

高橋団吉著「新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語」について 長 尚のホームページ

 総裁の首が飛ぶほど予算が足りないにもかかわらず、「世銀への見せかけ」にすぎない(?)貨物輸送への投資(単に貨物駅の用地買収だけでなく、橋脚全体が貨物の荷重に耐えられる規格なのである。)ができるというこの矛盾。一体、新幹線の予算はどうなっていたのか?

 予算の積み上げの実態から不足に伴う予算改訂の状況についても角本氏は語っている。

二階堂 角本さんが担当されていた営業の資料というのは、この時期に新たにつくられたのか、それとも過去のものを踏襲したんでしようか。

角本 これは、過去のものをそのまま使わなきゃいけなかった。ということは、非常におかしい話ですけ ど、国内は建設開始以前の資料で理解しているわけです。そうすると、1900億円でできると了解している。 実際は、そのときもうインフレがかなり進んでいる。 しかし、過去の数字を変えると国内の信用を失う。それから、国外に対しても過去の数字を変えるわけにいかない。そのために、非常に苦しい説明を島さんと大石さんがしていたと思います。我々は、言われる数字をそのまま説明するということです。

二階堂 世銀に対しては、「こういう計画でやって、 お金がいくらかかって、いくらぐらいあなたのところから借りたい」というような建前にすると思うん ですが、それというのは、今までの計画の数字のなかから算出したわけですね。

角本 1900億あまりでできると言い切っていたわけです。

二階堂 この時点で新たに経理の方と打合せされたりとか、そういうことではなかったわけですね。

角本 この段階では全くありません。ということは、大変おかしい、詐欺行為ですよね。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」224頁~225頁から引用

 

 たしかに昭和37年ごろまでは、世銀融資を受けている関係もあり、国際信用上、大幅な予算オーバーを公言しにくいという事情もあった。しかしこのころになると、新幹線建設が膨大な予算不足を抱えていることは、国鉄全体、政府・国会関係者の誰もが知る既成事実であった。

 だから、38年2月、国会の予算審議の場で、経理局経由の最終報告を受けて、十河はこう啖呵を切った。

「全部で2926億円で完成できる。これ以上は要求しない」

 ところが、この39年度予算が成立して間もない4月末日に、「計算し直してみたら、さらに874億円足りない」という情報が新聞にリークされ、国鉄周辺が騒然となる。事実、さらなる工事費不足874億円という報告が十河にも届いた。この十河引責の実弾を届けたのは、新幹線総局長の大石重成であった。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 233頁から引用

 この「島秀雄物語」だと、「世銀融資の額に引っ張られて、予算不足がなかなか公言できなかった」という趣旨の書き方だが、角本氏の話によると、既に世銀融資の段階で「もうインフレがかなり進んで」おり、予算オーバーすることは必定で、「1900億でできる」と世銀に説明したこと自体が「詐欺行為」だったと。

 また、予算修正の「計算し直したら再度不足」というのも、そもそも十河信二、島秀雄、大石重成、兼松學の三味線だったのではないかというのである。

 大石氏が「十河引責の実弾を届けた」もなにも、「4人で「小出しで行こう」 と判断したということ」と角本氏は語る。

二階堂 建設の予算の話に移りたいと思うんですが、1962年から63年に工事が本格化して、「当初の1900億では足りないな」ということが、内々にはおそらく気がつかれていたのではないかと思うんです。

角本 内々もない(笑)。みんながわかっていた。 だって、1957年価格で計算したものが、5年たって通用するなんてだれも思わないでしょう。ただし、世界銀行の手前があるという妙なことから、だれもそれを修正しようとはしなかった。それだけのこと です。

二階堂 なるほど。それで、来るところまで来て、まず1962年度の年度末に、まず2900億円に増やすと。 それから、数カ月後にまた1000億円ぐらい増えているんです。これ、「何で一気に3800億にしなかっ たのかな」と思うんですが、どうなんでしようか。

角本 それは、私にもわかりません。ということは、十河信二と島秀雄と大石重成、この3人でしょう。 それで横に兼松さんがいた。これで4人ですか。そういうことでしょう。

二階堂 彼らが何らかの判断を・・・・・・。

角本 何らかの判断をしたと。「小出しで行こう」 と判断したということでしょう。「小出しに行って、 最初乗り切れなかったら、次にもう一つ加える」と、そう彼らは判断していたんだと思います。

二階堂 やはり予算を1000億円ずつ増やすというのは、それなりに大変な作業を伴うものなんでしょうか。

角本 作業としては大したことない。「政治的に説明するのが骨が折れるかどうか」ということで判断したと思います。

二階堂 国会で予算を通すとか、それはかなり面倒なことは面倒なわけですよね。

角本 大蔵省の担当官の能力じやないんでしょう か。おそらく大蔵省が積極的な人で、理解力があれば一気にやれたはずです。 1900億で足りるわけがないどころか、5年前の単価で決めていることを、当時の物価上昇を考えたら 足りるわけないですよ。だから、だれが考えても足りるわけがない計算を、表向きもっともらしくやっ ていると。大変不思議なんですよ。

二階堂 遠藤さんがなさった最初の計算は、調査会に短期間のうちに出さなければいけなかった。それは、その当時できることとしてはかなり最大限のところまでやって、ある意味、それはそれで正確だったと、こういうようなお話を前回同いました。

角本 非常に正確です。ということは、最初は57年価格でしよう。当時の人件費と物価の上昇を考えてそれを掛ければ、最後は当然倍になるわけですよ。実際3800億ですから、ちょうど倍になっていますでしよう。逆に言いますと、57年の遠藤鐵二・大石重成の計算は非常に正しかった。恐るべ く正しかった

二階堂 物価の上昇なり、人件費の上昇以外にも、 土地が高くなったりとかもあったようですし、線路を高架にしたり、そういう要求が続出して、その分予想外の事態、不可抗力もあったと角本さんの著書に書かれているわけですね。

角本 それは、当然、加えなければいけません。 不可抗力でしよう。それから、私が東京駅に入れたということもあります。それは大きいと思います。

二階堂 そういうものは、当初から予想はできないわけですね。

角本 大計画を立てますとき、それをやるとできないと思います。だから、大計画というのは思い切って線を引く。黒板に白墨で大きな線を引く、そういうものだと思います。

二階堂  その線を、当初は2000億というところで 切ったわけですね。

角本 そう。それから、当初は「これ以内でやる」 ということにしておかないと、これはまた無限な要求が始まる。地元から次々物を言われたら、収拾がつかなくなると思います。

二階堂 「足りないんじゃないか」ということで、62年ころから建設のほうでも予算を色々節約しようという動きがあったと聞いています。

角本 それは、随分節約してくれたと思いますし、 逆に言うと頭を決めておいたことが節約効果になった。その意味では、大石重成というのは非常に偉い人だったと思います。大ざっぱに言いますが、彼ははじめ、1957年価格で3800億円と出たのを、半分に切ったんです。当時の土木の計算から言うと、「積み上げ計算を半分に切って、大体工事ができる」と いうのが常識だったと思います。積み上げ計算をする担当者は、それぞれ膨らませて持ってきます。査定するほうは半分に切る。それで大体できる。もちろん物価上昇は別ですよ。これが彼らの常識であって、もしも賃金と物価の上昇がなければ、1900億円でできていたはずなんです。 ところが、どうしたわけか、国鉄当局は十河さんを援護しなかった。大石重成を援護しなかった。島さんも援護しなかった。ですから、私が申し上げたような説明を私自身がすればよかったんだけど、それは越権行為になりますから、私もできなかった。 非常に残念なことです。

二階堂 このとき、建設費がどんどん増えて問題になって、1963年の5月に十河さん、島さん、大石さんが辞任されますよね。そのときの報告書、正式な名前は『東海道新幹線工事費不足問題特別監查報告書」というものが出ています。

角本 その責任者はだれだったですか。

二階堂  事務局は監察局になっているわけです。それをちょっと読んで私が驚いたのは、大石さんへの個人攻撃がかなり露骨に書いてあるんです。

角本 そうなんです。ですから、そのときの監査を目のある人がやっていたら、「上がったほうが正しかった、査定したほうも正しかった」となるはずです。物価の上昇というのは責任の外でしょう。ですから、「地価と物価の上昇を除けば、当初の査定が正しかったと」いう答えを出すべきだったんです。 それをなぜ出さなかったか。査定したほうに意地悪があったか、能力不足があったか、どちらかでしょう

二階堂 そこまで激しく大石さんの独断専行ぶりを批判する理由は、新幹線総局という体制に問題があって、彼が理事として全権を持っていたことが諸悪の根源だと、このような論法になっているわけです。

角本 諸悪ではないんです。当たり前に査定して、当たり前に物価並みに工事費が上がっただけなんで す。ですから、何も諸悪はなかった。そう言うべきだった。あの監査報告書は、 大石さんを目のかたきにした。あるいは「十河憎し」 という人たちがいた。そして、この監査報告書を認め たのが石田禮助であるかどうかなんです。

二階堂  この調査をはじめるときの監査委員長は石田さんのはずですよね。

角本 でしょう。そうすると、石田禮助というのはいかに悪者か、ということです。後世、石田禮助を褒める本ばかりが出ている。大変おかしいと思いますよ。

二階堂 このあと、吾孫子豊さんに代わって、副総裁には磯崎さんがなっているわけですが・・・・・・。

角本 磯崎さんは、「アンチ十河」の代表です。 計画決定前、自分は東海道新幹線に反対しているわけでしょう。それで、東海道新幹線という国鉄の功績が自分の枠外で出てしまっている。それに対する恨みというのは最後まであった。それで自分は、今度は山陽新幹線をつくるわけでしょう。それで大赤字の原因をつくっているということ。

二階堂 磯崎さんが新幹線にあまりいい思いをされていないというのは、角本さんは具体的にどういうところで感じられたんですか。

角本 どういうところというよりも、磯崎さんが 新幹線に反対であって、あるいは磯崎さん個人より も、当時の営業局が反対であったということは、57年の段階からはっきりしていたわけです。だから、 遠藤鐵二は非常に微妙な立場だったと思います。遠藤と磯崎は2年違いで仲が良かったということです けど、仕事上は意見が対立したという格好になっているわけです。

二階堂 このとき、瀧山さんも理事におられるわけです。

角本 これは一言で言うと、「どうにもならない人だった」ということです。

二階堂 瀧山さんは、新幹線計画についてどう思っていたんでしようか。

角本 絶対反対。瀧山さんがなぜ在来線増強にこだわったかというと、瀧山さんは審議室にいて1957年からたしか審議室長になったでしよう。それで在来線増強計画を立てていた。そこへ降って湧いたように新幹線がかぶさってきた。そのとき、磯崎さんと瀧山さんは転進できないんですよ。これは石頭と言うしかしょうがない。国鉄で石頭でない人は、菅さんだけ。ほかは皆、石頭 (笑)。

二階堂 では、瀧山さんは、十河さんに対してもある意味・・・・・・。

角本  絶対反対。だから、瀧山・磯崎は「アンチ十河」の2人ですよ。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」240頁~242頁から引用

 ここで冒頭の元国鉄技術者の長・信州大元教授の問いかけを振り返りたい。

 「貨物が見せかけならば、ただでさえ資金不足なのに貨物駅に投資するわけないだろう」という長氏の問いかけに対して「予算不足は最初からわかっていたことで、予算改定も小出しにして行けると思っていたからこそ貨物への投資もできたということなのではないだろうか?

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貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

 「貨物新幹線は世界銀行向けの見せかけのものだ」という論がある。

第13話=世銀借款

 

 この貨物問題に関しては、当初から国鉄側も頭を悩ませていた。技師長・島の頭には、のっけから貨物新幹線構想の「貨」の字もない。速度の違う旅客と貨物が同じ路線に混在するからこそ、東海道の輸送力がますます逼迫するのだ。(略)ハイウェイのように速度によって棲み分けさせることが新幹線の大前提である。しかし、国鉄内部にも根強い貨物新幹線論者が存在したし、なにより当時のアメリカでは、旅客輸送は「5%ビジネス」であった。鉄道輸送の95%は貨物であり、旅客はもっぱら自動車と航空機に移っていたのである。

 そこで、世銀への説明資料には、貨物新幹線の青写真も挟み込むことになった。将来は貨物新幹線も走らせたい・・・・・・という世銀向けの苦しいポーズである。当時のパンフレットや世銀向けの説明資料をみると、貨物新幹線のポンチ絵、つまり簡単な設計図が入っている。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 193~194頁から引用

 他方、ご自身が国鉄の技術者として新幹線建設に従事した長・元信州大教授はこう述べる。

 東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない

*東海道新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)は、N標準活荷重(貨物列車荷重)とP標準活荷重(旅客列車荷重)とからなっていて、平成14(2002)年に改正されるまで、この基準は生きていた。

*貨物駅のための用地買収が各地でなされていた。

*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。

*東海道新幹線開業後の昭和40年3月15日の国会の法務委員会で、国鉄常務理事が「国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております」と答弁している。

 確かに、当時の技師長の島秀雄氏は開業後に「世界銀行に対しても一応本心は伏せて、新線でも貨物輸送をしないわけではないという態度でのぞむことにした」と語っているので、作者の高橋氏もそれに基づいて書いたのであろう。個人的に島氏がそのように考えていたかもしれないが、事実は上記したように、国鉄として旅客だけとする意思統一はまったくされていない 。そればかりか、開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていたことは間違いない。島氏は車両設計が専門で、新幹線建設工事や建設費などについては詳しくなく、基本的にこの問題には関わっていなかったはずである。

 

高橋団吉著「新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語」について 長 尚のホームページ

 私も貨物新幹線についてはいくつかの記事を書いてきたところである。

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

 島の思いはどうあれ、貨物新幹線が実際に取り組まれていたのは間違いない。しかし、島の気持ちと現場の進み方のギャップがどうも腑に落ちない。

 そこに国鉄新幹線局営業部長等を歴任し、実際に新幹線の貨物計画に携わり、「新幹線開発物語」等の著書でも貨物新幹線に触れていた角本良平氏のオーラルヒストリーに出会ったので、貨物新幹線に関係する箇所を紹介していきたい。

 菅 世銀に対しては、少なくともこの時点では「貨物輸送もやる」という前提でお話されているわけですね。

角本 「徹底してやる」と。

菅 そのあたりのことも、角本さんがご担当されたんですか。

菅 そうです。私は旅客、貨物と両方やっていまして、前後を正確に言えませんけれども、1960年の秋にアメリカの貨物輸送を見てからは、世銀との関係も随分やりやすくなった

 ただ、世銀の相手もあまり馬鹿じゃないから、貨物輸送をやるかやらないかということについては、島さんはやるそぶりはみせていたけれども「これは本当かうそかわからないな」ということは、最後の段階で気がついていたと思いますね。

二階堂 角本さんが実際に貨物輸送を説明された感触として、そうじゃないかと。

角本 そう。

二階堂 ということは、角本さんの説明もある意味、旅客を重点にされていたということなんですか。

角本 いやいや、そうじゃない。私は、貨物駅の用地まで買っているわけだし、大井埠頭の海の上を買っているわけですから。その段階では、私はやるつもりでいます

二階堂 では、世銀の人がそう気づいたというのはどういう節で。

角本 島さんがあまりのり気じゃない様子がわかってきたんじゃないか。私は最後までやりたかったんです。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」226頁~227頁から引用

「1960年の秋にアメリカの貨物輸送を見てからは」というのはどういうことなのか。

二階堂 1960年の11月、アメリカに視察に行かれたときの話をちょっと伺いたいと思うんですが、これというのは生産性本部の視察団ですね。その報告書が出ていまして、メンバーを見ると貨物関係の方々がたくさんおられて、貨物の近代化の現状也をアメリカに見に行くという視察だったと思います、角本さんがこれに加わることになったきっかけというのは何だったんですか。

角本 私は個人的なつながりだと思います。この事務局をなさったのが、鉄道貨物協会の事務局長をしていた宮野武雄さんで、私の中学の7年ぐらい上の先輩で、昔、私が金沢管理部で見習いをしていたときの業務課長です。その人が私のことを知っていて、誘いがかかった。ただ名目から言えば「新幹線に貨物輸送をやる」というのが理由なんです。

(中略)

二階堂 では、そういう個人的なつながりで呼んでいただいて、角本さんはそのなかで、例えばピギーバックとか、大型コンテナとか、そういうのを・・・・・・。

角本 そう。「新幹線に応用できる技術がないか」ということで一生懸命見て歩いたということです。

(中略)

二階堂 これを見て、日本の新幹線計画にどういう見通しを持たれたか、そこをお聞きしたいんです。

角本 10何トンのピギーバックの大型コンテナはとても無理でした。日本の道路では動けません。ですから、「これを5トンコンテナの我々の計画に直して、同じアイデアで方式を決めればよい」と考えました。大きさを見にサイズ、大体3分の1にするという感じです。「新幹線について考えていた計画は変える必要はありません」と。

二階堂 コンテナやピギーバックというのは、トラック業界との「共同輸送」が盛んにできるという名目で計画されていたと思うんですが、日本だと通運業者との協力が必要ということになるわけです。その見通しというのは、当時どう思っていらっしゃったんですか。

角本 これは日本通運が既に5トンコンテナを試しで使っていましたし、当然やる気になると思っていました。(後略)

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」232頁から引用

 世銀借款が締結されたのは、1961(昭和36)年である。

 島隆が研修期間を経て本社に戻ってきたのは昭和33年である。(中略)隆は新幹線設計グループの1期生。(中略)

「貨物新幹線用のラフスケッチをもっともらしく描いてくれ」

 ある日、隆は幹線調査室の調査役から、こんなふうに頼まれた。(後略)

 

「新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 194頁から引用

 これは、冒頭に引用した「貨物は世銀向けのポーズ」という文脈で髙橋氏が記載しているのだが、これで見ると「もっともらしく描いて」というところが「ポーズ」らしく読めるのだが、この「幹線調査室の調査役」は貨物も含めた営業担当調査役の角本氏ではなかろうか?車両担当の加藤一郎氏という可能性もあるが。後にアメリカに貨物新幹線のために視察に行った担当調査役が命じたとなれば意味合いは全く逆になってくるのではないか?そういう意味では髙橋氏はミスリードしている可能性がある。「島秀雄物語」では角本氏にも取材しているのに。。。

幹線調査室

 当時の幹線調査室はこのような体制だった。

 また、世界銀行融資決定後に国鉄法を改正して貨物新幹線に必要な通運体制を確立しようとしている。ダミーならこんなことしませんぜ。

○關谷委員 次に、今後対象となりますもの、これが業界あたりで非常に疑心暗鬼と申しますか、大へん心配をいたしておるところでありますので、一つお尋ねをいたしたいと存じます。(中略)

 第三は東海道新幹線荷役会社というふうなもの、東海道新幹線関係の荷役は、全部直営にするというふうにいわれておるのでありますが、それがどういうふうになるのか、その点もあわせて伺いたいと思います。第四はピギーバック会社、これはどういうふうなことになりますか、この点を業界あたりが間違えないようにはっきりとお答えを願いたいと思います。

○磯崎説明員 ただいま御列挙されました各事業につきましては、内容のはっきりしないものもございますが、一応今私どもの考えておる立場からだけ御回答申し上げます(中略)

 それから、三番目と四番目の、東海道の新幹線関係の貨物輸送でございますが、東海道新幹線関係の貨物輸送を私どもの方が直営する意向は全くございません。しかしながら、東海道新幹線の貨物輸送は、原則として、先ほど四番目のピギーバック、すなわち自動車の足のついたまま貨車に載せるという案よりも、むしろ足をとりまして、現在町中でごらんになるコンテナの輸送を考えておりますので、コンテナ輸送につきましては、通運業者と国鉄と合体した会社を作る必要があるのではないかということを今研究いたしております。

 

昭和37年3月16日衆議院 運輸委員会議事録から引用

 ピギーバックの扱いが角本氏の訪米視察の結果どおりとなっている点も興味深い。

二階堂 貨物営業のことについてちょっと伺いたいんですけども、貨物営業の計画というのは、この時期かなり具体的に進んでいますよね。例えばターミナルの用地の買い上げなどです。

角本 それが島さんと兼松さんはまことにずるい人で、私に対しては「貨物輸送は最後までやるよ」というような顔していた。私は、大まじめで大井ふ頭の土地を買いました。それから、静岡も名古屋も大阪も貨物駅の用地、みんな買ったんですよ。

二階堂 名古屋は日比津、静岡は柚木ですね。

角本 そう、柚木です。大阪は鳥飼。

二階堂 あとは、コンテナの規格を決めて、在来線は縦で新幹線は横にするとか、そういう具体的なことまで・・・・・・。

角本 そうそう。その寸法を決めて、在来線のコンテナ規格を決めるときに、「直角に曲げれば新幹線貨車に5個載せる」ということまで決めました。具体計画の直前まで決めて、担当者も私も大真面目でやっていた。世界銀行に対しても、「やらない、うそだ」ということは一言も言わなかった。

 ところが、島さんと兼松さんは、「それはうそである」ということを承知でやっていた。そこのところにギャップがあったということです。

二階堂 実際のところ、本当にやる気がなかったのか、あるいは旅客の二の次にしていたということでしょうか。

角本 いや、そうじゃない。彼らはずるいですから、本当にやる気がなかった。それでいて、私に大井埠頭の海の上を買わせたということです。

二階堂 では、完全に無駄な・・・・・・。

角本 それが無駄じゃない。あの大井埠頭の土地があったんで、今どれだけ助かっているか。あそこがなかったら、今は電車置く場所ないでしょう。それは、新幹線の旅客電車を置く場所でもあり、貨物のヤードでもあったということで、大きな土地を買った。そのうち新幹線旅客用は、今、そのまま生きていて、貨物用地のなかへ進入していったし、膨らませていった。だから今でもびくともしないということだと思います。

鈴木 当時、大井埠頭は将来のことまで考えて買ったんですか。貨物のために買ったはずなんだけれども、そのままだったら、本当に無駄になりかねなかったのではないでしようか。

角本 東京都にしてみれば、海の上ですから買い手がない。できるだけたくさん買ってくれるお客は大歓迎。こちらは、できるだけ広く買っておけば、 東京が伸びるから無駄にならない。両方の思惑が一 致した。だから海の上をでっかく買ったんです。そういう意味では、貨物のことだけではなく、将来のことを考えて買ったわけです。 ただし、「羽田のそばはやかましい」ということで、北のほうへずらして買った。そのとき、たしか南は 京浜二区という埋立地だった。「京浜二区では嫌だ、もうちょっと北のほうがいい」と言ったときに、東京都は何も言わなかった。ですから、品川からすぐ電車を入れられるという場所が確保できたわけです。これは、私がしたうちの一番いい仕事のうちの一つでしょうね。

渡邉 鳥飼基地というのは、もともと貨物営業用を想定して・・・・・・。

角本 貨物用として買ったと思います。

鈴木 あそこは、もともと何だったんですか。

角本 おそらく淀川の湿地帯じゃないでしようか。ほかの利用があまり進んでいなかったから買えたと思います。その意味では、名古屋の西のほうもそうだった。庄内川の西側でしょう。

菅 結局、新幹線の貨物ターミナルにはならなかったけど、みんな生きていますよ。名古屋は新幹線の車両の置き場になったし、静岡は在来線の旅客車を置いているのかな。

角本 静岡、柚木のところね。そうでしよう。

菅 大井は、お話があったとおり、新幹線の車両基地と東京貨物ターミナルになっているしね。それでも土地が余ったから、東京貨物ターミナルの一部は、一時ベトナム難民の収容キャンプみたいに使われたことがありましたね。

角本 ああ、そうですか。

渡邉 用地を買われたときに、車両基地だったら全く周囲と孤立した島みたいなものですけども、貨物駅になると、そこに通運の店が来たり、地域との関係も出てくるわけですね。ですから、土地を買うときにも、単なる車両置き場になるのか、それとも、そこに貨物駅ができて、周辺との物流との起点になるのかというのは大きな違いがあるように思うんで すが。

角本 買うときには、そこまで言わなかったと思います。ですから、貨物の場所、旅客電車の場所、 それぐらいの大まかな話だけをして、東京都と話がついたんじゃないでしようか。東京都としては売りたい一心ですから、私たちはお客様だったんです。 海だった、水の上を買ったわけですから。

渡邉 鳥飼についても、貨物だから売ったとか。

角本 いや、そういうことはないと思う。

菅 それは逆に、新幹線の車両基地が先にできて、隣接地はずっと長い間使われていなかったんですけれども、大阪に在来線の貨物ターミナルをつくることになりまして、実際につくって、今、稼働しているんですが、それについては結構反対運動があったんです。特に吹田操車場から持ってくる鉄道をこしらえなければいけませんね。これなんかはすごい反対運動を受けて、菅原操さんが大阪工事局長 として話をおさめるのに随分苦労されていますよね。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」244頁~246頁から引用

大井貨物駅跡

柚木貨物駅跡

日比津貨物駅跡

鳥飼貨物駅跡

 次に、島の「トリック」について引用してみる。

二階堂 貨物担当の補佐だった森繁さんが書かれた資料をちょっと拝見したことがあるんですが、1963年7月、要するに大石さんたちが辞めてすぐ、角本さんは貨物営業のことに関して石原常務に説明されているんですね。 そのときには、角本さんは「貨物をやるべきだ」 と言われているんですが、石原さんは「採算は多分 とれないだろう」というようなことを言われて、「それでもやる意義があるのか」と尋ねられて、角本さんは「トラックへ対抗するという意味、それから通運業者に対して国鉄の態度を示すという意味で、 貨物はやったほうがいい。将来性もあるんだ」というようなことを言われて、旅客営業から1年おくれ の1965年10月に貨物営業開始ということで、石原さんも合意された。そういう記録があります。 それに加えて、1964年の座談会なんかを拝見し ますと、当時の今村営業局長も「新幹線を使って貨物営業が早くできないか」ということを模索されていたようです。こういうことから考えると、先ほどのトリックというのは、ごく一部の方しか知らなかったということでしょうか

角本 大石さんがどうか知らないけど、島さんと 兼松さん、そこらでしょう

二階堂 遠藤鐵二さんはどうだったんでしょう

角本 中立でしよう。どちらでもつくと。

二階堂 角本さんは、営業部長退任のときまで、トリックということは全く気づかなかったわけですよね。

角本 気づかなかったし、たとえトリックであっ ても、逆に突破しようと思っていた

二階堂 「トリックなんじゃないかな」というようなことは、薄々は・・・・・・。

角本 思わなかった。私は突破できると思っていた。

二階堂 石原さんも、こうやって論破しているということで、それが「実際にはやる気がなかったんだな」ということがわかったのはいつだったんですか

角本 十河、島が辞めたときです。

二階堂 それは1963年になるわけですが、そのときも角本さん、大まじめに貨物のことをなさっているわけです。

角本 はい。私は自分で突破できると思っていた

二階堂 島さんの真の意思を知ったのは、どういう きっかけだったんですか。

角本 島さんが辞めるころ「島さんはやる気がなかったんだな、ごまかしだったな。兼松さんもごまかしだったな」ということは、私にはわかった。しかし私は「これはやるべきだ」と思っていました。 だから、中公新書の「東海道新幹線」に「貨物をこうやります」ということを書いたということです。 これは1964年の2月に出した本です。

二階堂 「突破できる」というのは、石原さんへの 説明にもあるように、「トラック対抗」ということ と「通運対策」ということなんですが、将来的に新幹線貨物をやればトラックに対抗できる根拠という のは、どういうことだと考えていらっしやいました か。

角本 時間です。ということは「夜遅く集めて、 朝早くに着く」という何本かの列車をつくっておけ ば、その分は貨物を確保できる。そう信じていた。 これは、トラックより断然速いし、しかも確実ですから、「これはやれる」と。

二階堂 「通運対策」というのは、具体的にはどう いうことですか。

角本 通運業者は、利益があればよいわけですから。自分のトラックであろうと、国鉄利用であろう と、彼らは利益があればやってくれる。

二階堂 では、「その利益を彼らに充分与えられる」と。

角本 そうです。「そうすれば、彼らもまた鉄道 に戻ってくるだろう」と。ですから、東京・大阪という地区について、雑貨がそれぞれに動くということで、大部分はトラックであっても、国鉄利用の部分も残ると考えていた。

二階堂 通運業者を通さず、国鉄がコンテナを直営するということは考えておられましたか。

角本 いや、直営というのは手足についてはでき ません。やはり荷主との直接接触は通運業者でない とできない。

二階堂 「貨物営業が経理の上では赤字になる」という石原さんの指摘についてはどうですか。

角本 私は赤字になるとは思わなかった。ということは、線路が既に存在するわけですから。それから、貨物用地も既に押さえてあるということですから。列車本数は限られている。だから、限られた列車本数を満たすだけの貨物は充分集められると考えていた。

二階堂 「途中のヤードでつないで、離して」ということではなく・・・・・・。

角本 「それでないから成功する」ということです。しかも、「ダイヤどおりにあなたの貨物は動きます」ということですから。

渡邉 その意味では、貨物列車は1日に1本でも2本でもよかったわけですね。

角本 そうです。

菅 貨物に関して、実際に需要の想定とか、運賃の試算といいますか、そういうことも当時なさいましたか。

角本 はい。ですから、貨物の担当で森さんはじめ3人か4人来ていたと思いますし、実際に貨物駅の用地は4駅とも買ったわけですから、それをそのまま利用して、しかも夜明けに列車を入れるという ことで充分できると思っていました

二階堂 九州方面や東北方面と、どうつなぐかとい うことは・・・・・・。

角本 そこまでは考えなかったと思います。九州まで考える余力はなかったし、山陽新幹線がいつできるかも当時はわからなかった。

二階堂 いえ、そうではなくて、大阪で在来線に積みかえてやるという形です。森さんの資料では、そういう内容も出てくるので・・・・・・。

角本 それはやっていたでしよう。我々は「貨物営業はやるものだ」と信じていて、それで上の人が 「やめろ」と言った。しかしこちらは「突破できるんだ」と思っていたということです。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」246頁~248頁から引用

 このあたりの経緯は、私の知る限りでは今まで明らかにされていないと思う。

 「島は貨物やる気ない」「現場は土地も買ったし準備工もやってる」「国鉄だけではなく通運業者も動いている」「開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていた」という矛盾が今まで繋がらなかったのだが、ここで繋がるわけだ。

 「島は貨物やる気ない」
 ↓
しかし、島は在任中は内外に「やる気ない」とは言わなかった(むしろ社内にも「最後まで貨物はやる」という姿勢を示していた(角本氏のいう「トリック」))
 ↓
現場は当然貨物の準備をする
 ↓
「現場は土地も買ったし準備工もやってる」
 ↓
角本営業部長(貨物担当)は、島が辞める頃にやる気がないと気づく
 ↓
それでも突破できる(すべき)と考え、島辞任後も貨物実現に向けて動く
 ↓
「開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていた」
山陽、東北、上越新幹線も貨物走行可能な規格で建設
 ↓
島は国鉄を辞めた後に「貨物やる気なかった」と公言

という流れで宜しいんじゃないかと思う。

新幹線総局

 こちらは新幹線総局の組織図。ちゃんと「貨物担当の補佐だった森繁さん」がいらっしゃる。

 

 (その2)では、長氏の指摘する「*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。」つまり予算超過問題について角本良平オーラル・ヒストリーから紹介してみたい。

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