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2019年8月13日 (火)

古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 文春新書から「昭和の東京12の貌」という本が出ている。
 この本の編集方針は下記のとおりである。

平成31年は、天皇陛下が退位して皇太子が新天皇に即位し、5月からは新しい元号になります。また、翌年には2回目の東京五輪が開催されます。一回目の東京五輪は昭和39年に開催され、それを契機に昭和後半の日本は高度経済成長の波に乗り、経済大国の道を突き進みました。しかし、平成に入ると、バブルが崩壊し、政治や社会の様々な歪みが顕著となってきました。この間、日本の首都・東京はどのように変貌を遂げたのか。
本書は、月刊『文藝春秋』で連載した「50年後の『ずばり東京』」から、主に東京の街の変遷を描いた12本の記事を選んで収録しました。毎回違うノンフィクション作家が自身で取材するテーマや街を選び、リレー形式で執筆したもので、昭和と平成という二つの時代を筆者が行き来するルポルタージュです。


https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166612000

 その12本の記事のトップバッターが、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」である。

 本当に1964年のオリンピックは「成功」だったのだろうか、と。もちろんあのオリンピックの功績が多いことは否定しない。
 しかし、東京という街を中心に考えてみると、あのオリンピックが残した「負の遺産」は思いの外多いのである。そして、オリンピック「成功」の陰に隠れて、大きな不利益を被った人々も決して少なくなかったのである。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)10頁

 

 古市氏は、こう切り出しつつ、副題にある「首都高とモノレール」に加え、東海道新幹線に対して「東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる」としつつ、「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」として、「より理想的なルート」がとれなかった、

 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁


 とし、同様に首都高の日本橋上の高架や都心環状線の片側2車線の構造を「オリンピックの負の遺産」と指摘し、それらをキーとして、新旧東京オリンピックに係る日本、東京の世相をとりまぜて批評している。


 社会学者が世相を描き、評価するのは、私の専門外だし、とやかくいうところではないが、そのイントロになっている「首都高速道路や東海道新幹線が、オリンピックに間に合わせるために急ごしらえとなったため、理想的でないルート、構造となっており、オリンピックの負の遺産となっている。」という部分については、いち「ドボクマニア」としてモノ申したい。

 

 

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 「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、今の日本でも割と広く支持されており、首都高の日本橋を覆う高架橋や新幹線の最短である鈴鹿峠を迂回した関ケ原ルート(それに伴う新幹線の雪害)について批判的に評価されることが多い。


 しかし、結論を言うと「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、事実ではないと言えよう。


 「昭和の東京12の貌」が単なるエッセイであれば「そういう人もいるよねー」でよいのだが、「ノンフィクション作家」による「ルポルタージュ」ということであれば、とりあえず一次資料を並べることで、諸兄のご判断を仰ぎたいところである。

目次

1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?


1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?


1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?


2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?


2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?


2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


3 結論


4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

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1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?

 

 

 もしも東海道新幹線の開業がもう少し遅かったら、違う未来があったのかもしれない。
 現在の新幹線は名古屋を出たあと、関ヶ原まで北上した後で京都へと進む。実は当時、関ヶ原を経由せずにそのまま京都を目指す鈴鹿ルートが検討されたことがあった。しかし技術力と工期の都合で断念されてしまう。
 そもそも東海道新幹線はカーブが多く、それが所要時間短縮を阻む一因となっている。
(中略)ここ最近はあまり速くなっていないのだ。
 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁

 個人的には、「関原」じゃなくて「関原」だろうがと言いたいところだが、今回はそれがネタではないのでスルーして、この古市氏の文を検証していく。

 

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1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「新幹線 鈴鹿峠 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。それも大手マスコミだ。


五輪前の開業へ、鈴鹿越えを断念

 

 名古屋から大阪まで、新幹線がどんなルートを取るかは、戦前の弾丸列車構想の時代から議論されてきた。最短ルートは名古屋から西へ進み、鈴鹿山脈を越えて草津付近に出るコースだったが、鈴鹿山脈を越えるには12キロメートルの長大トンネルを掘らなければならず、しかも地下水が多いことから極めて難工事となることが予想された。
1964(昭和39)年の東京オリンピックまでの開業にはとても間に合いそうになく、このルートは断念された

 代わって注目されたのが、関ケ原を越えるルートだ。名阪間には、鈴鹿山脈と伊吹山地という2つの険しい山が立ちはだかっている。関ケ原は、2つの山脈の間にたった1カ所開いた谷だった。鈴鹿山脈越えよりも10キロメートル以上距離が長くなるが、工期と確実性が優先された。

 

東洋経済ONLINE「新幹線「利用者数最少駅」は、なぜできたのか」栗原景
https://toyokeizai.net/articles/-/141928

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(だから今回はそこじゃない。)
 天下の東洋経済がオリンピックに間に合わせるために鈴鹿峠を断念したとの記事を掲載している。

 では、実際に工事を担当した国鉄の記録ではどうなっているのか?


 ネットで気軽に閲覧できるものとしては、伊崎晃氏の「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」があげられよう。

 伊崎氏は、執筆時は鉄道技術研究所地質研究室勤務で、戦前では朝鮮海峡トンネル、戦後では青函トンネル等数多くのトンネルの調査に携わった技術者だ。東海道新幹線の路線選定にあたっての現地の地質調査も担当している。

1.  ルート決定のいきさつ

 国鉄の東海道新幹線は,計画当初名古屋-京都間のルートをいかにとるかについて,非常に大きな比較問題に直面した。すなわちここを最短距離で結べば標高1000m級の鈴鹿山脈をどこかで大トンネルにより横断しなければならず,これを避けて低処を越えるとすれば,北方へ関ケ原付近まで迂回する外ない。

 そこで昭和33~34年頃図上でいろいろルートを検討したり現地で地質の概査を行って比較研究した結果,鈴鹿越えの主ルートと目されていた御池岳~鈴ケ岳付近を貫くトンネルは多くの断層に遭遇する上,伏流水に富んだ石灰岩の部分が多いので,多量の湧水が予想され,また南方の八風峠ルートは地形上片勾配の長大トンネルとなるため工期的に非常な難点のあることが明らかとなった。

 一方関ケ原付近も大きく見れば地質的には鈴鹿主脈と大差がないが,トンネル延長が比較的短かくてすむこと,および北陸方面との連絡に至便(米原で)なため,結局ここが最終案として本決りとなった次第である。

 

「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」 伊崎 晃・著「応用地質」 Vol. 4 (1963) No. 4 199~200頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjseg1960/4/4/4_4_199/_pdf

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(もうええっちゅうの。)


 「北陸方面との連絡に至便(米原で)」と書いてある。古市氏の言うような「技術力と工期の都合」だけではなく、「北陸方面と米原で連絡する」という目的もあって関ケ原経由となったのである。
 仮に「東京オリンピックまでに開通という目標が」なかったとしても、「北陸方面との連絡」が判断材料としてある以上は、やはり関ケ原経由となったのではないか?
 
 ググるだけでなく、ちゃんと図書館に行って、国鉄が発行した東海道新幹線の工事史もあわせて見てみよう。

東海道新幹線が鈴鹿峠を通らない理由

 名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。

 

「東海道新幹線工事誌 名幹工篇」日本国有鉄道名古屋幹線工事局 編


 確かにここでも「北陸との連絡に至便」とある。さらに見逃せない一文がある。


 「こうして全線の基本ルートが定められ、(昭和)33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」
 ご存知のとおり、東京オリンピック開催が決定されたのは、1959(昭和34)年である。

そして、1958(昭和33)年8月に「全線の基本ルートが定められ」たとなれば、「鈴鹿峠をやめて関ケ原ルートに決定したのは、東京オリンピック開催決定前」である

 国会ではどのように答弁されているのか?

東海道新幹線鈴鹿峠を止めて関ケ原経由にした理由

 名古屋と関が原と申しますか、米原の間のルートにつきましては、実は、昭和三十三年の夏ごろから、まだ正式に新幹線をつくるかつくらないかきまる前から、航空測量だけはいたしておりました。航空測量の結果、ルートといたしましては、名古屋から鈴鹿峠を越えまして京都に入るルート、もう一つ、それと非常に近いところで、名古屋から八風と申しますところを通りましてやはり京都に抜けるルート、もう一つは、濃美平野を真横に横切るルート、この三つのルートを航空測量で大体測量いたしまして、このいずれにすべきかということを検討したわけでございますが、前二者につきましては、非常にトンネルが多く、工事も非常にむずかしいということで、事務当局といたしましては、前二者を捨てまして、もっぱら濃美平野を横断するという案で具体的な検討を進めてまいったわけでございます。その後、昭和三十四年になりまして、徐々に東海道新幹線の問題が予算化され、また、各地におきまして地上の測量を開始したわけでございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04606020514020.pdf

 1958(昭和33)年に航空測量をして、鈴鹿峠は捨てて関ケ原経由とし、1959(昭和34)年から予算が付いたので地上の測量を始めたと磯崎国鉄副総裁(当時)が答弁している。やはりオリンピック決定前に鈴鹿峠は捨てられているのであった。


 古市氏の言うような「東京オリンピックまでに開通という目標」があろうがなかろうが、「米原での北陸線への連絡」を考慮しつつ、オリンピック開催決定前に鈴鹿峠ルートは断念されていたということである。


 東海道新幹線が最短距離である鈴鹿峠を経由しなかったことは、少なくとも古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」ではないことが明らかになったと言えよう。
 
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1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


 
 東海道新幹線が5年余りの工期で東京オリンピック開催直前に開通したことから「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」と考えている方はそれなりにいらっしゃるようだ。
 実際の経緯をおってみよう。

官報に載っていた新幹線電車予想図


1958(昭和33)年8月ということで、東京オリンピック開催決定前の官報である。
ここに、新幹線計画に着手した「日本政府公認」の理由が書いてある。


 曰く「昭和36、7年頃には東海道線の輸送に行詰りが生ずる。したがって、早急に、新たな鉄道路線を建設する必要がある。」と。東京オリンピック開催のためではなく、「(東京オリンピック開催前である)1961、2(昭和36、7)年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由なのである。


 そして、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「工期は概ね五ヶ年で完了」とされている。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (6)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001176706

新幹線工期 (1)


新幹線工期 (2)

 


 なお、答申に添付された「幹線調査会第二分科会報告」では、「新規路線の工期は、現在線の輸送の行詰りを考えると、技術的に最短期間である5ヶ年を延ばさないよう適切な措置をとる要があり、このことは投資に対する資金効率の面から見ても必要なことである。」としている。

 では、この「技術的に最短期間である5ヶ年」の根拠は何かということについては、国鉄幹線調査室・幹線局・新幹線総局・新幹線局で東海道新幹線建設に従事した角本良平氏はこのように述べている。


 五ヵ年とした一つの根拠は、新丹那トンネル完成におそらくそれくらいかかるだろうという見通しであった。

 

「新幹線開発物語」角本良平・著(中公文庫)18頁
※初版発行1964年4月30日「東海道新幹線」(中公新書)

 

 「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」のではなく、「東京オリンピック開催決定前に、工事期間が最長となる新丹那トンネルの工期に合わせて決定された」のである。古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」ではないのだ。


 そして、鈴鹿峠ルートの「工期的に非常な難点」とは、「新丹那トンネル工事の工期5年」よりも長くかかってしまうことであった。

 

 なお、新幹線の工期については、世界銀行の融資条件もからんでくる。


 当時国鉄新幹線局に勤務していた高橋正衛の記した「新幹線ノート」によると「昭和39年なかばに完了すること。(135頁)」とある。 「世界銀行が東京オリンピック開催に間に合うような融資条件を付けた」という説もあるが、私はそのような資料を見かけたことはない。

 

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1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (4)



 この表は、国鉄東京第三工事局(東北新幹線の東京都内及び埼玉県内の工事を担当)が作成した各新幹線の規格の対比表である。
 確かに、東海道新幹線は、東北・上越新幹線よりも最小曲線半径が小さい(曲線がきつい)。これは東海道新幹線が「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのだろうか?


 東海道新幹線の曲線の規格の考え方について、当時国鉄新幹線総局計画審議室長だった加藤一郎氏はこのように述べている。


 曲線半径は、開業当初の速度は200km/hとするが、将来は250km/hの可能性も考慮して、路線計画にあたってはこれに見合う曲線半径を2,500m標準と考えた。標準軌で250km/hは技術的にも可能であり、交通機関としての馬力効率(馬力/重量・速度)からみても妥当性があることが検討の結果認められている。

 

「国鉄東海道新幹線計画について」加藤一郎・著 「電気学会雑誌」81巻879号(昭和36年12月)76頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/81/879/81_879_2053/_pdf/-char/ja

 私は鉄道車両の専門家ではないので、これの妥当性を判断する術はないが、新幹線担当の室長が「曲線半径2,500mは妥当性がある」と言っているということで。


 また、当時国鉄幹線調査室調査役だった大石寿雄氏は、このように述べている。

 (前略)この点からも検討した結果、曲線半径2,500m。許容最大カント量195mmならば時速250キロで走っても危険でないことが判明したので、最小曲線半径2,500mを標準とすることになった。

 

「東海道新幹線の構想」大石寿雄・著「電気車の科学」12巻3号(1959(昭和34)年3月号)7頁


 東北新幹線が時速300キロ台で走る現在では、当初の「将来は250km/hの可能性も考慮」というのが志が低かったということになるのかもしれないが。。。
 
 なお、この「曲線半径2,500m」についても、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「標準半径2,500m」とされている。そもそも答申では東京大阪間を「概ね3時間」で結ぶこととしているのだから、必要な仕様を満たしているのである(それ以上の速度への対応は求められていない。当時の世界最速の旅客列車は140km/h程度であった。)と言えよう。


 東海道新幹線のカーブは、確かにその後に開通した新幹線よりもカーブがきついことは間違いないが、それは東京オリンピック開催前に決定されていたことであって、古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではないのだ。


 なお、古市氏は「カーブが多く」と書いている。最高速度は、カーブの数の多少ではなく半径の長短で表されるカーブの緩急に左右されるのではないかと思うのだが。。。

 

 ということで、古市氏が「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」25頁で縷々述べている「東海道新幹線に係る五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」については、実際には東京オリンピック以外に原因がある(しかも東京オリンピック開催決定前に決められている)ことがお分かりになるのではないか?


 同25頁には、「JR東海はリニア中央新幹線を自力で建設できるくらい東海道新幹線で稼いだ。ということは、そのお金をリニア用に貯めずに、東海道新幹線の値下げにも使えたはずだ。」という記述もあるが、ここは人それぞれの政策判断の箇所だから私がとやかくいうものではない。

 

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2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「首都高 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。

 

 日本道路公団による高速道路建設が動き出したころ、東京オリンピックの開催が決まります。当時の日本の道路は、地方は劣悪な未舗装路ばかりで、長距離移動には使おうにも使えないひどさでした。
 しかしクルマは増加の一途をたどっていて、東京ではひどい混雑が発生していました。
 このままオリンピックを開催しても、失敗の烙印を押される。その解決策として考えられたのが、首都高速道路でした。
 先進国では、戦前に一般道が整備され、戦後、自動車の大衆化と高性能化に合わせて高速道路が発達しましたが、日本では一般道が劣悪な状態のまま、自動車が大衆化へと向かったため、混乱が生じたのです。
 ただ、まだ自動車による長距離移動はほぼ皆無でしたから、東名のような「都市間高速道路」より、当面の渋滞対策としての都市内高速が、オリンピックに追われる形で先に完成することになりました。
 首都高はオリンピック対策ですから、オリンピックに間に合わせなければなりません。
 そのため、土地の買収に時間がかかるルートは極力避け、川や運河の上や埋め立てた川床、海上、道路上などをフル活用して、突貫工事が行われました。
 現在、首都高が景観を悪化させていると言われる原因は、土地買収に時間がかけられなかったことにあります。
 まずはオリンピックに必要な区間を優先ということで、都心と羽田空港、そして競技場のある代々木の3点を結ぶことが優先されました。 最初の開通は、1962年12月の京橋~芝浦間(料金100円)。
 その後、64年10月の東京オリンピックまでに、都心環状線の約4分の3と、そこから羽田および初台までの区間が完成しています。

 

「【高速道路】首都高の建設はオリンピック対策だった!」清水草一
https://autoc-one.jp/word/480124/


 後述するが、これはNHKの「プロジェクトX」の影響も大きいと思われる。

 

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 古市氏は、神宮外苑の内外苑連絡道路や日本橋上の高架橋をあげたうえで、次のように述べている。

 このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。
 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られたし、いくつもの川が埋め立てられ、そのまま高速道路に転用された。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)12~13頁


 東海道新幹線と同じく、この古市氏の記述に対して、一次資料で検証してみよう。


 ここでは、東京都の山田正男氏(下記参照)の著作を中心に検証していく。山田氏は「山田天皇」と呼ばれ、戦後の東京都の都市計画、都市開発(首都高、五輪対策、新宿副都心、多摩ニュータウン等々)に深く携わった方であることは言うまでもない。

山田正男
首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦
対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 山田氏はズバリ「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と述べている。古市氏とはまるで正反対ではないか。

 

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2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?

 

 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁

 

 ここで、首都高計画と東京オリンピック誘致の経緯をみてみよう。

1953(昭和28)年4月28日 首都建設委員会が高速道路網の新設を建設省及び東京都に対して勧告。

1957(昭和32)年7月20日 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用することを定めた。

1957(昭和32)年8月5日 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。東京都が作成した街路、河川等を利用した首都高の原案の審議検討を開始。

1957(昭和32)年12月9日 東京都市計画高速道路調査特別委員会が、東京都市計画地方審議会長 安井誠一郎(東京都知事)あてに東京都市高速道路網計画を報告。

1958(昭和33)年1月22日 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1958(昭和33)年12月5日 建設大臣が、東京都市計画街路に都市高速道路を追加決定するための案件を東京都市計画地方審議会に付議。

1958(昭和33)年12月10日 東京都市計画地方審議会が一部を留保して原案どおり議決。

1959(昭和34)年1月30日 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年2月25日 日本道路公団(現・東日本高速道路株式会社)が西戸越~汐留間の工事に着手。(後に首都高に移管)

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年5月26日 東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月17日 首都高速道路公団(現・首都高速道路株式会社)発足

1959(昭和34)年8月7日 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

 古市氏が「首都高の計画自体はオリンピック以前からあった」と述べているところを詳細に落とし込むと上記のとおりである。

 前述のとおり、東海道新幹線は、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、「昭和36、7年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由であったが、首都高速道路も、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、先に山田氏の対談に出てきた「昭和40年の交通危機に対する解決策」であった。

 

(前略)主要幹線街路の主要交叉点の交通量は、現在1日3万台以上となっており、なかでも江戸橋、祝田橋の如きは、8万台から9万台の自動車交通が通過している。従って、主要幹線街路の主要交叉点の交通量と街路の交通量とを比較すると、交通量、自動車保有台数の増加傾向からみて、昭和50年には、23区全部の自動車は、120万台と思われるので(現在は32、3万台)、多少交叉点によっては凸凹はあるとしても、昭和40年代にはラッシュ時における都心部の交通は、まったく麻痺状態に陥ることが推定される。ということは、自動車が歩くスピードと異ならないということになるのである。

 

「都市高速道路を中心とした東京都の道路政策」山田正男・著 「道路」昭和32年12月号
※「時の流れ都市の流れ」山田正男・著249頁に掲載

 

 これを解消するために、1965(昭和40)年全線開通を目標に首都高速道路を計画したのであり、東京オリンピックのためではない。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5) 首都高速道路当初の開通時期

 東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。

 詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 オリンピックに関係なく、「つとめて不利用地、河川又は運河を使用」「止むを得ざる場合には広幅員の道路上に設置」とある。
 オリンピックが決まってから間に合わなくなって「空中作戦」になったのではなくて、オリンピックが決まる(招致決定もしていない)1957(昭和32)年7月に河川上を利用することは建設省の方針で決定していたのである。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった
 そして、それは新聞報道等で既に広く知られるところとなっている。(1957(昭和32)年9月29日付読売新聞)

1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞
オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2
 中央区あたりを除いて、ほぼ現在の首都高速のネットワークに近い路線を「できるだけ既設の幹線道路や河川など公有地に建設」する案が公表されている。


 そして、これが1962(昭和37)年に作成された当初の都市計画の案である。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (3)


 古市氏は「首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直された。普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。」とするが、実際には、オリンピック招致以前に、道路や川の上をフル活用した計画が出来ていたのである。

 そして、前述の「昭和40年の交通危機に対する解決策」なので、開通目標は1965(昭和40)年度内の全通を目論んでいた。


 では、古市氏が言う「オリンピックが正式決定してからの計画の見直し」とは何なのか?


 この1962(昭和37)年段階の計画図が現在と違うところといえば

・日本橋川区間については、中央・総武線を跨いでから江戸橋ジャンクションまでは日本橋川を半地下として通過している。(現在の築地川区間のような構造)
・江戸川ジャンクション以東の日本橋川区間は通過せずに、人形町・浜町附近を両国まで高架で通過している。(この区間は東京オリンピック後に、日本橋川の上空を高架で通過し、箱崎ジャンクションを経由するルートに変更となった。詳しくはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html
・英国大使館、三宅坂ジャンクション周辺が半地下になっている。
・7号線小松川線の終点の接続道路が違う。


 といったあたりだろうか。(当然微小な修正は沢山ある。)

秋庭大先生2
 オリンピック決定前の首都高計画とオリンピック決定後の首都高計画はさほど変わらない。下図は首都高速道路公団発足直後のパンフレットに掲載された路線図である。

首都高速と東京オリンピック (7)
 この二つの図面を見比べたところで、古市氏の「このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。」という文にご納得がいくだろうか?


「だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られた」と古市氏は言うが、オリンピック決定前から「日本橋の上」だったし、なんなら当初は「日本橋の下」だったわけだ。

 


ということで、首都高が川の上を曲がりくねって走ること自体は、東京オリンピック招致前からほぼ決定済で「五輪に間に合わせた急ごしらえ」でも「負の遺産」でもないのである。そういう交通政策、景観政策が誤りだったという批判は有りうるが、五輪に間に合わせたせいではない。


山田氏の言う「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」の意味が分かったであろうか?

 

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2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?

 

 

 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁


 古市氏は、首都高速がオリンピック決定後に「計画を見直して、絶対間に合わない工事に「空中作戦」を採用した。」旨書いているのだと思う。(この辺、文脈がはっきり読み取れない。)
 
ところで「空中作戦」という言葉は、首都高が河川上を通過することを指す言葉としては、割と一般的に使われていると思うが、この言葉が使われるようになったのは、2005(平成17)年にNHKで放送された、プロジェクトX「首都高速 東京五輪への空中作戦」からである。


そして「空中作戦」が意味するところは厳密には何なのか?プロジェクトX以降は、主に3冊の書籍でその内容が語られている。

 

 

 オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。

(中略)

 そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。

「”空中作戦”はどうか」

 いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。

 

「プロジェクトX 挑戦者たち 28 次代への胎動」日本放送出版協会(2005年) 74~75頁

 

山田の主張によって、首都高速道路公団が設けられ、一号線(羽田・中央区本町間)、四号線(日本橋本石町・代々木初台間)を中心とする約三十二キロの建設がオリンピック関連事業として建設されることになった。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

「空中作戦だ」

 日ごろ冗談一つ言わない上司の不可解な言葉に、部下たちは目を白黒させる。

「俺の言っている意味が分からないのか」

 山田はわざとうんざりして言った。皆の戸惑いが、実のところ、いまは心地よい。

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

「じゃあ、君たちはどうしたらオリンピックに間に合わせられるんだ」

 大声で怒鳴ると、部下たちは従うしかなかった。部下だけではなく、安井の後任である東龍太郎都知事も、そして「影の知事」といわれ、実際の都政を仕切っている鈴木俊義副知事も少し首を傾げはしたものの了承した。

 こうして「空中作戦」は実行された。高速道路はまるで鉄でできた大蛇のように、東京の都心をのたうち回り、時には三回も四回も交差しながら、ビルの間を通り抜けた。

 生きた河川や由緒ある日本橋の上を高速道路が屋根のように通る形になったのも、この時である。

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀・著 2010年(鹿島出版会) 253~254頁

 

 首都高の建設ぶりを、世間は「空中作戦」と呼んだ。川や道路という公共用地の上の、文字通り「空中」に、みるみる高速道路ができていったからだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

「首都高速の謎」清水草一・著  2011年(扶桑社) 50~51頁

 

 興味深いのは、著者によって「空中作戦」の意味が違うのである。

 プロジェクトX及び東秀紀氏は
・オリンピック決定後に首都高を空中に上げた
・空中作戦と呼んだのは山田正男氏


 清水草一氏は
・首都高が空中に上がったのはオリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼
・空中作戦と呼んだのは山田ではなく、世間


 私が先にお示しした時系列と比較すると、清水氏の方が時系列の並びは正しいと思われる。

 

 では、当時の新聞や雑誌で「空中作戦」の用例を調べてみようと私は国会図書館等に通い詰めた。
 実は私が探した範囲ではプロジェクトX以前の使用例が見つからないのである。


 新聞のデータベース、首都高の広報誌、東京都や首都高職員が書いた建設関係業界誌の報文等をかなり力を入れて探したのだが、プロジェクトX以前は私の能力では見つけられないのである。


 プロジェクトX及び東秀紀氏の著書では、山田正男氏が「空中作戦」と呼んだことになっているが、山田氏の著書、対談集を読んでも「空中作戦」という言葉は出てこない。
 そして、当該番組を見ても「空中作戦」の言葉は、東京都や首都高の当時の担当者の口から出たものではなく、ナレーターのト書きの部分で出ているのだ。


 どなたかこの秘密が分かった方は是非私に教えてほしい。「空中作戦とはだれがいつどのような意味で発言したのか」を。
 (「演出の一環」ですかね。。。)
 
 ということで、「空中作戦」という言葉を使うなら、その出典が明らかでない現状では、「空中作戦(清水説)」とか「空中作戦(プロジェクトX説)」等と使い分けることを提唱する。


 そしてその視点で古市氏の「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」を読んでみると、どうやら古市氏は、内容を読むと「プロジェクトX説」に近いようだが、文献としては「首都高速の謎」をあげているので「清水説」なのだろうか??どちらでしょうか?

 

 このような現状で「ノンフィクション」「ルポルタージュ」に「空中作戦」という用語を定義づけなしに使うことの妥当性については、諸兄がご判断いただければ。

 

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2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

 

 

 首都高の整備はオリンピック後も進められたが、長らく深刻な問題に苦しめられることになる。渋滞だ。

 特に、片側2車線だった都心環状線を片側3車線にしておけば、だいぶ事態は緩和されただろうと言われている。様々なルートから車が流入する環状線が片側2車線では、渋滞は必至だというのだ(清水草一『首都高速の謎』)。これも、首都高の建設を急いだことの代償だろう。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)14頁

 

 ここで山田正男氏の登場である。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (2)
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (1)
「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」東京都新都市建設公社まちづくり支援センター

 

 実際に首都高速計画の立ち上げに関与していた山田氏によれば、
・もともと戦災復興の都市計画で街路を拡げようとしたところができなかった。
・都市高速道路はランプが近接して交通の織り込みが発生するので交通能率が落ちる。
・別ルートを作った方がまし。
・大蔵省は採算性から片側2車線でも反対していた。
 といったところか。これも「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではなさそうだ。

 なお、「別ルートを作った方がまし」という言葉を裏付けるかのように、東京オリンピックに向けての新設工事中に既に新しいネットワークの検討を行っている。
 下記は昭和37年段階での「東京都市高速道路将来計画図」である。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)


 山田の「別のルートを作った方がまし」の言葉どおり、片側2車線の都心環状線を補完するように「内環状線」が神田川の上空を通過し、「中環状線」が(現在とは違い)目黒川の上空を通過している。
 「オリンピックに間に合わせるため」だけではなく、オリンピック終了後も首都高速を河川の上を通過させる気マンマンだったのだ。


 結果的には中環状線は、目黒川の上空から目黒川の地下を潜ることに変更され「中央環状線」として開通した。
 内環状線は、ついに工事に着手されることはなかった。これが開通していれば都心環状線の渋滞は大幅に解消されていただろう。

 

 というわけで、首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではない。ただし、行政の施策としては、「別のルートを作ることは長い間できず、結果的に長期の間大渋滞を発生させていた」ということの批判を免れるわけではない。ただ「五輪の負の遺産」ではなく「道路政策失敗の負の遺産」というだけである。

 

 ちなみに、総武快速線の馬喰町駅は国鉄で一番地下深い駅として知られていたが、地下深くを施工しなければならなかった理由の一つとして両国から神田川にかけて首都高速内環状線の杭を打つ計画があったところ、それを避けているからである。あの階段を毎日昇り降りする方は「首都高の負の遺産」に苦労させられているわけだ。
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-7868.html


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2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?



古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5)
東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

 ところで、前述の「東京都市高速道路の建設について」では、「設計速度は1時間60粁を原則とする」とある。しばしば「首都高速道路は、オリンピックに間に合わせるために河の上を曲げて通しているので、(100km/h出せる東名や名神等の高速道路とは違い)60km/h」しか出せない。」と言われることがあるが、これも「オリンピック招致前からの仕様」であり、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではない。

古市氏はそこについてあまり触れていないため、詳細はここでは割愛する。

 

 

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3 結論


 以上、だらだらと述べてきたが、古市氏が指摘する首都高と東海道新幹線の「負の遺産」については、多くが「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではないというのが私の結論である。
 首都高建設や東海道新幹線建設にあたって「東京オリンピックにまにあわせる」ということが大義名分となって広く関係者に共有され、そのおかげもあって首都高や東海道新幹線が東京オリンピックに貢献できたということは事実ではあるが、なんでもかんでもが「五輪に間に合わせた」わけではないのだ。

 

<誤解されたまま広がっている東海道新幹線建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・オリンピックに間に合うように東海道新幹線の工期5年を設定

・オリンピックに間に合うように鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択

 

<実際の東海道新幹線建設の経緯>

 

・在来線が昭和36、7年頃にはパンクする虞。

  ↓

・一番長く工事がかかる新丹那トンネルの工期にあわせて、東海道新幹線の工期5年を設定

・所要時間、曲線等の規定を決定

・新丹那トンネルの工期より長くなること、米原で北陸線に接続することから鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択。


 ↓

・東海道新幹線工事着工

  ↓

・東京オリンピック開催決定

 

<誤解されたまま広がっている首都高速道路建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立

  ↓

・オリンピックに間に合うように「空中作戦」で高速道路を川の上に

 

<実際の首都高速道路建設の経緯>

 

・都内の一般道が昭和40年にはパンクする虞。

  ↓

・昭和40年に間に合うように高速道路を川の上に

  ↓

・日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)

  ↓

・首都高速道路公団法が国会で成立

  ↓

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立(日本道路公団から先行部分を引き継ぎ)

 

 世間で広がっている誤解と実際の流れを再整理してみた。

 これを元に、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を読んでいただければ。

 

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 上記で「日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)」と書いた。

 実際には、「オリンピック開催決定前」の昭和33年度に「首都高速道路公団ができる前に日本道路公団が」「川や公園の上を活用して」高速道路建設に着手していたのである。

 ※詳しくは、http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

 

 話は変わるが、先日のブラタモリで、白金の住民が公園の自然を守るために、首都高速道路のルートを変えた話が出てきたのを覚えている方はいらっしゃるだろうか?

 

 それが、この日本道路公団が先行着手した部分なのである。そして折衝等に時間がかかった結果、オリンピックには間に合わなかったのである。

 「空中作戦」にしたから有無を言わせず、オリンピックまでに間に合わせるための工事ができたわけではないのだ。

 そして「江戸っ子はオリンピックに向けた高速道路の工事に反対するなんて野暮なことはしなかったんだ」というのも眉唾なのだ。

 

 古市氏は、「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」のなかで、東海道新幹線に係る「用意買収係の悲哀」について紹介している。

 私も、当時首都高建設に従事した職員の悲哀について紹介している。是非こちらもお目通しいただきたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-422f.html

 

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4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

 東京モノレールについては、私はあまり詳しくないのだが、一点だけ古市氏に判断の参考にしていただきたい材料があるので紹介しよう。


 東京モノレールの親会社であるJR東日本も、自ら東京モノレールに死刑宣告を出すような計画を打ち出している。羽田空港と都心を結ぶ羽田空港アクセス線を整備し、東京や新宿、臨海部まで一本の電車で行けるようにするプランだ。
 ものすごく便利そうだ。しかしここで浮かんでくるつっこみがある。
「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」

 もちろん、東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる。だがそもそも1964年のオリンピックがなければ、東京モノレールの計画自体なかっただろう。そして東京モノレールがなければ、羽田空港アクセス線がもっと早く整備されていたかも知れない。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)21~22頁

 

 これに対する直接の回答ではないのだが、「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」に関する参考資料のご提供である。

菅 (前略)ただ、中央線の都心部の増強を図りたい気持ちは国鉄のなかに多分あって、かなり東西線のルートと重なるわけですよね。東西線は、結果的には日本橋を通って江東区のほうへ抜けていきますけれども、また西船橋で国鉄とつながるんですから、あれこそ営団なんかにやらせずに、国鉄が自分でやってもおかしくなかった線のはずですよね。

角本 ええ。ですから、東西線を国鉄が自分でやってくだされば、営団の資金をもっと新しい線に向けられましたね。

鈴木 国鉄がそれほど都市内の交通に関心がなかった。

角本 というより、お金がない(笑)。やはりそれだと思う。「国鉄の本来の使命にもっとお金を入れたい」ということ。特に東海道新幹線もやっていましたから。

菅 そういうことなんでしょうね。私たちが(国鉄に)入った1960年代半ばにも、「都市鉄道というのは儲からない」という議論がありました。

 

「角本良平オーラルヒストリー」交通協力会

 

角本良平(元 国鉄)
菅建彦(元 国鉄)
鈴木勇一郎(立教大学術調査員)

 

 東海道新幹線建設費用を捻出するために、既に建設が決まっていた地方路線の予算を削っていた当時の国鉄に、「羽田空港対策の余裕資金があったか」という観点でご参考にしていただきたい。

 既存の通勤電車のラッシュ対策にも手が回っていなかったのが当時の実態である。首都圏の通勤対策(5方面作戦)が行われたのは、東海道新幹線開通後である。そしてその巨額な投資は赤字転落した国鉄経営を更に苦しめて行ったのである。

 

 ※オリンピック当時の全国でのモノレールブームについては、広報ひめじに詳しい。https://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s30/pdf_s39/19640215339.pdf

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2018年9月 2日 (日)

貨物新幹線の詳細な計画を国鉄新幹線総局OBが残していた

 「東海道貨物新幹線は世界銀行向けのダミー、ポーズだった」説に執拗に反論している私であるが、貴重な資料を収集したのでご披露申し上げる次第。

第13話=世銀借款

 

 この貨物問題に関しては、当初から国鉄側も頭を悩ませていた。技師長・島の頭には、のっけから貨物新幹線構想の「貨」の字もない。速度の違う旅客と貨物が同じ路線に混在するからこそ、東海道の輸送力がますます逼迫するのだ。(略)ハイウェイのように速度によって棲み分けさせることが新幹線の大前提である。しかし、国鉄内部にも根強い貨物新幹線論者が存在したし、なにより当時のアメリカでは、旅客輸送は「5%ビジネス」であった。鉄道輸送の95%は貨物であり、旅客はもっぱら自動車と航空機に移っていたのである。

 そこで、世銀への説明資料には、貨物新幹線の青写真も挟み込むことになった。将来は貨物新幹線も走らせたい・・・・・・という世銀向けの苦しいポーズである。当時のパンフレットや世銀向けの説明資料をみると、貨物新幹線のポンチ絵、つまり簡単な設計図が入っている。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 193~194頁から引用

 この高橋団吉のような一面的な見方をする方は割と多くいらっしゃるのだが、その根拠としては島秀雄氏の「D51から新幹線まで」だったりするのだろう。島秀雄氏はこの中で下記のように語っている。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (13)

 

 ところが、私が以前からブログにUPしているように貨物新幹線の実現に向けての現場の動きは着々と行われている。

 これについて実際に貨物新幹線を担当していた角本良平氏は、「角本良平オーラル・ヒストリー」において、下記のとおり述べている。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (14)

 この辺の経緯は、かつて「貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)」にまとめたところだ。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6d9d.html

 

 ところで、この角本版の貨物計画について、詳細に記している国鉄職員の手記があった。

 当時、国鉄新幹線総局に勤務していた高橋正衛氏による「新幹線ノート」である。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (1)

 ここに出てくる「開業準備委員会」は、

東海道新幹線開業準備委員会

 東海道新幹線開業後の運営に関する基本的事項及び工事過程における重要事項について総合的に調査審議するため、(昭和)37年10月設置した。

 

「昭和39年 交通年鑑」から

 ここで高橋氏が記述している場面は、十河総裁らが新幹線工事費不足等を原因に更迭されたことを受けて開業に必要(最小限)な範囲の工事範囲を議論しているものだ。新幹線の編成を6両編成にするような予算削減策も検討されたことがうかがえる。

 ここで「三、 旅客営業の開業に必要な主要設備とする。」という記載がある。つまり、「貨物は昭和39年10月の開業には含めない。」ということがここでオーソライズされたということではないか。

 よく「予算不足のため貨物新幹線は完成しなかった」と言われるが、その具体的な経緯がここに示されていると言えるのではないか?

 この後「新幹線ノート」の158頁にも「新幹線工事費の(略)最終予算額のなかに貨物輸送計画の予算は、一部貨物駅用地等の取得を除き含まれていない。」とある。

 例えば鳥飼貨物駅の用地買収費と、開通後に工事を行うことが困難な本線上空通過部分の構造物のみといった予算配分がなされたのではないだろうか?

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 ところで、東海道新幹線の建設誌(建設史)は、国鉄としての全体版がなく、各工事局毎にバラバラと出版されているのだが、これについても高橋氏は、全10巻(各500ページ)の東海道新幹線建設史の出版が部長会で承認されていたが、予算超過問題の中で無駄な出資を押さえるべきとの理由で中止され、後日各工事局で個々に発刊されることとなったとその背景に触れている。

 予算不足でできなかったのは、貨物新幹線だけではなかったのである。

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 閑話休題。貨物新幹線計画に戻ろう。

 高橋氏は角本氏から貨物輸送計画について聞き取りをしたり、資料を借りて書き写したりしている。それが「新幹線ノート」に掲載されているのである。

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (2)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (3)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (4)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (5)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (6)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (7)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (8)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (9)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (10)

 静岡の「抽木」は「柚木」の誤りであろう。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (11)

 名古屋貨物駅の「日比津」は現在の車両基地である。当時の国鉄広報誌ではここも「貨物線用の工事」として紹介している。貨物新幹線用工事の名残は鳥飼だけではないのである。

 また、貨物新幹線は在来線とは直通できないわけだが、市中に「デポ(貨物取扱所)」を設けることでカバーしようとしていたということだろうか?

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (12)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (15)

 「M補佐」は、「角本良平オーラルヒストリー」に出てくる「貨物輸送設備・制度」担当の「森繁」氏のことであろうか。

新幹線総局

 島秀雄氏や高橋団吉氏のいうように貨物新幹線が世銀融資を獲得するための見せかけの方便にすぎないものであればこのような沈滞感は醸し出されないことであろう。

 世銀のためのダミーであれば、嘘をついた十河や島もいないし、何もせずに適当に世銀向けの言い訳だけ作っておけばよいはずである。

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 高橋氏が触れている貨物輸送計画であるが、運輸界1959年6月号「東海道広軌新幹線について」矢田貝淑郎(国鉄幹線調査室総務課) ・著 10頁にでてくるA案、B案、C案とは整合がとれていることを付言しておく。

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (1)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (2)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (3)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (4)

 

 なお、高橋氏の「新幹線ノート」によれば、佐藤大蔵大臣がIMF年次総会に出席の際に世銀の意向を打診したのが1959(昭和34)年9月、島氏も触れる世銀ローゼン氏が来日したのが1959(昭和34)年10月であるから、この矢田貝氏が執筆した貨物新幹線の計画は「世銀に言われてでっち上げた」にしては時空を遡りすぎであることを申し添える。

 

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(関連記事)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d2af.html

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-a11f.html

貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6d9d.html

新幹線予算超過の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6bd1.html

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2018年1月10日 (水)

「夢の超特急」は、国鉄社内からの「新幹線なんかできっこない」とバカにする気持ちを込めた蔑称だった

 講談社の「現代ビジネス」というウェブサイトに、川口 マーン 惠美氏が「ドイツ版新幹線がお披露目した「夢」のようなポンコツっぷり」という記事を寄稿した。

 私はドイツの新幹線には関心がないのでスルーするとして、文中「東海道新幹線の構想が公にされたのは1957年。しかし当時は、鉄道は過去の交通機関で、これからは飛行機と自動車の時代という風潮が強く、「できないもの、無用のもの」という揶揄を込めて、「夢」の超特急と呼ばれていたという。」という記載に対して、鉄道趣味者の方から「初耳だ」「ソースを出せ」「どうせマスコミが(ry」といったリアクションが見受けられた。

 

 私は天邪鬼なので、「じゃあソースを探してみるか」とちょいと探したら、すぐ出てきた。

 

 国鉄幹線調査室調査役から新幹線局営業部長等を歴任した角本良平氏はこう語っている。角本氏は、中公新書「東海道新幹線」等の著書もある。

高嶋 「夢の超特急」という言い方はいつごろ出てきたんですか。

角本 最初だと思います。誰がつけたか、私は知らない。だけど、最初のころでしょう。これは2つ意味があって、「夢の」というのは「どうせできっこない」ということです。営業局の人たち、彼らは「どうせできっこない」と思っていた。実際に予算がついて、建設が始まってからも、非常に多くの営業局マンは、そう思っていた。ということは、我々、期限を切っているでしょう。「そんな期限でできるはずはない」と。実際は半年期限延びたわけですから。

二階堂 「新幹線自体が永久にできるわけない」ということではなくて、「そんなに早くできるわけがないということ。

角本 そうそう、そういう意味。それからそんなに速い速度のものができるわけがない」と、そんな意味もあったと思います。ですから、篠原研究所長、それから海軍出身の技術屋、皆それを実際にやったことがないから、「そんなのできるだろうか」という疑問でしょうね。営業から言えば。

二階堂 「できっこない」と思っていたのは営業局、という認識が、角本さんのなかで強いわけですね。

角本 私は、そう思っています。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」交通協力会・刊

 「できないもの」と揶揄して夢の超特急と呼んでいたのは、マスゴミではなくて最初から国鉄社内だったということだ。

 角本良平氏一人のコメントだけでは不十分かもしれない、角本氏と同時期に幹線調査室の総括補佐を務めていた矢田貝淑朗氏のコメントも見てみよう。

幹線調査室

中村 幹線調査室が発足した段階では、もちろん予算もついていなければ、計画も雲を掴むようなものであった、と。

矢田貝 もう何もなかったはずです。私が行ったときですら、ほとんど何もありませんでしたから。「弾丸列車、夢の超特急、速度が凄いらしいが、矢田貝さん、そんなことできるの?」とどこへ行ってもそうだったのです

中村 その段階ではもう、時速200キロという数字は出ていましたか。

矢田貝 出ておったんです。だから「夢の超特急」という言葉があったんです。これはそんなことできるわけがない」という意味の「夢」で、部内でバカにされるときの言葉なんです。そろそろ幹線調査室から幹線局になる頃にも、有名な作家で「万里の長城、戦艦ヤマトと並ぶ大バカだ」と言ったのがおったじゃないですか。

二階堂 阿川弘之です。

矢田貝 そうだ。そうやって笑い物にされたり、バカにされたり、「普通の鉄道なら地方に利益もあるだろうが、田んぼに万里の長城を造られたって困る」という雰囲気だったんですよ。そういうときですから。

矢田貝淑朗オーラル・ヒストリー」交通協力会・刊

 角本氏は「国鉄営業局が」と語っているが、矢田貝氏は「どこへ行ってもそうだった」「部内でバカにされる」と語っている。

 川口 マーン 惠美氏の肩を持つつもりもないし、余計な詮索をするつもりもないが、ジャンピング土下座を自主的にやった方がよい方もいらっしゃるのではないか。

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(追記)

須田寛は夢の超特急について嘘をついているのではなか

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4184?page=2

 JR東海の須田寛氏は「「夢の超特急」は、マスコミの方などが使われたものですね。国鉄(当時)自身では、1度も使っていません。」と語っているようだ。

 当時幹線調査室に居た二人と須田氏のどちらを信用するかが問われているな??

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2016年8月16日 (火)

恵知仁( @t_megumi )氏「幻の貨物新幹線」半世紀残った遺構、来年にも見納めに→いや、まだまだ残るわな

 「乗りものニュース」に、「幻の貨物新幹線」半世紀残った遺構、来年にも見納めに 東京〜大阪5時間半 という記事が載ったおかげでその瞬間から私のブログのアクセス数がガンガン増えたので喜んでいる次第である。

 「三島高架橋」で検索すると、阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅がヒットするもので。

 ところで、ライターの恵知仁氏は、「利用価値がないながら、管理の手間はかかるこの「貨物新幹線計画」の痕跡、あと1年ほどで消えてしまう見込みです。」としているが、実際のところは、貨物新幹線の「ジャンクション」はまだまだ現役であり当分消える見込みはないのである。

 大阪じゃなくて名古屋なのだが。で、今日なおバリバリ利用されている。

 東海道新幹線の貨物駅は、東京(品川(当初)→大井)、静岡(柚木)、名古屋(日比津)、大阪の4箇所に計画され、それぞれ用地買収も実施済だったのであるが、恵氏の記事同様、名古屋でも貨物駅への線路が新幹線の本線を跨ぐため、そこが工事され、完成しているのである。

 

 東海道新幹線の建設誌には、下記のような名古屋駅と貨物駅の配置図が掲載されている。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (1)

 実際には、貨物新幹線は実施されなかったため、全て旅客電車の基地に転用されているが、もともとは貨物線が新幹線の本線をオーバーパスするための構造物が本線の開通にあわせて建設されているのである。

 「交通技術」1963年7月号には「工事たけなわの新幹線名古屋地区」と題した記事が掲載されている。

 ホームをはずれるところから、名古屋貨物駅としての日比津ヤードとを結ぶ貨物線上下2線が分岐する(以下略)

 

「交通技術」1963年7月号34頁

 

 貨物ヤードは庄内川沿いの日比津に予定されており、貨物線は中村高架橋のところで新幹線の下り本線を乗り越す。貨物扱いは来年10月1日開業と同時に行わないことになっているが、ここでは上下本線に挟まれており、開業後では施工不能となるので、日比津への乗越部のところまで施工済である。

 

「交通技術」1963年7月号34頁

 掲載されている施工写真を見ると、まさに大阪で解体工事が進んでいる三島高架橋と同じような構造物が見て取れるのである。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (2)

 

 現在は下記のような状況である。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (3)

 東京方から大阪方面を望む。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (4)

 大阪方から東京方面を望む。右側の高架橋が貨物駅への分岐線となるはずだった。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (5)

 「日比津線」というのか。

 前掲の図面からすると赤丸のあたりである。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (6)

 件の大阪の案件も完成していればこのような姿を見せていたのであろう。

 なお、余談ではあるが、恵知仁氏は記事中

 東京新聞が2013年に報じたところによると、インフレによる東海道新幹線の建設費増大も「断念」の理由とされています。

 としているが、インフレによる東海道新幹線の建設費増大は、上記の「交通技術」記事にも出てくる「貨物扱いは来年10月1日開業と同時に行わないこと」の理由というのが正当であろう。

 昭和40年3月の国会では、国鉄柴田常務理事(当時)が

 国鉄が新幹線を開業いたしますまでには、先生も御承知のとおりに予算不足の問題がございまして、昨三十九年の十月に旅客の輸送開始をいたすまでの間に、いろいろとやむを得ない予算上の事情から、計画の変更と申しますか、一部をおくらせざるを得なかったということがございまして、その結果として、貨物輸送は、できれば一番最初は三十九年の十月、昨年の十月同時に開業するという計画でございましたけれども、ただいま申しましたような事情でおくれざるを得ない、ただいまの予定では四十三年の秋、これはどうしてもその時期になるという事情がございます

との答弁をおこなっているところだ。

 また同様に

「いつの間にか貨物列車計画は立ち消えに」(公益財団法人 交通協力会『新幹線50年史』)なってしまいました。

 とも書いているが

 「国鉄線」1972年3月号では、下記のように明確に比較検討したうえで在来線の貨物で用が足りると判断されているようだ。

貨物新幹線をやらなかった理由

 恵知仁氏も、もうちょっとググってみるとかしてはどうか。

 「乗りものニュース」のビジネスモデルとしては、大手ポータルサイトへの転載によるレベニューシェアが柱だろうから、取材やライターに大したコストはかけられないだろうというのは理解しているのだけれども。

(参考)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

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2016年5月14日 (土)

「国鉄バスに羽島を譲った?」岐阜羽島駅の駅名決定の理由とは?「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その3)

角本 (前略)ついでに今言っておきますが、岐阜羽島という駅名を決めたことについては、中畑三郎さん(※引用者注:新幹線総局 総務局長)の功績。ということは、局長会議か理事会議か私は憶えがありませんが、この問題を議論すると き、岐阜県内に1駅つくるかどうかを決定しないまま相談に出していると思います。やはり岐阜県内に1駅つくらなければ運転上困る。しかも、滋賀県の側は米原のほうから来る。したがって、関ケ原の難所を通る、という前提で議論しまして、そのときに1駅をつくる。「その場所は羽島だ」と。ところが、 羽島という場所は岡山県の国鉄自動車線に羽島とい う駅名があります。これもそのままにして羽島にするかどうかということが話題になったときに、中畑三郎が「岐阜羽島にしてはどうですか」と突然言っ た。それで岐阜羽島の駅名が瞬時にして決まった。

二階堂 なるほど、わかりました

鈴木 新岐阜というのも、名鉄にありますからね。

角本 そこらのところです。それから、岐阜羽島 という名前にすることによって、岐阜県に1駅つく るという顔が立った。羽島を識別するためじゃなくて、岐阜県を象徴するための駅名にしたということ で、大野伴睦の顔が立った。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」229頁から引用

東海道新幹線 岐阜羽島駅 命名の経緯

 新幹線の岐阜羽島駅は、岡山県の国鉄バスに羽島というバス停があったため、「岐阜」をつけたと。また既に名古屋鉄道に新岐阜駅があったため、「新横浜」のようにはならなかったということか。

 1933年3月25日付けの官報によると確かに岡山県に羽島という停車場がある

新幹線岐阜羽島駅に勝った国鉄羽島バス停

 

 ちなみに、名神高速道路のインターチェンジ名称も「岐阜羽島IC」だ。しかし、こちらは、先行して羽島PAがあった(岐阜羽島ICは、名神が全線開通した後に追加された)ためか?(高速道路のバスストップは「名神羽島」)

 名鉄電車は「新羽島」なので、羽島市へのアクセス施設の名前でズバリ「羽島」は無いことになるのか。(※誤りをご指摘いただいたので削除します。)

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新幹線予算超過の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その2)

 貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)で触れたのだが、元国鉄技術者の長・信州大元教授のウェブサイトから再度引用したい。

 東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない

(中略)

*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。

(中略)

 

高橋団吉著「新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語」について 長 尚のホームページ

 総裁の首が飛ぶほど予算が足りないにもかかわらず、「世銀への見せかけ」にすぎない(?)貨物輸送への投資(単に貨物駅の用地買収だけでなく、橋脚全体が貨物の荷重に耐えられる規格なのである。)ができるというこの矛盾。一体、新幹線の予算はどうなっていたのか?

 予算の積み上げの実態から不足に伴う予算改訂の状況についても角本氏は語っている。

二階堂 角本さんが担当されていた営業の資料というのは、この時期に新たにつくられたのか、それとも過去のものを踏襲したんでしようか。

角本 これは、過去のものをそのまま使わなきゃいけなかった。ということは、非常におかしい話ですけ ど、国内は建設開始以前の資料で理解しているわけです。そうすると、1900億円でできると了解している。 実際は、そのときもうインフレがかなり進んでいる。 しかし、過去の数字を変えると国内の信用を失う。それから、国外に対しても過去の数字を変えるわけにいかない。そのために、非常に苦しい説明を島さんと大石さんがしていたと思います。我々は、言われる数字をそのまま説明するということです。

二階堂 世銀に対しては、「こういう計画でやって、 お金がいくらかかって、いくらぐらいあなたのところから借りたい」というような建前にすると思うん ですが、それというのは、今までの計画の数字のなかから算出したわけですね。

角本 1900億あまりでできると言い切っていたわけです。

二階堂 この時点で新たに経理の方と打合せされたりとか、そういうことではなかったわけですね。

角本 この段階では全くありません。ということは、大変おかしい、詐欺行為ですよね。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」224頁~225頁から引用

 

 たしかに昭和37年ごろまでは、世銀融資を受けている関係もあり、国際信用上、大幅な予算オーバーを公言しにくいという事情もあった。しかしこのころになると、新幹線建設が膨大な予算不足を抱えていることは、国鉄全体、政府・国会関係者の誰もが知る既成事実であった。

 だから、38年2月、国会の予算審議の場で、経理局経由の最終報告を受けて、十河はこう啖呵を切った。

「全部で2926億円で完成できる。これ以上は要求しない」

 ところが、この39年度予算が成立して間もない4月末日に、「計算し直してみたら、さらに874億円足りない」という情報が新聞にリークされ、国鉄周辺が騒然となる。事実、さらなる工事費不足874億円という報告が十河にも届いた。この十河引責の実弾を届けたのは、新幹線総局長の大石重成であった。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 233頁から引用

 この「島秀雄物語」だと、「世銀融資の額に引っ張られて、予算不足がなかなか公言できなかった」という趣旨の書き方だが、角本氏の話によると、既に世銀融資の段階で「もうインフレがかなり進んで」おり、予算オーバーすることは必定で、「1900億でできる」と世銀に説明したこと自体が「詐欺行為」だったと。

 また、予算修正の「計算し直したら再度不足」というのも、そもそも十河信二、島秀雄、大石重成、兼松學の三味線だったのではないかというのである。

 大石氏が「十河引責の実弾を届けた」もなにも、「4人で「小出しで行こう」 と判断したということ」と角本氏は語る。

二階堂 建設の予算の話に移りたいと思うんですが、1962年から63年に工事が本格化して、「当初の1900億では足りないな」ということが、内々にはおそらく気がつかれていたのではないかと思うんです。

角本 内々もない(笑)。みんながわかっていた。 だって、1957年価格で計算したものが、5年たって通用するなんてだれも思わないでしょう。ただし、世界銀行の手前があるという妙なことから、だれもそれを修正しようとはしなかった。それだけのこと です。

二階堂 なるほど。それで、来るところまで来て、まず1962年度の年度末に、まず2900億円に増やすと。 それから、数カ月後にまた1000億円ぐらい増えているんです。これ、「何で一気に3800億にしなかっ たのかな」と思うんですが、どうなんでしようか。

角本 それは、私にもわかりません。ということは、十河信二と島秀雄と大石重成、この3人でしょう。 それで横に兼松さんがいた。これで4人ですか。そういうことでしょう。

二階堂 彼らが何らかの判断を・・・・・・。

角本 何らかの判断をしたと。「小出しで行こう」 と判断したということでしょう。「小出しに行って、 最初乗り切れなかったら、次にもう一つ加える」と、そう彼らは判断していたんだと思います。

二階堂 やはり予算を1000億円ずつ増やすというのは、それなりに大変な作業を伴うものなんでしょうか。

角本 作業としては大したことない。「政治的に説明するのが骨が折れるかどうか」ということで判断したと思います。

二階堂 国会で予算を通すとか、それはかなり面倒なことは面倒なわけですよね。

角本 大蔵省の担当官の能力じやないんでしょう か。おそらく大蔵省が積極的な人で、理解力があれば一気にやれたはずです。 1900億で足りるわけがないどころか、5年前の単価で決めていることを、当時の物価上昇を考えたら 足りるわけないですよ。だから、だれが考えても足りるわけがない計算を、表向きもっともらしくやっ ていると。大変不思議なんですよ。

二階堂 遠藤さんがなさった最初の計算は、調査会に短期間のうちに出さなければいけなかった。それは、その当時できることとしてはかなり最大限のところまでやって、ある意味、それはそれで正確だったと、こういうようなお話を前回同いました。

角本 非常に正確です。ということは、最初は57年価格でしよう。当時の人件費と物価の上昇を考えてそれを掛ければ、最後は当然倍になるわけですよ。実際3800億ですから、ちょうど倍になっていますでしよう。逆に言いますと、57年の遠藤鐵二・大石重成の計算は非常に正しかった。恐るべ く正しかった

二階堂 物価の上昇なり、人件費の上昇以外にも、 土地が高くなったりとかもあったようですし、線路を高架にしたり、そういう要求が続出して、その分予想外の事態、不可抗力もあったと角本さんの著書に書かれているわけですね。

角本 それは、当然、加えなければいけません。 不可抗力でしよう。それから、私が東京駅に入れたということもあります。それは大きいと思います。

二階堂 そういうものは、当初から予想はできないわけですね。

角本 大計画を立てますとき、それをやるとできないと思います。だから、大計画というのは思い切って線を引く。黒板に白墨で大きな線を引く、そういうものだと思います。

二階堂  その線を、当初は2000億というところで 切ったわけですね。

角本 そう。それから、当初は「これ以内でやる」 ということにしておかないと、これはまた無限な要求が始まる。地元から次々物を言われたら、収拾がつかなくなると思います。

二階堂 「足りないんじゃないか」ということで、62年ころから建設のほうでも予算を色々節約しようという動きがあったと聞いています。

角本 それは、随分節約してくれたと思いますし、 逆に言うと頭を決めておいたことが節約効果になった。その意味では、大石重成というのは非常に偉い人だったと思います。大ざっぱに言いますが、彼ははじめ、1957年価格で3800億円と出たのを、半分に切ったんです。当時の土木の計算から言うと、「積み上げ計算を半分に切って、大体工事ができる」と いうのが常識だったと思います。積み上げ計算をする担当者は、それぞれ膨らませて持ってきます。査定するほうは半分に切る。それで大体できる。もちろん物価上昇は別ですよ。これが彼らの常識であって、もしも賃金と物価の上昇がなければ、1900億円でできていたはずなんです。 ところが、どうしたわけか、国鉄当局は十河さんを援護しなかった。大石重成を援護しなかった。島さんも援護しなかった。ですから、私が申し上げたような説明を私自身がすればよかったんだけど、それは越権行為になりますから、私もできなかった。 非常に残念なことです。

二階堂 このとき、建設費がどんどん増えて問題になって、1963年の5月に十河さん、島さん、大石さんが辞任されますよね。そのときの報告書、正式な名前は『東海道新幹線工事費不足問題特別監查報告書」というものが出ています。

角本 その責任者はだれだったですか。

二階堂  事務局は監察局になっているわけです。それをちょっと読んで私が驚いたのは、大石さんへの個人攻撃がかなり露骨に書いてあるんです。

角本 そうなんです。ですから、そのときの監査を目のある人がやっていたら、「上がったほうが正しかった、査定したほうも正しかった」となるはずです。物価の上昇というのは責任の外でしょう。ですから、「地価と物価の上昇を除けば、当初の査定が正しかったと」いう答えを出すべきだったんです。 それをなぜ出さなかったか。査定したほうに意地悪があったか、能力不足があったか、どちらかでしょう

二階堂 そこまで激しく大石さんの独断専行ぶりを批判する理由は、新幹線総局という体制に問題があって、彼が理事として全権を持っていたことが諸悪の根源だと、このような論法になっているわけです。

角本 諸悪ではないんです。当たり前に査定して、当たり前に物価並みに工事費が上がっただけなんで す。ですから、何も諸悪はなかった。そう言うべきだった。あの監査報告書は、 大石さんを目のかたきにした。あるいは「十河憎し」 という人たちがいた。そして、この監査報告書を認め たのが石田禮助であるかどうかなんです。

二階堂  この調査をはじめるときの監査委員長は石田さんのはずですよね。

角本 でしょう。そうすると、石田禮助というのはいかに悪者か、ということです。後世、石田禮助を褒める本ばかりが出ている。大変おかしいと思いますよ。

二階堂 このあと、吾孫子豊さんに代わって、副総裁には磯崎さんがなっているわけですが・・・・・・。

角本 磯崎さんは、「アンチ十河」の代表です。 計画決定前、自分は東海道新幹線に反対しているわけでしょう。それで、東海道新幹線という国鉄の功績が自分の枠外で出てしまっている。それに対する恨みというのは最後まであった。それで自分は、今度は山陽新幹線をつくるわけでしょう。それで大赤字の原因をつくっているということ。

二階堂 磯崎さんが新幹線にあまりいい思いをされていないというのは、角本さんは具体的にどういうところで感じられたんですか。

角本 どういうところというよりも、磯崎さんが 新幹線に反対であって、あるいは磯崎さん個人より も、当時の営業局が反対であったということは、57年の段階からはっきりしていたわけです。だから、 遠藤鐵二は非常に微妙な立場だったと思います。遠藤と磯崎は2年違いで仲が良かったということです けど、仕事上は意見が対立したという格好になっているわけです。

二階堂 このとき、瀧山さんも理事におられるわけです。

角本 これは一言で言うと、「どうにもならない人だった」ということです。

二階堂 瀧山さんは、新幹線計画についてどう思っていたんでしようか。

角本 絶対反対。瀧山さんがなぜ在来線増強にこだわったかというと、瀧山さんは審議室にいて1957年からたしか審議室長になったでしよう。それで在来線増強計画を立てていた。そこへ降って湧いたように新幹線がかぶさってきた。そのとき、磯崎さんと瀧山さんは転進できないんですよ。これは石頭と言うしかしょうがない。国鉄で石頭でない人は、菅さんだけ。ほかは皆、石頭 (笑)。

二階堂 では、瀧山さんは、十河さんに対してもある意味・・・・・・。

角本  絶対反対。だから、瀧山・磯崎は「アンチ十河」の2人ですよ。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」240頁~242頁から引用

 ここで冒頭の元国鉄技術者の長・信州大元教授の問いかけを振り返りたい。

 「貨物が見せかけならば、ただでさえ資金不足なのに貨物駅に投資するわけないだろう」という長氏の問いかけに対して「予算不足は最初からわかっていたことで、予算改定も小出しにして行けると思っていたからこそ貨物への投資もできたということなのではないだろうか?

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貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

 「貨物新幹線は世界銀行向けの見せかけのものだ」という論がある。

第13話=世銀借款

 

 この貨物問題に関しては、当初から国鉄側も頭を悩ませていた。技師長・島の頭には、のっけから貨物新幹線構想の「貨」の字もない。速度の違う旅客と貨物が同じ路線に混在するからこそ、東海道の輸送力がますます逼迫するのだ。(略)ハイウェイのように速度によって棲み分けさせることが新幹線の大前提である。しかし、国鉄内部にも根強い貨物新幹線論者が存在したし、なにより当時のアメリカでは、旅客輸送は「5%ビジネス」であった。鉄道輸送の95%は貨物であり、旅客はもっぱら自動車と航空機に移っていたのである。

 そこで、世銀への説明資料には、貨物新幹線の青写真も挟み込むことになった。将来は貨物新幹線も走らせたい・・・・・・という世銀向けの苦しいポーズである。当時のパンフレットや世銀向けの説明資料をみると、貨物新幹線のポンチ絵、つまり簡単な設計図が入っている。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 193~194頁から引用

 他方、ご自身が国鉄の技術者として新幹線建設に従事した長・元信州大教授はこう述べる。

 東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない

*東海道新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)は、N標準活荷重(貨物列車荷重)とP標準活荷重(旅客列車荷重)とからなっていて、平成14(2002)年に改正されるまで、この基準は生きていた。

*貨物駅のための用地買収が各地でなされていた。

*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。

*東海道新幹線開業後の昭和40年3月15日の国会の法務委員会で、国鉄常務理事が「国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております」と答弁している。

 確かに、当時の技師長の島秀雄氏は開業後に「世界銀行に対しても一応本心は伏せて、新線でも貨物輸送をしないわけではないという態度でのぞむことにした」と語っているので、作者の高橋氏もそれに基づいて書いたのであろう。個人的に島氏がそのように考えていたかもしれないが、事実は上記したように、国鉄として旅客だけとする意思統一はまったくされていない 。そればかりか、開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていたことは間違いない。島氏は車両設計が専門で、新幹線建設工事や建設費などについては詳しくなく、基本的にこの問題には関わっていなかったはずである。

 

高橋団吉著「新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語」について 長 尚のホームページ

 私も貨物新幹線についてはいくつかの記事を書いてきたところである。

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

 島の思いはどうあれ、貨物新幹線が実際に取り組まれていたのは間違いない。しかし、島の気持ちと現場の進み方のギャップがどうも腑に落ちない。

 そこに国鉄新幹線局営業部長等を歴任し、実際に新幹線の貨物計画に携わり、「新幹線開発物語」等の著書でも貨物新幹線に触れていた角本良平氏のオーラルヒストリーに出会ったので、貨物新幹線に関係する箇所を紹介していきたい。

 菅 世銀に対しては、少なくともこの時点では「貨物輸送もやる」という前提でお話されているわけですね。

角本 「徹底してやる」と。

菅 そのあたりのことも、角本さんがご担当されたんですか。

菅 そうです。私は旅客、貨物と両方やっていまして、前後を正確に言えませんけれども、1960年の秋にアメリカの貨物輸送を見てからは、世銀との関係も随分やりやすくなった

 ただ、世銀の相手もあまり馬鹿じゃないから、貨物輸送をやるかやらないかということについては、島さんはやるそぶりはみせていたけれども「これは本当かうそかわからないな」ということは、最後の段階で気がついていたと思いますね。

二階堂 角本さんが実際に貨物輸送を説明された感触として、そうじゃないかと。

角本 そう。

二階堂 ということは、角本さんの説明もある意味、旅客を重点にされていたということなんですか。

角本 いやいや、そうじゃない。私は、貨物駅の用地まで買っているわけだし、大井埠頭の海の上を買っているわけですから。その段階では、私はやるつもりでいます

二階堂 では、世銀の人がそう気づいたというのはどういう節で。

角本 島さんがあまりのり気じゃない様子がわかってきたんじゃないか。私は最後までやりたかったんです。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」226頁~227頁から引用

「1960年の秋にアメリカの貨物輸送を見てからは」というのはどういうことなのか。

二階堂 1960年の11月、アメリカに視察に行かれたときの話をちょっと伺いたいと思うんですが、これというのは生産性本部の視察団ですね。その報告書が出ていまして、メンバーを見ると貨物関係の方々がたくさんおられて、貨物の近代化の現状也をアメリカに見に行くという視察だったと思います、角本さんがこれに加わることになったきっかけというのは何だったんですか。

角本 私は個人的なつながりだと思います。この事務局をなさったのが、鉄道貨物協会の事務局長をしていた宮野武雄さんで、私の中学の7年ぐらい上の先輩で、昔、私が金沢管理部で見習いをしていたときの業務課長です。その人が私のことを知っていて、誘いがかかった。ただ名目から言えば「新幹線に貨物輸送をやる」というのが理由なんです。

(中略)

二階堂 では、そういう個人的なつながりで呼んでいただいて、角本さんはそのなかで、例えばピギーバックとか、大型コンテナとか、そういうのを・・・・・・。

角本 そう。「新幹線に応用できる技術がないか」ということで一生懸命見て歩いたということです。

(中略)

二階堂 これを見て、日本の新幹線計画にどういう見通しを持たれたか、そこをお聞きしたいんです。

角本 10何トンのピギーバックの大型コンテナはとても無理でした。日本の道路では動けません。ですから、「これを5トンコンテナの我々の計画に直して、同じアイデアで方式を決めればよい」と考えました。大きさを見にサイズ、大体3分の1にするという感じです。「新幹線について考えていた計画は変える必要はありません」と。

二階堂 コンテナやピギーバックというのは、トラック業界との「共同輸送」が盛んにできるという名目で計画されていたと思うんですが、日本だと通運業者との協力が必要ということになるわけです。その見通しというのは、当時どう思っていらっしゃったんですか。

角本 これは日本通運が既に5トンコンテナを試しで使っていましたし、当然やる気になると思っていました。(後略)

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」232頁から引用

 世銀借款が締結されたのは、1961(昭和36)年である。

 島隆が研修期間を経て本社に戻ってきたのは昭和33年である。(中略)隆は新幹線設計グループの1期生。(中略)

「貨物新幹線用のラフスケッチをもっともらしく描いてくれ」

 ある日、隆は幹線調査室の調査役から、こんなふうに頼まれた。(後略)

 

「新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 194頁から引用

 これは、冒頭に引用した「貨物は世銀向けのポーズ」という文脈で髙橋氏が記載しているのだが、これで見ると「もっともらしく描いて」というところが「ポーズ」らしく読めるのだが、この「幹線調査室の調査役」は貨物も含めた営業担当調査役の角本氏ではなかろうか?車両担当の加藤一郎氏という可能性もあるが。後にアメリカに貨物新幹線のために視察に行った担当調査役が命じたとなれば意味合いは全く逆になってくるのではないか?そういう意味では髙橋氏はミスリードしている可能性がある。「島秀雄物語」では角本氏にも取材しているのに。。。

幹線調査室

 当時の幹線調査室はこのような体制だった。

 また、世界銀行融資決定後に国鉄法を改正して貨物新幹線に必要な通運体制を確立しようとしている。ダミーならこんなことしませんぜ。

○關谷委員 次に、今後対象となりますもの、これが業界あたりで非常に疑心暗鬼と申しますか、大へん心配をいたしておるところでありますので、一つお尋ねをいたしたいと存じます。(中略)

 第三は東海道新幹線荷役会社というふうなもの、東海道新幹線関係の荷役は、全部直営にするというふうにいわれておるのでありますが、それがどういうふうになるのか、その点もあわせて伺いたいと思います。第四はピギーバック会社、これはどういうふうなことになりますか、この点を業界あたりが間違えないようにはっきりとお答えを願いたいと思います。

○磯崎説明員 ただいま御列挙されました各事業につきましては、内容のはっきりしないものもございますが、一応今私どもの考えておる立場からだけ御回答申し上げます(中略)

 それから、三番目と四番目の、東海道の新幹線関係の貨物輸送でございますが、東海道新幹線関係の貨物輸送を私どもの方が直営する意向は全くございません。しかしながら、東海道新幹線の貨物輸送は、原則として、先ほど四番目のピギーバック、すなわち自動車の足のついたまま貨車に載せるという案よりも、むしろ足をとりまして、現在町中でごらんになるコンテナの輸送を考えておりますので、コンテナ輸送につきましては、通運業者と国鉄と合体した会社を作る必要があるのではないかということを今研究いたしております。

 

昭和37年3月16日衆議院 運輸委員会議事録から引用

 ピギーバックの扱いが角本氏の訪米視察の結果どおりとなっている点も興味深い。

二階堂 貨物営業のことについてちょっと伺いたいんですけども、貨物営業の計画というのは、この時期かなり具体的に進んでいますよね。例えばターミナルの用地の買い上げなどです。

角本 それが島さんと兼松さんはまことにずるい人で、私に対しては「貨物輸送は最後までやるよ」というような顔していた。私は、大まじめで大井ふ頭の土地を買いました。それから、静岡も名古屋も大阪も貨物駅の用地、みんな買ったんですよ。

二階堂 名古屋は日比津、静岡は柚木ですね。

角本 そう、柚木です。大阪は鳥飼。

二階堂 あとは、コンテナの規格を決めて、在来線は縦で新幹線は横にするとか、そういう具体的なことまで・・・・・・。

角本 そうそう。その寸法を決めて、在来線のコンテナ規格を決めるときに、「直角に曲げれば新幹線貨車に5個載せる」ということまで決めました。具体計画の直前まで決めて、担当者も私も大真面目でやっていた。世界銀行に対しても、「やらない、うそだ」ということは一言も言わなかった。

 ところが、島さんと兼松さんは、「それはうそである」ということを承知でやっていた。そこのところにギャップがあったということです。

二階堂 実際のところ、本当にやる気がなかったのか、あるいは旅客の二の次にしていたということでしょうか。

角本 いや、そうじゃない。彼らはずるいですから、本当にやる気がなかった。それでいて、私に大井埠頭の海の上を買わせたということです。

二階堂 では、完全に無駄な・・・・・・。

角本 それが無駄じゃない。あの大井埠頭の土地があったんで、今どれだけ助かっているか。あそこがなかったら、今は電車置く場所ないでしょう。それは、新幹線の旅客電車を置く場所でもあり、貨物のヤードでもあったということで、大きな土地を買った。そのうち新幹線旅客用は、今、そのまま生きていて、貨物用地のなかへ進入していったし、膨らませていった。だから今でもびくともしないということだと思います。

鈴木 当時、大井埠頭は将来のことまで考えて買ったんですか。貨物のために買ったはずなんだけれども、そのままだったら、本当に無駄になりかねなかったのではないでしようか。

角本 東京都にしてみれば、海の上ですから買い手がない。できるだけたくさん買ってくれるお客は大歓迎。こちらは、できるだけ広く買っておけば、 東京が伸びるから無駄にならない。両方の思惑が一 致した。だから海の上をでっかく買ったんです。そういう意味では、貨物のことだけではなく、将来のことを考えて買ったわけです。 ただし、「羽田のそばはやかましい」ということで、北のほうへずらして買った。そのとき、たしか南は 京浜二区という埋立地だった。「京浜二区では嫌だ、もうちょっと北のほうがいい」と言ったときに、東京都は何も言わなかった。ですから、品川からすぐ電車を入れられるという場所が確保できたわけです。これは、私がしたうちの一番いい仕事のうちの一つでしょうね。

渡邉 鳥飼基地というのは、もともと貨物営業用を想定して・・・・・・。

角本 貨物用として買ったと思います。

鈴木 あそこは、もともと何だったんですか。

角本 おそらく淀川の湿地帯じゃないでしようか。ほかの利用があまり進んでいなかったから買えたと思います。その意味では、名古屋の西のほうもそうだった。庄内川の西側でしょう。

菅 結局、新幹線の貨物ターミナルにはならなかったけど、みんな生きていますよ。名古屋は新幹線の車両の置き場になったし、静岡は在来線の旅客車を置いているのかな。

角本 静岡、柚木のところね。そうでしよう。

菅 大井は、お話があったとおり、新幹線の車両基地と東京貨物ターミナルになっているしね。それでも土地が余ったから、東京貨物ターミナルの一部は、一時ベトナム難民の収容キャンプみたいに使われたことがありましたね。

角本 ああ、そうですか。

渡邉 用地を買われたときに、車両基地だったら全く周囲と孤立した島みたいなものですけども、貨物駅になると、そこに通運の店が来たり、地域との関係も出てくるわけですね。ですから、土地を買うときにも、単なる車両置き場になるのか、それとも、そこに貨物駅ができて、周辺との物流との起点になるのかというのは大きな違いがあるように思うんで すが。

角本 買うときには、そこまで言わなかったと思います。ですから、貨物の場所、旅客電車の場所、 それぐらいの大まかな話だけをして、東京都と話がついたんじゃないでしようか。東京都としては売りたい一心ですから、私たちはお客様だったんです。 海だった、水の上を買ったわけですから。

渡邉 鳥飼についても、貨物だから売ったとか。

角本 いや、そういうことはないと思う。

菅 それは逆に、新幹線の車両基地が先にできて、隣接地はずっと長い間使われていなかったんですけれども、大阪に在来線の貨物ターミナルをつくることになりまして、実際につくって、今、稼働しているんですが、それについては結構反対運動があったんです。特に吹田操車場から持ってくる鉄道をこしらえなければいけませんね。これなんかはすごい反対運動を受けて、菅原操さんが大阪工事局長 として話をおさめるのに随分苦労されていますよね。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」244頁~246頁から引用

大井貨物駅跡

柚木貨物駅跡

日比津貨物駅跡

鳥飼貨物駅跡

 次に、島の「トリック」について引用してみる。

二階堂 貨物担当の補佐だった森繁さんが書かれた資料をちょっと拝見したことがあるんですが、1963年7月、要するに大石さんたちが辞めてすぐ、角本さんは貨物営業のことに関して石原常務に説明されているんですね。 そのときには、角本さんは「貨物をやるべきだ」 と言われているんですが、石原さんは「採算は多分 とれないだろう」というようなことを言われて、「それでもやる意義があるのか」と尋ねられて、角本さんは「トラックへ対抗するという意味、それから通運業者に対して国鉄の態度を示すという意味で、 貨物はやったほうがいい。将来性もあるんだ」というようなことを言われて、旅客営業から1年おくれ の1965年10月に貨物営業開始ということで、石原さんも合意された。そういう記録があります。 それに加えて、1964年の座談会なんかを拝見し ますと、当時の今村営業局長も「新幹線を使って貨物営業が早くできないか」ということを模索されていたようです。こういうことから考えると、先ほどのトリックというのは、ごく一部の方しか知らなかったということでしょうか

角本 大石さんがどうか知らないけど、島さんと 兼松さん、そこらでしょう

二階堂 遠藤鐵二さんはどうだったんでしょう

角本 中立でしよう。どちらでもつくと。

二階堂 角本さんは、営業部長退任のときまで、トリックということは全く気づかなかったわけですよね。

角本 気づかなかったし、たとえトリックであっ ても、逆に突破しようと思っていた

二階堂 「トリックなんじゃないかな」というようなことは、薄々は・・・・・・。

角本 思わなかった。私は突破できると思っていた。

二階堂 石原さんも、こうやって論破しているということで、それが「実際にはやる気がなかったんだな」ということがわかったのはいつだったんですか

角本 十河、島が辞めたときです。

二階堂 それは1963年になるわけですが、そのときも角本さん、大まじめに貨物のことをなさっているわけです。

角本 はい。私は自分で突破できると思っていた

二階堂 島さんの真の意思を知ったのは、どういう きっかけだったんですか。

角本 島さんが辞めるころ「島さんはやる気がなかったんだな、ごまかしだったな。兼松さんもごまかしだったな」ということは、私にはわかった。しかし私は「これはやるべきだ」と思っていました。 だから、中公新書の「東海道新幹線」に「貨物をこうやります」ということを書いたということです。 これは1964年の2月に出した本です。

二階堂 「突破できる」というのは、石原さんへの 説明にもあるように、「トラック対抗」ということ と「通運対策」ということなんですが、将来的に新幹線貨物をやればトラックに対抗できる根拠という のは、どういうことだと考えていらっしやいました か。

角本 時間です。ということは「夜遅く集めて、 朝早くに着く」という何本かの列車をつくっておけ ば、その分は貨物を確保できる。そう信じていた。 これは、トラックより断然速いし、しかも確実ですから、「これはやれる」と。

二階堂 「通運対策」というのは、具体的にはどう いうことですか。

角本 通運業者は、利益があればよいわけですから。自分のトラックであろうと、国鉄利用であろう と、彼らは利益があればやってくれる。

二階堂 では、「その利益を彼らに充分与えられる」と。

角本 そうです。「そうすれば、彼らもまた鉄道 に戻ってくるだろう」と。ですから、東京・大阪という地区について、雑貨がそれぞれに動くということで、大部分はトラックであっても、国鉄利用の部分も残ると考えていた。

二階堂 通運業者を通さず、国鉄がコンテナを直営するということは考えておられましたか。

角本 いや、直営というのは手足についてはでき ません。やはり荷主との直接接触は通運業者でない とできない。

二階堂 「貨物営業が経理の上では赤字になる」という石原さんの指摘についてはどうですか。

角本 私は赤字になるとは思わなかった。ということは、線路が既に存在するわけですから。それから、貨物用地も既に押さえてあるということですから。列車本数は限られている。だから、限られた列車本数を満たすだけの貨物は充分集められると考えていた。

二階堂 「途中のヤードでつないで、離して」ということではなく・・・・・・。

角本 「それでないから成功する」ということです。しかも、「ダイヤどおりにあなたの貨物は動きます」ということですから。

渡邉 その意味では、貨物列車は1日に1本でも2本でもよかったわけですね。

角本 そうです。

菅 貨物に関して、実際に需要の想定とか、運賃の試算といいますか、そういうことも当時なさいましたか。

角本 はい。ですから、貨物の担当で森さんはじめ3人か4人来ていたと思いますし、実際に貨物駅の用地は4駅とも買ったわけですから、それをそのまま利用して、しかも夜明けに列車を入れるという ことで充分できると思っていました

二階堂 九州方面や東北方面と、どうつなぐかとい うことは・・・・・・。

角本 そこまでは考えなかったと思います。九州まで考える余力はなかったし、山陽新幹線がいつできるかも当時はわからなかった。

二階堂 いえ、そうではなくて、大阪で在来線に積みかえてやるという形です。森さんの資料では、そういう内容も出てくるので・・・・・・。

角本 それはやっていたでしよう。我々は「貨物営業はやるものだ」と信じていて、それで上の人が 「やめろ」と言った。しかしこちらは「突破できるんだ」と思っていたということです。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」246頁~248頁から引用

 このあたりの経緯は、私の知る限りでは今まで明らかにされていないと思う。

 「島は貨物やる気ない」「現場は土地も買ったし準備工もやってる」「国鉄だけではなく通運業者も動いている」「開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていた」という矛盾が今まで繋がらなかったのだが、ここで繋がるわけだ。

 「島は貨物やる気ない」
 ↓
しかし、島は在任中は内外に「やる気ない」とは言わなかった(むしろ社内にも「最後まで貨物はやる」という姿勢を示していた(角本氏のいう「トリック」))
 ↓
現場は当然貨物の準備をする
 ↓
「現場は土地も買ったし準備工もやってる」
 ↓
角本営業部長(貨物担当)は、島が辞める頃にやる気がないと気づく
 ↓
それでも突破できる(すべき)と考え、島辞任後も貨物実現に向けて動く
 ↓
「開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていた」
山陽、東北、上越新幹線も貨物走行可能な規格で建設
 ↓
島は国鉄を辞めた後に「貨物やる気なかった」と公言

という流れで宜しいんじゃないかと思う。

新幹線総局

 こちらは新幹線総局の組織図。ちゃんと「貨物担当の補佐だった森繁さん」がいらっしゃる。

 

 (その2)では、長氏の指摘する「*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。」つまり予算超過問題について角本良平オーラル・ヒストリーから紹介してみたい。

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2016年1月17日 (日)

熱海(来宮)の新幹線新丹那トンネルのズリ捨て場で西武・堤康次郎がやらかしたこと

 ブラタモリで熱海が登場したと聞いて、さぼっていた熱海ネタを書く。

 以前、新幹線を妨害しようとした?伊豆箱根鉄道下土狩線(未成というか無免許工事線)その2 という記事を書いた。

 その中に、堤康次郎の指示事項と思われるメモで

伊豆箱根鉄道下土狩線文書 (1)

「4.来の宮(旧河川広場)継続使用する。(政令改正が成立したとき随契にする。)」という項目がある。

 説明するのがとても面倒くさいわりにはあまり面白くもなさそうなので先に結論を言っちゃう。

 場所は、多分ここ。

西武と国鉄でひと悶着あった「来宮の新丹那トンネル土捨て場」

 ざっくりした経緯は

・戦前の弾丸列車で新丹那トンネルを掘り始める。

・来宮駅近くにトンネルズリ(残土)の捨て場を作って残土を入れ始める(上記の「河川広場」)。

・戦況が厳しくなり、弾丸列車の工事は中止。ズリ捨て場も土を入れ切る前に放置。

・戦後、駿豆鉄道(伊豆箱根鉄道)が「来宮-十国峠間のケーブルカー」を作るということで国鉄から使用許可を得る。

・東海道新幹線建設開始に伴い、国鉄が伊豆箱根鉄道に返還を要求したところ、伊豆箱根鉄道は静岡地方裁判所の沼津支部に、占有妨害禁止仮処分命令を申請。(ざくっというと裁判所に「この土地を伊豆箱根鉄道が使うことを邪魔しちゃだめだ」(国鉄には使わせるな)という命令を出してもらおうとした。)

・国鉄はトンネル工事をしても残土を捨てられなくて困る。

・ちょうど三島では、伊豆箱根鉄道下土狩線と新幹線のゴタゴタが起っていた。

・伊豆箱根鉄道は大雄山線と新幹線の交差でもゴタゴタを起こしている模様。

・新幹線の送電線が国土計画の土地を通ろうとしてゴタゴタが起している模様。

・その手打ちとして、来宮のトンネルズリ捨て場を伊豆箱根鉄道に随契(随意契約→競争入札ではなく、一社決め打ちで契約すること)で売却したんじゃないかという疑惑が国会で何度も取り上げられる。

 その問題の「来宮のトンネルズリ捨て場」の写真が早大に残されている。

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (12)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (13)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (1)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (11)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (4)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (7)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (10)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (3)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (8)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (9)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (5)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (6)

伊豆箱根鉄道関連来宮の土地 (2)

 下記でいうと西熱海ホテルの西側の土地なんじゃないかと。

伊豆半島ジオパーク推進協議会さんで「熱海市街ぐるぐる三次元地図」という興味深いコンテンツを提供しておられるのであわせて参照していただきたい。

http://izugeopark.org/office/3D/atami/geo_atami.html

 細かい経緯は、例によって国会議事録から引用していく。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0016/04303080016012c.html

第043回国会 運輸委員会 第12号
昭和三十八年三月八日(金曜日)


(略)
○久保委員 資料をいただいてから再び申し上げますが、そのほかにやはり新幹線工事で丹那の隧道のズリ捨て場に使おうとした鉄道用地をあるホテルに払い下げたそうでありますが、事実でありますか。
○大石説明員 丹那の隧道のズリ捨て場を某ホテルに払い下げたという事実はございません。おそらく先生のお話はズリ捨て場の予定地をお話だと思いますが、これは前から西武鉄道に――丹那付近のくぼ地でございますが、ここをケ-ブルカーをつくるということで西武に貸してあったのであります。丹那トンネルの着工前にすでに貸してあったのであります。しかしながら直ちにその工事はやらないで、むしろ私たちといたしましては丹那トンネルのズリを捨てるのに適したくぼ地であるということを見まして、返してほしい、丹那トンネルのズリを捨てる間はこちらへ返せということで、丹那トンネルの着工と同時にそのくぼ地はこちらに返していただきました。そうして工事中そこにズリを捨てて工事を進めたのであります。最近に至りましてその土地を再び貸してくれ、ないし売ってくれというようなお話がございますので、私たちといたしましては、今申し上げましたようにもともと貸してあった土地でございますから、丹那の工事のズリをそこに一ぱい捨ててしまったのでありまして、国鉄といたしましては使用の目的もございませんので、これの適当な値段につきましては国鉄内に土地建物評価委員会というものがございますので、その委員会にかけまして値段をきめていただきまして、そうして運輸大臣の認可が得られましたならば貸す――ということよりも売却をいたしましょうというお話をしておりますので、まだ売却をしたというところまではいっておりませんが、そういうような意思を持っておる次第でございます。
○久保委員 そうしますと、今まだ国鉄の所有地でありますね。賃貸借というか、貸借関係は今あるのですか。
○大石説明員 ただいまは貸借関係もございません。まだ国鉄の用地になっております。
○久保委員 それじゃその以前の貸借関係の書類の写しをいただきたい。以前に貸借関係があったのでしょう。それからいつ返してもらったのですか。
○大石説明員 それは丹那トンネルの着工と同時に返していただきました。
○久保委員 それではその資料を出して下さい。

(略)

 この国会での質疑のあとに上記の堤メモが出ているわけだ。

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/043/0016/04303130016014c.html

第043回国会 衆議院運輸委員会 第31号
昭和三十八年六月十一日(火曜日)

    
○木村委員長 これより会議を開きます。
 日本国有鉄道の経営に関する件について調査を進めます。
 質疑の通告がありますので、これを許します。久保三郎君。
○久保委員 東海道新幹線の工事に関連してまずお尋ねするわけでありますが、先般予算委員会でも若干質問がありましたので、多少重複するところがあるかと思うのでありますが、一応順を追うてお尋ねをいたしたいと思います。
 まず第一に伊豆箱根鉄道と新幹線に関係してでありますが、これは伊豆箱根鉄道が昭和三十七年の四月に下土狩線の免許申請を出しておるわけであります。まず第一に、この下土狩線の免許申請に関して運輸省の見解はいかようになっておるか、これをお尋ねしておきたい。
○広瀬説明員 免許申請は名古屋の陸運局に提出されまして、陸運局の手元にしばらくございまして、ごく最近本省に上がってまいりました。ただいま鉄道監督局において審査中でございます。
○久保委員 この会社は、すでに予算委員会でもお話がありましたとおり、免許を待たずして路盤を構築し始めたということでありまして、その中間において警告を発したというのでありますが、よろしくこれは法に照らして処断すべき性質のものではないだろうかと思うのであります。新幹線の妨害であるかどうかは別にして、免許申請中にもかかわらず、工事施行認可も受けずして――もちろん受けませんから。――それを路盤構築を始めたというのでありますから、当然これは法に基づいて処断をなし、その免許申請は却下すべき性質のものではないだろうか、かように思うのですが、いかがですか。
○広瀬説明員 名古屋の陸運局長から文書で工事中止命令を出しまして、これに従いまして会社のほうは工事を中止したということでございます。現在は工事を中止しておるという段階でございます。
(中略)

○中畑説明員 その地点は、先ほども申し上げましたように、会社が工事をいたしましたそれとは関係なく、当初国鉄が計画いたしました工事計画で工事を進めるということで会社に申し出をしてございます。会社のほうもその国鉄の原案で考えてみようという話し合いで、ただいま折衝を進めておる状態でございます。
○久保委員 そうしますと、その路盤についても、将来折衝の過程では、補償なり何なりを要求される見込みはありますか。
○中畑説明員 会社からは格別の要求が工費担当の幹線工事局にただいまのところ出ておりませんので、おそらく話は出ないのではないかというふうに判断しております。
○久保委員 それはたいへんすなおな話です。すなおな話の裏には来宮の鉄道用地の問題がからんでおるそうですが、そうですか。
○中畑説明員 来宮の用地問題は、その件とは全然別個の問題としまして、会社のほうで使いたいという申し出はあります
○久保委員 この来宮のほうはそれじゃ会社の申し出どおり認める方針でございますか。
○中畑説明員 ただいまのところ検討いたしておりまして、まだ結論を得ておりません。
○久保委員 大石政務次官にお尋ねするわけでありますが、この下土狩線と来宮の鉄道用地の問題を相関関係をつけまして、それで下土狩のほうは国鉄の大体要求どおりに折り合おう、しかし来宮のほうは用地は払い下げる、こういう運輸大臣のメモがあるそうでありますが、そのとおりですか。
○大石(武)政府委員 そういう話は聞いておりません。
○久保委員 メモは別として、そういう話を聞いたことはございませんか。
○大石(武)政府委員 そういううわさは聞いたことがございますが、われわれはそういうことは別に考えておりません。
○久保委員 これは中畑さんでは答弁ができないかもしれませんが、来宮の土地は、あなたの御答弁では、いま検討中というか、これはそういうことで伊豆箱根のほうへひとつ払い下げよう、こういう話し合いになっているそうです。そのとおりだと思うのですが、いかがですか。
○中畑説明員 具体的な先生のただいまお尋ねのございました点についての内容は、私、承知いたしておりません。
○久保委員 あなたのところでなければ、それじゃどこですか。そういう問題を扱うのはあなたではないですね、これはもっと上のほうですか。
○中畑説明員 事務上の手続といたしましては、来宮の土地と申しますのは、静岡の幹線工事局と東京鉄道管理局の両局で分けて管理いたしておりますので、もう一度使いたいという話でございますれば、両管理局に手続があるものと考えております。
○久保委員 この土地について、われわれは、現地を調査した際に、ある鉄道関係者からそういう話を伺っているわけです。これは大体そうだろうと思うのです。何か代償がなければすなおにおりるはずはない、この案件に関係している人の人柄を見れば、こういうふうに思うのが大体世間の通り相場になっているのです。そうですよ。しかもこれは、名前を出しては悪いのでありますが、前の常務理事から非公式に、これは払い下げあるいは貸し渡しの考えでおりますというお話を私は聞いた。非公式な話を公式に出しては悪いのですが、いかがですか。
○中畑説明員 ただいまお話の、前常務理事から格別私は話を聞いておりませんので、どんな話がございましたものか、一向に不案内でございます。
○久保委員 これは大石政務次官、あなたにお尋ねするのもちょっとどうかと思うのでありますが、まあ運輸委員会でありますから、やはり根掘り葉掘り聞かぬと、あとで禍根を残すもとだと思うのであります。やはりどうも取引があったように聞いておるのでありますが、運輸省も一枚加わったのじゃないかと思うのですけれども、いかがでしょう。
○大石(武)政府委員 これは、私の知っている範囲では、そのようなことはございません。
○久保委員 前の民鉄部長は御退席になったが、国鉄の部長がおられるから、どうですか、あなたは聞いておられますか。
○向井政府委員 存じておりません。
○久保委員 もっとも存じておると言ったらぐあいが悪いでしょうから、しかし実態は、それじゃ国鉄の方針として前どおり再び貸すのか、あるいは譲り渡しをするのか、大体おおよその見当はどうなんです。いかなる点で調査をしておりますか、いかなる点で審議をしているのか、どういう観点から審議しているのかお聞きします。
○中畑説明員 将来伊東線の線路工事などの場合に、その用地がどういうことになるかといったようなことも検討をいたしまして、結論をつけたいと存じております。現在のところは、国鉄としましては、いま申し上げました伊東線の工事関係でどうなるかということの問題を除きましていたしますと、大体不用地であると考えてよろしいと思います。
○久保委員 ちょっと聞き漏らしたのですが、結論的には伊東線の問題があるからそれを中心に検討している、こういうふうにとってよろしいかどうか。そうですな。伊東線の将来についてはどういうことになるのですか。つけかえなり線増なりということは考えられないですね。考えているのですか。
○中畑説明員 直接私の担当でございませんのでお答えいたしかねますが、関東支社で具体的に検討しておると聞いております。
○久保委員 たとえば、伊東線の関係がなければ、これを払い下げるということになりますか。
○中畑説明員 その点はこの間も申し上げましたように、大体不用地ということになっておりますので、よく検討をいたしまして結論を求めるようにしたい、かように考えております。
○久保委員 よくわかりませんな。
 そこでこれは鉄監にお尋ねするのでありますが、来宮-十国峠の、途中の銀山というところまでは、これは鉄道でありますが、その先は索道という話でありますが、これは免許の申請は認可した。工事施行の認可にあたって、何項目か膨大な項目にわたって照会したのだが、いまだに返事がない、こういうことでありますが、こういう鉄道の認可にあたって、長年懸案になっているものがこんなにたくさんあるのですか。この認可は二十一年の九月に申請して、二十五年の二月に免許をしているということになっています。そこで途中いろいろな変更がありまして、三十年の三月に最終的な認可をした、こういうふうに書いてあります。それから三十三年の三月に工事施行認可申請のこれは追加申請が出ております。ところが三十五年の六月に民鉄部長から、二十五項目の照会をしたがいまだに返事がない、こういうふうになっているわけです。これは前の民鉄部長御退席でありますからなんでありますが、これは鉄監局長に、就任早々でたいへんなにでありますが、こういうことがはたして鉄道建設の意欲があるのかどうか、実際言って私は疑わしいのでありますが、当初の計画からいくと、とてもこれじゃ登山鉄道というか、そういうものの基準に合わぬということで突っ返しているのですね。そこで再三持ってきたんだが、最後には二十五項目にわたって質問しているわけですね。ところがいまだに返事がない。これはおそらく何か別な目的があるのではなかろうかと私は思うのであります。しかも今日こういうところから鉄道でやることが必要かどうか。りっぱな道路もできたし、十国峠の観光道路というか、そういうものもできているわけですね。しかも申請してから長年になっているのですね。こういうことを、しかも鉄道用地を借用したのは、その認可申請を出してから、古い昔これは出しているのですね。これははっきり言うと、国鉄もばかだから、これにまんまと貸しているわけですね。それで今度の新線工事になってから返せという。返せと言ったら、立ち入り禁止の仮処分をやってきた。話がついたかどうか知らぬが、二回目の日の前日に取り下げておる。取り下げた裏にはおそらく何かの密約がある。御案内のとおりこの付近は景勝の地であります。熱海の貴重な土地であります。実際鉄道などでやるべき筋合いのものではありません。はっきり言うとホテル街ですよ。こういうものを運輸省も国鉄も知らぬはずはないと思うのです。国鉄もずいぶんばかなことをしたと思うのであります。人に貸すときには十分用心して貸すべきだと思うのです。また財産を有効に使えということで幾たびか国会並びに行政管理庁その他からも注意が出ているわけなんです。しかもこれは使いもしない土地を借りていたのです。いままで一つも使っていない。それを今度返せと言ったら仮処分にしておる。何の意図があるのか。どう思いますか。
○広瀬説明員 免許あるいは工事施行認可申請の経緯は、ただいま先生のおっしゃったとおりでございまして、三十七年の五月に民鉄部長から二十数項目につきまして照会をいたしました。これに対しまして三十七年の九月に回答がございました。なお、いろいろ技術的な問題あるいはただいまおっしゃいましたような客観的な情勢の変化ということもございますので、この点についてただいま検討いたしておるわけでございます。
 なお、先ほどいろいろ許認可関係の事務が遅滞しておるんではないかというお話がございましたが、一般論でございますが、かなり時間のかかっておるものがございますが、鉄監におきましては、事務を促進しまして、従来に比べますとかなりスピードアップしておりますが、こういった問題点は、ぐずぐずしておりますと、いろいろ疑惑という点も生まれてまいりますので、今後さらに一そう事務を促進して、てきぱきと処理をしてまいりたいというふうに考えております。
 それからもう一点。先ほど政務次官にもお尋ねがございましたが、何か運輸省が一枚加わっておるのではないかというお話でございますが、これは前局長からもそういった点は何も聞いておりませんし、また運輸省の重要な問題につきましては、私官房長として大体のことは承知しておると思いますが、そういった話は現在まで何も出ておりません。
○久保委員 そこで免許をする場合に、工事施行の期限というのが条件としてあるはずだと思うのですが、それはいかがですか。
○広瀬説明員 もちろん一定の期限というものは付しておりますが、従来の例によりますと、いろいろな事情から期限の延伸を願い出ておりまして、やむを得ないというものはこれを認めております。そういう手続をとっておるものだと考えております。
○久保委員 本件はいつまでの期日をつけておるのでしょう。
○広瀬説明員 話は先ほどに戻りますが、工事施工の認可申請に対しまして、認可は出したわけであります。認可を出すにあたりまして、先ほど申しました二十数項目のいろいろ解明しなければいけない項目がございますので、これを照会をして、これについて先ほど申し上げましたように回答があったわけでありまして、工事施行認可の期限という問題は、したがって本件に関しましては一応ないということが言えると思います。
○久保委員 工事施行の期限はない、こういうのでありますが、たとえば免許申請をした場合に、大体何年何月から始まって工事の完成は何年何月までに終わる予定である、こういうものはとらないのですか。
○広瀬説明員 先ほどの私の答弁が少し間違っておりましたが、二十数項目につきまして、まだ完全に回答はきておりません。したがって回答がきてから、いつ着工していつまでに工事を完成しろということを言うわけであります。まだその段階に至っていない、向こうからの回答がまいっておらないというわけであります。
○久保委員 そうしますと、たとえば甲という鉄道事業者がある地点について工事の認可を受けた、しかし、これは実際においてやる能力も何もない、あるいはそういう考えもなくなってきたという場合に、新しい企業家が出てきてこの地点でこれならばできるということがあっても、もう重複いたしますから、免許の認可はしませんね。そうなりますと、単に権利をとるだけでそういう免許申請を出す場合が往々にしてあると思います。たとえば武州鉄道のごときは、これはあとの問題でありますが、これもどうもその後の事情を勘案すれば、土地の値上がりとかそういうものでさや取りをしようというもくろみが多かった。免許だけは受けよう、しかし工事の、いわゆる鉄道を建設するという本命については消極的である、こうなった場合に、この免許申請にあたって考えたところの目的というものは永久に達せられない、こういう矛盾があるわけであります。本件についても、私はどういう項目について照会をしたかわかりませんけれども、できないような目論見書を出し、あるいは工事施行の中身を出して、運輸省からおそらく指摘してくるだろう、これに対しては回答しないでそのままにしておけば、いつまでもこの免許は生きておる、こういうことになるのじゃなかろうか、眼光紙背に徹するような審理が私は必要だと思いますが、いかがですか。
○広瀬説明員 まず一般論を申し上げますが、いわゆる俗にいうつばをつける式の免許申請というものが従来もないわけではございません。私が前に民営鉄道部長をやっておりましたときも、そういった種類のもの、あるいはずっと前に免許をとりまして、まあ当時はやる意思があったのでございますが、いろいろ道路事情その他客観情勢が変わりまして、あまり価値のない、またしたがって免許申請者がこれを真にやるという意思が非常に薄いというようなものもかなりございまして、そういったものは免許を取り下げさせるというようなことでかなり大幅に整理した経験もございますので、本件を含めまして、そういった観点から真にやる意思のあるのかどうか、あるいは客観情勢の変化によって価値があるかどうかというようなことを至急検討いたしまして、極力整理といいますか、事務を促進して、実情に沿うようなかっこうにいたしてまいりたいというふうに考えております。
○久保委員 これは二十五項目ですかの回答を迫ったのでありますが、これは期限を付してありますか。
○広瀬説明員 本件に関しては期限を付しておりません。
○久保委員 これはどうして付さないのでしょうか。これは付さないのが普通だと思いますか。どうして付さないのか、なぜ付さないのか。
○広瀬説明員 一般的に照会をいたした場合には、大体すみやかに回答をもらう、従来もらっておりますので、特に期限を付していないということだと思います。
○久保委員 それじゃこれは条件つき工事施行認可を出したということでございますか。いかがです。条件つきで、二十五項目についての回答あり次第これは認可をした、工専施行認可をした、こういうことになりますか。このことはいかがですか。工事施行の認可はしないのか、したのか、どっちなんです。
○広瀬説明員 先ほどちょっと私が途中で言い直しましたので誤解があると思いますが、工事施行認可は出しておらないのでございます。二十数項目について照会を出して、その上で出そうということで、照会中でございます。
○久保委員 免許にあたっては工事施行の認可は期限を切りますね。そうでしょう。いかがですか。
○広瀬説明員 工事施行認可を出す場合には、免許の場合は期限をつけます。
○久保委員 それじゃその免許をしたときには工事施行の期限は、免許申請の期限はいつまでになっていましたか。
○広瀬説明員 いまちょっとこまかい資料を持っておりませんので、後刻いまの手続関係を全部調べまして御報告をいたします。
○久保委員 いずれにしてもそれは後刻資料をいただきますが、こういう長期にわたって質問を出して回答がないというのは、これは誠意がないということであります。これは地方鉄道法を改正して、そういうものはみんな免許失効という条項に当てはめるべきだと私は思うのです。政務次官、いかがでしょう。
○大石(武)政府委員 あまり法律的な具体的なことはわかりませんが、常識的にはお説のとおりだと思います。
○久保委員 そこで国鉄にまたお尋ねするわけでありますが、国鉄は先ほど言ったように、この当該地を貸すか貸さぬか、いま検討中だというが、私ははっきり申し上げておくが、この鉄道は大体建設する見込みはなさそうです。鉄道建設ならある程度協力してもいいと思うのでありますが、大体地点からいって違う目的に使用する、万が一施行認可もできて工事がやれるという段階になればあらためて考えていいのであって、いま貸すか貸さぬかなんということを考える必要は私はないと思うのだが、いかがでしょう。
○磯崎説明員(日本国有鉄道総裁) 私からお答え申し上げます。
 先ほど先生のお話のように、この土地につきましては多少のいきさつがあったことは事実のようでございます。しかし現在の、今日ただいまの段階で申し上げますと、私のほうから昭和三十三年十二月に使用承認を取り消すという通知、これは三十四年二月一日から使用承認を取り消すという通知を出しまして、それに対して会社のほうから延長願いが出ております。その延長願いに対してさらに三十四年三月に否認の通知を出しております。したがいまして、いまの時点におきましては、あの土地につきましては、全く会社の使用権なり一切の法律的な権限がないというふうに見ていいと思います。現在手元にあります資料によりますとそういうふうになっております。したがいまして、現在全くあの土地につきましては白紙であると申せると思います。今後工事が進みまして、あの土地が、一応新丹那トンネルのズリ捨て場として使った相当な場所、――約一万平米近い相当広い土地でございます。ズリを捨てましたので、いままでのくぼ地が相当平地になっているようで、土地の価値も相当変わっているのじゃないかというふうに考えます。一方、先ほどの御質問にありましたように、新幹線ができますと伊東線の問題はどうしても新しい問題として私ども考え直さなければなりません。現在の単線ことに熱海と来宮の間を現在線と併用して運転していくということは、将来の伊豆地方の開発にとりまして非常に輸送上大きな問題になりますので、この伊東線の複線化と申しますか、伊東線の改良は相当新幹線完成後の大きな問題として考えなければいけないというふうに考えられます。そういった諸般の事情を考えますと、たまたま法律的に現在用地が白紙であるということと、それから将来国鉄自体としてその土地を一部でもあるいは半分でも全部でも使う可能性が皆無ではないという問題等をいろいろ考えますと、一応いままでの多少のいきさつがあったにいたしましても、この際純粋な法律的な立場からこの問題を白紙に返しまして、新しい目でもって再検討する必要があるのじゃないかというふうに考えます。
 ただ、非常にこれは法律的にむずかしい問題でございまして、いまの運輸省のお話の免許があるかないかという問題、それから、これはちょっと私がいま考えた問題だけでございますが、会社側が免許を受ける期待権というようなものがはたしてあるのかどうか、すなわち国鉄の土地を借りた上で鉄道を敷設するという認可申請になっておるわけでありますが、その借りるつもりの土地が借りられなかったということは、はたして会社側が持っている免許を受ける期待権を侵害するかどうか、私どもといたしますと、十分そういう点を検討いたしませんと、いますぐにここでどうこう申し上げられませんが、ただいま手元にございます資料から申しますと、あの土地は現在法律的に全く白紙の問題である、全く国鉄が一〇〇%所有権、使用権を持っておる土地であります。それから、先ほど申しましたように、将来の伊豆の開発と関連して、どうしても伊東線の問題をこの際考え直す必要があると思うのであります。それから土地の価値が、先生も御指摘のとおり、非常に変わってきておると思うのであります。こういった問題等をすべて勘案いたしました上で、運輸省御当局の新しい鉄道敷設に対する御方針等も承りまして、十分法律的に間違いのないような処置を講じたい、講ずべきであるというふうに考えております。
○久保委員 そこで運輸省にもう一ぺんお尋ねするのですが、当該鉄道の建設について、工事施行認可にあたって二十五項目の回答を求めているわけなんですね。その回答の中には、国鉄の所有地が使用できるかどうか、そういう問題についての回答を迫っておりますか。
○広瀬説明員 ただいま手元に資料を持っておりませんので、二十数項目の内容を明らかにしておりませんが、工事施行認可に関連して質問を出しておるわけでございますから、当然経過地あるいはどの土地を具体的に使うかというようなことも聞いておるかと存じますが、これはなお調べまして後ほど御報告いたします。
○久保委員 それは鉄監局長がおっしゃるように、どういう土地を通るかというような、そんなことじゃないと思うのです。工事施行認可にあたっての質問は、いわゆる技術的な問題、特にそういう問題が多いのではないかと思うのです。私が聞きたいのは、国鉄の土地が使用できる見込みがあるのかないのかという質問をその中に出しているかどうかです。これは国鉄部長、わかりませんか。
○向井政府委員 二十五項目の質問書の内容を承知しておりませんので…。
○久保委員 いや全部でなくて、ぼくが質問する点……。
○向井政府委員 まだ質問書そのものを私は検討しておりませんで、調べればすぐわかりますから、御報告いたしたいと思います。
○久保委員 ちょっと質問中に電話で聞いてください。――そこで副総裁から、全く国鉄のものであって他人の容喙を一切許さぬ土地であるということだが、そのとおりだと私は思います。そこで中畑局長は先ほど、払い下げるかどうかについても伊東線の問題とからんで検討中だというのですが、その検討の必要はないと私は言うのです。ところが副総裁の答弁とあなたの答弁は若干違います。いまさら何も、鉄道建設に対して国鉄の所有地について従来どおりこの会社に貸すか払い下げるかなんというそういうものを頭に置いて、伊東線のつけかえなり線増というか、そういうものを検討していくというのは、それは全く誤りであります。私はおかしいと思う。いかがでしょう、必要ないじゃないですか。
○磯崎説明員 先ほど中畑総務局長から御答弁いたしましたのは、中畑総務局長はいままでずっとこの問題に関係いたしておりましたので、いろいろ過去のいきさつが頭にあったために、そういう御答弁を申し上げたと思うのですが、その点私がただいま御答弁いたしましたとおりというふうに御了承願いたいと思います。
○久保委員 そういたしますと、当該土地については一切もう考えておらぬ、こういうふうに了解してよろしいですね。だめを押しますが……。
○磯崎説明員 ただいま手元にございますいろいろな資料を見ますと、法律的に全く白紙の事態に戻つているというふうに私は了解いたしております。裁判上いろいろのいきさつなどもございまして、私の答弁に間違いないと思いますが、もう一ぺん法律的に検討いたしました上で御返事いたしませんと、またいろいろ問題を起こしますので、私のいまの認識では完全に一〇〇%国鉄の所有権の昔に返っているというふうに了承いたしておるのですが、さらに法律的にもう一ぺん検討さしていただきたい、こういうふうに考えております。
○久保委員 政務次官、私が申し上げるとおりだと思うのです。運輸省としてもそうだと思うのですが、いかがでしょう。国鉄は来宮のズリ捨て場をこの会社に貸すかどうかという観点から検討する必要は今日の段階では何もない、毛頭ない、こういうふうに思うのですが、いかがでしょう。
○大石(武)政府委員 全くそのとおりでございます。

(略)

http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0106/04604140106018a.html

第046回国会 決算委員会 第18号
昭和三十九年四月十四日(火曜日)
 
○押谷委員 (略)
 新幹線の送電線の問題について、箱根の地区で国土計画興業株式会社の所有地を送電線が通過をしたということがあると思うのですが、この箱根の国土計画興業株式会社――なかなか名前がでかい名前なんですが、この会社所有地の箱根で送電線の塔を建ててやったのですが、これはスムーズにできておりますか、あるいは工事に非常にお困りのようなことがなかったですか、一応お伺いします。
○石原説明員(日本国有鉄道常務理事 お答えいたします。  これもうまくいきましたほうでございまして、だいぶん支障はございましたのですが、折衝の結果承諾を得まして現在工事を進めております。このいきさつを申しますと、これも御承知と思いますが、新幹線は六十サイクルの交流を使いますので、富士川から東のほうは五十サイクルの電源しかございませんので、買電をいたしまして、これを六十サイクルに直しました高圧線を一本通さなければ新幹線が運転できないというはめになっております。それで富士川から東京の近くまで高圧線をずっと引いてまいります途中で、どうしても国土計画興業の敷地を通さなければならないという事態になりまして、これも折衝いたしましたがなかなか話に乗りませんで、長い間かかりましてやっと案をまとめたのでございますが、一応の案を電気工事関係の局長と国土計画興業とできめましたあとで、西武鉄道系からこの線は観光開発上障害があるから三年間だけただで貸す、けれども三年以上の契約はしないという申し入れが昨年の十月にございました。それで直ちに理事会にはかりまして、こういう重要な東海道新幹線の電源を運んでくるものに対して、しかもこれは二年越しで折衝してきめたルートに対して、三年の期限のついた契約というようなことには応じられないし、それからただで貸すと言われてもこれはただでは借りられない。これは土地自身といたしましては、電柱を建てるのが十一基だったと記憶しておりますが、十一基の電柱の基礎とそれから線下補償の問題だけでございますけれども、三年後にどうなるかわからぬというようなことでは応じられないということで強硬に西武系と折衝いたしまして、直ちにこれも事業認定を受けることにいたしまして、一方において収用法発動の手続をいたしまして期限を切って折衝いたしました結果、起工承諾を受けまして工事に着工いたしました。現在はもうほとんど完成いたしております。ただしまだ正式の契約は――このときは覚え書きをかわしまして、将来観光開発上必要があった場合は、そのルートを別のルートに変えることの交渉に国鉄は応ずるという覚え書きをかわしまして、着工いたしまして、すでに工事はほとんど完了いたしております。
○押谷委員 この工事に関してルートの変更をしたことはありませんか。
○石原説明員 これは何べんもいろいろなルートで変更をいたしまして、初めからでありますと、ずいぶん何べんも変更をいたしました。それで最後的にやっと落ちついたのが昨年の十一月だったと記憶いたしております。
○押谷委員 まあ国鉄の新幹線の工事なり運営に協力をしようとする人の態度としては、この送電線の塔をつくり、送電線を通すということについて、いろいろルートに注文をつけるまではよろしいけれども、三年間という期限をつけること自体がこれは無理で、国鉄の強腰の態度でもって、ついにここも大体目的を達成せられたことは喜びにたえませんが、しかしこういうことの折衝にあたって、何かほかに条件でもつけて、こうしてくれればまた便宜をはかるとかなんとかいうような、たとえば熱海の丹那トンネルのズリ捨て場がある、ああいうものを貸すとか貸さぬとかいうような条件でもついているのじゃありませんか。
○石原説明員 これは折衝の過程において、そういうものを条件として出してきた時期がございますが、それを条件として妥結したというわけではありません。ただし、これは高架鉄道の鉄道敷にこちらに貸してくれという問題が将来の問題として残ってくると思いますが、そうなりますればこれはその場合で考えなければならぬ問題かと思いますが、条件ということにはちょっとなっておりません。
○勝澤委員長代理 いまの西熱海の問題で関連をして御質問申し上げますが、条件にはなっていないけれども、その出されてきた条件については将来国鉄としては検討しなければならぬようなことになっているのですか、どうですか。
○石原説明員 ちょっと前の答弁を修正いたします。
 御質問のありましたズリ捨て場の梅園の用地でございますが、これは「梅園附近の国鉄用地を伊東線の線増その他国鉄の事業に支障がない範囲において、地方鉄道法に規定する地方鉄道の用に供するための線路敷として、運輸大臣の許可を得た後売却するものとする。」という約束になっております。
○押谷委員 まあ、むずかしい文章を並べてのいまの御答弁でありますが、ここにもやはりごね得の一つのあらわれがあるのじゃないかと思うのです。そのズリ捨て場というのは梅園ですか、相当問題のあるところでありまして、これを政府の関係で使うか使わぬかということは問題なんです。相当の大きな利益があるのです。その利益を提供することが、一つの送電線の、架線の通過、鉄道の建設に条件を付せられたようになると、やはり一つの妥協にあたってのごね得があらわれているような感じがいたしますが、そういうことのないように、国鉄の財産を国鉄の利益のためにはあくまでも確保する、一部の権力者のごね得は許さないというき然たる態度をもって臨んでもらいたいと思います。これはまだ未定の問題で、これからの問題にかかっておりますが、そこを私鉄の認可を得、私鉄の用に供するという条件はありますけれども、そういうことで、他にまた適当な口実等を設けて観光用ホテルの施設に使うとかあるいはケーブルカーの建設に使うとか、何かそういうことでどんどん使う道を考えるかもしれない。そうなると、架線を、送電線を通すという条件に大きな利益を与えたということになりますと、やはりゴネ得ということが考えられる。その点は特に御注意を願いたいということを希望いたしておきます。(略)


○廣瀬政府委員 先ほどお尋ねがございました国鉄から伊豆箱根鉄道に買収の申し込みをいたしましたのが、三十七年の三月三十日、伊豆箱根鉄道から名古屋の陸運局へ鉄道敷設免許申請がありましたのが、三十七年四月二十五日でございます。
勝澤委員 あまり時間がありませんから、なるべく簡単にお伺いいたしますので、答弁のほうも簡単にお願いしたいと存じます。
 最初に、先ほど押谷委員が箱根の送電線の関係で、この送電線と西熱海ホテルですか、この用地とが条件になっていないのかどうか、こういう質問があったわけであります。資料をいまいただいたのを読んでみますと、国鉄のほうが熱海の梅園付近の用地を貸してやる、そのかわり送電線やら、あるいはまた大雄山線の、この辺の線路を通ることについて了解する、こういうように書面がなっておりますが、この書面どおりなんでしょうか
石原説明員 さいぜんの答弁、ちょっと勘違いいたしましたので、訂正いたしたいと思いますが、昨年の二月に、新幹線その他の整備に関係いたします諸問題と、それから梅園の土地の貸し付け等につきまして覚え書きをかわしております。この梅園の土地のいきさつを申し上げますと、駿豆鉄道と申しました時分に、昭和二十七年八月に、来宮から十国峠に至ります鋼索鉄道を敷設するという認可を、当時の駿豆鉄道、いまの伊豆箱根鉄道がとりまして、それに伴って用地を、この場合は借りるのでございますが、貸してくれということで、よろしいという返事をいたしたのでございます。ところが、その後になりまして一向に施工をいたしませんでしたので、これは新幹線のズリ捨てをするのにその土地を使う以外に方法がありませんので、またそのときにはそのズリ捨てに使うぞという条件がつけてございましたので、三十三年の十二月になりまして、東鉄局長から、使用最中の国鉄用地は三十四年度から国鉄が工事を再開する新丹那トンネルのズリ捨てに使うから、三十四年一月三十日限り使用承認を取り消すという通告をいたしました。それに対しまして、伊豆箱根鉄道から抗議を申し込んでまいりまして、ついに三十四年八月に、静岡地方裁判所の沼津支部に、占有妨害禁止仮処分命令の申請というのを伊豆箱根鉄道でいたしましたが、続いて十月十日にはその仮処分申請を取り下げております。そういったようないきさつになっておりまして、伊豆箱根といたしましては、この工事の着工が非常におくれておりましたが、もし工事認可を受けて着工する場合には再びこれを貸してくれというのが向こうの言い分でございます。これに対しましては、その前に過去いきさつがあるというばかりではございませんで、もし、ルート認可も得ますし、工事の認可も運輸大臣から得られました暁におきましては、ほかにルートがおそらくとりにくいと思いますので、その場合にはこれは協議に応じなければならないかと思います。これはあまり利権とか非常な利益とかいう問題ではありませんで、当然それに見合うだけの正当な時価で土地を売り払うということになりますので、特別の利権を与えたとか特別の利益をあらかじめ約束したとかいうことにはなるまいかと思います。
勝澤委員 伊豆箱根鉄道はそこに何をつくろうとしているのですか。
石原説明員 お答えいたします。
 これは、昭和二十七年に届け出ましたときには、熱海市来宮――十国峠間の鋼索鉄道敷設ということで認可を求めております。その後、この鋼索鉄道が非常に急勾配なので、その認可についても運輸省で疑義を持っておられたような話も聞いておりますが、いずれにいたしましても着工が非常におくれておりましたので、いまのような取り消しというところまでまいったわけでございますが、何でもいま聞いておりますのでは、従来の鋼索鉄道と設計を変えまして、新しい方式の登山鉄道で認可を求めるつもりだというようなことを聞いております。
勝澤委員 そうすると、これはあくまで鋼索鉄道なりその鉄道に関係があることをやるのですか。
石原説明員 当然さように了解しております。鉄道に使う用地だけを売り払うということに考えております。
勝澤委員 相手は国鉄よりも、極端に言いますと、一枚上手の人物ですから、何をやらすかわからないと思うのですよ。この文書を見てみますと、これはあとでたいへん問題になると思うのです。ここ二、三年あるいは四、五年、これを見ますと、二十七年からの問題ですから、問題になると思うのです。ですから、これはやはりもう少しいまの段階できっちり詰めた意見にしておいていただきたいと私は思うのです。そうしないと、運輸大臣の許可があったら、必ずこれは売却するものとする、売り払う、売ったということになっているわけですから、許可があって売り払った、その売り払ったあとどうするかというのは、これまた問題なんです。ですから、これはやはり使用目的にきっちりついた、かりに売らんとするならば、それが実行されない場合には、また取り立てができるようなしかたをしておいてもらわないといけないと思うのですが、そこまでお考えになっておるでしょうね。
石原説明員 これは私が締結した条文ではございませんが、これは私取りかわした文面をその後見まして、大体抜けがないのではないかと実は思っております。それがいかに老獪に解釈されましても、大体だいじょうぶだろうと思うのでございますが、それは「甲は、乙に対し熱海市梅園附近の国鉄用地を伊東線の線増その他国鉄の事業に支障がない範囲において、」ということが一つの条件、「地方鉄道法に規定する地方鉄道の用に供するための線路敷として、」というのが一つでございます。それから「運輸大臣の許可を得た後売却する」こういう条件になっております。線路敷に、カッコで条件がついておりまして、「最小限度の附帯施設を含む。」となっております。したがって、これはほかのものにはこちらは売らない。運輸大臣の許可を得た後に、地方鉄道法に規定する地方鉄道の用に供するための線路敷(最小限度の附帯施設を含む。)としてだけ売るのだ。こういう相当厳密な条件がつきまして、さらに伊東線の線増その他国鉄の事業に支障がないという条件をもう一つつけております。いかに老獪にかかってきましても、これで大体抜けが――そうやられることもないのじゃないかと思います。
勝澤委員 それは「運輸大臣の許可を得た後」となっておる。運輸大臣の許可とはいつの時点かということです。
石原説明員 これは工事認可の許可を得たということだと思います。
勝澤委員 工事認可を得なくとも工事を行なったことの経験のある会社なんですね。ですから、法律がどうあろうと、こうあろうと、とにかくやって、負けたら裁判を下げればいい。元っ子だ。かかった分は国鉄が補償してくれる――補償したかどうかよくわかりませんけれども。ですから、ここで運輸大臣の許可を得た、運輸大臣が許可をした、実際には工事認可の許可を得たけれども工事が行なわれなかった、行なわれなかった場合においては当然これは国鉄が買い戻すのだ、その辺ははっきりしたことをしておいていただきたい。これはかつて国有財産の処理で大蔵省にあった例ですから。売った、一週間たって転売された、買い戻しができないという例が現実にいま起きているわけですから、ひとつ国鉄の参考のために。それくらいでこの問題は終わっておきます。
 次に、ただし来宮構内について貸し付けるものはそのままだ。来宮構内では何を貸し付けておるのですか
石原説明員 これは、この前の計画でございますと、向こうの鋼索鉄道の終端の停車場を駅の前につくるようなことになっておりました。この場合にはこちらの鉄道の将来の計画とも関連いたしますので、売却をしないで貸し付けだけをするという契約になっております。
 なお、一言申し落としましたが、国鉄の用地を売却いたします場合には運輸大臣の認可を受けることになっております。したがいまして、工事施行の認可が運輸大臣から向こうにおりまして、こちらが売却の価格その他全部交渉が済みますれば、運輸大臣の認可を得て売却するということになります。
勝澤委員 そこで、次に、別紙二の覚え書きというのがありますね。別紙二の覚え書きの中で見ますと、先ほども言っておりました「将来乙の観光開発計画の実施に伴い乙の要請により前項の施設の変更を必要とする場合は、友好的に両者、誠意をもって協議する。」これはこの一札が入っておるわけですね。しかし、これを別紙一の二月の四日に結んだ覚え書きにつけ加えて八月の二十九日に結ばざるを得なくなったということは、どういうわけですか。二月の四日の覚え書きで明確になっているわけですから、その明確になっているのへ八月の二十九日にプラスアルファをして、あなたのほうで、必要なときには相談に乗りますよ、相談に乗りますよと言っておりながら第一の覚え書き、これでは梅園付近の問題がひっかかるじゃありませんか。これは両方とも、また片一方でおどかされてまた今度はこっちのほうを譲るということになるじゃありませんか。そこはいかがですか。
石原説明員 お答えいたします。これはさいぜんもちょっと申しましたように、あそこは観光開発の計画を持っております。これは事実持っておりまして、すでにゴルフ場だとか、ヘルスセンターみたいなものをつくっております。そういったような場合に、景色をじゃまをしたとした場合にはルートの変更をすることについて協議に乗ってくれという申し出がございましたのです。さいぜん申しましたように、それは三年間の期限につきであるというようなことは、こちらがけとばしましたのですが、そういう期限なしに、一応つくったからには将来こっちは絶対にルート変更には応じないということではないのだということでございまして、この程度のことは向こうの希望を入れておいても、送電が途中で中断するという問題もございませんし、それから経費の問題につきましては当然原因者負担になるものと考えます。そういったような点がございますので、これはこちらが一度引いた送電線は、幾ら国土計画のほうで言ってきても絶対に変えてやらないといったような意地悪はしないということになりますので、こちらといたしまして格別将来の大きな負担になる問題ではございませんので、向こうの希望どおりに覚え書きをかわしまして、着工いたしたわけであります。
勝澤委員 そこで乙の要請があった場合においては友好的に誠意を持って相談に乗らにゃいかぬ。相談に乗った結果、移転をするということになったら、原因者負担だから、この国土計画興業株式会社ですか、ここが負担をするのだということが、国鉄の態度ではっきりいたしました。はっきりしたけれども、友好的に誠意を持って協議するということは、ただ単なる期待だけであるということになると思うのです。期待権だけを持たしたために三億の補償をしたという例があるのです。これは一つ申し上げますと、電源開発株式会社が奈良県にダムをつくるときに、この道をつくりますという約束をしたわけです。そうしたら電源開発株式会社で計画が変更になったわけです。計画が変更になって、こっちへ行くからこの道路はつくらなくてもいいということになったわけです。しかしこの道路をつくるという約束をしたから、この道路をつくる補償をせよと言われて、三億円電源開発株式会社が奈良県に払って、奈良県は三億一般財源に入れた例があるのです。これは会計検査院の報告書に載っておるのです。あるいは国鉄も例があるのです。何も影響のないところに景色補償をしたという近江鉄道の例です。近江鉄道という会社と、このいまあなたがやっておる送電線の会社との関係は同じじゃないでしょうか。同じだとするならば、いまあったことがまた将来ないとはいえないと思うのですが、その点をもう少し明確にしておいていただきたい。
石原説明員 お話のございましたように、近江鉄道は西武系の会社でございまして、近江鉄道に関する交渉は全部主として西武鉄道の社長がいたしております。したがいまして、これも全く同じ系統でございます。しかし少し違いますのは、国鉄が違っておりまして、今後はこれはあくまで相互に誠意をもって友好的に交渉するのでございまして、先方が友好的、好意的でございませんければ、こちらとしては決して友好的、好意的にやるつもりはございませんし、今後はさような言いがかりにつきましては、少なくともこの問題なんかにつきましては、こちらは近江鉄道の二の舞いをするようなことはいたしません。
勝澤委員 近江鉄道と伊豆箱根、それから国土計画興業株式会社というものは、同じ立場にある人であるということが明確になりました。(略)

H.FUK 様の「西武グループの歴史 History of Seibu Group」を参考にさせていただきました。ありがとうございました。

http://web2.nazca.co.jp/dfg236rt/page083.html

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2015年1月31日 (土)

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅 において、「新幹線の貨物輸送は世界銀行の融資を受けるためのダミー(フェイク)」説について、主に建設時の国会議事録等を中心に検証してきたが、この項では、東海道新幹線開業後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等を検証してみたい。

 この提案を受けて国鉄はさっそく世銀との接触を開始する。(中略)また、当時の世界では、鉄道は「経済動脈」として旅客と貨物をあつかうことが常識だった(世銀の本部が置かれるアメリカでは当時、鉄道輸送のじつに95%が貨物であった)ため、東海道新幹線による貨物輸送のプランも示す必要に迫られた。

 とはいえ、技師長である島の頭にははなから貨物新幹線構想などなかった。世銀への説明資料には貨物輸送の青写真も加えたものの、それはあくまでもポーズだった。このプランでは、新幹線における貨物輸送は、コンテナとピギーパック方式(トラックを直接貨車に積み込む方式)により、夜間輸送、東京~大阪を時速150キロ、5時間半程度で結ぶことが示されていた。

新幹線と日本の半世紀」交通新聞社刊、近藤正高著 76~77頁

 このように「世銀への説明資料には貨物輸送の青写真も加えたものの、それはあくまでもポーズだった」との趣旨で記す本は多い。また、当の島秀雄氏も下記のように語っている。

島はしみじみと回想する。

「私たちの新幹線に対する基本的な考え方は、東海道在来線の貨物を含む総輸送力を最も合理的に強化する方法として、新線を旅客中心にしてしまうということだった。つまり新線建設によって在来線には以前よりはるかに大きな貨物輸送力を確保することができるという、総合的な見地から決めたものであり、東海道輸送力増強の方策としてはわれわれの新幹線原案こそが最良最高のものであると考えていた。

  ところがこの考えを国鉄内部でも理解することなく、新線にも貨物輸送をすべきだと単純に発言する者もあり、まして世界銀行に理解してもらうには時間がかかりすぎるおそれがあった。

  したがって世界銀行に対しても一応本心は伏せて、新線でも貨物輸送をしないわけではないという態度でのぞむことにした。しかし、話し合っている最中にもつい本心が出てしまいそうで、はらはらしながらの交渉だった。日本語で日本人に話してさえなかなか理解してもらえないのに、外国人に外国諾で話すのではとても無理だろうな、と何度も思った。

  ところが私たちの話を聞いたローゼンさんのほうが、『そういうことであれば、在来の東海道線は貨物輸送を中心とし、新線は旅客中心でやることにしたほうが新線建設の意味も大きいのではないか』といってくれたので、ホッとした。(以下略)

超高速に挑む 新幹線に賭けた男たち」文芸春秋刊、碇義朗著 181~182頁

 また、JR東海元会長の須田寛氏は、下記のように述べている。

須田 (中略)しかし大きな課題は、新幹線の建設資金は世界銀行から約1億ドル借りることでした。

- 世界銀行というのは国際復興開発銀行(IBRD)のことですね。

須田 IBRDは開発途上国や戦災復興の援助を目的に設立された機構です。したがって貨物をやらないような鉄道には援助はできない、貨物も旅客もやってはじめて日本の開発になるのだから、Developmentになるのだから、旅客だけでは協力しにくいと言われたので、貨物をやりますと言わざるを得なくなってしまったのです。それでいずれは貨物もやることになって、鳥飼貨物駅を新幹線基地の横に造ったりしましたが、新幹線開通のころになると、貨物をすぐやる気持ちはほとんどなくなっていましたね。今のように新幹線と在来線で使い分けて東海道の線増効果を出そうとしたのが経緯でしょうね。

- 結果論ですが、東海道新幹線で夜行貨物列車を運転していたら、貨物の輸送シェアも変わっていたのかと思ったりします。

須田 輸送シェアはともかく、新幹線で郵便と新聞の輸送をやることは強く要請されました。これは貨車ではなくて電車でいいからと。しかしいざ実施となると、新幹線で輸送時間の厳しい新聞輸送をやるとダイヤが構成できないだろうということになってお断りしましたが、民営化の頃までこの要請はありました。一時期「RAIL GOサービス」をやっていましたが、あれはそのような要望の一部に応えたのです。(以下略)

須田寛の鉄道ばなし」JTBパブリッシング刊 68頁

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 しかしながら、上記の「定説」と異なり、東海道新幹線開業後も貨物新幹線の実施について検討した証拠は残っている。

 元日本国有鉄道総裁の仁杉巌氏は、東海道新幹線開業後の昭和43年に下記のように述べている。

貨物輸送

 新幹線は、いま貨物輸送をおこなっていませんが、将来それをおこなう考えは十分にあり、そのために最初からいろいろ研究していましたし、貨物駅の用地もすでに買入れてあります。

 はじめから貨物輸送をおこなわなかったのは、一つは、旅客輸送のための工事だけで資金がいっぱいだったことと、もう一つは、新幹線で大急ぎに荷物を運びたいという要望がまだそれほど高くなかったからです

 (中略)

 そこで、いずれ新幹線による貨物輸送をもとめる声も高くなってくるだろうと思いますが、そのときは、おそらく新幹線が関西よりももっとさきへのびたときではないかと考えられます。つまり、現在建設中の山陽新幹線が下関までのびたときとか、博多までのびたときとかです

 (中略)

 新幹線が日本を縦貫するようになったそのときこそ、新幹線は、直接、産業開発の一與もにない、日本の発展のために、もっともっと大活躍することになるのだろうと思います。

世界一の新幹線」鹿島研究所出版会刊、仁杉巌・石川光男共著 157頁

 この本は、子供向けに出版されたものなので、口調が子供向けに平易になっている。

 なお、この本が出版されたのは、昭和43年であり、新幹線が世界銀行からの融資獲得のためのポーズなら、わざわざリップサービスをする必要もないにもかかわらず、ポーズ説を否定し、貨物新幹線の将来構想について述べているのである。

 ちなみに、仁杉氏は、東海道新幹線建設にあたっては、名古屋幹線工事局長及び東京幹線工事局長を歴任しており、須田氏などよりも新幹線建設の実情を熟知していると思われる。

 同様に「山陽新幹線博多延伸時には貨物営業したい」旨のことは、昭和41年に出版された「国鉄は変わる」至誠堂刊、一条幸夫(国鉄審議室長)・石川達二郎(国鉄経理局主計課長) 著においても述べられている。

 このへんの面子が島氏のいう「この考えを国鉄内部でも理解することなく、新線にも貨物輸送をすべきだと単純に発言する者」なのだろうか?いずれにせよ、わざわざ島氏も言及するほど、国鉄社内における貨物新幹線に係るスタンスは一枚岩ではなかったということなのだろう。島氏の言い分だけ聞いて「貨物新幹線は世銀向けのポーズ」と断言してしまうのも一面的な取材にすぎないというわけだ。

 なお、東京大学名誉教授の曽根悟氏は、

幻の貨物新幹線

「十河総裁と「島技師長」対「その他国鉄首脳」との戦いはかろうじて総裁・技師長組の勝ちになったのだが,実現までにはさまざまな困難があった。

 まず,新幹線への最大の反対理由は,貨物輸送がネックになっているのに,貨車が直通できないことだった。これに対しては,今のコンテナ電車のような高速貨物列車を新幹線にも走らせることにした。こうして高速貨物電車の絵や図面は作られたのだが,どこまで本気でやる気だったのかは今となってはよく判らない。実際には,新幹線は開業直後から大人気で,旅客輸送だけで手一杯になり,開業後に貨物輸送の議論は全く立ち消えになった。

新幹線50年の技術史」講談社ブルーバックス 曽根悟著 24頁

と述べており、「国鉄内部での新幹線実施に向けた路線対立の収束のために貨物新幹線が検討された」との見解を示している。実際のところ、世銀との交渉以前に新幹線の諸規格が貨物新幹線ありきで決定されていることとも整合が取れるものである。

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 国鉄が発行した「新幹線十年史」には、山陽新幹線の建設にあたって下記の記述がある。

路線の有効長は、将来の貨物運行を考慮して500mとしている。

新幹線十年史」313頁

 世銀向けのポーズなら対応しなくてもよいと思われる山陽新幹線にも貨物用の規格が盛り込まれているというわけだ。ただ、この本には、貨物輸送についてはそれ以上のことは触れられていない。

 いろいろと調べていると、「旬刊通運」という交通出版社が発行していた運送業界誌の17巻33号(昭和39年11月発行)に「どうなるか新幹線の貨物輸送問題」という記事が掲載されており、ここに、東海道新幹線開業後の国鉄内部での検討状況が非常に詳しく記載されているので、紹介したい。

どうなるか新幹線の貨物輸送

-牛歩ながら検討は続行中-

旅客営業は順調にスタートしたが

 スピード時代に対応した鉄道の花形として、去る十月一日華々しくスタートを切つた東海道新幹線も、ようやく一ケ月を経過した。開業当初はパンタグラフの故障をはじめ、信号、ドアなどいろいろな故障が続発して、一時は前途に暗い影を投げかける一コマもあつたが、最近はこれら開業当初特有の部分故障も殆んど影をひそめるに至り国鉄当局もようやく焦眉を開いたというのが実情で、あとは悪質な妨害を防ぐことか当面の課題になつているようである。そんなわけで国鉄公約の「一年以内に東京-大阪間三時間運転の実現」は、見通しが明るくなつたとみられている。

 こうして東海道新幹緑は、未開の大地にようやく根を下した感があるが、これは旅客輸送の場合であつて、貨物輸送については未だに実施時期さえメドがついていない実情である。

 当初の計画では、先づ旅客輸送から営業を開始して、追つかけ一年後に貨物輸送を開始するということであつたし、事実そのような段収りで貨物輸送に関する検討も同時に進められてきたものだが、既に旅客営業は開始された現在に至るも、貨物輸送は何時、どのような形で実施するか、今もつてそれらの基本的方針さえ決まつていないというのが実情である

貨物輸送に対する消極論

 これには、新幹線の工事半ばで完成所要資金に対し八百数十億の不足を生じ、国会の問題にまでなつて、国鉄総予算中から優先充当等特別の資金手当をもつてやつと穴埋めをしたという過去のイキサツやら、開業期限に制約された事情(聞業予定の十月はオリンピツクの開催を控えていたので、面子のうえからも開業延期は許されないと、国鉄当局は背水の陣で臨んでいた〉から、資金面は勿論のこと、あらゆる点で当面は旅客輸送の開業体制確立一本ヤリで臨まざるを得なかつたものと思われる。

 つまり、これまでの状況から判断して貨物輸送の営業準備にまで手が廻わらなかつたのではないか、とする見方である。それに国鉄内部には、以前から新幹線で貨物輸送を行つてもあまり意義はないのではないか、とする消極論もある。これは、現在線から旅客の優等列車が新幹線へ移行すれば、現在線はそれだけユトリができるわけだから、その分を貨物輸送に充当するだけでも、輸送力はかなり増強できる、との観点に立つた考え方だが、その消極論というのは、東海道新幹線のような短い区間では、東京-大阪間に貨物の夜間運行をして早朝の三時、四時に着駅に着いても、即時引取りの受入体制を整えようがない実情なので、新幹線の一枚看板ともいうべきスピード化の効果が生かせないというのてある。

 そこから、強いて新幹線に貨物輸送を行うまでのことはなく、更らに輪送力増強の必要があるなら、現在線から 準急程度の旅客便も新幹線へ移し、線路容量に一層余裕をつくつて貨物輪送に振り向けた方が一挙両得だ、との議論も出ているのである。

 客貨分離の思想に通ずるもので、近年相次いで発生した重大事故を契機として、過密ダイヤの解消が大きくクローズアップするに至つた実情に微しても、その一環として客貨分離は必然の方向とも云えるわけで、考え方としては時宜を得たものと云える。

 しかし、これには日本の国情からみてゼイタクだとする反論のあることも事実で、理想的な鉄道経営のあり方と しては確かにそうあるべきだし、鉄道輪送をサービス本位に考え、事故の絶減を期そうとするには、少くとも幹線 ぐらいは客貨分離を図らねばムリなことはわかつているが、伝統的に客貨混合の過密ダイヤを基調として成り立つている国鉄の現行体制はそう簡単に改められるものではなく、又資金面でも厖大な投資を要することでもあるので国の強力なバックアップなくしては不可能なことだ。というわけである。

 それに、当初の計画では貨物列車は夜間だけ運転することになつている(但し、夜間一週に一回運転を休止して、保線作業の時間に充当する)が、開業後の実情はどうかというと、毎週一夜の予定の保線作業が毎夜行われているため、現状ではたとえ夜間であつても貨物列車を運転するユトリがなく、この面でも大きなカベに突当つている。勿論、線路の保守が軌道に栗れば毎夜保線作業を行う必要はなく、開業初期とあつて大事をとつた過渡的ソチには違いないのだが、何時常態になるか見通しがつかない現状だけに、問題点の一つになつていることは否めない。

 当初の基本構想

 しかし、だからと云つて貨物輸送の検討が全くなおざりにされているわけではない。囚みに三十七年当時まとめ られた一応の構想を掲げてみると次のとおりである。

(略)

白紙に戻して再検討に着手

 三十七年当時まとめた東海道新幹線の貨物輸送に関する基本構想は、概ね以上のようなもので、このうち停車場(取扱駅)の設置個所とか車両形式、輸送方法等の所謂基本事項は殆んどコンクリートしているようなものゝ、輸送計画に関する事項、即ち列車計画(運転計画)などは、概ね従来の基礎資料から試算したものに過ぎないので、新らたなデーターがまとまればそれに伴つて逐次修正することになつていると云われていた。

 そして、制度や施設等に関する具体的細目についても、新幹線総局(本年四月、新幹線支社に改組、貨物関係の担当者は営業局配車課へ配置換えをした)を中心に営業、運転等の関係各局担当者の間で逐次研究、協議することになつていた。

 ところが、前述のようにその後新幹線の建設それ自体に資金不足等の不測の事態が生じたことから、この際新幹線で貨物輸送を行うべきか否かという基本的問題に戻して、いわば白紙の状態で問題を検討すべきだとの意見が出され、それを契機として企面的に再検討することになつた。このため新幹線の貨物輸送に関する検討は一時中断も同然の状熊になつていたが、全線試運転の成功から旅客営業の予定期日開業の目鼻がつくに至つて、貨物輸送についても四十一年度乃至四十二年度の開業を目途に、輸送計画の具体的検討を再開することになつたもので、新幹線支社営業準備委員会、本社営業局配車課、貨物課などの担当者が逐次打合わせを行つている

コンテナ方式が有力

 現在検討されている新幹線の貨物輸送方式は、(一)フラットカーを使用する方式と(二)その他大型貨車による力式の二案があり、(一)案の中にも(イ)コンテナ方式、(ロ)フレキシバンを乗せる方式、(ハ)ピギーパツク方式(トレーラーを乗せる方式とトラックそのものを乗せる方式がある)などがあるが、このうち予算駅設備等の点で最も問題が少なく、現行のものと共用がでぎるという経済性の面からも五トンコンテナ方式が有力視されており、概ねこの方式を重点に検討を推進することにしているようである。

 コンテナ方式では電機牽引方式と電車貨車方式があるが.前者の場合は貨車一両当り六個積載、一列単二五両編成とし、後者なら五個積載の三〇両編成にすることが考えられている。

 とはいうものゝ、これらのコンテナ方式でも全く問題がないわけではない。一例をあげると、電気機関車牽引方式にしろ電車貨車方式にしても、積卸線に架線があつては積卸作業に著しく支障を来たすので、これをどう解決するかという問題がある。この点についてば、(一)積卸線にぱ架緑を設げず、列車が構内に入つたら積卸場所までデイゼル機関車に牽引して入、出線する。(二)コンテナの貨車積卸には従来のようにフオークリフトを用いず、コンベヤ方式で積卸しができるようにする……等の考え方があるが、具体的にば未だ何らの結論も出ていない。

 又、前述のように貨物輸送の予定時間帯となつている夜間は、毎夜線路の保守に当てられている現状では、貨物列車の運転のしようがないわけで、いずれは一週一夜程度の保守で間に合うようになるとしても、その時期は目下見当がつかないということだから、この点も大きな問題点に違いない。

 そこで、これらの問題点も含め、東海道新幹線の貨物輸送計画はどうなつているかについて、担当の営業局配車課堀本補佐に聞いてみた

 昼間運転も考慮

問 東海道新幹線の貨物輸送計画については、巷間消極論をはじめいろいろな説が流布されているが、当局の方針はとうなのか。

答 一応、実施することを前提にいろいろな角度から検討は続けているが決定した事柄は一つもない。

問 実施時期のメドはどうか。

答 四十年度の予算にはボカして一部を組入れて要求してあるので、そのまゝ大蔵省の承認が得られば四十一年度から営業を開始することもできるわけだ。予算ソチが整つても、開業までに二年かゝるというのが常識になつている。

問 貨物関係の所要資金としてどの位を見込んているか。

答 当面考えているように、電車によるコンテナ方式で開業当初は一日往復四列車でも間に合うという見通しが ハッキリすれば、取敢えずは東京(品川)と大阪(鳥飼)の二駅を設置するだけで用が足りるわけだから、既略九 〇億円ほど投貸すれば開業できる筈だ。しかし、取扱予想数量がこの程度の輸送計画では間に合わないとすれば東京の場合、品川では相応の施設をする用地のユトリがないので、設置場所を大井臨埠頭当りにかえなければならなくなるわけだから、この埋立費用だけでも相当な額に達するばかりでなく、途中静岡と名古屋にも駅を設ける必要があるので、一日往復二六列車を運行する規模に見積つて、所要経費はざつと六〇〇億門ほどかゝる計算になつている。

問 予定通り十月一日から旅客営業を開始してからかれこれ一月になるが大事をとる意味からか、夜間は毎夜保線作業が行なわれているという。このまゝでは夜間運転を予定している貨物輸送は不可能になると思うが

答 実はそれで弱つているわけだ。開業当初ではあり、安全運転のため過渡的ソチとしては止むを得ないことゝ 思うが、では、何時になつたら保守の手がゆるめられるかとなると、目下のところ皆同見当がつかない実情なのでこの点も一つの問題点になつているわけだ。消極論云々の話しがあつたが、資金などの問題もさることながら、幹部が貨物輸送に明確な基本方針を打出しかねているのも、こんなところにも理由があると思われる。

貨車の客車並み高速化を研究中

問 仮りに夜間の運行は先行きとも不可能になった場合には昼間運行に計画変更をせざるか得まいが、貨物の昼間運行を考慮されたことはないか

答 勿論、そういう考え方もあるがそうするにはスピードの問題から解決する必要がある。と、いうのはこれまでの観念によれば電車貨車方式では時速一三〇キロが限度なので、このような低速の貨車を新幹線に昼間運転するとなれば高速の旅客列車と時間調整をするため、要所々々に待避所を設置する必要があるが、新幹線には用地の面でそのようなユトリはないので不可能の実情にある。

 そこで、この解決策としては旅客列車並みに貨物列車のスピードアップを図る以外に方法はないわげだから、さき頃貨車を旅客列車並みにスピードアップすることができないものかどうか、技術陣に早急研究方を依頼したわけである。

問 旅客列車並みのスビードアップというと、時速二〇〇キロということか。

答 貨車の場合もこんな高速で運転している国は何処にもなく、全く未開の分野なので、技術的に果して可能性 があるかどうか、今後の研究に待たねばならないわけだ。しかし、これが完成すると、東海道新幹線では距離的に切角の高速も十分に生かし切れない憾もあるかも知れないが、将来山陽新幹線ができて東海道新幹線と直通運転するようになると、現在の「たから号」並みに夕方東京から発送するコンテナ貨物は、翌朝九州に到着してその日のタ方迄には荷受人に配達できるようになるから、驚異的な効果を発揮するものと思う。

問 最後に、新幹線の貨物輸送に関連して、通運体制をどうすべきかについて検討しているか。かつて、磯崎副総裁が常務理事当時(三十七年)、国会でこの点の質問を受けた際「新幹線の貨物輸送は、原則的にコンテナ輸送方式を採用するつもりなので、国鉄と通運会社の共同出資による新会社に任せることは考えられる」という意味の答弁をしたいきさつがあるが、こんなことがあつてから、業界内部には「国鉄はこの点についても内々研究しているのではないか」とみている向きも少なくないようだが。

答 新会社去々の問題は、当時磯崎副総裁が一つの考え方として述べたに過ぎないと思う。幹部はどう考えてい るか知らないが、われわれはその問題について検討したことは一度もない。しかし、新幹線でのコンテナ輸送と もなれば、その特殊性から云つても何らかの新方策を考えることは必要だろうから、いずればそう云つた間題とも 取組むようになるかも知れない。

 「貨物新幹線ポーズ論」の根拠の一つとして「夜間は保守を行っているのだから貨物輸送を行う余地はもともとなかった」というものがあるようだが、この記事を読むと、「当初は夜間の保守は週一日で、その日は貨物新幹線は運休する予定であった。しかしながら開業後想定外に毎夜保守を行うこととなってしまい、それが貨物運行の妨げになっている」旨の記載となっている。「夜間は保守を行っているのだから貨物輸送を行う余地はもともとなかった」という論は後付にすぎないもののようだ。なにより、昼間に旅客電車並のスピードで走行できる貨物電車の開発を検討しているのだから!

(※ 新幹線の開業後の保守体制等は上述の曽根悟氏「新幹線50年の技術史」に詳しい。)

 また、昭和39年11月時点でのこの記事では

「問 実施時期のメドはどうか。

答 四十年度の予算にはボカして一部を組入れて要求してあるので、そのまゝ大蔵省の承認が得られば四十一年度から営業を開始することもできるわけだ。予算ソチが整つても、開業までに二年かゝるというのが常識になつている。」

とのやりとりがなされているが、昭和40年3月の国会では、

国鉄が新幹線を開業いたしますまでには、先生も御承知のとおりに予算不足の問題がございまして、昨三十九年の十月に旅客の輸送開始をいたすまでの間に、いろいろとやむを得ない予算上の事情から、計画の変更と申しますか、一部をおくらせざるを得なかったということがございまして、その結果として、貨物輸送は、できれば一番最初は三十九年の十月、昨年の十月同時に開業するという計画でございましたけれども、ただいま申しましたような事情でおくれざるを得ない、ただいまの予定では四十三年の秋、これはどうしてもその時期になるという事情がございます

との答弁をおこなっている。

 国鉄幹線局調査役、新幹線総局調査役を歴任し、新幹線の企画から開業までを手掛けた角本良平氏は、中央公論新社のインタビューで下記のように答えている。

――本書にあるように、当初は新幹線も貨物輸送を想定していた?

 開業当時は、高速道路がまったく発達していなかった。東京から名古屋、大阪まで、トラックを動かすことは考えられなかった。その後、全国に高速道路網が張り巡らされた。結果的に、新幹線は貨物輸送をせずに正解だった。無駄な競争に参入しなくてよかった。

御年94歳、『新幹線開発物語』の著者・角本良平氏にきく。

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 ところで、山陽新幹線博多延伸時に実施されるはずだった貨物新幹線はどうなったのか?

 「国鉄線」昭和47年3月号(財団法人交通協力会発行)に「新幹線鉄道時代を迎えて - 21世紀の鉄道を目指して -」という国鉄局長級の座談会が掲載されている。ここで、泉幸夫貨物局長が、貨物新幹線の検討結果について下記のように述べている。

司会 さて、新幹線建設と関連して、貨物輸送をどうするかということも、国鉄としては非常に大きな問題だと思います。

泉 その前に、東海道新幹線を作りましたときに、将来は貨物もコンテナ輸送をやるという前提がありました。昭和34年に登場した5トンコンテナも、今縦積みにすれば、新幹線で使えるようにできているわけです。しかし、その後、100キロ貨車が開発され、東京~大阪間は、8時間で走るようになりましたから新幹線の貨物輸送は将来博多まで延びたときに、検討するという感じだったのです。

 その博多開業時期も大体きまってきたわけですが、貨物局を中心に勉強しまして、100キロ程度を出せるコキ車を使うと、博多から東京までといっても、そう時間に大きな差があるわけでもないことと、新幹線で5トンコンテナを運んでみたところでフリークェンシーに富んだ輸送は必ずしも期待できないこと等から、現時点では新幹線による貨物輸送は原則として考えていないのです。

 むしろ航空機が運んでいる-主として1トン以下の少量物品-あるいは現在旅客列車で輸送されている小荷物等を対象に、新幹線のもつ高速性が荷主さんに認められ、しかもフリークェントサービスが保てるならば、附随車を使って小型コンテナで迅速に積卸しのできる形態でやるぐらいのことが、新幹線での貨物輸送の範囲だと考えています。

 いざ検討してみたら、在来線の貨物に対しての貨物新幹線のメリットはなかったということですかね。いずれにせよ、島氏のいう「この考えを国鉄内部でも理解することなく、新線にも貨物輸送をすべきだと単純に発言する者」は相応の勢力があったということでしょうな。

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 以上、国鉄における東海道新幹線開業後の貨物新幹線に係る動きを整理してみた。近藤正高氏の述べるような単純なものではないことはお分かりいただけたかと思う。

 この他に、運輸省(当時)側の動きもあったようだ。運輸省系のシンクタンクともいえる「財団法人運輸調査局」において昭和40年3月に「東海道新幹線における貨物輸送方式」という調査報告がなされている。貨物新幹線がポーズであれば、こんな時期に運輸省が検討を行う必要はないはずだ。

 ちなみにその検討結果はというと

〔8〕結論

(略)

 現状においては、新幹線に直ちに全面的にコンテナ輸送を実施するためにはコンテナ輸送を応用するのは疑問とする要素が多い。この場合、新幹線において貨物輸送を実施するためにはコンテナ方式と電車貨車方式で行うことが方法としては最もふさわしいといえるが,これに要する莫大な投資に見合う利用財源,運賃問題,経済効果に疑問が多いばかりではなく,現在線の輸送力逼迫緩和にどれ程役立つか,また保守間合いをいかに生み出すか,フォークリフトなどの荷扱機械を如何にするか,通運業との関連をいかにするか,輸送速度をいかに調節するか,列車編成の問題をいかに処理するか等幾多の懸案が残されるので本格的に貨物輸送を開始するのは時期尚早であるというほかない。

 いずれにしても新幹線貨物輸送は一応採算を度外視して試行錯誤によつてやつてみることもよいが,これを本格的に実施することは余程慎重を期するというべきであろう。

調査資料第616号「東海道新幹線における貨物輸送方式 - 流通技術を中心として - 」財団法人運輸調査局 93頁

 となかなか辛辣である。

 同時期の昭和40年3月の国会における

国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております。

との国鉄側答弁と大きく異なっている。

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 ところで、東北・上越新幹線での貨物の取り扱いはどのようになっていたのか?

1.新幹線

【東北・上越新幹線】

1.17技術的諸課題解決に一歩前進

 全国新幹線鉄道ネットワークには、技術的に幾多の諸問題がある。つまり、ⅰ)東海道新幹線との建設基準の相違(標準活荷重・最高速度)、ⅱ)ネットワークとしての直通・分割・併合問題、ⅲ)豪雪・寒冷地域の高速運行、ⅳ)全国的な営業施策としての夜行運転・貨物輸送、などがそれである。これらの技術的課題については、新幹線整備の進捗に先立つて解決してゆくことが必要であるが、ネットワークの総合技術の第1段階として、東北および上越新幹線などを対象として、次項以下の方針を打ち出している。

(中略)

1.23 検討すすむ営業対策(夜行運転など)

(中略)

 一方、貨物輸送については、全国ネットを想定して、規格としては、東海道新幹線と同様N標準活荷重を採用することとなつているが、貨物輸送の要求する諸条件・新幹線的な高速度の必要性・航空貨物輸送との競合などの問題について検討した結果、数10年先の輸送構造の変化は予知し難いことなどから、線路設備としては対応できるものとしておくこととなった。

 

「交通技術」1972年10月増刊号、財団法人交通協力会発行 410・411頁から引用

 つまり、貨物を運ぶ具体的な見込みは当面ないけれど、未来永劫絶対ないとは言い切れないのでとりあえず貨物輸送には使えるように作っておく ということか。

 「世界銀行のためのダミー」であればここまでやる必要があるのだろうか??

4-2 車両限界と建築限界

車両限界

 車両限界とは、車両の断面寸法を一定の大きさに納める範囲の限界のことです。通常、在来鉄道の車両は肩部は丸い形状ですが、新幹線の肩部は四角い特別な形状となっており、しかもすべて直線からなる極めて単純な形状をしています。

 これは、新幹線の開発当初、旅客電車のほかに貨物輸送を考慮して、新幹線の車両限界が決定されたからです。後年、この大きな車両限界が生かされ、2階建て新幹線の誕生につながりました。

「図解入門よくわかる最新新幹線の基本と仕組み」秀和システム・刊、秋山芳弘・著 146頁から引用

 2階建て新幹線は貨物新幹線規格故に出来たということのようだ。

 

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 なお、元・信州大学教授で国鉄勤務時代に東海道新幹線建設工事に従事した長尚氏のウェブサイトによると、新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)のうち、N標準活荷重(貨物列車荷重)は、2002年(平成14年)に改正されるまで、生きていた。つまり、それまでは貨物新幹線が走れるような構造で建設が続けられてきたのである。

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2015年1月17日 (土)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(蛇足)

新幹線と近江鉄道にまつわる「景観補償」の検証(その9)/多分(終)で締めたつもりが、締まらなかったw

 この、近江鉄道と新幹線のネタを始めたのは、もとはといえば、小川裕夫氏の「封印された鉄道史」の記述があまりにドイヒーだったからだった。もう11箇月も前なのか。

封印したい「封印された鉄道史」(小川裕夫)とウィキペディアと堤さんの所業

 せっかくなので、小川裕夫氏の記述の答え合わせをしてみよう。

 単行本でいうと144頁 Episode42【新幹線を走らせるなら1億円ください!】「近江鉄道眺望権裁判」の真相

 まず、表題から全く違うわ。なんでこれで「真相」と言えるのか?

小川裕夫氏 革洋同調べ
他方、滋賀県では新幹線と高宮駅-五個荘駅間で併走する近江鉄道が国鉄相手に訴訟を起こしている。 訴訟はおこしていない。通常の補償の交渉を行っているだけである。
これは新幹線の線路が高架線であるのに対して併走している近江鉄道の線路はそのまま地上にあるので、踏切や警報機の位置を変えたり新しく設置し直さなければならなくなったからだ。 踏切については請求項目に入っているが、それだけではない。詳細はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-1055-1.htmlにて。
その費用として近江鉄道は国鉄に1億円を請求した。 国鉄によると、当初は要求額総計4億1626万770円→後に7億7600万円を要求。詳細はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-1055-1.htmlにて。
近江鉄道が国鉄に提出した要望書に挙げた項目の中に、「近江鉄道の車窓から見える伊吹山や鈴鹿山脈の眺望が失われる補償」という文言が含まれていた。 「眺望が失われる補償」という言い方は近江鉄道も国鉄もしていない。直接的には旅客が減ることに対する補償である。
国鉄の大石重成新幹線総局長の国会答弁では
「近江鉄道は観光的な鉄道でございますので、お客さんが、沿線の景色をながめながら走っていくというようなことを大きな目的にした鉄道でございますのに、これが隣に大きな築堤ができまして、あたかも谷の下を走っていくような状況になったということによりまして、この営業上の損失と申しますか、観光客が減っていくというようなことの算定もいたしました。」
なお、近江鉄道側は、当初は「新幹線を現計画に依り敷設せらるるに於ては、当社鉄道は全く展望を遮蔽する高い壁を以って遮断され、当社乗客は窓外の眺めも不可能となり、斯くては交通の快適性と観光価値を奪い去られる結果となり、これは旅客輸送機関として堪えうる処に非ざる点を再三再四訴えている」と述べているが、最終的には「近江鉄道がもらった減客補償が゛風景補償″だなんて、まるで寝耳に水です」(小島正治郎西武鉄道社長のコメント)という立場に転じている。
当時、眺望料などという概念はなく、そうした聞きなれない権利が新聞に面白半分に報じられることになった。 繰り返すが、「眺望料」等とは国鉄も近江鉄道も言っていない。
ただし、国鉄側の国会答弁で「景色補償」という言葉を使っており、あえていうならば、悪いのは国鉄ではないか。
当時の新聞記事を検証したものはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/post-ffee.htmlにて。
なお、堤康次郎は「然るにこの国鉄交渉の真相を知らずして例の連中がまた事を構え、その結果国会論議の種とされ、答弁した国鉄側が不用意に景色が悪くなるから補償した分もあるなどと言うたので、新聞種にされた。」と述べている。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-134d.html
もちろん、近江鉄道が眺望権を侵害されたとして国鉄(新幹線)を訴えたわけではない。現在でも近江鉄道が眺望権の侵害で訴えたなどと都市伝説のように語られているが、発端は当時のマスコミでの取り上げられ方にあったのだ。 そもそも「近江鉄道が国鉄を訴えた」という「都市伝説」を寡聞にして聞いたことがない。

なお、発端については、堤康次郎や西武の小島社長の上記のコメントもあるが、記事よりも国鉄である。
むしろ、この件を報道したサンデー毎日は「゛景色補償″とんでもない。われわれは一度もそんな要求を出したことはない。新幹線と名神高速道路の谷間に沈んで、斜陽化の道を歩かねばならぬあわれな地方鉄道だ。それを国鉄が不手ぎわな答弁をしたために、まるで不当利得をえたようなことをいわれ、まことに心外だ。まったく弱い者いじめだ」との近江鉄道山本社長のインタビューを掲載しているのである。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-040a.html

 ということで、小川裕夫氏の記事の検証を終わる。「高宮駅」とか「五個荘駅」という固有名詞以外はほぼ嘘といっていいだろう。浅草キッドが東スポを評して「日付以外全部嘘」と言ったのを思い出す。というか、今回近江鉄道の件をいろいろ調べてきたが、小川裕夫氏の記事に沿ったものが見当たらないのである。いったい何を根拠にこんなデマを書いたのかわからない。

 

 ところで、堤康次郎氏ですらやらなかった、交差してくる新設鉄道に対する請求を実際に法廷に持ち込んだ鉄道会社があるのだ。

 それは、「走る平和相互銀行」こと総武流山鉄道(当時)である。ここは実際につくばエクスプレス(当時は「常磐新線」)建設に係る減収の補償請求の「調停」を裁判所に申し立てたのだ。これはまた別の機会に

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