カテゴリー「東海道新幹線 開通50周年」の41件の記事

2020年10月24日 (土)

世界銀行は新幹線への借款にあたり「東京オリンピックまでの開通」の条件をつけたのか検証してみる


1956年5月には島を会長とする「東海道線増強調査会」を国鉄に設置し、東海道線の将来の輸送量、輸送力、サービスの程度、動力方式、車両、保安施設などを検討させた。同会議では、(1)現在線併置案、(2)別線狭軌案、(3)別線広軌案などが検討されたが、(3)の別線広軌案を採用すべきであるという結論に達した。1957年8月には運輸大臣の諮問機関として運輸省内に「日本国有鉄道幹線調査会」を設置し、58年7月に新幹線に関する具体的な答申を運輸大臣に提出した。また同年秋ごろから世界銀行と接触し、東京オリンピックまでには開業するという条件のもとに総額8000万ドルの借款を受け入れ、1961年5月に調印した。これによって、東海道新幹線の建設は日本のいわば国際公約となった。

 

「日本の事業構想家 新幹線の生みの親 十河信二」老川慶喜(立教大学経済学部 教授)・著

ヤフーによるキャッシュデータがこちら

 


 島は世銀を訪れ、総額8000万ドル、年利5.75パーセント、3年半すえおき、20年償還という条件の借款を受け入れ、1961年五月に調印した。そのさいに、資金の5分の4は日本政府が負担し、1964年のオリンピックまでに完成させるという条件が付された

 

「日本鉄道史 昭和戦後・平成篇」149頁 老川慶喜・著 中公新書2530

 このような「世界銀行が東海道新幹線事業に融資するにあたって、オリンピックまでの開通を条件にした」という話を耳にした(目にした)方は割といらっしゃるであろう。

 

  しかし調印当時の記事を見てもそんな「条件」は書いていない。

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (10)  

  1961(昭和36)年5月3日付読売新聞

  どこかに世界銀行との借款の契約書の本文はないものかと探していたら、国立公文書館のデジタルアーカイブにあった。

 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001580713

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (7)

 ところが、契約書にはオリンピックの「オ」の字も出てこない。 

 

 東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (8)

 貸付金の引出期限が1964年9月30日となっており、償還計画の第1回支払期日が1964年11月15日となっているので、まあオリンピックが開催される1964(昭和39)年10月あたりに開通するイメージなんだろうなあとは思うが。 

 東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (9)

 ちなみに契約書附属書にある「対象事業の概要」では、「本事業は1964年なかばに完成するものと予定される」としか書いていない。 

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 もともと、東海道新幹線の工期は、オリンピック決定以前の1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「工期は概ね五ヶ年で完了」とされている。 

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (6)  

 これは、最も困難な工事である新丹那トンネルの工期にあわせたものである。 

 東海道新幹線の工事は、オリンピック決定以前の1959(昭和34)年4月20日に起工式が行われており、そこから5年なので、オリンピックがあろうとなかろうと「1964年なかばに完成するものと予定」になっていた。

 なので、「1964年なかばに完成するものと予定」と契約書に書かれていたことが、直ちに「東京オリンピックまでには開業するという条件」であるとは断言できない。交渉記録にそう書いてあるというなら別だが。 

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 ということで、かねてから「東京オリンピックまでには開業するという世銀の条件」という”都市伝説”のソースを探してきたところ、ある方から「国鉄技師長だった瀧山養氏がそう語っている。」とご教示いただいた。 

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (6)  

 「証言・高度成長期の日本(上)」エコノミスト編集部・編 毎日新聞社・1984年刊

  「新幹線の推進」192頁

 確かに「64年のオリンピックまでに間に合わせるという条件で、承認されたんです」と語っている。 

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (3)  

 また、「交通技術」1974(昭和49)年10月号に掲載された島秀雄氏との対談「東海道新幹線10年を振り返って」においても、瀧山養氏は「世銀との間では、とにかくオリンピックまでに5年間でやること」と語っている。 

 (なお、世銀の調査団が来日したのは昭和35(1960)年なので、その段階ではあと4年なのであるが。)

 ところが、瀧山氏は、世銀借款の交渉を行った当事者ではなく、事前の事業調査に世銀の調査団が来日したときの説明員なんである。 

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (12)  

 むしろ瀧山氏は国鉄審議室勤務で在来線増強の立場からアンチ新幹線、アンチ十河だったと角本良平氏は語っている。 

  (「角本良平オーラルヒストリー」242頁)

 瀧山氏は 「証言・高度成長期の日本(上)」の196~197頁で、鈴鹿峠越えルートをややめたのも「オリンピックまでに間に合わせる」ためとしており、私個人としては非常に信憑性が低い。

(※鈴鹿峠越えルートとオリンピックの話は、ここでは関連性が低いので、関心ある方は→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat24240428/index.html) 

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 実際に世銀との交渉を現地で行っていた兼松学・国鉄常務(当時)は、「運輸と経済」1988(昭和63)年11月号に「歴史の中の鉄道 東海道新幹線と整備新幹線」という計8頁の報文を書いており、そのうち6頁が東海道新幹線建設までの経緯で、うち3頁が「外資導入」という題名の世銀との交渉経緯に詳しく触れている。 

 しかし、ここでは「オリンピック」という言葉は一切出てこない。 

  

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (1)  

 これは世銀との調印直後の「国有鉄道」1961(昭和36)年7月号に掲載された「時の話題 世銀に信用された新幹線ー世銀借款の調印を終えて」という記事中の「借款の条件」である。やはり「オリンピック」という言葉は出てこない。 

 こちらも3頁にわたってびっしりと世銀の交渉経緯も含めて解説しているのだが、一切「オリンピック」には触れていない。 

 それどころか「担保としては、政府保証以外になんら要求がございませんし、その他国鉄の経営に介入するとか、そういう条件は何もありません」としている。

  

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (5)  

 こちらは「運輸」1961(昭和36)年8月号に掲載された「国鉄の世銀借款」という畔柳今朝登氏(運輸省鉄道監督局国有鉄道部財政課)による報文による「国鉄世銀借款の内容」である。やはりオリンピックは借款条件に入っていない。 

 更に興味深いのは「五 むすび」にある「国鉄総裁の談話」である。 

 「私どもは、この工事の完成が、国連の機関である世界銀行に対しての、否、世界各国に対しての日本の国際的信用をかけたものであることを銘記いたしまして、予定どおり、昭和三九年の開業を目指しております。」 

 十河総裁も世銀融資とオリンピックは結び付けていないのである。この段階では。 

  瀧山養氏が「世銀との間では、とにかくオリンピックまでに5年間でやること」と語っているにもかかわらず、十河総裁も交渉にあたった兼松常務も運輸省の担当官も誰も契約時にオリンピックに触れていないのは極めて不自然ではなかろうか?

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東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (2)  

 これは、「国鉄線」1964(1934)年10月号「座談会 夢でなかった超特急 その回顧と展望」における遠藤鉄二氏、角本良平氏、加藤一郎氏、森茂氏による新幹線局の「中の人」達による振り返りからオリンピックに触れた部分である。 

 オリンピックは「全く考えていなかった」けどあとから「一つの目途」になったと。 

 彼らにとっては、オリンピックよりも前に決まっていた工期5年の新幹線計画が達成できればよかったのである。 

  

 ところがそんな呑気なことは言っていられなくなった。 

 新幹線の予算不足である。 

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (11)  

 「東京は燃えたか: 黄金の'60年代」塩田潮・著 講談社文庫 194頁から 

 

 世銀融資後の予算不足問題を突破するために、途中から「十河は新幹線をオリンピックに絡める作戦を思いついた」とある。 

  

 これなら納得できる。ここで「新幹線=オリンピック=世界銀行」と絡めて 「世界銀行が東海道新幹線事業に融資するにあたって、オリンピックまでの開通を条件にした」というストーリーを後から作ったのではないだろうか?

 瀧山氏の発言も、部外者として頓珍漢なことを言っているのではなく、十河氏の作戦変更の路線を後日になっても忠実に守っているということかもしれない。 

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《まとめ》 

・ 「世銀との間では、とにかくオリンピックまでに5年間でやること」「64年のオリンピックまでに間に合わせるという条件で、承認されたんです」という国鉄幹部の発言はある。

・ただしその国鉄幹部は借款交渉の当事者ではないし、開通10年後以降の話で、リアルタイムのものではない。 

・実際に世銀との交渉にあたった常務理事はオリンピックについて一言も触れていない。

・調印時には、国鉄も運輸省もマスコミも「オリンピックまでの開通が世銀の条件」とは言っていない。 

・予算不足突破のために、途中から「新幹線をオリンピックに絡める作戦」に出たとするルポがある。 

 →このへんを踏まえて各自ご判断を。 

 如何だろうか? 

  最後はエビデンスが弱い私なりの推論になってしまっているのだが、国鉄の世銀借款に関する一次ソースがあれば是非ご教示いただきたい。それに基づいて更に深堀できればと思う。

  

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 世銀借款に係る、新幹線局の「中の人」による記録としては、上記で触れたものの他に、高橋正衛氏による「新幹線ノート」 がある。

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (4)  

これらの他に今回参考にしたもの

「国有鉄道」1959年2月号「世銀借款」

「国有鉄道」1960年4月号「世銀借款受け入れのための法律と予算」

「交通技術」1960年6月号「世銀調査団来日」

「交通技術」1960年7月号「世銀調査団帰米」

「交通技術」1960年8月号「世銀調査団を迎えて」

「運輸調査月報」1961年6月号「国鉄の世銀借款の調印」

「運輸と経済」1961年6月号「国鉄の世銀借款成立」

「鉄道通信」1962年2月号「世銀借款」

「東海道新幹線」角本良平

「東海道新幹線工事誌 土木編」 「世銀借款と国際入札」

 

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関連記事 

古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

 

東海道新幹線が予算オーバーした国鉄幹部は引責辞任したけど、東名・名神高速道路も予算オーバーしたのに道路関係者は辞めなかったのは、ズルイ?? 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-f53bfb.html 

山陽新幹線は世界銀行からの融資を断られていた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-31439f.html 

 

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2020年8月16日 (日)

波床正敏先生「この辺の話は,東海道新幹線の工事誌に公式に書かれている.」→「じゃあ見てみますか」の結果

波床正敏氏「鉄道で国づくり」の精度  

http://wr19.osaka-sandai.ac.jp/ce/rt/ByRail/?p=307 

 これは、大阪産業大学の波床正敏先生のブログ「鉄道で国づくり」に記載されているお話である。 

  世間でよく言われている「東海道新幹線は東京オリンピックに間に合わせるために鈴鹿峠からルートを変更した」というお話だ。

  波床正敏先生は「この辺の話は,東海道新幹線の工事誌に公式に書かれている.」とも書かれている。

  

 じゃあ、実際に東海道新幹線の工事誌にはどう書いているのだろうか? 

 

東海道新幹線が鈴鹿峠を通らない理由

 名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。

 

「東海道新幹線工事誌 名幹工篇」日本国有鉄道名古屋幹線工事局 編


 「こうして全線の基本ルートが定められ、(昭和)33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」
 ご存知のとおり、東京オリンピック開催が決定されたのは、1959(昭和34)年である。

 そして、1958(昭和33)年8月に「全線の基本ルートが定められ」たとなれば、「鈴鹿峠をやめて関ケ原ルートに決定したのは、東京オリンピック開催決定前」である

 他にも裏取りのネタを探してみよう。国会ではどのように答弁されているのか?

東海道新幹線鈴鹿峠を止めて関ケ原経由にした理由

 名古屋と関が原と申しますか、米原の間のルートにつきましては、実は、昭和三十三年の夏ごろから、まだ正式に新幹線をつくるかつくらないかきまる前から、航空測量だけはいたしておりました。航空測量の結果、ルートといたしましては、名古屋から鈴鹿峠を越えまして京都に入るルート、もう一つ、それと非常に近いところで、名古屋から八風と申しますところを通りましてやはり京都に抜けるルート、もう一つは、濃美平野を真横に横切るルート、この三つのルートを航空測量で大体測量いたしまして、このいずれにすべきかということを検討したわけでございますが、前二者につきましては、非常にトンネルが多く、工事も非常にむずかしいということで、事務当局といたしましては、前二者を捨てまして、もっぱら濃美平野を横断するという案で具体的な検討を進めてまいったわけでございます。その後、昭和三十四年になりまして、徐々に東海道新幹線の問題が予算化され、また、各地におきまして地上の測量を開始したわけでございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04606020514020.pdf

 1958(昭和33)年に航空測量をして、鈴鹿峠は捨てて関ケ原経由とし、1959(昭和34)年から予算が付いたので地上の測量を始めたと磯崎国鉄副総裁(当時)が答弁している。やはりオリンピック決定前に鈴鹿峠は捨てられているのであった。

 

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山陽新幹線は世界銀行からの融資を断られていた

 「新幹線は世界銀行の優等生」なんて言葉を聞くことがある。しかし、世界銀行から融資を受けたのは東海道新幹線のみである。

 高速道路は、名神、東名、首都高と融資を受けているのに。

 

 日本道路公団20年史に興味深い記述がある。

山陽新幹線は世界銀行の融資を断られていた

 日本道路公団20年史126頁から

 

 世界銀行から融資枠を取り付けたので、日本政府は、「国鉄の山陽新幹線、外郭環状鉄道(武蔵野線かな?)、日本道路公団の東京川越道路(関越自動車道の練馬~川越間)でどうか?」と打診したところ、「一定の事業ボリュームが望ましいので東名高速道路に融資したい」との回答があり、東名高速道路に融資することとなったというのだ。

 しかし、山陽新幹線もそれなりに事業ボリュームはあるはずだ。何故山陽新幹線への世界銀行の融資は実現しなかったのか?

 

 「世界銀行は、東海道新幹線の度重なる予算膨張に対して、国鉄の積算能力に不信感を抱いていた」という非公開資料を読んだことがある。世銀の東海道新幹線担当者は更迭されたとも書いてあった。

 それが影響したのかどうかは分からないが、後年「優等生」と評価されるまでは紆余曲折があったのだろう。

 国鉄にとっては「黒歴史」なのか、私の不勉強故なのか、国鉄側資料でこの件の話を見たことはない。ご存じの方は是非ご教示ください。

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<追記>

 そのものズバリではないにしろ、世界銀行における国鉄の新幹線事業能力への不信感を示す新聞報道があった。

東海道新幹線と世界銀行

1963(昭和38)年9月18日付読売新聞

 東海道新幹線の事業費拡大に対する追加融資に世界銀行が難色を示していることが分かる。

 

山陽新幹線と世界銀行 

1966(昭和41)年2月20日付読売新聞

 

 山陽新幹線にも世界銀行の融資をもくろんだが、見通しは難しいとする記事。 

 東海道新幹線の予算管理がなっていなかったから山陽新幹線への融資を拒否したとは書いていないが、日本道路公団20年史の裏付けにはなるであろう。 

 少なくとも当時は「新幹線は世界銀行融資の優等生」とは思われていなかったのであろう。 

 

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※ 首都高への世界銀行融資を東京オリンピックに絡めて語る者がいるが、首都高の世銀融資は横羽線なので、東京オリンピックは関係ないので、注意喚起しておく。

https://www.worldbank.or.jp/31project/shutokou/index.html

 

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2020年5月 9日 (土)

東海道新幹線が予算オーバーした国鉄幹部は引責辞任したけど、東名・名神高速道路も予算オーバーしたのに道路関係者は辞めなかったのは、ズルイ??

 また扇情的な題名をつけてしまった。

 ただ、実際に国鉄関係者にはそう思っている方がいらっしゃるようなのだね。

新幹線の予算と高速道路の予算 (1)

新幹線の予算と高速道路の予算 (2)

「鉄道ルート形成史―もう一つの坂の上の雲 」高松良晴・著 日刊工業新聞社・刊 84~85頁

 引用した末尾には、「東京・神戸間の高速道路建設総事業費は、(略)、概算工事費の(略)ほぼ3倍であった。この東京・神戸間高速道路の建設費の増額は、十河が国鉄総裁が(ママ)辞めた昭和38年(1963年)当時、すでに明らかになっていた。だが、十河も島も、東海道新幹線の出発式に招かれることはなかった。」とある。

 最後の「だが」が文章が繋がらないのだが、要するにこのブログの件名のようなことを敢えて??書かなかったから繋がらないのである。著者の高松良晴氏は、国鉄OBである。

 鉄道(国鉄)ばかり予算オーバーの責任をとって、高速道路は予算オーバーの責任をとらずズルイズルイなのだろうか?

 この東海道新幹線の予算騒動について、建設省の高速道路担当官がどう見ていたかについても残されているのであわせて見てみたい。

新幹線の予算と高速道路の予算 (3)

「道を拓く -高速道路と私-」全国高速自動車国道建設協議会・刊 184・185頁

 当該頁の執筆者は、小林元橡氏(元・建設省道路局高速道路課長)である。

 「国鉄は黙っていたからあんなことになったけど、建設省は都度都度関係者に説明して了解を得ていたもんね」ということか。

 新幹線の予算オーバーが国会で問題になったときに、当時の国鉄副総裁も予算オーバーについて知らなかったと答弁していたのだが、(実際に知っていたかどうかはともかく)関係者への根回しをちゃんとやっていた建設省と社内でも秘密になっていた国鉄との差である。

 まあ国鉄もそうせざるをえない事情があったのかもしれないが、高松氏のように高速道路を逆恨み??するのはお門違いであろう。

 

 1964(昭和39)年2月29日付毎日新聞に「企業の森(242) 批判と称賛 -「新幹線物語」-」という羽間乙彦氏の連載記事が掲載されている。

 そこでも東海道新幹線と名神高速道路の予算問題を比較している。

 新幹線の予算と高速道路の予算 (4)

新幹線の予算と高速道路の予算 (5)  大石重成新幹線総局長の気持ちも分からないではないが、そのような国鉄の体制に世間は納得しなかったという。

 

 なお、ソースは公開できないのだが、当時の官僚が「新幹線の予算オーバーの責任をとって、世界銀行の担当者が更迭された」旨を語っているのを読んだことがある。

 十河信二、島秀雄は自己責任だが、騙された世銀担当者はとんだトバッチリである

 その後、高速道路については、東名高速道路、首都高速道路及び阪神高速道路に対して世界銀行の融資が行われたが、国鉄は東海道新幹線が最初で最後の融資となっているのは単なる偶然だろうか?

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  ところで、小林氏の話にも出てくる名神高速道路の予算だが、実際に予算管理に苦労し、当初計画から削減されたりした部分がある。

 せっかくなので、そういった部分についても紹介したい。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (4)  

「名古屋-神戸高速道路の構想」日本道路公団・刊 

 「本書は、昭和32年7月16日 大阪クラブにおける当公団 岸道三総裁の講演を要約し、さらに、その後、「整備計画の決定」等事態の推移にともない、若干の補訂を加えたものであります。」との説明がついている。 

 「名神高速道路は名古屋市も神戸市も通っていない」というのは、一部ではネタになっている。名古屋は東名高速道路が通っているが、神戸市には、中国自動車道の神戸三田ICができるまでは高速自動車国道のインターチェンジはなかった。 

 実は、名神高速道路の西宮~神戸間は、予算超過の帳尻をあわせるために、カットされていたのである。 

 名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (5)

 これは、名神高速道路の初期の計画図の一部分である。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (2)  

 よく見ると、西宮~神戸間の路線が描かれている。 

 実際には、この区間は阪神高速道路として施行された。(この当時はまだ阪神高速道路の計画も阪神高速道路公団もなかった。)

 また、岸総裁は「長いトンネルや橋は当面暫定2車線(片側1車線・往復2車線)とする」とも語っているが、これは予算の手当てがついたのか実際にはそのような区間はなかった。

 もののついでに、「道を拓く」からも当該関係個所を引用してみよう。

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (3)  

  当該部分は、斎藤義治氏(元・建設省道路局高速道路課長)である。先に引用した小林氏の文中に出てくる「斎藤氏」である。

 実際に暫定2車線とする長大橋、トンネルの名前もあげられている。 

 国鉄の新幹線と同様に、「まずは当初計画を通すために削減したけど、そのうち復活させるつもりだった」という趣旨が共通するのは興味深い。

 ちなみに、世界銀行も暫定2車線による施工を検討することを融資条件としていたようである。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (1)  

  これも「道を拓く」からの引用であり、大塚勝美氏(元・建設省→日本道路公団理事)の執筆部分である。

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 名神高速道路の予算カット部分で随分寄り道をしたが、 

 昨今では、「自ら責任をかぶった悲運のリーダー」的に語られることが多い十河、島氏であるが、「当時の霞が関ではこんな風に見られていた」ということで。 

 国鉄に騙された世銀の担当者はかわいそうだが、語られることはほぼ無いようだ。 

 

※この記事を書くにあたっては、同じベイスターズファンのけんちん氏のご協力をいただいている。末尾ではあるが感謝の意を表したい。

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2020年2月 8日 (土)

新横浜駅の土地を買い占めた元国鉄職員の名前、顔写真は?国鉄時代の経歴も!どうやって新幹線が来るって分かったの?~「東海道新幹線沿線の不思議と謎」栗原景・著発刊記念


―買い占められた新幹線用地(抄)

 

 1959(昭和34)年頃、篠原地区に、大阪の不動産業者を名乗る男がやって来て、地権者から土地を買い取っていった。(略)

 実は、この人物は鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた。1958(昭和33)年に東海道新幹線計画が持ち上がると、そのルートは弾丸列車計画に沿ったものになるに違いないと読み、いち早く土地の買い占めに動いたのである。バックには、大手企業グループがついていたといわれる。

 

「東海道新幹線沿線の不思議と謎」栗原景・著 実業之日本社・刊 92・93頁から引用

 

 この「大手企業グループ」による新幹線新横浜駅周辺の土地の買い占めについては、諸説あって警察も捜査したりしているにも拘らず、真相は明らかになっていない。当該不動産業者も積極的に嘘を流したりしているもんだから余計に訳が分からない。

 今回、栗原景氏が新刊で迂闊にも触れてしまったので、改めて整理したい。

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 栗原景氏の記事の根拠になっているのは、当該鉄道省OBの不動産業者が朝日新聞に答えたインタビューと思われる。


新横浜駅周辺 最大地主は西武グループ 30年前、買い占めがあった

 

カギ握るブローカー 当時の状況を語る

 買い占めに当たった大阪のブローカーはいま76歳。このほど30年ぶりに初めてインタビューに応じた。(抄)

  

 --新横浜の土地買収の真相は。

 「私が先代の西武鉄道会長、堤康次郎氏に話を持ち込んだ。」

 --だれから情報を得たのですか。

 「だれからでもない。私は戦前、国鉄の前身の鉄道省大阪鉄道局にいて、新幹線の原型となった『弾丸列車計画に携わった。新幹線のルートや駅は弾丸列車と同じと確信していた」

  

 朝日新聞1992(平成4)年3月7日付夕刊 

 「いや、新聞のインタビューで本人がそう語ってるやん。お前は何を言いがかりつけてんのさ。」と言われるかもしれない。

 ところが件の不動産ブローカー氏はとんだ狸なのである。


 数年前横浜プリンスホテル開業前、朝日新聞横浜支局の佐藤という記者が私宅に来られ横浜プリンスホテル開業に至る横浜土地物語を書くので、協力して欲しい、色々とうわさを聞いているので協力して欲しいと云われましたが、全部私がやった事で国鉄等にも西武にも何の関係もない、勿論裏金で買った事等触れて居ません。又、近江鉄道に対する景色保障支払いの事等一切触れずに終わりました。その後も、度々私宅に電話せられ逢って呉れと云われたが、一切触れずに終わらせました。故に、朝日の記事でも西武さんに都合の悪いことは一切報道されていません。

 

「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 128頁から引用

 ちーん。朝日のインタビューは西武との関係を隠すための嘘だってさ。

 ちなみに、朝日の記事は1992年3月で、光文社の本は2005年2月発行だ。朝日の記事は、「新横浜プリンスホテル」開業の半月ほど前に出された記事なので時系列的には同じもので間違いなかろう。

 じゃあ、「堤義明 闇の帝国」に書いてあることが正しいのかというと、実はそうでもない。こっちも負けずに矛盾点が出てくる。

 不動産ブローカー氏は、わざと言っているのか、ぼけてきたのかは別にして言うたびに話が違うのだ。裏取りせずには怖くて迂闊に使えないのだ。

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新横浜駅を買い占めた不動産ブローカー氏  

  件の不動産ブローカー氏は、中地新吾氏である。

  中地氏が取材等に対応しているものは、私が確認した範囲では、

  前述の朝日新聞インタビュー、「堤義明 闇の王国」に加え、疑惑当時の週刊新潮(7巻44号、1962(昭和37)年11月発行)くらいである。

  ここでは、週刊新潮の記事をもとに、中地氏はどんな人物なのか整理していく。


 警視庁捜査二課は、東海道新幹線の新横浜駅周辺の用地買収をめぐり、国鉄当局と土地会社の関係について内偵をすすめてきたが、さる9日朝、日本開発株式会社と、その東京出張所など数カ所を背任の疑いで一斉に捜査した。押収された証拠書類は、トラック2台分あったといわれているが、警視庁では、日本開発の中地新吾社長(42)が新横浜駅予定地を的確に知って土地を買い占め資金十数億円を担保なしで銀行が融資した点について疑惑をいだいているようで、「徹底的に追及する」といっている。

 

疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号94頁から引用

 当該記事の掲載された中地氏の顔写真が上に掲載したものである。

  その記事に、中地氏の経歴が掲載されているので、栗原景氏が書くように「鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた」というにふさわしいものか見てみよう。


 ところで、中地氏がいかに敏腕だったにせよ、国鉄の出身者だけに、それだけで、正確な情報をより早く入手できると疑われやすい立場にある。

 もっとも、昭和10年、19歳で国鉄に入った中地青年は、兵庫駅の列車連結手にすぎなかった。高小卒の学歴(国鉄に現存の履歴書による)では、ふつうなら中地青年も一生、連結手かなにかで終わるはずだった。

 ところが、彼は4、5年連結手をやったあと、吹田の鉄道教習所にパスし、宮原電車区の運転手になったkと思うと、たちまち指導運転手になった。(中略)

 だが、運転手生活もわずか2、3年間のことだった。やがて大阪鉄道管理局の列車課勤務になり、1年間勤めた後、判任官試験に合格して、ついに事務職に転じた。このとき中地氏は29歳(20年7月)。古い人事課員にいわせれば、「無事故で皆勤、上役の心証がよいうえに、よほど根性がしっかりしてなければ出来ないこと」という。ともかくこうして配属されたのが、厚生課だった。(中略)

 だから、昭和22年でしたか、やめるといいだしたときは、みんな惜しんで引きとめたが、『この辺で商売をやってみたい』といって円満にやめて、水産会社のブローカーになった。なんでも、物資仕入係時代につけたコネを活用したということでした。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号97・98頁から引用

 いかがでしたか? 

 朝日新聞記事の「私は戦前、国鉄の前身の鉄道省大阪鉄道局にいて、新幹線の原型となった『弾丸列車計画に携わった。」や、栗原景氏の「実は、この人物は鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた。」とよく比べていただきたい。 

  なお、国鉄退社については、1962(昭和37)年10月10日付の読売新聞は「戦後国鉄の物資を横流ししてクビになった」と報じているのでご参考まで。

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  中地氏の経歴はともかく、「弾丸列車の計画がわかれば土地は買えるだろう」という方もいらっしゃるだろう。関係する資料等を見ても弾丸列車は新横浜附近を経由することとなっているのは間違いないようだ(起点は市ヶ谷や高井戸等当時も各種の案があったが)。

  ところが、話は新横浜駅だけではないのだ。


 日本開発も、その発足のタイミングから考えて、東海道新幹線の用地調達のための会社であろう。現に発足直後、新大阪駅の用地買収に乗り出し、これにもマンマと成功している。国鉄では新大阪駅を東淀川にひそかに決定したが、そのとき、日本開発はちゃんと東淀川一帯を手に入れていた。そのもうけは数億にのぼったとウワサされている。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号95頁から引用

 

  中地氏は、新横浜駅周辺だけでなく、新大阪駅周辺も買い占めに成功していたのである。これは週刊誌記事だけでなく当時の国会でも取り上げられている。

  そして、新横浜駅と新大阪駅の違いは、「新大阪駅は、弾丸列車の予定地と違うところに駅ができた」ということである。

 新幹線新大阪駅決定の経緯

鉄道土木シリーズ9「新幹線の計画と設計」山海堂・刊 35・36頁から引用 

 戦前の弾丸列車の駅は、まさに東淀川駅であったし、戦後は梅田の大阪駅への乗り入れも改めて検討された。そのうえで今の新大阪駅に決定したわけで、弾丸列車の計画を熟知しているだけでは、新大阪駅は先行して買い占めることはできないのだ。 

  中地氏は、弾丸列車の計画ではなく、東海道新幹線の計画を何等かのカタチで入手していたと推測される。

 ついでに、同書から新横浜駅のルート決定経緯もおまけに。 

 新幹線新横浜駅決定の経緯

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  では、中地氏は、どのようにして東海道新幹線のルートを入手したのか?


  こんどの事件にしても、公明正大やで。新横浜駅については、3つの候補地があがっていた。いまの横浜駅と岸壁の方と菊名の3つや。しかし考えてもみなはれ。いままでの東海道線は正直に海岸線に沿って走っておった。だが十河さんの夢は、大阪へできるだけ早く行きつくことでっしゃろ。なら菊名になるにきまっとりますわ。事実、わたしがあそこに乗り込んだときは、すでに、国鉄のハバ杭が打ってあり、地元の表情はホクホクしていました。

  新大阪駅についても、こんどと同じようなこといわれましたが、あれも真っすぐなプラットホームつくるとすれば、東淀川デルタ地しかあらへんから、あれを買ったまで、国鉄から情報とったなんて、いい加減にしてくだはれ。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号98頁から引用

 

  まあ、前述のように中地氏は言うことが変わる。朝日新聞のインタビューのような弾丸列車という言葉は一言も出てこない。


一通の手紙

 

 数年前、堤義明宛に送られた一通の手紙がある。送り主は「中地新樹」という。中地は現在、千葉県松戸にある牧の原団地に隠棲し、齢は八十三を超えている。埼玉、神奈川と住まいを転々としたが、一時期の生活ぶりは困窮を極めていた。

 約三千五百字にのぼるその手紙はこう始まっている。

〈東海道新幹線の新大阪駅、新横浜駅設置場所発表前に、貴殿の父上の堤康次郎先生にお目にかかり、駅付近の用地買収を提言した中地新樹です〉

 兵庫県出身の中地は、旧国鉄の大阪鉄道局に勤めていた。当時の局長は、後に首相となる佐藤栄作である。「手紙」にはその佐藤もかかわった西武グループの用地買収や裏金作り、小佐野賢治と京浜急行とのトラブルでの立ち回りなどが仔細に記されていた。

 なかでも康次郎が新横浜駅周辺の土地買収を依頼した様子は生々しい。佐藤栄作の息がかかった情報員として土地の値上がりや価値上昇が見込まれる駅建設場所の情報を康次郎に流した中地は、こう記している。

〈その際父上(康次郎・筆者注)は新横浜に第二の丸の内を作ろうと決断され、今池袋で土地を売却した裏金が十億ほどあるから、西武の名前と裏金と言う事を一切明かさず、君の金で、君の名前で契約して目的達成をしてくれと申されましたので、金は即日私の名義で住友銀行都立大学支店、富士銀行自由が丘支店に預け、順次引き出し用地買収資金として使わせて頂きました。 

 (中略)

〈新大阪駅付近五万五干平米、新横浜付近二十万二千平方米を買収しておさめました〉

 東海道新幹線の駅前という一等地に、コクド・西武グループがプリンスホテルをはじめとする商業施設を数多く持っているのはなぜなのか。一度気になりはじめれば果てることなく謎は深まる。しかし、鉄道省出身の政治家として与党内でも台頭していた佐藤栄作が、かつての部下である中地新樹をパイプ役として康次郎につながっていたと考えれば、それは一転、あからさまなほどに明快な答えをもたらす。

 もちろん佐藤栄作と堤康次郎をつなぐ「政府発表前情報」がタダなはずもない。佐藤の代理としてやはり中地自身が駅建設予定地の土地を買い、土地高騰後に売ったカネは佐藤にも大きな収益をもたらしたと、中地の手紙には記されている。 (略)

  

「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 120~123頁から引用

 どないでっしゃろ。 

  前述のように、この本でも、怪しいことは幾つもあるので、佐藤栄作はともかくとして、「中地氏は、朝日とも新潮とも言うことが変わるんだね」ということだけが頭に入ればよろしいのではないか。

  

 ところで、栗原景氏は「バックには、大手企業グループがついていたといわれる。」とぼやかしている西武の名前が出てきた。

 ここで、西武鉄道の言い分も聞いてみよう。 


新横浜駅周辺の買収 

  

 東京オリンピックの前年のこと、東海道新幹線建設にまつわる土地の件では、厄介な問題が発生した。私はこれにも大いに働いた。この問題は、堤が東海道新幹線が通るであろう主要な土地の情報を得て、土地買収を手掛けたことから始まった。堤は、新横浜駅建設予定地を測量が始められる以前に知り、その周辺の地所を何万坪も買い占めていた。しかも、西武の名を出せば直ちに察知されると思い、関係する不動産会社を使って農家から買収していたのである。堤がどこから情報を得たかは、はなはだ微妙な問題ではあったが、国鉄筋からの情報には間違いないところであった。 

  

 「西武王国 その炎と影」中嶋忠三郎・著 サンデー社・刊 166頁から引用

  中嶋忠三郎氏は、堤康次郎の側近といわれた弁護士で、この本を当初出版する際には、西武が全部事前に買い占めて世間には出回らなかったといういわくつきの本である。(ここでも買い占めだ!)

  中地氏の言い分とは異なり、ここでは堤康次郎が国鉄のどこかしらから情報を入手し、西武が動くわけにはいかないので「関係する不動産会社(中地氏のことであろう)を使ったとしている。

 西武側の言い分としては、辻井喬こと堤清二氏も、自伝的小説「父の肖像」で触れているのであわせてご確認いただきたい。

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  「堤がどこから情報を得たかは、はなはだ微妙な問題ではあったが、国鉄筋からの情報には間違いないところであった。」

  では国鉄のどこなのだろうか?

  ここで冒頭の週刊新潮の記事を見ると、警視庁捜査二課が背任で捜査したとある。刑事ドラマ好きな方は「捜査二課」と聞いただけでピーンとくるのではないか?「汚職だ!」

新幹線土地買占めで用地部長ら召喚

 読売新聞1962(昭和37)年11月19日付によると、国鉄東京幹線工事局長の高坂繁朗氏や用地部長の赤木渉氏等が警察の任意聴取を受けている。

 そして、同日、中地氏は捜査陣に知られることなく海外へ旅立っていった。(「アメリカへ逃げた中地社長夫婦 国鉄用地買収事件の幕切れ」週刊新潮8巻5号88頁)

 アメリカ滞在中は、中嶋忠三郎が中地氏を訪ね、西武百貨店ロスアンゼルス店で用立てした滞在費を渡したという。(「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 126頁)

  

  「新評」という雑誌の1970年9月号に大変興味深い記事が掲載されている。

 その名も「消された汚職△いまだから話せる真相 怪談・東海道新幹線 --国鉄より早いN社の新幹線用地買収--」 

  「N社」とは、当然中地氏の「日本開発」であろう。

  この記事の著者が「隼太郎(警視庁7社会記者)」である。警視庁記者クラブ所属の新聞記者が匿名で立件されなかった汚職事件の「いまだから話せる真相」を語るというていである。

 引用は省略するが、国鉄と中地氏との関係を捜査していた警視庁では、「情報を得るため、便宜を計ってもらうため、幹部連が暗躍するとしたら、国鉄側の新幹線担当の最高幹部ではないか」「最高幹部の周辺を洗え」と『国鉄の新幹線担当の最高幹部』周辺を捜査した。

 警視庁捜査二課は、中地氏との関係では「海外逃亡」もあってか、「最高幹部」を立件できなかったが、建設会社との贈収賄で「最高幹部」を書類送検した。

 国鉄大石重成新幹線局長汚職で書類送検 (2)

 毎日新聞1963(昭和48)年7月3日付夕刊

 国鉄大石重成新幹線局長汚職で書類送検 (1)

朝日新聞 1963(昭和48)年7月8日付夕刊  

  前・国鉄新幹線総局長大石重成氏である。

  大石重成氏は結局不起訴となり、その後、鉄建建設社長となり、土木学会第58代会長となった。

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  東海道新幹線の新横浜駅周辺の用地買い占めについては、後に梶山季之氏が「夢の超特急」という小説を書いている。

 そこには、下記のような相関図が掲載されている。 

 夢の超特急に掲載された新幹線土地買占めの系図

 結局、国鉄の誰が中地氏に新幹線のルートを教えたかは分かりませんでした。いかがでしたか?

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 <参考記事>

・ 新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?買収資金を貸したのは三和銀行?

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-0be2.html

 ・新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?(その2)

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-345c.html

 ・国鉄新幹線総局長大石重成は、新幹線工事発注に係る収賄事件で逮捕直前だった

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d78b.html

 

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2019年12月15日 (日)

「いだてん」最終回記念~東海道新幹線東京駅乗入れと東京都、首都高との駆け引きをオーラルヒストリーから探る

 話題を呼んだNHKの大河ドラマ「いだてん」も今日で最終回だ。

 そこで、今回は

「東海道新幹線東京駅乗入れと東京都、首都高とがそれぞれ東京オリンピックに間に合わせるための駆け引きを関係者のオーラルヒストリーから探る」

 というやつをやってみよう。

 東海道新幹線が東京に乗り入れる際に、そのターミナルをどうするか?今の東京駅八重洲口に決まるまでに、皇居前とか新宿とかいろんな案があったのは、私のブログの読者様であればご存知だろう。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (5)

 東海道新幹線建設を担当した国鉄東京工事局の横山浩雄氏は下記のとおり語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (3)

 当初は皇居前地下や新宿が有力だったが、営業の要望で東京駅八重洲口に決まった旨語っている。

 では、当時国鉄新幹線局で営業担当の調査役だった角本良平氏はどう語っているのか?

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (10)

 土木の技術屋が決めるのなら事業費の関係で品川だったかもしれないが、営業サイドは東京駅がよいと。

 ところで、角本良平氏はこんなことも語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (7)

 東京都から山田正男(当時東京都建設部長)が交渉に出てきたら、あと3年は余計にかかったのではないかと。

 いわゆる「山田天皇」である。なるほど難関であっただろう。

 では、当の山田正男氏はどう語っているのか?

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (6)

 実は、山田正男氏は、別口で国鉄と交渉していたのだ。相手は当時国鉄東京工事局長だった好井宏海氏。

 それもルートは、新宿から日本橋川を通って東京駅に入ると。そして日本橋川は首都高と新幹線の二階建てだというのだ。昨今、日本橋の景観を首都高が壊しているとして話題になっているし、「いだてん」でも触れられていたが、実際にはもっとどでかい構造物が日本橋川を覆う計画を立てていたのである。

 

 東海道新幹線も首都高速道路も、概ねの計画自体は、東京オリンピック決定前に決まっていたが、工事を実際にオリンピックに間に合わせることが厳守となるとまた現場の話は変わってくる。

 そんな国鉄と東京都・首都高との駆け引きを井上孝東大名誉教授(当時は首都高課長)が語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (1)

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (2)

 井上孝氏は、技術屋といっても「都市計画屋」さんなのだが、都市計画サイドからすると都心の一極集中を防ぐためには、東海道新幹線の東京駅乗入れは了解し難いと。国鉄の営業と土木のどっちの好みといった問題ではない。国鉄との「戦争」とまで言い切っている。

 一方、首都高が国鉄の営業中の線路をまたぐ場合は、「国鉄が首都高から工事を受託して、線路の上空部分だけは工事は国鉄が担当する」ことになっているが、国鉄は「年に1か所」くらいしかできないと主張するので、オリンピックに首都高の工事が間に合わない。

 で、都は「東海道新幹線の東京駅乗入れを認める」、国鉄は「頑張って首都高の受託工事をオリンピックに間に合わせる」という取引が成り立ったようだ。

 

 これで上手くいくかというとそれはそれで用地交渉の相手がいる話だ。前述の国鉄東京工事局の横山浩雄氏はこう語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (9)

 有楽町付近の用地取得は、東京都が区画整理によって捻出するはずだったが、到底間に合わないので、新幹線の高架橋を建設するのに支障となる「寿司屋横丁」の寿司屋の二階を切り取りながら新幹線の工事を進めたというのだ。

実際に国鉄で寿司屋横丁の交渉を担当した西川正典氏はこう語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (4)

 「寿司屋を見るのも嫌になった」と。

  

 そんな関係者の成果は、神奈川県公文書館のウェブサイトの「オリンピック東京大会会場案内地図」で見ることができる。

 https://archives.pref.kanagawa.jp/archives/detail?cls=09_collect_govtpubl&pkey=3199612281

 https://archives.pref.kanagawa.jp/archives/mediaDetail?cls=09_collect_govtpubl&pkey=3199612281&lCls=04_media_govtpubl&lPkey=G000004000&detaillnkIdx=0

 <出典>

  横山浩雄氏・西川正典氏 「東工90年のあゆみ」別冊

  角本良平氏 「角本良平 オーラル・ヒストリー」

 山田正男氏 「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」 

  井上孝氏 「都市計画を担う君たちへ」

  

<関連> 

  古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

  http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

  前回の東京オリンピックの際の首都高速道路公団職員の声

  http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-422f.html

 

  なお、本当は日本道路公団もオリンピック関連事業として第三京浜道路を建設したが、多摩川を暫定二車線で渡る部分しかできなかった。

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2019年8月13日 (火)

古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 文春新書から「昭和の東京12の貌」という本が出ている。
 この本の編集方針は下記のとおりである。


平成31年は、天皇陛下が退位して皇太子が新天皇に即位し、5月からは新しい元号になります。また、翌年には2回目の東京五輪が開催されます。一回目の東京五輪は昭和39年に開催され、それを契機に昭和後半の日本は高度経済成長の波に乗り、経済大国の道を突き進みました。しかし、平成に入ると、バブルが崩壊し、政治や社会の様々な歪みが顕著となってきました。この間、日本の首都・東京はどのように変貌を遂げたのか。
本書は、月刊『文藝春秋』で連載した「50年後の『ずばり東京』」から、主に東京の街の変遷を描いた12本の記事を選んで収録しました。毎回違うノンフィクション作家が自身で取材するテーマや街を選び、リレー形式で執筆したもので、昭和と平成という二つの時代を筆者が行き来するルポルタージュです。


https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784166612000

 その12本の記事のトップバッターが、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」である。

 本当に1964年のオリンピックは「成功」だったのだろうか、と。もちろんあのオリンピックの功績が多いことは否定しない。
 しかし、東京という街を中心に考えてみると、あのオリンピックが残した「負の遺産」は思いの外多いのである。そして、オリンピック「成功」の陰に隠れて、大きな不利益を被った人々も決して少なくなかったのである。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)10頁

 

 古市氏は、こう切り出しつつ、副題にある「首都高とモノレール」に加え、東海道新幹線に対して「東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる」としつつ、「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」として、「より理想的なルート」がとれなかった、

 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁


 とし、同様に首都高の日本橋上の高架や都心環状線の片側2車線の構造を「オリンピックの負の遺産」と指摘し、それらをキーとして、新旧東京オリンピックに係る日本、東京の世相をとりまぜて批評している。


 社会学者が世相を描き、評価するのは、私の専門外だし、とやかくいうところではないが、そのイントロになっている「首都高速道路や東海道新幹線が、オリンピックに間に合わせるために急ごしらえとなったため、理想的でないルート、構造となっており、オリンピックの負の遺産となっている。」という部分については、いち「ドボクマニア」としてモノ申したい。

 

 

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 「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、今の日本でも割と広く支持されており、首都高の日本橋を覆う高架橋や新幹線の最短である鈴鹿峠を迂回した関ケ原ルート(それに伴う新幹線の雪害)について批判的に評価されることが多い。


 しかし、結論を言うと「首都高速道路や東海道新幹線が、東京オリンピックに間に合わせた急ごしらえで建設されたために理想的でないルート、構造となっている」という説は、事実ではないと言えよう。


 「昭和の東京12の貌」が単なるエッセイであれば「そういう人もいるよねー」でよいのだが、「ノンフィクション作家」による「ルポルタージュ」ということであれば、とりあえず一次資料を並べることで、諸兄のご判断を仰ぎたいところである。


目次

1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?


1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?


1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?


2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?


2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?


2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?


3 結論


4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

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1-1 東海道新幹線は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?鈴鹿峠はオリンピックに間に合わないから関ケ原経由になったのか?

 

 


 もしも東海道新幹線の開業がもう少し遅かったら、違う未来があったのかもしれない。
 現在の新幹線は名古屋を出たあと、関ヶ原まで北上した後で京都へと進む。実は当時、関ヶ原を経由せずにそのまま京都を目指す鈴鹿ルートが検討されたことがあった。しかし技術力と工期の都合で断念されてしまう。
 そもそも東海道新幹線はカーブが多く、それが所要時間短縮を阻む一因となっている。
(中略)ここ最近はあまり速くなっていないのだ。
 もしも東京オリンピックまでに開通という目標がなければ、東海道新幹線はより理想的なルートを通っていた可能性がある。そうすればとっくに新大阪まで2時間くらいで行けたのではないだろうか?

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)25頁

 個人的には、「関原」じゃなくて「関原」だろうがと言いたいところだが、今回はそれがネタではないのでスルーして、この古市氏の文を検証していく。

 

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1-2 新幹線が鈴鹿峠を断念して関ケ原経由となったのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「新幹線 鈴鹿峠 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。それも大手マスコミだ。


五輪前の開業へ、鈴鹿越えを断念

 

 名古屋から大阪まで、新幹線がどんなルートを取るかは、戦前の弾丸列車構想の時代から議論されてきた。最短ルートは名古屋から西へ進み、鈴鹿山脈を越えて草津付近に出るコースだったが、鈴鹿山脈を越えるには12キロメートルの長大トンネルを掘らなければならず、しかも地下水が多いことから極めて難工事となることが予想された。
1964(昭和39)年の東京オリンピックまでの開業にはとても間に合いそうになく、このルートは断念された

 代わって注目されたのが、関ケ原を越えるルートだ。名阪間には、鈴鹿山脈と伊吹山地という2つの険しい山が立ちはだかっている。関ケ原は、2つの山脈の間にたった1カ所開いた谷だった。鈴鹿山脈越えよりも10キロメートル以上距離が長くなるが、工期と確実性が優先された。

 

東洋経済ONLINE「新幹線「利用者数最少駅」は、なぜできたのか」栗原景
https://toyokeizai.net/articles/-/141928

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(だから今回はそこじゃない。)
 天下の東洋経済がオリンピックに間に合わせるために鈴鹿峠を断念したとの記事を掲載している。

 では、実際に工事を担当した国鉄の記録ではどうなっているのか?


 ネットで気軽に閲覧できるものとしては、伊崎晃氏の「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」があげられよう。

 伊崎氏は、執筆時は鉄道技術研究所地質研究室勤務で、戦前では朝鮮海峡トンネル、戦後では青函トンネル等数多くのトンネルの調査に携わった技術者だ。東海道新幹線の路線選定にあたっての現地の地質調査も担当している。


1.  ルート決定のいきさつ

 国鉄の東海道新幹線は,計画当初名古屋-京都間のルートをいかにとるかについて,非常に大きな比較問題に直面した。すなわちここを最短距離で結べば標高1000m級の鈴鹿山脈をどこかで大トンネルにより横断しなければならず,これを避けて低処を越えるとすれば,北方へ関ケ原付近まで迂回する外ない。

 そこで昭和33~34年頃図上でいろいろルートを検討したり現地で地質の概査を行って比較研究した結果,鈴鹿越えの主ルートと目されていた御池岳~鈴ケ岳付近を貫くトンネルは多くの断層に遭遇する上,伏流水に富んだ石灰岩の部分が多いので,多量の湧水が予想され,また南方の八風峠ルートは地形上片勾配の長大トンネルとなるため工期的に非常な難点のあることが明らかとなった。

 一方関ケ原付近も大きく見れば地質的には鈴鹿主脈と大差がないが,トンネル延長が比較的短かくてすむこと,および北陸方面との連絡に至便(米原で)なため,結局ここが最終案として本決りとなった次第である。

 

「国鉄新幹線関ケ原ずい道の地質」 伊崎 晃・著「応用地質」 Vol. 4 (1963) No. 4 199~200頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjseg1960/4/4/4_4_199/_pdf

 ほら「関ヶ原」じゃなくて「関ケ原」だよね。(もうええっちゅうの。)


 「北陸方面との連絡に至便(米原で)」と書いてある。古市氏の言うような「技術力と工期の都合」だけではなく、「北陸方面と米原で連絡する」という目的もあって関ケ原経由となったのである。
 仮に「東京オリンピックまでに開通という目標が」なかったとしても、「北陸方面との連絡」が判断材料としてある以上は、やはり関ケ原経由となったのではないか?
 
 ググるだけでなく、ちゃんと図書館に行って、国鉄が発行した東海道新幹線の工事史もあわせて見てみよう。

東海道新幹線が鈴鹿峠を通らない理由

 名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。

 

「東海道新幹線工事誌 名幹工篇」日本国有鉄道名古屋幹線工事局 編


 確かにここでも「北陸との連絡に至便」とある。さらに見逃せない一文がある。


 「こうして全線の基本ルートが定められ、(昭和)33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」
 ご存知のとおり、東京オリンピック開催が決定されたのは、1959(昭和34)年である。

そして、1958(昭和33)年8月に「全線の基本ルートが定められ」たとなれば、「鈴鹿峠をやめて関ケ原ルートに決定したのは、東京オリンピック開催決定前」である

 国会ではどのように答弁されているのか?

東海道新幹線鈴鹿峠を止めて関ケ原経由にした理由

 名古屋と関が原と申しますか、米原の間のルートにつきましては、実は、昭和三十三年の夏ごろから、まだ正式に新幹線をつくるかつくらないかきまる前から、航空測量だけはいたしておりました。航空測量の結果、ルートといたしましては、名古屋から鈴鹿峠を越えまして京都に入るルート、もう一つ、それと非常に近いところで、名古屋から八風と申しますところを通りましてやはり京都に抜けるルート、もう一つは、濃美平野を真横に横切るルート、この三つのルートを航空測量で大体測量いたしまして、このいずれにすべきかということを検討したわけでございますが、前二者につきましては、非常にトンネルが多く、工事も非常にむずかしいということで、事務当局といたしましては、前二者を捨てまして、もっぱら濃美平野を横断するという案で具体的な検討を進めてまいったわけでございます。その後、昭和三十四年になりまして、徐々に東海道新幹線の問題が予算化され、また、各地におきまして地上の測量を開始したわけでございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04606020514020.pdf

 1958(昭和33)年に航空測量をして、鈴鹿峠は捨てて関ケ原経由とし、1959(昭和34)年から予算が付いたので地上の測量を始めたと磯崎国鉄副総裁(当時)が答弁している。やはりオリンピック決定前に鈴鹿峠は捨てられているのであった。


 古市氏の言うような「東京オリンピックまでに開通という目標」があろうがなかろうが、「米原での北陸線への連絡」を考慮しつつ、オリンピック開催決定前に鈴鹿峠ルートは断念されていたということである。


 東海道新幹線が最短距離である鈴鹿峠を経由しなかったことは、少なくとも古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」ではないことが明らかになったと言えよう。
 
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1-3 東海道新幹線の工期5年は「五輪に間に合わせた急ごしらえ」なのか?


 
 東海道新幹線が5年余りの工期で東京オリンピック開催直前に開通したことから「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」と考えている方はそれなりにいらっしゃるようだ。
 実際の経緯をおってみよう。

官報に載っていた新幹線電車予想図


1958(昭和33)年8月ということで、東京オリンピック開催決定前の官報である。
ここに、新幹線計画に着手した「日本政府公認」の理由が書いてある。


 曰く「昭和36、7年頃には東海道線の輸送に行詰りが生ずる。したがって、早急に、新たな鉄道路線を建設する必要がある。」と。東京オリンピック開催のためではなく、「(東京オリンピック開催前である)1961、2(昭和36、7)年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由なのである。


 そして、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「工期は概ね五ヶ年で完了」とされている。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (6)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001176706

新幹線工期 (1)


新幹線工期 (2)

 


 なお、答申に添付された「幹線調査会第二分科会報告」では、「新規路線の工期は、現在線の輸送の行詰りを考えると、技術的に最短期間である5ヶ年を延ばさないよう適切な措置をとる要があり、このことは投資に対する資金効率の面から見ても必要なことである。」としている。

 では、この「技術的に最短期間である5ヶ年」の根拠は何かということについては、国鉄幹線調査室・幹線局・新幹線総局・新幹線局で東海道新幹線建設に従事した角本良平氏はこのように述べている。



 五ヵ年とした一つの根拠は、新丹那トンネル完成におそらくそれくらいかかるだろうという見通しであった。

 

「新幹線開発物語」角本良平・著(中公文庫)18頁
※初版発行1964年4月30日「東海道新幹線」(中公新書)

 

 「東海道新幹線の工期はオリンピック開催に合わせて決定された」のではなく、「東京オリンピック開催決定前に、工事期間が最長となる新丹那トンネルの工期に合わせて決定された」のである。古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」ではないのだ。


 そして、鈴鹿峠ルートの「工期的に非常な難点」とは、「新丹那トンネル工事の工期5年」よりも長くかかってしまうことであった。

 また、角本氏は当時対談のなかで下記のようにも述べている。

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (2)

 これは、「国鉄線」1964(1934)年10月号「座談会 夢でなかった超特急 その回顧と展望」における遠藤鉄二氏、角本良平氏、加藤一郎氏、森茂氏による新幹線局の「中の人」達による振り返りからオリンピックに触れた部分である。

 オリンピックは「全く考えていなかった」けどあとから「一つの目途」になったと。

  

 なお、新幹線の工期については、世界銀行の融資条件もからんでくる。


 国立公文書館デジタルアーカイブで閲覧できる「国際復興開発銀行と日本国有鉄道との貸付契約」では、「本事業は1964年なかばに完成するものと予定される」としか書いていない。

 この契約書に「オリンピック」という言葉は出てこない。

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (9)  

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1-4 東海道新幹線にカーブが多いのは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (4)



 この表は、国鉄東京第三工事局(東北新幹線の東京都内及び埼玉県内の工事を担当)が作成した各新幹線の規格の対比表である。
 確かに、東海道新幹線は、東北・上越新幹線よりも最小曲線半径が小さい(曲線がきつい)。これは東海道新幹線が「五輪に間に合わせた急ごしらえ」だからなのだろうか?


 東海道新幹線の曲線の規格の考え方について、当時国鉄新幹線総局計画審議室長だった加藤一郎氏はこのように述べている。



 曲線半径は、開業当初の速度は200km/hとするが、将来は250km/hの可能性も考慮して、路線計画にあたってはこれに見合う曲線半径を2,500m標準と考えた。標準軌で250km/hは技術的にも可能であり、交通機関としての馬力効率(馬力/重量・速度)からみても妥当性があることが検討の結果認められている。

 

「国鉄東海道新幹線計画について」加藤一郎・著 「電気学会雑誌」81巻879号(昭和36年12月)76頁
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ieejjournal1888/81/879/81_879_2053/_pdf/-char/ja

 私は鉄道車両の専門家ではないので、これの妥当性を判断する術はないが、新幹線担当の室長が「曲線半径2,500mは妥当性がある」と言っているということで。


 また、当時国鉄幹線調査室調査役だった大石寿雄氏は、このように述べている。

 (前略)この点からも検討した結果、曲線半径2,500m。許容最大カント量195mmならば時速250キロで走っても危険でないことが判明したので、最小曲線半径2,500mを標準とすることになった。

 

「東海道新幹線の構想」大石寿雄・著「電気車の科学」12巻3号(1959(昭和34)年3月号)7頁


 東北新幹線が時速300キロ台で走る現在では、当初の「将来は250km/hの可能性も考慮」というのが志が低かったということになるのかもしれないが。。。
 
 なお、この「曲線半径2,500m」についても、1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「標準半径2,500m」とされている。そもそも答申では東京大阪間を「概ね3時間」で結ぶこととしているのだから、必要な仕様を満たしているのである(それ以上の速度への対応は求められていない。当時の世界最速の旅客列車は140km/h程度であった。)と言えよう。


 東海道新幹線のカーブは、確かにその後に開通した新幹線よりもカーブがきついことは間違いないが、それは東京オリンピック開催前に決定されていたことであって、古市氏の言うような「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではないのだ。


 なお、古市氏は「カーブが多く」と書いている。最高速度は、カーブの数の多少ではなく半径の長短で表されるカーブの緩急に左右されるのではないかと思うのだが。。。

 

 ということで、古市氏が「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」25頁で縷々述べている「東海道新幹線に係る五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」については、実際には東京オリンピック以外に原因がある(しかも東京オリンピック開催決定前に決められている)ことがお分かりになるのではないか?


 同25頁には、「JR東海はリニア中央新幹線を自力で建設できるくらい東海道新幹線で稼いだ。ということは、そのお金をリニア用に貯めずに、東海道新幹線の値下げにも使えたはずだ。」という記述もあるが、ここは人それぞれの政策判断の箇所だから私がとやかくいうものではない。

 

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2-1 首都高速は「五輪に間に合わせて急ごしらえ」した「負の遺産」なのか?

 

 これを信じている方は結構多い。例えば、ネットでも「首都高 オリンピック」で検索すると、下記のような記事がヒットする。

 


 日本道路公団による高速道路建設が動き出したころ、東京オリンピックの開催が決まります。当時の日本の道路は、地方は劣悪な未舗装路ばかりで、長距離移動には使おうにも使えないひどさでした。
 しかしクルマは増加の一途をたどっていて、東京ではひどい混雑が発生していました。
 このままオリンピックを開催しても、失敗の烙印を押される。その解決策として考えられたのが、首都高速道路でした。
 先進国では、戦前に一般道が整備され、戦後、自動車の大衆化と高性能化に合わせて高速道路が発達しましたが、日本では一般道が劣悪な状態のまま、自動車が大衆化へと向かったため、混乱が生じたのです。
 ただ、まだ自動車による長距離移動はほぼ皆無でしたから、東名のような「都市間高速道路」より、当面の渋滞対策としての都市内高速が、オリンピックに追われる形で先に完成することになりました。
 首都高はオリンピック対策ですから、オリンピックに間に合わせなければなりません。
 そのため、土地の買収に時間がかかるルートは極力避け、川や運河の上や埋め立てた川床、海上、道路上などをフル活用して、突貫工事が行われました。
 現在、首都高が景観を悪化させていると言われる原因は、土地買収に時間がかけられなかったことにあります。
 まずはオリンピックに必要な区間を優先ということで、都心と羽田空港、そして競技場のある代々木の3点を結ぶことが優先されました。 最初の開通は、1962年12月の京橋~芝浦間(料金100円)。
 その後、64年10月の東京オリンピックまでに、都心環状線の約4分の3と、そこから羽田および初台までの区間が完成しています。

 

「【高速道路】首都高の建設はオリンピック対策だった!」清水草一
https://autoc-one.jp/word/480124/


 後述するが、これはNHKの「プロジェクトX」の影響も大きいと思われる。

 

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 古市氏は、神宮外苑の内外苑連絡道路や日本橋上の高架橋をあげたうえで、次のように述べている。

 このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。
 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られたし、いくつもの川が埋め立てられ、そのまま高速道路に転用された。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)12~13頁


 東海道新幹線と同じく、この古市氏の記述に対して、一次資料で検証してみよう。


 ここでは、東京都の山田正男氏(下記参照)の著作を中心に検証していく。山田氏は「山田天皇」と呼ばれ、戦後の東京都の都市計画、都市開発(首都高、五輪対策、新宿副都心、多摩ニュータウン等々)に深く携わった方であることは言うまでもない。

山田正男
首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦
対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 山田氏はズバリ「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と述べている。古市氏とはまるで正反対ではないか。

 

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2-2 首都高が川の上を曲がりくねって走ることは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」たことに伴う「負の遺産」なのか?

 

 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

 

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁

 

 ここで、首都高計画と東京オリンピック誘致の経緯をみてみよう。


1953(昭和28)年4月28日 首都建設委員会が高速道路網の新設を建設省及び東京都に対して勧告。

1957(昭和32)年7月20日 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を決定。経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用することを定めた。

1957(昭和32)年8月5日 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。東京都が作成した街路、河川等を利用した首都高の原案の審議検討を開始。

1957(昭和32)年12月9日 東京都市計画高速道路調査特別委員会が、東京都市計画地方審議会長 安井誠一郎(東京都知事)あてに東京都市高速道路網計画を報告。

1958(昭和33)年1月22日 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1958(昭和33)年12月5日 建設大臣が、東京都市計画街路に都市高速道路を追加決定するための案件を東京都市計画地方審議会に付議。

1958(昭和33)年12月10日 東京都市計画地方審議会が一部を留保して原案どおり議決。

1959(昭和34)年1月30日 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年2月25日 日本道路公団(現・東日本高速道路株式会社)が西戸越~汐留間の工事に着手。(後に首都高に移管)

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年5月26日 東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月17日 首都高速道路公団(現・首都高速道路株式会社)発足

1959(昭和34)年8月7日 東京都市計画地方審議会で保留部分につき原案どおり議決。

 古市氏が「首都高の計画自体はオリンピック以前からあった」と述べているところを詳細に落とし込むと上記のとおりである。

 前述のとおり、東海道新幹線は、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、「昭和36、7年頃にはに東海道線の輸送が行き詰まるので新線が必要だ。」という理由であったが、首都高速道路も、東京オリンピックに間に合わせるためではなく、先に山田氏の対談に出てきた「昭和40年の交通危機に対する解決策」であった。

 


(前略)主要幹線街路の主要交叉点の交通量は、現在1日3万台以上となっており、なかでも江戸橋、祝田橋の如きは、8万台から9万台の自動車交通が通過している。従って、主要幹線街路の主要交叉点の交通量と街路の交通量とを比較すると、交通量、自動車保有台数の増加傾向からみて、昭和50年には、23区全部の自動車は、120万台と思われるので(現在は32、3万台)、多少交叉点によっては凸凹はあるとしても、昭和40年代にはラッシュ時における都心部の交通は、まったく麻痺状態に陥ることが推定される。ということは、自動車が歩くスピードと異ならないということになるのである。

 

「都市高速道路を中心とした東京都の道路政策」山田正男・著 「道路」昭和32年12月号
※「時の流れ都市の流れ」山田正男・著249頁に掲載

 

 これを解消するために、1965(昭和40)年全線開通を目標に首都高速道路を計画したのであり、東京オリンピックのためではない。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5) 首都高速道路当初の開通時期

 東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。

 詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 オリンピックに関係なく、「つとめて不利用地、河川又は運河を使用」「止むを得ざる場合には広幅員の道路上に設置」とある。
 オリンピックが決まってから間に合わなくなって「空中作戦」になったのではなくて、オリンピックが決まる(招致決定もしていない)1957(昭和32)年7月に河川上を利用することは建設省の方針で決定していたのである。

オリンピックに関係なく首都高は川の上だった
 そして、それは新聞報道等で既に広く知られるところとなっている。(1957(昭和32)年9月29日付読売新聞)

1957(昭和32)年8月16日付朝日新聞
オリンピックに関係なく首都高は川の上だった2
 中央区あたりを除いて、ほぼ現在の首都高速のネットワークに近い路線を「できるだけ既設の幹線道路や河川など公有地に建設」する案が公表されている。


 そして、これが1962(昭和37)年に作成された当初の都市計画の案である。

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (3)


 古市氏は「首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直された。普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。」とするが、実際には、オリンピック招致以前に、道路や川の上をフル活用した計画が出来ていたのである。

 そして、前述の「昭和40年の交通危機に対する解決策」なので、開通目標は1965(昭和40)年度内の全通を目論んでいた。


 では、古市氏が言う「オリンピックが正式決定してからの計画の見直し」とは何なのか?


 この1962(昭和37)年段階の計画図が現在と違うところといえば

・日本橋川区間については、中央・総武線を跨いでから江戸橋ジャンクションまでは日本橋川を半地下として通過している。(現在の築地川区間のような構造)
・江戸川ジャンクション以東の日本橋川区間は通過せずに、人形町・浜町附近を両国まで高架で通過している。(この区間は東京オリンピック後に、日本橋川の上空を高架で通過し、箱崎ジャンクションを経由するルートに変更となった。詳しくはhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html
・英国大使館、三宅坂ジャンクション周辺が半地下になっている。
・7号線小松川線の終点の接続道路が違う。


 といったあたりだろうか。(当然微小な修正は沢山ある。)

秋庭大先生2
 オリンピック決定前の首都高計画とオリンピック決定後の首都高計画はさほど変わらない。下図は首都高速道路公団発足直後のパンフレットに掲載された路線図である。

首都高速と東京オリンピック (7)
 この二つの図面を見比べたところで、古市氏の「このように、首都高によって破壊された東京の景観は少なくない。なぜこのようなことになってしまったのだろうか。最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。」という文にご納得がいくだろうか?


「だから日本橋の上にためらいなく高速道路は作られた」と古市氏は言うが、オリンピック決定前から「日本橋の上」だったし、なんなら当初は「日本橋の下」だったわけだ。

 


ということで、首都高が川の上を曲がりくねって走ること自体は、東京オリンピック招致前からほぼ決定済で「五輪に間に合わせた急ごしらえ」でも「負の遺産」でもないのである。そういう交通政策、景観政策が誤りだったという批判は有りうるが、五輪に間に合わせたせいではない。


山田氏の言う「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」の意味が分かったであろうか?

 

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2-3 「空中作戦」という用語は「ルポルタージュ」「ノンフィクション」に耐えられるのか?

 

 


 最大の理由が、まさに東京オリンピックなのである。首都高の計画自体はオリンピック以前からあったが、1959年に開催が正式決定してから計画が見直され、工事が急ピッチに進んでいくことになった。
 普通に考えたら、絶対間に合わない工事。そこで当時の首都高が採用したのが「空中作戦」である。特に時間がかかる用地買収を回避するために、今ある道路や川の上など公用地をフル活用したのだ。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)13頁


 古市氏は、首都高速がオリンピック決定後に「計画を見直して、絶対間に合わない工事に「空中作戦」を採用した。」旨書いているのだと思う。(この辺、文脈がはっきり読み取れない。)
 
ところで「空中作戦」という言葉は、首都高が河川上を通過することを指す言葉としては、割と一般的に使われていると思うが、この言葉が使われるようになったのは、2005(平成17)年にNHKで放送された、プロジェクトX「首都高速 東京五輪への空中作戦」からである。


そして「空中作戦」が意味するところは厳密には何なのか?プロジェクトX以降は、主に3冊の書籍でその内容が語られている。

 

 


 オリンピック開催まで、期間はわずか5年。羽田空港から代々木までの限られた路線とはいえ、その間にビルがひしめく東京で、用地を買収して道路をつくることなどできるはずもない。これは「大パニック」になる。

(中略)

 そのときだった。悩む大崎たちのもとに、一人の男が現れた。都市計画部長の山田正男。とんでもないアイデアを出した。

「”空中作戦”はどうか」

 いままでにある道路の上や、街なかを流れる河川に沿って、その上に高架橋の道路をつくれば、用地買収の手間が一気に省ける。5年間の短い期間でも、渋滞が解消できるという前代未聞の作戦だった。

 

「プロジェクトX 挑戦者たち 28 次代への胎動」日本放送出版協会(2005年) 74~75頁

 


山田の主張によって、首都高速道路公団が設けられ、一号線(羽田・中央区本町間)、四号線(日本橋本石町・代々木初台間)を中心とする約三十二キロの建設がオリンピック関連事業として建設されることになった。

「オリンピックまで、あとわずか五年しかない。果たして間に合いますか」

 国会に呼ばれて、そう議員から質問をされたとき、山田は傲然と答えた。

「絶対に間に合わせてみせます。見ていてください」

 山田には腹案があった。時間がないから、地権者たちの反対、土地買収などにかかわっている暇はない。だから、地権者たちに文句を言わせない方法をとる。

「空中作戦だ」

 日ごろ冗談一つ言わない上司の不可解な言葉に、部下たちは目を白黒させる。

「俺の言っている意味が分からないのか」

 山田はわざとうんざりして言った。皆の戸惑いが、実のところ、いまは心地よい。

「既設の道路、運河の上を通せ。下は公共の土地だから、誰も文句はいえないよ」

「果たして、そんなことができますか。実例は海外にありますか」

「じゃあ、君たちはどうしたらオリンピックに間に合わせられるんだ」

 大声で怒鳴ると、部下たちは従うしかなかった。部下だけではなく、安井の後任である東龍太郎都知事も、そして「影の知事」といわれ、実際の都政を仕切っている鈴木俊義副知事も少し首を傾げはしたものの了承した。

 こうして「空中作戦」は実行された。高速道路はまるで鉄でできた大蛇のように、東京の都心をのたうち回り、時には三回も四回も交差しながら、ビルの間を通り抜けた。

 生きた河川や由緒ある日本橋の上を高速道路が屋根のように通る形になったのも、この時である。

 

「東京の都市計画家 高山 英華」東秀紀・著 2010年(鹿島出版会) 253~254頁

 


 首都高の建設ぶりを、世間は「空中作戦」と呼んだ。川や道路という公共用地の上の、文字通り「空中」に、みるみる高速道路ができていったからだ。しかし山田の空中作戦は、オリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼が、たまたまオリンピックという最高の舞台を得ただけだった。

「首都高速の謎」清水草一・著  2011年(扶桑社) 50~51頁

 

 興味深いのは、著者によって「空中作戦」の意味が違うのである。

 プロジェクトX及び東秀紀氏は
・オリンピック決定後に首都高を空中に上げた
・空中作戦と呼んだのは山田正男氏


 清水草一氏は
・首都高が空中に上がったのはオリンピックに間に合わせるために急遽編み出したわけではなく、当初からの慧眼
・空中作戦と呼んだのは山田ではなく、世間


 私が先にお示しした時系列と比較すると、清水氏の方が時系列の並びは正しいと思われる。

 

 では、当時の新聞や雑誌で「空中作戦」の用例を調べてみようと私は国会図書館等に通い詰めた。
 実は私が探した範囲ではプロジェクトX以前の使用例が見つからないのである。


 新聞のデータベース、首都高の広報誌、東京都や首都高職員が書いた建設関係業界誌の報文等をかなり力を入れて探したのだが、プロジェクトX以前は私の能力では見つけられないのである。


 プロジェクトX及び東秀紀氏の著書では、山田正男氏が「空中作戦」と呼んだことになっているが、山田氏の著書、対談集を読んでも「空中作戦」という言葉は出てこない。
 そして、当該番組を見ても「空中作戦」の言葉は、東京都や首都高の当時の担当者の口から出たものではなく、ナレーターのト書きの部分で出ているのだ。


 どなたかこの秘密が分かった方は是非私に教えてほしい。「空中作戦とはだれがいつどのような意味で発言したのか」を。
 (「演出の一環」ですかね。。。)
 
 ということで、「空中作戦」という言葉を使うなら、その出典が明らかでない現状では、「空中作戦(清水説)」とか「空中作戦(プロジェクトX説)」等と使い分けることを提唱する。


 そしてその視点で古市氏の「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」を読んでみると、どうやら古市氏は、内容を読むと「プロジェクトX説」に近いようだが、文献としては「首都高速の謎」をあげているので「清水説」なのだろうか??どちらでしょうか?

 

 このような現状で「ノンフィクション」「ルポルタージュ」に「空中作戦」という用語を定義づけなしに使うことの妥当性については、諸兄がご判断いただければ。

 

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2-4 首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?

 

 

 首都高の整備はオリンピック後も進められたが、長らく深刻な問題に苦しめられることになる。渋滞だ。

 特に、片側2車線だった都心環状線を片側3車線にしておけば、だいぶ事態は緩和されただろうと言われている。様々なルートから車が流入する環状線が片側2車線では、渋滞は必至だというのだ(清水草一『首都高速の謎』)。これも、首都高の建設を急いだことの代償だろう。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)14頁

 

 ここで山田正男氏の登場である。
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (2)
古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (1)
「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」東京都新都市建設公社まちづくり支援センター

 

 実際に首都高速計画の立ち上げに関与していた山田氏によれば、
・もともと戦災復興の都市計画で街路を拡げようとしたところができなかった。
・都市高速道路はランプが近接して交通の織り込みが発生するので交通能率が落ちる。
・別ルートを作った方がまし。
・大蔵省は採算性から片側2車線でも反対していた。
 といったところか。これも「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではなさそうだ。

 なお、「別ルートを作った方がまし」という言葉を裏付けるかのように、東京オリンピックに向けての新設工事中に既に新しいネットワークの検討を行っている。
 下記は昭和37年段階での「東京都市高速道路将来計画図」である。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)


 山田の「別のルートを作った方がまし」の言葉どおり、片側2車線の都心環状線を補完するように「内環状線」が神田川の上空を通過し、「中環状線」が(現在とは違い)目黒川の上空を通過している。
 「オリンピックに間に合わせるため」だけではなく、オリンピック終了後も首都高速を河川の上を通過させる気マンマンだったのだ。


 結果的には中環状線は、目黒川の上空から目黒川の地下を潜ることに変更され「中央環状線」として開通した。
 内環状線は、ついに工事に着手されることはなかった。これが開通していれば都心環状線の渋滞は大幅に解消されていただろう。

 

 というわけで、首都高都心環状線が片側2車線しかないため渋滞することは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」ではない。ただし、行政の施策としては、「別のルートを作ることは長い間できず、結果的に長期の間大渋滞を発生させていた」ということの批判を免れるわけではない。ただ「五輪の負の遺産」ではなく「道路政策失敗の負の遺産」というだけである。

 

 ちなみに、総武快速線の馬喰町駅は国鉄で一番地下深い駅として知られていたが、地下深くを施工しなければならなかった理由の一つとして両国から神田川にかけて首都高速内環状線の杭を打つ計画があったところ、それを避けているからである。あの階段を毎日昇り降りする方は「首都高の負の遺産」に苦労させられているわけだ。
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/09/post-7868.html


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2-5 首都高の速度制限が低いのは、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」に伴う「負の遺産」なのか?



古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (5)
東京都の「東京都市高速道路の建設について」から引用。詳しくは
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

 ところで、前述の「東京都市高速道路の建設について」では、「設計速度は1時間60粁を原則とする」とある。しばしば「首都高速道路は、オリンピックに間に合わせるために河の上を曲げて通しているので、(100km/h出せる東名や名神等の高速道路とは違い)60km/h」しか出せない。」と言われることがあるが、これも「オリンピック招致前からの仕様」であり、「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではない。

古市氏はそこについてあまり触れていないため、詳細はここでは割愛する。

 

 

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3 結論


 以上、だらだらと述べてきたが、古市氏が指摘する首都高と東海道新幹線の「負の遺産」については、多くが「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」ではないというのが私の結論である。
 首都高建設や東海道新幹線建設にあたって「東京オリンピックにまにあわせる」ということが大義名分となって広く関係者に共有され、そのおかげもあって首都高や東海道新幹線が東京オリンピックに貢献できたということは事実ではあるが、なんでもかんでもが「五輪に間に合わせた」わけではないのだ。

 


<誤解されたまま広がっている東海道新幹線建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・オリンピックに間に合うように東海道新幹線の工期5年を設定

・オリンピックに間に合うように鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択

 


<実際の東海道新幹線建設の経緯>

 

・在来線が昭和36、7年頃にはパンクする虞。

  ↓

・一番長く工事がかかる新丹那トンネルの工期にあわせて、東海道新幹線の工期5年を設定

・所要時間、曲線等の規定を決定

・新丹那トンネルの工期より長くなること、米原で北陸線に接続することから鈴鹿峠を止めて関ケ原経由を選択。


 ↓

・東海道新幹線工事着工

  ↓

・東京オリンピック開催決定

 


<誤解されたまま広がっている首都高速道路建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立

  ↓

・オリンピックに間に合うように「空中作戦」で高速道路を川の上に

 


<実際の首都高速道路建設の経緯>

 

・都内の一般道が昭和40年にはパンクする虞。

  ↓

・昭和40年に間に合うように高速道路を川の上に

  ↓

・日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)

  ↓

・首都高速道路公団法が国会で成立

  ↓

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立(日本道路公団から先行部分を引き継ぎ)

 

 世間で広がっている誤解と実際の流れを再整理してみた。

 これを元に、古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を読んでいただければ。

 

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 上記で「日本道路公団が首都高の一部を先行建設開始(川の上、公園等を活用した2号線)」と書いた。

 実際には、「オリンピック開催決定前」の昭和33年度に「首都高速道路公団ができる前に日本道路公団が」「川や公園の上を活用して」高速道路建設に着手していたのである。

 ※詳しくは、http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

 

 話は変わるが、先日のブラタモリで、白金の住民が公園の自然を守るために、首都高速道路のルートを変えた話が出てきたのを覚えている方はいらっしゃるだろうか?

 

 それが、この日本道路公団が先行着手した部分なのである。そして折衝等に時間がかかった結果、オリンピックには間に合わなかったのである。

 「空中作戦」にしたから有無を言わせず、オリンピックまでに間に合わせるための工事ができたわけではないのだ。

 そして「江戸っ子はオリンピックに向けた高速道路の工事に反対するなんて野暮なことはしなかったんだ」というのも眉唾なのだ。

 

 古市氏は、「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」のなかで、東海道新幹線に係る「用意買収係の悲哀」について紹介している。

 私も、当時首都高建設に従事した職員の悲哀について紹介している。是非こちらもお目通しいただきたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-422f.html

 

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4 東京モノレールは「五輪に間に合わせた急ごしらえ」による「負の遺産」なのか?

 

 東京モノレールについては、私はあまり詳しくないのだが、一点だけ古市氏に判断の参考にしていただきたい材料があるので紹介しよう。



 東京モノレールの親会社であるJR東日本も、自ら東京モノレールに死刑宣告を出すような計画を打ち出している。羽田空港と都心を結ぶ羽田空港アクセス線を整備し、東京や新宿、臨海部まで一本の電車で行けるようにするプランだ。
 ものすごく便利そうだ。しかしここで浮かんでくるつっこみがある。
「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」

 もちろん、東京オリンピックに間に合わせて交通インフラを整備したかったという当時の事情もわかる。だがそもそも1964年のオリンピックがなければ、東京モノレールの計画自体なかっただろう。そして東京モノレールがなければ、羽田空港アクセス線がもっと早く整備されていたかも知れない。

「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール」古市憲寿・著(文春新書)21~22頁

 

 これに対する直接の回答ではないのだが、「だったら初めからそれを作れば良かったじゃん」に関する参考資料のご提供である。


菅 (前略)ただ、中央線の都心部の増強を図りたい気持ちは国鉄のなかに多分あって、かなり東西線のルートと重なるわけですよね。東西線は、結果的には日本橋を通って江東区のほうへ抜けていきますけれども、また西船橋で国鉄とつながるんですから、あれこそ営団なんかにやらせずに、国鉄が自分でやってもおかしくなかった線のはずですよね。

角本 ええ。ですから、東西線を国鉄が自分でやってくだされば、営団の資金をもっと新しい線に向けられましたね。

鈴木 国鉄がそれほど都市内の交通に関心がなかった。

角本 というより、お金がない(笑)。やはりそれだと思う。「国鉄の本来の使命にもっとお金を入れたい」ということ。特に東海道新幹線もやっていましたから。

菅 そういうことなんでしょうね。私たちが(国鉄に)入った1960年代半ばにも、「都市鉄道というのは儲からない」という議論がありました。

 

「角本良平オーラルヒストリー」交通協力会

 

角本良平(元 国鉄)
菅建彦(元 国鉄)
鈴木勇一郎(立教大学術調査員)

 

 東海道新幹線建設費用を捻出するために、既に建設が決まっていた地方路線の予算を削っていた当時の国鉄に、「羽田空港対策の余裕資金があったか」という観点でご参考にしていただきたい。

 既存の通勤電車のラッシュ対策にも手が回っていなかったのが当時の実態である。首都圏の通勤対策(5方面作戦)が行われたのは、東海道新幹線開通後である。そしてその巨額な投資は赤字転落した国鉄経営を更に苦しめて行ったのである。

 

 ※オリンピック当時の全国でのモノレールブームについては、広報ひめじに詳しい。https://www.city.himeji.lg.jp/kouhou/kouhoushi/backpdf/s30/pdf_s39/19640215339.pdf

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※本稿は、古市憲寿氏のリクエストに基づき書いたものです。

https://twitter.com/poe1985/status/1159478468611985409?s=20

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2018年9月 2日 (日)

貨物新幹線の詳細な計画を国鉄新幹線総局OBが残していた

 「東海道貨物新幹線は世界銀行向けのダミー、ポーズだった」説に執拗に反論している私であるが、貴重な資料を収集したのでご披露申し上げる次第。

第13話=世銀借款

 

 この貨物問題に関しては、当初から国鉄側も頭を悩ませていた。技師長・島の頭には、のっけから貨物新幹線構想の「貨」の字もない。速度の違う旅客と貨物が同じ路線に混在するからこそ、東海道の輸送力がますます逼迫するのだ。(略)ハイウェイのように速度によって棲み分けさせることが新幹線の大前提である。しかし、国鉄内部にも根強い貨物新幹線論者が存在したし、なにより当時のアメリカでは、旅客輸送は「5%ビジネス」であった。鉄道輸送の95%は貨物であり、旅客はもっぱら自動車と航空機に移っていたのである。

 そこで、世銀への説明資料には、貨物新幹線の青写真も挟み込むことになった。将来は貨物新幹線も走らせたい・・・・・・という世銀向けの苦しいポーズである。当時のパンフレットや世銀向けの説明資料をみると、貨物新幹線のポンチ絵、つまり簡単な設計図が入っている。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 193~194頁から引用

 この高橋団吉のような一面的な見方をする方は割と多くいらっしゃるのだが、その根拠としては島秀雄氏の「D51から新幹線まで」だったりするのだろう。島秀雄氏はこの中で下記のように語っている。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (13)

 

 ところが、私が以前からブログにUPしているように貨物新幹線の実現に向けての現場の動きは着々と行われている。

 これについて実際に貨物新幹線を担当していた角本良平氏は、「角本良平オーラル・ヒストリー」において、下記のとおり述べている。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (14)

 この辺の経緯は、かつて「貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)」にまとめたところだ。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6d9d.html

 

 ところで、この角本版の貨物計画について、詳細に記している国鉄職員の手記があった。

 当時、国鉄新幹線総局に勤務していた高橋正衛氏による「新幹線ノート」である。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (1)

 ここに出てくる「開業準備委員会」は、

東海道新幹線開業準備委員会

 東海道新幹線開業後の運営に関する基本的事項及び工事過程における重要事項について総合的に調査審議するため、(昭和)37年10月設置した。

 

「昭和39年 交通年鑑」から

 ここで高橋氏が記述している場面は、十河総裁らが新幹線工事費不足等を原因に更迭されたことを受けて開業に必要(最小限)な範囲の工事範囲を議論しているものだ。新幹線の編成を6両編成にするような予算削減策も検討されたことがうかがえる。

 ここで「三、 旅客営業の開業に必要な主要設備とする。」という記載がある。つまり、「貨物は昭和39年10月の開業には含めない。」ということがここでオーソライズされたということではないか。

 よく「予算不足のため貨物新幹線は完成しなかった」と言われるが、その具体的な経緯がここに示されていると言えるのではないか?

 この後「新幹線ノート」の158頁にも「新幹線工事費の(略)最終予算額のなかに貨物輸送計画の予算は、一部貨物駅用地等の取得を除き含まれていない。」とある。

 例えば鳥飼貨物駅の用地買収費と、開通後に工事を行うことが困難な本線上空通過部分の構造物のみといった予算配分がなされたのではないだろうか?

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 ところで、東海道新幹線の建設誌(建設史)は、国鉄としての全体版がなく、各工事局毎にバラバラと出版されているのだが、これについても高橋氏は、全10巻(各500ページ)の東海道新幹線建設史の出版が部長会で承認されていたが、予算超過問題の中で無駄な出資を押さえるべきとの理由で中止され、後日各工事局で個々に発刊されることとなったとその背景に触れている。

 予算不足でできなかったのは、貨物新幹線だけではなかったのである。

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 閑話休題。貨物新幹線計画に戻ろう。

 高橋氏は角本氏から貨物輸送計画について聞き取りをしたり、資料を借りて書き写したりしている。それが「新幹線ノート」に掲載されているのである。

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (2)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (3)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (4)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (5)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (6)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (7)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (8)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (9)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (10)

 静岡の「抽木」は「柚木」の誤りであろう。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (11)

 名古屋貨物駅の「日比津」は現在の車両基地である。当時の国鉄広報誌ではここも「貨物線用の工事」として紹介している。貨物新幹線用工事の名残は鳥飼だけではないのである。

 また、貨物新幹線は在来線とは直通できないわけだが、市中に「デポ(貨物取扱所)」を設けることでカバーしようとしていたということだろうか?

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (12)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (15)

 「M補佐」は、「角本良平オーラルヒストリー」に出てくる「貨物輸送設備・制度」担当の「森繁」氏のことであろうか。

新幹線総局

 島秀雄氏や高橋団吉氏のいうように貨物新幹線が世銀融資を獲得するための見せかけの方便にすぎないものであればこのような沈滞感は醸し出されないことであろう。

 世銀のためのダミーであれば、嘘をついた十河や島もいないし、何もせずに適当に世銀向けの言い訳だけ作っておけばよいはずである。

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 高橋氏が触れている貨物輸送計画であるが、運輸界1959年6月号「東海道広軌新幹線について」矢田貝淑郎(国鉄幹線調査室総務課) ・著 10頁にでてくるA案、B案、C案とは整合がとれていることを付言しておく。

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (1)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (2)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (3)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (4)

 

 なお、高橋氏の「新幹線ノート」によれば、佐藤大蔵大臣がIMF年次総会に出席の際に世銀の意向を打診したのが1959(昭和34)年9月、島氏も触れる世銀ローゼン氏が来日したのが1959(昭和34)年10月であるから、この矢田貝氏が執筆した貨物新幹線の計画は「世銀に言われてでっち上げた」にしては時空を遡りすぎであることを申し添える。

 

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(関連記事)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d2af.html

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-a11f.html

貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6d9d.html

新幹線予算超過の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6bd1.html

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2018年1月10日 (水)

「夢の超特急」は、国鉄社内からの「新幹線なんかできっこない」とバカにする気持ちを込めた蔑称だった

 講談社の「現代ビジネス」というウェブサイトに、川口 マーン 惠美氏が「ドイツ版新幹線がお披露目した「夢」のようなポンコツっぷり」という記事を寄稿した。

 私はドイツの新幹線には関心がないのでスルーするとして、文中「東海道新幹線の構想が公にされたのは1957年。しかし当時は、鉄道は過去の交通機関で、これからは飛行機と自動車の時代という風潮が強く、「できないもの、無用のもの」という揶揄を込めて、「夢」の超特急と呼ばれていたという。」という記載に対して、鉄道趣味者の方から「初耳だ」「ソースを出せ」「どうせマスコミが(ry」といったリアクションが見受けられた。

 

 私は天邪鬼なので、「じゃあソースを探してみるか」とちょいと探したら、すぐ出てきた。

 

 国鉄幹線調査室調査役から新幹線局営業部長等を歴任した角本良平氏はこう語っている。角本氏は、中公新書「東海道新幹線」等の著書もある。

高嶋 「夢の超特急」という言い方はいつごろ出てきたんですか。

角本 最初だと思います。誰がつけたか、私は知らない。だけど、最初のころでしょう。これは2つ意味があって、「夢の」というのは「どうせできっこない」ということです。営業局の人たち、彼らは「どうせできっこない」と思っていた。実際に予算がついて、建設が始まってからも、非常に多くの営業局マンは、そう思っていた。ということは、我々、期限を切っているでしょう。「そんな期限でできるはずはない」と。実際は半年期限延びたわけですから。

二階堂 「新幹線自体が永久にできるわけない」ということではなくて、「そんなに早くできるわけがないということ。

角本 そうそう、そういう意味。それからそんなに速い速度のものができるわけがない」と、そんな意味もあったと思います。ですから、篠原研究所長、それから海軍出身の技術屋、皆それを実際にやったことがないから、「そんなのできるだろうか」という疑問でしょうね。営業から言えば。

二階堂 「できっこない」と思っていたのは営業局、という認識が、角本さんのなかで強いわけですね。

角本 私は、そう思っています。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」交通協力会・刊

 「できないもの」と揶揄して夢の超特急と呼んでいたのは、マスゴミではなくて最初から国鉄社内だったということだ。

 角本良平氏一人のコメントだけでは不十分かもしれない、角本氏と同時期に幹線調査室の総括補佐を務めていた矢田貝淑朗氏のコメントも見てみよう。

幹線調査室

中村 幹線調査室が発足した段階では、もちろん予算もついていなければ、計画も雲を掴むようなものであった、と。

矢田貝 もう何もなかったはずです。私が行ったときですら、ほとんど何もありませんでしたから。「弾丸列車、夢の超特急、速度が凄いらしいが、矢田貝さん、そんなことできるの?」とどこへ行ってもそうだったのです

中村 その段階ではもう、時速200キロという数字は出ていましたか。

矢田貝 出ておったんです。だから「夢の超特急」という言葉があったんです。これはそんなことできるわけがない」という意味の「夢」で、部内でバカにされるときの言葉なんです。そろそろ幹線調査室から幹線局になる頃にも、有名な作家で「万里の長城、戦艦ヤマトと並ぶ大バカだ」と言ったのがおったじゃないですか。

二階堂 阿川弘之です。

矢田貝 そうだ。そうやって笑い物にされたり、バカにされたり、「普通の鉄道なら地方に利益もあるだろうが、田んぼに万里の長城を造られたって困る」という雰囲気だったんですよ。そういうときですから。

矢田貝淑朗オーラル・ヒストリー」交通協力会・刊

 角本氏は「国鉄営業局が」と語っているが、矢田貝氏は「どこへ行ってもそうだった」「部内でバカにされる」と語っている。

 川口 マーン 惠美氏の肩を持つつもりもないし、余計な詮索をするつもりもないが、ジャンピング土下座を自主的にやった方がよい方もいらっしゃるのではないか。

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(追記)

須田寛は夢の超特急について嘘をついているのではなか

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/4184?page=2

 JR東海の須田寛氏は「「夢の超特急」は、マスコミの方などが使われたものですね。国鉄(当時)自身では、1度も使っていません。」と語っているようだ。

 当時幹線調査室に居た二人と須田氏のどちらを信用するかが問われているな??

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2016年8月16日 (火)

恵知仁( @t_megumi )氏「幻の貨物新幹線」半世紀残った遺構、来年にも見納めに→いや、まだまだ残るわな

 「乗りものニュース」に、「幻の貨物新幹線」半世紀残った遺構、来年にも見納めに 東京〜大阪5時間半 という記事が載ったおかげでその瞬間から私のブログのアクセス数がガンガン増えたので喜んでいる次第である。

 「三島高架橋」で検索すると、阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅がヒットするもので。

 ところで、ライターの恵知仁氏は、「利用価値がないながら、管理の手間はかかるこの「貨物新幹線計画」の痕跡、あと1年ほどで消えてしまう見込みです。」としているが、実際のところは、貨物新幹線の「ジャンクション」はまだまだ現役であり当分消える見込みはないのである。

 大阪じゃなくて名古屋なのだが。で、今日なおバリバリ利用されている。

 東海道新幹線の貨物駅は、東京(品川(当初)→大井)、静岡(柚木)、名古屋(日比津)、大阪の4箇所に計画され、それぞれ用地買収も実施済だったのであるが、恵氏の記事同様、名古屋でも貨物駅への線路が新幹線の本線を跨ぐため、そこが工事され、完成しているのである。

 

 東海道新幹線の建設誌には、下記のような名古屋駅と貨物駅の配置図が掲載されている。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (1)

 実際には、貨物新幹線は実施されなかったため、全て旅客電車の基地に転用されているが、もともとは貨物線が新幹線の本線をオーバーパスするための構造物が本線の開通にあわせて建設されているのである。

 「交通技術」1963年7月号には「工事たけなわの新幹線名古屋地区」と題した記事が掲載されている。

 ホームをはずれるところから、名古屋貨物駅としての日比津ヤードとを結ぶ貨物線上下2線が分岐する(以下略)

 

「交通技術」1963年7月号34頁

 

 貨物ヤードは庄内川沿いの日比津に予定されており、貨物線は中村高架橋のところで新幹線の下り本線を乗り越す。貨物扱いは来年10月1日開業と同時に行わないことになっているが、ここでは上下本線に挟まれており、開業後では施工不能となるので、日比津への乗越部のところまで施工済である。

 

「交通技術」1963年7月号34頁

 掲載されている施工写真を見ると、まさに大阪で解体工事が進んでいる三島高架橋と同じような構造物が見て取れるのである。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (2)

 

 現在は下記のような状況である。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (3)

 東京方から大阪方面を望む。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (4)

 大阪方から東京方面を望む。右側の高架橋が貨物駅への分岐線となるはずだった。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (5)

 「日比津線」というのか。

 前掲の図面からすると赤丸のあたりである。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (6)

 件の大阪の案件も完成していればこのような姿を見せていたのであろう。

 なお、余談ではあるが、恵知仁氏は記事中

 東京新聞が2013年に報じたところによると、インフレによる東海道新幹線の建設費増大も「断念」の理由とされています。

 としているが、インフレによる東海道新幹線の建設費増大は、上記の「交通技術」記事にも出てくる「貨物扱いは来年10月1日開業と同時に行わないこと」の理由というのが正当であろう。

 昭和40年3月の国会では、国鉄柴田常務理事(当時)が

 国鉄が新幹線を開業いたしますまでには、先生も御承知のとおりに予算不足の問題がございまして、昨三十九年の十月に旅客の輸送開始をいたすまでの間に、いろいろとやむを得ない予算上の事情から、計画の変更と申しますか、一部をおくらせざるを得なかったということがございまして、その結果として、貨物輸送は、できれば一番最初は三十九年の十月、昨年の十月同時に開業するという計画でございましたけれども、ただいま申しましたような事情でおくれざるを得ない、ただいまの予定では四十三年の秋、これはどうしてもその時期になるという事情がございます

との答弁をおこなっているところだ。

 また同様に

「いつの間にか貨物列車計画は立ち消えに」(公益財団法人 交通協力会『新幹線50年史』)なってしまいました。

 とも書いているが

 「国鉄線」1972年3月号では、下記のように明確に比較検討したうえで在来線の貨物で用が足りると判断されているようだ。

貨物新幹線をやらなかった理由

 恵知仁氏も、もうちょっとググってみるとかしてはどうか。

 「乗りものニュース」のビジネスモデルとしては、大手ポータルサイトへの転載によるレベニューシェアが柱だろうから、取材やライターに大したコストはかけられないだろうというのは理解しているのだけれども。

(参考)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

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