カテゴリー「モノレール・新交通システム」の21件の記事

2020年8月31日 (月)

豊島園遊園地モノレール「空飛ぶ電車」は国鉄三木忠直の指導で日立が作った「弾丸列車の試作品」

 西武のとしまえん遊園地が営業終了するという。

 ところで、私のブログの趣旨でいけば、豊島園のモノレールに触れなければならない。

日立と豊島園モノレール (2)

日立と豊島園モノレール (3)

日立と豊島園モノレール (1)

 メーカーの日立製作所の技報に世界の実用車と肩を並べて堂々と遊園地の遊具が載っている。

 これには訳がある。西武の社内報に下記のような記事が掲載されている。


 今中央広場に偉容を誇っている「空飛ぶ電車」は、もう七、八年前にできたものであるが、当時国鉄の技術研究所で、三木さんが研究されて居った「モノレール電車」の構想が、某新聞に載って居ったものにヒントを得て、同氏の指導を受けながら、車体を日立製作所の笠戸(山口県)工場で製作させ、架構を清水建設に建設させたものである。今年になって上野公園にやっとできた東京都が日本初めてと自称する懸吊電車も、とうの昔豊島園にできていた「空飛ぶ電車」と同構想のものである。この際「空飛ぶ電車」という名称の名付親は宮内常務であることを附記しておく。

 

「復興社の事ども(3)」 復興社事業部長 加藤 肇

「西武」昭和33年5月15日号掲載

 文中「国鉄の技術研究所の三木さん」といえば、旧軍の航空機研究者で戦後国鉄に入り新幹線の開発に寄与し、その後日本エアウェイ開発等でモノレールの普及にも携わった技術者である。 

 三木氏の報文にも豊島園のモノレールに触れたものがある。 

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (2)  

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (3)  

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (1)  

「モノレールについて」三木忠直(国鉄技研、客貨車研究室長:当時)「電気鉄道」1957(昭和32)年1月号  

 豊島園のモノレールについて「我国でもこの方式(引用者注:懸垂鉄道)のものを子供の乗物ではあるが昭和25年に作った」としている。 

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 では、開業当時の報道を見てみよう。 

豊島園モノレール6  

1951(昭和26)年3月31日 付け朝日新聞

豊島園モノレール  

1951(昭和26)年3月31日 付け読売新聞

 読売の方に気になる書きぶりがある。 

 東京-大阪間を二時間半で走るというわが国最初の”空飛ぶ電車”は国鉄技術研究所三木技師を中心に研究が進められてきたが試作品が完成、来月一日から豊島園にお目見えする

  遊園地の遊具ではなく、思いっきり「試作品」とされている。 

 あわせて当時の新聞広告を見てみよう。 

豊島園モノレール5  

1951(昭和26)年3月31日 付け読売新聞

「世紀の驚異!空飛ぶ電車!出現!」 

 

豊島園モノレール2  

1951(昭和26)年4月7日 付け読売新聞

「東京-大阪を2時間で走る弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車!出現!」

 

豊島園モノレール3

 

1951(昭和26)年4月21日 付け読売新聞(夕刊)

「東京-大阪を2時間で走る弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車」

  

豊島園モノレール4  

1951(昭和26)年5月26日 付け読売新聞(夕刊)

「東京-大阪を2時間で走る空中弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車」

  

 一回一回微妙にキャッチコピーが異なっている。 

 なお、広告のイラストではプロペラが強調されているが、新聞記事では朝日と読売でプロペラの役割が異なっている。 

 としまえんのウェブサイトでは 

懸垂型プロペラ推進方式を計画していましたが、推力が出ないために台車をモーターで回す方式に変更しました。」 

http://www.toshimaen.co.jp/final.html2020年8月30日閲覧 

 と書かれている。 

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  三木忠直が所属していた国鉄の鉄道技術研究所が創立50周年記念講演会で東海道新幹線構想の実現可能性について触れたのが1957(昭和32)年5月である。

 「弾丸列車の試作品」である豊島園モノレールの完成から6年後だ。 

 場合によっては、豊島園のモノレールが新幹線の原型と言われていたかもしれない。 作った工場も同じだし。

 サンダーバードでも高速モノレールが出てきたし。 

 なお、三木忠直は、国鉄退職後、日本エアウェイ開発で懸垂式モノレールの普及に貢献した。下記の東京~千葉のモノレール構想(未成)が一例である。その後の湘南モノレールや千葉都市モノレールにも参画しており、さしずめ豊島園モノレールは、湘南モノレールや千葉都市モノレールのお兄さん格であるといって差し支えないだろう。

千葉モノレール

1962(昭和37)年1月9日 付け読売新聞

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 なお、豊島園ローラースケート場では堤康次郎の葬儀が1964(昭和39)年4月30日に行われている。 

 各界から弔電が寄せられているが、広尾の堤邸を訪れたこともある俳優アラン・ドロンのそれを抜粋しておこう。

 「堤会長の逝去の報、ただ今拝受いたしました。生前なみなみならぬ親愛の情うけたまわりましたこの偉大な人の逝去に深くお悔やみ申し上げます。ご夫人に謹んで弔意を呈したてまつります。 アラン・ドロン」

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2017年1月30日 (月)

東北新幹線は浦和市営モノレールの導入空間を空けて今でも待ってる

 「浦和市営モノレール」でぐぐっても1件もヒットしない。「なんじゃあこりゃああ!(ジーパン刑事)」な人がほとんどであろう。

都市モノレール・新交通システム 未成線及び事業化路線一覧

 これは、「公共事業ガイドシリーズ 都市モノレール・新交通システム事業」公共投資ジャーナル社編集部 編 に掲載された1973(昭和48)年から1983(昭和58)年までの「都市モノレール等調査実施箇所と事業化状況」という一覧表である。

 この54年度に「川口・浦和線」が載っているのが分かるだろう。

 東北新幹線は、このモノレールとの交差に関して浦和市と設計協議を行い、東北新幹線の高架下に浦和市営モノレールが通れるよう導入空間を空けたのである。

 

浦和市営モノレール計画線と東北新幹線の交差

 「東北新幹線工事誌(上野大宮間)」432頁に掲載された当該箇所に係る部分である。

 「事業主体である浦和市とモノレール交差の技術的検討に加え、(略)昭和56年12月12日の3者会議(モノレール委員会、浦和市、東三工)の席において(略)交差断面スケルトンが決定した。

 

 ここで、「浦和市営モノレールなんて聞いたこともないし、グーグルで検索しても出てこないぞ」とおっしゃる方がいるかもしれない。

 ところが私は、モノレールと聞くと社団法人モノレール協会の機関誌「モノレール」を探せばいいと勘づくぐらいには鍛えられているので、さっそく国会図書館で探索すると、下記のような図面がでてきた。

浦和市営モノレール計画線

 「モノレール」42号(1980(昭和55)年11月)「今年度部市モノレール等調査都市の交通事情--浦和市の都市交通の現状と課題 / 井上竹明(浦和市企画部交通対策室副参事) ・著」から引用

 ついでに川口市営モノレールについては、下記のような図面がでてきた。

川口市営モノレール計画線

 「モノレール」41号(1980(昭和55)年7月)「今年度都市モノレール計画調査都市の交通事情--川口市の都市モノレール等予備調査 / 大野順四郎(埼玉県川口市企画審議室理事) ・著」から引用

 浦和市と川口市で連携して環状モノレールのようなものを計画していたようだ。

 

 このモノレールが通る空間を準備して待ち続けていた場所を探してみるとどうやらここのようだ。

 前後に比べるとスパンが長い。

浦和市営モノレールが東北新幹線の下をくぐるはずだった道場三室線

 モノレールもできるはずだった都市計画道路にしては随分寂しい光景だと思ったら、まだ東北新幹線に届いてすらいないのね。。。

http://www.city.saitama.jp/001/010/018/007/005/p007073_d/fil/h22_doujou.pdfから引用。

 これができていれば南与野駅は埼京線と浦和市営モノレールの乗換駅として賑わっていたのだろうか。

※追記

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2016年5月 8日 (日)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その9)

 自分が都市と交通の問題に関心を持つようになったきっかけは、約30年前に出会った岡並木氏の「都市と交通」、田村明氏の「都市ヨコハマをつくる」ともう一冊、これが書名も出版社名も全部忘れており探しあぐねていた。

 ところがあっさりと歩いていける図書館にあったのだ。おお懐かしい。

地域交通を歩く

 大西隆氏の「地域交通をあるく」。大西氏が東大教員になる前にODみたいな形で開銀にいたころの著作だ。全国の様々な交通問題を抱える街を歩いてトヨタ系の雑誌に連載していたものをまとめたものだという。

札幌-地下鉄とバス、マイカーの結合を

沢内・湯田-集落移転と山村生活の改善

仙台-地下鉄は切札たりうるか

郡山-拠点性を高める交通都市

筑波-デュアル・モード・バスの社会実験

高崎・前橋-競い合う双子都市の将来

長岡-ビッグプロジェクトが集中して

金沢-非戦災都市という「災褐」

長野-成功するか「セル方式」

岐阜-計画の自立性と推進力をどう確立するか

掛川-地方の時代の郷土づくり

矢作川-水がとりもつ「共同体」

和歌山-恵まれた交通環境の将来展望

鳥取-過疎の足バスの運命は

岡山・香川(その一)-「本四架橋悲願」の彼方に

岡山・香川(その二)-本四架橋の陰影にも光を

高知-三○万都市への飛躍

北九州-都市の足、モノレール第一号

長崎-突端の町を行く路面電車

宮崎-試練の秋か、パーク・アンド・ライド方式

那覇-ナナサンマルを越えて新しい交通体系を

 おお、「筑波-デュアル・モード・バスの社会実験」があったではないか。ということで、いつまでも終わらない『終わる終わる詐欺』「土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その9)」をいってみよう。

筑波に新交通は本当に必要なのか

 今回のテーマである筑波での新交通システム-デュ アル・モード・バスシステム-の実用化の問題もまた概成期以後の筑波の進むべき道と密接に関連してくる。 すなわち、新交通システムは筑波に本当に必要な都市施設として建設されるのか、それとも研究都市にふさわしい社会実験として試みられるのかである。

 筑波研究学園都市は、職住近接の街である。東京への通勤交通は街の生命線ではない。総事業費一兆円を超えるプロジェクトだけあって、道路の整備状態はよく、九〇%を越す保有率のマイカー交通を支えている。これに路線バス、ハイヤー、自転車、徒歩が加わり、筑波の交通体系が構成されている。「地区内交通の現在の課題 は、自転車専用道網の整備」(石黒氏)といわれるように比較的恵まれた交通環境にある。土浦方面への交通に しても、道路(土浦学園線)にまだ余裕があり、公共交通もバスの増便で対応できそうである。

 つまり、現状は少なくとも都市交通の必須の手段として新交通システムが他の諸都市に先駆けて優先的に敷設されなければならないという状態ではない。しかし、現状はそうであるにしても将来はどうなのか。そこで概成期以後の筑波の将来が、新交通システムをめぐって重要となってくるのである。

東京のベッドタウンにすれば七万人の不足分ぐらいすぐに埋められる、といった乱暴な声もある。筑波の理想を真っ向から否定するため、さすがに大きな声になり難いが、もしこうなれば、たちまち新交通システムは住宅 地と国鉄ターミナルを結ぶ通勤幹線となる。

「地域交通をあるく」50頁から引用

 いきなりであるが、「筑波に新交通は本当に必要なのか」ときた。本来職住接近型の学園研究都市だし道路もしっかりしているので新たな公共交通はいらないのではないかというもの。確かに下図の都市名を見ても多くは既存市街地の路面電車置き換えやニュータウン等のバス・自動車では飽和してしまうような箇所が多そうだ。

都市モノレール・新交通システム 未成線及び事業化路線一覧

公共事業ガイドシリーズ 都市モノレール・新交通システム事業」公共投資ジャーナル社編集部 編から引用。

しかも「七万人の不足」である。これはどういうことかというと、学園研究都市の計画人口約10万人に対して、当時は約3万人に止まっているということである。

 一旦事業化されながら、採算性が合わなくて事業中止になったのはここにポイントがあるのかもしれない。10万人を見込んで事業化したが実際にはその3分の1しか住民がいないので採算がとれないと。。。

デュアル・モード・バスシステムの特性

 こうした中での新交通システムの登場である。計画は研究学園地区の中心部から、常磐線土浦駅まで約一五キロメートル。このうち、研究学園地区内の大学病院-ターミナル間一・五キロメートルが事業決定され、総工費四二億円をかけて着工されようとしている

 筑波の新交通システムは、デュアル・モード・バスシステムと呼ばれ、専用軌道(ガイドウェイ)と一般道路 を同一車両が走り分ける。ガイドウェイ上ではコンピュータのコントロールで無人走行し、一般道路では通常のバスと同様の有人走行となる。ガイドウェイを走行する新交通システムの試みは大阪の南港や神戸のポートアイ ランド等で工事が進められているから、筑波での試みは、デュアル・モード・システムとして初めてのものとなる。

 実は、このデュアル・モード・バスシステムと研究学園都市とはとりわけ縁が深い。学園都市内に移転した建設省土木研究所で、実験コースが設けられ、技術開発が進められてきたからである。「昭和五十三年度末で必要な研究はすべて終わり、あとは実用の段階に入った」(神崎紋郎·建設省土木研究所新交通研究室長)。

 その第一弾が、研究学園都市となったというわけである。

 しかし、建て前は研究学園都市のデュアル・モード・バスシステムが実用化第一号であっても、内実は土木研究所内での実験から、一般市街地での社会実験という性格を持つことは否定できない。「無人運転のガイドウェイ上での客扱いがどうなるか」 (神崎室長)など、研究開発陣も社会実験に強い関心を寄せている。

 事業決定された筑波でのデュアル・モード・バスシステムが、実験的性格を持つといわれるのは技術的領域についてだけではない。デュアル・モード・バスシステム は、どのような都市にどのような目的で適用されるべきか、というソフトウェアの核心に、何らかの解答を引き出すことも社会実験の重要なねらいに違いない。実際今度事業決定された一・五キロメートルは広幅員の街路や歩行車専用道が既設され、ガイドウェイを敷設する必要性は最も少ない地区である。また土浦駅までの延伸計画にしても、職住近接、低密度の研究学園都市を前提とすれば、交通計画的にどれほどの緊張性があるか疑問であろう。そこでの事業化はあくまでも今後の全国的適用のためのパイロット事業的性格を持つのは当然であろう。

 

「地域交通をあるく」51~53頁から引用

 既存の交通手段では飽和していないにもかかわらず、新交通システムを事業化した理由は、筑波にある建設省機関が従前から研究していた「デュアル・モード・バス」が使い物になるかどうかの「パイロット事業的性格を持つ」のだという。

 ところで、筑波での「社会実験」を前にしたデュアル・モード・バスシステムは、どのような特性を持っているのだろうか。

 第一に、電車の定時性とバスの利便性を兼ねる点で画期的なシステムである。ガイドウェイ上は専用軌道であるから最小ヘッド間隔一○秒間で、時速四○キロメート ルの定速走行が可能である。一般路上では、通常のバスとほぼ同じ機能を発揮。ダイヤ走行やデマンド走行で、住宅地や業務地できめ細かいサービスが可能である。

 第二に、地下鉄に比べ三分の一か四分の一のコストで建設できる。しかも、インフラ部分-つまりガイドウェイと支柱-は街路事業とされ、高率の国庫補助制度が適用されるため、施設者、利用者の負担軽減が図れ る。

 第三に、省力化である。ガイドウェイ上の完全無人走行システムが開発されている。運転者はモードインターチェンジと呼ばれる一般道路とガイドウェイの接合点までバスを入れればよい。あとはコンピュータに管理されながら誘導装置に従ってガイドウェイ上を無人走行す る。

 第四に、電気バス方式による無公害化である。バスはガイドウェイ上で送電のほか、バッテリーへの充電を受け、一般道路ではバッテリー走行する。

 こうした特性のデュアル・モード・バスシステム。その適用地として、土木研究所では、①住宅団地と鉄道駅 ②空港や港湾と都心、③鉄道駅とレクリエーション地域などをあげている。つまり、二地点間にある程度まとまった量の交通需要があり、かつ各端末では最終目的地が分散しているケースである。

 

「地域交通をあるく」53~55頁から引用

 「デュアルモードの導入促進に関する調査業務報告書」によると、 「2001年 3 月 23 日、国内初の実用路線として名古屋ガイドウェイバス志段味線(ゆとりーとライン)が開業。」

デュアルモードバス1

デュアルモードバス2

 こんな感じのものが筑波にできる目論みだったということだ。

 「地下鉄に比べ三分の一か四分の一のコストで建設できる。しかも、インフラ部分-つまりガイドウェイと支柱-は街路事業とされ、高率の国庫補助制度が適用されるため、施設者、利用者の負担軽減が図れ る。」というメリットがあるものの、これは建設に係るコストが削減されるだけである。日々の運用の赤字を補填してくれるわけではない。そもそも「筑波に新交通は本当に必要なのか」というような情勢のなかで、新交通システムを運用するに値する需要が疑問視されるような状態では「収支見通しがつかない」として事業中止になるのもむべなるかなといったところだ。

 なにせ、10万人住む計画が3万人しかいなかったのだから。

 そうなると、土浦ニューウェイが想定している「4両編成分の新交通システム」というのは遥かにオーバースペックのような気がする。バス1台でも採算が取れなかったのに。

土浦ニューウェイ (5)

日本交通計画協会機関誌「都市と交通」1985年6号「土浦高架街路」(茨城県土木部都市施設課長 田沢 大・著)から引用。

 そして、筑波でのデュアル・モード・バスシステムの実用化の最も大きな役割は、こうした既存の、あるいは開発途上にある他のシステムや対策との比較に十分耐えられるような生きたデータを社会実験の中から得ることである。将来の適用を考えてデュアル・モード・システムに関心を寄せる人々が欲するデータは、例えば次のような事項であろう。

 道路上に高架建設されるガイドウェイの景観への影響。ガイドウェイの設置可能な道路幅員の目安。ガイド ウェイ上の走行システムの維持管理の容易さ。デュアル・モード・バスの普及によるガイドウェイへの自由乗入れ方式の可能性。片端末、両端末で一般道路走行する場合での運転者の必要数、等々・・・・・・。

 

「地域交通をあるく」56頁から引用

 

 ところで、都市形成の点からも、新交通システムの点からも、概成期という転機を迎えている筑波研究学園都市には、いま科学技術博覧会待望論が起こっている。昭和六十年に科学技術博(万国博)を誘致し、五、〇〇〇億円とも一兆円ともいわれる関連公共投資により、懸案を一気に片付けようというわけである。そうなれば土浦駅から会場までの足として新交通システムも整備されようし、周辺の開発ピッチが上がる。確かに研究学園都市 を中心とする茨城県南部に大きな変化をもたらすだろう。しかし、科学技術博待望論から生まれる帰結は、東京への時間距離の短縮によるベッドタウン化ではないのか。もしそうであるならば、かつては東京一〇〇キロメートル圏を断念し、五○キロメートル圏の筑波に立地決定したとき、当時のプランナーたちの胸をかすめた「過密助長につながりはしないか」という危惧は、はからずも適中することになる。この道は避けなければならない。

 

「地域交通をあるく」56~57頁から引用

 ネット上では「科学万博の足として新交通システムの導入が検討された」という話が散見されるが、この部分を見ても「新交通システムの事業化が先、万博の誘致が後」ということが分かる。

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土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その2)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その3)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その4)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その5)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その6)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その7)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その8)

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2016年1月24日 (日)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その8)

 土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その7) で「やめたいのに?やめられない土浦ニューウェイのネタであるが、多分これが本当に最後。(でもね、多分、きっと。) 」と書いたが、またネタが出てきました。というかこんなにネタがあるのに、なんで調べもせずにデタラメばっかり書く人が多いのん?

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム) (3)

 『東工』90年のあゆみ (日本国有鉄道東京第一工事局)から引用

 なぜ国鉄の工事局の記念誌に載っているのかよく分からないのだが、今までいろいろ探した中で完成予想図はこれしか見たことが無い。

 

 ところで、「60プロジェクトによむ日本の都市づくり」日本都市計画学会 編・朝倉書店 刊http://www.asakura.co.jp/books/isbn/978-4-254-26638-2/の23章が土浦高架街路を紹介している。

■1 時代背景と事業の意義・評価のポイント

1.1 土浦市と筑波学園都市の一体化

 茨城県土浦市は、首都東京より北東60km、筑波研究学園都市から南東10kmに位置し、人口12万人を擁する県南地域の経済・教育・文化の中心都市として発展してきた。首都改造構想(素案、1983)において、土浦市と筑波研究学園都市は、東京を取り巻く自立都市圏の核となる業務核都市に位置づけられており、両市が適切に機能分担しながら一体化する構想であった。土浦市は国鉄常磐線の特急停車駅を擁し、筑波研究学園都市の表玄関口として、都市再開発事業、駅前広場整備等が計画されていた。一方、研究学園都市における大学、国の研究機関等の移転は相当に進歩していたが、都心部の熟成が進んでおらず、全体として都市的な魅力に乏しい状況にあった。筑波における国際科学技術博覧会 (科学万博:1985年3〜9月) は、研究学園都市の今一段の充実を期して誘致したものであった。

1.2 筑波新交通システムの段階整備構想

 筑波研究学園都市の新開発地区は縦長で、北端に位置する筑波大学と中央に位置するセンター地区とを結ぶ、新交通システムの導入が1972年頃から構想され、 将来的には土浦駅まで延伸、結節させる構想 (図1) が示されていた。筑波新交通システムは、1978年には国庫補助による都市モノレール等整備事業(筑波研究学園線、延長1.5km)として採択され、事業化に向けた導入システム、採算性の検討ならびに詳細設計が開始され た。

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム) (4)

 また、筑波研究学園都市建設法に基づき、1980年に策定された「筑波研究学園地区建設計画」において 「新交通システム筑波研究学園線を整備する」ことが謳われた。しかしながら事業化区間である研究学園都市の都心部の熟成が未だしの状況にあること、延伸構想区間である土浦・研究学園都市間の都市開発の見通しも立たないことから、当初はバス又は簡易ガイドウェイバスを走らせ、需要が高まってきた段階で新交通システムに転換する段階的な整備が必要とされ、1982年に至り国庫補助に基づく都市モノレール等整備事業そのものは休止の扱いとなった。 なお、広く県南地域についてみると、首都圏の他の方面と比べ放射方向の鉄道網の密度が低く、国鉄常磐線に集中する交通需要を分散させるとともに、沿線地域の開発を促進することを企図して、常磐新線が構想されていた。しかしながら、当時の国鉄財政は破滅的な状況であり、国鉄を事業主体と想定した構想は暗礁に乗り上げていた。

 

「60プロジェクトによむ日本の都市づくり」日本都市計画学会 編・朝倉書店 刊「23 土浦高架街路」

 そして、上記の「国庫補助による都市モノレール等整備事業(筑波研究学園線、延長1.5km)として採択され」た路線は下図のとおりである。

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム) (2)

公共事業ガイドシリーズ 都市モノレール・新交通システム事業」公共投資ジャーナル社編集部 編 から引用

 ここでも「収支見通しがつかない」とされている。

 また、その断面図は下記のとおりである。

筑波新交通システムの標準幅員

(自動車技術1979年4月号「筑波研究学園都市の新交通システム」大川勝敏・著から引用)

 

1.3 プロジェクトの意義・目的

 本プロジェクトは、土浦市街部区間において、複断面(高架・平面) 構造の街路を計画・建設したもので、 その意義・目的は次の4つである。

(1)中心市街地の交通混雑解消と商業の活性化

 土浦駅東口駅前広場整備とあわせて、都市計画街路の一部を高架構造で整備することにより、一般平面街路上の通過交通を削減し、平面街路の交通混雑を緩和し、あわせて都心部商業地域へのアクセス性を向上させ商業活動の活性化を図る。

(2) 筑波研究学園都市と土浦市を結ぶ交通軸の形成

 当面、土浦駅東口と筑波研究学園都市を結ぶバスのサービスレベルの向上を図る。将来は新交通システムをこの交通軸上に導入し得るよう、高架街路は新交通システムの下部構造として転用し得るよう必要な設計諸元をもたせる。

(3) 国際科学技術博覧会開催時の観客輸送

 科学万博の開催時、土浦駅東口から万博会場へスムーズにバス輸送するため、高架街路は科学万博の開催までに開通させる。

(4) ショッピングモールの設置

 高架街路のうち土浦駅に近い区間は、旧来からの沿道商店街を縦断する形で計画するため、立ち退きを迫られる商店街の移転と中心市街地の活性化を視野に入れたより積極的な対策として、商店街を収容する建物整備と周辺の歩行者空間整備を実施する。

1.4 プロジェクトの評価

 本プロジェクトは、計画及び事業の両面から当時高く評価された。まず計画面では、本プロジェクトは新交通システムの段階的整備の考え方の先行事例であって、高架橋は交通混雑緩和対策 としての単なる高架橋ではなく、将来新交通システムのインフラとして転用し得るよう、計画・建設された点であった。新交通システムの経営には沿線の交通需要が十分に高まる必要が不可欠であるが、需要の低いうちは高架街路上のバスサービスで対応し、需要の高まりを見極めてから、高架街路上に新交通システムの走行路、電力線、通信線等を付加し、従来のバス停を新交通システムの駅へと改造することが段階整備の眼目である。この考え方は、交通需要の相対的に小さい地方中核都市および大都市圏内の周辺都市において、現在も適用可能な考え方である。 次に事業面での第一は、土浦市が実施したショッピングモール事業 (川口ショッピングモール、通称モール505) は、移転を迫られる店舗を一括して高架橋の沿道残地に新築した商業ビルに収容したばかりでなく、高架橋の足下周りに造成された歩行者空間と相侯って、中心市街地に新しい賑わいの都市空間を創出した点である。高架街路上のバス停から直接モールにエスカレーターで連絡したことも併せ、本プロジェクトの計画に反対していた住民からも評価を受けた。 事業面の第二は、高架橋のユニークな設計で、小手先のお化粧の美しさではなく、基本構造型式の根本から景観に配慮して設計した点にあった。完成した高架橋は圧迫感があるのではないかとの事前の予想を超えて軽やかであったし、高欄のデザイン、橋梁の色彩などのデイテールまでの配慮は、その後の各都市における市街地の高架橋設計の手本の一つと目された。

 

「60プロジェクトによむ日本の都市づくり」日本都市計画学会 編・朝倉書店 刊「23 土浦高架街路」

 ネットで検索してみると、「土浦ニューウェイは、土浦の商店街を衰退においやった元凶」という評価が見られるが、その一方で都市計画の世界では高く評価されているのである。

 この事業は、日本都市計画学会の1985(昭和60)年度石川奨励賞を受賞している。

http://www.cpij.or.jp/com/prize/award/list.html

 この「石川奨励賞」とは「都市計画に関する独創的または啓発的な業績により、今後の都市計画の進歩、発展に寄与しうる貢献をした個人または団体を対象とする(会員に限らない)。」ものだそうだ。石川とは私のブログでは三原橋とか都政七不思議で取り上げている「石川栄耀」氏である。

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム) (5)

http://www.cpij.or.jp/com/prize/upload/file/1985.pdf

 学者の評価と市民の評価が正反対であるというのもなかなか興味深いものだ。

 下記の写真はかつての土浦市中心街(「新しい日本」国際情報社刊から引用)

土浦市中心街

■2 プロジェクトの特長

2.1 新交通システムを考慮した高架街路

 本事業は、都市計画道路土浦駅東学園線の土浦駅東口駅前広場 (8,500m2) から市外縁部の桜川に架かる 学園大橋手前までの延長約3km区間を整備したものである。標準断面構成は、平面街路部2~4車線 (幅 25~30m)、高架部2車線(幅7.5m)で、途中高架橋上3箇所にバス停留所を設置している。

 事業の区分は、市道区間である土浦駅東口から桜町4丁目交差点までの延長約1.3km区間が土浦市施行、 県道である同交差点から学園大橋までの延長約1.7 kmが茨城県施行であった。なお、県施工区間、市施工区間とも国庫補助の街路事業として実施されたが 国庫補助金以外の地元負担分は、住宅・都市整備公団が負担した。

 土浦高架街路に係る都市計画決定は、1983年4月に行われたが、その後当該計画に反対する住民による公害調停および都市計画事業認可取り消し訴訟が出された。これらの対応を終え工事着手からわずか約420日で工事を終え、1985年3月科学万博開催前の供用にこぎつけたものである。

 なお、将来の新交通システムとしては、1編成4両(1両当たり75人)、満車時重量18tのものであれば、高架街路をそのまま新交通システムのインフラとして転用することが可能なよう、平面線形および橋梁構造を検討した上で設計した。また、将来の転用に備えて新交通システムの走行路等の設置に必要な鉄筋の受け口を舗装面下に設置済みである。

2.2 移転店舗のためのショッピングモール事業

 高架街路と併せてモール事業を行った区間は、土浦市の中心街の東側の道路の沿線に、旧来からの商店が雑然と並び、それら商店街の裏側は、昼間でも薄暗い一団の街並みを形成していた。高架街路建設を契機として、それら商店街の面目を一新する方向で市と商店街の間に話合いがまとまった。その結果、商業用建物 59棟(RC構造物33戸、鉄骨構造8戸、木造18戸)を高架街路脇に新設した3階建ての線状ビルへ一括移転することが短期間に実現した。また、中心市街地の狭い道路に接して設置されていた市営駐車場を土浦駅 東の霞ケ浦ドック埋立地に移転し、その跡地に高架街路と一体となった線状の歩行者広場整備を行った。多数の樹木、水路・池等を配置するほか、市民が集い 催し物ができるようイベント広場やお祭り広場を設置した。歩行者広場の上を通っている高架橋上には、バスで中心商店街へ来る人達のためにバス停留所が設けられ、停留所から広場へスムーズに乗降できるようエスカレーター2基が取り付けられている。

2.3 都市景観に配慮した軽やかな高架橋

 高架橋の設計にあたっては、施工性や工事の簡易さよりも景観を優先した。

①上部工は、T桁等により底版面の暗さを無くするため、主桁とスラブが一体となったPCホーロースラブ橋とした。また下部工形状との一体感と合わせて柔らかさを出すため、曲線ハンチの入れた逆台形型とした。

②下部工は、コンクリートの固いイメージを取り除き スマートに見せるよう、三味線のバチを立てたような形状とした。 ③また橋面排水のためのドレーンの設置については、橋脚面に10cmの凹みを付け、そこにコンクリートと調和す る亜鉛メッキを施した排水パイプを収納した。

④高欄は、壁高欄とし、外側の水平方向に2本の目地ラインを入れ、視線を横方向に誘導することにより、高 欄の幅広さを感じさせないようにした。

⑤主要道路との交差点、曲線部となる箇所に使用した鋼橋の塗装の色彩決定にあたっては、 シミュレーションを実施したり、模型を作ったりして、明るいソフトな色調で塗装した。

 

「60プロジェクトによむ日本の都市づくり」日本都市計画学会 編・朝倉書店 刊「23 土浦高架街路」

 反対運動を報じる当時のものとして下記のものがある。

土浦高架街路 反対派が阻止行動/ 筑波學生新聞 (19) 1983-12-10筑波大学学生新聞会

https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=19620&item_no=1&attribute_id=17&file_no=1

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム) (1)

■3 プロジェクトのその後

3.1 学園都市における立体街路と新交通システム

 科学万博終了後、筑波研究学園都市は概成し熟成の秋を迎え、1991年度に研究学園都市における新住宅市街地開発事業等を終了することになった。これを契機として、1991年に筑波研究学園地区において立体街路が計画・整備され、1995年に供用された。この立体街路は土浦高架街路の対として位置づけられ、当面は従来型のバスが通行するが、将来は土浦と研究学園都市を結ぶ新交通システムの学園地区におけるインフラ部として転用しうるよう設計された。

 立体街路は、都市計画道路土浦学園線の竹園高校付近から同学園中央通り線の交通ターミナル付近までの延長約1km区間に堀割・地下トンネル形式の2車線街路(幅7.5m) を整備するもので、途中にバス停を 1箇所設置している。また、この立体街路を受け入れるため、都市計画街路学園中央通り線を約1kmにわたって40mに拡幅する事業が行われた。事業主体は茨城県であった。この立体街路の完成により、将来両都市を結ぶ新交通システムの受け入れ体制が両中心市街地においてできあがったこととなった。

 しかしながら未だに新交通システムの導入は実現に至っておらず、2010年末現在、土浦高架街路上には高速バスを中心として5路線、1日12〜13往復のバスが運行されるにとどまっている。

つくば花室トンネルと新交通システム、土浦ニューウェイの関係

 

「60プロジェクトによむ日本の都市づくり」日本都市計画学会 編・朝倉書店 刊「23 土浦高架街路」

 つくば花室トンネルの経緯も書いてある。ここも土浦ニューウェイと同様に「当面は従来型のバスが通行するが、将来は土浦と研究学園都市を結ぶ新交通システムの学園地区におけるインフラ部として転用しうるよう設計された」ものであるとされている。

 巷間で言われるような「新交通システムの作りかけ」ではないことが分かる。

 花室トンネルの様子は、こちらのブログに詳しいので是非ご覧いただきたい。

研究学園の生活 【幻の新交通システム(1)】花室トンネルにある謎のバス停!

http://sciencecity.tsukuba.ch/e240810.html

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土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その2)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その3)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その4)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その5)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その6)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その7)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その8)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その9)

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2016年1月12日 (火)

幻のゆりかもめ「東京駅延伸計画」

 「ゆりかもめ」といえば、豊洲駅でその先に伸びたそうにしているところである。

ゆりかもめ豊洲駅

 東京都が2015年3月6日に発表した「交通政策審議会答申に向けた検討の中間まとめ」では、豊洲から晴海を経て勝どきまでの路線が「目標年次(平成 27 年)までに整備着手することが適当である路線」とされているようだ。

ゆりかもめ延伸

 では勝どきの先はどうするのだろうか?

 現在、東京都では都心から勝どきを経由して臨海副都心に至るBRTの具体化を進めているところである。

 しかしかつては、東京都は勝どきから都心へ向けてゆりかもめを延伸することを計画していたのである。

 それは東京都が1989年3月に発行した「大都市幹線街路調査報告書(昭和63年度)」に掲載されている。

 これはまさにバブル期で「その後青島都政が都市博覧会を中止する」なんてことが想像もできない時期であるが、臨海副都心への将来の交通をどうさばくかといった検討資料であり、題名のとおり幹線となる道路計画を検討したものである。

 そのメニューの一つとして新交通システム「ゆりかもめ」を更に都心へ延伸する可能性、高架について検討している。

ゆりかもめ延伸計画

■東京駅ルート

補助305号線及び放射33号線を利用し、東京駅に接続する。

ゆりかもめ延伸東京ルート2

 東京、兜町、新川、大川端、月島の5駅を新設することとなっている。

ゆりかもめ延伸東京ルート1

 東京駅にはこのように乗入れることを想定していたようだ。

ゆりかもめ東京駅乗入れ

 

■有楽町ルート

 晴海通りを利用し、JR駅に最短距離で接続する。

ゆりかもめ延伸有楽町ルート2

 新築地、東銀座、有楽町の3駅を新設することになっている。

ゆりかもめ延伸有楽町ルート1

 備考(問題点)にもあるように晴海通りには地下鉄が埋設されているため、門型橋脚で通過することになる。銀座の和光前等を高架でふさいでしまうことになる。

 

■新橋ルート

都営地下鉄12号線(大江戸線)と接続し、ゆりかもめを環状線にすることが可能。

ゆりかもめ延伸新橋ルート2

新築地、築地市場、新橋の3駅を新設することになっている。

ゆりかもめ延伸新橋ルート1

 報告書によると、大江戸線と上下一体構造となる高架橋を想定していたようだ。

 バブルもはじけてしまい、ゆりかもめの延伸は当分出番はなさそうである。

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2015年10月25日 (日)

松浦 晋也氏「 日本でなぜそんなにモテる? 実は我が国は「モノレール大国」だった」「同じようでも実は違う! 大阪と東京、二都を走るモノレール」について(その3)

 日経トレンディネットの「新モビリティビジョン 」という連載(執筆:松浦 晋也氏)に「 日本でなぜそんなにモテる? 実は我が国は「モノレール大国」だった」「同じようでも実は違う! 大阪と東京、二都を走るモノレール」という記事が掲載され、触発されたので、私も松浦氏のモノレールネタに便乗した記事の第3弾である。

沖縄モノレール首里駅

 松浦氏は、環状線をキーワードに「同じようでも実は違う! 大阪と東京、二都を走るモノレール」と比較している。 ところで、多摩モノレールは環状線ではないのだろうか?

 公共事業ガイドシリーズ「都市モノレール・新交通システム事業」公共投資ジャーナル社・刊 24頁掲載の「都市モノレール等実施箇所と事業化状況」によると、昭和54年度の東京都の調査路線は「多摩環状線」となっている。東京都も環状路線であることについて意識はしていたようだ。今の路線と54年度の路線の相違が分からないので何とも言えないが。(川崎市は「多摩連環線」だ。環状と連環の違いってなんだ??)

都市モノレール・新交通システム 未成線及び事業化路線一覧

 松浦氏は「現在の北側の終着駅である上北台駅から真っ直ぐ北に向かうと、多摩湖を越えて埼玉県に入り、距離2kmほどで西武線・西武球場前駅がある。環状線の機能を優先するなら、こちらにまっすく路線を延ばすべきだ。」と主張するがどうだろうか。

 現在この区間は西武ライオンズの試合がプリンスドームで開催される際の臨時バスしかないはず。一度、交流戦の埼玉西武ライオンズ対横浜ベイスターズ(田代監督代行のとき!)を観戦する際に乗ったが、環状線の需要があるような沿道の雰囲気ではなかったような。村山貯水湖の堤体に橋脚を建てるわけにもいかないし。。。

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 ところで、東京の環状モノレール構想といえば、私のブログの読者の方ならご存知の方もいらっしゃるかもしれないのだが、「東京都の未成モノレール計画(環5、環6、環7、環8、江東)」ですよ、奥様。

都営モノレール計画(環5、環6、環7、環8、江東)

 東京都首都整備局「モノレール開発計画報告書」から引用。

 松浦氏が「モノレールと新交通システム、仰ぎ見た未来とやってきた現実」で取り上げておられる「エイトライナーとメトロセブン」と路線が一緒じゃないか!と思うが、よく考えるとどちらも環七、環八の上か下を走るのだから当たり前か。。。

(環五モノレールと大江戸線の関係も気になるのだが、この辺は「鉄道計画は変わる。―路線の「変転」が時代を語る」で大江戸線の路線の変遷の経緯を書いた草町義和氏がお詳しいのだろうとブン投げておく。)

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 東京、大阪といけば、名古屋には環状モノレール構想はあらへんのか?というところだが、道路セミナー1976年10月号「新道路交通システムに関する調査費について」建設省道路局路政課課長補佐 沢山民季・著によると、下記のように名古屋の環状二号線沿いに環状新交通システムの調査を行ったようだ。北側には、城北線があるが、東側ということである。

名古屋環状新交通システム

 なお、城北線は、過去の「むにゃむにゃ」な経緯を踏まえて複線非電化で単行のディーゼルカーが大阪モノレールのように環状高速道路(名古屋第二環状自動車道)の横をブリブリいわせながら走る楽しい路線である。

城北線と名二環

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 松浦氏は「大阪モノレールの万博記念公園駅にある入れ替え軌条。雄大で未来感あふれる景観だが、大規模な入れ替え軌条を必要とするのは、モノレールの欠点」と日本でなぜそんなにモテる? 実は我が国は「モノレール大国」だったで述べているが、単に分岐点を見るだけならば、多摩モノレールの車庫への分岐点が楽しい。

多摩モノレールのジャンクション!

多摩モノレールのジャンクション!2

多摩モノレールを満喫し終わったら、立川駅北口のサイゼリアで打ち上げだ。ここの窓際席は、超モノレールビューである。

立川のサイゼリア

この項終わり

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松浦 晋也氏「 日本でなぜそんなにモテる? 実は我が国は「モノレール大国」だった」「同じようでも実は違う! 大阪と東京、二都を走るモノレール」について(その2)

 日経トレンディネットの「新モビリティビジョン 」という連載(執筆:松浦 晋也氏)に「 日本でなぜそんなにモテる? 実は我が国は「モノレール大国」だった」「同じようでも実は違う! 大阪と東京、二都を走るモノレール」という記事が掲載され、触発されたので、私も松浦氏のモノレールネタに便乗した記事の第2弾である。

 前回は、法制面で書き散らかしたが、今回は導入空間について書き散らかしてみる。

大阪モノレール大阪空港駅

環状線という基本構想を貫いた大阪モノレール

(略)

 大阪モノレールはこの2つの条件をかなり満たしている。きついカーブは大阪空港駅から中国自動車道に沿って走るまでのあたりに集中していて、残る路線はかなりの部分が高速道に沿うようにほぼ直線で敷設されていて速度を出しやすい。(中略)

 大阪モノレールで持ち上がっている延伸計画は門真市駅から、東大阪市の瓜生堂まで南へ9km延ばすというもの。延伸区間には4つの駅を新設し、大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線、JR西日本・学研都市線、近鉄けいはんな線、近鉄奈良線の4つの放射状路線との乗り換えを可能にする。環状線という基本コンセプトに忠実な延伸なので、完成するとより大阪モノレールはよりいっそう便利に使えるようになるだろう。

同じようでも実は違う! 大阪と東京、二都を走るモノレール」松浦 晋也著  から引用

 以前、別の記事(「大阪モノレール南伸と都市モノレール死屍累々の調査路線」)でも書いたのだが、大阪モノレールは、もともと北大阪急行の千里中央駅から近鉄の久宝寺口駅までの構想だった。

 「きついカーブ」の大阪空港関連部分は当初の構想外だ。千里中央以南については、大阪の方はお分かりだと思うが、松浦氏の言うような「高速道路に沿うように」というより厳密には「大阪府道中央環状線の上に」走っていることが多い。前回の道路法の理屈でいけば、日本道路公団(当時)の高速道路の附属物ではなく、「府道中央環状線の附属物」としてのモノレールということだろう。下記写真のように場所によってはかなり変態的に窮屈な高架橋の上に軌道が載っている。

大阪モノレールと中央環状線と近畿自動車道

 そして近畿道の門真ICから久宝寺口までは、近畿道と中央環状線の間に場所を空けて待っているかのような空間がある。

 なぜ、門真ICを境に扱いが違うのか?実は、近畿道の門真IC以北及び中国道の中国池田IC以東は、1970年の大阪万博に間に合わせるためにわずか2年の突貫工事で作った区間である。

大阪万博アクセス図

 都市モノレール法が成立したのは、万博の後の1972年であるから、門真IC以南を作る際には、中央環状線にモノレール分の導入空間を最初から取っておいたということだろうか?

 なお、一定年齢層以上の日本人男性にとっては、モノレールといえばやっぱりこいつなのである。

大阪万博モノレール

(「日本万国博覧会公式ガイド」257頁から引用)

バス代替を目指したが、課題を抱える多摩都市モノレール

 表定速度は26.7km/h。主に都道の上を通っているために急なカーブが多く、駅間距離が短いので速度を出せるところも少ない。もうすこし真っ直ぐ路線を通せなかったものかと思うが、大阪モノレールのようにちょうどいい環状に走る高速道路などはないし、この地域はもともとこれらの都道を中心に発達してきたので、乗客のニーズを考えても都道の上に路線を作るしかなかったのだろう(もちろん前回述べた、下の道路と一体と考えて、モノレールに補助金を出すという政策も関係してはいる)。乗ってみると感覚は、郊外のバスそのものである。

同じようでも実は違う! 大阪と東京、二都を走るモノレール」松浦 晋也著  から引用

 

 大阪のようなちょうどいい環状の道路(高速道路じゃなくて府道ね)がないので、「東京は都道の上に路線を作るしかなかったのだろう」と松浦氏は書いているが、実際には都道すらないところをまずは区画整理を実施して公共減歩で都道自体の敷地をひねり出したと思われるような区間が散見される。

多摩モノレールと用地買収

用地ジャーナル1995年10月号「多摩都市モノレール整備事業について」から引用)

 下記は甲州街道駅及び万願寺駅周辺の地形図の新旧比較である。もともと都道すら無かったのがよくお分かりであろう。

 そして下記は区画整理実施中(一部仮換地済)と思われる万願寺駅周辺の地図である。

多摩モノレール万願寺駅付近

(「ワイドミリオン全東京10,000市街道路地図帖」東京地図出版株式会社(1992年1月10日発行)から引用)

 「飛び地」というレベルではない状態。これだけ地名がぐちゃぐちゃということはそれなりに必然があって、土地の権利関係もそれを相応に反映してぐちゃぐちゃなのだろうか。これを区画整理して今のような綺麗な地形に仕上げたということについて地権者をはじめ関係者の御苦労がうかがいしれるものだ。(ちょうど地図の左下に「東京都新都市建設公社(現・公益財団法人 東京都都市づくり公社)万願寺区画整理事務所」という記載が見える。また余談だが、公益財団法人 東京都都市づくり公社には「まちづくり資料室」があってモノレールの資料等も閲覧できそうだ。平日に八王子駅まで行くのはへっぽこサラリーマンにはつらいものがあるが。)

 (その1)では、建設省都市局(当時)の関与については、深く触れなかったのだが、このような土地区画整理事業といった街づくりと一体的に整備していく根拠を与えたというところに都市モノレール法第3条の意義があるのだろう。

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 ところで、都市モノレールではなく、新交通システムなのだが、場所を空けてあったのに、事業化もされたのに、結局工事着手できずに幻の導入空間となったものがある。

 筑波研究学園都市~土浦駅の新交通システムは、1978年度に全体構想のうち桜村(当時)内の区間が事業化され、国の予算もついたのだが、結局採算性の問題から工事着手することなく休止されてしまった。 事業化された区間は下記のとおりである。

筑波研究学園都市新交通システム事業化部分

(公共事業ガイドシリーズ「都市モノレール・新交通システム事業」公共投資ジャーナル社・刊 103頁から引用)

※参考

http://sim.nilim.go.jp/Tsukuba/plan/cp81c.jpg

 また、その断面図は下記のとおりである。

筑波新交通システムの標準幅員

(自動車技術1979年4月号「筑波研究学園都市の新交通システム」大川勝敏・著から引用)

 現在も空地になっている筑波研究学園都市内の新交通システム導入空間については、下記のブログが詳細なレポートを掲載しておられるので是非ご参照のほどを。

研究学園の生活「【幻の新交通システム(5)】センター~大学病院間は用地も確保されていた!

 ところで、私も松浦氏も「死屍累々」という言葉を使っているのだな

その3)へ続く

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松浦 晋也氏「 日本でなぜそんなにモテる? 実は我が国は「モノレール大国」だった」「同じようでも実は違う! 大阪と東京、二都を走るモノレール」について(その1)

 日経トレンディネットの「新モビリティビジョン 」という連載(執筆:松浦 晋也氏)に「 日本でなぜそんなにモテる? 実は我が国は「モノレール大国」だった」「同じようでも実は違う! 大阪と東京、二都を走るモノレール」という記事が掲載され、触発されたので、私も松浦氏のモノレールネタに便乗した記事を書いてみたい。

 別に松浦氏と何か勝負しようというわけではなく、インスパイヤされて私が書きたいことをただグダグダと書き散らかすだけであるが。

 

 ところで日本でモノレールが増えた理由は、モノレールが本当に便利だからというだけではなかった。政府が1972年に都市モノレールの整備の促進に関する法律を制定して、モノレールが市街地の道路の上に非常に作りやすくしたのである。

 見る通り、この法律は非常にざっくりとしたもので、具体的な施策は行政に委ねられていた。そこで運輸省(当時)は、道路法で道路が「トンネル、橋、渡船施設、道路用エレベーター等道路と一体となつてその効用を全うする施設又は工作物及び道路の附属物で当該道路に附属して設けられているものを含む」と定義されていることを利用して、モノレール線路を下の道路の付属物と見なすようにした。こうすると、道路整備関連の豊富な財源をモノレール建設に振り向けることが可能になる。

日本でなぜそんなにモテる? 実は我が国は「モノレール大国」だった」松浦 晋也著  から引用

 道路法は建設省(当時)所管の法律だし、道路特定財源(当時)は建設省所管の財源だ。運輸省が目を付けたからといって勝手に振り向けられるものなのか?

 そこで、「都市モノレールの整備の促進に関する法律」をもう一度よく見てみる。

都市モノレールの整備の促進に関する法律 (1)

都市モノレールの整備の促進に関する法律 (2)

都市モノレールの整備の促進に関する法律 (3)

 運輸大臣と建設大臣が連名で署名している。つまり運輸省所管の法律でもあり建設省所管の法律でもある(共管)わけだ。勝手に運輸省が見做すことなどできない、建設省が決めるのだ。ちなみに建設省の中ではどうなるかというと、第3条は「都市計画において定める」とあるので建設省都市局(当時)の所管、第5条は「道路管理者は~」とあるので建設省道路局(当時)の所管となる。

 さて、道路財源から支出するとなれば、それは道路側にメリットがなければ、整理がつかないのであるが、モノレールに手を出すことに道路側にとってどういう整理がされて、モノレールに対して道路財源の支出を正当化したのか?

 当時の業界誌「道路セミナー」の昭和49年度道路局予算を道路局職員が解説した記事に下記のようなくだりがある。

都市モノレールと道路

道路セミナー1973年11月号83頁から引用

 

 つまり、こういうことか。

路面電車と都市モノレールの関係

 余談だが、都市モノレールのインフラ部分は斯様に「道路」なので、このような3層構造の「道路」も北九州では見ることができる。

北九州モノレールと都市高速道路

 JR小倉駅の中も道路法の道路が入り込んでいる。

北九州モノレール小倉駅1

モノレール小倉駅は道路だった

(財)道路空間高度化機構の「立体道路事例集」115頁から引用(日比谷図書館にあります。)

ここも道路だよ メーテル。。。

北九州モノレール小倉駅 (2)

(この小倉駅のど真ん中にモノレールの駅=道路を設置する際の補償や権原設定の考え方に興味のある方は、「用地ジャーナルアーカイブ」にログインして「モノレール」で検索すると報文が出てくるのでどうぞ。)

 余談だが、トヨタCMの「神打撃」も小倉駅だ。

 他方、都市モノレールでは、ぞれ以前のモノレールのような家の真ん中に橋脚を建てることもない。

姫路モノレール

 では、都市局の関与についてはどうなのか?まとめるのが面倒なので、関心がある方は、「都市と交通」にやたらと新交通システムや都市モノレールの記事が載っているのでその辺にお目通しいただきたい。

 「運輸省が道路財源に目をつけた」というより、「建設省がこれから伸びると思われるモノレールに権限を確保した」とも読めるのかな?或は両省の思惑が一致したと。

 なお、松浦氏が「モノレールと新交通システム、仰ぎ見た未来とやってきた現実」で「良く分からない」とした埼玉のニューシャトルや「間違った未来、新交通システム(その1) 新交通システムは軽便鉄道である」でとりあげた「山万が運営するユーカリが丘線と、西武が運営するレオライナー山口線」は、道路の上を走る「都市モノレール(新交通システム)」ではない。(神戸のポートライナーと大阪南港のニュートラムも港湾区域の上は道路法の道路の上にはないので、軌道法として道路財源でインフラ部を整備するのではなく、鉄道事業法として港湾の金=運輸省の金でインフラ部を整備している。)

 ところで、松浦氏は「政府が1972年に都市モノレールの整備の促進に関する法律を制定」と記しているが、厳密にいうとこれは議員立法である。「この法律は非常にざっくりとしたもの」となっている理由もその辺にあるのかもしれない。「都市モノレールは、建設省都市局と道路局がカネも口も出すよ」と言ってるだけの法律だ。

 「道路法は田中角栄の議員立法で利権がうんたら」とおっしゃる方がいらっしゃるが、都市モノレールが何故に議員立法になったのか、そこに利権はないのか?(提案議員がナントカ製作所とかナントカ重工から政治献金を貰ったりしていないのか?)とかはお好きな方がどうぞ。え、さっきの法律の画像に「総理大臣 田中角栄」って書いてあるって??うーん。総理なら自分で政府にやらせるわなぁ。。。

その2)へ続く。

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2015年7月27日 (月)

大阪モノレール南伸と都市モノレール死屍累々の調査路線

大阪モノレール9キロ延伸計画、府と東大阪市合意へ

 大阪モノレール(大阪空港―大阪府門真市)の延伸計画で、府と東大阪市が負担額について大筋で合意し、今年度内にも事業化を決めることになった。東大阪市は府との協議で、66億円を市で負担する案を検討。今後、70億円程度を上限に、最終調整を進める。松井一郎府知事と野田義和東大阪市長が22日午後に会談し、正式に発表する。

 大阪モノレールは府の第三セクター「大阪高速鉄道」(OKT)が運行する。延伸計画は、現在の終点の門真市駅から、東大阪市瓜生堂(うりゅうどう)まで南に約9キロ。大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線やJR学研都市線、近鉄奈良線などと接続させるために4駅を新設する。

2015年7月22日12時55分

http://www.asahi.com/articles/ASH7Q36T8H7QPTIL007.html

http://megalodon.jp/2015-0727-2218-46/www.asahi.com/articles/ASH7Q36T8H7QPTIL007.html

 「東大阪市瓜生堂」ってどこや?なんで近鉄の駅の真ん中に作るんや?って考えたら、中央環状線と近鉄奈良線の交点なのだな。

大阪モノレール延伸計画

「道路セミナー」から引用(何年何月号かメモが行方不明。。。前後の記事の文脈から1977(昭和52)年頃と思われる。)

 もともと、大阪モノレールは、中央環状線に沿って、近鉄大阪線久宝寺口駅までの計画なのだ。大阪空港は廃港しようとしていたからか当初計画にはなかった模様。

 そのため地図を見ると近畿自動車道と中央環状線の間に、導入空間らしきものが久宝寺口駅まで準備されているのが分かる。(言い方を変えると、久宝寺口駅から美原ロータリーの間は、近畿道と中央環状線の間に導入空間は無い。モノレールの堺延伸を言うのは簡単かもしれないが、現状では設置する場所が無いのではないか。)

 ところで、モノレールについては、

成田山のモノレール未成線 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-b50b.html

東京都の未成モノレール計画(環5、環6、環7、環8、江東) http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-62f0.html

東京湾横断道路併用モノレール(未成線) 新横浜~アクアライン~かずさアカデミアパーク http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-cece.html

と未成線について記事を書いてきたし、未成新交通システム関連の「土浦ニューウェイ」については飽きるほど書いてきたところである。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-85e8.html

 

 先日、「公共事業ガイドシリーズ 都市モノレール・新交通システム事業」公共投資ジャーナル社編集部 編 という本にたまたま出合った。

 そこに1973(昭和48)年から1983(昭和58)年までの「都市モノレール等調査実施箇所と事業化状況」という一覧表が載っているので引用させていただく。

都市モノレール・新交通システム 未成線及び事業化路線一覧

 36都市について建設省(当時)の補助金を使って都市モノレール又は新交通システムの導入調査をしたところ、事業化にこぎつけたのはわずかに?8都市でそのうち1都市は着手せずに事業中止されている(筑波学園都市線については、別頁に「収支見通しがつかないため再検討中。」と書かれている。)。

 また、岐阜市、熊本市、岡山市、鹿児島市といった路面電車を持つ都市がモノレールやガイドウェイの調査を行っていたことも興味深い。

 川崎市の「多摩連環線」とは、前述の「道路セミナー」の記事によると下記のようなもののようだ。

川崎モノレール未成線

 建設省の補助事業となる都市モノレール以前のモノレール構想としてはこちらが興味深い。広報ひめじ昭和39年2月15日号

日本のモノレール一覧

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2015年6月14日 (日)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その7)

 やめたいのに?やめられない土浦ニューウェイのネタであるが、多分これが本当に最後。(でもね、多分、きっと。)

 土木学会関東支部茨城会さんのサイトに「いばらきの建設文化を語る懇談会」という冊子が掲載されている。

 その「第1部 基調講演「茨城の道路づくり」講師:立原信永(元土木部総括技監)」に、ニューウェイのことが書いてあったのでご紹介したい。

 

 次に、土浦高架道路である。西大通の事業手続きを順調に進めていたが、これだけでは不安もあったのか、建設省街路課から仮設駅(臨時駅)から立体街路を造る気があれば協力してもよい旨の話があった

 ① 仮設駅はあくまで臨時のものであり博覧会後は撤去するものである。

 ② 平面道路でも対応できるよう計画している。

として立体街路を造るなら県南の核となっている商業業務都市土浦市と筑波学園都市との連携を強化するため、土浦駅東口広場から市街地を抜けるまでの間(3km)に造りたいと申し入れた。この土浦にできる高架街路で博覧会会場へのバス輸送に使用すれば、サブシステムとしても有効であった。建設省も快く理解していただいた

 立体街路の約半分は土浦市の事業であり、市も是非やりたいということで早速取り掛かったのである。しかし博覧会の始まりまで3年を切っていた。用地買収、補併(※補償の誤植か?)交渉など市区間の方が多かったのである。市は全庁を挙げてこれにあたった。設計にあたっては市街地のため、東京にある首都高速のような構造でなく美観を重視し橋脚を鉄筋コンクリート製のY字型のスレンダーなものとした。上部構造もこれと一体感をもたせたプレストレスト・コンクリート構造とした。一部鋼構造としたがコンクリート色に塗装し一体感をもたせた。実質的工期は1年3ケ月余りで完成した。

 事業の執行にあったては、県土木部の出先である国際博関連公共事業建設事務所(初代所長石崎瑛男、二代目小沼寛)が関連事業の一切を実施していたが、既に実施中の事業で手一杯なので、土浦土木事務所(当時岩間昌平所長)がこの執行機関となり事務所を挙げてあたった。

 博覧会時には東口広場から立体街路を使って、県内のバス会社が50人乗りの普通バスで輸送にあたったのである。

 この街路の意義は、とかく中心市街地の交通混雑解消のため外部にバイパスを造ることばかりでなくこの様に高架あるいは地下トンネルという事もあることを立証したのではないか。間もなく開通する水戸市街地の水戸トンネル、これから造る常陸太田市の市街地のトンネルも同じような役割を果たすものと期待できる。

 

「茨城の道路づくり」立原信永 11頁から引用

 建設省が、科学万博にあわせて万博中央駅から会場へ高架道路の建設を検討したところ、地元としては、一旦は採算性の問題から断念していた新交通の想定ルートにおいて建設を要望したという経緯のようだ。

 なお、この報文には花室トンネルについても触れている箇所がある。

 その後広い幹線道賂も年々交通量が増大し、土浦方面から東大通りの交差点での右折も多くなり、トンネルの道路などもできた。このトンネルは将来土浦学園間に新交通やライトレールを導入する場合にその軌道として転用する事も可能であろう。公共交通機関であるバスやタクシーの優先道路としても活用できるであろう

 

「茨城の道路づくり」立原信永 8頁から引用

 

 この「茨城の道路づくり」は、常磐道や北関東道、東関東道の茨城県内ルート決定の経緯等も紹介されているので、ニューウェイに関心がない方も一読されては如何だろうか?

http://www.jsce-ibaraki.com/publication/h14conference.pdf

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土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その2)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その3)

土浦ニューウェイ(筑波研究学園都市新交通システム)について(その4)

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