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2021年9月24日 (金)

「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(25)

 前回の記事「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(24)」で、「西武って公文書に載っているからといって何が本当かよくわからん」と書いたところである。

 で、今回はよく使われる資料について検証してみたい。

 

 西武新宿線の新宿駅延伸にあたって、最も引用されていると言っても過言ではないのが、新宿区立博物館が企画展示にあたって発行した「ステイション新宿」の「西武新宿線東口乗入れ計画」の頁である。

ステイション新宿における西武線新宿駅乗り入れの経緯

「ステイション新宿」82頁から

 鉄道趣味関係の書籍等ではここをほぼ丸写ししたようなものも珍しくない。


 ようやく1950年代の中頃になって、新宿駅舎を取り壊して新たにステーションビルを建設する計画が立ち上がった。その際に発表された「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」によれば、西武新宿線は高架でビルの2階に乗り入れ、2階にホームと出改札口を設け、高架下に歩道が設けられることになっていた。

 

「そうだったのか、新宿駅」 西森聡・著 交通新聞社・刊 89頁から

 しかし、西森聡氏はコピペもまともにできないようで、「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」を「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」と書いている。

 もっとも、国鉄や新宿ステーションビルの資料を見ると「百貨名店街ビル」が正しいようだ。新宿歴史博物館の「ステイション新宿」も「百貨名店街ビル株式会社創立事務所発行の「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」によれば」としており、意図的に使い分けているのかもしれない。単純な誤植かもしれない。よくわからないが、いずれにせよ西森聡氏の「そうだったのか、新宿駅」は間違いだ。

 このように、多くの鉄道趣味誌やネット記事では「2階にホームと出改札口」としている。

 しかし、実際には1階にも西武線の改札は予定されていた。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)

 これは1964(昭和39)年に竣工した「新宿民衆駅=新宿ステーションビルディング」に係る国鉄社内誌「東建工」1965(昭和40)年2月号である。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (30)

 1階の「びゅうプラザ」のあたりは元々西武線の改札だったことが分かる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (31)

 2階の改札の他に3階には西武の駅長室があったことも分かる。

 しかし、1階の改札や3階の駅長室の存在が鉄道趣味誌に取り上げられることは稀である。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (9)  

 旅客流動図を見ると2階改札33に対して1階改札51の比率になっており、1階改札口がメインであるにも拘らず、鉄道趣味誌は頑なにその存在を無視するのである。

 何故か。それは国鉄の竣工図面を見ずに、「ステイション新宿」をコピペしているからではなかろうか?

 そして、最終形の「新宿ステーションビル」の図面を見ずに、「ステイション新宿」に出てくる「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」頼りになっているからではなかろうか?

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 そもそも、「新宿東口民衆駅百貨(店)名店街ビル」とは何なのか?

 これも上記の国鉄社内誌「東建工」1965(昭和40)年2月号「特集 新宿東口民衆駅」に出てくる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (33)

 「新宿民衆駅は、髙島屋と伊勢丹、西武等が競願した(なので調整に時間がかかった)」ということをご存じの方は結構いらっしゃると思う。

国鉄新宿民衆駅(新宿ステーションビル、マイシティ、ルミネエスト)の経緯

 ざくっと並べるとこんな感じで大きく3つの会社の流れがある。伊勢丹や西武は真ん中の地元系と組んで、左側の髙島屋系の放逐を図った。その他の流れとして「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」が出てくる。

 実は、多くの鉄道系ライター諸氏が後生大事に引用してくる「ステイション新宿」に出てくる「設計図」は、競願大手3社の中で一番傍流の会社の案にすぎないもので、実際にはその後主流3社が合意した後に、国鉄や西武鉄道等と協議して最終の図面となったのである。それが「東建工」掲載の図面だ。

 では「ステイション新宿」が間違ったり嘘を書いたりしているのかというと、これはあくまでも新宿歴史博物館の企画展の図録であって、同博物館の貴重な途中段階の所蔵図面を紹介しているのだとすれば問題ない。

 問題なのは、その辺の経緯を無視したのか、最終段階の図面と思い込んだのか、横着したのか分からないが、さも最終段階の設計図であるかのように書いたりする鉄道系ライター諸氏等が問題なのである。


 1950年代終わり頃から、新宿東口駅舎を取り壊して駅ビルを建設する計画が立てられた。西武もこの計画に参加し、新宿線は駅ビルに乗り入れる予定になった。新宿歴史博物館の「ステイション新宿」では、新宿駅ビル設計図によると、西武線はビル2階に高架線で乗り入れ、2階には切符売り場・駅務室、1階にも駅務室が置かれる設計であったとされている[5]。

[5]新宿歴史博物館(編)『ステイション新宿』新宿歴史博物館、1993年、116頁。

 

wikipedia「西武新宿駅」2021(令和3)年9月23日閲覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85

 

 あくまでも途中経過の案の一つに過ぎない「百貨名店街ビル」の設計図であることを削除してしまったため、あたかも最終形の設計であるような記事となっており、ウソペディアの面目躍如である。

 


 1964年には、東口に駅ビル(現・ルミネエスト新宿)がオープン。西武新宿線のホームが接続する北側の2階には、駅の業務室などを設けるスペースが確保された。

 

「西武「大久保駅」構想は、なぜ幻となったのか 新宿乗り入れの裏に隠されたルートと新駅」草町義和

https://toyokeizai.net/articles/-/85651?page=2

 


1950年代後半になると、駅前の整備が進み始める。駅舎を取り壊し、「新宿民衆駅ステーションビル(現ルミネエスト)」の建設が始まった。西武はこのビルへの接続を予定していたのだ。新宿歴史博物館が編さんした「ステイション新宿」によると、鉄道はビルの2階に乗り入れ、改札も2階の予定だった。同館には当時の設計図の写真が残っている。

 

「西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画」河尻定 日本経済新聞「東京ふしぎ探検隊」

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000/

 河尻定氏は、「ステイション新宿」からコピペする際に、「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であるとせずに、そこを(どういう意図があるかは、はかりかねるが)カットしてしまった。

 実は、西森聡氏の「そうだったのか、新宿駅」では、正確ではないにしろ「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であると明示していたため、「これは最終形ではない」という逃げ道にはなったので、「まだマシなコピペ」だったが、河尻定氏の場合は、そこをカットしたため、「読者にこれが最終形であるという誤認を与える結果」となっている。流石日本経済新聞の記者は違うなー。 

 そしてもっと酷いのが次のページである。

日経新聞河尻定編集長の西武新宿線延伸に係る酷い記事

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000/?page=2に赤字で加筆

 まず、本来は「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であるところ、河尻定氏は、何を考えたか「新宿民衆駅ステーションビル」の設計図としている。西森聡氏の「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」は、コピペも満足にできないんですか(藁ですむところ、河尻定氏の「新宿民衆駅ステーションビル」は改竄に近い。上記に私が国鉄の資料を基に整理したように、元々新宿歴史博物館にある設計図は競合三社のうちの一つであって、施行にあたる最終的な設計図ではないことを説明したが、河尻定氏のキャプションは、そこを「ステーションビル」という言葉を使ってあえて最終形かのように誤認させるものである。

 これが意図的なものなのか、日経の校閲担当も含めた単純ミスなのかは分からないが、西森聡氏に比べて悪質さが格段に違う。

 また、更に酷いのが、設計図を上げた後に「実はこのときの計画の痕跡が今も残っている。ルミネエストの建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」と続くあたりである。

 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 分かりやすく説明するために、1961(昭和36)年12月に発行された「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」の2階部分を載せてみる。

 「新宿東口民衆駅百貨(店)名店街ビル」の設計図とは、若干形状は異なるが、図上の右上(方角だと北西の角)に改札が出来て、西武線のホームは高田馬場方面に向けてビルの外側に設けられている。

 こういった構造を前提にすれば、「1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」(日経記事)どころか、「1階の吹き抜けと西武線の乗り入れは関係ないことがわかる。」とすべきだろう。

 

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 「ステイション新宿」の内容の検証に戻りたい。

 


 実際にビルには旅客用の入口が開けられ、中には改札のラッチも搬入され、高架線の基礎もいくつか作られました。

 

「ステイション新宿」新宿歴史博物館・刊 82頁から

 ここもよく引用される部分である。 

 ところが、駅の設計図と異なり、「ステイション新宿」の当該頁には、その「ネタ元」が書いていない。 

  いろいろ調べてみたところ、下記がネタ元ではないかと思われる。


 電車はステーション・ビルの北西の角までいく予定だったのですが,ビルには旅客用の入口の穴があいていまして,中に改札のラッチまで入れてありました.高架橋の基礎もいくつかつくったはずです。

 

 「西武特集 変貌する西武鉄道の輸送を語る」における長谷部和夫 西武鉄道常務取締役運輸計画部長(当時)の発言から

 鉄道ピクトリアル1992(平成4)年5月臨時増刊「特集 西武鉄道 18頁から

 

 鉄道ピクトリアルの特集が発行されたのが1992(平成4)年5月で、新宿歴史博物館の「ステイション新宿」は1993(平成5)年10月なので、時系列的にも問題ないだろう。

 ただし、西武長谷部氏が「高架橋の基礎もいくつかつくったはずです」としているところを、「ステイション新宿」が「高架線の基礎もいくつか作られました」と断定しているところが気になるが。

 なお、新宿ベルクの店長が「ベルクの店内の柱は西武新宿線乗り入れ用の柱だ」とツイートされているので、そのような形で基礎がビルの中に埋め込まれているのだろう。

 

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 ということでまとめ。

「ステイション新宿」を西武鉄道の新宿駅乗り入れのネタ元に使う際の注意点

〇「ステイション新宿」に載っている設計図面は最終形のものではなく、各社競合していた案の一つにすぎない。

〇「ステイション新宿」に載っている設計図面は「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル設計図」と書かれているが、実際の会社名は「百貨名店街」である。

〇西武鉄道の新宿駅乗り入れについての設計図面は、駅ビル竣工後に発行された国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号を確認すべきである。

〇「ステイション新宿」に載っている「改札のラッチも搬入」等のエピソードは、前年に発行された鉄道ピクトリアル臨時増刊「特集 西武鉄道」に掲載された西武鉄道の取締役のインタビューがネタ元と思われるため、何かの根拠とするには、鉄道ピクトリアルを根拠とする方が無難。

 この他、新宿駅への西武乗り入れの図面については、下記の資料も有効である。 カラーで見やすいし。

 

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<おまけ> 

 新宿区立新宿歴史博物館つながりでこの際言及しておく。 

 新宿区や新宿歴史博物館は、「民衆駅」というのが固有名詞ではなく、制度の名称だということがイマイチ理解できていないようである。 

新宿区は民衆駅という制度名と新宿ステーションビルという固有名詞をちゃんぽんにするのはやめておくれ (2) 

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=6914 

 「民間資本導入による建設運営のため、当初は「新宿民衆駅ビル」と呼ばれた。」 

というキャプションがついているが、雑に言うと「民衆駅」=「 民間資本導入により建設運営される駅」という制度なので、当初もくそもなく永遠に民衆駅は民衆駅だし、新宿以外にもいくらでも民衆駅はある。

 それをなんか「新宿民衆駅」というオンリーワンの固有名詞と勘違いしているようなんだな。 

新宿区は民衆駅という制度名と新宿ステーションビルという固有名詞をちゃんぽんにするのはやめておくれ (1) 

 こちらは、新宿区政70年記念誌「新宿彩(いろどり)物語~時と人の交差点~」143頁からの引用だが、 

「民衆駅は、すぐに「新宿ステーションビル」と改称され」 

とあるが、上記の雑な年表や、東京都公文書館のツイートでも分かるように、「新宿民衆駅」が開業後に「新宿ステーションビル」に改称されたのではなく、開業前から「新宿ステーションビル」である。 

 制度面の「民衆駅」と会社の固有名詞の「新宿ステーションビル」は改称も何も並列可能だが、新宿区役所総務課は理解できないようだ。 

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2021年9月20日 (月)

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(24)

 1964(昭和39)年5月18日に駅ビルが開業することになったが、そこには新宿線の新宿駅は設置されていなかった。実は計画段階の新宿線は最大6両編成だったが、同線の輸送量は年々増加し、8両編成の列車が運転されるようになっていた。悲願だった国鉄新宿駅への乗り入れは断念せざるを得ず、西武新宿駅を改良して使用することとなった。

 

「仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解喜幸 「トラベルMOOK 新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊 103頁から

 西武新宿線が国鉄新宿駅に乗り入れを断念した理由としては、まあだいたいこんな感じで語られている。

 

 ところで、国立公文書館には、実際に西武鉄道が新宿駅への乗り入れを断念する旨運輸省(当時:現・国土交通省)に提出した公文書が保存されている。

 それが下記の文書だ。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (4)

 その件名もズバリ「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」だ。

 運輸大臣に対して、1963(昭和38)年12月7日付で提出した「西武新宿線の新宿駅連絡区間工事施行認可申請書」を取り下げるというのである。

 そして「別紙の理由」が下記のとおりである。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (5)

1.西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。

2.国鉄新宿駅東口民衆駅の建築は待つこと久しく昭和36年頃より具体化されて参りましたので、同駅迄の乗入工事を実施するため、この件に関し国鉄との間に同年11月8日協定を締結し又それと略々同時期に東京都及び建設省より乗入れの線路及びホーム建設のため駅前広場及び道路の一部を使用する許可を得たのであります。

3.当時西武新宿線の旅客輸送は他の近郊電車と同様将来とても六輛編成で足るとされたものでありますが、その後輸送量 特に高田馬場以西に於ける増加は急上昇を来たし、近い将来八輛編成の運行は必至の事態となつたのであります。そのため新宿乗入ホームも八輛編成に応じて延伸する様企画を変更し、その先端付近を拡巾するため国鉄山手貨物線側の用地使用の増大及び反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大等について長時日に亘り再三再四交渉を重ねて参つたのであります。これ等については関係各

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (6)

当局に於ても出来る限りの便宜を与えられる様努力せられたのでありますが、諸種の事情によりホーム巾を充分拡大することが出来ない儘八輛用のホームとして工事施工認可を申請したのであります。

4.右様の次第で当社申請の新宿東口駅はそのホームは1本で而も先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より八輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたのであります。一方新宿線の輸送量は前記の通り八輛編成を絶対必要とし、又混雑時の運行間隔から見るとき高田馬場或は歌舞伎町駅(現西武新宿仮駅)での車輛分割は到底出来ませんので、以上のような経緯もあり、これまでの 先行投資も少なくありませんが遺憾ながら東口への乗入を断念せざるを得ない状態となったのであります。

以上の様な経緯及び理由によつて新宿駅東口乗入のための工事施工認可申請書と、これに関連する工事方法一部変更認可申請書の取下げを御願いする次第であります。

 ちなみに、wikipedia様はどんな感じかというと、 

しかし、島式ホーム1本の6両編成用発着線2線分(当時)というスペースしか確保できず、輸送量が急増していた西武新宿線のターミナルとするには狭過ぎた。そのため、乗り入れ計画は中止された[5]。

[5]新宿歴史博物館(編)『ステイション新宿』新宿歴史博物館、1993年、116頁。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85#%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%E4%B9%97%E3%82%8A%E5%85%A5%E3%82%8C%E4%B8%AD%E6%AD%A2

2021年9月19日閲覧

 実際には、西武鉄道は「新宿乗入ホームも八輛編成に応じて延伸する様企画を変更し」たが、「先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より八輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたので」「東口への乗入を断念せざるを得ない状態となった」というのである。

 「8両編成のホームでは狭すぎたんだから、実質的には『6両編成用発着線2線分(当時)というスペースしか確保できず』と一緒やんけ、何をケチつけとんねん」

とおっしゃる方もいらっしゃるだろうが、西武は8両化対応の努力はしていたが、国に不適当と指摘されて断念したということは記録に残したいよねという気持ちはある。

 

 「その先端付近を拡巾するため国鉄山手貨物線側の用地使用の増大及び反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大等について長時日に亘り再三再四交渉を重ねて参つた」とあるが、「反対側併行道路の車道部分の縮小乃至は上空使用の拡大」というのは、東口側の駅前広場と靖国通りとの間の車道を狭くするか、東北新幹線の東京駅北側の区間のように道路の上空を占用して線路幅を広くしたいということであろう。

 では「国鉄山手貨物線側の用地使用の増大」とはどういうことか。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (34)

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (39)

 上図は「東建工」1965年2月号「特集:新宿民衆駅」41及び107頁から。

 元々、西武線の新宿ステーションビル(後のマイシティ、ルミネエスト)乗り入れにあたっては、山側については山手貨物線が支障になるので移設する予定であった。

 それを8両編成用のホームにするために更に山側に移設できないかということであろうか。

 

 「混雑時の運行間隔から見るとき高田馬場或は歌舞伎町駅(現西武新宿仮駅)での車輛分割は到底出来ません」というのは、新宿駅には6両しか入れられないので、高田馬場駅か歌舞伎町駅で2両を解結する案も一応検討したということか。

 (西武は、新宿駅直通後は、西武新宿駅を歌舞伎町駅と改称するつもりだったことが分かるのも興味深い。

 

 なお、交通新聞社のムックに掲載された結解喜幸氏の「8両編成の列車が運転されるようになっていた」と西武鉄道の公文書の「近い将来八輛編成の運行は必至の事態となつたのであります」の違いについても一応指摘しておこう。

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 西武の申請取下げの公文書にいう「当社申請の新宿東口駅はそのホームは1本で而も先端附近は相当長い部分が狭小でありますため、監督局より入輛ホームとしては危険多く不適当なる旨指摘されたのであります。」について、裏取りをしてみる。

 

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (10)

 西武が提出した「西武新宿線の新宿駅連絡区間工事施行認可申請書」は、まず運輸省の現地機関である関東陸運局に提出され、そこから運輸省本省に上申されている。

 それに対して、運輸省鉄道局土木課?が「照会」ということで注文をつけている。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (8)

土木課照会

 新宿停車場における西武新宿寄りの乗降場の巾員は、当駅の乗降客数量からみて特に狭隘であり危険と認められるから拡巾するよう再調すること。

土木課備考

1.技術上の審査は上記照会に対する回答をまって処理したい。

2.照会を文書をもって会社に通知する場合は、事前に連絡されたい。

 実際には、土木関係以外にも信号とか線路・ポイントとか各種の照会事項がこの文書には記載されているのだが、「技術上の審査は上記照会に対する回答をまって処理したい」とあるように、ホームが「特に狭隘であり危険と認められる」ことの「再調」の結果が出せないと他の課題の解決にも進ませないというほど強烈なハードルだったわけである。

 

 当時の報道もみてみよう。1965(昭和40)年3月16日付の朝日新聞は下記のように乗り入れ断念を報道している。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (71)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (19)

(「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 37頁から引用)

 両方の記事に見られるのは「運輸省側が建設計画に難色を示した」「運輸省関係の勧告もあり」という運輸省側からの働きかけであり、西武の提出した公文書との整合がとれている。

 後年の鉄道趣味誌よりもよっぽど正確に撤退の事情を伝えているではないか。

 鉄道趣味誌といえば、当時の鉄道ピクトリアルにこんな記述がある。

4.西武鉄道の新宿乗入れ

(略)

 西武鉄道は,現在の西武新宿駅から国鉄線に平行して延伸し,青梅街道を架道橋で渡り,道路及び東口駅前広場の歩道上は高架構造とする.この上にホームを1面(8両編成)新設して民衆駅の2階のレベルとし,客扱はホームの終端部分にある民衆駅構内で扱う予定である。

 

「変貌する新宿駅」菅原操・今泉清一(国鉄本社停車場課)著 「鉄道ピクトリアル」1964(昭和39)年1月号22頁から

 西武が苦し紛れに?「狭隘」と指摘されながらも8両編成のホームで「西武新宿線の新宿駅連絡区間工事施行認可申請書」を提出したのが、1963(昭和38)年12月7日付だから、時系列的には鉄道ピクトリアル1964(昭和39)年1月号に8両編成のホームと記されていても齟齬はない。

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 ところで、西武の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」提出のあとはどうなったのか。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (2)

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (3)

 申請書は返付しましたよ。この区間の免許は失効しましたよ。ということである。

 

 駅ビル内にあった改札や駅長室等についてはどのような扱いとなったのだろうか?

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (16)

「 新宿ステーションビルディング30年の歩み」新宿ステーションビルディング社史編纂委員会・編 社史年表153頁から

 新宿ステーションビル(マイシティ、ルミネエスト)が西武の持ち分を買い取って商業施設に改装したようである。

ルミネエストの吹き抜けと西武線ホームの位置関係

 上図は、現在のルミネエストのフロアガイドの2階部分と「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」(1961(昭和36)年12月)の比較である。

 この他にも1階の「びゅうプラザ」部分も西武鉄道の改札が設置される予定だった箇所だ。国鉄が西武から買い取ったのかもしれない。

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 上記にもステーションビルによる西武駅機能部分の買い取りの話が出ているが、西武の「新宿駅乗入に関する申請書取下げ願書」に、「以上のような経緯もあり、これまでの 先行投資も少なくありませんが遺憾ながら東口への乗入を断念せざるを得ない状態となったのであります。」とある。

 具体的にどの程度の「先行投資」があったのか。

 国鉄の「東建工」1965年2月号「特集:新宿民衆駅」に具体の数字が書かれている。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)

新宿ステーションビルの、国鉄、会社(新宿ステーションビル)、西武の費用負担や財産帰属については、下記のとおり整理されている。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (36)

  見てもさっぱり分からんかも。ご覧になる環境では字が小さくて見えないかも。枢要の考え方の部分を下記に拡大してみる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (37)

  ステーションビルの西武専用部分と公衆利用分の一定割合を西武が費用負担して国鉄の財産となっているようだ。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (35)

 西武鉄道は約5600万円を負担しているようだ。 そして、この部分は乗り入れ断念に伴ってドブに捨てた形になったのだろうか?(上記の考え方によると西武が費用負担しても財産の帰属は国鉄にあるようなので。)

  「西武が乗り入れるために2階の構造は補強されていた」といった説があるのだが、それならこの表の「く体」部分の費用負担割合の考え方にそれが反映されていてもよさそうなんだけど、そんな記載は見当たらない。実際にビル内には電車は入ってこないので大した補強は要らないのではないかなあ??

 「東建工」1965年2月号「特集:新宿民衆駅」については、

西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(19)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-f353a5.html

に詳しく紹介しているのであわせてごらんくださいませ。

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 なお、wikipedia様には、こんな理由もあげられている。 

西武新宿線が新宿駅まで乗り入れていないのは、新宿駅東口の駅ビル建設に西武グループが反対していたからだという説もある。当時、まだ小規模であった西武百貨店池袋本店のある池袋に、当時百貨店として強力な力をみせていた三越・伊勢丹が池袋進出を検討していた。このうち新宿に本店を擁していた伊勢丹では東口駅ビルへの髙島屋の新宿進出が取りざたされていて絶対阻止の構えであった。そこで伊勢丹が池袋出店計画をやめる代わりに西武が高島屋の新宿出店を反対するという取引が交わされ、駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れられなくなった[4]。

[4] 広岡友紀『日本の私鉄 西武鉄道』毎日新聞社、2009年、198頁。ISBN 978-4-620-31938-4。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85#%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%E4%B9%97%E3%82%8A%E5%85%A5%E3%82%8C%E4%B8%AD%E6%AD%A2

2021年9月19日閲覧

 広岡友紀氏の言うように「駅ビル建設に反対する立場になった西武は新宿駅へ乗り入れられなくなった」のなら、ステーションビルに約5600万円を負担したり、駅ビル完成後の昭和40年まで8両編成のホームができないか粘ったりしませんやねえ。

 伊勢丹、髙島屋と西武の関係については、当時こんな風に紹介されている。

 第二条件として西武鉄道の乗り入れである。西武はかねて高田馬場から新宿歌舞伎町まで西武線を延長していたが、何とか新宿駅まで乗り入れたかった。それを牧野氏(引用者注:牧野良一元法務大臣。各百貨店と地元商店街等との仲介役だった。)を通じて申し入れたのである。これも国鉄の要望もあって三者の承認することになる。これが高島屋を更に不利にした。西武と伊勢丹の関係は意外に深い。一つの見方には相互の不可侵条約を云々するのもいる。伊勢丹が池袋に敷地を持っているがこれは建てない。そのかわり西武は新宿に手を出さないという平和条約である。その意味からか、西武は新宿に電車を乗り入れても建物そのものには手を出さない、という条件が附されている。伊勢丹―西武の同盟で、ますます高島屋のかげは薄くなった。

 

「怪談・新宿民衆駅 伊勢丹に敗れた髙島屋」針木康雄・著 「財界」1959(昭和34)年9月号41頁から

 伊勢丹と西武の「同盟」と西武鉄道の新宿駅乗り入れの関係については、広尾友紀氏とは真逆の書き方である。

ここでは詳しく触れないが、先に上げた「 新宿ステーションビルディング30年の歩み」28~29頁にかけても、髙島屋、伊勢丹、西武、地元の合意後の西武鉄道の乗り入れ方針に係る合意事項も掲載されている。

 個人的には広尾友紀氏の説は「両論併記」にすら値しない「独自の説」と考えるが如何であろうか?

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 ところで、西武の乗り入れ断念の話とは時期が違ってくるのだが、とても興味深い話が書いてある。

「1.西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。」

 で、鉄道趣味誌の扱いはどうかというと

 なぜ国鉄の新宿駅まで線路が伸びなかったといえば、当時の新宿駅東口は戦後の区画整理・整備復興が行われていたからだ。

 

「仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解喜幸 「トラベルMOOK 新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊 103頁から

 もともと大ガードから東口駅前に伸びていた旧西武鉄道軌道線の軌道敷を利用して国鉄新宿駅の隣接地に乗り入れる計画だったのだが、東口一帯の区画整理がなかなか進まなかったため、仮設の駅が設けられたのである。

 

「そうだったのか、新宿駅」 西森聡・著 交通新聞社・刊 89頁から

 と、交通新聞社の出版物は「区画整理」説である。

 他の出版社も見てみよう。

 昭和23(1948)年に高田馬場~新宿間の免許を取得。しかし、新宿駅の区画整理がつかず、そこで高田馬場駅から新宿形に線路を2キロメートル延伸し、西武新宿駅を昭和27年3月25日に暫定措置で開業した。

 

「知れば知るほど面白い 西武鉄道」辻良樹・編著(当該部分は牧野和人・著)洋泉社・刊 164頁から

 ネットの鉄道記事も見てみよう。

終戦直後の新宿駅周辺は区画整理が進んでおらず、西武村山線の乗り入れ場所に関しては関係機関との調整が必要でした。そのため西武は「とりあえず建設できるところまで建設しよう」と考えたようで、新宿駅から北へ約400m離れたところに仮設の駅を設置。1952(昭和27)年に高田馬場駅と仮設駅を結ぶ区間が開業しました。

 

「「無印」新宿駅から約400m 西武新宿駅が離れている歴史事情」 草町義和・著 「 乗りものニュース」

https://trafficnews.jp/post/80098/3

 ところで他の公文書ではどうなっているか?

 当該区間の工期を度々延期しているため、そこについて西武鉄道と運輸省のやりとりが残っている。

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (14)

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (15)

 西武側の延期理由は、

「目下國有鐵道にて改良御計画中の新宿駅と綜合的に考慮す可き特殊の事情が生じて居る関係であります。」

としている。

 これに対して、運輸省側の整理では

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (13)

「国有鉄道新宿駅改良工事設計未了のため事情已むを得ないと認む」

としている。

 その後も何回か延期が繰り返されているが

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (12)

西武新宿線国鉄新宿駅(マイシティ・ルミネスト)延伸撤退公文書 (11)

 運輸省としては

「新宿民衆駅(国鉄)との設計協議未了のため」

が基本線である。

 

 ところで、私は以前

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-65c5.html

において、戦前からある国鉄の旧新宿駅駅舎へ西武鉄道が乗り入れている、1956(昭和31)年時点の図面(早稲田大学が堤家から寄贈を受け所蔵)をアップしている。

 当該図面は、リンク先をご覧いただくとして、西武の

「西武新宿線は国鉄新宿駅東口迄の延長を昭和23年3月29日附でご免許を受けたものでありまして、その全線建設は昭和27年3月25日開業の高田馬場―西武新宿仮駅間の工事と同時に実施する様希望して居つたのであります。しかるところ現国鉄新宿駅東口の民衆駅舎建築が当時既に企画されて居つたため、関係当局より同ビルの建設時迄、当社線の東口乗入れを待つ様にとの勧告を受け、その時期迄待つた次第であります。」

の当初目論見の段階の図面だったと思われる。

 

 ただし、「西武って公文書に載っているからといって何が本当かよくわからん」ことが山積しているのも事実である。

 例えば、上記の草町義和氏もこの公文書を読んだうえで(内容を見ているとこの公文書を踏まえていることが分かる)あえて区画整理が進んでおらず」「関係機関との調整が必要」と書いているし、「区画整理が進まないので国鉄の駅の改築計画が進まず関係機関との協議の結果工事が遅れた」という趣旨で草町氏が書いたのであればそれはそうだろうし。

 

 とは言っても、公文書で「西武は最初から国鉄新宿駅に乗り入れるつもりだったのに、民衆駅との協議のせいで待たされた」旨書いている以上は、「区画整理未了」を理由とする方は、それなりの根拠をお示しいただく必要はあるのではないか。

 新宿駅東口は闇市があったりしたので、駅前広場の造成等は区画整理が必要だったのは分かるが、西武の乗り入れにはさほど支障が無いように見えるんですがね。

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2021年4月29日 (木)

構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(23)

西武鉄道のプレスリリースにいきなりこんなのが出た。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (96)

西武新宿駅の乗換利便性向上による新宿線のさらなる沿線価値向上のため、「西武新宿駅と東京メトロ丸ノ内線新宿駅をつなぐ地下通路」の整備に向けた検討・協議を進めます。

 私のブログでもしつこく記事にしているように、ここらあたりには、計画が二転三転というか頓挫した未成計画ばかり眠っている。

 ざっと経緯を整理するとこんな感じだ。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (97)

 ネットでは「マイシティ2階の計画がやっと形を変えて復活」みたいなことを書いている方もいらっしゃるが、実際には、その後の地下複々線化の亡霊の復活でもあるし、サブナード地下街の幻の「西武新宿駅-国鉄新宿駅直結2期計画」の復活である。 

  

 ざくっと過去の経緯をおさらいしていこう。 

  

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■ 西武新宿線 新宿駅への二度の乗り入れ断念  

 私のブログを読んでいただいている方なら十分ご存じかとは思うが、「新宿ステーションビル=マイシティ=ルミネエスト」の2階に西武新宿線が接続する計画があった。 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (1)  

 現在の新宿駅東口の駅ビル「ルミネエスト新宿」の2階北側には、天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった。

 

「なるほど西武 仮駅が本駅となった西武新宿駅」結解義幸・著 トラベルムック「新しい西武鉄道の世界」交通新聞社・刊

 

 ときどきこんなデマをばらまく困ったライターや出版社がいるが、実際には

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 こんな感じでホームと吹き抜けは全く関係ないことが分かる。

「新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(18) 」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-66d29f.html 

 にこの辺は紹介してある。 

  

 なお、西武の社内報には 

「当初新宿への地下鉄乗入線を予想し地下での乗換えの便を考慮して、終点附近は地下に潜ぐる様考えたのであるが、(中略)これを断念」 

 との記載がある。 

 詳細は 

「西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(17)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-98776e.html 

 を参照されたい。 

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 さて、西武のプレスリリースの末尾に 

【参考】

「新宿駅北東部地下通路線」について(新宿区)

https://www.city.shinjuku.lg.jp/kusei/toshikei01_000001_00016.html

「新宿の拠点再整備方針~新宿グランドターミナルの一体的な再編~」について(東京都都市整備局)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/topics/h29/topi063.html

 

 と参考リンク先があげられている。 

 ここに興味深い資料がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (94)  

「都市計画変更素案について 東京都市計画道路 特殊街路 新宿歩行者専用道第4号線 東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」 

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

 今回の地下道は「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」として都計決定されるように手続きが進められているようなのだが、この資料の脚注に興味深い一文が添えられている。 

参考

西武新宿駅~東京メトロ丸ノ内線新宿駅間の地下歩行者ネットワークについては、西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)の改札外コンコースとして整備される予定であったが、現在、東京都において都市計画変更(廃止)に向けた手続き中。

 

 そして上記図面にも「西武鉄道新宿線複々線化計画(地下急行線)【都市計画廃止手続き中】」との記載があり、緑色で西武新宿線が「メトロプロムナード」まで伸びているのが分かる。

 これが二回目の西武新宿線延伸構想の跡地である。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (92)

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (93)

 上図は、「西武新宿線 西武新宿-上石神井間複々線化事業 環境影響評価案の概要」15~17頁から 

 新宿アルタ横あたりの地下6階に新宿線のホームが出来て、その上に西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が「改札外コンコースとして整備される予定」だったと。 


西武新宿線 新宿―上石神井駅間複々線化計画 無期延期決定 費用の膨張理由に

 

 輸送力の増強を目指し、西武新宿―上石神井駅間の約十二・八キロの地下に、新たに急行線を走らせて複々線化する事業計画を進めていた西武鉄道は、建設費が当初見込み額を大幅に上回る見通しとなったことなどを理由に、事業の無期延期を決定し、十九日までに沿線自治体の中野区に伝えた。

 西武鉄道は八七年十二月、運輸省の特定都市鉄道整備事業計画の認定を受け、複々線化予定区間の運賃に十円上乗せし、工事費を積み立て。九三年に都の都市計画決定が下り、昨夏には建設省に工事施行許可を申請、手続きはほぼ整っていた。

 ところが、ラッシュ時の乗客数は九一年をピークに下降気味。当初は千六百億円と見込んでいた総事業費も、地下水の水位が予想より高かったことや、現在の西武新宿駅をJR新宿駅寄りに移動することにしたことなどから、約二千九百億円に膨れ上がることがわかった。

 このため、同社は複々線化を延期せざるを得ないとし、十九日には、特定都市鉄道整備事業計画の認定取り消しを運輸省に申請。これまで十円を上乗せしてきた区間では、乗客への還元を図るとしている。同社広報課は「計画を無理に進めれば、工事費の負担は運賃にはねかえり、逆にご迷惑をかける」としている。

 

1995(平成7)年1月20日付読売新聞から

 

 といった理由で事業は中断された。 

西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-dd3c.html 

 西武鉄道新宿線(西武新宿駅~上石神井駅間)の複々線化計画の廃止にあたっての質疑で下記のような記載がある。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf

 「西武新宿駅とJR線や丸ノ内線との乗換経路の改善について(略)当社としても積極的に乗換改善に努めていきたい」

 地下複々線事業計画を廃止して、新たに地下道のみ新設する手続きが東京都や新宿区等による「新宿グランドターミナルの一体的な再編」の一環として行われることになったわけだ。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (95)  

https://www.city.shinjuku.lg.jp/content/000309906.pdf 

  

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■ 幻となった新宿駅への地下道直結計画

 現在、西武新宿駅と東京メトロ・JR新宿駅はサブナード地下街とメトロプロムナードによって迂回する形で連絡されている。 

 今回、ここを直結する地下道が実現しようとしている。 

  

 ところで、西武では昭和30年代に、西武新宿線を新宿ステーションビルに乗り入れる計画と並行して、ここを直結する地下道の構想があった。 

 先日までヤマダ電器があった西武新宿駅のトイメンのビルを「西武フロントビル」として地下街と一体開発するものだった。 

 その資料が早稲田大に保存されており、 

「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-aa77.html 

 に紹介してある。 

 ザクっというと「国鉄新宿駅に西武新宿線を乗り入れても西武として今更東口に活用の余地はなく、地下街と西武フロントビル等で一体として開発する方が投資としては有効ではないか」というものであり、この計画が実現していえば、ヤマダ電器ではなく、西武百貨店新宿店がそこに建っていたかもしれない。 

  

 その後、サブナード地下街計画が具体化し、 

 「昭和37年2月20日には有志が会合」「まず最初は、西武プラス歌舞伎町振興会で動き出した」と「新宿サブナード30年のあゆみ」29~30頁にある。 

  西武は、「西武新宿線のステーションビル乗り入れ」と「サブナード地下街による西武新宿駅と新宿駅の直結」の二本立ての計画を推進していたのである。

 しかし、西武線乗り入れ断念後の1967(昭和42)年に西武百貨店社長だった堤清二は、「会社としては地下街会社に出資しない」旨を創立事務所に伝えている。(「新宿サブナード30年のあゆみ」から) 

  

 ご存じのように1965(昭和40)年に、西武新宿線は新宿ステーションビルへの乗り入れを断念している。 

 鉄道と地下街の二本立て計画の両方を止めたわけだ。なぜだろうか? 

 そのヒントとなるのが、1964(昭和39)年の堤康次郎の死去かもしれない。 

 堤康次郎亡き後の西武の事業について、このような記述がある。


 事業の世界では義明はまだ赤子同然で、このような巨大な組織を継ぐには未熟かつ経験不足であった。父親は彼に、10年間は何もするなという遺言を残した。

(略)

 義明はグループの事業内容を隅々まで掌握するまで、しっかりと満を持して学ぶべきである、というのが康次郎の意向だった。とりわけ、新規事業は固く禁じられた。10年経てば状況も変化する。その時こそきちんとどう動くかを決める時なのだ。

 

「血脈 西武王国・堤兄弟の真実」レズリー・ダウナー・著 常岡千恵子・訳 徳間書店・刊 242頁から

 

 ひょっとしたら、この一環で両事業がストップした可能性もあるんじゃないかなあなんて夢想している。

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 ところで、西武の資本参加はなくとも、サブナード地下街は、西武新宿駅と国鉄新宿駅を直結する構想を実現しようとしていた。1964(昭和39)年に策定された地下街の「基本構想」には第二期計画として盛り込まれている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (17)  

 しかしこの計画は実現しなかった。


「道路幅は全体で25m(国鉄寄り歩道4.4m、民地側歩道3.8mを含む)。16.80mのみが車線である。地下建物の地表への階段出入口(幅員3m)をとるためには、歩道を両側7mにしなければならない。すると残りの車道は11m幅になる。これだと、車線確保はギリギリであり、しかもS形にカーブしていて、車輌運行上の危険がある。しかもこれは地下駐車場から地表へのランプ設置場所が確保できない」。

 「協議会(※引用者注 新宿地下駐車場第2期計画国鉄寄り協議会)」はこの案を断念するしかなかった。ただし将来構想としては、残されているのである。

 

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 55~56頁から引用

 このように1970(昭和45)年に、地下道による直結の道も閉ざされてしまった。

 

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 これは余り知られていないが、都営大江戸線と西武新宿駅を地下道で直結する構想もあった。

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (3)  

新宿区「新宿駅周辺にかかわる諸問題について」答申付属資料 1982(昭和57)年 から 

 都営地下鉄12号線(大江戸線)のルートや駅の配置が現在とは異なるが、これは現在のリニアメトロが導入される前のルートである。 

  今や新宿西口駅の場所も変わっており、実現は不可能だったということか。

 ただし、上記答申附属資料には、今回の「東京都市計画通路 新宿駅北東部地下通路線」にあたるような地下道の構想も見られる。 

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (5)  

 これが都市計画決定するまで40年かかった(途中地下急行線がらみの動きはあったが)ということか。 

(参考) 

「西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(16)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-727461.html 

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  鉄道マニヤ、未成線マニヤの一部には、今回の動きを受けて

「次は、西武新宿線の東京メトロ東西線への乗り入れだ!」

 と期待している方もいらっしゃるようだ。 

 しかし、地下急行線廃止計画手続きにおける質疑では下記のような回答が出ている。 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (99)  

https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/kiban/pamphlet/pdf/pamphlet_111.pdf 

 「交通政策審議会の答申に位置付けていない」「東京都としても具体的な計画はない」 

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 ところで、今回の記者発表を受けて、こんなツイートがあった。

 そう、今回記者発表あった4月26日は堤康次郎氏の命日なのである。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (98)  

 実に堤会長没後57年を経た命日でのプレスリリースであった。

 冒頭のプレスリリースにはこう書いてある。

この度、新宿区により「新宿駅北東部地下通路線」の都市計画手続きが開始されたことを受け、当社は本通路の事業予定者として、都市計画決定後の本通路の早期実現に向け、具体的な検討および関係者との協議を進めてまいります。

https://www.seiburailway.jp/news/news-release/2020/20210426_shinjyuku.pdf

 西武グループの新宿駅東口進出は、まだ始まったばかりだぜ!!

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2020年8月31日 (月)

豊島園遊園地モノレール「空飛ぶ電車」は国鉄三木忠直の指導で日立が作った「弾丸列車の試作品」

 西武のとしまえん遊園地が営業終了するという。

 ところで、私のブログの趣旨でいけば、豊島園のモノレールに触れなければならない。

日立と豊島園モノレール (2)

日立と豊島園モノレール (3)

日立と豊島園モノレール (1)

 メーカーの日立製作所の技報に世界の実用車と肩を並べて堂々と遊園地の遊具が載っている。

 これには訳がある。西武の社内報に下記のような記事が掲載されている。


 今中央広場に偉容を誇っている「空飛ぶ電車」は、もう七、八年前にできたものであるが、当時国鉄の技術研究所で、三木さんが研究されて居った「モノレール電車」の構想が、某新聞に載って居ったものにヒントを得て、同氏の指導を受けながら、車体を日立製作所の笠戸(山口県)工場で製作させ、架構を清水建設に建設させたものである。今年になって上野公園にやっとできた東京都が日本初めてと自称する懸吊電車も、とうの昔豊島園にできていた「空飛ぶ電車」と同構想のものである。この際「空飛ぶ電車」という名称の名付親は宮内常務であることを附記しておく。

 

「復興社の事ども(3)」 復興社事業部長 加藤 肇

「西武」昭和33年5月15日号掲載

 文中「国鉄の技術研究所の三木さん」といえば、旧軍の航空機研究者で戦後国鉄に入り新幹線の開発に寄与し、その後日本エアウェイ開発等でモノレールの普及にも携わった技術者である。 

 三木氏の報文にも豊島園のモノレールに触れたものがある。 

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (2)  

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (3)  

国鉄三木忠直と豊島園モノレール (1)  

「モノレールについて」三木忠直(国鉄技研、客貨車研究室長:当時)「電気鉄道」1957(昭和32)年1月号  

 豊島園のモノレールについて「我国でもこの方式(引用者注:懸垂鉄道)のものを子供の乗物ではあるが昭和25年に作った」としている。 

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 では、開業当時の報道を見てみよう。 

豊島園モノレール6  

1951(昭和26)年3月31日 付け朝日新聞

豊島園モノレール  

1951(昭和26)年3月31日 付け読売新聞

 読売の方に気になる書きぶりがある。 

 東京-大阪間を二時間半で走るというわが国最初の”空飛ぶ電車”は国鉄技術研究所三木技師を中心に研究が進められてきたが試作品が完成、来月一日から豊島園にお目見えする

  遊園地の遊具ではなく、思いっきり「試作品」とされている。 

 あわせて当時の新聞広告を見てみよう。 

豊島園モノレール5  

1951(昭和26)年3月31日 付け読売新聞

「世紀の驚異!空飛ぶ電車!出現!」 

 

豊島園モノレール2  

1951(昭和26)年4月7日 付け読売新聞

「東京-大阪を2時間で走る弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車!出現!」

 

豊島園モノレール3

 

1951(昭和26)年4月21日 付け読売新聞(夕刊)

「東京-大阪を2時間で走る弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車」

  

豊島園モノレール4  

1951(昭和26)年5月26日 付け読売新聞(夕刊)

「東京-大阪を2時間で走る空中弾丸列車の試作」「空飛ぶ電車」

  

 一回一回微妙にキャッチコピーが異なっている。 

 なお、広告のイラストではプロペラが強調されているが、新聞記事では朝日と読売でプロペラの役割が異なっている。 

 としまえんのウェブサイトでは 

懸垂型プロペラ推進方式を計画していましたが、推力が出ないために台車をモーターで回す方式に変更しました。」 

http://www.toshimaen.co.jp/final.html2020年8月30日閲覧 

 と書かれている。 

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  三木忠直が所属していた国鉄の鉄道技術研究所が創立50周年記念講演会で東海道新幹線構想の実現可能性について触れたのが1957(昭和32)年5月である。

 「弾丸列車の試作品」である豊島園モノレールの完成から6年後だ。 

 場合によっては、豊島園のモノレールが新幹線の原型と言われていたかもしれない。 作った工場も同じだし。

 サンダーバードでも高速モノレールが出てきたし。 

 なお、三木忠直は、国鉄退職後、日本エアウェイ開発で懸垂式モノレールの普及に貢献した。下記の東京~千葉のモノレール構想(未成)が一例である。その後の湘南モノレールや千葉都市モノレールにも参画しており、さしずめ豊島園モノレールは、湘南モノレールや千葉都市モノレールのお兄さん格であるといって差し支えないだろう。

千葉モノレール

1962(昭和37)年1月9日 付け読売新聞

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 なお、豊島園ローラースケート場では堤康次郎の葬儀が1964(昭和39)年4月30日に行われている。 

 各界から弔電が寄せられているが、広尾の堤邸を訪れたこともある俳優アラン・ドロンのそれを抜粋しておこう。

 「堤会長の逝去の報、ただ今拝受いたしました。生前なみなみならぬ親愛の情うけたまわりましたこの偉大な人の逝去に深くお悔やみ申し上げます。ご夫人に謹んで弔意を呈したてまつります。 アラン・ドロン」

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2020年5月17日 (日)

安比奈、是政、河辺 西武鉄道の砂利事業の往時を社内報から掘り上げてみる

 元来、2.5次元とか擬人化には興味がないのだが、故あって西武鉄道ネタにはまって堤康次郎所有の安比奈砂利採取場の図面等をアップしたりしていると、そういう方面のお姐さま方からリアクションをいただくことが増えた。

 また「乱脈の帝都電鉄界」などという見出しだけでご飯がすすむ層もいらっしゃることに気づかされた。

乱脈の帝都電鉄界  

(1936(昭和11)年10月15日付東京朝日新聞) 

 そういったなか、安比奈砂利採取場の実態も明らかでない部分があるようにお見受けしたので、西武の社内報から砂利事業の関係部分をコピペしてみた。 

 まずは、西武社内報1961(昭和36)年4月15日号4面から安比奈砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(13)

復興社初の砂利事業

素人ばかりで創業の苦心

安比奈砂利

 当採取所は川越市の北を流れる入間川流域を砿区として、砂利・砕石などを生産しています。

位置

 西武新宿線南大塚駅より西へ約四粁、安比奈線の終端、入間川の河岸にあります。

沿革

 当所は復興社が最初に建設した砂利採取工場で、創設のいきさつは次のとおりです。

 入間川の砂利採取はその歴史も古く、大正十二年ごろ埼玉県直営事業として始まり、一時は県費の大きな財源であったといわれ、現在の引込線は大正十五年ごろ敷設されたものと聞いています。旧西武鉄道東村山、高田馬場間建設工事が開始されるや道床砂利を出荷 するため、引込線を河川敷内に敷いたが、当時のこととて昼夜兼行で人力によって採取し、その大半をまかなったと土地の古老たちが語っています。
当所の創立は昭和二十一年で、同年建設に着手し、二十二年生産に入りました。当時現場の幹部は工場建設も砂利採取も経験皆無で発足したときのいろいろな失敗や貴重な教訓は、堤会長の著書「人を生かす事業」にも書いてあるとおりです。

 発足当初は木造船二隻で始めましたが、この船はもともと砂船を解体し組み立てた老朽船で、作業の不馴れもあり修理に要する時間が非常に多く、暴風、水害等の場合は船が分解するのではないかと心配するほどで、従って生産能力も上らないため、改造に改造を加えて努力してまいりました。しかし、大きな成果がないままついに昭和二十五年、会長の大英断により日本最初の鉄鋼大型の利採取船を建造し、始めて面目を一新した次第です。

 一方貨車輸送の面でも、当初は蒸気機関車によって南大塚駅までの引き上げをしていましたが、けん引重量が少ないため、途中で貨車を切り離したり、入換中に作業不能になって川越機関庫まで給水に戻るという笑話のようなこともありました。しかし、それも鉄鋼船建造と同時に引込線電化が完成し、二十五年下期より本格的な生産に入り、二十七、八年の最盛期には採取船も五隻となり、月産三万トンの関東第一の工場に発展しました。

 その間西武デパートの第一・二期工用砂利の大半を納入したほか、池袋線、新宿線の道床砂利も毎日一こ列車ずつ運行し、一日の貨車入換が五回におよぶほどに事業も伸びたのですが、三十二年ごろから砿区の荒廃、縮少により、逐次採取船を他事業所に移勘しました。

現況

 三十五年四月開設以来十四年間、主として砂利の生産だけであったところへ反発式四型砕石機を新設して、砕石工場を併設するように変貌いたしました。 新たに「バックフオー」で切り込みを採取の上、水洗選別機により砂利、砂、砕石原料を分類するようになり、砂利、砕石の工場として再出発した次第です。

 初めは砕石の生産出荷も不順でしたが、近ごろは埼玉県西南部でも住宅団地を始め大工場の建設が活発で、砂利、砕石の需要が目立って多くなり、また、大宮、浦和方面へも道路用砕石を自動車によって発送しています。

 今月に入ってから最高一日一千トンを出荷する日もありますが、さらに、近く埼玉県朝霞にオリンピック村が建設される見込みなのでますます発展を予想される状態です。

 当所としては、この間狭山市鵜木に三万坪の公園建設に伴なう砂利採取を始め、安比奈工場付近に約六千坪の砿区をすでに確保し、大型可搬式砂利採取機によって増産をはかるつもりです。

将来への抱負

 今後私どもは当社最初の開設採取所という誇りをもって、ますます増産に努力し、月産二万五千トンの目標を達成の上、古い歴史のある引込線その他の各設備を十分に活用し、過去の最盛期に近い成績を早急に上げるよう、従業員一同、一致協力して邁進する所存です。

(小山記)

 

 ついで、西武社内報1960(昭和35)年10月15日号4面から是政砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(10)

砂利部門の草分け

 深堀採取船で増産進む

 是政砂利

砂利部門草分けの地

 中央線武蔵境駅で西武多摩川線に乗り換え終点の是政駅で下りると、東方に二十五万平方メートルの砿区 (今は大部分水面)と事務所、倉庫等の諸備をもつ是政砂利採取所が広がっています。

 戦後荒廃した国土の復興に寄与しようとの考えから始まった復興社の砂利部門が最初に木造採取船一隻で生産を開始したのがこの採取所で、言わば当社砂利部門草分けの地であり、砿区も採取船も逐次増加され、採取の方法も幾度か改変されはしても、常に東京周辺に於ける砂利採取の重要事業所と して「良質の多摩川産砂利」の名のもとに都内各地に輸送された総量は実に数百万トンに及び、建物に道路に、国土の復興に大いに役立って来たと自負している。

類のない深掘採取船

 年々需要に追われ、増産につぐ 増産は普通型砂利採取船二隻による砂利の採取で、七年間に十五万平方メートルの砿区もついに人造池に化してしまった。

 普通ならばこゝで砂利採取の事業は終止符を打つところであるがボーリングの結果、深さ十メートルまではまだ砂利層であることが確認されたので、何等かの方法によって全部が採取できないかということが問題となり、加藤事業部長の発案で関係者が種々検討を加えた結果、他に例をみない深掘採取船が建造されて昭和二十九年四月に進水した。

 これは偏えに、日頃からの会長殿の指導にもとずく遊休施設の活用が形を変えたものであって、当社技術陣の研究と現場の努力で更に磨き上げられた他に類をみないすばらしい着想であると考える。

 この採取船の就役によって、一旦は水面と化した十万平方メートルの砿区も再び生産の場を得て、従業員も安心して増産に励むことができ今日に至っている。この間において、砂利を採取しつゝ競艇場の建設に従事したことも忘れられない思い出である。

設備と作業の概要

 当初は採取船によって八分砂利だけを採取していたのが、新小金井の旧関東石産(現当社小金井砕石工場)に原料玉石を供給するようになり、年をおってその生産量は増加し砿区の拡大ならびに製品の多種需要に伴なって、陸上選別機を逐次設置し、貨車積の合理化を計って今日に及んでいる。元来本採取所は堤防の外側の平地から採取しているので、洪水等による流入砂利は望むべくもなく、採取すれば池となってしまうので前記の深堀船が考案されたものである

 深掘船は船体の主モーターは五十馬力で、バケットコンベアーによって深度十メートルまで掘さくし、受船と操舟機により水上曳航して着船場につく。ここからガソリンカ ーによって原料ビンに投入され、水洗装置で各種のサイズに選別さ れ、玉石は直接貨車に積み込まれ小金井砕石工場へ送って砕石の原料となる。砂利、砂は先年までは貨車輸送であったものが、近内自動車輸送の発達によりほとんどがダンブトラックに依存するようになった。現在では西武運輸の出張所が是政にあって大半を都内所の需要地に送っている。

 この是政本工場に隣接している常久採取所では、採取船ならびにドラグラインにより直接にダンプトラックへ原料を積み込み、更に下流の調布採取所では、ドラグラインにより採掘したものを同様の方法によって、是政の三基ある水 洗機に輸送し前記同様製品化している。

 以上の設備を次に列記すれば

 水洗機 三基

 深堀採取船 三隻

 普通採取船 二隻

 ドラグライン 二基

 受船 十隻

 操舟機 四台

 ダンプカー 二十台

 ショベルローダー 一台

という大きな規模の綜合工場を形成している。

結び

 是政及び常久の献区は前記のように砂利をほとんどとりつくしたので、先に中河原の埋立によって紙上に紹介されたとおり、国土計画の手によって埋立工事が開始され、是政二万五千平方メートル、常久三万平方メートルがすでに埋立を完了して引き続き継続中で、毎日延千五百台のダンプトラックが、多摩川対岸の稲城山より山の切取土砂を運んで埋め立てているので、近い将来実に三千万平方メートルに達する一大住宅地が造成されるであろう。今更ながらわれわれの従事している事業の東大なことと、会長殿の事業の偉大さに驚くとともに、この作業に従事できることに誇りをもつものである。

 いままた第三水洗機の完成を見この事業の更に飛躍する時期にあたり、月産四万トンを六万トンに引き上げ御期待に答えるよう最善の努力をつくしたい。 (細田記)

 

 最後に、西武社内報1961(昭和36)年8月15日号4面から河辺(かべ)砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(15)

砿区広げ増産に拍車

良質安山岩の砂利生産

河辺工場

 

位置と現況

 中央線立川駅で青梅線に乗りかえ約三十分、河辺駅で降りると正面に見えるのが萩島石材工業(株) 河辺工場である。(徒歩七分)
工場の南側には二本の貨車積込線があり、専用側線で河辺駅と結ばれている。工場には選別及洗条プラントとクラッシャー(破砕する機械)プラントがあり、二つの櫓を中心にそれぞれベルトコンベアーとバケットエレベーターで結ばれている。

トラックで河原から進んでくる原石はプラントに間断なく送りこまれ、クラッシャーが原石を喰む音が威勢よく響いている。製品は品種別に貯えられ、トラックでひんぱんに運び出されている。

沿革

 当工場は大正十四年河辺砂利合資会社として発足、河辺駅から約一キロの専用側線を敷設し、多摩川でとれる良質安山岩の砂利類を生産していた。(この地域の砂利は元宮内省御用のもので富士火山系に属する。)

 昭和三年に昭和石材社と改名、二十二年株式会社に組織替えし、三十一年九月堤会長の傘下に入り西武鉄道・復興社から資金援助をうけ財政的に安定した。三十五年六月本社の設計指導で工場を大改造して、現在のような近代的設備となった。その結果、生産は急速にのびて、三十四年度、月産五〇〇〇トンだったものが三十五年度は一三、〇〇〇トンと増加した。

 三十五年九月不動産課の尽力により、いままでの砿区の上流に約二倍に相当する広大な新砿区を入手することができ、ようやく赤字工場の汚名を返上して黒字経営に出発する機会を得た。同年十一月萩島石材工業(株)と合併し、同社河辺工場として、今日に至っている。

工場のあらまし

工場敷地 一万三千平米

多摩川砂利砿区 五万五千平米

設備

選別洗条プラント=砂利類用、砕石用各一棟。ホッパーベルトコンベア附帯設備=原石用、砕石用各1式。インペラーブレーカー=一基、パワーショベル=一台、ブルドーザー=一台、ショベルローダー=一台、専用側線=1キロ

私たちの信条

 従業員一同は、昭和三十一年堤会長のけいがいに接してから、心機一転して業績向上に励んできました。幸い会長はじめ関係各位の一方ならぬ御指導により、今日のような立派な工場に生れ変ることができました。 私たちはこれに報いるよう感謝と奉仕の信念を身につけ、今後ますます増産に励む覚悟であります。

(石井)

 

  

 詳細な社史が無い西武鉄道関連では、西武の社内報が、貴重な一次資料である。 

 私は、

■公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館http://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp/sanko_tosyo.html 

■早稲田大学大学史資料センターhttps://www.waseda.jp/culture/archives/ 

を利用させていただいております。 

 

 皆様の妄想の「深堀掘削」にお役に立ちましたら幸いであります。

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2020年2月 8日 (土)

新横浜駅の土地を買い占めた元国鉄職員の名前、顔写真は?国鉄時代の経歴も!どうやって新幹線が来るって分かったの?~「東海道新幹線沿線の不思議と謎」栗原景・著発刊記念


―買い占められた新幹線用地(抄)

 

 1959(昭和34)年頃、篠原地区に、大阪の不動産業者を名乗る男がやって来て、地権者から土地を買い取っていった。(略)

 実は、この人物は鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた。1958(昭和33)年に東海道新幹線計画が持ち上がると、そのルートは弾丸列車計画に沿ったものになるに違いないと読み、いち早く土地の買い占めに動いたのである。バックには、大手企業グループがついていたといわれる。

 

「東海道新幹線沿線の不思議と謎」栗原景・著 実業之日本社・刊 92・93頁から引用

 

 この「大手企業グループ」による新幹線新横浜駅周辺の土地の買い占めについては、諸説あって警察も捜査したりしているにも拘らず、真相は明らかになっていない。当該不動産業者も積極的に嘘を流したりしているもんだから余計に訳が分からない。

 今回、栗原景氏が新刊で迂闊にも触れてしまったので、改めて整理したい。

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 栗原景氏の記事の根拠になっているのは、当該鉄道省OBの不動産業者が朝日新聞に答えたインタビューと思われる。


新横浜駅周辺 最大地主は西武グループ 30年前、買い占めがあった

 

カギ握るブローカー 当時の状況を語る

 買い占めに当たった大阪のブローカーはいま76歳。このほど30年ぶりに初めてインタビューに応じた。(抄)

  

 --新横浜の土地買収の真相は。

 「私が先代の西武鉄道会長、堤康次郎氏に話を持ち込んだ。」

 --だれから情報を得たのですか。

 「だれからでもない。私は戦前、国鉄の前身の鉄道省大阪鉄道局にいて、新幹線の原型となった『弾丸列車計画に携わった。新幹線のルートや駅は弾丸列車と同じと確信していた」

  

 朝日新聞1992(平成4)年3月7日付夕刊 

 「いや、新聞のインタビューで本人がそう語ってるやん。お前は何を言いがかりつけてんのさ。」と言われるかもしれない。

 ところが件の不動産ブローカー氏はとんだ狸なのである。


 数年前横浜プリンスホテル開業前、朝日新聞横浜支局の佐藤という記者が私宅に来られ横浜プリンスホテル開業に至る横浜土地物語を書くので、協力して欲しい、色々とうわさを聞いているので協力して欲しいと云われましたが、全部私がやった事で国鉄等にも西武にも何の関係もない、勿論裏金で買った事等触れて居ません。又、近江鉄道に対する景色保障支払いの事等一切触れずに終わりました。その後も、度々私宅に電話せられ逢って呉れと云われたが、一切触れずに終わらせました。故に、朝日の記事でも西武さんに都合の悪いことは一切報道されていません。

 

「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 128頁から引用

 ちーん。朝日のインタビューは西武との関係を隠すための嘘だってさ。

 ちなみに、朝日の記事は1992年3月で、光文社の本は2005年2月発行だ。朝日の記事は、「新横浜プリンスホテル」開業の半月ほど前に出された記事なので時系列的には同じもので間違いなかろう。

 じゃあ、「堤義明 闇の帝国」に書いてあることが正しいのかというと、実はそうでもない。こっちも負けずに矛盾点が出てくる。

 不動産ブローカー氏は、わざと言っているのか、ぼけてきたのかは別にして言うたびに話が違うのだ。裏取りせずには怖くて迂闊に使えないのだ。

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新横浜駅を買い占めた不動産ブローカー氏  

  件の不動産ブローカー氏は、中地新吾氏である。

  中地氏が取材等に対応しているものは、私が確認した範囲では、

  前述の朝日新聞インタビュー、「堤義明 闇の王国」に加え、疑惑当時の週刊新潮(7巻44号、1962(昭和37)年11月発行)くらいである。

  ここでは、週刊新潮の記事をもとに、中地氏はどんな人物なのか整理していく。


 警視庁捜査二課は、東海道新幹線の新横浜駅周辺の用地買収をめぐり、国鉄当局と土地会社の関係について内偵をすすめてきたが、さる9日朝、日本開発株式会社と、その東京出張所など数カ所を背任の疑いで一斉に捜査した。押収された証拠書類は、トラック2台分あったといわれているが、警視庁では、日本開発の中地新吾社長(42)が新横浜駅予定地を的確に知って土地を買い占め資金十数億円を担保なしで銀行が融資した点について疑惑をいだいているようで、「徹底的に追及する」といっている。

 

疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号94頁から引用

 当該記事の掲載された中地氏の顔写真が上に掲載したものである。

  その記事に、中地氏の経歴が掲載されているので、栗原景氏が書くように「鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた」というにふさわしいものか見てみよう。


 ところで、中地氏がいかに敏腕だったにせよ、国鉄の出身者だけに、それだけで、正確な情報をより早く入手できると疑われやすい立場にある。

 もっとも、昭和10年、19歳で国鉄に入った中地青年は、兵庫駅の列車連結手にすぎなかった。高小卒の学歴(国鉄に現存の履歴書による)では、ふつうなら中地青年も一生、連結手かなにかで終わるはずだった。

 ところが、彼は4、5年連結手をやったあと、吹田の鉄道教習所にパスし、宮原電車区の運転手になったkと思うと、たちまち指導運転手になった。(中略)

 だが、運転手生活もわずか2、3年間のことだった。やがて大阪鉄道管理局の列車課勤務になり、1年間勤めた後、判任官試験に合格して、ついに事務職に転じた。このとき中地氏は29歳(20年7月)。古い人事課員にいわせれば、「無事故で皆勤、上役の心証がよいうえに、よほど根性がしっかりしてなければ出来ないこと」という。ともかくこうして配属されたのが、厚生課だった。(中略)

 だから、昭和22年でしたか、やめるといいだしたときは、みんな惜しんで引きとめたが、『この辺で商売をやってみたい』といって円満にやめて、水産会社のブローカーになった。なんでも、物資仕入係時代につけたコネを活用したということでした。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号97・98頁から引用

 いかがでしたか? 

 朝日新聞記事の「私は戦前、国鉄の前身の鉄道省大阪鉄道局にいて、新幹線の原型となった『弾丸列車計画に携わった。」や、栗原景氏の「実は、この人物は鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた。」とよく比べていただきたい。 

  なお、国鉄退社については、1962(昭和37)年10月10日付の読売新聞は「戦後国鉄の物資を横流ししてクビになった」と報じているのでご参考まで。

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  中地氏の経歴はともかく、「弾丸列車の計画がわかれば土地は買えるだろう」という方もいらっしゃるだろう。関係する資料等を見ても弾丸列車は新横浜附近を経由することとなっているのは間違いないようだ(起点は市ヶ谷や高井戸等当時も各種の案があったが)。

  ところが、話は新横浜駅だけではないのだ。


 日本開発も、その発足のタイミングから考えて、東海道新幹線の用地調達のための会社であろう。現に発足直後、新大阪駅の用地買収に乗り出し、これにもマンマと成功している。国鉄では新大阪駅を東淀川にひそかに決定したが、そのとき、日本開発はちゃんと東淀川一帯を手に入れていた。そのもうけは数億にのぼったとウワサされている。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号95頁から引用

 

  中地氏は、新横浜駅周辺だけでなく、新大阪駅周辺も買い占めに成功していたのである。これは週刊誌記事だけでなく当時の国会でも取り上げられている。

  そして、新横浜駅と新大阪駅の違いは、「新大阪駅は、弾丸列車の予定地と違うところに駅ができた」ということである。

 新幹線新大阪駅決定の経緯

鉄道土木シリーズ9「新幹線の計画と設計」山海堂・刊 35・36頁から引用 

 戦前の弾丸列車の駅は、まさに東淀川駅であったし、戦後は梅田の大阪駅への乗り入れも改めて検討された。そのうえで今の新大阪駅に決定したわけで、弾丸列車の計画を熟知しているだけでは、新大阪駅は先行して買い占めることはできないのだ。 

  中地氏は、弾丸列車の計画ではなく、東海道新幹線の計画を何等かのカタチで入手していたと推測される。

 ついでに、同書から新横浜駅のルート決定経緯もおまけに。 

 新幹線新横浜駅決定の経緯

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  では、中地氏は、どのようにして東海道新幹線のルートを入手したのか?


  こんどの事件にしても、公明正大やで。新横浜駅については、3つの候補地があがっていた。いまの横浜駅と岸壁の方と菊名の3つや。しかし考えてもみなはれ。いままでの東海道線は正直に海岸線に沿って走っておった。だが十河さんの夢は、大阪へできるだけ早く行きつくことでっしゃろ。なら菊名になるにきまっとりますわ。事実、わたしがあそこに乗り込んだときは、すでに、国鉄のハバ杭が打ってあり、地元の表情はホクホクしていました。

  新大阪駅についても、こんどと同じようなこといわれましたが、あれも真っすぐなプラットホームつくるとすれば、東淀川デルタ地しかあらへんから、あれを買ったまで、国鉄から情報とったなんて、いい加減にしてくだはれ。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号98頁から引用

 

  まあ、前述のように中地氏は言うことが変わる。朝日新聞のインタビューのような弾丸列車という言葉は一言も出てこない。


一通の手紙

 

 数年前、堤義明宛に送られた一通の手紙がある。送り主は「中地新樹」という。中地は現在、千葉県松戸にある牧の原団地に隠棲し、齢は八十三を超えている。埼玉、神奈川と住まいを転々としたが、一時期の生活ぶりは困窮を極めていた。

 約三千五百字にのぼるその手紙はこう始まっている。

〈東海道新幹線の新大阪駅、新横浜駅設置場所発表前に、貴殿の父上の堤康次郎先生にお目にかかり、駅付近の用地買収を提言した中地新樹です〉

 兵庫県出身の中地は、旧国鉄の大阪鉄道局に勤めていた。当時の局長は、後に首相となる佐藤栄作である。「手紙」にはその佐藤もかかわった西武グループの用地買収や裏金作り、小佐野賢治と京浜急行とのトラブルでの立ち回りなどが仔細に記されていた。

 なかでも康次郎が新横浜駅周辺の土地買収を依頼した様子は生々しい。佐藤栄作の息がかかった情報員として土地の値上がりや価値上昇が見込まれる駅建設場所の情報を康次郎に流した中地は、こう記している。

〈その際父上(康次郎・筆者注)は新横浜に第二の丸の内を作ろうと決断され、今池袋で土地を売却した裏金が十億ほどあるから、西武の名前と裏金と言う事を一切明かさず、君の金で、君の名前で契約して目的達成をしてくれと申されましたので、金は即日私の名義で住友銀行都立大学支店、富士銀行自由が丘支店に預け、順次引き出し用地買収資金として使わせて頂きました。 

 (中略)

〈新大阪駅付近五万五干平米、新横浜付近二十万二千平方米を買収しておさめました〉

 東海道新幹線の駅前という一等地に、コクド・西武グループがプリンスホテルをはじめとする商業施設を数多く持っているのはなぜなのか。一度気になりはじめれば果てることなく謎は深まる。しかし、鉄道省出身の政治家として与党内でも台頭していた佐藤栄作が、かつての部下である中地新樹をパイプ役として康次郎につながっていたと考えれば、それは一転、あからさまなほどに明快な答えをもたらす。

 もちろん佐藤栄作と堤康次郎をつなぐ「政府発表前情報」がタダなはずもない。佐藤の代理としてやはり中地自身が駅建設予定地の土地を買い、土地高騰後に売ったカネは佐藤にも大きな収益をもたらしたと、中地の手紙には記されている。 (略)

  

「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 120~123頁から引用

 どないでっしゃろ。 

  前述のように、この本でも、怪しいことは幾つもあるので、佐藤栄作はともかくとして、「中地氏は、朝日とも新潮とも言うことが変わるんだね」ということだけが頭に入ればよろしいのではないか。

  

 ところで、栗原景氏は「バックには、大手企業グループがついていたといわれる。」とぼやかしている西武の名前が出てきた。

 ここで、西武鉄道の言い分も聞いてみよう。 


新横浜駅周辺の買収 

  

 東京オリンピックの前年のこと、東海道新幹線建設にまつわる土地の件では、厄介な問題が発生した。私はこれにも大いに働いた。この問題は、堤が東海道新幹線が通るであろう主要な土地の情報を得て、土地買収を手掛けたことから始まった。堤は、新横浜駅建設予定地を測量が始められる以前に知り、その周辺の地所を何万坪も買い占めていた。しかも、西武の名を出せば直ちに察知されると思い、関係する不動産会社を使って農家から買収していたのである。堤がどこから情報を得たかは、はなはだ微妙な問題ではあったが、国鉄筋からの情報には間違いないところであった。 

  

 「西武王国 その炎と影」中嶋忠三郎・著 サンデー社・刊 166頁から引用

  中嶋忠三郎氏は、堤康次郎の側近といわれた弁護士で、この本を当初出版する際には、西武が全部事前に買い占めて世間には出回らなかったといういわくつきの本である。(ここでも買い占めだ!)

  中地氏の言い分とは異なり、ここでは堤康次郎が国鉄のどこかしらから情報を入手し、西武が動くわけにはいかないので「関係する不動産会社(中地氏のことであろう)を使ったとしている。

 西武側の言い分としては、辻井喬こと堤清二氏も、自伝的小説「父の肖像」で触れているのであわせてご確認いただきたい。

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  「堤がどこから情報を得たかは、はなはだ微妙な問題ではあったが、国鉄筋からの情報には間違いないところであった。」

  では国鉄のどこなのだろうか?

  ここで冒頭の週刊新潮の記事を見ると、警視庁捜査二課が背任で捜査したとある。刑事ドラマ好きな方は「捜査二課」と聞いただけでピーンとくるのではないか?「汚職だ!」

新幹線土地買占めで用地部長ら召喚

 読売新聞1962(昭和37)年11月19日付によると、国鉄東京幹線工事局長の高坂繁朗氏や用地部長の赤木渉氏等が警察の任意聴取を受けている。

 そして、同日、中地氏は捜査陣に知られることなく海外へ旅立っていった。(「アメリカへ逃げた中地社長夫婦 国鉄用地買収事件の幕切れ」週刊新潮8巻5号88頁)

 アメリカ滞在中は、中嶋忠三郎が中地氏を訪ね、西武百貨店ロスアンゼルス店で用立てした滞在費を渡したという。(「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 126頁)

  

  「新評」という雑誌の1970年9月号に大変興味深い記事が掲載されている。

 その名も「消された汚職△いまだから話せる真相 怪談・東海道新幹線 --国鉄より早いN社の新幹線用地買収--」 

  「N社」とは、当然中地氏の「日本開発」であろう。

  この記事の著者が「隼太郎(警視庁7社会記者)」である。警視庁記者クラブ所属の新聞記者が匿名で立件されなかった汚職事件の「いまだから話せる真相」を語るというていである。

 引用は省略するが、国鉄と中地氏との関係を捜査していた警視庁では、「情報を得るため、便宜を計ってもらうため、幹部連が暗躍するとしたら、国鉄側の新幹線担当の最高幹部ではないか」「最高幹部の周辺を洗え」と『国鉄の新幹線担当の最高幹部』周辺を捜査した。

 警視庁捜査二課は、中地氏との関係では「海外逃亡」もあってか、「最高幹部」を立件できなかったが、建設会社との贈収賄で「最高幹部」を書類送検した。

 国鉄大石重成新幹線局長汚職で書類送検 (2)

 毎日新聞1963(昭和48)年7月3日付夕刊

 国鉄大石重成新幹線局長汚職で書類送検 (1)

朝日新聞 1963(昭和48)年7月8日付夕刊  

  前・国鉄新幹線総局長大石重成氏である。

  大石重成氏は結局不起訴となり、その後、鉄建建設社長となり、土木学会第58代会長となった。

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  東海道新幹線の新横浜駅周辺の用地買い占めについては、後に梶山季之氏が「夢の超特急」という小説を書いている。

 そこには、下記のような相関図が掲載されている。 

 夢の超特急に掲載された新幹線土地買占めの系図

 結局、国鉄の誰が中地氏に新幹線のルートを教えたかは分かりませんでした。いかがでしたか?

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 <参考記事>

・ 新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?買収資金を貸したのは三和銀行?

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-0be2.html

 ・新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?(その2)

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-345c.html

 ・国鉄新幹線総局長大石重成は、新幹線工事発注に係る収賄事件で逮捕直前だった

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d78b.html

 

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2020年1月25日 (土)

都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(22)

 西武新宿線が国鉄新宿駅ビルへの乗り入れを中止した背景としては、「6両編成しか入らなかったから」とされている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (71)

1965(昭和40)年3月16日付の朝日新聞

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (19)

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 37頁から引用

 しかし、下記のとおり西武も少なからぬ額を投資している。簡単に撤退するものだろうか?

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (35)

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 「私の都市計画生活」鈴木信太郎・著、山海堂(2003年)刊という本がある。

 著者は、1948(昭和23)年に東京都に入庁し、山田正男氏の部下時代も含め東京都の都市計画畑を歩み1980(昭和55)年に技監で退庁された方である。この本は鈴木氏の喜寿を記念した講演会の記録である。

 そこに、下記のように西武新宿線の新宿駅乗り入れ断念の経緯が聴衆とのやりとりとして残されている。

東京都職員が語る西武新宿線の国鉄新宿駅乗入れ断念経緯 (1)

 

東京都職員が語る西武新宿線の国鉄新宿駅乗入れ断念経緯 (2)

  東京都の都市計画部局としては、西武乗り入れのために必要な行政手続きを順調に進めていたところ突然西武側からキャンセルされたという認識である。

  ただし、その理由は噂話レベルのことしか語られていなく、明確ではない。

 「例の西武のワンマンの言い分」と述べられているが、乗り入れ断念を公表した1965(昭和40)年の前年に、堤康次郎は亡くなっているあたりからもどうも腑に落ちない。

  「必要な行政手続きをとっている都庁の窓口ですら、理由はよく分からない」ということが分かった程度か。。。

 

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思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(21)

 西武新宿線が国鉄新宿駅ビル2階に乗り入れている絵と言えば、

 ステーションビルの事業案内か

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (1)

 国鉄の「東建工」に掲載されたパースくらい

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (38)

 しか見たことがなかった。

 (実施段階では、アルミ製のルーバーが外周に設置されたので、見た目は少し違っている。)

 

 ところが、Twitterで、また違った乗り入れ予想イラストを発掘・公開している方がいらっしゃった。

 ほうとうひろし氏によると、「幼稚園」1962年3月号に掲載されたものだという。

 

 更に、ほうとうひろし氏によると「新宿ステーションビル開業直前の1964年5月1日ごろに発行された「幼稚園」1964年6月号の口絵は、新宿西口側から俯瞰した新宿駅の全体像です」とのことである。

 実は、西口側からのイラスト等はここでご教示いただいたものが初めて目にしたものなのだ。

 ということで、あらためて国会図書館で確認してきた。

 西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (2)

 小学館の幼稚園1962年3月号だ。「これは昭和39年完成予定の東京・新宿駅の想像図です。中央線・山手線・郊外電車・地下鉄が見えます。」とのキャプションがついている。

 西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (2)-2

  西武新宿線のホームがステーションビル北側の外にあるのがお分かりだろうか。

  そしてもういっちょ。

西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (1)  

 小学館の幼稚園1963年6月号 だ。「東京の新宿駅は、いま改装工事が行われていますが、この絵は改装後を資料をもとにしてかいたものです。なお、建物の一部は、お子さまが興味をもつように変えてあります。」とのキャプションがついている。

 西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (3)

  頁を開くと営団地下鉄、小田急、京王の地下ホームも見える。中央線(列車)は、山スカとキハ55、山手線はカナリア色、小田急線は青黄のツートン、京王線は緑色と当時の列車の色がうかがえる。

 西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (3)-2

 西武新宿線もしっかり新宿ステーションビルに乗り入れている。残念ながらホームとビルの取り付き方の様子はよく分からない。

 いずれにせよ、貴重な(現存する唯一無二?)「新宿駅西口側から見た西武新宿線の国鉄新宿駅乗入れの様子」を描いたイラストである。

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西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(20)

 「西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(19)」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-f353a5.htmlに載せられなかった図面等を(その2)として載せていく。


 出典は引き続き「東建工」の「新宿東口民衆駅」特集号から。


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)


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 実施段階では、西武新宿線の改札は2階と1階に設けることとされたが、検討段階では、地下1階に国鉄と西武新宿線の乗り換え改札を設置する考えもあったことが分かる。


 


 まずは当初案


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (11)


 地下1階の埒内(ラチ内ってこういう漢字なのか。。)で国鉄と西武新宿線の乗り換え改札が設置されている。


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (12)


 1階の西武新宿線改札は、高架下の歌舞伎町方に設置されているようだ。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (13)


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 次いでB案 


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (14)


  ここでも当初案同様に、地下1階に西武新宿線と国鉄の乗り換え改札が設置され、1階の西武新宿線改札は高架下の歌舞伎町方だ。また、吹き抜けは地下1階と1階をつなぐものとなっている。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (15)


  


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (16)

 


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 C案


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (17)

 


  地下1階での西武新宿線と国鉄の乗り換え改札はなくなり、1階の西武新宿線改札は実施形と類似のものとなった。


  


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (18)


  


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (19)


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 D案


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (42) 


  地下1階と1階をつなぐ吹き抜けが無くなった。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (43)


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (44)

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E案


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (20)

 


  設計上申案ということである。


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (21)

 


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (22)


 


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 実施案


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (23)


  ベルクさんのところが、案内所から現在の形の店舗になっている。


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (24)

 


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (25)


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  上記が、新宿ステーションビルの地下1階及び1階の施設配置等の変遷である。


  


  ところで、この段階では、いわゆる「アルプス広場」がまだ無い。この待ち合わせ場所の比較検討図面も掲載されている。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (26)


  この案は、改札の位置をホーム側に下げて、ラチ外にアルプス広場(団体待合ホール)を設けるものだ。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (27)


  一方、こちらは、改札の位置はそのままで、ラチ内にアルプス広場を設けるものだ。こちらが採用されたということか。ただし、図面左側の改札の配置が現在とは異なる。


  


 「東建工」からの図面等の紹介はこのへんでお終い。 

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西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(19)

「東建工」という書籍がある。日本国有鉄道東京建築工事局が 定期刊行しており、国鉄の建築屋さんの報文が載っている。ここに新宿民衆駅特集号があり、西武新宿線の新宿ステーションビル/マイシティ/ルミネエストへの乗り入れの痕跡を探ってみることにした。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)  

  目次は上記のとおりであるが、ここから西武新宿線がどのように乗り入れるのかを拾っていこう。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (2)  

  建築関係のスペックは上記のとおり。

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  西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (38)

 パースはこのとおり。新宿ステーションビルの左側(北側)に西武新宿線のホームが見える。 

  パースだけでなく、建築模型もいろいろな方向から撮った写真が掲載されている。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (5)

 図面と対比して如何だろうか。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (40)  

 大ガード方向に西武新宿線の高架橋が伸びる様子が分かる。 

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (34)

 上空から見たもの。この角度は初見。貴重なものだ。イメージしづらかった西武線ホームが新宿ステーションビルにどのような形で取り付いていたのかがはっきり分かる。 

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 私のブログでも、高島屋、伊勢丹、西武百貨店、地元商店街の魑魅魍魎の争いについて触れてきたところであるが、国鉄での整理は下記のとおりとなっている。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (41)

  

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (33)

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 実施設計の図面は下記のとおり 

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (28)

  

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (29)  

 1階の西武鉄道改札付近を拡大すると下記のとおり。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (30)  

  

  2階から上はこんな感じ。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (31)

 3階にも西武鉄道の駅務室がある。

 なお、鉄道ジャーナル2018年3月号 特集:山手線と新宿駅「新宿 膨張を続けるコングロマリットステーション」岩成政和
には
「新宿東口駅ビルの地下1階から2階に西武の駅施設が準備されていた」

旨書いているが、実際には、西武の駅施設は地下1階には無く、3階にある。

 2階の西武鉄道の改札、ホーム、ビルの吹き抜け付近を拡大すると下記のとおり。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (32)

  「2階の吹き抜けは西武鉄道が乗り入れるはずだった名残」という俗説があるが、下記の立面図を見ると電車が収まる高さも無い。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (39)  

 また「回廊部分は、西武鉄道のホームとなるはずだった名残」という俗説もあるが、回廊ができた経緯は下記のようになっている。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (4)  

 6階から上の図面もあるけど、記事が冗長になるので省略。リクエストがあればお応えしますが。 

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  新宿ステーションビルの、国鉄、会社(新宿ステーションビル)、西武の費用負担や財産帰属については、下記のとおり整理されている。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (36)

  見てもさっぱり分からんかも。ご覧になる環境では字が小さくて見えないかも。枢要の考え方の部分を下記に拡大してみる。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (37)

  ステーションビルの西武専用部分と公衆利用分の一定割合を西武が費用負担して国鉄の財産となっているようだ。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (35)

 西武鉄道は約5600万円を負担しているようだ。 そして、この部分は乗り入れ断念に伴ってドブに捨てた形になったのだろうか?(上記の考え方によると西武が費用負担しても財産の帰属は国鉄にあるようなので。)

  「西武が乗り入れるために2階の構造は補強されていた」といった説があるのだが、それならこの表の「く体」部分の費用負担割合の考え方にそれが反映されていてもよさそうなんだけど、そんな記載は見当たらない。実際にビル内には電車は入ってこないので大した補強は要らないのではないかなあ??

  私は建築のプロではないので、お詳しい方ご教示いただけますと助かります。

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 西武新宿線の国鉄新宿駅乗入れ等に伴う乗降客の増減は下記のように想定されていたようだ。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (7)  

  また、2階の改札と1階の改札に係る動線等は下記のとおり。(肝心の西武線に係る動線が薄くてコピーに写っていない。。。)

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (9)  

  

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (10)  

  西武線の新宿乗り入れについて述べるメディアには、2階の改札にだけ触れて、1階の改札には触れないものが多いのだが、実際には1階の改札の利用者の方が多いものと想定されている。そりゃ乗換え等を考えたらそうなるやね。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (6)

  乗降客数の推移については、上記の表も載っているのだが、さっぱり読み方が分かりません。お詳しい方是非ご教示を。。。

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  東建工「新宿東口民衆駅特集号」には、最終案に至るまでの比較検討の図面も掲載されており、そこでは、地下1階の改札で国鉄と西武新宿線の乗り換えを図ろうとしたこともうかがえるのであるが、頁のボリュームの都合から、次の記事へ回すこととしたのでご了解をば。

 

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