カテゴリー「堤康次郎・西武・近江鉄道・伊豆箱根鉄道」の53件の記事

2020年5月17日 (日)

安比奈、是政、河辺 西武鉄道の砂利事業の往時を社内報から掘り上げてみる

 元来、2.5次元とか擬人化には興味がないのだが、故あって西武鉄道ネタにはまって堤康次郎所有の安比奈砂利採取場の図面等をアップしたりしていると、そういう方面のお姐さま方からリアクションをいただくことが増えた。

 また「乱脈の帝都電鉄界」などという見出しだけでご飯がすすむ層もいらっしゃることに気づかされた。

乱脈の帝都電鉄界  

(1936(昭和11)年10月15日付東京朝日新聞) 

 そういったなか、安比奈砂利採取場の実態も明らかでない部分があるようにお見受けしたので、西武の社内報から砂利事業の関係部分をコピペしてみた。 

 まずは、西武社内報1961(昭和36)年4月15日号4面から安比奈砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(13)

復興社初の砂利事業

素人ばかりで創業の苦心

安比奈砂利

 当採取所は川越市の北を流れる入間川流域を砿区として、砂利・砕石などを生産しています。

位置

 西武新宿線南大塚駅より西へ約四粁、安比奈線の終端、入間川の河岸にあります。

沿革

 当所は復興社が最初に建設した砂利採取工場で、創設のいきさつは次のとおりです。

 入間川の砂利採取はその歴史も古く、大正十二年ごろ埼玉県直営事業として始まり、一時は県費の大きな財源であったといわれ、現在の引込線は大正十五年ごろ敷設されたものと聞いています。旧西武鉄道東村山、高田馬場間建設工事が開始されるや道床砂利を出荷 するため、引込線を河川敷内に敷いたが、当時のこととて昼夜兼行で人力によって採取し、その大半をまかなったと土地の古老たちが語っています。
当所の創立は昭和二十一年で、同年建設に着手し、二十二年生産に入りました。当時現場の幹部は工場建設も砂利採取も経験皆無で発足したときのいろいろな失敗や貴重な教訓は、堤会長の著書「人を生かす事業」にも書いてあるとおりです。

 発足当初は木造船二隻で始めましたが、この船はもともと砂船を解体し組み立てた老朽船で、作業の不馴れもあり修理に要する時間が非常に多く、暴風、水害等の場合は船が分解するのではないかと心配するほどで、従って生産能力も上らないため、改造に改造を加えて努力してまいりました。しかし、大きな成果がないままついに昭和二十五年、会長の大英断により日本最初の鉄鋼大型の利採取船を建造し、始めて面目を一新した次第です。

 一方貨車輸送の面でも、当初は蒸気機関車によって南大塚駅までの引き上げをしていましたが、けん引重量が少ないため、途中で貨車を切り離したり、入換中に作業不能になって川越機関庫まで給水に戻るという笑話のようなこともありました。しかし、それも鉄鋼船建造と同時に引込線電化が完成し、二十五年下期より本格的な生産に入り、二十七、八年の最盛期には採取船も五隻となり、月産三万トンの関東第一の工場に発展しました。

 その間西武デパートの第一・二期工用砂利の大半を納入したほか、池袋線、新宿線の道床砂利も毎日一こ列車ずつ運行し、一日の貨車入換が五回におよぶほどに事業も伸びたのですが、三十二年ごろから砿区の荒廃、縮少により、逐次採取船を他事業所に移勘しました。

現況

 三十五年四月開設以来十四年間、主として砂利の生産だけであったところへ反発式四型砕石機を新設して、砕石工場を併設するように変貌いたしました。 新たに「バックフオー」で切り込みを採取の上、水洗選別機により砂利、砂、砕石原料を分類するようになり、砂利、砕石の工場として再出発した次第です。

 初めは砕石の生産出荷も不順でしたが、近ごろは埼玉県西南部でも住宅団地を始め大工場の建設が活発で、砂利、砕石の需要が目立って多くなり、また、大宮、浦和方面へも道路用砕石を自動車によって発送しています。

 今月に入ってから最高一日一千トンを出荷する日もありますが、さらに、近く埼玉県朝霞にオリンピック村が建設される見込みなのでますます発展を予想される状態です。

 当所としては、この間狭山市鵜木に三万坪の公園建設に伴なう砂利採取を始め、安比奈工場付近に約六千坪の砿区をすでに確保し、大型可搬式砂利採取機によって増産をはかるつもりです。

将来への抱負

 今後私どもは当社最初の開設採取所という誇りをもって、ますます増産に努力し、月産二万五千トンの目標を達成の上、古い歴史のある引込線その他の各設備を十分に活用し、過去の最盛期に近い成績を早急に上げるよう、従業員一同、一致協力して邁進する所存です。

(小山記)

 

 ついで、西武社内報1960(昭和35)年10月15日号4面から是政砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(10)

砂利部門の草分け

 深堀採取船で増産進む

 是政砂利

砂利部門草分けの地

 中央線武蔵境駅で西武多摩川線に乗り換え終点の是政駅で下りると、東方に二十五万平方メートルの砿区 (今は大部分水面)と事務所、倉庫等の諸備をもつ是政砂利採取所が広がっています。

 戦後荒廃した国土の復興に寄与しようとの考えから始まった復興社の砂利部門が最初に木造採取船一隻で生産を開始したのがこの採取所で、言わば当社砂利部門草分けの地であり、砿区も採取船も逐次増加され、採取の方法も幾度か改変されはしても、常に東京周辺に於ける砂利採取の重要事業所と して「良質の多摩川産砂利」の名のもとに都内各地に輸送された総量は実に数百万トンに及び、建物に道路に、国土の復興に大いに役立って来たと自負している。

類のない深掘採取船

 年々需要に追われ、増産につぐ 増産は普通型砂利採取船二隻による砂利の採取で、七年間に十五万平方メートルの砿区もついに人造池に化してしまった。

 普通ならばこゝで砂利採取の事業は終止符を打つところであるがボーリングの結果、深さ十メートルまではまだ砂利層であることが確認されたので、何等かの方法によって全部が採取できないかということが問題となり、加藤事業部長の発案で関係者が種々検討を加えた結果、他に例をみない深掘採取船が建造されて昭和二十九年四月に進水した。

 これは偏えに、日頃からの会長殿の指導にもとずく遊休施設の活用が形を変えたものであって、当社技術陣の研究と現場の努力で更に磨き上げられた他に類をみないすばらしい着想であると考える。

 この採取船の就役によって、一旦は水面と化した十万平方メートルの砿区も再び生産の場を得て、従業員も安心して増産に励むことができ今日に至っている。この間において、砂利を採取しつゝ競艇場の建設に従事したことも忘れられない思い出である。

設備と作業の概要

 当初は採取船によって八分砂利だけを採取していたのが、新小金井の旧関東石産(現当社小金井砕石工場)に原料玉石を供給するようになり、年をおってその生産量は増加し砿区の拡大ならびに製品の多種需要に伴なって、陸上選別機を逐次設置し、貨車積の合理化を計って今日に及んでいる。元来本採取所は堤防の外側の平地から採取しているので、洪水等による流入砂利は望むべくもなく、採取すれば池となってしまうので前記の深堀船が考案されたものである

 深掘船は船体の主モーターは五十馬力で、バケットコンベアーによって深度十メートルまで掘さくし、受船と操舟機により水上曳航して着船場につく。ここからガソリンカ ーによって原料ビンに投入され、水洗装置で各種のサイズに選別さ れ、玉石は直接貨車に積み込まれ小金井砕石工場へ送って砕石の原料となる。砂利、砂は先年までは貨車輸送であったものが、近内自動車輸送の発達によりほとんどがダンブトラックに依存するようになった。現在では西武運輸の出張所が是政にあって大半を都内所の需要地に送っている。

 この是政本工場に隣接している常久採取所では、採取船ならびにドラグラインにより直接にダンプトラックへ原料を積み込み、更に下流の調布採取所では、ドラグラインにより採掘したものを同様の方法によって、是政の三基ある水 洗機に輸送し前記同様製品化している。

 以上の設備を次に列記すれば

 水洗機 三基

 深堀採取船 三隻

 普通採取船 二隻

 ドラグライン 二基

 受船 十隻

 操舟機 四台

 ダンプカー 二十台

 ショベルローダー 一台

という大きな規模の綜合工場を形成している。

結び

 是政及び常久の献区は前記のように砂利をほとんどとりつくしたので、先に中河原の埋立によって紙上に紹介されたとおり、国土計画の手によって埋立工事が開始され、是政二万五千平方メートル、常久三万平方メートルがすでに埋立を完了して引き続き継続中で、毎日延千五百台のダンプトラックが、多摩川対岸の稲城山より山の切取土砂を運んで埋め立てているので、近い将来実に三千万平方メートルに達する一大住宅地が造成されるであろう。今更ながらわれわれの従事している事業の東大なことと、会長殿の事業の偉大さに驚くとともに、この作業に従事できることに誇りをもつものである。

 いままた第三水洗機の完成を見この事業の更に飛躍する時期にあたり、月産四万トンを六万トンに引き上げ御期待に答えるよう最善の努力をつくしたい。 (細田記)

 

 最後に、西武社内報1961(昭和36)年8月15日号4面から河辺(かべ)砂利採取場の紹介記事を

事業場めぐり(15)

砿区広げ増産に拍車

良質安山岩の砂利生産

河辺工場

 

位置と現況

 中央線立川駅で青梅線に乗りかえ約三十分、河辺駅で降りると正面に見えるのが萩島石材工業(株) 河辺工場である。(徒歩七分)
工場の南側には二本の貨車積込線があり、専用側線で河辺駅と結ばれている。工場には選別及洗条プラントとクラッシャー(破砕する機械)プラントがあり、二つの櫓を中心にそれぞれベルトコンベアーとバケットエレベーターで結ばれている。

トラックで河原から進んでくる原石はプラントに間断なく送りこまれ、クラッシャーが原石を喰む音が威勢よく響いている。製品は品種別に貯えられ、トラックでひんぱんに運び出されている。

沿革

 当工場は大正十四年河辺砂利合資会社として発足、河辺駅から約一キロの専用側線を敷設し、多摩川でとれる良質安山岩の砂利類を生産していた。(この地域の砂利は元宮内省御用のもので富士火山系に属する。)

 昭和三年に昭和石材社と改名、二十二年株式会社に組織替えし、三十一年九月堤会長の傘下に入り西武鉄道・復興社から資金援助をうけ財政的に安定した。三十五年六月本社の設計指導で工場を大改造して、現在のような近代的設備となった。その結果、生産は急速にのびて、三十四年度、月産五〇〇〇トンだったものが三十五年度は一三、〇〇〇トンと増加した。

 三十五年九月不動産課の尽力により、いままでの砿区の上流に約二倍に相当する広大な新砿区を入手することができ、ようやく赤字工場の汚名を返上して黒字経営に出発する機会を得た。同年十一月萩島石材工業(株)と合併し、同社河辺工場として、今日に至っている。

工場のあらまし

工場敷地 一万三千平米

多摩川砂利砿区 五万五千平米

設備

選別洗条プラント=砂利類用、砕石用各一棟。ホッパーベルトコンベア附帯設備=原石用、砕石用各1式。インペラーブレーカー=一基、パワーショベル=一台、ブルドーザー=一台、ショベルローダー=一台、専用側線=1キロ

私たちの信条

 従業員一同は、昭和三十一年堤会長のけいがいに接してから、心機一転して業績向上に励んできました。幸い会長はじめ関係各位の一方ならぬ御指導により、今日のような立派な工場に生れ変ることができました。 私たちはこれに報いるよう感謝と奉仕の信念を身につけ、今後ますます増産に励む覚悟であります。

(石井)

 

  

 詳細な社史が無い西武鉄道関連では、西武の社内報が、貴重な一次資料である。 

 私は、

■公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館http://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp/sanko_tosyo.html 

■早稲田大学大学史資料センターhttps://www.waseda.jp/culture/archives/ 

を利用させていただいております。 

 

 皆様の妄想の「深堀掘削」にお役に立ちましたら幸いであります。

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2020年2月 8日 (土)

新横浜駅の土地を買い占めた元国鉄職員の名前、顔写真は?国鉄時代の経歴も!どうやって新幹線が来るって分かったの?~「東海道新幹線沿線の不思議と謎」栗原景・著発刊記念


―買い占められた新幹線用地(抄)

 

 1959(昭和34)年頃、篠原地区に、大阪の不動産業者を名乗る男がやって来て、地権者から土地を買い取っていった。(略)

 実は、この人物は鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた。1958(昭和33)年に東海道新幹線計画が持ち上がると、そのルートは弾丸列車計画に沿ったものになるに違いないと読み、いち早く土地の買い占めに動いたのである。バックには、大手企業グループがついていたといわれる。

 

「東海道新幹線沿線の不思議と謎」栗原景・著 実業之日本社・刊 92・93頁から引用

 

 この「大手企業グループ」による新幹線新横浜駅周辺の土地の買い占めについては、諸説あって警察も捜査したりしているにも拘らず、真相は明らかになっていない。当該不動産業者も積極的に嘘を流したりしているもんだから余計に訳が分からない。

 今回、栗原景氏が新刊で迂闊にも触れてしまったので、改めて整理したい。

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 栗原景氏の記事の根拠になっているのは、当該鉄道省OBの不動産業者が朝日新聞に答えたインタビューと思われる。


新横浜駅周辺 最大地主は西武グループ 30年前、買い占めがあった

 

カギ握るブローカー 当時の状況を語る

 買い占めに当たった大阪のブローカーはいま76歳。このほど30年ぶりに初めてインタビューに応じた。(抄)

  

 --新横浜の土地買収の真相は。

 「私が先代の西武鉄道会長、堤康次郎氏に話を持ち込んだ。」

 --だれから情報を得たのですか。

 「だれからでもない。私は戦前、国鉄の前身の鉄道省大阪鉄道局にいて、新幹線の原型となった『弾丸列車計画に携わった。新幹線のルートや駅は弾丸列車と同じと確信していた」

  

 朝日新聞1992(平成4)年3月7日付夕刊 

 「いや、新聞のインタビューで本人がそう語ってるやん。お前は何を言いがかりつけてんのさ。」と言われるかもしれない。

 ところが件の不動産ブローカー氏はとんだ狸なのである。


 数年前横浜プリンスホテル開業前、朝日新聞横浜支局の佐藤という記者が私宅に来られ横浜プリンスホテル開業に至る横浜土地物語を書くので、協力して欲しい、色々とうわさを聞いているので協力して欲しいと云われましたが、全部私がやった事で国鉄等にも西武にも何の関係もない、勿論裏金で買った事等触れて居ません。又、近江鉄道に対する景色保障支払いの事等一切触れずに終わりました。その後も、度々私宅に電話せられ逢って呉れと云われたが、一切触れずに終わらせました。故に、朝日の記事でも西武さんに都合の悪いことは一切報道されていません。

 

「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 128頁から引用

 ちーん。朝日のインタビューは西武との関係を隠すための嘘だってさ。

 ちなみに、朝日の記事は1992年3月で、光文社の本は2005年2月発行だ。朝日の記事は、「新横浜プリンスホテル」開業の半月ほど前に出された記事なので時系列的には同じもので間違いなかろう。

 じゃあ、「堤義明 闇の帝国」に書いてあることが正しいのかというと、実はそうでもない。こっちも負けずに矛盾点が出てくる。

 不動産ブローカー氏は、わざと言っているのか、ぼけてきたのかは別にして言うたびに話が違うのだ。裏取りせずには怖くて迂闊に使えないのだ。

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新横浜駅を買い占めた不動産ブローカー氏  

  件の不動産ブローカー氏は、中地新吾氏である。

  中地氏が取材等に対応しているものは、私が確認した範囲では、

  前述の朝日新聞インタビュー、「堤義明 闇の王国」に加え、疑惑当時の週刊新潮(7巻44号、1962(昭和37)年11月発行)くらいである。

  ここでは、週刊新潮の記事をもとに、中地氏はどんな人物なのか整理していく。


 警視庁捜査二課は、東海道新幹線の新横浜駅周辺の用地買収をめぐり、国鉄当局と土地会社の関係について内偵をすすめてきたが、さる9日朝、日本開発株式会社と、その東京出張所など数カ所を背任の疑いで一斉に捜査した。押収された証拠書類は、トラック2台分あったといわれているが、警視庁では、日本開発の中地新吾社長(42)が新横浜駅予定地を的確に知って土地を買い占め資金十数億円を担保なしで銀行が融資した点について疑惑をいだいているようで、「徹底的に追及する」といっている。

 

疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号94頁から引用

 当該記事の掲載された中地氏の顔写真が上に掲載したものである。

  その記事に、中地氏の経歴が掲載されているので、栗原景氏が書くように「鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた」というにふさわしいものか見てみよう。


 ところで、中地氏がいかに敏腕だったにせよ、国鉄の出身者だけに、それだけで、正確な情報をより早く入手できると疑われやすい立場にある。

 もっとも、昭和10年、19歳で国鉄に入った中地青年は、兵庫駅の列車連結手にすぎなかった。高小卒の学歴(国鉄に現存の履歴書による)では、ふつうなら中地青年も一生、連結手かなにかで終わるはずだった。

 ところが、彼は4、5年連結手をやったあと、吹田の鉄道教習所にパスし、宮原電車区の運転手になったkと思うと、たちまち指導運転手になった。(中略)

 だが、運転手生活もわずか2、3年間のことだった。やがて大阪鉄道管理局の列車課勤務になり、1年間勤めた後、判任官試験に合格して、ついに事務職に転じた。このとき中地氏は29歳(20年7月)。古い人事課員にいわせれば、「無事故で皆勤、上役の心証がよいうえに、よほど根性がしっかりしてなければ出来ないこと」という。ともかくこうして配属されたのが、厚生課だった。(中略)

 だから、昭和22年でしたか、やめるといいだしたときは、みんな惜しんで引きとめたが、『この辺で商売をやってみたい』といって円満にやめて、水産会社のブローカーになった。なんでも、物資仕入係時代につけたコネを活用したということでした。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号97・98頁から引用

 いかがでしたか? 

 朝日新聞記事の「私は戦前、国鉄の前身の鉄道省大阪鉄道局にいて、新幹線の原型となった『弾丸列車計画に携わった。」や、栗原景氏の「実は、この人物は鉄道省の出身で、戦前の弾丸列車計画を詳細に知っていた。」とよく比べていただきたい。 

  なお、国鉄退社については、1962(昭和37)年10月10日付の読売新聞は「戦後国鉄の物資を横流ししてクビになった」と報じているのでご参考まで。

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  中地氏の経歴はともかく、「弾丸列車の計画がわかれば土地は買えるだろう」という方もいらっしゃるだろう。関係する資料等を見ても弾丸列車は新横浜附近を経由することとなっているのは間違いないようだ(起点は市ヶ谷や高井戸等当時も各種の案があったが)。

  ところが、話は新横浜駅だけではないのだ。


 日本開発も、その発足のタイミングから考えて、東海道新幹線の用地調達のための会社であろう。現に発足直後、新大阪駅の用地買収に乗り出し、これにもマンマと成功している。国鉄では新大阪駅を東淀川にひそかに決定したが、そのとき、日本開発はちゃんと東淀川一帯を手に入れていた。そのもうけは数億にのぼったとウワサされている。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号95頁から引用

 

  中地氏は、新横浜駅周辺だけでなく、新大阪駅周辺も買い占めに成功していたのである。これは週刊誌記事だけでなく当時の国会でも取り上げられている。

  そして、新横浜駅と新大阪駅の違いは、「新大阪駅は、弾丸列車の予定地と違うところに駅ができた」ということである。

 新幹線新大阪駅決定の経緯

鉄道土木シリーズ9「新幹線の計画と設計」山海堂・刊 35・36頁から引用 

 戦前の弾丸列車の駅は、まさに東淀川駅であったし、戦後は梅田の大阪駅への乗り入れも改めて検討された。そのうえで今の新大阪駅に決定したわけで、弾丸列車の計画を熟知しているだけでは、新大阪駅は先行して買い占めることはできないのだ。 

  中地氏は、弾丸列車の計画ではなく、東海道新幹線の計画を何等かのカタチで入手していたと推測される。

 ついでに、同書から新横浜駅のルート決定経緯もおまけに。 

 新幹線新横浜駅決定の経緯

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  では、中地氏は、どのようにして東海道新幹線のルートを入手したのか?


  こんどの事件にしても、公明正大やで。新横浜駅については、3つの候補地があがっていた。いまの横浜駅と岸壁の方と菊名の3つや。しかし考えてもみなはれ。いままでの東海道線は正直に海岸線に沿って走っておった。だが十河さんの夢は、大阪へできるだけ早く行きつくことでっしゃろ。なら菊名になるにきまっとりますわ。事実、わたしがあそこに乗り込んだときは、すでに、国鉄のハバ杭が打ってあり、地元の表情はホクホクしていました。

  新大阪駅についても、こんどと同じようなこといわれましたが、あれも真っすぐなプラットホームつくるとすれば、東淀川デルタ地しかあらへんから、あれを買ったまで、国鉄から情報とったなんて、いい加減にしてくだはれ。

 

「疑惑の人中地社長の立身出世譚 列車連結手から国鉄用地買い占めまでの舌三寸」週刊新潮7巻44号98頁から引用

 

  まあ、前述のように中地氏は言うことが変わる。朝日新聞のインタビューのような弾丸列車という言葉は一言も出てこない。


一通の手紙

 

 数年前、堤義明宛に送られた一通の手紙がある。送り主は「中地新樹」という。中地は現在、千葉県松戸にある牧の原団地に隠棲し、齢は八十三を超えている。埼玉、神奈川と住まいを転々としたが、一時期の生活ぶりは困窮を極めていた。

 約三千五百字にのぼるその手紙はこう始まっている。

〈東海道新幹線の新大阪駅、新横浜駅設置場所発表前に、貴殿の父上の堤康次郎先生にお目にかかり、駅付近の用地買収を提言した中地新樹です〉

 兵庫県出身の中地は、旧国鉄の大阪鉄道局に勤めていた。当時の局長は、後に首相となる佐藤栄作である。「手紙」にはその佐藤もかかわった西武グループの用地買収や裏金作り、小佐野賢治と京浜急行とのトラブルでの立ち回りなどが仔細に記されていた。

 なかでも康次郎が新横浜駅周辺の土地買収を依頼した様子は生々しい。佐藤栄作の息がかかった情報員として土地の値上がりや価値上昇が見込まれる駅建設場所の情報を康次郎に流した中地は、こう記している。

〈その際父上(康次郎・筆者注)は新横浜に第二の丸の内を作ろうと決断され、今池袋で土地を売却した裏金が十億ほどあるから、西武の名前と裏金と言う事を一切明かさず、君の金で、君の名前で契約して目的達成をしてくれと申されましたので、金は即日私の名義で住友銀行都立大学支店、富士銀行自由が丘支店に預け、順次引き出し用地買収資金として使わせて頂きました。 

 (中略)

〈新大阪駅付近五万五干平米、新横浜付近二十万二千平方米を買収しておさめました〉

 東海道新幹線の駅前という一等地に、コクド・西武グループがプリンスホテルをはじめとする商業施設を数多く持っているのはなぜなのか。一度気になりはじめれば果てることなく謎は深まる。しかし、鉄道省出身の政治家として与党内でも台頭していた佐藤栄作が、かつての部下である中地新樹をパイプ役として康次郎につながっていたと考えれば、それは一転、あからさまなほどに明快な答えをもたらす。

 もちろん佐藤栄作と堤康次郎をつなぐ「政府発表前情報」がタダなはずもない。佐藤の代理としてやはり中地自身が駅建設予定地の土地を買い、土地高騰後に売ったカネは佐藤にも大きな収益をもたらしたと、中地の手紙には記されている。 (略)

  

「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 120~123頁から引用

 どないでっしゃろ。 

  前述のように、この本でも、怪しいことは幾つもあるので、佐藤栄作はともかくとして、「中地氏は、朝日とも新潮とも言うことが変わるんだね」ということだけが頭に入ればよろしいのではないか。

  

 ところで、栗原景氏は「バックには、大手企業グループがついていたといわれる。」とぼやかしている西武の名前が出てきた。

 ここで、西武鉄道の言い分も聞いてみよう。 


新横浜駅周辺の買収 

  

 東京オリンピックの前年のこと、東海道新幹線建設にまつわる土地の件では、厄介な問題が発生した。私はこれにも大いに働いた。この問題は、堤が東海道新幹線が通るであろう主要な土地の情報を得て、土地買収を手掛けたことから始まった。堤は、新横浜駅建設予定地を測量が始められる以前に知り、その周辺の地所を何万坪も買い占めていた。しかも、西武の名を出せば直ちに察知されると思い、関係する不動産会社を使って農家から買収していたのである。堤がどこから情報を得たかは、はなはだ微妙な問題ではあったが、国鉄筋からの情報には間違いないところであった。 

  

 「西武王国 その炎と影」中嶋忠三郎・著 サンデー社・刊 166頁から引用

  中嶋忠三郎氏は、堤康次郎の側近といわれた弁護士で、この本を当初出版する際には、西武が全部事前に買い占めて世間には出回らなかったといういわくつきの本である。(ここでも買い占めだ!)

  中地氏の言い分とは異なり、ここでは堤康次郎が国鉄のどこかしらから情報を入手し、西武が動くわけにはいかないので「関係する不動産会社(中地氏のことであろう)を使ったとしている。

 西武側の言い分としては、辻井喬こと堤清二氏も、自伝的小説「父の肖像」で触れているのであわせてご確認いただきたい。

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  「堤がどこから情報を得たかは、はなはだ微妙な問題ではあったが、国鉄筋からの情報には間違いないところであった。」

  では国鉄のどこなのだろうか?

  ここで冒頭の週刊新潮の記事を見ると、警視庁捜査二課が背任で捜査したとある。刑事ドラマ好きな方は「捜査二課」と聞いただけでピーンとくるのではないか?「汚職だ!」

新幹線土地買占めで用地部長ら召喚

 読売新聞1962(昭和37)年11月19日付によると、国鉄東京幹線工事局長の高坂繁朗氏や用地部長の赤木渉氏等が警察の任意聴取を受けている。

 そして、同日、中地氏は捜査陣に知られることなく海外へ旅立っていった。(「アメリカへ逃げた中地社長夫婦 国鉄用地買収事件の幕切れ」週刊新潮8巻5号88頁)

 アメリカ滞在中は、中嶋忠三郎が中地氏を訪ね、西武百貨店ロスアンゼルス店で用立てした滞在費を渡したという。(「堤義明 闇の帝国」 七尾和晃・著、光文社・刊 126頁)

  

  「新評」という雑誌の1970年9月号に大変興味深い記事が掲載されている。

 その名も「消された汚職△いまだから話せる真相 怪談・東海道新幹線 --国鉄より早いN社の新幹線用地買収--」 

  「N社」とは、当然中地氏の「日本開発」であろう。

  この記事の著者が「隼太郎(警視庁7社会記者)」である。警視庁記者クラブ所属の新聞記者が匿名で立件されなかった汚職事件の「いまだから話せる真相」を語るというていである。

 引用は省略するが、国鉄と中地氏との関係を捜査していた警視庁では、「情報を得るため、便宜を計ってもらうため、幹部連が暗躍するとしたら、国鉄側の新幹線担当の最高幹部ではないか」「最高幹部の周辺を洗え」と『国鉄の新幹線担当の最高幹部』周辺を捜査した。

 警視庁捜査二課は、中地氏との関係では「海外逃亡」もあってか、「最高幹部」を立件できなかったが、建設会社との贈収賄で「最高幹部」を書類送検した。

 国鉄大石重成新幹線局長汚職で書類送検 (2)

 毎日新聞1963(昭和48)年7月3日付夕刊

 国鉄大石重成新幹線局長汚職で書類送検 (1)

朝日新聞 1963(昭和48)年7月8日付夕刊  

  前・国鉄新幹線総局長大石重成氏である。

  大石重成氏は結局不起訴となり、その後、鉄建建設社長となり、土木学会第58代会長となった。

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  東海道新幹線の新横浜駅周辺の用地買い占めについては、後に梶山季之氏が「夢の超特急」という小説を書いている。

 そこには、下記のような相関図が掲載されている。 

 夢の超特急に掲載された新幹線土地買占めの系図

 結局、国鉄の誰が中地氏に新幹線のルートを教えたかは分かりませんでした。いかがでしたか?

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 <参考記事>

・ 新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?買収資金を貸したのは三和銀行?

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/11/post-0be2.html

 ・新横浜駅と新大阪駅の土地を買い占めたのは元国鉄職員?(その2)

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/12/post-345c.html

 ・国鉄新幹線総局長大石重成は、新幹線工事発注に係る収賄事件で逮捕直前だった

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d78b.html

 

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2020年1月25日 (土)

都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(22)

 西武新宿線が国鉄新宿駅ビルへの乗り入れを中止した背景としては、「6両編成しか入らなかったから」とされている。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (71)

1965(昭和40)年3月16日付の朝日新聞

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (19)

「新宿サブナード30年のあゆみ」 新宿地下駐車場株式会社・発行 37頁から引用

 しかし、下記のとおり西武も少なからぬ額を投資している。簡単に撤退するものだろうか?

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (35)

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 「私の都市計画生活」鈴木信太郎・著、山海堂(2003年)刊という本がある。

 著者は、1948(昭和23)年に東京都に入庁し、山田正男氏の部下時代も含め東京都の都市計画畑を歩み1980(昭和55)年に技監で退庁された方である。この本は鈴木氏の喜寿を記念した講演会の記録である。

 そこに、下記のように西武新宿線の新宿駅乗り入れ断念の経緯が聴衆とのやりとりとして残されている。

東京都職員が語る西武新宿線の国鉄新宿駅乗入れ断念経緯 (1)

 

東京都職員が語る西武新宿線の国鉄新宿駅乗入れ断念経緯 (2)

  東京都の都市計画部局としては、西武乗り入れのために必要な行政手続きを順調に進めていたところ突然西武側からキャンセルされたという認識である。

  ただし、その理由は噂話レベルのことしか語られていなく、明確ではない。

 「例の西武のワンマンの言い分」と述べられているが、乗り入れ断念を公表した1965(昭和40)年の前年に、堤康次郎は亡くなっているあたりからもどうも腑に落ちない。

  「必要な行政手続きをとっている都庁の窓口ですら、理由はよく分からない」ということが分かった程度か。。。

 

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思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(21)

 西武新宿線が国鉄新宿駅ビル2階に乗り入れている絵と言えば、

 ステーションビルの事業案内か

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (1)

 国鉄の「東建工」に掲載されたパースくらい

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (38)

 しか見たことがなかった。

 (実施段階では、アルミ製のルーバーが外周に設置されたので、見た目は少し違っている。)

 

 ところが、Twitterで、また違った乗り入れ予想イラストを発掘・公開している方がいらっしゃった。

 ほうとうひろし氏によると、「幼稚園」1962年3月号に掲載されたものだという。

 

 更に、ほうとうひろし氏によると「新宿ステーションビル開業直前の1964年5月1日ごろに発行された「幼稚園」1964年6月号の口絵は、新宿西口側から俯瞰した新宿駅の全体像です」とのことである。

 実は、西口側からのイラスト等はここでご教示いただいたものが初めて目にしたものなのだ。

 ということで、あらためて国会図書館で確認してきた。

 西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (2)

 小学館の幼稚園1962年3月号だ。「これは昭和39年完成予定の東京・新宿駅の想像図です。中央線・山手線・郊外電車・地下鉄が見えます。」とのキャプションがついている。

 西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (2)-2

  西武新宿線のホームがステーションビル北側の外にあるのがお分かりだろうか。

  そしてもういっちょ。

西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (1)  

 小学館の幼稚園1963年6月号 だ。「東京の新宿駅は、いま改装工事が行われていますが、この絵は改装後を資料をもとにしてかいたものです。なお、建物の一部は、お子さまが興味をもつように変えてあります。」とのキャプションがついている。

 西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (3)

  頁を開くと営団地下鉄、小田急、京王の地下ホームも見える。中央線(列車)は、山スカとキハ55、山手線はカナリア色、小田急線は青黄のツートン、京王線は緑色と当時の列車の色がうかがえる。

 西武新宿線が国鉄新宿ステーションビルに乗り入れ (3)-2

 西武新宿線もしっかり新宿ステーションビルに乗り入れている。残念ながらホームとビルの取り付き方の様子はよく分からない。

 いずれにせよ、貴重な(現存する唯一無二?)「新宿駅西口側から見た西武新宿線の国鉄新宿駅乗入れの様子」を描いたイラストである。

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西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(20)

 「西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(19)」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/01/post-f353a5.htmlに載せられなかった図面等を(その2)として載せていく。


 出典は引き続き「東建工」の「新宿東口民衆駅」特集号から。


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)


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 実施段階では、西武新宿線の改札は2階と1階に設けることとされたが、検討段階では、地下1階に国鉄と西武新宿線の乗り換え改札を設置する考えもあったことが分かる。


 


 まずは当初案


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (11)


 地下1階の埒内(ラチ内ってこういう漢字なのか。。)で国鉄と西武新宿線の乗り換え改札が設置されている。


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (12)


 1階の西武新宿線改札は、高架下の歌舞伎町方に設置されているようだ。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (13)


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 次いでB案 


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (14)


  ここでも当初案同様に、地下1階に西武新宿線と国鉄の乗り換え改札が設置され、1階の西武新宿線改札は高架下の歌舞伎町方だ。また、吹き抜けは地下1階と1階をつなぐものとなっている。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (15)


  


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (16)

 


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 C案


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (17)

 


  地下1階での西武新宿線と国鉄の乗り換え改札はなくなり、1階の西武新宿線改札は実施形と類似のものとなった。


  


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (18)


  


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (19)


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 D案


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (42) 


  地下1階と1階をつなぐ吹き抜けが無くなった。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (43)


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (44)

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E案


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (20)

 


  設計上申案ということである。


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (21)

 


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (22)


 


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 実施案


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (23)


  ベルクさんのところが、案内所から現在の形の店舗になっている。


西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (24)

 


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (25)


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  上記が、新宿ステーションビルの地下1階及び1階の施設配置等の変遷である。


  


  ところで、この段階では、いわゆる「アルプス広場」がまだ無い。この待ち合わせ場所の比較検討図面も掲載されている。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (26)


  この案は、改札の位置をホーム側に下げて、ラチ外にアルプス広場(団体待合ホール)を設けるものだ。


 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (27)


  一方、こちらは、改札の位置はそのままで、ラチ内にアルプス広場を設けるものだ。こちらが採用されたということか。ただし、図面左側の改札の配置が現在とは異なる。


  


 「東建工」からの図面等の紹介はこのへんでお終い。 

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西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(19)

「東建工」という書籍がある。日本国有鉄道東京建築工事局が 定期刊行しており、国鉄の建築屋さんの報文が載っている。ここに新宿民衆駅特集号があり、西武新宿線の新宿ステーションビル/マイシティ/ルミネエストへの乗り入れの痕跡を探ってみることにした。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)  

  目次は上記のとおりであるが、ここから西武新宿線がどのように乗り入れるのかを拾っていこう。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (2)  

  建築関係のスペックは上記のとおり。

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  西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (38)

 パースはこのとおり。新宿ステーションビルの左側(北側)に西武新宿線のホームが見える。 

  パースだけでなく、建築模型もいろいろな方向から撮った写真が掲載されている。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (5)

 図面と対比して如何だろうか。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (40)  

 大ガード方向に西武新宿線の高架橋が伸びる様子が分かる。 

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (34)

 上空から見たもの。この角度は初見。貴重なものだ。イメージしづらかった西武線ホームが新宿ステーションビルにどのような形で取り付いていたのかがはっきり分かる。 

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 私のブログでも、高島屋、伊勢丹、西武百貨店、地元商店街の魑魅魍魎の争いについて触れてきたところであるが、国鉄での整理は下記のとおりとなっている。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (41)

  

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (33)

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 実施設計の図面は下記のとおり 

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (28)

  

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (29)  

 1階の西武鉄道改札付近を拡大すると下記のとおり。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (30)  

  

  2階から上はこんな感じ。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (31)

 3階にも西武鉄道の駅務室がある。

 なお、鉄道ジャーナル2018年3月号 特集:山手線と新宿駅「新宿 膨張を続けるコングロマリットステーション」岩成政和
には
「新宿東口駅ビルの地下1階から2階に西武の駅施設が準備されていた」

旨書いているが、実際には、西武の駅施設は地下1階には無く、3階にある。

 2階の西武鉄道の改札、ホーム、ビルの吹き抜け付近を拡大すると下記のとおり。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (32)

  「2階の吹き抜けは西武鉄道が乗り入れるはずだった名残」という俗説があるが、下記の立面図を見ると電車が収まる高さも無い。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (39)  

 また「回廊部分は、西武鉄道のホームとなるはずだった名残」という俗説もあるが、回廊ができた経緯は下記のようになっている。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (4)  

 6階から上の図面もあるけど、記事が冗長になるので省略。リクエストがあればお応えしますが。 

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  新宿ステーションビルの、国鉄、会社(新宿ステーションビル)、西武の費用負担や財産帰属については、下記のとおり整理されている。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (36)

  見てもさっぱり分からんかも。ご覧になる環境では字が小さくて見えないかも。枢要の考え方の部分を下記に拡大してみる。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (37)

  ステーションビルの西武専用部分と公衆利用分の一定割合を西武が費用負担して国鉄の財産となっているようだ。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (35)

 西武鉄道は約5600万円を負担しているようだ。 そして、この部分は乗り入れ断念に伴ってドブに捨てた形になったのだろうか?(上記の考え方によると西武が費用負担しても財産の帰属は国鉄にあるようなので。)

  「西武が乗り入れるために2階の構造は補強されていた」といった説があるのだが、それならこの表の「く体」部分の費用負担割合の考え方にそれが反映されていてもよさそうなんだけど、そんな記載は見当たらない。実際にビル内には電車は入ってこないので大した補強は要らないのではないかなあ??

  私は建築のプロではないので、お詳しい方ご教示いただけますと助かります。

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 西武新宿線の国鉄新宿駅乗入れ等に伴う乗降客の増減は下記のように想定されていたようだ。 

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (7)  

  また、2階の改札と1階の改札に係る動線等は下記のとおり。(肝心の西武線に係る動線が薄くてコピーに写っていない。。。)

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (9)  

  

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (10)  

  西武線の新宿乗り入れについて述べるメディアには、2階の改札にだけ触れて、1階の改札には触れないものが多いのだが、実際には1階の改札の利用者の方が多いものと想定されている。そりゃ乗換え等を考えたらそうなるやね。

 西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (6)

  乗降客数の推移については、上記の表も載っているのだが、さっぱり読み方が分かりません。お詳しい方是非ご教示を。。。

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  東建工「新宿東口民衆駅特集号」には、最終案に至るまでの比較検討の図面も掲載されており、そこでは、地下1階の改札で国鉄と西武新宿線の乗り換えを図ろうとしたこともうかがえるのであるが、頁のボリュームの都合から、次の記事へ回すこととしたのでご了解をば。

 

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2020年1月21日 (火)

新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(18)

 ルミネエスト(旧・マイシティ)の吹き抜けを、西武新宿線乗り入れの名残とするインチキ本は相変わらず多い。

 最近では、交通新聞社の「新しい西武鉄道の世界」がそのインチキに新たに名を連ねたところである。

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の嘘  

 

 先日、「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」を閲覧する機会に恵まれたので、しっかりと検証してみよう。

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (1)

 カラーで西武新宿線が乗り入れている公式イラストというのは初見である。

 西武線のホームと屋根がビルの左側(北側)に伸びているのがお分かりであろうか?

 西武鉄道新宿線が国鉄新宿駅ビルに乗り入れるイラスト

  

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (2)

 裏表紙がこんな感じで上空から見た位置関係を示している。

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (16)

 

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (3)

  

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (4)

 地下2階図面右側上部の広がっていく部分の黒丸は、西武線ホームを支える柱を兼ねているのだろう。

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (5)

  地下1階は、ラチ内のアルプス広場がまだ無く、図面左側の改札が現在と異なる。

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (6)  

  1階の右側、びゅうプラザの辺りに、西武新宿線の改札が見える。

 よく「2階に西武新宿線の改札が予定されていた」と言われるが、実際には1階もある。国鉄の資料を読んでいると1階改札の利用者の方を多く見込んでいたようだ。

 また、構想段階では地下1階の国鉄改札の横に西武新宿線の改札を設置する案もあったようだ。これは改めて紹介したい。

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (7)

  西武新宿線1階改札付近の拡大図。オレンジの線は、旧駅舎だ。

 改札の前の利用者が滞留するであろう部分とビルとアルタ側から出入りする人の流れが交錯し、とっても使い勝手が悪そうだ。おちおち待ち合わせもできない。

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (8)

  そして、お待ちかねの2階である。

 西武新宿線ホームがビルの右側(北側)に飛び出しており、吹き抜けは全くホームと独立していることがよく分かるだろう。

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 西武新宿線ホームと吹き抜けがよく分かるように拡大してみよう。

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (15)

 

 下の図面は、国鉄が作成した図面である。西武新宿線は、ビルの左側に飛び出していることが分かる。

 また、ビルの吹き抜けの中には、西武線の建築限界と支障し、必要な高さが確保できていないことが分かるだろう。

 なぜこういった図面も確認せずに、交通新聞社は恥知らずなムックを出版できるのだろうか?

 「吹き抜けのアーチは、ホームの名残」という人もいるようだが、ホームとアーチは何の関係もないことも分かるだろう。

マイシティの吹き抜けと西武新宿線ホームの図面  

  ルミネエストのフロアマップと当初の図面を並べてみた。

 「ローリーズファーム」や「ニコロン」は、本来は西武新宿線のホームとなるはずだった箇所にあることが分かる。

 ルミネエストの吹き抜けと西武線ホームの位置関係

  西武新宿線の改札付近も拡大してみよう。

 「ホームを設置するために、2階は補強されている」という話も目にするが、図面を見る限りではよく分からない。

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (14)

  4階から上は流していきますかね。

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (9)

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (10)  

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (11)

  役員部分を拡大してみよう。

 濱野会長は地元新宿の実力者、井野社長は地下1階ベルクのオーナーの祖父、飯田氏は高島屋、小島取締役は西武鉄道社長、小菅取締役は伊勢丹社長だ。

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (12)

  

 この資料には、表裏で一枚紙の資料もある。こちらは各区割りの面積や賃貸条件も詳細に書いてある。 

 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (18)  

  

 西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (17)  

  主要なテキストを拡大してみよう。

 新宿ステーションビル(マイシティ)入居条件 (1)

  

 新宿ステーションビル(マイシティ)入居条件 (2)  

 

 

 

 

 

 

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2020年1月18日 (土)

西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(17)

 相変わらず、西武新宿線の新宿駅乗入れを追っかけている。

 芝の三康文化研究所で西武の社内報を調べていたら、初見の話が出てきたのでご案内する次第。

 表題にあるように、西武新宿駅は現在盛土となっているが、当初は地下に設置する計画となっていたこと、またその盛土は旧日本軍の戸山射撃場跡地の土手を活用したものであること等が新たに分かったのである。

 


復興社の事ども(7) 事業部長 加藤 肇

 

 

 此の線は戦前古くから免許があつたものゝ田(ママ)であるが、一時これが取消されてあつたものを昭和二十三年新に免許を取つたもので、免許線の延長は二.四粁でその終点は現在の西武新宿駅より更に約五百米延長し、国鉄新宿駅東口に達するものである。高jは昭和二十五年に完成されたものであるが、当初新宿への地下鉄乗入線を予想し地下での乗換えの便を考慮して、終点附近は地下に潜ぐる様考えたのであるが、その附近での線路に直行する道路が多くこれを新線で中断することも出来ず、又新線の勾配限度と国鉄山手線の架道橋の関係から、どうしても地上より地下へ潜入する手段がとれずこれを断念し、現在の様に略々国鉄山手線と同一レベルで路線を建設したのである。

 この建設工事の特徴は、前にも触れた架道橋が多く特に新大久保の交通頻繁な箇所に於ける架橋工事と、殆ど全線が比較的高い盛土線で大量の土砂を必要としていたことである。この大量の土砂は幸い旧軍戸山射撃場の高い土手が不用に帰して居ったものを払下げを受けることが出来て、市街地にしては比較的遠距離を運搬することなく用が足りたのである。更にこれにもまして幸であつたことは、国鉄山手線の東側に沿うこの線の計画用地に属するところが、高田馬場の方から云つて社用地、国鉄用地(前記射撃場跡)続いて戦時中の強制疎開地で建物に懸るものが殆どなく、不法占拠の朝鮮家屋が二軒と国鉄倉庫の軒が少し触れる程度であつたことで、環状線内二粁の乗入れとしてはこの上ない幸運であつたと云えよう。但し国鉄が前期の射撃場跡に貨物駅の計画があつたとかで、山手貨物線に併行するこの線の計画に承諾を受ける迄の紆余曲折は相当のものであつたことを附記して置く。

 尚この線の国鉄東口駅舎迄の延長線は当然高架線となり、終点のホームは将来の本駅舎の二階に連なる格好となるが、その大凡の設計も国鉄と都の大体の了解を得て現在新宿で工事中の地下鉄の上部に交差して、近い将来施工することが出来るよう地下鉄の構造物も増強して設計され、唯今その工事中である。

 

 西武社内報 昭和33年9月15日号3頁から引用

 

 この記事を書いた「復興社」とは、現在の西武建設である。

 

 「当初新宿への地下鉄乗入線を予想し地下での乗換えの便を考慮して、終点附近は地下に潜ぐる様考えたのであるが、その附近での線路に直行する道路が多くこれを新線で中断することも出来ず、又新線の勾配限度と国鉄山手線の架道橋の関係から、どうしても地上より地下へ潜入する手段がとれずこれを断念」とあるのが最大の発見か?

 この地下鉄乗り入れとは営団丸ノ内線のことであろう。当時はオープンカットで地下鉄の工事をしていたことから靖国通り等を横断する地下化工事が困難であったということだろうか?

 また、その地下で西武新宿線が営団地下鉄丸ノ内線へ接続した場合には、国鉄新宿駅への西武新宿線への直接の乗り入れはなかったのだろうか?そこについての言及はない。

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 文中の大久保射撃場については、下記のサイトにまとめられているので参照されたい。

〇「大久保射撃場の設計図を入手した。」落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)

 https://chinchiko.blog.ss-blog.jp/2011-02-22

〇「陸軍射撃場―西早稲田(旧大久保)キャンパス」大学史資料センター 助手 伊東 久智 早稲田ウィークリー

 https://www.waseda.jp/student/weekly/contents/2011b/1265/265j.html

〇「陸軍射撃場跡」新宿歴史博物館データベース

 https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=3625

 

 興味深いのは、戸山射撃場跡地の米軍接収解除が1955(昭和30)年、払い下げが1958(昭和33)年というのに、西武新宿線は1952(昭和27)年には、射撃場の土を使って西武新宿駅までの延伸工事を完成させているところである。堤康次郎の政治力あってのことであろうか?

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 「国鉄が前期の射撃場跡に貨物駅の計画があつたとかで、山手貨物線に併行するこの線の計画に承諾を受ける迄の紆余曲折は相当のものであつた」については、草町義和氏が「西武「大久保駅」構想は、なぜ幻となったのか」https://toyokeizai.net/articles/-/85651?page=3に記している「国鉄「戸山原貨物駅」の計画」に関係するのであろう。

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  「現在新宿で工事中の地下鉄の上部に交差して、近い将来施工することが出来るよう地下鉄の構造物も増強して設計」については、「丸ノ内線建設史」下巻https://metroarchive.jp/content/ebook_marunouchi.html/図85も併せて参照されたい。

 西武新宿駅と丸ノ内線

  

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  西武新宿駅といえば、歌舞伎町とも深いかかわりがあるが、西武の社内報にはこんな記事も掲載されている。


復興社の事ども(9) 事業部長 加藤 肇

不動産関係事業その二

区劃整理という事業

 

 堤会長の区劃整理に対する全面的協力は単に池袋東口に対してのみではない。新宿歌舞伎町の第二次区劃整理に対してもそうであり現に北所沢で施工中のものに対しても同様である。(中略)

 そのころ西武電車が高田馬場から今の西武新宿駅まで延長され、会社が新宿に特別密接な関係ができるに及んで、堤会長は歌舞伎町区劃整理組合長鈴木喜兵衛氏その他地元の要請を入れて第二次の区劃整理の事業計画を立て、思い切つた構想のもとに事業の推進を図られたのであるが、その際歌舞伎町発展のもつとも癌とされて居つた都バス車庫の移転先を社有地である淀橋の井伊亭跡として、これを提供するとともに莫大な事業費をも投入してこの区劃整理を遂行せしめ、全く見違えるような今日の歌舞伎町、延いては新宿の繁栄を来たさしめる原動力となつたことは、単に地元新宿区民はもとよりのこと東京都知事以下、心ある都民の斉しく熟知しているところである。

 

 西武社内報 昭和33年11月15日号3頁から引用

 

 

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2020年1月 3日 (金)

西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(16)

 ネット等では、西武新宿駅が他の鉄道に乗り入れ、直結していない、また地下道でも直結していないことを嘆く声が聞かれるところである。

 私も過去の計画等を「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。」シリーズでアップしてきたところだ。

 で、最近調べたネタを幾つか追加してみよう。

 

 こんな図面がある。

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (3)

 西武新宿線新宿駅と都営12号線(大江戸線)新宿西口駅がJRの築堤を挟んで「北ターミナル」として直結している。

 そして、地下道も。

西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (5)

 西武新宿駅からJR(国鉄)新宿駅まで、サブナードから直進した地下道の絵があるではないか。

 

 この二つの絵が載っているのは、新宿区が1982年に作成した「新宿駅周辺にかかわる諸問題について」の答申付属資料である。

 西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (1)

  読んで字のとおり、新宿駅周辺の諸問題について、地元行政である新宿区がいろいろと検討しているなかに、将来的なターミナルの整備等のプランが掲載されているものだ。

  当時は、まだ地下鉄12号線(都営大江戸線)、地下鉄13号線(東京メトロ副都心線)が構想中であり、その受け皿等を検討するための資料なのだろう。

 西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (2)

 なお、当時は地下鉄12号線(都営大江戸線)は、今のルートと異なり、国鉄新宿駅には直結せず、国鉄とは代々木駅で接続することとなっている。そのため、現在の新宿西口駅も小滝橋通りを今よりも北に上がったところにあり、そこで西武新宿駅と直結することを考えていたようだ。 

  西武新宿線沿線民からは、「地下鉄直結を求めてたけど、それじゃないよ!」といった声があがってきそうだが、まあ贅沢はいうものではない。

 

 西武新宿駅地下鉄大江戸線直結計画 (4)

 地下の歩行者ネットワーク網では、現在まさに工事中の「東西自由通路」計画が見て取れる。 

 サブナードは、青梅街道、明治通り、国鉄新宿駅直結と三方いn延伸する構想だ。 

  

  以前、「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/jr-aa77.htmlで、過去のサブナードの延伸計画等を取り上げている。その中でサブナードの当初計画も紹介している。

1964(昭和39)年には、サブナード地下街の「基本構想」が策定された。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (17)

 西武新宿駅と地下鉄・国鉄新宿駅を直結する地下道が、第2期計画に盛り込まれていることが分かるだろう。

  これは、地上の道路の幅員不足が原因で実現しなかったものだ。

  しかし、新宿区の計画では、少し位置が違う。どうやら、西武新宿線が新宿ステーションビルに延伸するための敷地に地下道を設置しようとしているのではないか?

  

 しかし、これらの計画は実現しなかった。 

  都営大江戸線はリニアの採用とあわせて新宿駅に直結するルートに変更されてしまった。

  でも、地下道くらいはできてもよかったのではないか?

  

  これは、私の推測(エビデンスなし)なのだが、この新宿区の計画の後に、西武新宿線の複々線化及び新宿地下乗り入れ計画が具体化したためではないだろうか?

  

1987(昭和62)年12月 特定都市鉄道整備事業の事業認定

1989(平成元)年3月 複々線化の事業基本計画の変更認可

1993(平成5)年3月 鉄道施設の変更認可

1993(平成5)年3月 環境影響評価書の告示

1993(平成5)年4月 都市計画の変更告示

 

 

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (74)

(1992(平成4)年5月9日付朝日新聞から引用)

 

  しかし、この地下乗り入れも実現しなかったわけだが。。

 

※ なお、この新宿区の計画に、「上越新幹線の新宿駅乗入れ」は、一言テキストで出てくるだけで具体の中身は一切ありませんでした、この頃にはもう実現性は無かったんですかねえ。。。

 

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2017年7月15日 (土)

「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(番外編)

 西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れについては、以前ぎっちりとまとめたところではあるが、「東京 消えた! 鉄道計画」に掲載された新宿駅乗入れの記事がどうも怪しい。というかはっきり言って嘘。著者の中村健治氏は鉄道史学会会員ということらしいが困ったものだ。

「東京 消えた! 鉄道計画 」中村建治 の西武新宿線乗り入れに係る嘘 (2)

「東京 消えた! 鉄道計画 」中村建治 の西武新宿線乗り入れに係る嘘 (1)

 以前も「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-4221.htmlで怪しいやつをいくつか潰したつもりだが、ここまであからさまな嘘はアカンやろ。

 「建築界」1964年8月号「新宿東口民衆駅・新宿駅東口地下駐車場」に、新宿ステーションビル竣工時の図面が載っているので見てみよう。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (2)

 この1枚で西武駅(改札の右側にホームが設置されるはずだった)と吹き抜けの関係が全くないことが分かる。

 「狭い駅ビル内ではホームの長さが足りない」もなにも、駅ビル内にホームは乗り入れていないし、「高い天井」は「電車を待ち受け」たりしていないのである。

 現在のルミネ・エストのフロアマップhttp://www.lumine.ne.jp/est/map/#F2と比べてみると、「ローリーズファーム」や「イーハイフンワールドギャラリー」のあたりが、改札、ホーム事務室、出札室となっていることが分かる。「今でも同ビル内には、やや広めの駅スペースがあ」ったりはしないのである。

 参考までにホームと駅ビル、新宿駅全体との位置関係を示すと下記のとおりである。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (9)

(国鉄停車場技術講演会第14回資料「ターミナルビルの最近の傾向について」318頁から引用)

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (5)

(東工15巻4号「新宿駅改良工事の計画と施工について」21頁から引用)

 ところで改札はビルの2階だけではない。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (8)

 西武駅に係る部分を拡大してみる。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (7)

 どうやら東口のびゅうプラザがあるあたりに西武の改札口や出札室が予定されていたようだ。2階の改札はともかく、1階の改札を明らかにした事例は少ないのではないか。そして1階の方がメインのように見える。

 また、3階にも西武駅務室が予定されていた。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (6)

 フロアマップhttp://www.lumine.ne.jp/est/map/#F3によると、現在「スリーコインズ」があるあたりが駅務室だった。

 なお、鉄道ピクトリアル1964年7月号「近代化した民衆駅…新宿駅ビル誕生」に掲載された写真には、西武駅ホーム接続部分の仮覆い?的なものが見られる。この大きさでホームや電車そのものが乗り入れられるように見えるだろうか?

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (1)

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 やはり諸悪の根源は、河尻正氏の日経東京ふしぎ探検隊「西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画」の思わせぶりな書き方なのだろうか?

「東京ふしぎ探検隊」河尻正の西武新宿乗り入れ記事が怪しい

http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000?channel=DF280120166608&page=2

 「新宿民衆駅ステーションビル」の2階部分の設計図。」は、上記で引用した「建築界」掲載の図面とは形状が異なり、完成形のものではないと思われる。

 また、「ルミネエストの建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」とするも、「建築界」掲載の図面と比べてみると、何を根拠に天井高や吹き抜けが「西武線乗り入れ計画の名残」としているのか訳が分からない。

 ちなみに「建築界」に掲載された断面図がこちら。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (10)

 1階の高さは5000mm、2階は4200mm、3階から上は概ね3800mmである。「2階はかなり低い」わけではない。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (11)

 拡大してみると、1階の出札や改札口の様子がわかる。

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 ところで地下1階はこんな感じ。西武ホームに沿って右斜め上に柱が入っていることが分かる。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (3)

 ベルクあたり拡大してみる。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (4)

 ベルク店内の柱が西武線ホームの名残であることがよくわかる。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (81)

(「新宿駅最後の小さなお店ベルク: 個人店が生き残るには?」井野朋也・著 スペースシャワーネットワーク ・刊 から引用)

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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