カテゴリー「暗渠・水路」の30件の記事

2021年5月 1日 (土)

新宿西口甲州街道交差点 なぜ南側の一角だけビルの背が低いのか等を登記簿から探る

 新宿駅東口の地下の話をしたので、ついでに新宿駅西口の地下の話も書いてみる。

 新宿駅西口といえば、高層の商業ビルが立ち並び高度な利用がなされている。

 その一角になぜか一か所だけ背が低く古いビルがあるのに気が付いた方もいらっしゃるだろう。

 そう、「スーパーミリオンヘア」の看板が建ってるあのビルである。

 都市計画図を見ても、甲州街道一体は容積率800%だ。しかも角地である。

新宿駅周辺土地 (1)

http://www2.wagmap.jp/shibuya/MAP?API=1&mid=1000&mps=2500&mpx=139.699326827324&mpy=35.6880186766642&gprj=3&mtp=shibuya_dm&siz=863,1377&mtl=39,40,24,25,26&itr=1

 なのに、なぜあの一角だけ有効利用されていないのか。

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 賃貸ビルサイトhttps://www.offisite.jp/buildings/9643/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E5%8D%97%E5%8F%A3%E3%83%93%E3%83%ABを見てみると、あの「スーパーミリオンヘア」の看板のビルは、「新宿南口ビル」といい、1964年11月竣工の4階建地下1階鉄筋コンクリート造とのことである。

 既に60年近い建物である。普通なら周囲の建物と一体的に再開発するであろう。

 渋谷区の都市計画図には特に再開発に支障となるような規制はなさそうだ。

 

 では一体なぜ、古くて背が低いビルのままなのだろうか?

 

 成田新幹線買収済用地跡ではないかと未成線オタクが嬉しがっていた土地を、当該土地の登記簿を取得することで、オタクの妄想をぶち破ったという成功体験に基づき、この土地についても土地の登記簿を取得してみた。

 

 すると興味深い権利の登記がされていた。

 

 ここで一旦、土地の登記簿に載せられる権利等の話をしてみよう。

 土地の登記簿はザクっといって下記の3つに分けて表示されている。

 1)表題部・・・土地の表示に関する事項を表示 当該登記簿に係る土地の地番、地目、面積等が書かれている。

 2)権利部(甲区) ・・・土地の所有権に関する事項を表示 当該登記簿に係る土地を所有しているのは誰かが書かれている。

 下記が、千葉県立船橋二和高校敷地の登記簿である。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (12)

 そして、今回「スーパーミリオンヘアのビル」の土地に係る登記簿について注目すべきなのは3つ目の表示の乙区である。

 3)権利部(乙区) ・・・その他の権利に関する事項を表示 当該登記簿に係る土地に設定した抵当権、賃借権、小作権、地上権等の権利が書かれている。

 では見てみよう。

新宿駅周辺土地 (2)

 このビルの地下には、京王帝都電鉄による「地上権」が設定されていた。

民法(抄)

第4章 地上権

(地上権の内容)

第265条 地上権者は、他人の土地において工作物又は竹木を所有するため、その土地を使用する権利を有する。

(略)

(地下又は空間を目的とする地上権)

第269条の2 地下又は空間は、工作物を所有するため、上下の範囲を定めて地上権の目的とすることができる。この場合においては、設定行為で、地上権の行使のためにその土地の使用に制限を加えることができる。

(以下略)

 「他人の土地」=「スーパーミリオンヘアのビルのオーナー等の土地」において「工作物」=「京王線」を所有するため、「上下の範囲を定めて」=「東京湾中等潮位の上34メートル以下」に地上権を設定していたのだ。

 (※地下であっても「地上権」である。通常「地下権」とは言わないと思う。)

 

 そして「地上権の行使のためにその土地の使用に制限を加えることができる」とある。

 登記簿では具体の制限内容について触れていなかったが、「京王線を地下に設けるという権利を行使するために、スーパーミリオンヘアのビルのオーナー等に土地の使用の制限が加えられた」のであろう。

 私の推測にすぎないが、「京王線のトンネルに支障が出るような重さのビルを建てない」といった制限が加えられているのではないか。

 この近辺は容積率800%というとても高度な利用で収益が期待できる商業地域のところを現状地上4階建てのビルしか建てられていない。

 その減収分に見合った金額を京王側が地主に支払ったうえで、登記簿に京王の地上権が設定されたと思われる。

 なお、当該地上権が設定された「昭和38年4月1日」は、京王線が地上から地下に潜った日である。

 

 ※当該土地の甲区の所有権については、地上権設定当時は、ビルのオーナー会社等が共有していたが、順次京王電鉄がその持ち分を買収しており、現在では甲区の所有権も乙区の地上権も両方とも京王電鉄の名義となっている。

 

 地理院地図で見てみると、このビルは、京王線の地下トンネルに沿った形となっている。

 他の区画のように、周辺の土地を巻き込んだ形での大規模な再開発はハードルが高いのかもしれない。

 やってやれないことはないが、手間と収益増がバランスするかという問題。京王が一帯を買収して自社でトンネルと一体となったビルを作るには問題ないかもしれないが、都営新宿線の改札の奥になるので、地下街と一体化できないんだよなあ。。。

 

※上のマップを見ていて気が付いたのだが、都営新宿線の改札を通って左手の段差と、例のスーパーミリオンヘアーの看板のビルはツライチになっているんですな。京王線のトンネルの影響がそれぞれに出ているのだけれども、こういう経緯で繋がって見えてくるわけですな。

京王線新宿駅の秘密 

 ※ヤフーマップと都営新宿駅構内図に加筆 

 京王線が玉川上水敷地下から京王百貨店地下に入っていくにあたって、そのトンネル構造が、地上の「スーパーミリオンヘアの看板のビル」の形状に影響を与え、同じ流れで、都営新宿線新宿駅改札内の段差に繋がっていると言った方が分かりやすいか。

(参考)都営新宿駅構内図

https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/subway/stations/shinjuku.html#solid 

京王線新宿駅 京王線新宿駅 京王線新宿駅

 昔撮った京王新宿駅の写真でもおまけに。多摩動物園行きはライオンの、府中競馬場行は蹄鉄のヘッドマークになっているのが分かりますか?

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 ついでに、もう一箇所あやしい土地の登記簿を取ってみた。

 東京南新宿ビルディング

 先ほどのスーパーミリオンヘアーの看板のビルからちょっとだけ南下したところだ。

 後ろを振り返ると、京王線が地下化されて埋め殺された玉川上水とそこに架かっていた葵橋のモニュメントが残されている。

 玉川上水があったころは、下記のように「東京南新宿ビルディング」があるところも含めて、新宿駅敷地まで玉川上水が走っていた(現在は暗渠化されて地下を走っている。)

 で、東京南新宿ビルディングが建っている土地の登記簿を見ると

玉川上水 (3)

 表題部の地目に注目してほしい。さきにあげた千葉県立船橋二和高校の登記簿では「学校用地」だった。

 それが、ここでは「水道用地」である。

 小平市の玉川上水では今でも下記のような「水道用地」の杭等が見られる。

玉川上水 (2)

玉川上水 (1)

 また、 表題部の「登記の日付」に注目していただきたい。

 「平成16年3月30日」である。 

  玉川上水自体は江戸時代からあるのに、この土地がそもそも一筆の土地として登記されたのがつい数年前である。

 しかも地番が5000番という如何にもとってつけたような番号だ。 

 なぜこんなことになったのだろうか? 

  東京南新宿ビルディングは平成16年よりもずっと前から建っているはずだが、そんな土地の名義の上でよく建築確認等の行政手続きが通ったものだ。

 私のブログの読者の方はこんな図面を覚えていただいている方もいらっしゃるかもしれない。 

新宿駅南口地区基盤整備事業と玉川上水 (2)  

 これは「日本鉄道施設協会誌」2008年1月号に「新宿駅南口地区基盤整備事業に伴う玉川上水用地処理」森重達美、佐藤英明、柴田勇・共著(いずれもJR東日本東京工事事務所契約用地課)に掲載された図面に私が加筆したものである。 

 ここにいう「新宿駅南口地区基盤整備事業」とは、新宿駅南口の甲州街道拡幅やバスタ新宿新設等のことを指している。 

 つまり、バスタ新宿等の工事を行うにあたって、新宿駅の鉄道施設下にあった玉川上水を移設した。それに伴い、用地の交換等を行ったのである。 

 そのために、平成16年頃に土地を登記する必要があったが、それまではおそらく青道扱いか何かで、玉川用水敷地としての地番の設定等は行われていなかったのであろう。そこで 「原因及びその日付」は「不明」(江戸時代だもんな)として「登記の日付」を「平成16年3月30日」としたのではないか?

 地番が「5000番」になっているのもその辺の理由がありそうだ。 

 

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 新宿駅、バスタ新宿等と玉川上水等の関係は、 

【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その1) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-7d6f.html 

【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その2) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-3a1f.html 

【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その3) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-72fc.html 

もあわせてごらんいただければ幸甚である。 

  

 また、新宿近辺の玉川上水については、暗渠マニアックス吉村生さんの 

「したたかに勝ちを増やす玉川上水(新宿駅上流側編)」 

http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2019/06/post-f053d3.html 

も参考になるので是非。 

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(追記) 

 ブログ公開後、ツイッターで貴重な指摘をいただいたのでご紹介。

 京王は、「スーパーミリオンヘアーの看板のビル」の周辺のビルを取得済だったり共同所有したりしているようだ。

 あの角地の再開発も遠くないのかも!?

 

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2020年11月23日 (月)

『首都高が日本橋の上を通るにあたって、当時の技術者は「苦渋」「冒瀆」と感じた』と土木学会や佐藤健太郎はいうけれども本当だろうか

 相変わらず長い記事を書いてしまった。

 そこで今回は要約パワポを作ってみた。

首都高と日本橋の美観 (5)

佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (4)

 土木業界にありがちな「首都高と日本橋にまつわる、『本当は土木技術者もいいことを考えていたんだけど』風ちょっといい話」のエビデンスを検証してみたというわけだ。

 関心ある方は是非このままお進みくださいませ。

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首都高と日本橋の美観 (7)

首都高と日本橋の美観 (6)

 首都高速道路と東海道新幹線の開通50周年を記念した土木学会のイベントにおいて、家田仁東大教授(当時、現・土木学会会長)が、 首都高速の河川上の利用について「恐らく当時の道路計画者たちにとっても苦渋の選択であったものと思われる。」と述べている。

  

 他方、「国道者」において佐藤健太郎氏は、こう述べる。 

佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (2)  

「 オリンピック開催決定後5年では間に合わないので河川上空を使った」というのは大嘘なのだが、まあここは今日の本題ではない。

佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (3)  

 「 道路・橋梁のプロである彼らにとっても、日本橋は最大の聖地だ。そこを踏みつけにするかのような道路の建設は、冒瀆とも思えたことだろう」と記している。

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 私のいやらしい性格をご存じの方は、上記の土木学会現会長や、国道マニアのフリーライターが書いた「思われる」や「思えたことだろう」という微妙な書き方のところをガシガシとエビデンスを掘ってみようではないか!という今回の記事の目的と結論がもう見えたことだろう。

 断言できないのよ。連中は。

 本来は「土木の日」にあわせて書き上げようとしたが、怠惰な性格故に間に合わなかったことだよ。 

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 まずは、実際にオリンピック決定以前に、河川上の首都高速のルートをひいた当時の東京都局長の山田正男氏である。 

 出典は「東京の都市計画に携わって: 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」である。 

首都高と日本橋の美観 (21)  

首都高と日本橋の美観 (22)  

 「高速道路の景観はそんなにおかしいか」「見るだけのために構造物を作っているんじゃないからな。そう圧迫感を感ずると僕は思わんから。」というあたりに、道路計画者の「苦渋感」や「冒瀆感」が満ち溢れていますね。 

 なお、佐藤健太郎氏が触れている日本橋付近を干拓して首都高をしたに通す話にも山田正男氏は触れているが、日本橋の景観の保全どころか、首都高と新幹線で二階建てで日本橋川に入れようと国鉄と話をしていたというのである。

首都高と日本橋の美観 (18)  

「東京都市高速道路の建設について」(1959年4月 東京都・刊)から抜粋。

 首都高における河床の掘割区間は上記のような考え方で設定されている。「最も望ましい構造」というわけだ。

 ところで、山田氏の対談で出てくる日本橋の下を通す案は1957年に出されたもので、それをあきらめた「神田川があふれんばかりの状況」は、狩野川台風(1958年9月)の被害状況である(「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅 44~45頁)。

 佐藤健太郎氏の言うような「1959年のオリンピック決定後に短期間で工事をするために河川を通さざるを得ないが、聖地日本橋を冒瀆しないために下を通すアイデアが出された」というのは時系列的にデタラメで破綻しているのだ。

 時系列はともかくとして、「最も望ましい構造」という一般的な意味以上に、「聖地日本橋のために河床を通す」という意思を示した文献を浅学ながら見かけたことがない。もしご存じの方がいらっしゃればご教示いただけると幸甚である。佐藤健太郎は本に書く以上はお持ちだと思うのだが。。。

 下記は、1962年に作成された当初の都市計画の案である

秋庭大先生2

 路線に四角いハッチがかけられている部分が「半地下部分」である。

 日本橋川については、三崎町付近から江戸橋までが半地下である。

 「聖地日本橋」を特別扱いしたのではなく、都心環状線の中央区・千代田区あたりは基本的に半地下扱いとみるのが妥当ではなかろうか?皆様のご意見はどうだろうか?

 

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 続いては、建設省、首都高速道路公団等で建設行政実務を経験し、のちに東京大学工学部名誉教授となった、井上孝氏である。 

 出典は「都市計画を担う君たちへ」である。 

首都高と日本橋の美観 (9)

 「ここで一番重要なのは、日本橋の上ですら高速道路をかぶせるというくらいの度胸が都市高速道路を計画していたグループにはこの時あったわけです。」と述べている。

 また、「首都高で東京の水辺が失われた」との批判に対しても「戦災復興で瓦礫を運河に捨てたときから失われている」と述べている。

 東大工学部の大先輩のこの言を踏まえて、家田仁氏は「道路計画者の苦渋」を感じとったのであろう。

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 これらは、技術者の「うちわ向けの昔語り」であり、世間向けには当時どう言っていたかを首都高速道路公団の広報誌「首都高速」No33(1964年2月15日号)から見てみよう。

首都高と日本橋の美観 (2)  

 NHKの大河ドラマ「いだてん」の冒頭に出てきたような首都高速道路が日本橋を跨ごうとしている写真が掲載されている。

 右上の煉瓦造りが山田正男氏が敬意を表して避けた帝国製麻か。

 右下に何か書いてあるので拡大してみよう。 

首都高と日本橋の美観 (1)  

 日本橋に首都高速4号線の高架が、もう間もなくオーバー・クロスする。そして「お江戸日本橋七つだち」にとうたわれたこの橋も、新二重橋として、東京の新名所になる日も、間近い

 「新二重橋として、東京の新名所になる日も、間近い」これこそが、当時の首都高速道路公団の道路技術者の心意気である。

 では、日本橋付近を通過する際に、美観は考慮されなかったのか? 


 首都高速道路公団では線形が決定した1960年12月橋梁設計会社20社から「このインターチェンジ(※引用者注:当時の首都高速の「インターチェンジ」は、現在の「ジャンクション」を意味する。)を如何なる構造にすべきか?」広くアイデアを募り,構造型式選定の資料とした。

 「江戸橋インターチェンジについて」西野祐治郎・和田宏造・前田邦夫「道路」1964年7月号517頁から引用

 と、当時の建設会社等からデザインを募集している。 

 詳細は「首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)」を参照いただきたいが、

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (6)  

 民間企業からはこんなデザインも出て、「好評を得た」とのことである。まさに「新二重橋を日本橋に架けよう」という当時の官民問わない道路技術者の熱気が伝わってくるではないか。

首都高と日本橋の美観 (8)  

 日本橋に架かる首都高速道路の想像図は、上記のように首都高速道路公団の「顔」として、会社案内の表紙に採用されている。

 「苦渋感」や「冒瀆感」があれば、「会社の顔」「首都高の顔」に採用するだろうか? 

 これに対して、1962(昭和37)年12月24日付読売新聞は、「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」と報じている。 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)  

首都高と日本橋の美観 (12)

 「少年少女東京オリンピック全集4」94頁から引用。

 「大空間の美しさは、日本に新しい美観をそえたものと言えましょう」とまで言い切っているのだ。

 世間からも一定の支持を得ていたわけだ。 

 家田仁氏の言うような「苦渋感」や、佐藤健太郎氏の言うような「冒瀆感」は、後知恵のものと言えるのではないだろうか? 

首都高と日本橋の美観 (17)

 同じ首都高の広報誌に載ったこのあっけらかんとしたイラストを見よ。

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 もちろん、首都高の日本橋付近があのままでよいわけではないと思った人もいる。 

 同じ広報誌に首都高速道路公団理事長の神崎丈二氏と地元日本橋関係者らとの対談が載っているので、冗長となるが全文掲載したい。 

首都高と日本橋の美観 (13)  

首都高と日本橋の美観 (14)  

首都高と日本橋の美観 (15)  

首都高と日本橋の美観 (16)  

 諸橋雅之・首都高速道路株式会社 日本橋区間更新事業推進室長は、「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」 と語っているが、実際には色んな動きがあったことが分かる。

 注目すベきは、高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというあたりとか、神崎理事長が「日本橋の左側の家屋を買収してということを無理を承知で調査させた」とか「日本橋をどうしても越さなければならないならもっといい型で越えたいと思いまして、ずいぶん権威者の考えを伺ったわけです。技術委員会や審美委員会の意見を聞き、完成予想図も30~40枚画いたんです。けれども、いま出来上がってみると私のイメージと少しちがうようですね。」といったあたりである。神崎理事長は、民間から来た事務系の理事長である。その彼が道路技術者に対して意見を聞き、いろんな完成予想図を画かせていたけどうまくいかなかったというのが首都高の記録である。 

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 土木屋、都市計画屋はダメでも、建築屋、都市景観屋は「苦渋感」「冒瀆感」を出していたのではないかという意見もあろう。 

 ここに興味深い座談会の記録がある。その名もズバリ「首都高速道路計画を語る」 

首都高と日本橋の美観 (3)  

「公共建築」1960年8月号ということで、既に首都高速道路公団も発足し、河川上のルートも決まって事業が動き出した後のタイミングである。 

 なかでも芦原義信氏は、日本の都市景観の第一人者だ。さぞかし、日本橋の上に架けようとする高速道路計画を批判していると思うだろう。

 ところが、8頁を費やしたこの対談に「日本橋のにの字」も出てこない

 それどころか、芦原義信氏は「わたくしは道路のことは素人ですが、道路を作っているのを見るのは希望や夢があって楽しいものですね」(同61頁)なんて言っている。(氏の名誉のために補足しておくと、個別の景観ではなく都市計画全体における首都高の位置づけについての発言が太宗であった)

 むしろ河川については「川の上をやたらつぶしてしまうと、この次に誰かが潰す時に何も潰すものがなくなっちゃう。少し早まっているんじゃないかということなんです。」という大塚全一氏(当時は建設省から首都高速道路公団計画課長として出向。その後任が井上孝氏である。大塚氏は後に早大教授。)の発言に対して誰もつっこまない。 

首都高と日本橋の美観 (4)  

 秀島乾氏は「わたくしは、形態的には、大体、高架線が市内を走るのは不愉快千番だと思います」と発言してるが、最後にそもそも銀座の川を潰して高架の東京高速道路(KK線)を計画したのは秀島乾だろうとつっこまれて、秀島がもそもそ言い訳をして対談を閉じるといった体なんである。

 「この次に潰すものがなくなっちゃう」という意味では、家田仁氏の言うような「苦渋の選択」であることは間違いないようだ。やっとエビデンスが出てきたぞ。

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 というわけで、都市景観屋も当時は注目すべき論点としてすら捉えていないのだ。 

首都高速道路と都市景観 (1)  

 「都史資料集成II 都制施行から昭和30年代までを対象にした東京都の歴史に関する資料集」の第2巻にある「図録東京都政2 「文化スライド」でみる東京~昭和30年代」でも「それにしてもすばらしい光景ですね」としているではないか。 

  

 家田仁氏は「恐らく当時の道路計画者たちにとっても苦渋の選択であったものと思(いたいんだけど、当時の実力者はそんなことは言っていないし、首都高の記録にもそんなことは残っていなさそうなんだけど、やっぱり道路計画者は今に通じる気持ちを持っていたと信じたいのは土木学会の聴衆のみんなは分かってく)れる。」と述べるべきだったのかもしれない。

 「すべての土木技術者が首都高が河川の上を走ることや日本橋の景観について遺憾に思うことはなかった」なんてことはないだろうけど、メインストリームはあまり重視していなかったのは間違いなさそうだ。

 「東大では、度胸と書いて、苦渋と読むんだ」とでもおっしゃるのだろうか? どうせ言うなら「恐らく~思われる」なんて憶測でものを言わないで、ちゃんとエビデンスだそうよ。大学教授の記念講演なんだからさ。

 エビなしに「恐らく~思われる」で「いいこと言った感」を出しちゃうのは、当時の制約条件の中で奮闘した諸先輩方に対してかえって失礼なんじゃないかねえ。

  

 当時と今では価値観も違うし、当時の価値観と諸制約条件のなかでは最善を尽くしたのは間違いないのだから、「今の価値観を当時の技術者が併せ持ちながら苦渋の気持ちでやった」ということに後付けでしなくてもいいじゃないと思うのだが、土木学会方面の方はそうではないのだろうか。 

 そこは、土木学会の「隙あればパッテンライ押し」と通じるものがあるのではないか? 

 「土木技術者が環境破壊の一翼を担った」「土木技術者が植民地支配の一翼を担った」という現実に対して、当時はこういう情勢のなかでこうだったと冷静に分析して今後の反省点を導き出すという緊張感に堪えられず、「土木技術者は本当はいい人だった。本当は今に通じる素晴らしい感覚を当時から持っていたのだけど苦渋の選択だった。土木技術者は悪くないんだ!」と言ってしまうのではないか? 

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 首都高の戦前の計画は、山田正男が1938年に「満洲で高速道路をやっていたので日本でも計画した」というものである。

 振り返ってみるに、国鉄の十河信二総裁、日本道路公団の岸道三総裁、表舞台にはあまり出てこないが、東急ターンパイク、道路利用者会議の近藤謙三郎(杉並区の「トトロの家」の持ち主でもある)、東京高速道路(KK線)の秀島乾、戦後のオリンピックに向けた復興には満洲人脈がつながっている。 

 新幹線や高速道路工事にちょっかいをかけてきた西武の堤康次郎も満洲人脈だ。 私が過去にブログの記事にしてきた、西武による「近江鉄道景観補償」「伊豆箱根鉄道下土狩線」「西熱海ホテル事件」「新横浜駅土地買い占め」といった新幹線工事にまつわる「係争ごと」に、国鉄の現場職員が筋を通そうとすると「大てい十河総裁や側近幹部の慰留で、徒労に帰せられた」と「運輸ジャーナル」127号にある。この裏には堤ー十河の満鉄時代のつながりがあったという話を聞いたことがある。

 この辺は大変気になる分野ではあるが、わたくし如きの力では到底手におえない。 

 上記のメンツと直接は関係ないが、最近「大東亜」を建設する  帝国日本の技術とイデオロギーという本が出版されたので、よろしければ是非。

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 話が時空を超えてとっちらかりすぎてしまったのでそろそろ閉めよう。 

 佐藤健太郎氏は「国道者」において下記のように述べている。 

 佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (1)

 あなたは何が見えただろうか? 

 

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おまけ

 当時なりに「都市美にマッチした構造」と考えてやっているところは、誤解なきよう。

首都高と日本橋の美観 (11)

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2020年9月21日 (月)

アマルフィの13世紀の暗渠(暗渠のせせらぎが聞こえる動画あり)

 ということで、拙ブログも遅ればせながら暗渠支援である。

 と書くと、「またこいつは東京人の記事の『検証』をやらかすのか」と危惧される方もいらっしゃるかもしれないが、今回は検証はしないw

 

 アマルフィの暗渠ネタでも如何?

 アマルフィといえば、織田様のハズレ映画としても有名であるが、ここに暗渠が!?

 


  ナポリの南、約45キロの位置に、南イタリアが誇る魅力的な中世海洋都市アマルフィがある。ピザ、ジェノバ、ヴェネツィアといった北イタリアの名高い中世海洋都市よりもいち早く、地中海を舞台にオリエント、イスラーム世界との交易に活躍したこの都市は、共和制の下で10~11世紀にはすでに繫栄を極めた。(略)

 いかにも地中海の港町らしく、太陽に溢れたアマルフィは、背後に険しい崖が迫る高密な迷宮都市を築き上げている。(略) 

  

「興亡の世界史 イタリア海洋都市の精神」陣内秀信・著 講談社学術新書 159頁 

 

アマルフィの暗渠 (1)  

 これが海側から見たアマルフィの街である。

 ここのどの辺に暗渠があるのだろうか?

 

 


 川の上にできたメインストリート

 (略)アマルフィの商業機能は、このフェッラーリ広場、そしてドゥオモ広場から続き、谷底の部分を南北に貫くメインストリートに集中している。

 目抜き通りに入っていこう。このメインストリートの商業空間は、13世紀後半に、谷底に流れていた川を暗渠にすることで発展した。イスラーム都市のスークのように、道路沿いの一階に小さな店がぎっしり並び、活気がある。(略)

 

「興亡の世界史 イタリア海洋都市の精神」陣内秀信・著 講談社学術新書 213~214頁

 


大きな地図を表示

アマルフィ暗渠 (1)  

 ドゥオモ広場である。 

アマルフィ暗渠 (2)  

 如何にもな蓋があるではないか! 

アマルフィの暗渠 (5)  

 メインストリートを歩いてみると如何にもな蓋が続いている。 

アマルフィの暗渠 (6)  

アマルフィの暗渠 (4)  

 両サイドには観光客向けのお土産屋さんが並んでいる。そこを一人下を向いて暗渠サイン(by暗渠マニアックス)を探す私。。。 

アマルフィ暗渠 (3)  

 おお、泉っぽいモニュメント。これは暗渠サインに違いない。 

アマルフィ暗渠 (4)  

 緩やかなカーブ 

アマルフィの暗渠 (7)  

 こちらも下りながらの緩やかなカーブ。川の上に蓋をしたっぽいですね! 

アマルフィの暗渠 (9)  

 そしてこのマンホールの並び方!これぞ暗渠サイン! 

 

 動画です。結構な勢いで水が流れているのが聞こえますでしょうか? 

アマルフィの暗渠 (2)  

 多分、この橋の下に流れ出ているのでしょうな? 

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 <おまけ> 

アマルフィの暗渠 (3)

 ドゥオモ広場の噴水 (この水も暗渠由来かしらん?)

 

アマルフィの暗渠 (8)  

 ドゥオモ広場でおっちゃんが広げていた新聞にグレンダイザーの超合金の全面広告が!! 

 

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2020年5月16日 (土)

中央道建設反対の背景に、石川栄耀の戦中の遺産?亡霊?「防火保健道路」があった?

中央道烏山北団地2

中央道烏山北団地

いずれも「道路セミナー」全国加除法令出版・刊から

 世田谷区の烏山北団地での中央道建設反対の様子が動画に残っている。

 3分過ぎに出てくる「建設第一部長」は、「道路の日本史」等の著作で知られる故・武部健一氏である。

武部健一と中央道

 2015(平成27)年6月13日付朝日新聞 be on Saturday 「みちのものがたり 中央自動車道」から

 ここが拗れた理由の一つに「路線の変更」があるという。

中央道路線変更

 「蟻んごの闘い-道路公害に命燃えて」井上アイ・著 12頁から引用

 そして、その路線変更の背景には、戦前の都市計画で定められた「防火保健道路」があった。

 この経緯を追ってみたい。

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■当初の中央自動車道計画 

 中央自動車道の起点は、本来は渋谷区幡ケ谷の東京第一インターチェンジであり、現在の起点の高井戸インターチェンジは東京第三インターチェンジであった。 この書類は、1961(昭和36)年当時のものである。

中央自動車道 南アルプスルート詳細図4  

 中央自動車道報告書3

 この辺の詳細な経緯はhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/04/post-c50d.htmlで。 

(1963(昭和38)年当時のカラー図面は、こちらhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-0e8f.htmlもご参照のほどを) 

 当初は、首都高速道路は環状6号まで、環状6号からは日本道路公団の高速自動車国道(東名高速道路及び中央自動車道)とされていた。 

 この境界は後に建設省と東京都の間で協議され、現状の環状8号若しくは東京外環道に変更されている。 

中央自動車道 南アルプスルート詳細図5  

 現在の地図と比べてみよう。 

 

 現在の高井戸インターチェンジは、京王井の頭線の南側で、そのまま甲州街道へ南下して新宿へ向かうが、当初は京王井の頭線の北に東京第三インターチェンジを置き、そのまま甲州街道と青梅街道の間を真っすぐ新宿へ向かうルートのようだ。 

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  ところで、上記の中央道幡ケ谷起点の計画が生きていた同時期に、別の経路を示す図面がある。

 東京都の「道路整備事業10年計画」である。 

 これは東京都首都整備局が作成したもので、「昭和36年度を初年度とし、昭和45年度を終期とする道路整備事業計画を図示したものの」とされている。(「首都圏整備計画・都市計画」東京都 1964年・刊 18頁から引用) 

東京都道路整備事業10年計画0

 首都高3号線が東名高速ではなく、第三京浜道路に直結しているなあといった見どころもあるが、首都高4号線~中央道は、現在のルートのように甲州街道の途中から北上するようになっている。ただし、外環道と中央道の接続部となるジャンクションは現在よりも北側だ。 

 また、放射5号が、甲州街道と環状8号の交差点から北西に伸びている点も違う。現在は、中央道に沿って北西に向かっている。

東京都道路整備事業10年計画02

 同じ、昭和36年の段階で国と東京都では首都高4号~中央道のルートについては、違うルートを考えていたことになる。 

中央道と防火保健道路

 ところで、東京都のルートの根拠となったものと思われる資料がある。 

  東京都首都整備局都市計画部が作成した「東京都市高速道路調査報告書」である。

  先に述べたように、当初の首都高速道路のエリアは環状6号線内であったが、それを外環道まで延伸するための調査報告である。

東京都市高速道路調査報告書0

東京都市高速道路調査報告書03

 そして、4号線の延長部分の説明が下記である。 

東京都市高速道路調査報告書02

 「東京都市高速道路調査報告書」3頁から引用。

 ここに「環状7号線からは50mの保健防火道路の計画を利用して玉川上水上を通り」と出てくる。 

 では「保健防火道路」とは何か?世田谷とか杉並とかややこしそうなところに「50m」もの巾があるのか? 

防火保健道路0

昭和17年4月22日付官報から引用

  これの「2号 玉川上水線」が確かに「50米の幅員」があるのである。

 首都高4号線と中央自動車道は、この昭和17年の都市計画の幅を使って玉川上水の上に作られたのである。 

  では、戦中の1942(昭和17)年に都市計画決定されたこの道路はいったい何なのか?

 これを追ってみたい。 

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 「防火保健道路」の実現には石川栄耀氏が寄与しているということでよいのだろうか?

石川栄耀

「東京都を食い物にする男たち 三十間堀埋立に踊るボス群」から似顔絵を引用

 石川榮耀氏がどのような方かというのは、私がガタガタ言うよりも 

http://ud.t.u-tokyo.ac.jp/resources/_docs/%E9%83%BD%E5%B8%82%E8%A8%88%E7%94%BB%E5%8F%B23%E3%80%80%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E6%A0%84%E8%80%80.pdf 

や 

http://eiyoukai.la.coocan.jp/history.html 

をご覧いただければよいのだが、戦前戦後の東京のみならず日本の都市計画の理論と実践に大きな足跡を残した人で、都市計画屋さんからすると神様みたいな人のようだ。今でも石川賞というのがあって、土浦ニューウェイが受賞するような賞である。 

 

 その石川栄耀氏が「保健道路」についてこう語っている。 

(略)

 さて、自分等は都市人の保健上よりしても、又、慰楽よりしても「散歩に適した道路」の必要性を痛感してきた。

 「ダンスは躰によって音楽を味ふものなり、散歩は躰によって都市美を鑑賞する方法なり」とは自分が緑地協議会で弁じた所である。

 芸術(の一種)を通して健康を得る。

 此は非常時局と云はず、いずれの場合と云はず都市計画技術の任務であると思ふ。

 我々が土木道路から緑地道路の分野に熱を以つて半回転せんとする所以である。

 (略 ニューヨーク、ボストン、カンサス、ウエストチェスターの緑道計画を説明)

 かく、外国に於て五十年に近き旺んな歴史を持つ緑道が何故に日本に於て今日一本もないか。

 世の中に此に勝る不思議はあるまい。

(略)

 さて、かくして東京緑道計画となるワケであるが、実は此れは内協議の形を了した丈で、未だ法律上の力を有するに至つて居ない。

(略)

 先ず先づ我々は云ふまでもなく、東京緑地協議会で決定された行楽道路計画を有する。

 計劃の大要は次のとおりである。

 一、東京緑地計画行楽道路 延長3,629粁

 内 歩車兼用道路 2,771粁(略 東京、神奈川、埼玉、千葉)

  遊歩道路 858 

(略) 

 続いて、我々は現在市城内-にして郊外に当る部分の水路沿ひ等の地を相し、徒歩の専問の行楽道路を計画してる。 

 称して保健道路と云ふ。 

 延長244粁。(工費約2200万円) 

 その幅員12米。(水路の幅員を含まず) 

 加へるに騎馬道35粁。 

 騎馬道は又、乗馬公園を結ぶ事になつてる。 

 此の保健道路選定には大した理論はない。現在の風致よき水辺を保留する事とそれに直接してる車道を引き離す事である。 

(略) 

 

「東京『緑道』計画解説」石川栄耀・著 「公園緑地」1939(昭和14)年 2号/3号 91~102頁から引用

 石川栄耀はこの稿を「緑道救国!」の言葉で締めくくっている。

 ただし、この稿では「保健道路」の趣旨と総延長244kmしかでてこない。

 次に、244kmのうち玉川上水:現首都高4号線及び中央道となっている区間が出てくる記事を紹介したい。

 第一章 保健道路の使命

 一国々民の体格の優劣、体力の強弱如何は国運の消長、国家の存立にも関する重大問題である。

 然るに我が国民の保健状態を欧米主要諸国のそれに比較するとき、甚しく遜色があるのは国家の為洵に遺憾とするところである。

(略 一般死亡率と結核死亡率の国別比較)

 玆に於て、我が国民の健康増進体力向上等保健衛生に関する方策は、刻下の重要国策となつたのである。

 殊に今や日支事変は長期戦に入り、戦争は単に武力戦のみに止らず、遂に国家総力戦となり、人的資源の涵養は直接強力な戦闘員を供給するため、且つ又生産力拡充に要する労働力を供給するための、二重の意味に於て重要性を有するのである。 

(略) 

 近時我が国に於ける人口は大都市集中の傾向益ゝ激しく、密住生活における市民体位の低下は愈ゝ甚しいものがある。 

 今試みに、壮丁の体格に付き大都市と地方農村とを比較してみるに、甚しき逕庭を認められ国家の前途洵に深憂に堪へないものがある。 

(略 東京、大阪と全国平均の壮丁体格検査比較表) 

 右表に明かなる如く昭和10年の丙丁種即ち不合格率(千分比)は全国平均の3割8分に対し、東京、大阪両市共4割6分台であつて、殊に内地人口の1割を占むる東京市の不合格率が大正14年の3割1分より年毎に増加して、昭和10年には4割6分に激増してゐる状況に鑑みるも、国家将来の為大都市に於ける市民の体位向上は正に刻下の急務である。 

 大都市に於ける市民の健康増進、体力向上には多々方策があるであらうが、中に就き老若男女誰にも容易に直く実行のできるのは歩くことである。 

 即ち歩行は自然に遠ざかり運動不足となつてゐる市民にとつて、通学、通勤に、日曜祭日の郊外散歩や遠足或いは国体的強行軍等、気軽に而も手軽に実行の出来る自然の与へた最上の健康法である。 

 然るに、歩行の実行に当つて問題となるのは、大都市に於て未だ特に歩行者の為にする道路施設のないことであつて、歩行専用道路要望の声は最近頓に高まつてきたのも之が為である。 

 是が今同保健道路計画を樹立せんとする所以であつて、この計画実現の暁に保健道路の帝都市民に対する魅力は如何ばかりであろうか。 

(略) 

  

「東京保健道路計画」 都市計画東京地方委員会・著 「全国都市問題会議総会文献第6回 第2 都市計画の基本問題(下)」 1940(昭和15)年 143~148頁から引用 

 石川栄耀が1939(昭和14)年に発表して1年で随分戦争の色を濃くした内容となっている。 

 日本人は欧米諸国より体力が劣り、都会人は地方人より兵役の合格率が劣るので、国家の存立に関する重大問題として東京に気軽に運動できる歩行者専用道路を「保健道路」として作ろうというストーリーになった 

 そして下記が同文献中に示された保健道路計画一覧表である。石川栄耀のいう244kmの内訳でもある。 

東京保健道路計画一覧表  

 この6号玉川上水線の一部が、現在首都高4号線及び中央自動車道となっている。 

 東京保健道路計画図1

 全体の位置図から「玉川上水線」部分を切り出してみる。 

東京保健道路計画図2玉川上水線  

六 玉川上水線

 これは東京府北多摩郡小平村字上鈴木から東京市淀橋区角筈三丁目に至る延長約22,250米の線であつて、幅員は22米乃至51米とし、花の名所小金井に就ては特に老桜の保護、風致の保存、危険防止等を考慮して、府県道を付替へ幅員51米の大緑地帯と化する計画にして、境橋、井之頭公園、烏山二子線起点間には4米の乗馬道を設け、又新水路利用区間は村山貯水池への自動車の連絡を考慮して幅9員米の車道を設け、沿線に広場13箇所を設ける予定である。

 玉川上水は徳川時代の大水道工事の一であつて、このコースは小金井から玉川上水に沿つて和田堀浄水場附近に至り、此処から淀橋浄水場迄は新水路を利用する。

 上流は史蹟に指定された延長約3粁に及ぶ小金井の桜で花季は観花客で雑踏を極めている。

 地勢は平坦にして、北側は畑や山林が多く土手には野生の薄が一面に生へ茂つて銀の穂をそよかせて武蔵野の野趣を偲ばせ秋の稲荷橋附近は満堤尾花に埋るの概あり秋草と蟲聴きも亦武蔵野の一大特色である。

 境には東京市の浄水場があつて新旧時代の上水道のコントラストも興深く桜上水の桜も中々見事である。

 明大(予科)や本願寺墓地前の厚い雑木林に覆はれた小暗い中を音もなく忍びやかに流れていく上水風景はこゝならでは見られぬ情景である。

 尚沿線には井の頭恩賜公園があり清水湧く池の周囲には松、杉、檜、楢等が鬱蒼として繁茂し水の公園、森の公園として、プールあり、緑陰あり、林地ありて市民の一大慰業地である。

 新水路の沿線は人家連亘して既に住宅地と化してしまつている。

 

「東京保健道路計画」 都市計画東京地方委員会・著 「全国都市問題会議総会文献第6回 第2 都市計画の基本問題(下)」 1940(昭和15)年 157~159頁から引用

保健道路玉川上水線  

  同稿158頁に掲載された玉川上水線の標準断面は上記のとおりである。歩道だけでなく、「乗馬道」も備えられていることがお分かりであろうか?

  

 ここまで、戦争の色濃くなるなかで、保健道路の位置付けが変わってくるところを見てきた。 

 その後、太平洋戦争が開戦されると、「保健道路」が「防火保健道路」となった。 

(略 国木田独歩の武蔵野描写を引用しつつ東京の若者の体力低下を問題視)

 又保安上より考慮する場合は、平時の火災、震災時に於ける防火或は避難の為のみならず空襲時の対策として、幾多の貴重な問題がある。大東亜戦の宣戦布告以後4ケ月にして甚だ遺憾乍ら敵機の潜入を許したが、此の貴重なる経験に徴して見ても密集市街地の疎開、空緑地の保存拡充が極めて緊急必要である。

 今般以上の様な風致保存、体位向上、疎開市街地造成等の諸種の使命を有する広幅員の道路を、東京市並に其の近郊の武蔵野町、調布町等の都市計画施設として決定したものを玆に略述する。

 計劃目的

 道路の重要なる使命は一般交通の用に供するにあるが、其の他多数の使命を有する。殊に市街地の道路即ち街路は、街廊を構成すること即ち、建築施設や自由地施設の敷地の形態を決定すること、都市の美観を形成すること、慰楽厚生の施設を兼ねること、市街地防災の地帯となること等の使命がある。

 然らば之等の使命が従来考慮され或いは施設されたであらうか。その中今度の計画街路に関係のある項目に就て若干考慮して見よう。

 防災地帯としての道路

 葛西、震災或は風水害等の災害に対して、一般に道路が消防、避難、救護等の諸活動を為すのに役立つのは勿論である。其の他消極的には防火帯としての使命もある。故に空襲等の人工的災害に対しても極めて重要である。或は云ふ空襲は全面的に行はれる虞れがあるから、斯る路線的防災地帯は不適当であると。これに対しては今度の事例を見ても説明を要せぬ処である。

 然らば過去に於て防災道路として施設されたものがあるか、実現されたものは尠ないが機会のある毎に計画しつゝある。

 更に古くは徳川時代江戸市中は再々大火に見舞れ、彼の有名な明暦大火後六間道路を十間に拡張して防災の目的に資したが、其の後も大火が絶えずその度に各所に広小路或いは火除地(防災の為の空地)を設けた。降つて明治初年には再度銀座に大火があつたので大略現在の幅員の銀座通りに復興せしめた等の歴史がある。

 新しく防災道路として計画実施されたものには、函館或は静岡の大火後の復興に36米乃至50米のものがある、又最近の新興工業都市等の街路計画には何れも防災目的を考慮して広路を配置してある。

 都市美構成分子としての道路

(略)

 遊歩道としての道路

(略)

 

「防火保健道路」奥田教朝(都市計画東洋地方委員会技師) 「道路」1942(昭和17)年6月号 27~28頁から引用

 今までの保健機能や都市美化としての保健道路から、空襲を考慮した防災機能が最前に出されている。

 また、前回の244km構想よりも計画は縮小されている。

防火保健道路一覧

防火保健道路位置図

 幅員 

 幅員は保健或は風致保存の点よりしては基準となるべき根拠がない。防火的考慮をする場合は将来両側が密集市街地となつても(略)延焼を防止し得、且消防或は避難活動をするに充分な幅員として50米を一応の標準としている。 

 此の幅員は河川敷或は水路敷を中心として両側に当分に計画してあるが、土地の状況より止むを得ず30米位とした処もある。又大なる河川の堤防敷を供用する処は堤外に軒先通路を見込める位の幅員即ち堤防の高さにもよるが堤内側の法肩から30乃至40米を探つてゐる。 

(略) 

「防火保健道路」奥田教朝(都市計画東京地方委員会技師) 「道路」1942(昭和17)年6月号 27~28頁から引用

 先の計画では玉川上水線の幅員は22~51mとされていたが、ここで防火のために必要な幅員として「50米を一応の標準としている」ということになった。 

 これで、戦後に高速道路が収まる幅ができたということになる。 

防火保健道路標準断面図  

 この図は「玉川上水線の標準横断図」との説明がついている。「50m」という数字が見えるだろうか? 

防火保健道路0  

 そして、「防火保健道路」の報文の約1年後に、玉川上水線(2)の部分が幅員50mで都市計画決定されたわけである。 

(防火保健道路は数回に分けて都市計画決定されている。上記はそのうちの1つである。(参考「近代街路の景観計画・設計思想発展史に関する研究」天野光一)

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 随分時空を遡っていたが、20年後の東京に戻ろう。 

 前述のように、防火保健道路玉川上水線の都市計画を活かそうとする東京都側と、中央道建設を担当する日本道路公団側との調整が行われたのだが、道路公団側ではこう残している。 

中央道路線選定に係る東京都都市計画との調整  

「中央自動車道高井戸~調布間の開通」河内稔典(日本道路公団維持施設部長 前日本道路公団東京第二建設局建設第一部長)・著 「道路」1976(昭和51)年7月号23頁から引用

 

 調布以東の区間は東京都との都市計画との調整に時間を要したとし、調布以西の区間にくらべて約4年間路線の発表が遅れたとしている。 

 よく「反対派のせいで開通が遅れた」というのがあるが、実際には大都市区間だとこのような行政内部での事前調整に時間を要していることもあり、全てを反対派のせいにするのは適切ではない。このような事例は東北新幹線大宮以南でも「一旦東北新幹線の路線を発表したけども、其の後上越新幹線の新宿ルートとの調整に国鉄内部で時間を要したため実質的な地元行政との調整が進められなかった」というような件もある。 

 また余談であるが上記文中「設計速度の相違から都市間高速と都市高速を直結することに問題があり、むしろ(外環を通して接続することで)間隔を置く千鳥型がよい」とあるが、先にお見せした東京都の「道路整備事業10年計画」で東名高速と首都高速が直結していないのは、まさにそういうことである。100km/hの東名と60km/hの首都高は直結せずに間に外環をはさんで千鳥型に接続すべきという考えだったのだ。 

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 閑話休題。中央道と東京都の調整の話に戻ろう。 

 上記河内氏の報文の更に詳細な経緯が「中央高速道路工事誌」に掲載されている。 

中央道路線選定に係る東京都都市計画との調整2  

中央道路線選定に係る東京都都市計画との調整3

「中央高速道路工事誌」日本道路公団高速道路八王子建設局・刊 118~119頁から引用 

 

 上記の「62年当時における高井戸インターチェンジの計画」とは、先の河内氏の報文中の中央道の施行命令を日本道路公団が受けた年である。 

 「図2-34」には「旧ルート」とある。 

  井上アイ氏が語る「中の橋を起点に広い畑の中を通るルート」というのはこの「旧ルート」だろうか?

 それが東京都の放射5号の計画変更に伴い、「新放5」とともに幅員50mの「防火保健道路」に入ることとなった。

 その計画変更の手続きが、井上アイ氏の語る「昭和41年の都市計画審議会」である。

 これが「旧ルート」のままなら、少なくとも烏山北団地は通過していないと思われる。

団地と高速道路 (1)

「野村鋠一顧問 談話録」編集・発行 財団法人東京市政調査会 67頁から引用 

 しかも、東京都は団地入居時(1965(昭和40)年に入居募集開始。翌年から入居開始。)に高速道路通過を事前説明していない。 都市計画変更直前のことである。

 これが冒頭の写真にもあるような反対運動に繋がったのだ。

 井上アイ氏の「蟻んごの闘い」にも山田正男に直談判しに都庁へ行った様子が残されている。

 ちなみに、首都高速道路を運河や河川の上に持っていったのも山田正男氏である。

 ここでも玉川上水の上に首都高と中央道を持ってきたのか。

 なお、東京都建設局長のポストは石川栄耀や山田正男が歴任している。(石川が旧内務省の官僚だった山田をスカウトしてきた。)

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 其の後、中央自動車道は1976(昭和51)年に供用開始した。 

 そして、放射5号は紆余曲折を伴いながら、2019(令和元)年に供用開始した。 

放射5号線

  戦前の防火保健道路としての都市計画決定からは実に77年ぶりのこととなる。

  昭和36年の「東京都市高速道路調査報告書」では、久我山二丁目を経て三鷹市下本宿までが首都高速4号線の計画だったので、そのまま計画が実行されていれば、上記の赤い事業区間も玉川上水の上を高速道路が走ることになっていたはずだ。

 東京都市高速道路調査報告書03

放射5号線と防火保健道路  

 旧都市計画の幅員50mは、防火保健道路玉川上水線のそれである。

「東京の都市づくり通史 第2巻」東京都都市づくり公社・刊 241頁から

 放射五号の事業の進め方については、下記のサイトをご覧いただきたい。

■東京都第三建設事務所 街路整備事業

https://www.kensetsu.metro.tokyo.lg.jp/jimusho/sanken/doro_seibi_zigyokasyo.html 

■杉並区 玉川上水・放射5号線周辺地区まちづくり

 https://www.city.suginami.tokyo.jp/kusei/toshiseibi/machi/1013923.html

  

 中央道と玉川上水暗渠

 中央自動車道と玉川上水の暗渠と開渠の分かれ目(放射五号事業完成前に撮影したもの) 

 

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2020年2月 7日 (金)

福川裕一千葉大名誉教授監修の「ニッポンのまちのしくみ」が酷い

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (6)

 こんな本をみかけた。

 お子様向けにまちづくりの仕組みを解説する本のようで、千葉大学工学部名誉教授の福川裕一氏が監修しているという。

 

 ただ、その中身がヒドイのだ。

 

 

 まずは、首都高。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (3)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (4)

 ここでも「オリンピックに合わせて急いで高速道路を通す必要があったから空いていたお濠の上を通した」「渋滞だらけの町を世界に見せるわけにはいかなかった」と書いている。

 へー、千葉大学工学部名誉教授様は流石言うことが違う。事実と。

 

 首都高を河川や道路等の公有地の上に通す方針を決めたのは、1957(昭和32)年7月。

 現在の河川の上を走るルートは、1957(昭和32)年12月だ。

 

 ちなみに、東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催は、1958(昭和33)年1月である。

 オリンピックの招致活動を開始する前からルートは決まっていたのである。

首都高と東京オリンピック  

 上記は、東京都技監等を歴任した鈴木信太郎氏の「私の都市計画生活 -喜寿を迎えて-」山海堂刊36頁からの引用である。

 首都高については「たまたまオリンピックが決定したので、始めからオリンピックの為ということは絶対なかったといえる。」と明言している。

 首都高のルートとオリンピックの関係については、以前にもブログにまとめているので、詳細はそちらを参照していただけると幸甚である。

・「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる 

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-f51a.html

 ・古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

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 また、東京の暗渠を説明しているところも怪しい。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (1)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (2)

 東京の暗渠は、オリンピックがきっかけで、観光客が集まる大イベントに変なものがあったら恥ずかしいだからだそうですよ。

 

 

 東京の河川の暗渠化は、1961(昭和36)年の「36答申」がきっかけである。


 1960年代に入ると、高度経済成長期に突入した東京では人口1000万人を突破、さらなる人口集中と都市化が進む。市街地がさらに拡大し、森林や田畑、未舗装地が減少していくことで、各地の湧水は涵養源を失って涸れていく。用水路も灌漑の使命を終えて送水が停止される。こうして河川の水源は枯渇していった。

 一方で、急増する生活排水に下水道整備が追いつかず、自然の水と入れ替わるように川に流入する家庭や工場の排水量が増えていく。その結果、川の「主水源」が下水であるといったような事態が発生する。また、土地の貯水機能が消失したことで、降雨時の急激な増水も多発するようになった。

 このような状況を背景に、昭和36年(1961)、東京都市計画地方審議会河川下水道調査特別部会より「東京都市計画河川下水道調査特別委員会 委員長報告」、通称「下水道36答申」がまとめられ、中小河川の暗渠化・下水道転用が打ち出されることなる。

 暗渠化の理由としては、①河川を下水に転用することでコストや時間、技術面でのメリットを享受できること(河川の水路と自然勾配の転用)、②別途下水道を整備した場合、川は「水源」を失うことになってさらに環境が悪化すること、③流域住民からの苦情や強い要請、といったことがあげられている。

 

 「東京暗渠学」 本田創・著、洋泉社・刊 107-108頁から引用

 

 ひょっとしたら、著者は分かり易くするためにオリンピックをダシにしたのかもしれないが、暗渠マニアの方の本の方がよっぽど36答申の時代背景とあわせてきちんと分かり易く書けている。 

 オリンピックが推進力になった部分があるだろうが、オリンピックのために恥ずかしいものを隠すために「臭いものにふたをした」というのは短絡的にもほどがあるのではないか?

  

 ちゃんとした?学会の論文を読みたい方はこちらなどもどうぞ。

 「36答申における都市河川廃止までの経緯とその思想」中村晋一郎・沖大幹・著 水工学論文集,第53巻,2009年2月

 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00028/2009/53-0095.pdf

 興味深いのは、この論文では「オリンピック」という言葉が一言もでてこないのだ。なんでもかんでもオリンピックのせいにする福川裕一氏と専門家の論文は対照的である。

 

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 東京オリンピック時に東京都で局長として大活躍した山田正男氏は下記のように語っている。 

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦


対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「この際年度を一年くりあげるということはあり得るけれども、それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と。

 

 発行元の「淡交社」は、茶道の本で有名だが、歴史を大事にしないと千利休が泣いているぞ。

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2020年1月18日 (土)

鈴木ケンイチ氏「首都高速道路や阪神高速道路が、高速道路ではないってどういうこと?」を検証してみた

Webモーターマガジンに、鈴木ケンイチ氏が「【クルマ豆知識】首都高速道路や阪神高速道路が、高速道路ではないってどういうこと?https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17268551という記事を書いていたので、ファクトチェックしてみた。

 


そもそも東京の首都高速道路と、東名高速道路をはじめとした都市と都市を結ぶ全国ネットワークの高速道路では、目的が異なっていた。

名称こそどちらも同じ1950年代に計画されたが、首都高速道路の建設はあくまでも都心部の渋滞緩和のためだった。直面する東京都心部の渋滞を緩和するために、なるべく早く作らなければならなかったのだが、終戦から10年の歳月で都心部はびっしりと建造物が立ち並んでいた。

建設用地を買収しようとすれば、時間も費用も莫大なものになる。そこで河川の上を走らせるアイデアが採用された。クネクネと曲がる河川の上を走るため、高い速度域での走行は無理ということで、最高速は60km/hに設定されたのだ。ちなみに計画は、戦前となる1930年代に発表された論文が土台となっていた。

 

【クルマ豆知識】首都高速道路や阪神高速道路が、高速道路ではないってどういうこと?(文:鈴木ケンイチ)

 

 「首都高の制限速度が60キロの区間が多いのは、河川の上を走るから」という俗説は、割と信じられているのだが、ダウトだ。

 鈴木ケンイチ氏が「1950年代に計画された」「ちなみに計画は、戦前となる1930年代に発表された論文が土台となっていた。」「首都高速道路の計画が決まったのは1959年のこと。」としているあたりを時系列でざくっと整理してみると下記のとおりである。

首都高速道路の速度が60キロの経緯 (2)

「都市計画を担う君たちへ 」井上孝 [述],井上研究会 編 86-87頁から引用

 鈴木ケンイチ氏が言うように「クネクネと曲がる河川の上を走るため、高い速度域での走行は無理ということで、最高速は60km/hに設定されたのだ。」となるのか、それぞれ当てはめてみたい。

 結果はこうだ。

首都高速道路の速度が60キロの経緯 (3)

 河川の上を走る今のルートが決まったのは1957(昭和32)年だが、時速60キロと決めたのは、1953(昭和28)年であり、その際のルートは河川の上を走るものではなかった。

 実際に資料を見てみよう。

首都高速道路の速度が60キロの経緯 (1)

「首都高速道路公団参考資料 」11頁から引用

 1953(昭和28)年の段階で、「最高60粁/時、最低60粁/時を標準とする速度を保持し得るよう設計すること」とあるのが分かるだろう。

 そして「尚首都高速道路は五本の路線よりなり総延長49粁である」とある。鈴木ケンイチ氏の言が正しいのなら、ここの段階で河川の上を走っていなければならない。

初期の首都高計画路線図

 現実は、残念でしたと申し上げるしかないのである。この段階ではまだ河川の上ではなく、市街地をまっすぐ走る構想であった。にもかかわらず「最高60粁/時」なのである。

 現在の河川の上を走る構想は、1957(昭和32)年の「東京都市計画高速道路調査特別委員会」だが、その際に示されたのが下記の図面である。

首都高と河川・運河の関係

 ちなみに、河川の上を走る割合は約41%とのことである。「首都高が遅いのは河川の上を走るせい」にされがちだが、実際は約6割は地上を走っている。

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 ということで、鈴木ケンイチ氏の記事がダウトということは皆様お分かりになったと思うが、では何故首都高速道路等の都市高速道路の最高時速は60km/hとされている区間が多いのだろうか?(実際には湾岸線等は80km/hだったりもするのだが)

 これについては、以前私は「東京新聞福岡範行記者「首都高は『高速』にあらず?→『自動車専用道路』です」を検証する。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-f8a8.htmlで整理しているので再掲してみよう。

 

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二 東京都市高速道路の性格

 此の高速道路は主として東京都内の外周部一帯から発生して、都心部に流入する膨大な都市内交通量に短時間で、円滑に処理するために、一般の街路とは分離して設けられる平面交叉のない自動車専用の高速道路である。簡単に申せば、都市内交通のための高速道路であり、能率的な都市内の平面交差点のない立体道路である。それ故高速道路網の組み方も主要な放射幹線を各方面(八方向)に配置してあるのである。東京の高速道路も各都市間を連絡する、遠距離道路との連絡も一応考えてはいるが、あくまでもそれが主目的ではないのである。したがって諸外国において既に数多く建設されている所謂高速道路とは大分趣を異にしておるのである。

三 東京都市計画都市高速道路網計画

 東京の全般的交通処理方策にもとづき、この都市高速道路は環状六号線以内の平面の幹線道路の交通能力を補うのが目的であって、高速度そのものが直接の目的ではない。いわば交差点のない道路をつくろうということである。したがって、設計速度は60粁/時度とした。

 

東京の都市高速道路の其後」 新都市1959年1月号 岩出進(東京都建設局都市計画部技術課計画第二主査・当時)

※旧漢字は引用者が修正した。

 


 都市高速道路という高速道路は、 これは名神高速道路とか東名高速道路とかいう高速道路とは違うのであります。 スピードをあげるための高速道路ではないのであります。先ほども申し上げましたように、平面の道路だけでは処理できないから、土地を空間的に使う,立体的に使うわけです。そのための道路です。また平面の道路は交通能率が非常に悪い。悪いのは交差点があるからだ。そこで交差点を立体化しよう。ところが都市内の交差点は連続しておりますから、一連の連続している交差点を立体化してみたところが、 これは高架の道路になった。あるいは掘割式の道路になったというのが都市高速道路であります。そこで私どもはこんな道路にスピードを期待する必要がないわけでございます。時間的スピードはもちろん期待はしておりますが、物理的な速度は期待する必要がない。そこで設計速度平均 60 km とこういうことにいたしておりますが、もう一つこの都市高速道路の特長となることは、これは長距離の高速道路と違いますから、長距離を短時間で結ぶのではなくて、その道路の流域から最能率的に交通をそこに吸収することが使命でございます。道路を作りましても、使わない道路を作っても能はないわけでございます。なるべく使い易くしてやる必要がある。首都高速道路の計画をごらんになりますと、曲りくねっている。これはまあ、まっすぐに作りにくい市街地がすでにできておることもございますが、曲った方がそれだけ流域面積がふえるわけでございます。道路の流域面積がふえるということは道路利用価値が上がるということです。そういう意味で もっとも曲がっていることをはずかしいとは思っていないわけでございます。曲がった方がいい場合が多々あるわけです。

 

「東京都の都市計画について」昭和38年トヨペットマネジメントスクールにおける講演要旨 「時の流れ・都市の流れ」 山田正男(東京都整備局長・当時)

 

 


 市街地に於いては主要な交叉点を立体化しようとすれば、結局高架の道路となる。従ってこの都市高速道路は、名古屋-神戸間の高速自動車国道のような長距離的な道路とは根本的に違う。これは平面街路の交通能力の不足を補うものである。従ってスピードも100キロ、120キロを要求する必要はなく、60キロで結構だと思う。

 「都市高速道路を中心とした東京都の道路政策」昭和33年 「時の流れ・都市の流れ」 山田正男(東京都整備局長・当時)

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 如何だろうか?

 鈴木ケンイチ氏は「そもそも東京の首都高速道路と、東名高速道路をはじめとした都市と都市を結ぶ全国ネットワークの高速道路では、目的が異なっていた。」と書いている。

 惜しい!そこをもう一歩踏み込めば鈴木ケンイチ氏もライターとして成長できたはずだ。

 目的が違うから最高速度も違うのであった。

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 ところで、このwebモーターマガジンの記事では、このようにも語っている。

 曰く「東京を中心とした「首都高速道路」や近畿地方の「阪神高速道路」、愛知県の「名古屋高速道路」など、名称に“高速道路”とついた有料道路は数多い。しかし、ここで挙げた3つを含む都市高速道路を正確に言うと“高速道路ではない”という。」

 

 ここで、法律を見てみよう。


高速道路株式会社法

 
(定義)

第二条 この法律において「道路」とは、道路法(昭和二十七年法律第百八十号)第二条第一項に規定する道路をいう。

2 この法律において「高速道路」とは、次に掲げる道路をいう。

一 高速自動車国道法(昭和三十二年法律第七十九号)第四条第一項に規定する高速自動車国道

二 道路法第四十八条の四に規定する自動車専用道路(同法第四十八条の二第二項の規定により道路の部分に指定を受けたものにあっては、当該指定を受けた道路の部分以外の道路の部分のうち国土交通省令で定めるものを含む。)並びにこれと同等の規格及び機能を有する道路(一般国道、都道府県道又は同法第七条第三項に規定する指定市の市道であるものに限る。以下「自動車専用道路等」と総称する。)

 

 高速道路株式会社法第2条第2項第2号の「自動車専用道路等」に、首都高速道路は該当する。

 そして、それは「高速道路」と定義されているのである。

 

 何をもって「正確に言うと」とするかは、いろいろ基準があると思うのだが、少なくとも現在の日本の法律では、首都高速道路は「高速道路」である。

 よっぽど調べてガチガチに定義付けするのならともかく、迂闊に「実は首都高速道路は高速道路じゃないんだよ」等と言うと恥をかきかねないのでご注意を。

 ※「首都高速道路は高速自動車国道じゃないんだよ」と言うのは正しい。

 ※高速自動車国道でも、中央道の高井戸~三鷹料金所間のように最高時速60km/hの区間もあるので、速度だけで定義するのはあまり簡単ではない。

 

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(参考記事)

「高速道路」と「自動車道」の違いについて(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-ffea.html

 

佐々木俊尚氏の「高速道路は基本100kmh制限です」ツイートを整理してみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/100kmh-4ecd.html

 

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2020年1月 2日 (木)

東京高速道路(KK線)が廃道になって、高架緑地になるとの報道を聞いて

 ブログの方の「骨まで大洋ファン」の最初の投稿が2010年なので、なんと10年経っちゃいましたよ。これも皆様のアクセスがモチベーションなので、感謝申し上げる次第です。

 

 ところで、新年早々こんな記事が。首都高の日本橋部分撤去・地下化にあわせてう回路をどうするのか注目されていた銀座附近につき、地下別線でう回路を新設するとともに、既存の東京高速道路株式会社線(KK線)は、高架公園にするというのである。

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 はあ、そうですか。ところで、あそこは道路にする目的で河川埋立の許可を取ったところのはずなんで、道路がなくなれば、コリドー街等の商店街はそのまま設置させてよいのだろうか??と疑問を抱いたので、改めてここの経緯等をおさらいしてみたい。

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(聞き手)あのKK線は、例の自動車運送法でしたか。

(山田)自動車運送法の自動車専用道路です。料金は無料という有料道路なんだな。

(聞き手)あれは石川栄耀氏が、いろいろと役割を果たされたんですか。

(山田)まあ、役所としてはそういうことになっているね。陰には秀島乾。あれが石川さんのところに入り浸っていたのだろう。東京都と東京高速道路株式会社との契約は全くいい加減だ。

 (中略) 

 

(聞き手)そもそも、あそこを埋め立てて、フードセンターにして、上を道路運送法でやろうと発想した本当の人は誰なんでしょうか・

(山田)発想したのは石川栄耀だ。秀島乾、塩沢弘もその一員だ。

 

「東京の都市計画に携わって-元東京都首都圏整備局長・山田正男氏に聞く-」70、71、73頁から

 で、その秀島乾によるスカイビル構想が残っている。

秀島乾・石川栄耀のスカイビル・スカイウェイ (3)

秀島乾・石川栄耀のスカイビル・スカイウェイ (1)

秀島乾・石川栄耀のスカイビル・スカイウェイ (2)

秀島乾・石川栄耀のスカイビル・スカイウェイ (4)

 日本橋の首都高が清々しく見えるほど、河川を埋めて街というか銀座・有楽町のど真ん中を分断しているんだけど、建築屋や都市計画屋は不思議とこれを批判しないんだよなー。

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 で、実際に事業を着手したのがこれ。

東京高速道路-07

東京高速道路-07-2

 樋口実は三菱地所、青木一男は戦前の大蔵官僚から大臣で公職追放(後に高速道路族の最有力者)、小林一三は阪急、藤山愛一郎もいれば、読売新聞社もいる。斯様に政財官マスコミの一大連合体がこの東京高速道路の母体だったのである。

東京高速道路-08

 当初目論見の図面がこれ。

東京高速道路-08-2

 外濠川は実は埋め立てずに、川を跨ぐ形で道路と建物を作るはずだった、とか、今のコリドー街のような店舗、飲食等ではなく高架下には車庫、倉庫を作るはずだったとか今とはいろいろ違うんすよ。

 

 そしてやっかいなのは、石川栄耀の立ち位置。

東京高速道路と石川栄耀 (2)

東京高速道路と石川栄耀 (1)

 上記で石川栄耀の後任の山田正男が、「発想したのは石川栄耀だ。」と述べているところ、実際には政財官コングロマリットにやらせておいて、自分が許可する立場に立っているのだ。裏を取れていない情報ではあるが、石川栄耀は東京都退職後にこの会社に天下ったという記述もある。

 そして更にややこしいのがこれ。

○中井(徳)委員 私は、残念ながら、今の黒金さんの答弁には全く反対であります。従って、これはきょうどうこう言うのではありませんが、私は慎重に研究してもらいたいと思います。こういうことになりますと、四年目に一度は一カ月か二カ月、全国の四千近い府県、市町村の長が、選挙期間中は空席になる。

 それでは具体的に申し上げます。これは賛否両論ですが、東京で今高速道路というのをやっていましょう。あの堀を埋めまして、数寄屋橋がなくなってしまった、それを四、五年前に、自民党、社会党両党の委員がこぞって――村瀬さんもいらっしゃいますが、当時の建設委員が大いに反対したのです。ああいうものは風致を害するということでもって、やりました。そのときにだれが判を押したか調べてみた。そうしたら、安井君が二期か三期目の選挙の途中に、もう死にました石川栄耀さんという人が判を押しています。安井さんは留守です。あの人は、局長さんか何かでおられた。そういうことがあるのですよ。ですから、これはたまたま一つの事実にすぎませんが、私は十分起り得ると思うのです。皆さんのお考えの方が人がよ過ぎるように思いますので、一つ強くこの点を要望いたしておきます。御研究をいただいて、必要があるならば、この選挙期間中は代理者の行政に対する幅に規制をされた方がいいのではなかろうか、こう思います。これは強く要望いたしておきます。

  昭和34年3月12日 衆議院 公職選挙法改正に関する調査特別委員会

 要するに、東京高速道路の決裁は、安井知事が選挙のために不在の間に、当時建設局長だった石川栄耀が「判を押した」ということを中井代議士が国会で指摘しているということなんである。

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  当初許可後、下記のような理由で、現在のように外濠川を完全に埋め立てた形になっている。そして今もあそこは都有地だ。

東京高速道路-09  

  このように不明朗な形で建設された東京高速道路であるが、東京都政の汚職を指して言う「安井都政の七不思議」の一番手としてあげられることが多い。(二番目あたりに私の大好きな三原橋あたりがくるのだが)

 安井都政の七不思議と東京高速道路 (2)

安井都政の七不思議と東京高速道路 (1)  

 「東京都知事」日比野登・編著 日本経済評論社・刊 41・42頁から

  安井都政の七不思議と東京高速道路に言及している文献は多数あるが、とりあえずこれが簡便にまとまっているかと。

  また、東京高速道路は自民党議員からも「利権道路」と呼ばれていた。

 昭和33年4月10日衆議院建設委員会において久野忠治議員曰く
「一部経済人がこれに目をつけまして、御存じの通り新橋―京橋間に東京高速自動車道路の建設が計画をされ、目下この事業が進行中でございます」
「副知事はこう答えました。倉庫もしくはガレージに利用する、こう言ったのであります。万一その利用目的が変った場合にはどういう処置をとるかという質問に対して、撤去を命ずる、こう言いました。それからもう一つ、この都市計画全体からいって、下水あるいは雨水の排水のための重要な都市水路であるから、これは残しておくべきではないかという意見もそのときに出たのであります。その質問に対しては、地下はいわゆる水路として残しておくように設計をされておる、万一それを埋め立て等にする場合があれば、これまた当初の設計に反するものであるから撤去を命ずるということを、現に当委員会で言明をされたのであります。」
「ところが今日でき上りましたものを拝見いたしますると、堂々たるキャバレーができたり、あるいは飲食店ができたり、事務所ができたり、倉庫というのは名ばかりで、今ガレージなどというのは名目的に一、二カ所あるだけでございます。」
「地下の水路はすでに埋め立てをいたしてしまいまして、そうしてこれを地下の倉庫に利用しようといたしております。そうして莫大な利権を握って、東京都の交通難を緩和するという美名に隠れて利権のちまたにこれがなろうとしていることは、衆目の見るところであります。」

 当時の国会では与野党こぞっての「利権」集中砲火であった。下記は1954年11月11日付読売が報じる国会での追及の状況の一部である。

東京高速道路の疑惑

 また、1956(昭和31)年9月6日付読売新聞には、東京高速道路は「利権の長城」と呼ばれていたと書いてある。

  ところで、このような魑魅魍魎が蠢く利権の象徴である東京高速道路であるが、新国立競技場関連で国民には説明せず「建築家諸氏へ」というお笑い文書だけ出して世間の失笑を買った日本の代表的建築家である内藤廣氏は、建設業界誌「CE建設業界」2003年12月号に掲載された「フォトエッセイ構築物の風景」において下記のように語っている。

 東京高速道路と石川栄耀 (3)

  曰く「民活やPFIの先駆けだ」「その筋金入りの勇気と熱意」。かたや「都政七不思議」「利権の長城」。皆様はどうお感じであろうか。

 ところで内藤廣センセイも指摘した民活やPFIについては、始め方もともかく、終わり方や失敗したときのシメ方も重要であるのは、異論のないところであろう。 

  では、始め方でもいろいろあった東京高速道路について、〆方も見てみよう。

 東京高速道路と石川栄耀 (4)

1988年6月22日 付け朝日新聞から

東京高速道路

  東京都は、東京高速道路株式会社に当初許可する際に、償却した後は東京都に返還するよう求めていたが、会社がそれを履行しないため、都が会社を民事訴訟で訴えたというのである。

 訴訟は最高裁まで東京都が勝ち続けたのであるが、最後まで会社は返還を履行せず、都の財政難を理由に会社が有償で施設を買い取る形で決着した(2000年2月19日付の読売新聞によると売却額は約55億円とのことである。)。 

 

これが内藤廣大先生の絶賛する「民活やPFIの先駆け」の実態なんである。 

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 そんなドロドロの東京高速道路を道路を廃止した後は、ニューヨークのハイラインのような高架公園にするという。 

  実はハイラインは全線歩いたことがある。

 highline (2)

 highline (1)

  見た目簡単そうに見えるけど、この都心の人込みの中で、ごみも落ちてなく、落書きもなく、植樹も「イイ感じ」に維持していくのは並大抵のコストではできない、ちょっと手を抜くとすぐ雑草と落書きまみれになってしまうと感じた。

 highline (3)

 highline (4)

 実際には世界的な大企業がパトロンになって維持管理をしているようだ。今の銀座で簡単にそれができるかなー。 

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 ところで、以前から言っているのだけれども、東京高速道路(KK線)が道路としては不要となるのであれば、なぜ撤去して銀座の水辺空間を復旧させないのだろうか? 

  日本橋の首都高撤去にあたってソウルの清渓川を例にあげる人は多いのだけれども、ロケーション的には、むしろそれを言うなら東京高速道路の撤去じゃね?と思うわけですよ。

ソウル 清渓川路

 


○岡安参考人 ただいまの御質問でございますが、私らはあくまでもこれは交通緩和、こういうような大きな目的で、許可いたしました。会社の面におきましても、公共のためということを大きく銘を打つております。従いまして、今おつしやられましたような、もしもこの結果、会社側が非常に有利である、非常に利益がある、こういうことが考えられますれば、東京都としては、利益させるために許可したのではございませんので、この点は東京都と会社側と、さらにまだ契約を結ぶ面があると思います。その面につきましては、これは私らしろうとでございますのでおかりませんが、おそらくそんなに有利な条件で会社側がもうかるようなことは許可しませんということを申し上げたいと思うのであります。どういう方面でしますか、これは私らもつと検討いたしまして会社と交渉いたしますが、これは何としても公共施設としてやつておりますので、その点は私らは必ずやり通してみたいと考えております。御心配の点は重々よく考えまして、将来に悔いを残さないようにしたいと考えます。

 

○岡安参考人 樋口社長から冒頭に申しましたように、会社の計画としては、実は八階建をつくりたいということで始めたことは、事案でございます。しかし、それが知事としましては、そういうことはいかぬ、都市計画の関係あるいはその他の関係でいかぬ、こういうので道路ということになつた。それはその通りなんです。ただ会社としましては、東京都から、道路ならば許可する。東京都でもつてやれるかということでやりました際に、一応の計画を会社は、おそらく株式会社でございますので立てられた。これは私らも考えられる。ただ、先ほど只野さんから言われたように、会社がもうけはせぬか、こういう点があるだろうと思いますが、この点は、私は、もう会社が高速道路という名前に隠れてもうけるということば絶対にさせません。そういうことで、今樋口さんの言われたのは、会社が一応計画を立てて、どうやらとんとんに行くつもりでやつてみたら、今度は道路だけということになれば、相当苦しい。苦しいが、しかし東京都の道路の交通の緩和のためというなら、モデル・ケースでやつてみる、こういうふうに私らは了承しておるのであります。今の樋口さんのお話も、多分私はそういうふうに言われたと思うのでございます。決して会社がもうからぬけれども、いやいやながらやつてやるんだ、計画が違う、こんなことでは会社はおそらく成り立たぬと思うというような、もうけを主義にしてやるというのではないと思うのです。東京都としましても、でき上りまして会社がもうかるようにする、もうかるようにどういうふうにしてやる、損だからこんな計画を変更するという意思は全然ございません。必ず東京都としましては、あれが交通緩和のためになる、こういうことであくまでやつて行きますので、この点私から繰返して申し上げておきたいと思います。

 

第18回国会 衆議院 建設委員会 第2号 昭和28年12月7日

 

 上記は岡安東京都副知事(当時)の国会での答弁である。あそこは道路にして公共のために寄与するから許可したのだと。他では、許可の条件に違反したら、許可を取り消すとも答弁している。

 

 それならば、今般、東京高速道路が道路としての機能を失うのであれば、そこの許可を取り消して全て撤去し、河川に復旧すればよいのではないか?ハイライン風の公園にするのはゴマカシではないのか?今でもあそこの地主は東京都であるのだから。私には本来副次的な目的に過ぎなかった商店街を残す口実としてハイライン風高架公園を持ち出してきているようにしか思えない。

東京高速道路の疑惑2  

 1954年10月2日付の朝日が報じるように、地元は外濠川の埋め立てに反対していたのだ。道路が廃止されたのなら、地主の都は道路としての仕様許可を取り消せばよいのではないか。 

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 ところで余談になるが、先日土木学会の主催する「土木コレクション2019」内のイベント「どぼくカフェ」において、土屋 信行氏(リバーフロント研究所 技術参与)が「首都高速道路はなぜ日本橋の上空に架橋されたか!!」という題目で講演を行ったが、

・東京高速道路株式会社は、山田正男の発案である。(←石川栄耀が許可に関わった際には、山田氏はまだ神奈川県庁職員)

・東京高速道路株式会社は、東京都も出資していたが、いつの間にか都の出資分がなくなった。(←前述資料を見てわかるように当初から都の出資はない。)

・東京高速道路株式会社の地主が露店を収容した。(←東京高速道路株式会社線の底地は東京都のもの)

・東京都八重洲口の外濠も、東京高速道路株式会社線にあわせて埋め立てた。(←あそこはまた鉄鋼ビルとか国鉄のインチキとか別途ややこしいところだ。)
 

 といったトンデモ発言連発であったので付記しておく。なんなの土木学会って??

 土木コレクション2019内のイベント「どぼくカフェ」において、土屋 信行氏(リバーフロント研究所 技術参与)が「首都高速道路はなぜ日本橋の上空に架橋されたか」という題目で講演を行った

 土木学会「土木コレクション2019>」「どぼくカフェ」で講演する土屋 信行氏(リバーフロント研究所 技術参与)

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2019年12月 5日 (木)

祝・渋谷東急プラザ新装開店 ~60年を経たバスターミナル設置と東急ターンパイク~

渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (5)


 2019年12月5日、渋谷の東急プラザがリニューアルオープンした。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (6)


 そして、一階にはバスターミナルも設置された。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (7)


 実は、東急の大総帥五島慶太翁は、もともとここにバスターミナルを作ることを目論んでいた。その野望から約60年を経て、遂にバスターミナルがこの地にできたのである。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (2)


 このポンチ絵は、「汎交通」1959年9月号に掲載された「渋谷周辺の交通事情と東急の計画」に掲載されたものである。


 赤丸の部分の「バスターミナル」が、東急プラザである。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (1)


 さて、単にバスターミナルだったら、そんなに大騒ぎすることはないんじゃないかとお思いかもしれない。この報文の中身をよく読んでみよう。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (8)


 「渋谷から江の島に至る自動車専用道路」「長距離専用道路の起点にふさわしい」「バスターミナル」とある。そう、ここはバスタ新宿の大先輩である日本最初のハイウェイバスターミナルになるはずだったのだ。


 


 以前、このブログで「東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-57f6.htmlという記事を書いたのでおさらいしてみよう。


東急ターンパイク免許申請書 (1)


 下記のように、渋谷から江の島へ至る自動車専用道路を東急は計画していた。田園都市線構想はこの自動車専用道路構想がポシャった後である。


東急ターンパイク免許申請書 (13)


東急ターンパイク免許申請書 (17)


 路線バスの計画である。


 1 渋谷-玉川 80往復


 2 渋谷-野沢 40往復


 3 渋谷-梶ヶ谷 20往復


 4 渋谷-西横浜 60往復


 5 渋谷-江ノ島 6往復


 6 渋谷-小田原 10往復


 等の渋谷を起点にする路線バスが計画されていた他、区間路線も予定されていたようだ。


 


東急ターンパイク免許申請書 (19)


 交通経済1955年1月号から引用


 業界誌の新春対談の大見出しが「高速道路に邁進」なんである。この力の入れっぷり。


 


 しかし、残念ながら、東急ターンパイクは小田原~箱根間を除いて実現できなかったのはご存知のとおり。バスターミナルも、バス抜きの東急プラザになってしまった。


 それが、遂にバスターミナルができたのだよ。天国の五島翁もさぞお喜びであろう。


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 ところで、この「渋谷周辺の交通事情と東急の計画」だが、バスターミナル以外にも興味深い図面が満載である。


 渋谷川が、東急百貨店の地下をうねくりながら走っている様子とか


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (4)


 その上に建っていた東急百貨店東横店の「スパン割」は、渋谷川に依拠していたのだなあとか


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (3)

 第三軌条の東急新玉川線が銀座線渋谷駅に乗り入れている図面とか(赤く囲ったところに「二子玉川方」と書いてあるのが分かりますか?)


銀座線に新玉川線が乗り入れる想定だった渋谷駅 


 この他にも「石川栄耀が渋谷の露店を地下街に収容しようとしたけど上手くいかなくて、東急に頼んだところ、肝心の露店よりも東急の地下街の方がはるかにでかいものができあがったなあ」とか、「そこで東急が恩を売ったお陰もあって、東急プラザ周辺の区画整理は東急に有利に行われて疑獄の1つだったらしいぞ」とかまあいろいろ渋谷の魑魅魍魎があるのである。


  


 こちらのツイートもご参考まで 


 


 


 


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2019年10月20日 (日)

首都高 諸橋雅之室長の「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」発言を検証してみる

「施工の神様」という建設業界向けのウェブサイトがある。https://sekokan-navi.jp/magazine/

 

 そこに「50年前の青空を取り戻す―。事業費3200億円の「首都高地下化」で日本橋を再生する」という題名で、諸橋雅之氏(首都高速道路株式会社 日本橋区間更新事業推進室長)のインタビュー記事が載っていた。

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901

 

 その中で「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」という項がある。

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901/2#anc-1

 詳しく見ていこう。

 


「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」

――首都高は「渋滞の解消」が至上命題だったんですね。

 

 諸橋室長 現在ある日本橋は1911年に完成しました。日本の道路元標があって、日本の道路網の始点になっており、大変土木にゆかりの深い場所です。1963年、この日本橋の上に首都高が架かりました。

 

 この区間は、首都高ネットワークの中心でもあります。都心環状線は「都心部のロータリー」で、郊外からやってくる車を処理する出入り口の集合体なんです。日本橋はこの都心環状線にあるわけです。日本橋の区間は、東京オリンピックでも重要なルートでした。

 

 日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。

 

 当時はとにかく、「東京の渋滞を解消する」ことが至上命題だったので、施工スピードが求められたと聞いています。時間のかかる用地買収を伴うルートではなく、運河や幹線道路などの公共空間上のルートを利用しました。

 

 銀座付近では、築地川を干上がらせて、河川の中に道をつくりました。現在の擁壁は当時の護岸なんです。日本橋に首都高を通す際、日本橋川を干上がらせて、日本橋の下を通す案もあったようです。

 

 ただ、ここの日本橋川は神田川とつながっていて、治水上、日本橋川を干上がらせることはできなかったので、やむなく日本橋の上に架けることになりました。ところが、実際に橋が架かると、景色が激変してしまったので、反対する声が上がりました。

 

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901/2#anc-1

 

 

 私が気になるのは「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」といいう諸橋室長の発言部分だ。

 この辺は過去にブログで何回か取り上げているが、せっかくの機会なので、新資料も含めて整理してみよう。

 

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「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認し」たのか?

 

 果たして、「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」なんてことを「地元の方々」は言っていたのか?

 

 以前、このブログで「名橋「日本橋」保存会副会長、細田安兵衛氏の「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」というのは本当か?」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-d4c6.html

 という記事を書いたことがある。そこから一部再掲していこう。


 

 ――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。

 

 「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」

 

NIKKEI STYLE 2020年から見える未来

「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議

「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20830810W7A900C1000000

(オリパラ編集長 高橋圭介)

 

 

 首都高速道路の日本橋附近の地下化において、ネット上では大変多くRT等されている記事である。

 『お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』あたりが、なんとなく「いかにも江戸っ子らしい」イメージとも合致する。

 

 ところが、この細田安兵衛氏は、身内の名橋「日本橋」保存会の本の中では違うことを言っているのだ。

 

 名橋「日本橋」保存会が1992(平成4)年3月に発行した「日本橋架橋80周年記念誌」に掲載された対談「21世紀の日本橋を考える」において、細田安兵衛氏はこのように語っている。

日本橋は首都高に反対していた (1)

 

日本橋は首都高に反対していた (2)

 

 


 細田■日本橋のほうは橋の上に高速道路を掛けるときもいま一つ反対の声が弱かったし、金融機関の進出にも何ら異議を唱えなかったし、そのあたりの意識からちょっと違うんですね。

 まあ日本橋の旦那衆は大まかというか、人がよすぎるというか(笑)、仲良く遊ぶことは好きだが、この点は反省部分がありますね。

 

「日本橋架橋80周年記念誌」 名橋「日本橋」保存会・刊

対談「21世紀の日本橋を考える」103~104頁

 

 

 反対してるじゃん。「今一つ反対の声が弱かったのは反省部分」だって自分で言ってるじゃん。

 

 名橋「日本橋」保存会や地元関係者のいろんな言い分は、ブログにまとめているので併せてご覧いただきたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-d4c6.html

 

 そこでは、「八木長本店 八木長兵衛会長によると、首都高建設に当地元は大反対だったが、オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺したという。」といった、諸橋室長の「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていた」との発言と随分ニュアンスが違う記事も紹介させていただいている。

 

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では、実際の日本橋地区の対応はどうなっていたのだろうか?

 

 あまりいつものネタを使いまわすのも芸がないので、今までのブログで使っていないネタをご紹介しよう。

 

 ネタ元は、山田正男元首都高速道路公団理事長(当時は東京都建設局計画部長)の対談集「明日は今日より豊かか 都市よどこへ行く」政策時報社・刊 である。

 

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する1

 

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する2

 

 オリンピック決定前の1958(昭和33)年12月に日本橋公会堂に呼び出されて、反対派の罵詈雑言を浴びたそうである。さすが日本橋の江戸っ子は小粋である。

 

 ちなみに、灰皿を投げられてネクタイを掴まれたのは港区で、これは首都高2号線である。

 先日、ブラタモリの白金の放送回で、「白金の住民が自然を守るために首都高に反対してルートを変更した」って言っていたじゃないすか。あれが港区の首都高2号線なのである。。

 

 結果的に首都高2号線は東京オリンピックに間に合わなかった。本来は第二京浜(国道1号)の渋滞緩和のために真っ先(オリンピック決定前)に建設に着手した重要路線なのに。

 

首都高速と東京オリンピック (4)

 

 当時首都高2号線を担当した現地所長さんの発言(首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載)がこれである。

 

 

 「江戸っ子は、オリンピックに協力するために首都高には反対しなかった」というのは、印象操作かファンタジーなんすよ。「江戸しぐさ」と同類。もちろん八木長兵衛さんのように「オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺した」という方はいらっしゃったけども。

 

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 参考までに補足すると、当時の報道でも、日本橋上への架橋について地元が反対している旨の記事が掲載されている。

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する3

 1959(昭和34)年2月23日付毎日新聞

 

 中央区は「区内全線地下化」を要望したとある。

 

清水草一が知らない首都高反対の動き3

 

 これは、オリンピック決定直前の1960(昭和35)年4月13日付読売新聞に掲載された日本橋附近の「絶対反対」を報じる記事である。

 

 私の調べた範囲では、日本橋がある中央区だけでなく、港区、品川区の議会が首都高反対の決議をしているようだ。都の事業に複数の区議会が反対決議をするとは異例の事態といえないだろうか?中央区や港区に住むような人はヤボだということだろうか?やはり江戸しぐさの人がいうように本物の江戸っ子は虐殺されてしまったのだろうか?

 

 なお、首都高速道路公団においても「地元ではこの橋の下を隧道で通るように強く要望された」と記している。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 

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 また、宮様が日本橋の上に首都高をかけることについて当時の首都高理事長に懸念を伝えていたという話もある。

首都高と日本橋 (3)

 これは首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載された対談「仁丹の広告塔も見ゆ橋も見ゆ」からの抜粋で、「神崎」は当時の首都高速道路公団理事長神崎丈二氏である。

 高松宮が東京都を通して首都高理事長に「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというのである。

 

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 諸橋雅之室長は、施工の神様の記事では、「ところが、実際に橋が架かると、景色が激変してしまったので、反対する声が上がりました。」と語っているのだが、橋が架かった後どころか、東京オリンピック決定前から地元に反対されていることがお分かりだろうか?

 まあ、諸橋雅之室長も、「首都高速道路公団の歴代理事長が言っている話なんてみんなひっくりかえしてみせるぜ」というだけの物証を社内で押さえているのかもしれないのだが、その辺の判断は皆様にお任せする。

 

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 建設当時新聞は反対したのか?

 ところで、諸橋雅之氏は、「施工の神様」のインタビュー内で「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。」と語っている。これはどうなのか?

 

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (14)

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (12)

 首都高が日本橋の上に架かることを報じる1962(昭和37)年12月24日付読売新聞

 「橋脚や街燈は原型損なわない」という見出しに
「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」というキャプションがついている。

 当時の読売にとっては、日本橋なんかは感傷にすぎなかったと。

 読売は、徹底していて、首都高完成後にもこんな記事を書いている。

 1962(昭和37)年1月25日付読売新聞夕刊では

河川活用による高速道路建設

・「首都高の河川敷利用が少ないため用地買収等に必要以上の経費がかかっている」

 

・「河川が不要になったら干拓して掘割式の自動車道路を建設したり、河川を廃止できなくても高架の自動車道路を建設したりするのが世界各国の大都市における実情」

 

・「一日も早い道路整備が必要」

 

と主張しているのである。今はこんなことを社説で主張している読売新聞が。

 

首都高日本橋 (2)

 東京オリンピック開催を間近に控えた1964(昭和39)年1月1日の朝日新聞の正月特集の一面で日本橋川を塞ぐ首都高の写真を国立競技場よりも大きな写真で紹介している。

日本橋川をふさぐ首都高を「美しい曲線」とする朝日新聞 (2)

 「ビルの谷間に美しい曲線を描く江戸橋インターチェンジ」である。日本橋川は「ビルの谷間」で首都高は「美しい曲線」なのである。

 

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 ということで整理すると

 首都高 諸橋雅之室長「建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。」→新聞は建設後さえも反対していなさそう。

 首都高 諸橋雅之室長「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」→日本橋公会堂に東京都局長を呼び出して罵詈雑言。中央区議会も反対決議。

 

 名橋「日本橋」保存会副会長 細田安兵衛氏「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」→自分で「反対した」と言っている。地元の反対証言が複数あり。

 という結果になってしまった。

 

 最後に首都高速道路公団広報誌「首都高速」における神崎理事長(当時)との対談で語られた日本橋の地元の声を載せておこう。

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する4

 

  まあ、橋本室長は、事業を進めるのが仕事であって、歴史の語り部が仕事ではないのだから、私のような窓際サラリーマンの言うこと等気にせず、業務に邁進していただきたい。

 

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2019年2月25日 (月)

神田上水や渋谷川(キャットストリート)の上空に首都高速道路が計画されていた

 東京オリンピックに向けて建設の槌音が響く1962(昭和37)年1月20日の毎日新聞に、オリンピック後の東京の交通をにらんだ首都高速道路の延伸計画が掲載された。

 なんと渋谷川(現在のキャットストリート)等に首都高速道路を通そうというものである。

 

都心を包む環状高速道路

川から川へ30キロ 高架式 都が40年完成めざす

 ひどくなる一方の東京都の交通マヒを打開する対策の1つとして都は都心部を包む環状高速道路計画を練っていたが、19日、具体案がまとまった。路線は、ほとんどが川の上を走る高架式なので、補償費の心配がなく、総工費は480億。陸上を走らせる場合の6分の1ですみ、昭和40年完成を目標にしている。

神田上水や渋谷川の上空を走る首都高速道路計画があった

 

 都は都内の交通マヒを打開するため、放射四号線をはじめオリンピック関連道路23路線、首都高速道路8路線の建設を進めているが、いたるところで用地買収とこれに伴う補償問題につき当たって工事は進まない。そこで都内を流れる中小河川を利用してその上に道路をつくることになり、目黒川、神田川、江戸川を結んで高速道路を走らせる計画をたてた。

 道路幅は現在建設中の高速道路より2倍以上も広い40メートル(片側を自動車が4台並んで走れる)と予定されており、途中交差する各高速道路とはインターチェンジ(立体交差による方向転換)で接続させる。

 37年度中に1千万円の予算で調査を終わり、38年度から測量、ボーリングをはじめる。民家の立退きなど補償費を必要とする部分は世田谷区代田から杉並区和泉町までの2キロと分岐線の千代田区市谷-新宿区信濃町の1キロの計3キロだけ、あとは工事費だけですむ。現在建設中の高速道路はいずれも都心部から副都心部に向かう放射線なので、こんど決まった高速道路は都ではじめての環状線になる。

神田上水や渋谷川の上空を走る首都高速道路計画があった2

 ※新聞記事に掲載されたルートに私が着色してみた。

本線 現在建設中の高速1号線(羽田―上野)の経由地点、品川区東品川を起点に目黒川の上を高架で西北に走り、東急目蒲線、同玉川線をまたいだあと世田谷区代田付近から北上、小田急線、京王線を越え、杉並区和泉町付近で神田上水に乗って下流に進む。さらに国鉄中央線、山手線と交差して走り、飯田橋、お茶の水を通って東に向かい墨田区の両国橋に出る。そこから隅田川東岸を江東区深川清澄町まで下り、小名木川の上を荒川放水路西岸に達する。全長は約30キロ。

分岐線 (1)千代田区飯田橋から外ぼり川(ママ)に乗って同区市谷、新宿区四谷、信濃町を通り、渋谷川上を南下、港区麻布新広尾町で高速2号線と合する延長7キロ(2)江東区深川白河町から運河に乗って7号埋立地へ出る延長4キロ

 記事では「道路幅は現在建設中の高速道路より2倍以上も広い40メートル(片側を自動車が4台並んで走れる)と予定」とあるが、神田川にしろ渋谷川にしろ、そんな幅員の道路を追加の用地買収なしに、河川の範囲内に収められるとは到底思えないのだが。。。

 それでも原宿から渋谷にかけて現在のキャットストリートを片側4車線の高速道路が高架で走っているところはなかなか想像がつかない。

 気になるのは、いわゆる「36答申」つまり「東京都市計画河川下水道調査特別委員会 委員長報告」(昭和36年10月17日付)との関連である。

 例えば、36答申では、渋谷川は渋谷駅付近(宮益橋)から上流は暗渠化して都市下水とされることとなっていたが、その数か月後に、更に広い範囲で渋谷川の上に高速道路を架けようという新聞記事が出たわけである。

 36答申が出たから心置きなく河川の上に高速道路計画をたてたのか、開渠のまま残す部分との調整がつかなかったから、結局この分岐線(1)は実現しなかったのか、明らかではないが興味はつきないところである。

 また、当時ドブ川だった日本橋川ならともかく、神田上水のように水道局が管理する水路の上に高速道路を架けていいものなのだろうか?

 以前、東京都公文書館にネタ漁りに行った際に、「玉川上水はもう上水道の役割を果たさなくなったので、所管部署を水道局から建設局に移管するよ」といった文書を見た記憶があるがコピーはとっていない。

 「普通河川の維持管理について(玉川上水路を含めて)」だとしたら、1971(昭和46)年なので、まだ水道局所管のままだ。

 また、首都高が河川の上を通るのは「オリンピックに間に合わせるため」という俗説(嘘)があるが、オリンピック以降を見通してもなお、積極的に河川上の空間を高速道路に活用しようという意思が明確に示されている点も興味深い。(※江戸橋~両国間は、オリンピック後に、地元の意向を受けて、地上を通るルートから日本橋川い上を通るルートに変更されていたりする。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html

 

早く正式決定へ

山田首都整備局長の話

 都心の交通マヒの打開は都の都市計画の上でも重要な問題だ。幸い民有地を通る部分がきわめて少ないので、なるべく早く都市計画審議会で正式に決めるようにしたい。

 なかなか、にわかに信じがたいルートではあるが、山田正男”天皇”のインタビューも掲載されているので、それなりにオーソライズされていた計画(プロトタイプではあったが)だったのだろう。

 首都高速道路の最初のネットワークは下記のとおりである。

首都高速と東京オリンピック (7)

 

 また、オリンピック後を見据えて、1962(昭和37)年9月に策定された延伸構想は下記のとおりである。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)

 今回取り上げた新聞記事はこの間をつなぐ段階の構想を示していると位置付けられ、大変興味深い。

 「本線」は、現在の中央環状線(目黒川沿い)、未成となった内環状線(神田川沿い)等の原型と言える。

 また、分岐線(2)は、現在の9号線の原型とも思われるが、1962年9月の段階でもまだ現在のルートにはなっていない。

 当時は、江戸橋以東が日本橋川箱崎川経由ではなく、箱崎インターチェンジ(後にジャンクション)自体の計画が無かったため、これはやむを得ないところか。

 なお、実務家が首都高の経緯を整理した「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅 [著] にもこの新聞記事のルートは載っていないので、ひょっとしたら貴重かも(ジュルジュルー)。

 

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(参考地図)

・東京都第二建設事務所管内図・・・神田川等の確認に

 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/content/000039191.pdf

・東京都第三建設事務所管内図・・・渋谷川、目黒川等の確認に

 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/content/000028318.pdf

・『渋谷川って、どんな川だったの?』

 https://www.city.shibuya.tokyo.jp/assets/detail/files/kurashi_machi_pdf_spub03_09.pdf

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