カテゴリー「暗渠・水路」の26件の記事

2020年2月 7日 (金)

福川裕一千葉大名誉教授監修の「ニッポンのまちのしくみ」が酷い

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (6)

 こんな本をみかけた。

 お子様向けにまちづくりの仕組みを解説する本のようで、千葉大学工学部名誉教授の福川裕一氏が監修しているという。

 

 ただ、その中身がヒドイのだ。

 

 

 まずは、首都高。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (3)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (4)

 ここでも「オリンピックに合わせて急いで高速道路を通す必要があったから空いていたお濠の上を通した」「渋滞だらけの町を世界に見せるわけにはいかなかった」と書いている。

 へー、千葉大学工学部名誉教授様は流石言うことが違う。事実と。

 

 首都高を河川や道路等の公有地の上に通す方針を決めたのは、1957(昭和32)年7月。

 現在の河川の上を走るルートは、1957(昭和32)年12月だ。

 

 ちなみに、東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催は、1958(昭和33)年1月である。

 オリンピックの招致活動を開始する前からルートは決まっていたのである。

首都高と東京オリンピック  

 上記は、東京都技監等を歴任した鈴木信太郎氏の「私の都市計画生活 -喜寿を迎えて-」山海堂刊36頁からの引用である。

 首都高については「たまたまオリンピックが決定したので、始めからオリンピックの為ということは絶対なかったといえる。」と明言している。

 首都高のルートとオリンピックの関係については、以前にもブログにまとめているので、詳細はそちらを参照していただけると幸甚である。

・「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる 

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-f51a.html

 ・古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

--------------------------------------------------------------------

 また、東京の暗渠を説明しているところも怪しい。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (1)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (2)

 東京の暗渠は、オリンピックがきっかけで、観光客が集まる大イベントに変なものがあったら恥ずかしいだからだそうですよ。

 

 

 東京の河川の暗渠化は、1961(昭和36)年の「36答申」がきっかけである。


 1960年代に入ると、高度経済成長期に突入した東京では人口1000万人を突破、さらなる人口集中と都市化が進む。市街地がさらに拡大し、森林や田畑、未舗装地が減少していくことで、各地の湧水は涵養源を失って涸れていく。用水路も灌漑の使命を終えて送水が停止される。こうして河川の水源は枯渇していった。

 一方で、急増する生活排水に下水道整備が追いつかず、自然の水と入れ替わるように川に流入する家庭や工場の排水量が増えていく。その結果、川の「主水源」が下水であるといったような事態が発生する。また、土地の貯水機能が消失したことで、降雨時の急激な増水も多発するようになった。

 このような状況を背景に、昭和36年(1961)、東京都市計画地方審議会河川下水道調査特別部会より「東京都市計画河川下水道調査特別委員会 委員長報告」、通称「下水道36答申」がまとめられ、中小河川の暗渠化・下水道転用が打ち出されることなる。

 暗渠化の理由としては、①河川を下水に転用することでコストや時間、技術面でのメリットを享受できること(河川の水路と自然勾配の転用)、②別途下水道を整備した場合、川は「水源」を失うことになってさらに環境が悪化すること、③流域住民からの苦情や強い要請、といったことがあげられている。

 

 「東京暗渠学」 本田創・著、洋泉社・刊 107-108頁から引用

 

 ひょっとしたら、著者は分かり易くするためにオリンピックをダシにしたのかもしれないが、暗渠マニアの方の本の方がよっぽど36答申の時代背景とあわせてきちんと分かり易く書けている。 

 オリンピックが推進力になった部分があるだろうが、オリンピックのために恥ずかしいものを隠すために「臭いものにふたをした」というのは短絡的にもほどがあるのではないか?

  

 ちゃんとした?学会の論文を読みたい方はこちらなどもどうぞ。

 「36答申における都市河川廃止までの経緯とその思想」中村晋一郎・沖大幹・著 水工学論文集,第53巻,2009年2月

 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00028/2009/53-0095.pdf

 興味深いのは、この論文では「オリンピック」という言葉が一言もでてこないのだ。なんでもかんでもオリンピックのせいにする福川裕一氏と専門家の論文は対照的である。

 

 --------------------------------------------------------------------

 東京オリンピック時に東京都で局長として大活躍した山田正男氏は下記のように語っている。 

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦


対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「この際年度を一年くりあげるということはあり得るけれども、それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と。

 

 発行元の「淡交社」は、茶道の本で有名だが、歴史を大事にしないと千利休が泣いているぞ。

| | コメント (0)

2020年1月18日 (土)

鈴木ケンイチ氏「首都高速道路や阪神高速道路が、高速道路ではないってどういうこと?」を検証してみた

Webモーターマガジンに、鈴木ケンイチ氏が「【クルマ豆知識】首都高速道路や阪神高速道路が、高速道路ではないってどういうこと?https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17268551という記事を書いていたので、ファクトチェックしてみた。

 


そもそも東京の首都高速道路と、東名高速道路をはじめとした都市と都市を結ぶ全国ネットワークの高速道路では、目的が異なっていた。

名称こそどちらも同じ1950年代に計画されたが、首都高速道路の建設はあくまでも都心部の渋滞緩和のためだった。直面する東京都心部の渋滞を緩和するために、なるべく早く作らなければならなかったのだが、終戦から10年の歳月で都心部はびっしりと建造物が立ち並んでいた。

建設用地を買収しようとすれば、時間も費用も莫大なものになる。そこで河川の上を走らせるアイデアが採用された。クネクネと曲がる河川の上を走るため、高い速度域での走行は無理ということで、最高速は60km/hに設定されたのだ。ちなみに計画は、戦前となる1930年代に発表された論文が土台となっていた。

 

【クルマ豆知識】首都高速道路や阪神高速道路が、高速道路ではないってどういうこと?(文:鈴木ケンイチ)

 

 「首都高の制限速度が60キロの区間が多いのは、河川の上を走るから」という俗説は、割と信じられているのだが、ダウトだ。

 鈴木ケンイチ氏が「1950年代に計画された」「ちなみに計画は、戦前となる1930年代に発表された論文が土台となっていた。」「首都高速道路の計画が決まったのは1959年のこと。」としているあたりを時系列でざくっと整理してみると下記のとおりである。

首都高速道路の速度が60キロの経緯 (2)

「都市計画を担う君たちへ 」井上孝 [述],井上研究会 編 86-87頁から引用

 鈴木ケンイチ氏が言うように「クネクネと曲がる河川の上を走るため、高い速度域での走行は無理ということで、最高速は60km/hに設定されたのだ。」となるのか、それぞれ当てはめてみたい。

 結果はこうだ。

首都高速道路の速度が60キロの経緯 (3)

 河川の上を走る今のルートが決まったのは1957(昭和32)年だが、時速60キロと決めたのは、1953(昭和28)年であり、その際のルートは河川の上を走るものではなかった。

 実際に資料を見てみよう。

首都高速道路の速度が60キロの経緯 (1)

「首都高速道路公団参考資料 」11頁から引用

 1953(昭和28)年の段階で、「最高60粁/時、最低60粁/時を標準とする速度を保持し得るよう設計すること」とあるのが分かるだろう。

 そして「尚首都高速道路は五本の路線よりなり総延長49粁である」とある。鈴木ケンイチ氏の言が正しいのなら、ここの段階で河川の上を走っていなければならない。

初期の首都高計画路線図

 現実は、残念でしたと申し上げるしかないのである。この段階ではまだ河川の上ではなく、市街地をまっすぐ走る構想であった。にもかかわらず「最高60粁/時」なのである。

 現在の河川の上を走る構想は、1957(昭和32)年の「東京都市計画高速道路調査特別委員会」だが、その際に示されたのが下記の図面である。

首都高と河川・運河の関係

 ちなみに、河川の上を走る割合は約41%とのことである。「首都高が遅いのは河川の上を走るせい」にされがちだが、実際は約6割は地上を走っている。

--------------------------------------------------------------------

 ということで、鈴木ケンイチ氏の記事がダウトということは皆様お分かりになったと思うが、では何故首都高速道路等の都市高速道路の最高時速は60km/hとされている区間が多いのだろうか?(実際には湾岸線等は80km/hだったりもするのだが)

 これについては、以前私は「東京新聞福岡範行記者「首都高は『高速』にあらず?→『自動車専用道路』です」を検証する。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/post-f8a8.htmlで整理しているので再掲してみよう。

 

--------------------------------------------------------------------

 


二 東京都市高速道路の性格

 此の高速道路は主として東京都内の外周部一帯から発生して、都心部に流入する膨大な都市内交通量に短時間で、円滑に処理するために、一般の街路とは分離して設けられる平面交叉のない自動車専用の高速道路である。簡単に申せば、都市内交通のための高速道路であり、能率的な都市内の平面交差点のない立体道路である。それ故高速道路網の組み方も主要な放射幹線を各方面(八方向)に配置してあるのである。東京の高速道路も各都市間を連絡する、遠距離道路との連絡も一応考えてはいるが、あくまでもそれが主目的ではないのである。したがって諸外国において既に数多く建設されている所謂高速道路とは大分趣を異にしておるのである。

三 東京都市計画都市高速道路網計画

 東京の全般的交通処理方策にもとづき、この都市高速道路は環状六号線以内の平面の幹線道路の交通能力を補うのが目的であって、高速度そのものが直接の目的ではない。いわば交差点のない道路をつくろうということである。したがって、設計速度は60粁/時度とした。

 

東京の都市高速道路の其後」 新都市1959年1月号 岩出進(東京都建設局都市計画部技術課計画第二主査・当時)

※旧漢字は引用者が修正した。

 


 都市高速道路という高速道路は、 これは名神高速道路とか東名高速道路とかいう高速道路とは違うのであります。 スピードをあげるための高速道路ではないのであります。先ほども申し上げましたように、平面の道路だけでは処理できないから、土地を空間的に使う,立体的に使うわけです。そのための道路です。また平面の道路は交通能率が非常に悪い。悪いのは交差点があるからだ。そこで交差点を立体化しよう。ところが都市内の交差点は連続しておりますから、一連の連続している交差点を立体化してみたところが、 これは高架の道路になった。あるいは掘割式の道路になったというのが都市高速道路であります。そこで私どもはこんな道路にスピードを期待する必要がないわけでございます。時間的スピードはもちろん期待はしておりますが、物理的な速度は期待する必要がない。そこで設計速度平均 60 km とこういうことにいたしておりますが、もう一つこの都市高速道路の特長となることは、これは長距離の高速道路と違いますから、長距離を短時間で結ぶのではなくて、その道路の流域から最能率的に交通をそこに吸収することが使命でございます。道路を作りましても、使わない道路を作っても能はないわけでございます。なるべく使い易くしてやる必要がある。首都高速道路の計画をごらんになりますと、曲りくねっている。これはまあ、まっすぐに作りにくい市街地がすでにできておることもございますが、曲った方がそれだけ流域面積がふえるわけでございます。道路の流域面積がふえるということは道路利用価値が上がるということです。そういう意味で もっとも曲がっていることをはずかしいとは思っていないわけでございます。曲がった方がいい場合が多々あるわけです。

 

「東京都の都市計画について」昭和38年トヨペットマネジメントスクールにおける講演要旨 「時の流れ・都市の流れ」 山田正男(東京都整備局長・当時)

 

 


 市街地に於いては主要な交叉点を立体化しようとすれば、結局高架の道路となる。従ってこの都市高速道路は、名古屋-神戸間の高速自動車国道のような長距離的な道路とは根本的に違う。これは平面街路の交通能力の不足を補うものである。従ってスピードも100キロ、120キロを要求する必要はなく、60キロで結構だと思う。

 「都市高速道路を中心とした東京都の道路政策」昭和33年 「時の流れ・都市の流れ」 山田正男(東京都整備局長・当時)

--------------------------------------------------------------------

 

 如何だろうか?

 鈴木ケンイチ氏は「そもそも東京の首都高速道路と、東名高速道路をはじめとした都市と都市を結ぶ全国ネットワークの高速道路では、目的が異なっていた。」と書いている。

 惜しい!そこをもう一歩踏み込めば鈴木ケンイチ氏もライターとして成長できたはずだ。

 目的が違うから最高速度も違うのであった。

--------------------------------------------------------------------

 

 ところで、このwebモーターマガジンの記事では、このようにも語っている。

 曰く「東京を中心とした「首都高速道路」や近畿地方の「阪神高速道路」、愛知県の「名古屋高速道路」など、名称に“高速道路”とついた有料道路は数多い。しかし、ここで挙げた3つを含む都市高速道路を正確に言うと“高速道路ではない”という。」

 

 ここで、法律を見てみよう。


高速道路株式会社法

 
(定義)

第二条 この法律において「道路」とは、道路法(昭和二十七年法律第百八十号)第二条第一項に規定する道路をいう。

2 この法律において「高速道路」とは、次に掲げる道路をいう。

一 高速自動車国道法(昭和三十二年法律第七十九号)第四条第一項に規定する高速自動車国道

二 道路法第四十八条の四に規定する自動車専用道路(同法第四十八条の二第二項の規定により道路の部分に指定を受けたものにあっては、当該指定を受けた道路の部分以外の道路の部分のうち国土交通省令で定めるものを含む。)並びにこれと同等の規格及び機能を有する道路(一般国道、都道府県道又は同法第七条第三項に規定する指定市の市道であるものに限る。以下「自動車専用道路等」と総称する。)

 

 高速道路株式会社法第2条第2項第2号の「自動車専用道路等」に、首都高速道路は該当する。

 そして、それは「高速道路」と定義されているのである。

 

 何をもって「正確に言うと」とするかは、いろいろ基準があると思うのだが、少なくとも現在の日本の法律では、首都高速道路は「高速道路」である。

 よっぽど調べてガチガチに定義付けするのならともかく、迂闊に「実は首都高速道路は高速道路じゃないんだよ」等と言うと恥をかきかねないのでご注意を。

 ※「首都高速道路は高速自動車国道じゃないんだよ」と言うのは正しい。

 ※高速自動車国道でも、中央道の高井戸~三鷹料金所間のように最高時速60km/hの区間もあるので、速度だけで定義するのはあまり簡単ではない。

 

--------------------------------------------------------------------

(参考記事)

「高速道路」と「自動車道」の違いについて(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/post-ffea.html

 

佐々木俊尚氏の「高速道路は基本100kmh制限です」ツイートを整理してみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/02/100kmh-4ecd.html

 

| | コメント (0)

2020年1月 2日 (木)

東京高速道路(KK線)が廃道になって、高架緑地になるとの報道を聞いて

 ブログの方の「骨まで大洋ファン」の最初の投稿が2010年なので、なんと10年経っちゃいましたよ。これも皆様のアクセスがモチベーションなので、感謝申し上げる次第です。

 

 ところで、新年早々こんな記事が。首都高の日本橋部分撤去・地下化にあわせてう回路をどうするのか注目されていた銀座附近につき、地下別線でう回路を新設するとともに、既存の東京高速道路株式会社線(KK線)は、高架公園にするというのである。

--------------------------------------------------------------------

 はあ、そうですか。ところで、あそこは道路にする目的で河川埋立の許可を取ったところのはずなんで、道路がなくなれば、コリドー街等の商店街はそのまま設置させてよいのだろうか??と疑問を抱いたので、改めてここの経緯等をおさらいしてみたい。

--------------------------------------------------------------------


(聞き手)あのKK線は、例の自動車運送法でしたか。

(山田)自動車運送法の自動車専用道路です。料金は無料という有料道路なんだな。

(聞き手)あれは石川栄耀氏が、いろいろと役割を果たされたんですか。

(山田)まあ、役所としてはそういうことになっているね。陰には秀島乾。あれが石川さんのところに入り浸っていたのだろう。東京都と東京高速道路株式会社との契約は全くいい加減だ。

 (中略) 

 

(聞き手)そもそも、あそこを埋め立てて、フードセンターにして、上を道路運送法でやろうと発想した本当の人は誰なんでしょうか・

(山田)発想したのは石川栄耀だ。秀島乾、塩沢弘もその一員だ。

 

「東京の都市計画に携わって-元東京都首都圏整備局長・山田正男氏に聞く-」70、71、73頁から

 で、その秀島乾によるスカイビル構想が残っている。

秀島乾・石川栄耀のスカイビル・スカイウェイ (3)

秀島乾・石川栄耀のスカイビル・スカイウェイ (1)

秀島乾・石川栄耀のスカイビル・スカイウェイ (2)

秀島乾・石川栄耀のスカイビル・スカイウェイ (4)

 日本橋の首都高が清々しく見えるほど、河川を埋めて街というか銀座・有楽町のど真ん中を分断しているんだけど、建築屋や都市計画屋は不思議とこれを批判しないんだよなー。

--------------------------------------------------------------------

 で、実際に事業を着手したのがこれ。

東京高速道路-07

東京高速道路-07-2

 樋口実は三菱地所、青木一男は戦前の大蔵官僚から大臣で公職追放(後に高速道路族の最有力者)、小林一三は阪急、藤山愛一郎もいれば、読売新聞社もいる。斯様に政財官マスコミの一大連合体がこの東京高速道路の母体だったのである。

東京高速道路-08

 当初目論見の図面がこれ。

東京高速道路-08-2

 外濠川は実は埋め立てずに、川を跨ぐ形で道路と建物を作るはずだった、とか、今のコリドー街のような店舗、飲食等ではなく高架下には車庫、倉庫を作るはずだったとか今とはいろいろ違うんすよ。

 

 そしてやっかいなのは、石川栄耀の立ち位置。

東京高速道路と石川栄耀 (2)

東京高速道路と石川栄耀 (1)

 上記で石川栄耀の後任の山田正男が、「発想したのは石川栄耀だ。」と述べているところ、実際には政財官コングロマリットにやらせておいて、自分が許可する立場に立っているのだ。裏を取れていない情報ではあるが、石川栄耀は東京都退職後にこの会社に天下ったという記述もある。

 そして更にややこしいのがこれ。

○中井(徳)委員 私は、残念ながら、今の黒金さんの答弁には全く反対であります。従って、これはきょうどうこう言うのではありませんが、私は慎重に研究してもらいたいと思います。こういうことになりますと、四年目に一度は一カ月か二カ月、全国の四千近い府県、市町村の長が、選挙期間中は空席になる。

 それでは具体的に申し上げます。これは賛否両論ですが、東京で今高速道路というのをやっていましょう。あの堀を埋めまして、数寄屋橋がなくなってしまった、それを四、五年前に、自民党、社会党両党の委員がこぞって――村瀬さんもいらっしゃいますが、当時の建設委員が大いに反対したのです。ああいうものは風致を害するということでもって、やりました。そのときにだれが判を押したか調べてみた。そうしたら、安井君が二期か三期目の選挙の途中に、もう死にました石川栄耀さんという人が判を押しています。安井さんは留守です。あの人は、局長さんか何かでおられた。そういうことがあるのですよ。ですから、これはたまたま一つの事実にすぎませんが、私は十分起り得ると思うのです。皆さんのお考えの方が人がよ過ぎるように思いますので、一つ強くこの点を要望いたしておきます。御研究をいただいて、必要があるならば、この選挙期間中は代理者の行政に対する幅に規制をされた方がいいのではなかろうか、こう思います。これは強く要望いたしておきます。

  昭和34年3月12日 衆議院 公職選挙法改正に関する調査特別委員会

 要するに、東京高速道路の決裁は、安井知事が選挙のために不在の間に、当時建設局長だった石川栄耀が「判を押した」ということを中井代議士が国会で指摘しているということなんである。

--------------------------------------------------------------------

  当初許可後、下記のような理由で、現在のように外濠川を完全に埋め立てた形になっている。そして今もあそこは都有地だ。

東京高速道路-09  

  このように不明朗な形で建設された東京高速道路であるが、東京都政の汚職を指して言う「安井都政の七不思議」の一番手としてあげられることが多い。(二番目あたりに私の大好きな三原橋あたりがくるのだが)

 安井都政の七不思議と東京高速道路 (2)

安井都政の七不思議と東京高速道路 (1)  

 「東京都知事」日比野登・編著 日本経済評論社・刊 41・42頁から

  安井都政の七不思議と東京高速道路に言及している文献は多数あるが、とりあえずこれが簡便にまとまっているかと。

  また、東京高速道路は自民党議員からも「利権道路」と呼ばれていた。

 昭和33年4月10日衆議院建設委員会において久野忠治議員曰く
「一部経済人がこれに目をつけまして、御存じの通り新橋―京橋間に東京高速自動車道路の建設が計画をされ、目下この事業が進行中でございます」
「副知事はこう答えました。倉庫もしくはガレージに利用する、こう言ったのであります。万一その利用目的が変った場合にはどういう処置をとるかという質問に対して、撤去を命ずる、こう言いました。それからもう一つ、この都市計画全体からいって、下水あるいは雨水の排水のための重要な都市水路であるから、これは残しておくべきではないかという意見もそのときに出たのであります。その質問に対しては、地下はいわゆる水路として残しておくように設計をされておる、万一それを埋め立て等にする場合があれば、これまた当初の設計に反するものであるから撤去を命ずるということを、現に当委員会で言明をされたのであります。」
「ところが今日でき上りましたものを拝見いたしますると、堂々たるキャバレーができたり、あるいは飲食店ができたり、事務所ができたり、倉庫というのは名ばかりで、今ガレージなどというのは名目的に一、二カ所あるだけでございます。」
「地下の水路はすでに埋め立てをいたしてしまいまして、そうしてこれを地下の倉庫に利用しようといたしております。そうして莫大な利権を握って、東京都の交通難を緩和するという美名に隠れて利権のちまたにこれがなろうとしていることは、衆目の見るところであります。」

 当時の国会では与野党こぞっての「利権」集中砲火であった。下記は1954年11月11日付読売が報じる国会での追及の状況の一部である。

東京高速道路の疑惑

 また、1956(昭和31)年9月6日付読売新聞には、東京高速道路は「利権の長城」と呼ばれていたと書いてある。

  ところで、このような魑魅魍魎が蠢く利権の象徴である東京高速道路であるが、新国立競技場関連で国民には説明せず「建築家諸氏へ」というお笑い文書だけ出して世間の失笑を買った日本の代表的建築家である内藤廣氏は、建設業界誌「CE建設業界」2003年12月号に掲載された「フォトエッセイ構築物の風景」において下記のように語っている。

 東京高速道路と石川栄耀 (3)

  曰く「民活やPFIの先駆けだ」「その筋金入りの勇気と熱意」。かたや「都政七不思議」「利権の長城」。皆様はどうお感じであろうか。

 ところで内藤廣センセイも指摘した民活やPFIについては、始め方もともかく、終わり方や失敗したときのシメ方も重要であるのは、異論のないところであろう。 

  では、始め方でもいろいろあった東京高速道路について、〆方も見てみよう。

 東京高速道路と石川栄耀 (4)

1988年6月22日 付け朝日新聞から

東京高速道路

  東京都は、東京高速道路株式会社に当初許可する際に、償却した後は東京都に返還するよう求めていたが、会社がそれを履行しないため、都が会社を民事訴訟で訴えたというのである。

 訴訟は最高裁まで東京都が勝ち続けたのであるが、最後まで会社は返還を履行せず、都の財政難を理由に会社が有償で施設を買い取る形で決着した(2000年2月19日付の読売新聞によると売却額は約55億円とのことである。)。 

 

これが内藤廣大先生の絶賛する「民活やPFIの先駆け」の実態なんである。 

--------------------------------------------------------------------

 そんなドロドロの東京高速道路を道路を廃止した後は、ニューヨークのハイラインのような高架公園にするという。 

  実はハイラインは全線歩いたことがある。

 highline (2)

 highline (1)

  見た目簡単そうに見えるけど、この都心の人込みの中で、ごみも落ちてなく、落書きもなく、植樹も「イイ感じ」に維持していくのは並大抵のコストではできない、ちょっと手を抜くとすぐ雑草と落書きまみれになってしまうと感じた。

 highline (3)

 highline (4)

 実際には世界的な大企業がパトロンになって維持管理をしているようだ。今の銀座で簡単にそれができるかなー。 

-------------------------------------------------------------------- 

 ところで、以前から言っているのだけれども、東京高速道路(KK線)が道路としては不要となるのであれば、なぜ撤去して銀座の水辺空間を復旧させないのだろうか? 

  日本橋の首都高撤去にあたってソウルの清渓川を例にあげる人は多いのだけれども、ロケーション的には、むしろそれを言うなら東京高速道路の撤去じゃね?と思うわけですよ。

ソウル 清渓川路

 


○岡安参考人 ただいまの御質問でございますが、私らはあくまでもこれは交通緩和、こういうような大きな目的で、許可いたしました。会社の面におきましても、公共のためということを大きく銘を打つております。従いまして、今おつしやられましたような、もしもこの結果、会社側が非常に有利である、非常に利益がある、こういうことが考えられますれば、東京都としては、利益させるために許可したのではございませんので、この点は東京都と会社側と、さらにまだ契約を結ぶ面があると思います。その面につきましては、これは私らしろうとでございますのでおかりませんが、おそらくそんなに有利な条件で会社側がもうかるようなことは許可しませんということを申し上げたいと思うのであります。どういう方面でしますか、これは私らもつと検討いたしまして会社と交渉いたしますが、これは何としても公共施設としてやつておりますので、その点は私らは必ずやり通してみたいと考えております。御心配の点は重々よく考えまして、将来に悔いを残さないようにしたいと考えます。

 

○岡安参考人 樋口社長から冒頭に申しましたように、会社の計画としては、実は八階建をつくりたいということで始めたことは、事案でございます。しかし、それが知事としましては、そういうことはいかぬ、都市計画の関係あるいはその他の関係でいかぬ、こういうので道路ということになつた。それはその通りなんです。ただ会社としましては、東京都から、道路ならば許可する。東京都でもつてやれるかということでやりました際に、一応の計画を会社は、おそらく株式会社でございますので立てられた。これは私らも考えられる。ただ、先ほど只野さんから言われたように、会社がもうけはせぬか、こういう点があるだろうと思いますが、この点は、私は、もう会社が高速道路という名前に隠れてもうけるということば絶対にさせません。そういうことで、今樋口さんの言われたのは、会社が一応計画を立てて、どうやらとんとんに行くつもりでやつてみたら、今度は道路だけということになれば、相当苦しい。苦しいが、しかし東京都の道路の交通の緩和のためというなら、モデル・ケースでやつてみる、こういうふうに私らは了承しておるのであります。今の樋口さんのお話も、多分私はそういうふうに言われたと思うのでございます。決して会社がもうからぬけれども、いやいやながらやつてやるんだ、計画が違う、こんなことでは会社はおそらく成り立たぬと思うというような、もうけを主義にしてやるというのではないと思うのです。東京都としましても、でき上りまして会社がもうかるようにする、もうかるようにどういうふうにしてやる、損だからこんな計画を変更するという意思は全然ございません。必ず東京都としましては、あれが交通緩和のためになる、こういうことであくまでやつて行きますので、この点私から繰返して申し上げておきたいと思います。

 

第18回国会 衆議院 建設委員会 第2号 昭和28年12月7日

 

 上記は岡安東京都副知事(当時)の国会での答弁である。あそこは道路にして公共のために寄与するから許可したのだと。他では、許可の条件に違反したら、許可を取り消すとも答弁している。

 

 それならば、今般、東京高速道路が道路としての機能を失うのであれば、そこの許可を取り消して全て撤去し、河川に復旧すればよいのではないか?ハイライン風の公園にするのはゴマカシではないのか?今でもあそこの地主は東京都であるのだから。私には本来副次的な目的に過ぎなかった商店街を残す口実としてハイライン風高架公園を持ち出してきているようにしか思えない。

東京高速道路の疑惑2  

 1954年10月2日付の朝日が報じるように、地元は外濠川の埋め立てに反対していたのだ。道路が廃止されたのなら、地主の都は道路としての仕様許可を取り消せばよいのではないか。 

--------------------------------------------------------------------

 ところで余談になるが、先日土木学会の主催する「土木コレクション2019」内のイベント「どぼくカフェ」において、土屋 信行氏(リバーフロント研究所 技術参与)が「首都高速道路はなぜ日本橋の上空に架橋されたか!!」という題目で講演を行ったが、

・東京高速道路株式会社は、山田正男の発案である。(←石川栄耀が許可に関わった際には、山田氏はまだ神奈川県庁職員)

・東京高速道路株式会社は、東京都も出資していたが、いつの間にか都の出資分がなくなった。(←前述資料を見てわかるように当初から都の出資はない。)

・東京高速道路株式会社の地主が露店を収容した。(←東京高速道路株式会社線の底地は東京都のもの)

・東京都八重洲口の外濠も、東京高速道路株式会社線にあわせて埋め立てた。(←あそこはまた鉄鋼ビルとか国鉄のインチキとか別途ややこしいところだ。)
 

 といったトンデモ発言連発であったので付記しておく。なんなの土木学会って??

 土木コレクション2019内のイベント「どぼくカフェ」において、土屋 信行氏(リバーフロント研究所 技術参与)が「首都高速道路はなぜ日本橋の上空に架橋されたか」という題目で講演を行った

 土木学会「土木コレクション2019>」「どぼくカフェ」で講演する土屋 信行氏(リバーフロント研究所 技術参与)

| | コメント (3)

2019年12月 5日 (木)

祝・渋谷東急プラザ新装開店 ~60年を経たバスターミナル設置と東急ターンパイク~

渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (5)


 2019年12月5日、渋谷の東急プラザがリニューアルオープンした。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (6)


 そして、一階にはバスターミナルも設置された。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (7)


 実は、東急の大総帥五島慶太翁は、もともとここにバスターミナルを作ることを目論んでいた。その野望から約60年を経て、遂にバスターミナルがこの地にできたのである。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (2)


 このポンチ絵は、「汎交通」1959年9月号に掲載された「渋谷周辺の交通事情と東急の計画」に掲載されたものである。


 赤丸の部分の「バスターミナル」が、東急プラザである。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (1)


 さて、単にバスターミナルだったら、そんなに大騒ぎすることはないんじゃないかとお思いかもしれない。この報文の中身をよく読んでみよう。


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (8)


 「渋谷から江の島に至る自動車専用道路」「長距離専用道路の起点にふさわしい」「バスターミナル」とある。そう、ここはバスタ新宿の大先輩である日本最初のハイウェイバスターミナルになるはずだったのだ。


 


 以前、このブログで「東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-57f6.htmlという記事を書いたのでおさらいしてみよう。


東急ターンパイク免許申請書 (1)


 下記のように、渋谷から江の島へ至る自動車専用道路を東急は計画していた。田園都市線構想はこの自動車専用道路構想がポシャった後である。


東急ターンパイク免許申請書 (13)


東急ターンパイク免許申請書 (17)


 路線バスの計画である。


 1 渋谷-玉川 80往復


 2 渋谷-野沢 40往復


 3 渋谷-梶ヶ谷 20往復


 4 渋谷-西横浜 60往復


 5 渋谷-江ノ島 6往復


 6 渋谷-小田原 10往復


 等の渋谷を起点にする路線バスが計画されていた他、区間路線も予定されていたようだ。


 


東急ターンパイク免許申請書 (19)


 交通経済1955年1月号から引用


 業界誌の新春対談の大見出しが「高速道路に邁進」なんである。この力の入れっぷり。


 


 しかし、残念ながら、東急ターンパイクは小田原~箱根間を除いて実現できなかったのはご存知のとおり。バスターミナルも、バス抜きの東急プラザになってしまった。


 それが、遂にバスターミナルができたのだよ。天国の五島翁もさぞお喜びであろう。


--------------------------------------------------------------------


 ところで、この「渋谷周辺の交通事情と東急の計画」だが、バスターミナル以外にも興味深い図面が満載である。


 渋谷川が、東急百貨店の地下をうねくりながら走っている様子とか


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (4)


 その上に建っていた東急百貨店東横店の「スパン割」は、渋谷川に依拠していたのだなあとか


渋谷東急プラザとバスターミナルと東急ターンパイク (3)

 第三軌条の東急新玉川線が銀座線渋谷駅に乗り入れている図面とか(赤く囲ったところに「二子玉川方」と書いてあるのが分かりますか?)


銀座線に新玉川線が乗り入れる想定だった渋谷駅 


 この他にも「石川栄耀が渋谷の露店を地下街に収容しようとしたけど上手くいかなくて、東急に頼んだところ、肝心の露店よりも東急の地下街の方がはるかにでかいものができあがったなあ」とか、「そこで東急が恩を売ったお陰もあって、東急プラザ周辺の区画整理は東急に有利に行われて疑獄の1つだったらしいぞ」とかまあいろいろ渋谷の魑魅魍魎があるのである。


  


 こちらのツイートもご参考まで 


 


 


 


| | コメント (0)

2019年10月20日 (日)

首都高 諸橋雅之室長の「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」発言を検証してみる

「施工の神様」という建設業界向けのウェブサイトがある。https://sekokan-navi.jp/magazine/

 

 そこに「50年前の青空を取り戻す―。事業費3200億円の「首都高地下化」で日本橋を再生する」という題名で、諸橋雅之氏(首都高速道路株式会社 日本橋区間更新事業推進室長)のインタビュー記事が載っていた。

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901

 

 その中で「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」という項がある。

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901/2#anc-1

 詳しく見ていこう。

 


「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」

――首都高は「渋滞の解消」が至上命題だったんですね。

 

 諸橋室長 現在ある日本橋は1911年に完成しました。日本の道路元標があって、日本の道路網の始点になっており、大変土木にゆかりの深い場所です。1963年、この日本橋の上に首都高が架かりました。

 

 この区間は、首都高ネットワークの中心でもあります。都心環状線は「都心部のロータリー」で、郊外からやってくる車を処理する出入り口の集合体なんです。日本橋はこの都心環状線にあるわけです。日本橋の区間は、東京オリンピックでも重要なルートでした。

 

 日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。

 

 当時はとにかく、「東京の渋滞を解消する」ことが至上命題だったので、施工スピードが求められたと聞いています。時間のかかる用地買収を伴うルートではなく、運河や幹線道路などの公共空間上のルートを利用しました。

 

 銀座付近では、築地川を干上がらせて、河川の中に道をつくりました。現在の擁壁は当時の護岸なんです。日本橋に首都高を通す際、日本橋川を干上がらせて、日本橋の下を通す案もあったようです。

 

 ただ、ここの日本橋川は神田川とつながっていて、治水上、日本橋川を干上がらせることはできなかったので、やむなく日本橋の上に架けることになりました。ところが、実際に橋が架かると、景色が激変してしまったので、反対する声が上がりました。

 

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901/2#anc-1

 

 

 私が気になるのは「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」といいう諸橋室長の発言部分だ。

 この辺は過去にブログで何回か取り上げているが、せっかくの機会なので、新資料も含めて整理してみよう。

 

------------------------------------------------------------------

 

「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認し」たのか?

 

 果たして、「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」なんてことを「地元の方々」は言っていたのか?

 

 以前、このブログで「名橋「日本橋」保存会副会長、細田安兵衛氏の「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」というのは本当か?」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-d4c6.html

 という記事を書いたことがある。そこから一部再掲していこう。


 

 ――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。

 

 「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」

 

NIKKEI STYLE 2020年から見える未来

「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議

「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20830810W7A900C1000000

(オリパラ編集長 高橋圭介)

 

 

 首都高速道路の日本橋附近の地下化において、ネット上では大変多くRT等されている記事である。

 『お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』あたりが、なんとなく「いかにも江戸っ子らしい」イメージとも合致する。

 

 ところが、この細田安兵衛氏は、身内の名橋「日本橋」保存会の本の中では違うことを言っているのだ。

 

 名橋「日本橋」保存会が1992(平成4)年3月に発行した「日本橋架橋80周年記念誌」に掲載された対談「21世紀の日本橋を考える」において、細田安兵衛氏はこのように語っている。

日本橋は首都高に反対していた (1)

 

日本橋は首都高に反対していた (2)

 

 


 細田■日本橋のほうは橋の上に高速道路を掛けるときもいま一つ反対の声が弱かったし、金融機関の進出にも何ら異議を唱えなかったし、そのあたりの意識からちょっと違うんですね。

 まあ日本橋の旦那衆は大まかというか、人がよすぎるというか(笑)、仲良く遊ぶことは好きだが、この点は反省部分がありますね。

 

「日本橋架橋80周年記念誌」 名橋「日本橋」保存会・刊

対談「21世紀の日本橋を考える」103~104頁

 

 

 反対してるじゃん。「今一つ反対の声が弱かったのは反省部分」だって自分で言ってるじゃん。

 

 名橋「日本橋」保存会や地元関係者のいろんな言い分は、ブログにまとめているので併せてご覧いただきたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-d4c6.html

 

 そこでは、「八木長本店 八木長兵衛会長によると、首都高建設に当地元は大反対だったが、オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺したという。」といった、諸橋室長の「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていた」との発言と随分ニュアンスが違う記事も紹介させていただいている。

 

------------------------------------------------------------------

 

では、実際の日本橋地区の対応はどうなっていたのだろうか?

 

 あまりいつものネタを使いまわすのも芸がないので、今までのブログで使っていないネタをご紹介しよう。

 

 ネタ元は、山田正男元首都高速道路公団理事長(当時は東京都建設局計画部長)の対談集「明日は今日より豊かか 都市よどこへ行く」政策時報社・刊 である。

 

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する1

 

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する2

 

 オリンピック決定前の1958(昭和33)年12月に日本橋公会堂に呼び出されて、反対派の罵詈雑言を浴びたそうである。さすが日本橋の江戸っ子は小粋である。

 

 ちなみに、灰皿を投げられてネクタイを掴まれたのは港区で、これは首都高2号線である。

 先日、ブラタモリの白金の放送回で、「白金の住民が自然を守るために首都高に反対してルートを変更した」って言っていたじゃないすか。あれが港区の首都高2号線なのである。。

 

 結果的に首都高2号線は東京オリンピックに間に合わなかった。本来は第二京浜(国道1号)の渋滞緩和のために真っ先(オリンピック決定前)に建設に着手した重要路線なのに。

 

首都高速と東京オリンピック (4)

 

 当時首都高2号線を担当した現地所長さんの発言(首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載)がこれである。

 

 

 「江戸っ子は、オリンピックに協力するために首都高には反対しなかった」というのは、印象操作かファンタジーなんすよ。「江戸しぐさ」と同類。もちろん八木長兵衛さんのように「オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺した」という方はいらっしゃったけども。

 

--------------------------------------------------

 

 参考までに補足すると、当時の報道でも、日本橋上への架橋について地元が反対している旨の記事が掲載されている。

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する3

 1959(昭和34)年2月23日付毎日新聞

 

 中央区は「区内全線地下化」を要望したとある。

 

清水草一が知らない首都高反対の動き3

 

 これは、オリンピック決定直前の1960(昭和35)年4月13日付読売新聞に掲載された日本橋附近の「絶対反対」を報じる記事である。

 

 私の調べた範囲では、日本橋がある中央区だけでなく、港区、品川区の議会が首都高反対の決議をしているようだ。都の事業に複数の区議会が反対決議をするとは異例の事態といえないだろうか?中央区や港区に住むような人はヤボだということだろうか?やはり江戸しぐさの人がいうように本物の江戸っ子は虐殺されてしまったのだろうか?

 

 なお、首都高速道路公団においても「地元ではこの橋の下を隧道で通るように強く要望された」と記している。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 

--------------------------------------------------

 

 また、宮様が日本橋の上に首都高をかけることについて当時の首都高理事長に懸念を伝えていたという話もある。

首都高と日本橋 (3)

 これは首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載された対談「仁丹の広告塔も見ゆ橋も見ゆ」からの抜粋で、「神崎」は当時の首都高速道路公団理事長神崎丈二氏である。

 高松宮が東京都を通して首都高理事長に「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというのである。

 

--------------------------------------------------

 諸橋雅之室長は、施工の神様の記事では、「ところが、実際に橋が架かると、景色が激変してしまったので、反対する声が上がりました。」と語っているのだが、橋が架かった後どころか、東京オリンピック決定前から地元に反対されていることがお分かりだろうか?

 まあ、諸橋雅之室長も、「首都高速道路公団の歴代理事長が言っている話なんてみんなひっくりかえしてみせるぜ」というだけの物証を社内で押さえているのかもしれないのだが、その辺の判断は皆様にお任せする。

 

--------------------------------------------------

 建設当時新聞は反対したのか?

 ところで、諸橋雅之氏は、「施工の神様」のインタビュー内で「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。」と語っている。これはどうなのか?

 

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (14)

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (12)

 首都高が日本橋の上に架かることを報じる1962(昭和37)年12月24日付読売新聞

 「橋脚や街燈は原型損なわない」という見出しに
「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」というキャプションがついている。

 当時の読売にとっては、日本橋なんかは感傷にすぎなかったと。

 読売は、徹底していて、首都高完成後にもこんな記事を書いている。

 1962(昭和37)年1月25日付読売新聞夕刊では

河川活用による高速道路建設

・「首都高の河川敷利用が少ないため用地買収等に必要以上の経費がかかっている」

 

・「河川が不要になったら干拓して掘割式の自動車道路を建設したり、河川を廃止できなくても高架の自動車道路を建設したりするのが世界各国の大都市における実情」

 

・「一日も早い道路整備が必要」

 

と主張しているのである。今はこんなことを社説で主張している読売新聞が。

 

首都高日本橋 (2)

 東京オリンピック開催を間近に控えた1964(昭和39)年1月1日の朝日新聞の正月特集の一面で日本橋川を塞ぐ首都高の写真を国立競技場よりも大きな写真で紹介している。

日本橋川をふさぐ首都高を「美しい曲線」とする朝日新聞 (2)

 「ビルの谷間に美しい曲線を描く江戸橋インターチェンジ」である。日本橋川は「ビルの谷間」で首都高は「美しい曲線」なのである。

 

------------------------------------------------------

 

 ということで整理すると

 首都高 諸橋雅之室長「建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。」→新聞は建設後さえも反対していなさそう。

 首都高 諸橋雅之室長「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」→日本橋公会堂に東京都局長を呼び出して罵詈雑言。中央区議会も反対決議。

 

 名橋「日本橋」保存会副会長 細田安兵衛氏「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」→自分で「反対した」と言っている。地元の反対証言が複数あり。

 という結果になってしまった。

 

 最後に首都高速道路公団広報誌「首都高速」における神崎理事長(当時)との対談で語られた日本橋の地元の声を載せておこう。

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する4

 

  まあ、橋本室長は、事業を進めるのが仕事であって、歴史の語り部が仕事ではないのだから、私のような窓際サラリーマンの言うこと等気にせず、業務に邁進していただきたい。

 

| | コメント (0)

2019年2月25日 (月)

神田上水や渋谷川(キャットストリート)の上空に首都高速道路が計画されていた

 東京オリンピックに向けて建設の槌音が響く1962(昭和37)年1月20日の毎日新聞に、オリンピック後の東京の交通をにらんだ首都高速道路の延伸計画が掲載された。

 なんと渋谷川(現在のキャットストリート)等に首都高速道路を通そうというものである。

 

都心を包む環状高速道路

川から川へ30キロ 高架式 都が40年完成めざす

 ひどくなる一方の東京都の交通マヒを打開する対策の1つとして都は都心部を包む環状高速道路計画を練っていたが、19日、具体案がまとまった。路線は、ほとんどが川の上を走る高架式なので、補償費の心配がなく、総工費は480億。陸上を走らせる場合の6分の1ですみ、昭和40年完成を目標にしている。

神田上水や渋谷川の上空を走る首都高速道路計画があった

 

 都は都内の交通マヒを打開するため、放射四号線をはじめオリンピック関連道路23路線、首都高速道路8路線の建設を進めているが、いたるところで用地買収とこれに伴う補償問題につき当たって工事は進まない。そこで都内を流れる中小河川を利用してその上に道路をつくることになり、目黒川、神田川、江戸川を結んで高速道路を走らせる計画をたてた。

 道路幅は現在建設中の高速道路より2倍以上も広い40メートル(片側を自動車が4台並んで走れる)と予定されており、途中交差する各高速道路とはインターチェンジ(立体交差による方向転換)で接続させる。

 37年度中に1千万円の予算で調査を終わり、38年度から測量、ボーリングをはじめる。民家の立退きなど補償費を必要とする部分は世田谷区代田から杉並区和泉町までの2キロと分岐線の千代田区市谷-新宿区信濃町の1キロの計3キロだけ、あとは工事費だけですむ。現在建設中の高速道路はいずれも都心部から副都心部に向かう放射線なので、こんど決まった高速道路は都ではじめての環状線になる。

神田上水や渋谷川の上空を走る首都高速道路計画があった2

 ※新聞記事に掲載されたルートに私が着色してみた。

本線 現在建設中の高速1号線(羽田―上野)の経由地点、品川区東品川を起点に目黒川の上を高架で西北に走り、東急目蒲線、同玉川線をまたいだあと世田谷区代田付近から北上、小田急線、京王線を越え、杉並区和泉町付近で神田上水に乗って下流に進む。さらに国鉄中央線、山手線と交差して走り、飯田橋、お茶の水を通って東に向かい墨田区の両国橋に出る。そこから隅田川東岸を江東区深川清澄町まで下り、小名木川の上を荒川放水路西岸に達する。全長は約30キロ。

分岐線 (1)千代田区飯田橋から外ぼり川(ママ)に乗って同区市谷、新宿区四谷、信濃町を通り、渋谷川上を南下、港区麻布新広尾町で高速2号線と合する延長7キロ(2)江東区深川白河町から運河に乗って7号埋立地へ出る延長4キロ

 記事では「道路幅は現在建設中の高速道路より2倍以上も広い40メートル(片側を自動車が4台並んで走れる)と予定」とあるが、神田川にしろ渋谷川にしろ、そんな幅員の道路を追加の用地買収なしに、河川の範囲内に収められるとは到底思えないのだが。。。

 それでも原宿から渋谷にかけて現在のキャットストリートを片側4車線の高速道路が高架で走っているところはなかなか想像がつかない。

 気になるのは、いわゆる「36答申」つまり「東京都市計画河川下水道調査特別委員会 委員長報告」(昭和36年10月17日付)との関連である。

 例えば、36答申では、渋谷川は渋谷駅付近(宮益橋)から上流は暗渠化して都市下水とされることとなっていたが、その数か月後に、更に広い範囲で渋谷川の上に高速道路を架けようという新聞記事が出たわけである。

 36答申が出たから心置きなく河川の上に高速道路計画をたてたのか、開渠のまま残す部分との調整がつかなかったから、結局この分岐線(1)は実現しなかったのか、明らかではないが興味はつきないところである。

 また、当時ドブ川だった日本橋川ならともかく、神田上水のように水道局が管理する水路の上に高速道路を架けていいものなのだろうか?

 以前、東京都公文書館にネタ漁りに行った際に、「玉川上水はもう上水道の役割を果たさなくなったので、所管部署を水道局から建設局に移管するよ」といった文書を見た記憶があるがコピーはとっていない。

 「普通河川の維持管理について(玉川上水路を含めて)」だとしたら、1971(昭和46)年なので、まだ水道局所管のままだ。

 また、首都高が河川の上を通るのは「オリンピックに間に合わせるため」という俗説(嘘)があるが、オリンピック以降を見通してもなお、積極的に河川上の空間を高速道路に活用しようという意思が明確に示されている点も興味深い。(※江戸橋~両国間は、オリンピック後に、地元の意向を受けて、地上を通るルートから日本橋川い上を通るルートに変更されていたりする。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html

 

早く正式決定へ

山田首都整備局長の話

 都心の交通マヒの打開は都の都市計画の上でも重要な問題だ。幸い民有地を通る部分がきわめて少ないので、なるべく早く都市計画審議会で正式に決めるようにしたい。

 なかなか、にわかに信じがたいルートではあるが、山田正男”天皇”のインタビューも掲載されているので、それなりにオーソライズされていた計画(プロトタイプではあったが)だったのだろう。

 首都高速道路の最初のネットワークは下記のとおりである。

首都高速と東京オリンピック (7)

 

 また、オリンピック後を見据えて、1962(昭和37)年9月に策定された延伸構想は下記のとおりである。

昭和36年の首都高速道路構想(未成道が山盛り)

 今回取り上げた新聞記事はこの間をつなぐ段階の構想を示していると位置付けられ、大変興味深い。

 「本線」は、現在の中央環状線(目黒川沿い)、未成となった内環状線(神田川沿い)等の原型と言える。

 また、分岐線(2)は、現在の9号線の原型とも思われるが、1962年9月の段階でもまだ現在のルートにはなっていない。

 当時は、江戸橋以東が日本橋川箱崎川経由ではなく、箱崎インターチェンジ(後にジャンクション)自体の計画が無かったため、これはやむを得ないところか。

 なお、実務家が首都高の経緯を整理した「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅 [著] にもこの新聞記事のルートは載っていないので、ひょっとしたら貴重かも(ジュルジュルー)。

 

-------------------------------------------------

(参考地図)

・東京都第二建設事務所管内図・・・神田川等の確認に

 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/content/000039191.pdf

・東京都第三建設事務所管内図・・・渋谷川、目黒川等の確認に

 http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/content/000028318.pdf

・『渋谷川って、どんな川だったの?』

 https://www.city.shibuya.tokyo.jp/assets/detail/files/kurashi_machi_pdf_spub03_09.pdf

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2019年2月24日 (日)

首都高の景観は当時は会心の自信作だったようだ-マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ(その2)-首都高日本橋附近の地下化関連(7)

 随分さぼっていました。またボチボチ書きはじめます。

 

マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--d6b7.html

 で、首都高の日本橋附近等の景観について建設当時はどう触れられていたかを検証してみたところである。

 例えば、下記の 東洋経済の一井純氏は「そこに景観や都市計画という視点はなかった」と言い切っていることに対して、いや実際はどうだったのよというところをネチネチとエビデンスを探してきたわけである。

首都高と日本橋 (7)

 

 で、新年の一発目のブログ更新にあたり、その新ネタを追加したい。

 

 東京都が「都史資料集成II 都制施行から昭和30年代までを対象にした東京都の歴史に関する資料集」という素敵な本を出版しているのだが、その第2巻で「図録東京都政2 「文化スライド」でみる東京~昭和30年代」というものがある。

http://www.soumu.metro.tokyo.jp/01soumu/archives/0602t_syusei2_z2.htm

 「東京都が都政広報のために作製・発行した「東京都文化スライド」を素材に、昭和30年代の東京の様子を紹介したものです。

 

急激な人口集中や経済発展、それに伴う公害の顕在化等、オリンピック開催を迎えて変ぼうを遂げていく東京の姿をご覧ください。」

 ということで、当時の首都高速道路がどのように扱われてるかが気になって調べてみた。

 「第四 都市整備とオリンピック 4-大東京(昭和41年2月)」に完成した首都高速道路が出てくる。

首都高速道路と都市景観 (1)

 日本橋川上空を跨ぐ江戸橋インターチェンジ(現ジャンクション)についての解説がそれにしてもすばらしい光景ですね。」ときた。

 

首都高速道路と都市景観 (2)

 そしてもう一か所首都高速道路と都市景観の関係に触れているのが赤坂見附附近である。「みごとな都市美を見せています。」ときた。

 

 私は、従前から「高度成長期、もしくはオリンピックのための突貫工事のため、都市美・景観を顧みずに首都高速道路が作られた」という説に対して「いやそうとちゃうんちゃうのん?」と当時の言説を拾い集めているのだが、むしろ施主である東京都にとっては景観無視どころか、自信満々の会心作くらいの気持ちで広報していることが分かる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年10月21日 (日)

名橋「日本橋」保存会副会長、細田安兵衛氏の「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」というのは本当か?-首都高日本橋附近の地下化関連(6)


 ――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。

 

 「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」

 

NIKKEI STYLE 2020年から見える未来

「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議

「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20830810W7A900C1000000

(オリパラ編集長 高橋圭介)

 

 

 首都高速道路の日本橋附近の地下化において、ネット上では大変多くRT等されている記事である。

 『お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』あたりが、なんとなく「いかにも江戸っ子らしい」イメージとも合致する。

 上記の日経新聞だけでなく、朝日新聞の天声人語も追随する。

 

 


▼橋のすぐそばに本店を構える百貨店「三越」(現三越伊勢丹)の元社長、中村胤夫(たねお)さん(81)は入社時がちょうど 首都高の建設中だった。「高速道は戦後復興の象徴でした。心を躍らせて工事を見守ったものです」。建設反対の声を聞くことはなかったという

 

(天声人語)日本橋を歩く

2018(平成30)年6月9日 朝日新聞朝刊

 細田安兵衛氏は、名橋「日本橋」保存会副会長で、中村胤夫氏は、名橋「日本橋」保存会会長である。両名は、日本橋の首都高速道路撤去(地下化)にあたっては各所に働きかけ多くの発言を行っている。

 

 細田安兵衛氏は、同様にこんな発言もしている。

 

 


(太田美代)

ところで、オリンピックの負の置き土産が、日本橋の上に架ってしまった高速道路。日本の原点のような名橋が、大きく美観を損なってしまったわけですが、これに関して地元で大きな反対運動が起きるというようなことなかったのですか?

(細田)

なかった。なぜって、高速道路なんて誰も見たことがないんだから、反対もなにもない。それどころか、「高速が架かると、羽田から15分で日本橋に着いちゃうんだってさ」「それはすごいな」「かっこいいぞ、未来都市だな」なんて、気楽な話をしてた。それに、「お国がやることに反対したら、みっともない」というのが当時の空気だった。 もちろん工事が進む様子は毎日見ていたけど、遠くの方からだんだんと高架橋が延びてきて、右からも左からも延びてきて、最後は一晩で日本橋の上に架けちゃった。 朝、起きたら、日本橋の上に高速道路が架っているんで、びっくりしたよ。「なんだこりゃ」「ひどいねえ」なんて。

 

大旦那のちょっといい話【細田安兵衛(榮太樓總本鋪相談役、東都のれん会会長) 昭和39年(1964)第18回夏季オリンピック 東京オリンピックの思い出】

東都のれん会

http://www.norenkai.net/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84%E5%87%BA/

 

 

 

 上記から、「反対運動は全然ない」というのは日経新聞の高橋圭介記者が書きすぎたり聞き間違ったのではなく、複数のメディアで細田安兵衛氏が語っているということで一定のウラはとれたのではないかと思う。

 

ところで、明橋「日本橋」保存会が1992(平成4)年3月に発行した「日本橋架橋80周年記念誌」に掲載された対談「21世紀の日本橋を考える」において、細田安兵衛氏はこのように語っている。

日本橋は首都高に反対していた (1)

 

日本橋は首都高に反対していた (2)

 

 


 細田■日本橋のほうは橋の上に高速道路を掛けるときもいま一つ反対の声が弱かったし、金融機関の進出にも何ら異議を唱えなかったし、そのあたりの意識からちょっと違うんですね。

 まあ日本橋の旦那衆は大まかというか、人がよすぎるというか(笑)、仲良く遊ぶことは好きだが、この点は反省部分がありますね。

 

「日本橋架橋80周年記念誌」 明橋「日本橋」保存会・刊

対談「21世紀の日本橋を考える」103~104頁

 

 

 

 

 反対してるじゃん。「今一つ反対の声が弱かったのは反省部分」だって自分で言ってるじゃん。

 

 整理すると

 

 

 

■2017年の細田安兵衛氏

 

 

 

「(反対は)全然、記憶にないね」「国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか」

 

 

 

■1992年の細田安兵衛氏

 

 

 

「いま一つ反対の声が弱かった」「そのあたりの意識から(銀座と日本橋は)ちょっと違う」「この点は反省部分があります」

 

 

 

 

 25年以上経つと言うことが随分違ってきたようだ。いや本当に「記憶」がなくなっているのかもしれないのだが。

 

 他に当時の発言はないか探してみた。

 

 


 今から三十余年前、東京は、初めてオリンピックを開く熱気に包まれていた。敗戦国が五輪開催国になる。街のあちこちにつち音が響いた。

 その興奮の中で、あわれ、お江戸日本橋は空をふさがれる。1963年12月、橋の上に首都高速都心環状線が開通した。

 「地元には反対する人もあったんですが、『オリンピック』が錦の御旗になりまして。『近代的でなかなかいいじゃないか』といった声も出ましたが、あたしは、あんなふたをかぶせたようなものになるとは思いませんでした」

 六八年に発足した「名橋日本橋保存会」の副会長で、日本橋六之部町会連合会長も務める成川孝行さん(六七)は言う。

 

日本橋に残る東京五輪の傷跡(すとりーとスケッチ)

1998(平成20)年2月8日 朝日新聞朝刊

 

 朝日新聞でも2018年の「天声人語」と1998年の記事では言っていることが違いますねえ。。

 

 

 

 細田安兵衛氏の現在のポストである名橋「日本橋」保存会副会長(当時)の成川孝行氏は「地元に反対する人もあった」と語っている。

 この後から小泉政権において、日本橋附近の首都高の撤去・地下化が表立って取り上げられるようになる。

 そういった動きのなかで、「日本橋の住民は反対したけど弱かったし、それは反省すべきだった」ということでは何等かの不都合が生じ、「江戸っ子の心意気から全く反対しなかった」という方が都合がよいということになったのだろうか?

 細田安兵衛氏は、他の書籍で「日本橋のことは自分が一番詳しい」というような趣旨のことをおっしゃっていたが、ご自分のおっしゃっていることが時代とともに変わった理由も説明してほしいものだ。

 

 

 


八木長本店 八木長兵衛会長によると、首都高建設に当地元は大反対だったが、オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺したという。

 

「再生「首都高地下化」で空と川が… 景観改善で東京どう変わる?」あさチャン! けさのボード

2017(平成29)年7月24日放送

https://datazoo.jp/n/%E5%86%8D%E7%94%9F%E3%80%8C%E9%A6%96%E9%83%BD%E9%AB%98%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E5%8C%96%E3%80%8D%E3%81%A7%E7%A9%BA%E3%81%A8%E5%B7%9D%E3%81%8C%E2%80%A6+%E6%99%AF%E8%A6%B3%E6%94%B9%E5%96%84%E3%81%A7%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%81%A9%E3%81%86%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%8B%EF%BC%9F/13389551

 

 

 もっともこのように近年でも「地元は大反対だった」という証言もあるようだ。

 

--------------------------------------------------

 参考までに補足すると当時の報道では、日本橋上への架橋について地元が反対している旨の記事が掲載されている。

清水草一が知らない首都高反対の動き3

 

1960(昭和35)年4月13日付読売新聞

 

 首都高速道路公団においても「地元ではこの橋の下を隧道で通るように強く要望された」と記している。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 

 この辺の経緯は、かつて「首都高に高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」と申し入れし、オリンピック後に地元からの要望で日本橋川の上に首都高のルートを変更していた」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/09/post-0d26.html

もあわせてお読みいただきたい。

 江戸橋ジャンクション以東の日本橋川上空の区間は、もともと地上を通るはずだったのを、「オリンピック後に」「地元の要望を受けて」日本橋川の上を塞ぐようにルート変更していること等も紹介している。この辺には「江戸っ子」はいなかったのだろうか?

首都高と日本橋 (2)

 

 ところで、1962(昭和37)年5月29日付の朝日新聞に「東京の橋」と題して下記のような記事が載っている。

日本橋は首都高に反対していた (3)

 日本橋近辺の江戸情緒の喪失の例として「榮太樓アメ」の高層ビルと首都高速が同列に並べられているのだ。

--------------------------------------------------

 

 


 しかし1963年、翌年に開催される東京オリンピックのため、日本橋の上に覆いかぶさるように首都高速道路が建設されたのだ。江戸の旦那衆は「お上」に従順な気性であり、高速道路に未来都市的な感覚や憧れもあり、反対する住民はいなかった。しかし、一晩で設置された日本橋の橋梁を見て、日本橋周辺の景観が変わってしまったことに呆然としたという。

(中略)

 細田氏は、日本橋の将来像について、次のように話す。
「大切なのは粋がらないことだ。粋なまちをつくろうとしたら、逆に野暮なまちになる、というのが日本橋の旦那衆の考え方。野暮にならないまちを目指し、江戸の伝統を活かした『大人のまち』をつくりたい。」

 

「地域経済活性化とファミリービジネス 事例集」17-18頁

経済産業省地域経済産業グループ地域経済産業政策課

 

 

 「大切なのは粋がらないことだ。粋なまちをつくろうとしたら、逆に野暮なまちになる」とはカッコイイことをおっしゃいますねえ。

 「江戸の旦那衆の気性から反対する住民はいなかった」というのは粋がりすぎて野暮になってませんかねえ。

 「銀座と違って日本橋の旦那衆は反対の声が弱かった。今は反省して頑張っている。」でいいじゃないですか。

 それに「江戸の旦那衆」で大くくりにしすぎちゃうと、ご自分でおっしゃっていた「銀座と日本橋の旦那衆の危機感の違い」が分からなくなっちゃいませんかねえ。

 

 

※(余談)「旦那衆=住民」ではない(旦那衆以外の住民はアウトオブ眼中なのか)と思うのだが、その辺の問題意識は私には手が負えないので、どなたか。。。

 

※(余談その2)

 

 資料探索中に大正天皇即位の礼における日本橋奉祝門の写真を目にすることができた。なかなか江戸情緒にあふれている??

 

 これの様式等お分かりの方はご教示いただけますと幸いです。

 

日本橋奉祝門

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2018年9月 9日 (日)

首都高に高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」と申し入れし、オリンピック後に地元からの要望で日本橋川の上に首都高のルートを変更していた

 相変わらず、なんでも詰め込もうとして頭の悪い題名になってしまったことだよ。

 

 首都高の日本橋附近の話はいろいろ記事にしてきたが、また小ネタを追加。


――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。

 

「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」

 

「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議 「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20830810W7A900C1000000

 

 地元の「重鎮」がそうおっしゃっている。

首都高研究家清水草一の日本橋関連の嘘

 自称「首都高研究家」の清水草一氏も「当時それを批判する声はなかった」とおっしゃっている。(まあ嘘なんだけど)

 「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛氏の記憶に反して、日本橋の地元が首都高に反対していた記録は残されている。

清水草一が知らない首都高反対の動き3

1960(昭和35)年4月13日付読売新聞

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 

 『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえ』ことを当時の日本橋地区の方は実際にはやっていたのである。当然の権利だからそれを批判するつもりはないが。

 この辺までは、今までのブログに書いてきたことのおさらい。これからが新規のネタである。

 

--------------------------------------------------

 斯様に今では「オリンピックのための協力もあるし、高速道路のこともよく分からなかったし、日本橋の上に首都高をかけることの影響の度合いもわからないなか、反対はなかった」的な印象が今の世間を覆っているのだが、宮様が日本橋の上に首都高をかけることについて懸念を伝えていたとはあまり知られていないだろう。

首都高と日本橋 (3)

 これは首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載された対談「仁丹の広告塔も見ゆ橋も見ゆ」からの抜粋で、「神崎」は当時の首都高速道路公団理事長神崎丈二氏である。

 なんと高松宮が東京都を通して首都高に「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというのである。

 

首都高と日本橋 (5)

 この対談では、上記のように日本橋ゆかりの文化人が口々に「残念な気持」を表している。それが首都高の広報誌に載るというのが当時の社会の認知度を図るモノサシだったのではないか。

 

 これに対して首都高の神崎理事長は、首都高なりに審美についても検討したのだがなかなか。。。といったことを返している。

首都高と日本橋 (4)

 

首都高と日本橋 (7)

 東洋経済の一井純氏は「そこに景観や都市計画という視点はなかった」と言い切っているが、「当時なりに審美は考えたんだけどなかなか上手くいかなかったよね」というのが正確なところだろう。

 

 まあ地元の重鎮とかに取材するのはいいのだろうけど、50年以上昔の話でもあるし、裏取りは必須じゃないですかねということで、ライターさん達は今後ご留意いただければ宜しいのではないかと。広報誌「首都高速」は都立中央図書館に行けば閲覧できますしね。

 

--------------------------------------------------

 ところで、「日本橋川の上に首都高を架けたのは、オリンピックを前にして急ぐためにやむを得ず施工したもので、地元も後から残念に思っている」というのが通説っぽくなっているのだが、「オリンピック後に、地元の要望を受けて日本橋川の上に架けるように首都高の計画を変更している」というと意外に思われる方も多いのではないか?

 首都高が日本橋川の上に架かっている区間については、江戸橋ジャンクション以西は東京オリンピックに間に合わせて建設した部分だが、江戸橋ジャンクション以東箱崎までの区間は東京オリンピック後に建設された部分だ。

 よく見るとまっすぐ両国ジャンクションまで進めばよかろうものをわざわざ箱崎に迂回していることが分かるだろう。

 実はここは人形町、浜町を両国まで直進するルートが当初の計画だったのである。

首都高と日本橋 (1)

 これも首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載されていた記事からの引用であるが、図中破線の「6号廃止路線」が人形町、浜町を通る当初のルートで、「変更決定路線」が日本橋川の上に架かる現在のルートである。

 その変更理由がこちら。

首都高と日本橋 (2)

 「大きな犠牲を極力回避するよう地元関係権利者の人達より叫ばれ」「日本橋川、箱崎川等にルートを変更した。」とある。

 オリンピック後に、実際に首都高の高架が川の上に架かるとどうなるか分かったうえで、地元の要望に基づいて日本橋川の上にルートを変更しているのである。

 

 ということでこの辺りもライター諸兄には心の片隅に留めておいていただきたく。

 

--------------------------------------------------

 日本橋ついでに、詩人の谷川俊太郎氏が日本橋の上に首都高が架かったことについて詩を書いている。私には、図書館から資料をコピーする能力はあっても、芸術を解釈する能力がなくて分からないので、これがどういう気持ちを歌ったものなのか解説いただけますと幸甚です。

 

首都高と日本橋 (6)

 下から5行目の「老人は京都に向かって歩き始めた」は、最後の行も考えると京橋の誤植ではないかと思われる。(東海道を歩くのであれば京都でよいのではないかとのご指摘をいただいたので修正します。ご指摘に感謝します。)

 「造ったのは汽車会社ですよ」というのは、下記の広告にもあるように、SL等を製造していた「汽車製造株式會社(通称「汽車会社」)」が、首都高速道路の日本橋上空の橋の建設を担当していたのである。

首都高と日本橋 (8)

 

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2017年8月27日 (日)

清水草一氏は「当時それを批判する声はなかった」というがそれは明白な嘘-首都高日本橋附近の地下化関連(5)

首都高研究家清水草一の日本橋関連の嘘

 日刊SPA!で「首都高研究家」を自称する清水草一氏が「世界初の都市高速・首都高は醜いのか? 首都高C1日本橋付近地下化のメリットとデメリットを考える」https://nikkan-spa.jp/1385796/2という記事を公開している。

 主義主張の部分は個人の好みなのでとりたててコメントするものではないが、大きな事実誤認若しくは嘘があるので指摘しておきたい。

 清水草一氏は「それは、運河や道路などの公共用地を可能な限り有効活用し、新規用地取得を約2割に抑えたことで実現した。当時それを批判する声はなかったし、この乱暴な作り方こそ、あの頃の日本の熱気そのものだった。」としている。

 いやいや、ちょっと真面目に調べたらなんぼでも反対運動は拾えるでしょーよ。

 ということで河川を活用した首都高速道路建設に対する地元の反応等を紹介していきたい。

 

清水草一が知らない首都高反対の動き4

 1958(昭和38)年7月8日付朝日新聞が、築地川を干拓して首都高速道路を計画していることに反発する地元の声を報じている。

 首都高速道路公団法が成立したのが1959(昭和34)年4月、東京オリンピック開催決定が1959(昭和34)年5月なので、随分前から前哨戦を戦っていたことになる。(このことからも、「東京オリンピックが決まって5年しかないから川の上に高速道路を造った」ということが嘘だということもお分かりになるであろう。)

 

 東京都都市計画部は、築地川の埋め立てに反対する中央区民に対して 「流れのきたない築地川を残すのは都市美化の上から無意味」と対応しているあたりも興味深い。

 「景観や都市美を無視したから首都高を川の上に作った」というのも間違いで、それなりに都市美の理論は起業者側にあったわけである。それが現在に至るまでどう評価されたかは別にして。

清水草一が知らない首都高反対の動き

 中央区、港区の反対運動を報じる1959(昭和34)年2月23日付毎日新聞。単に「プロ市民」が騒いでいるのではなく、中央区議会、港区議会、渋谷区議会、品川区議会が反対の決議をしている。

清水草一が知らない首都高反対の動き2

 首都高の都市計画決定を報じる1959(昭和34)年8月8日付毎日新聞。

 

 注目すべきは「地元民が猛反対、昨年12月の同審議会で流産したいわくつきのもの」というところ。

 「首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.htmlを書いたときに、2回に分けて都市計画決定を行っていることを知って、意外に思っていたのだが、地元の反発で流産していたとは。

 なお、この後に、都市計画に基づいて東京都道の認定手続きに入っているのだが、それに対しても複数の区から同意が得られなかったという異例の経緯をたどっている。

清水草一が知らない首都高反対の動き3

 1960(昭和35)年4月13日付読売新聞では、「高速道路をめぐる地元の要望 中央の5地区」ということで、中央区内から出た首都高速道路に対する地元要望について報じている。

 この中で注目すべきは「江戸川橋通り地区」から出ている「名橋「日本橋」の上をまたいで四号線が通るのは絶対反対」というところである。清水草一氏の言うように「当時それを批判する声はなかった」というのは事実と異なるのである。

 大事なところなので、他のソースからも。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 言葉遣いは違うが、地元から日本橋附近を高架でとおることを反対されたということは首都高側としても公的に表明しているわけだ。

 ということで、清水草一氏は何を調べていたら「当時それを批判する声はなかった」と断言するほどの根拠を得たのであろうかと疑問に思うわけである。

------------------------------------------------------

 ところで港区からの反対も上記で紹介したところだがもうちょっと深堀してみたい。

 首都高速2号線は、ご存知の通り古川の上をまたいで都心環状線から分岐していく。

 ここは、首都高速道路公団設立前に、日本道路公団によって首都高速の中で真っ先に工事着手した区間である。

JHが首都高を建設開始した

 結論から言うと、2号線は一番最初に工事着手しながら東京オリンピックに間に合わなかったのである。

 なお、東京オリンピック関係でいくと、日本道路公団の第三京浜道路も間に合わなかった。(玉川―京浜川崎のみ暫定2車線で間に合った。)

 

------------------------------------------------------

 ところで、首都高速2号線と第三京浜の関係では、清水草一氏は、「第三京浜ってどうして安いの?玉川ICはなぜ中途半端なところにあるの?」http://autoc-one.jp/word/691238/において「首都高2号線は、昭和30年代までは第三京浜まで延長される構想でした。」なんて述べていたりするのだが、その辺も私のブログで考察しているので、あわせてお目通しいただくと幸甚である。

・第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-79c0.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-067b.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-4c24.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-4f1f.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-4f1f-1.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-e59d.html

・清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-fb53.html

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/05/post-dc79.html

 

------------------------------------------------------

 

【参考】過去に書いた首都高関係の記事

 

首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--5ca7.html

 

マスコミは「首都高で日本橋の景観が損なわれた」って言うけど、作った当時は何て言ってたのさ-首都高日本橋附近の地下化関連(2)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--d6b7.html

 

首都高はオリンピックに間に合わせるために河川上に作ったというのは嘘と言ってよいのではないか-首都高日本橋附近の地下化関連(3)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--bdc4.html

 

産経抄が言うほど、山田正男は首都高を日本橋の下にできなかったことを心残りに思っていないんじゃないの-首都高日本橋附近の地下化関連(4)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--f613.html

 

清水草一氏は「当時それを批判する声はなかった」というがそれは明白な嘘-首都高日本橋附近の地下化関連(5)

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/--8d24.html

 

首都高と河川利用と景観

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-0a1e.html

 

首都高初期のパンフ「伸びゆく首都高速道路」

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-8798.html

 

首都高初期のパンフ「首都高速道路公団のあらまし」

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-2f3b.html

 

「東京道路奇景」(川辺謙一・著)を読んでいて「東京都市高速道路の建設について」に関心を持った方に全部見せちゃう。

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-c06b.html

 

森口将之氏「首都高速ではない首都高速? 無料で走れるKK線が生まれた理由」は勉強不足

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/kk-9f0e.html

 

首都高直結の八重洲地下駐車場の場所に新幹線の東京駅が入る計画があった

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-f1bf.html

 

東京五輪決定前の首都高速道路計画に係る考察~昭和33年4月10日衆議院建設委員会議事録を読む~

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/33410-1e35.html

 

昭和63年の首都高速道路計画

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-a2cf.html

 

昭和37年の首都高速道路将来計画

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/37-ddb3.html

 

昭和28年の首都高速道路計画

 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

首都高大橋JCTと玉電

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/jct-3c08.html

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-79c0.html

首都高速 大橋JCTの地下に潜ってきた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-c87a.html

首都高速の料金所ブースの中はどうなっているのか

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-1667.html

首都高速道路高架下建物入居者募集中・大家さんは首都高?

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-0786.html

首都高速道路が三多摩地区を含まない理由

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-ee49.html

首都高速道路を当初建設着手したのは日本道路公団(JH)だった

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-a9d4.html

第3新東京市には首都高速が乗り入れているようだ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat22398228/index.html

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧