カテゴリー「河尻定の嘘」の10件の記事

2021年9月24日 (金)

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(26)

 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (1)

 交通新聞社から2019(令和元)年に発行されたトラベルMOOK「新しい 西武鉄道の世界」に、結解喜幸氏が「なるほど西武 仮駅が本駅となった西武新宿駅」というコラムを書いている。

 以前から怪しいなあと思っていたのだが、じっくり腰を据えてチェックしたらえらいことになってしまった。

 上図のように、コラムの面積(分量)のうち、半分くらいが怪しい。 

 以下、気づいた点を検証していく。 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (2)  

 「駅名の上の四角い広告スペースに線路が敷かれる計画だった」ということは、上図写真に私が赤枠でかこった辺に西武新宿線が乗り入れると結解喜幸氏は言いたいのだろうか?

 なお、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号38頁では、下図のとおり、向かって右隅である。

 また、「広告スペース」だと、2階ではなく、3階に乗り入れることになってしまう。
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (3)  

 右側の国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号41頁に掲載された模型でも、向かって右隅に西武新宿線のホームが取りついている。


 結解喜幸氏の「駅名の上の四角い広告スペースに線路が敷かれる計画だった」との記述と比較して、如何だろうか?
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (4)  

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=7245  

に掲載されたビル竣工間もないころの写真でも、ビルの向かって右側に仮囲いが設置されていることが分かる。
 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (5)  

なぜ国鉄の新宿駅まで線路が伸びなかったのか?


→結解喜幸氏「当時の新宿駅東口は戦後の区画整理・整備復興が行われていたから


→西武鉄道公文書「国鉄新宿駅東口の民衆駅企画中だったため、当局からビルの建設時迄乗入れを待つ様勧告を受けたから
 

 なお、西武の上記公文書については、こちらもあわせてご参照いただきたい。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/09/post-bbae59.html 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (6)  

 結解喜幸氏は、「駅ビル“新宿民衆駅ステーションビル”として建設されることとなり」と書いているが、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号41頁に掲載された「出願経緯」には、そのようなビル名は出てこない。

 では、結解喜幸氏は、一体どこから「新宿民衆駅ステーションビル」という用語を持ってきたのだろうか?
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (7)  

 結解喜幸氏は、「新宿民衆駅ステーションビル」という珍語を使っているが、これは日経の河尻定氏の記事が、元ネタの新宿歴史博物館が発行した「ステイション新宿」を不正確に引用(本来は「百貨名店街ビル」)しているものを、結解喜幸氏が元資料にあたらずにそのままコピペしたのではないか?
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (8)  

 大元も資料から河尻定氏経由で結解喜幸氏に繋がる「負の連鎖」はこうなってるのではないだろうか? 

 (関係者の方から違うというご指摘があれば、是非ご教示ください。)

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (9)  

 仮に結解喜幸氏が、元ネタと思しき、「百貨(店)名店街ビル」として記事を書いたとしても、「百貨名店街ビル」は競合案の一つに過ぎないので「駅ビル“新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル”として建設されること」にもならないのでご留意を。
  

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (10)  

 結解喜幸氏は、「当時木造駅舎だった新宿駅」と書いているが、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号9頁には「鉄筋コンクリート造」と書いてある。

 上図下段右の写真は、同号8頁に掲載された新宿駅東口の駅舎である。

 
 これが木造ねえ。。。 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (11)

 結解喜幸氏は、「新宿線は(略)8両編成の列車が運転されるようになっていた」と書いているが、西武鉄道の社内報の104号(1966(昭和41)年8月号21頁に「西武新宿 各ホームを八両用に延ばす」と題した記事があり、この中で「こんど輸送力増強に伴い新宿線にも八両編成電車運転の必要が生じた」と書かれている。

 つまり、駅ビル開業時点では、 「新宿線は8両編成の列車が運転されるようになっていなかった」と解さざるをえない。

 なお、西武が乗り入れを取り下げたのは、ビル開業翌年の1965(昭和40)年で、それまでの間は当局と協議中だったので、駅ビル開業時にホームが設置されていないことと断念は直接は関係ない。
 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (12)  

 結解喜幸氏だけでなく、「天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった」という趣旨を語る鉄道系ライターは後を絶たない。

 以前も 

「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(番外編)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/07/jr-286b.html

という記事を書いた。
 一体、なぜなのだろうか?
 

※参考 下段右の写真は、JRの駅舎の吹き抜けの中に都市モノレールホームが入ってきている小倉駅の様子である。  

 こんな感じに、ルミネエストの吹き抜けに西武新宿線のホームができることを妄想しているのだろうか? 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (13)  

 国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号107頁に掲載された図面では、「西武高架」が駅ビルと山手貨物線の間に設けられているとともに、電車の建築限界が、駅ビルの吹き抜けよりも高いことが分かる。


 つまり、あの吹き抜けの高さでは、物理的に電車が収まらないのである。


 結解喜幸氏だけでなく、「天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった」という趣旨を語る鉄道系ライターの皆さんはこの図面を見ていないのだろうなあ。
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (14)  

 再掲となるが、国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号38頁に掲載された図面では、中央の「吹抜」と右上の西武鉄道改札が完全に独立していることが分かる。

  結解喜幸氏だけでなく、「天井が高い吹き抜け部分があるが、この空間こそが西武新宿駅となるものだった」という趣旨を語る鉄道系ライターの皆さんはこの図面を見ていないのだろうなあ。
 

交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (15)  

 ちなみに国鉄公式の図面ではないが、駅ビル会社が1961(昭和36)年12月に発行した「株式会社新宿ステーションビル事業案内」に掲載された図面が、駅ビルの吹き抜けと西武線ホームとの関係を一番よく表している。

 (時点が違うので、「東建工」の竣工図面とは細部が異なる。)

 この図面の現物を閲覧ご希望の方は下記ツイートを参照のこと。
 

 

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交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい (16)  

 この記事を作っていて気が付いたのだが、表紙の「西武鉄道の世界」の題名で、「の世界」の字に合わせて、水色のククリがある。で、「鉄道」の字にも水色の線が突き抜けている。

 なんだこりゃと思ったが、「の世界」の部分だけフォントの大きさを変えてレイヤーを張り付けたときに、そのククリを残したまま統合しちゃったのかな?

 担当編集の野坂隆仁さん、いろいろ頑張れ。
 

 

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 

 一旦終わった後に、その後ネタを追記 

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった 

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。 

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2) 

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が 

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景 

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した 

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書 

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険 

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい 

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「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(25)

 前回の記事「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(24)」で、「西武って公文書に載っているからといって何が本当かよくわからん」と書いたところである。

 で、今回はよく使われる資料について検証してみたい。

 

 西武新宿線の新宿駅延伸にあたって、最も引用されていると言っても過言ではないのが、新宿区立博物館が企画展示にあたって発行した「ステイション新宿」の「西武新宿線東口乗入れ計画」の頁である。

ステイション新宿における西武線新宿駅乗り入れの経緯

「ステイション新宿」82頁から

 鉄道趣味関係の書籍等ではここをほぼ丸写ししたようなものも珍しくない。


 ようやく1950年代の中頃になって、新宿駅舎を取り壊して新たにステーションビルを建設する計画が立ち上がった。その際に発表された「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」によれば、西武新宿線は高架でビルの2階に乗り入れ、2階にホームと出改札口を設け、高架下に歩道が設けられることになっていた。

 

「そうだったのか、新宿駅」 西森聡・著 交通新聞社・刊 89頁から

 しかし、西森聡氏はコピペもまともにできないようで、「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」を「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」と書いている。

 もっとも、国鉄や新宿ステーションビルの資料を見ると「百貨名店街ビル」が正しいようだ。新宿歴史博物館の「ステイション新宿」も「百貨名店街ビル株式会社創立事務所発行の「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」によれば」としており、意図的に使い分けているのかもしれない。単純な誤植かもしれない。よくわからないが、いずれにせよ西森聡氏の「そうだったのか、新宿駅」は間違いだ。

 このように、多くの鉄道趣味誌やネット記事では「2階にホームと出改札口」としている。

 しかし、実際には1階にも西武線の改札は予定されていた。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (1)

 これは1964(昭和39)年に竣工した「新宿民衆駅=新宿ステーションビルディング」に係る国鉄社内誌「東建工」1965(昭和40)年2月号である。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (30)

 1階の「びゅうプラザ」のあたりは元々西武線の改札だったことが分かる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (31)

 2階の改札の他に3階には西武の駅長室があったことも分かる。

 しかし、1階の改札や3階の駅長室の存在が鉄道趣味誌に取り上げられることは稀である。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (9)  

 旅客流動図を見ると2階改札33に対して1階改札51の比率になっており、1階改札口がメインであるにも拘らず、鉄道趣味誌は頑なにその存在を無視するのである。

 何故か。それは国鉄の竣工図面を見ずに、「ステイション新宿」をコピペしているからではなかろうか?

 そして、最終形の「新宿ステーションビル」の図面を見ずに、「ステイション新宿」に出てくる「新宿東口民衆駅百貨店名店街ビル設計図」頼りになっているからではなかろうか?

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 そもそも、「新宿東口民衆駅百貨(店)名店街ビル」とは何なのか?

 これも上記の国鉄社内誌「東建工」1965(昭和40)年2月号「特集 新宿東口民衆駅」に出てくる。

西武新宿線のマイシティ乗り入れ図面 (33)

 「新宿民衆駅は、髙島屋と伊勢丹、西武等が競願した(なので調整に時間がかかった)」ということをご存じの方は結構いらっしゃると思う。

国鉄新宿民衆駅(新宿ステーションビル、マイシティ、ルミネエスト)の経緯

 ざくっと並べるとこんな感じで大きく3つの会社の流れがある。伊勢丹や西武は真ん中の地元系と組んで、左側の髙島屋系の放逐を図った。その他の流れとして「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」が出てくる。

 実は、多くの鉄道系ライター諸氏が後生大事に引用してくる「ステイション新宿」に出てくる「設計図」は、競願大手3社の中で一番傍流の会社の案にすぎないもので、実際にはその後主流3社が合意した後に、国鉄や西武鉄道等と協議して最終の図面となったのである。それが「東建工」掲載の図面だ。

 では「ステイション新宿」が間違ったり嘘を書いたりしているのかというと、これはあくまでも新宿歴史博物館の企画展の図録であって、同博物館の貴重な途中段階の所蔵図面を紹介しているのだとすれば問題ない。

 問題なのは、その辺の経緯を無視したのか、最終段階の図面と思い込んだのか、横着したのか分からないが、さも最終段階の設計図であるかのように書いたりする鉄道系ライター諸氏等が問題なのである。


 1950年代終わり頃から、新宿東口駅舎を取り壊して駅ビルを建設する計画が立てられた。西武もこの計画に参加し、新宿線は駅ビルに乗り入れる予定になった。新宿歴史博物館の「ステイション新宿」では、新宿駅ビル設計図によると、西武線はビル2階に高架線で乗り入れ、2階には切符売り場・駅務室、1階にも駅務室が置かれる設計であったとされている[5]。

[5]新宿歴史博物館(編)『ステイション新宿』新宿歴史博物館、1993年、116頁。

 

wikipedia「西武新宿駅」2021(令和3)年9月23日閲覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%AD%A6%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85

 

 あくまでも途中経過の案の一つに過ぎない「百貨名店街ビル」の設計図であることを削除してしまったため、あたかも最終形の設計であるような記事となっており、ウソペディアの面目躍如である。

 


 1964年には、東口に駅ビル(現・ルミネエスト新宿)がオープン。西武新宿線のホームが接続する北側の2階には、駅の業務室などを設けるスペースが確保された。

 

「西武「大久保駅」構想は、なぜ幻となったのか 新宿乗り入れの裏に隠されたルートと新駅」草町義和

https://toyokeizai.net/articles/-/85651?page=2

 


1950年代後半になると、駅前の整備が進み始める。駅舎を取り壊し、「新宿民衆駅ステーションビル(現ルミネエスト)」の建設が始まった。西武はこのビルへの接続を予定していたのだ。新宿歴史博物館が編さんした「ステイション新宿」によると、鉄道はビルの2階に乗り入れ、改札も2階の予定だった。同館には当時の設計図の写真が残っている。

 

「西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画」河尻定 日本経済新聞「東京ふしぎ探検隊」

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000/

 河尻定氏は、「ステイション新宿」からコピペする際に、「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であるとせずに、そこを(どういう意図があるかは、はかりかねるが)カットしてしまった。

 実は、西森聡氏の「そうだったのか、新宿駅」では、正確ではないにしろ「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であると明示していたため、「これは最終形ではない」という逃げ道にはなったので、「まだマシなコピペ」だったが、河尻定氏の場合は、そこをカットしたため、「読者にこれが最終形であるという誤認を与える結果」となっている。流石日本経済新聞の記者は違うなー。 

 そしてもっと酷いのが次のページである。

日経新聞河尻定編集長の西武新宿線延伸に係る酷い記事

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000/?page=2に赤字で加筆

 まず、本来は「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル」の設計図であるところ、河尻定氏は、何を考えたか「新宿民衆駅ステーションビル」の設計図としている。西森聡氏の「新宿東口民衆駅百貨店ビル設計図」は、コピペも満足にできないんですか(藁ですむところ、河尻定氏の「新宿民衆駅ステーションビル」は改竄に近い。上記に私が国鉄の資料を基に整理したように、元々新宿歴史博物館にある設計図は競合三社のうちの一つであって、施行にあたる最終的な設計図ではないことを説明したが、河尻定氏のキャプションは、そこを「ステーションビル」という言葉を使ってあえて最終形かのように誤認させるものである。

 これが意図的なものなのか、日経の校閲担当も含めた単純ミスなのかは分からないが、西森聡氏に比べて悪質さが格段に違う。

 また、更に酷いのが、設計図を上げた後に「実はこのときの計画の痕跡が今も残っている。ルミネエストの建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」と続くあたりである。

 

西武鉄道が乗り入れるはずだった新宿ステーションビル (13)

 分かりやすく説明するために、1961(昭和36)年12月に発行された「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」の2階部分を載せてみる。

 「新宿東口民衆駅百貨(店)名店街ビル」の設計図とは、若干形状は異なるが、図上の右上(方角だと北西の角)に改札が出来て、西武線のホームは高田馬場方面に向けてビルの外側に設けられている。

 こういった構造を前提にすれば、「1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」(日経記事)どころか、「1階の吹き抜けと西武線の乗り入れは関係ないことがわかる。」とすべきだろう。

 

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 「ステイション新宿」の内容の検証に戻りたい。

 


 実際にビルには旅客用の入口が開けられ、中には改札のラッチも搬入され、高架線の基礎もいくつか作られました。

 

「ステイション新宿」新宿歴史博物館・刊 82頁から

 ここもよく引用される部分である。 

 ところが、駅の設計図と異なり、「ステイション新宿」の当該頁には、その「ネタ元」が書いていない。 

  いろいろ調べてみたところ、下記がネタ元ではないかと思われる。


 電車はステーション・ビルの北西の角までいく予定だったのですが,ビルには旅客用の入口の穴があいていまして,中に改札のラッチまで入れてありました.高架橋の基礎もいくつかつくったはずです。

 

 「西武特集 変貌する西武鉄道の輸送を語る」における長谷部和夫 西武鉄道常務取締役運輸計画部長(当時)の発言から

 鉄道ピクトリアル1992(平成4)年5月臨時増刊「特集 西武鉄道 18頁から

 

 鉄道ピクトリアルの特集が発行されたのが1992(平成4)年5月で、新宿歴史博物館の「ステイション新宿」は1993(平成5)年10月なので、時系列的にも問題ないだろう。

 ただし、西武長谷部氏が「高架橋の基礎もいくつかつくったはずです」としているところを、「ステイション新宿」が「高架線の基礎もいくつか作られました」と断定しているところが気になるが。

 なお、新宿ベルクの店長が「ベルクの店内の柱は西武新宿線乗り入れ用の柱だ」とツイートされているので、そのような形で基礎がビルの中に埋め込まれているのだろう。

 

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 ということでまとめ。


「ステイション新宿」を西武鉄道の新宿駅乗り入れのネタ元に使う際の注意点

〇「ステイション新宿」に載っている設計図面は最終形のものではなく、各社競合していた案の一つにすぎない。

〇「ステイション新宿」に載っている設計図面は「新宿東口民衆駅百貨名店街ビル設計図」と書かれているが、実際の会社名は「百貨名店街」である。

〇西武鉄道の新宿駅乗り入れについての設計図面は、駅ビル竣工後に発行された国鉄の「東建工」1965(昭和40)年2月号を確認すべきである。

〇「ステイション新宿」に載っている「改札のラッチも搬入」等のエピソードは、前年に発行された鉄道ピクトリアル臨時増刊「特集 西武鉄道」に掲載された西武鉄道の取締役のインタビューがネタ元と思われるため、何かの根拠とするには、鉄道ピクトリアルを根拠とする方が無難。

 この他、新宿駅への西武乗り入れの図面については、先にも触れた「株式会社新宿ステーションビルディング事業案内」も有効である。 カラーで見やすいし。閲覧には下記ツイートをご参照されたく。

 

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<おまけ> 

 新宿区立新宿歴史博物館つながりでこの際言及しておく。 

 新宿区や新宿歴史博物館は、「民衆駅」というのが固有名詞ではなく、制度の名称だということがイマイチ理解できていないようである。 

新宿区は民衆駅という制度名と新宿ステーションビルという固有名詞をちゃんぽんにするのはやめておくれ (2)  

https://www.regasu-shinjuku.or.jp/photodb/det.html?data_id=6914 

 「民間資本導入による建設運営のため、当初は「新宿民衆駅ビル」と呼ばれた。」 

というキャプションがついているが、雑に言うと「民衆駅」=「 民間資本導入により建設運営される駅」という制度なので、当初もくそもなく永遠に民衆駅は民衆駅だし、新宿以外にもいくらでも民衆駅はある。

 それをなんか「新宿民衆駅」というオンリーワンの固有名詞と勘違いしているようなんだな。 

新宿区は民衆駅という制度名と新宿ステーションビルという固有名詞をちゃんぽんにするのはやめておくれ (1)  

 こちらは、新宿区政70年記念誌「新宿彩(いろどり)物語~時と人の交差点~」143頁からの引用だが、 

民衆駅は、すぐに「新宿ステーションビル」と改称され」 

とあるが、上記の雑な年表や、東京都公文書館のツイートでも分かるように、「新宿民衆駅」が開業後に「新宿ステーションビル」に改称されたのではなく、開業前から「新宿ステーションビル」である。 

 制度面の「民衆駅」と会社の固有名詞の「新宿ステーションビル」は改称も何も並列可能だが、新宿区役所総務課は理解できないようだ。 

 このブログを読んでいただいている読者の方のほとんどはご理解されていることだとは思うが、分かっていない新宿区役所総務課と新宿歴史博物館のご担当者様のために公式見解(日本国有鉄道が1958(昭和33)年に発行した「鉄道辞典」)から「民衆駅」の項を抜粋しておこう。

民衆駅とは

民衆駅一覧

 「昭和32年度末現在」なので、上記の民衆駅一覧表には新宿駅は入っていない。まだ群雄割拠からようやく一本化した段階なので。

 

 みなさんは、新宿区による官製偽史が出来上がる過程にリルタイムで立ち会っているのかも?

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

 

 一旦終わった後に、その後ネタを追記

(番外編)「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい

(16)西武新宿駅を大江戸線新宿西口駅に直結させる計画が1982年にあった

(17) 西武新宿駅は、元々地下鉄乗換えを考慮して地下に設置する構想だった

(18) 新宿ステーションビルの店舗募集資料から西武線のホームと吹き抜けの関係を確認してみる

(19)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。

(20)西武新宿線の新宿駅ビル乗り入れの図面を国鉄の内部資料から確認してみる。(その2)

(21)思いもつかないところから西武線新宿駅乗入れのカラー想像図が

(22)都庁幹部が語る西武乗り入れ中止の背景

(23)構想以来65年ぶりに西武新宿駅と新宿駅を結ぶ地下道が実現に向けて動き出した

(24)西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れ撤退の理由が書かれた公文書

(25)「ステイション新宿」をそのまま一次資料として丸呑みしては危険

(26)交通新聞社「新しい西武鉄道の世界」結解喜幸氏の新宿駅乗り入れ記事がひどい

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2017年9月 3日 (日)

高速道路やICの名称決定基準

 鉄道の駅名についてはいろいろ本が出ていたりする。

 一方、高速道路についてはあまり出ていないのだが、「高速道路のプランニング」という本にその決定基準等が掲載されている。

 監修は建設省から日本道路公団において高速道路の計画・建設等に従事した三野定氏であり、実際に執筆したのは日本道路公団の現役職員だとあるから、それなりの精度とレベル感であることが期待されよう。

 ただし、この本が執筆されたのは1973年である。その後道路公団民営化や新直轄高速道路等といった変化があるため、現在もこのとおりなのかは定かではないので注意されたい。

 まず、高速道路の道路名称についてである。

高速道路の名称決定基準 (2)

 「中央高速道路」が「中央自動車道」に変更された理由が掲載されている。

東京ふしぎ探検隊 新東名、残りの区間は… 中央道が名前を変えた理由

 

■中央自動車道はかつて「中央高速道路」だった

 ところでこの中央道、現在の一般名称は「中央自動車道」だが、開通当初は別の名前を使っていた。その名も「中央高速道路」。東名、名神と同じく、高速道路を名乗っていた。なぜ、変更したのか。

 NEXCO中日本に尋ねたところ、「名前が変わったのは知っているが、時期も理由も分からない」とのこと。国土交通省の高速道路担当者に聞くと「変わったことも知らなかった」。そこで東京都立中央図書館(港区)を訪れ、文献をあさってみた。

 まずあたったのが「日本道路公団三十年史」(1986年=昭和61年発行)。細かく見たが、「中央高速道路」という名称は1回も出てこなかった。

 次に1976年(昭和51年)発行の「二十年史」を見てみると、こちらもほとんどのページで「中央自動車道」と書いてある。しかし時々「中央高速」と書いてあり、そのなかに「中央高速道路(のちに中央自動車道と改称)」とのくだりを見つけた(160ページ)。やはり名前が変わったのは間違いないようだ。

■「中央高速」、仕切りなしの対面通行区間も

 「高速道路の謎」などの著書があるモータージャーナリストの清水草一さんによると、「中央道では大月-河口湖間が開通した1969年(昭和44年)から事故が多発し、『高速』という名称は危険走行を助長しかねないと問題になった。そこで自動車道に改称した」という。

https://style.nikkei.com/article/DGXNASFK12038_T10C12A9000000/?page=3

 河尻定氏の調査能力の程度はまあ御察しということで置いておいて、NEXCO中日本にはしっかりしてほしいものだ。

 なお、清水草一氏は、大月~河口湖の対面通行での開通をきっかけとしているが、実際には、八王子以西が当初は対面通行で開通している。

 

 ただこれだけだと変更時期は明確ではない。

東北道などの開通後の道路名称決まる

 

 日本道路公団では、このほど,東北縦貫自動車道などの開通後の道路名称を次のように決定した。

 なお,中央自動車道富士吉田線(現在の「中央高速道路」)については,西宮線多治見・小牧間が開通する時点(昭和47年秋)に「中央自動車道」に名称変更する

路線名(区間) 開通後の道路名称
東北縦貫自動車道青森線
(川口~青森間)
東北自動車道
中央自動車道西宮線
(大月~小牧間)
中央自動車道
北陸自動車道
(米原~朝日間)
北陸自動車道
関門自動車道 関門橋

 

高速道路と自動車」1972(昭和47)年6月号98頁

 中央道の多治見・小牧間が開通したのは1972(昭和47)年10月5日なので、それにあわせて、調布~河口湖間も「中央高速道路」から「中央自動車道」に改称されたことになるのであろう。

 現在のNEXCOの高速道路の「路線名」と「道路名称」の一覧表が、NEXCO総研の「設計要領第五集 交通管理施設 標識編」に掲載されている。

 現在のところ新旧対照表がUPされているのであわせて参照されたい。http://www.ri-nexco.co.jp/Portals/0/%E6%9B%B8%E7%B1%8D%E9%96%A2%E4%BF%82/%E6%96%B0%E6%97%A7%E8%A1%A8/%E8%A8%AD%E8%A8%88%E8%A6%81%E9%A0%98/%E8%A8%AD%E8%A8%88%E8%A6%81%E9%A0%98%E7%AC%AC%E4%BA%94%E9%9B%86_%E6%A8%99%E8%AD%98%E7%B7%A8_2907_%E6%96%B0%E6%97%A7_1.pdf

高速道路の名称決定基準 (1)

 「法定路線名」とか「営業路線名」というのはネットスラングにすぎないので、こういう公式文書には出てこないのでご注意あれ。

 えっ?「NEXCO西日本のウェブサイトには「法定路線名」「営業路線名」って載ってる」って?「先輩の書いた本をよく読んだ方がいいんじゃないんですか?」「NEXCO西日本はwikipedia見て仕事しているんですか?」って言ってやればええんちゃうのん?

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 閑話休題、次はインターチェンジの名称である。

高速道路の名称決定基準 (3)

 鉄道の駅は、「西舞鶴」「東舞鶴」と地名の前に東西南北がつくが、高速道路の場合は「舞鶴西」「舞鶴東」と地名の後に東西南北がつく。

 これについては、三野氏同様に建設省から日本道路公団で高速道路の調査・建設に従事した武部健一氏が自著「道路の日本史」の中でこう語っている。

 ここで高速道路での施設の名称について、その歴史的由来を説明しておこう。

 高速道路の施設としてはまずインターチェンジが挙げられる。できればこれを漢字一文字で表現したい。駅という字がすぐに浮かび上がるが、これはすでに鉄道で手あかにまみれているし、まぎらわしい。「道駅」などもすっきりしない。駅がもともと道路のものだったなどとは、当時の関係者が知る由もない。その後、「道の駅」が一般国道など幹線道路の休憩所として整備され、平成26年(2014)末で全国で1,040ヵ所に達している。

 「インター」との略も「第三インター」など戦前の左翼用語を思い出させるとの古い幹部からのクレームでつぶれ、結局略語の使用は見送りとなり、現在に至っている。英語をうまく使った例では「ジャンクション」がある。本来の英語の意味は交差点でしかないが、これを高速道路相互の分岐・交差箇所に用い、一般道路に乗り降りする普通のインターチェンジと区別したのは賢明であった。

 インターチェンジの命名法もアメリカ流儀を採用した。日本では一般に東西南北などは地名の前につける。しかしアメリカでは逆にOregon-westのように後につける。名神高速道路ではアメリカ流儀を採用した。偶然のことながら名神の場合、後につけることが成功につながった。京都東インターチェンジである。これを従来の方式通りとすれば、東京都インターチェンジになるところであった。

 

「道路の日本史」武部健一・著 中央公論社・刊 196~197頁

 私は「日本最初の開通区間である名神高速道路の京都東ICを東京都ICにしないために、高速道路のインターチェンジ名は、地名の後に方角を入れた」のかと勝手に思っていたのだが、武部氏によると偶然の産物であるようだ。

 

 ところで、「高速道路ファン手帳」佐滝剛弘・著にはこんな箇所がある。

同名のインターチェンジ

 

 これほど高速道路網が広がると、全国では、同じ名前のICも登場しそうに思われるが、(中略)、高速道路の中では、重複しないよう、後からできたICが地名の前後に区別できるような名前を付けている。

(中略)

 同名の話に戻ると、「川崎IC」だと神奈川県にも宮城県にもあるので、前者は「東名川崎」、後者は「宮城川崎」となっている。さすがに「神奈川川崎」というのはあまりに不自然なので、そんなことにはならなかった。

 

「高速道路ファン手帳」佐滝剛弘・著 中央公論社・刊 90~91頁

 まあ、この佐滝剛弘氏の論も、実際には「高速道路のプランニング」記載の記述によると

・「市町村名の前に路線名をつける」

・第三京浜の川崎ICが先にあったので、東名川崎にした

ということで的外れな記述とあいなってしまった。

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 (余談)

 高速道路の名称は起終点の地域名、都道府県名、市町村名等からとるように書いてあるが、最初の高速道路である名神高速道路は、名古屋市も神戸市も通っていない(小牧市~西宮市)。

 名古屋市については、接続する東名高速に名古屋ICがあるからいいとしても、神戸ICはどうだったのか?

 実は神戸ICは当初は建設する予定はあったのである。

名神高速道路の西宮-神戸間の幻の計画路線図

http://www.archives.go.jp/exhibition/digital/high-growth/contents/15/photo27/imgs/i_zoom01.jpg

 詳細は「「名神全通50周年企画」なぜ名神高速道路は神戸まで行かないのか」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-d2b3.htmlをご覧いただきたい。

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南アルプスの少女ハイジ

 (余談その2)

 中部横断道の「南アルプスIC」は、高速自動車国道としては初めての「カタカナ」を使ったIC名だったはず。(※都市高速道路を含めると、阪神高速道路の「ユニバーサルシティ」の方が先。)

 上記開通案内を見るとこのときの開通区間は「南アルプスIC~白根IC」である。ところで白根ICは、旧・中巨摩郡白根町に存在したところ、2003年4月に周辺自治体と合併して「南アルプス市」になっている。

 時系列でいくと、2002年3月中部横断道白根IC(旧・白根町 現・南アルプス市)開通→2003年4月南アルプス市成立→2004年3月中部横断道南アルプスIC(旧・若草町、櫛形町 南アルプス市)開通という流れである。

 これが、もし南アルプス市の成立が白根IC開通よりも先だった場合には、南アルプス市内にICが南北に二つできることとなり、現白根ICが「南アルプス北IC」、現南アルプスICが「南アルプス南IC」になっていた可能性がなかったわけではない。。。

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2017年7月15日 (土)

「東京 消えた! 鉄道計画」中村建治(著)が怪しい~西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(番外編)

 西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れについては、以前ぎっちりとまとめたところではあるが、「東京 消えた! 鉄道計画」に掲載された新宿駅乗入れの記事がどうも怪しい。というかはっきり言って嘘。著者の中村健治氏は鉄道史学会会員ということらしいが困ったものだ。

「東京 消えた! 鉄道計画 」中村建治 の西武新宿線乗り入れに係る嘘 (2)

「東京 消えた! 鉄道計画 」中村建治 の西武新宿線乗り入れに係る嘘 (1)

 以前も「西武新宿線の国鉄(JR)新宿駅乗り入れを整理してみる。(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-4221.htmlで怪しいやつをいくつか潰したつもりだが、ここまであからさまな嘘はアカンやろ。

 「建築界」1964年8月号「新宿東口民衆駅・新宿駅東口地下駐車場」に、新宿ステーションビル竣工時の図面が載っているので見てみよう。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (2)

 この1枚で西武駅(改札の右側にホームが設置されるはずだった)と吹き抜けの関係が全くないことが分かる。

 「狭い駅ビル内ではホームの長さが足りない」もなにも、駅ビル内にホームは乗り入れていないし、「高い天井」は「電車を待ち受け」たりしていないのである。

 現在のルミネ・エストのフロアマップhttp://www.lumine.ne.jp/est/map/#F2と比べてみると、「ローリーズファーム」や「イーハイフンワールドギャラリー」のあたりが、改札、ホーム事務室、出札室となっていることが分かる。「今でも同ビル内には、やや広めの駅スペースがあ」ったりはしないのである。

 参考までにホームと駅ビル、新宿駅全体との位置関係を示すと下記のとおりである。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (9)

(国鉄停車場技術講演会第14回資料「ターミナルビルの最近の傾向について」318頁から引用)

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (5)

(東工15巻4号「新宿駅改良工事の計画と施工について」21頁から引用)

 ところで改札はビルの2階だけではない。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (8)

 西武駅に係る部分を拡大してみる。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (7)

 どうやら東口のびゅうプラザがあるあたりに西武の改札口や出札室が予定されていたようだ。2階の改札はともかく、1階の改札を明らかにした事例は少ないのではないか。そして1階の方がメインのように見える。

 また、3階にも西武駅務室が予定されていた。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (6)

 フロアマップhttp://www.lumine.ne.jp/est/map/#F3によると、現在「スリーコインズ」があるあたりが駅務室だった。

 なお、鉄道ピクトリアル1964年7月号「近代化した民衆駅…新宿駅ビル誕生」に掲載された写真には、西武駅ホーム接続部分の仮覆い?的なものが見られる。この大きさでホームや電車そのものが乗り入れられるように見えるだろうか?

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (1)

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 やはり諸悪の根源は、河尻正氏の日経東京ふしぎ探検隊「西武新宿駅はなぜ遠いのか 幻の東口乗り入れ計画」の思わせぶりな書き方なのだろうか?

「東京ふしぎ探検隊」河尻正の西武新宿乗り入れ記事が怪しい

http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2103N_S2A121C1000000?channel=DF280120166608&page=2

 「新宿民衆駅ステーションビル」の2階部分の設計図。」は、上記で引用した「建築界」掲載の図面とは形状が異なり、完成形のものではないと思われる。

 また、「ルミネエストの建物は1階の天井が高く、2階はかなり低い。1階の吹き抜けもやたらと広い。かつての設計図を見ると、このフロアの形が西武線乗り入れ計画の名残だとわかる。」とするも、「建築界」掲載の図面と比べてみると、何を根拠に天井高や吹き抜けが「西武線乗り入れ計画の名残」としているのか訳が分からない。

 ちなみに「建築界」に掲載された断面図がこちら。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (10)

 1階の高さは5000mm、2階は4200mm、3階から上は概ね3800mmである。「2階はかなり低い」わけではない。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (11)

 拡大してみると、1階の出札や改札口の様子がわかる。

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 ところで地下1階はこんな感じ。西武ホームに沿って右斜め上に柱が入っていることが分かる。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (3)

 ベルクあたり拡大してみる。

西武鉄道新宿駅 ルミネ(マイシティ)乗り入れ計画図面 (4)

 ベルク店内の柱が西武線ホームの名残であることがよくわかる。

西武新宿線 国鉄新宿駅乗り入れ計画 (81)

(「新宿駅最後の小さなお店ベルク: 個人店が生き残るには?」井野朋也・著 スペースシャワーネットワーク ・刊 から引用)

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(1)プロローグ

(2)戦前の新宿駅乗り入れ構想

(3)戦後新宿駅乗り入れの具体化へ

(4) 魑魅魍魎うずまく新宿ステーションビル

(5)新宿ステーションビルへの西武線乗り入れ

(6)新宿ステーションビルへの乗り入れ中止

(7)地下道による西武新宿駅と営団地下鉄・国鉄新宿駅との連絡

(8)西武新宿線の営団地下鉄東西線・有楽町線乗り入れ構想

(9)西武新宿駅の開発

(10)西武新宿線の地下複々線化による新宿駅乗り入れ

(11)西武百貨店堤清二による新宿ステーションビル乗っ取り失敗

(12)高島屋、西武に競り勝ち、新宿へ悲願の進出

(13)新宿駅東口2階の吹き抜けに西武新宿線が乗り入れるはずだったのか?

(14)新宿ステーションビルとベルクと井野家

(15・終)エピローグ

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2017年1月12日 (木)

大新宿構想時代(昭和50年前後)の上越新幹線新宿駅地下ホーム等の図面

 国鉄の「新宿駅貨物敷活用基本構想」から、上越新幹線地下ホーム等の図面をブログに公開してから約1年がたった。

 その後出版された、「完全版 新宿駅大解剖」(横見浩彦・監修 宝島社・刊)や「東京 消えた! 鉄道計画」 (中村建治 ・著 イカロス出版・刊)においても「新宿駅貨物敷活用基本構想」が引用されており、私のチンケな自己承認欲求も満たされてご同慶の至りである。「完全版 新宿駅大解剖」はインチキだけどね。

 とは言っても、「新宿駅貨物敷活用基本構想」は、あくまでもタカシマヤタイムズスクエア等の土地を切り売りするために、「どこまでは国鉄として持っておく必要があるのか」を決めるための仮想設計にすぎないものであると思われるため、あれが国鉄の本音ベースとはとても思えなかった。

 そこで引き続き調査していたところ、更に古い図面を発掘したのである。じゃーん。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (3)

 結果的には、「新宿駅貨物敷活用基本構想」のもの(下図参照:先に掲載した図面と方向を合わせるために上下を逆にした。)とは大きく変わらないものであったが、現物で確認できたことはそれなりに価値があると言えよう。

上越・北陸新幹線新宿駅地下ホーム

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 かつての「大新宿構想」とはなんぞやというと、1972・73(昭和47・48)年に、建設省と運輸省において国土総合開発事業調整費による大規模プロジェクト推進のための調査として「新宿副都心総合整備計画調査」を実施した成果であり、上越新幹線、地下鉄12号線(大江戸線)、13号線(副都心線)等の新しい交通網や淀橋浄水場跡地の副都心開発等を織り込んだものと言ってよいだろう。

 

 その根拠としてよく引用されるのが、「交通技術」1975年4・5月号「新宿副都心総合整備計画の概要 その1・その2」か「鉄道ピクトリアル」1975年11月号「将来の”大”新宿駅の構想」である。

 しかし、そこには

バスタ新宿とJR新宿ミライナタワーの前身?

のような地上の想像図(「交通技術」1975年4月号101頁)や

新幹線新宿駅2

上図のような断面図(「交通技術」1975年5月号11頁)はあっても地下のホームの平面は掲載されていない。

 「地下3階に上越新幹線のホームがある」としている根拠は

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (14)

こういったテキスト(上記表は「建築ニュース」1975年5月号「新宿駅の今と昔その将来」市川政治・中山秀雄・著 社団法人鉄道建築協会・刊 35頁から引用)にもっぱら依存している。

 日経「東京ふしぎ探検隊」の川尻定等がいろいろ知ったかぶりしたことを書いているが平面図を見て書いているわけではないのである。

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 今回私がご紹介するのは1976(昭和51)年12月に国鉄社内で行われた「第27回停車場技術講演会」の記録に掲載された「新宿駅将来計画」国鉄東京第三工事局調査課補佐・石倉勝美・著である。

 そこでは、下記のような鉄道整備計画を見込んだ新宿駅の将来構想が描かれている。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (6)

(「第27回停車場技術講演会記録」370頁から引用)

 これだけでは分かりずらいので補足すると下図のようなネットワークである。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (15)

(「建築ニュース」1975年5月号「新宿駅の今と昔その将来」34頁から引用)

 現在であれば、山手貨物線の旅客利用は埼京線・湘南新宿ラインであるが、この段階では「裏山手利用線」は常磐開発線である。

 湘南・新宿ラインは山手貨物線ではなく、明治通りの地下を通って池袋・王子に出て現在の地下鉄南北線に似たような線で埼玉スタジアムどころか白岡まで抜けている。

 現在も京葉線の新宿・三鷹乗り入れが取りざたされているが、中央・総武開発線が新宿駅を通っている。東京駅はまだ成田新幹線がおさえているので、京葉線とは異なり湾岸地区からは新橋経由で都心に向かっている。

 これらの開発線のホームと上越(北陸)新幹線のホームを盛り込んでいるわけだ。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (13)

(「東三工十年史」国鉄東京第三工事局・編集発行 136頁から引用)

 こういった新線計画を1970年代の新宿駅に組み込んでいったのである。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (4)

 「第27回停車場技術講演会記録」371頁に新宿駅周辺の地図に構想路線が落とし込んである。「縦十字」が東北・東海道開発線、「横十字」が中央・総武開発線、「裏山手利用線」が常磐開発線である。

 「第27回停車場技術講演会記録」に平面図が掲載されているので見ていこう。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (5)

 まずは、当時の現況平面図である。京王新宿駅がまだ4線あったりする。

 

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (8)

 次いで2階である。甲州街道の南側の現在のバスタ新宿あたりは、駅前広場と駐車場になっている。人工地盤の作り方は現在のバスタ新宿を彷彿させる。

 

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (9)

 1階である。裏山手利用線(常磐開発線)のホームが現在の埼京線ホームに比べて代々木寄りとなっている。また現在のJR東日本本社の西側にも駅前広場を造成する計画だったことが分かる。

 

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (10)

 地下1階である。

 代々木駅まで完全にコンコースがつながっているが、運賃はどうなってしまうのだろうか。JR東日本本社の地下にも改札ができている。また、現在の新宿駅の地下が大胆に掘り拡げられている。ベルク等の店舗は撤去してしまうつもりだったのだろうか。

 

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (11)

 地下2階である。

 新幹線用のコンコースがメインであるが、京王新宿駅付近への連絡口もあるようだ。

 

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (3)

 地下3階である。

 3面6線の新幹線ホームが現在の埼京線ホーム下に位置する。

 「新宿駅貨物敷活用基本構想」と大きく違うのは、新幹線の東側(図面の下側に)東海道・東北開発線(縦十字)ホームが設けられていることだ。

 新幹線ホームの下には、南(図面左)から、地下鉄12号線(大江戸線)、中央・総武開発線(京葉線)、地下鉄10号線(新宿線)がそれぞれ東西に走っているのが分かる。

 

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (12)

 その断面図がこちらである。

 平面図では分からないが、中央・総武開発線(京葉線)のコンコースが地下4階、ホームが地下5階となっている。

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 「第27回停車場技術講演会記録」以外にも当時の大新宿駅構想のイメージが分かる図面がある。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (16)

 「建築ニュース」1975年5月号「新宿駅の今と昔その将来」市川政治・中山秀雄・著 社団法人鉄道建築協会・刊 37頁から引用

 2階レベルがかなり大胆に甲州街道上空を占用して跨いでいることが分かる。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (17) 

 

 「建築ニュース」1975年5月号「新宿駅の今と昔その将来」市川政治・中山秀雄・著 社団法人鉄道建築協会・刊 38頁から引用

 新幹線ホームは、貨物駅を再開発したビルの直下ではないことも分かる。

 「タカシマヤタイムズスクエアの直下には上越新幹線ホームはない」ことを立証してきたところであるが、「ひょっとしたら大新宿構想のころにはビルの下にあったらどうしよう」という心配があったのだが杞憂に終わったようだ。

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 また、「東三工十年史」国鉄東京第三工事局編集・発行(1977(昭和52)年11月刊)の138頁から139頁には新宿駅の開発構想が掲載されており、

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (1)

 このようなカラーパースや

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (2)

 断面図が掲載されている。

※この「東三工十年史」にたどり着くには、@editsector氏の下記ツイートによるところが大きかった。この場を借りて感謝申し上げます。

https://twitter.com/editsector/status/716555171875061761

※川辺 謙一氏も「東京道路奇景」62頁で、大新宿構想の絵を載せるのであれば、これくらいのカラーパースを載せりゃあいいのにねえ。

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 「上越新幹線新宿駅は国会でどのように答弁されてきたのか?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-6db4.htmlの再掲になるが、大新宿構想のころの国会における国鉄磯崎総裁の関連答弁を抜粋しておこう。

昭和48年09月04日-参議院- 運輸委員会 - 27号

 

○説明員(磯崎叡君) 具体的な問題は後ほど担当から申し上げますけれども、いま先生のおっしゃった問題でございますが、私どもといたしましては、やはり新幹線と関連して考えなければいけないというふうに考えております。現在の新宿駅は、一応私のほうの工事としては一段落いたしておりますが、問題は甲州街道のガードの代々木寄りの貨物駅でございます。これは非常に現在、都市交通の問題もございますし、また場所として、はたして適当かどうかというふうなものもございます。一方、東北、上越あるいは北陸を東京都内に入れる際に、東京都から、東京駅に集中しないでほしいという強い御要請がございました。その際に、私どももそれを受けまして、東北、上越の認可を大臣からいただきます際には、将来そのターミナルを東京駅以外のところに持っていきたいということをつけ加えて大臣の御承諾を得ております。その際に、やはりその第一候補となるのは新宿でございます。相当広い土地も持っておりますし、あの新宿に、いまの計画中の上越新幹線あるいは北陸新幹線を入れることが、それ以外に方法がないんじゃないかというふうに思っておりますが、その際には相当根本的に、現在の電車駅も改良しなければいけないし、先ほど申し上げました貨物駅も、いずれ移転しなければいけないということが考えられます。その際に、それらを包括いたしまして、大新宿駅と申しますか、が、いずれできることになりますし、また先ほど先生の御質問の、いわゆる中央新幹線との接続地点と申しますか、あるいは新宿を通り抜けてそのまま行くということも考えられないことはないかと存じますが、それら、いずれ新宿は、私のほうから見ましても相当大きな東京における新幹線交通のセンターであり、また在来線交通のセンターである。しかし、またあまりあすこへ過密に集めてもいけないということで、貨物をどけるということが一つの方法と、その行く先等はいまいろいろ考えておりますが、新幹線の建設状態あるいは副都心の今後の進捗状況等を見まして、やはり新宿につきましては、たぶんこの十年ぐらいの間に相当また根本的な改良をせざるを得ないというふうに考えておりますし、やはりその起動力となるのは、東京都からのかねがねの御要請の、東京における新幹線のターミナルを東京駅だけにしないで分散してほしいという、その強い東京都の御要請を含んだ上で、私のほうも、幸い新宿に土地を相当持っておりますから、それらを利用して根本的な計画をつくり直すのは、たぶん十年から十二、三年ぐらい先のことだと思いますが、いまそういったことを頭に置きまして青写真をかいているところでございますが、また現実の今日の問題につきましては、後ほど担当から申し上げます。大体ビジョンとしてはそういうビジョンを一応持っております。

○説明員(磯崎叡君) 広さはちょっとあとで申し上げますけれども、一応私どもの構想といたしましては、いま小田急が十両編成の工事をやっております。例のホームを延ばす仕事をやっております。甲州街道の先のほうへずっといま工事をいたしておりますが、それとは全く関係なしに、私のほうのいまの考えはそれの逆なほうでございます、市内側のほうでございます、内側のほうでございます、新宿御苑に近いほう、あそこに貨物駅の私どもの事務室あるいはいまコンテナの置き場になっているところがございますが、あの辺と、先ほど原岡が申しました貨物の仕分け線がございます。いまの先生の御指摘の旅客ホームと駅ビルの間に十数本の貨物の仕分け線がございます。それがいずれ山手貨物線がかりにもし要らなくなるとすれば、その用地があくわけでございます。したがって、いまの大体のビジョンといたしましては、甲州街道のガードの上に置きまして、その下にいまの貨物駅のコンテナを置いてあるところからいまの仕分け線のホームというところには、相当広大な土地がございますので、山手貨物線を相当程度武蔵野線に移すことができますれば、結局いまの山手貨物線のあとが大体要らなくなるということになります。したがって、先生の御指摘の小田急でないほうの、市内側のほうに大体新幹線のホームを、あるいはある程度の――あそこは幸い立体的に使えるところでございますから、甲州街道のガードが高こうございますから、それをうまく使えば相当平面的にも立体的にも広大な土地があく。それにはやはり何と申しましても山手貨物線を武蔵野線に移すということが前提になりますが、これが大体計画は、多少おくれておりますが、進んでおりますので、それができれば一応いまの問題と関係なしに考えてよろしい。まあ小田急、京王はいろいろやっておりますが、これは全部そういうことを踏まえた上でやっているわけでございます。
 用地の広さは約十六万平米だそうでございますが、その大体半分ぐらいが貨物ではないかと。ただ一つだけ申し上げておきますと、かりにあそこに新宿の新幹線の大ターミナルをつくるといたしますと、相当駅前広場が要るわけでございます。その場所がはたしてとれるかどうかということは相当問題でございます。私どもの土地がございますが、私どもの土地を相当程度駅前広場に提供するということは、またなかなかできませんし、問題はあそこに――いまの新宿でも非常に駅前が狭くて困っておりますが、あそこに新幹線を入れますときに、はたして駅前がいまのままでいいかどうか、相当広大な駅前広場が御苑との間にとれるかどうか、あるいは新宿の繁華街との間に問題がございますし、西口のほうも大体いま形がきまってきておりますので、その辺にひとつ問題がございます。一応いずれにしても新宿を将来の東京の交通の中心にしたいという考え方には変わりございません。

 上記の答弁と図面は整合が取れるのではないか。

 

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 ネット上では「上越新幹線新宿駅は京王新線と京王線の間に予定されている」との説が見受けられるが、1971(昭和46)年の新聞報道、1973(昭和48)年の国会答弁、1975(昭和50)年の「第27回停車場技術講演会記録」、1977(昭和52)年の「東三工十年史」そして1985(昭和60)年の「新宿駅貨物敷活用基本構想」と一貫して貨物駅下(現埼京線ホーム地下付近)に上越新幹線ホーム設置を構想してきたことが分かる。

 よって「京王新線と京王線の間」説は根拠に乏しいと言い切って差し支えないのではないか。

 

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 河尻定氏は、「鉄道ピクトリアル」1975年11月号「将来の”大”新宿駅の構想」を根拠に

貨物駅の跡地にはタカシマヤタイムズスクエアができた。新幹線の新宿乗り入れは幻となった

 

東京ふしぎ探検隊 「新宿南口、線路上に巨大ターミナル 「大新宿駅」が実現」http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2402R_V21C12A0000000?channel=DF280120166608&style=1&page=4 から抜粋

とあるが、何度も書いているように、上記鉄道ピクトリアル記事には、この頁に引用しているような大新宿駅の平面図は掲載されていない。図面も見ずにあてずっぽうで「新幹線の新宿乗り入れは幻となった」と述べているにすぎないと言えよう。

 タカシマヤタイムズスクエアができたところで、最初から新幹線に支障がないように切り分けて土地を売却したのだから。スペースがなお残っていたのである。

 「残っている」のではなく「残っていた」との過去形なのだが、それは次の記事で説明したい。→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1df5.html

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 <上越新幹線新宿駅関係記事>

 その1 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6225.html

 その2 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6883.html

 その3 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-d383.html

 その4 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-f365.html

 実際のところどうなっているのか? http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-9452.html

 国会でどのように答弁されてきたのか? http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-6db4.html

 報道をまとめてみた(その1) http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html

 報道をまとめてみた(その2) http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.html

 「完全版 新宿駅大解剖」(横見浩彦・監修 宝島社・刊)表紙トップの上越新幹線ネタを検証してみる http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-7007.html

大新宿構想時代(昭和50年前後)の上越新幹線新宿駅地下ホーム等の図面http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-bfa5.html

やっぱりバスタ新宿の基礎で上越新幹線新宿駅はできなくなっちゃったんじゃないの?http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1df5.html

上越新幹線 新宿-大宮間ルートの経緯を整理してみるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-6d67.html

上越新幹線の池袋駅はどうなっていたのかhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-2c6b.html

大宮駅付近に見る上越新幹線新宿-大宮ルートの痕跡http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1c4d.html

東北新幹線は浦和市営モノレールの導入空間を空けて今でも待ってるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-0765.html

上越新幹線新宿駅-大宮駅間ルート「川島令三案」を徹底検証してみたhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/--a64d.html

上越新幹線新宿駅と都営地下鉄新宿線及び大江戸線との位置関係を確認してみるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-3b1a.html

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

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2015年5月17日 (日)

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)

 清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察を続ける。

1950年代、まだ日本の道路は恐ろしいほど貧しく、長距離輸送は旅客・運輸ともに鉄道が主役。東京~名古屋間をクルマで移動するなど夢物語でした。当時の自動車交通にとって、それよりはるかに重要なのは近距離移動。たとえば東京~横浜間でした。第三京浜はそこを強化するため東名より先に計画され、完成は東名より4年早い1965(昭和40)年です。よって第三京浜が3号渋谷線との接続を想定していたとしても、不思議はありません。

 

清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用

 

■第三京浜は東名より先に計画されていたのか?

 

 東名高速道路の計画は戦前から行われ、1953(昭和28)には、既に首都高速と接続する計画が公表されていた。

 他方、第三京浜道路の計画着手は1958(昭和33)年である。

第三京浜道路 菊名バイパスとして計画に着手

 第三京浜道路工事報告「第2節 着工までの経緯」1-5頁から引用

 

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■第三京浜は当初東名高速の一部だったのか?

 

 ちょっと脇道に逸れてみる。

 

国道研究家の松波さんはこう指摘する。

「第三京浜の工事記録である『第三京浜道路工事報告』によると、第三京浜は当初、東名高速の一部として考えられていました。東名高速の起点は玉川で、そこまでは首都高速がつなぐ構想でした」

「しかし東名のルートは最終的に、横浜経由ではなく厚木経由に決まり、用賀が起点となりました。首都高 も用賀へ向かい、その結果、本来東名の一部になるはずだった第三京浜が中途半端な道路となったのです」

東急ターンパイク計画の浮上で下火になっていた高速道路構想を、建設省がターンパイクつぶしのために蒸し返した。しかし急ごしらえで仕立て上げた第三京浜計画は結局、東名高速のルートとはならず、中途半端な状態で実現してしまった――。これが真相ではないか。そしてそのどちらにも近藤氏がかかわっていた。

 

「田園都市線のルーツは高速道路 東急、幻の計画」河尻定

2013/2/1 6:30 日本経済新聞 電子版

 

http://image02w.seesaawiki.jp/w/t/wkmt/a5a8a3790ee6d63e.pdfにUPされている。

 

第三京浜道路工事報告「第2節 着工までの経緯」1-6頁に下記の表記がある。

第三京浜建設誌から東名との関連部分

 

 この表記から「もともと東名高速は第三京浜を延長するはずだった」と考える人がいると推測しているのだが、ここだけ読んでいたのでは十分な理解には至らないのである。

 前述のように、1953(昭和28)年の段階で、東名高速は現在のルートで工事着工が新聞報道されるレベルであったのに、「なぜ1958(昭和33)年に計画を開始した第三京浜の延伸を東名高速の案として検討する必要があったのか?」というスタートの部分が第三京浜道路建設誌には書いていない。

 「道を拓く 高速道路と私」から『世銀借款交渉の日々』斎藤義治(元建設省高速道路課長:先の「道路」1961年11月号「東海道幹線自動車国道の計画について」の著者でもある。)著 153~154頁から引用する。

第三京浜と東名の関係

 

 先に青木一男氏が「東海道が交通渋滞して困るのならば、バイパスを建設してこれに対処すればよい」と述べていたのをご記憶だろうか?

 「建設省は、本当は既に調査が進んでいた東名をやりたいのだけど、中央道との論争の結果次第で東名に着工できない場合を想定して、第三京浜経由でも東海道の交通量増加に対処できるように手は打ってあった。そのためにも玉川ICは首都高速と接続できるよう対策しておいた。」ということであろう。あくまでも「場合によっては」という位置づけであったことを見落としてはならないのである。

 

東京周辺自動車道記事

 

 1960(昭和35)年2月27日付朝日新聞に「東京周辺自動車道は第三京浜道路終点の横浜から小田原方面に通る道で、公団は現在の東海道1号国道の北側を予定しているが、国会で問題化している東海道第二国道建設問題にからむのでルートの公表を避けている」との記事が報じられている。ここの部分が斎藤義治の著述と整合性がとれるのである。

 それが、「中央道対東名」の対決は同時着工で収束し、1960(昭和35)年7月に「東海道幹線自動車国道建設法」が成立したために、もうそんな備えが必要なくなったのであろう。

 

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第三京浜建設誌から東名との関連部分

 

 ちなみに「山手案」があれば「海岸案」があるのだが、それにご関心の方は、「産業計画会議第3次勧告「高速自動車道路についての勧告」 http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_03.pdf にお目通しいただきたい。

(松波さん、この辺は落ち着いたら是非一献やりましょうw)

 

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清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)

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2013年6月12日 (水)

昭和31年2月28日東京都庁議「三原橋」問題の処理について→関係局間においてなお検討すること

先に、三原橋地下街の当初占用許可に係る文書を紹介したのだが、私のブログでも取り上げているように、その後大きな問題となっていった。都議会のみならず、国会でも取り上げられるようになり、東京都としても対処に迫られたものと思われる。

三原橋地下街経緯公文書016

三原橋地下街経緯公文書001

三原橋地下街経緯公文書002
三原橋地下街経緯公文書003
三原橋地下街経緯公文書004
三原橋地下街経緯公文書005
三原橋地下街経緯公文書006
三原橋地下街経緯公文書007
三原橋地下街経緯公文書008
三原橋地下街経緯公文書009
三原橋地下街経緯公文書010
三原橋地下街経緯公文書011
三原橋地下街経緯公文書012
三原橋地下街経緯公文書013
三原橋地下街経緯公文書014
三原橋地下街経緯公文書015
三原橋地下街経緯公文書017

いきなり「マル秘」に心が小躍りしてしまうわけだが、マル秘のぶっちゃけ内部文書にも「露店を収容」とは一言も出てこないのだよ>日経の河尻定さん。









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三原橋地下街の当初占用許可に係る東京都庁議公文書

さんざん書き散らかしてきた三原橋についてだが、やっと本丸にたどりついた感じ。
日経新聞の「東京ふしぎ探検隊」、「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」での河尻定氏の

東銀座周辺にはかつて三十間堀川が流れ、三原橋という橋が架かっていた。終戦後、戦災で生じたがれきの処分先として川は埋め立てられたが、なぜか橋桁だけが残った。1952年(昭和27年)に露天商を収容する目的で地下街を造った際も、橋桁を残したまま開業した。 

という記述のインチキさを証明しようとして、ずいぶん無理なアクセルを踏み込んできたような気もするが。

川尻定氏のインチキ記事と下記東京都の公文書とを比較していただきたいものだ。

(記事はクリックすると大きい写真にジャンプします。)

三原橋地下街経緯公文書018

三原橋地下街経緯公文書019

三原橋地下街経緯公文書020

三原橋地下街経緯公文書021

三原橋地下街経緯公文書022

三原橋地下街経緯公文書023

川尻定さん見てる~?「露店商を収容」ってどこに書いてある~?

「なぜか橋桁だけが残った」(川尻定サイト)のではなくて「交通その他の事情を考慮し現状の儘当分これを存置」(上記文書1頁目)ともあるねえ。

それはさておき、三原橋下の出願者は第1に「東京都同人会」とあるが、これは許可は得たものの、寄付金の高さに辞退した。そこで、件の「東京都観光協会」が繰り上がったものである。この辺の経緯は別頁で。

また、許可条件に「13.許可期間が満了したときは、道路管理者の指示に従い、遅滞なく施設物を撤去し現状に回復すること」とある。

どなたかのブログに、現在三原橋地下街で営業中の店主が「都は立ち退き料も払わない」と言った云々という記事を拝見したが、そもそも、立ち退き料どころか、自費で地下街を撤去して都に返すというのが条件なのである。

しかし、これを読んでいると鍛冶橋の下にも同じような(それも三原橋よりも大規模な)地下街が作られることになっていたのである。この辺どうなったのだろう。

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2013年5月25日 (土)

三原橋地下街や橋上のビルに係る経緯の公式見解(都議会議事録)にたどり着いた

日経新聞の「東京ふしぎ探検隊」に、「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ>」という河尻定氏が書いた娯楽記事で「露天商を収容する目的で地下街を造った」なんてことが書かれていた。

河尻定氏の記事について疑問を書き散らしたのが、先日の「日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義」である。
これをまとめるにあたって、朝日新聞 1953(昭和28)年8月29日朝刊に出てくる「去る6月の都議会で地元選出の守本又雄議員(社)の「使用目的違反だから都側の善処を要望する」との質問に前記岡安副知事の言明となったもの。」というあたりが気になっていたので調べてきた。
(下記画像はクリックすると大きくなります。)
東京都議会 本会議 (1953年6月16日)議事録
三原橋都議会答弁0
三原橋都議会答弁1
三原橋都議会答弁2
三原橋都議会答弁3
三原橋都議会答弁4
三原橋都議会答弁5
〔五十六番守本又雄君登壇〕
〇五十六番(守本又雄君)私は都有財産の管理について知事にお尋ねいたしたいのでございますが、御存じのように都有財産が常に問題を起し、本都議会におきましても都有財産の調査会等を設けまして、起つた問題に対する調査が行われている。こういうことは理事者の皆様も御存じであろうと思うのであります。私はこういう面から考えましてこの都有財産の管理がきわめて放漫である、しかもまた怠慢である、こう考えているのでございます。なぜならば、私どもの知っている範囲内におきましても、たとえば都の住宅用地として指定されている用地を自動車の置場として、しかも終戦後五年も六年もそのまま民間業者に使わして利益をあげさしている。あるいは戦災によって焼けた橋のいわゆる道路に向って、またいろいろな施設をつくって利潤をあげている。あるいはまた緑地地帯として指定されている地帯をこれまた昆間の業者に貸し与えて利潤をあげさしている。こういう管理が行われておりますることはわれわれは非常に遺憾に思うのであります。いわゆる東京都民は終戦以来今日まで犠牲の連続であります。住宅にいたしましても、毎年ふえる多くの人口を抱えながら、しかも住宅の犠牲を払っている。あるいはま
た都市計画が打立てられる面におきましても、立退き等の犠牲を払っているのであります。さらに水害の問題にいたしましても、その水害防止の対策が十分なされないために、いわゆる水害の犠牲をこうむっているというような犠牲の連続であります。さらに重税を課せられている。国税を払ってさらにその所得に事業税がかけられ、さらにまた区民税、都民税がかけられているというような、いわゆる血のにじみ出るような税金を払っているのでございます。かくのごとくにあらゆる犠牲を払っているのでありまずけれども、.東京都の復興のために善良なる都民は協力を惜しんでいるのではありません。協力をしてこの苦しい生活を続けておりまするときに、この気持に対して私は東京都の財産を一坪なりとも無意義にこれを使用さしてはならぬと思うのであります。もしそういう土地が民間に使用させねばならぬというようなことで不要であるならば、それを適正価格によって払下げをして、都の財政の一助にしてしかるべきだろうと思うのであります。かような点から申し上げますならば数限りなくあるのでございまずけれども、それらの面は後日にいたしまして、当面起っておりまする問題を知事にお尋ねいたしたいのであります。
 いわゆる三十間堀の三原橋を中心とした両側に目下鉄筋コンクリートの二階建がつくられております。この鉄筋コンクリートの二階建の敷地が三五一・一平方メートルあるのでありまして、この時価が四千五百万円といわれているのでございます。さらにもう一つお尋ねいたしたいことは、その三原橋の銀座寄りに元橋台敷であったのでありまするけれども、この橋台敷が十一坪でありまするが、これは都の都市計画によって緑地地帯に指定されているのでありまするが、これまた民間に貸しまして、現在緑地の指定をしているにもかかわらず、これを実行しようとしていない。この二点をお尋ねいたしたいと思うのであります。知事も御存じのように昭和二十三年だつたと思いまするが、東京都の残土がうず高くあの道に積み重ねられまして、その上に塵芥が山をなしておったのであります。当時東京都はその塵芥を処理いたしますために三十聞堀の埋立てをいたしまして、そうしてこの埋め立てた土地を売却するという一石二鳥を狙って、地元の強い反対を押し切って遂に埋立てを完了いたしだのでございます。その当時地元の反対を説得いたしますために東京都議会の代表並びに中央区議会の代表、地元民の代表、理事者の代表等二十九名をもつて三十間堀運営委員会で組織されまして、そこで知事の諮問機関として審議決定を見ましたことは、知事の手元までその決定事項が出してありまするし、また知事もそれを了承されたので、よくおわかりになろうと思うのであります。当時の状態から考えますならば、あの土地をやみ市のような不健全な町の性格をつくってはならぬ。さらに防火の面を考えまして、少くとも隣接地域との間に二メートルの間隔を置いて、防火の面に対する処置をとるということも上申されているのであります。さらに三原橋のあの橋はそのまま残しまして、その下を健全な商店とし、あるいは娯楽機関とする。同時にあの周辺をロータリーにいたしまして、三原橋が一周り回れるような構想を立ててやるべきであるということもいろいろ論議されたのであります。さらにまた今コンクリート造りを建てておりまする三五一・一平方メートルのところはこれに緑を植える、こういうことが決定を見ておったのであります。しかるにこの三十間堀運営委員会が決定をいたしまして数年を経過しているのでございまするけれども国会で問題になりましたように東京温泉のような施設ができてみたり、あるいは委員会が決定しているにもかかわらず十三尺の防火の間隔を置かない。こういう姿になって、当時上申いたしましたこととはおよそ違つた性格の町ができつつあるのであります。こういう面から考えまして、三原橋のあそこに何ゆえにああいう防壁のような二階建の鉄筋コンクリートの家をつくらせなければならないのか。知事は少くとも都市計画の面において、駅前のように多くの人が頻繁に通っておりまするところは広場をつくつて、いわゆる交通の緩和をはかるということが考えられているのでございます。しかるに三原橋は東京都の中心地区でありまする関係上、非常な交通量を有しているのであります。この大きな交通量を有しているにもかかわらず、あの両側に高いコンクリートの壁をつくりますと向う先が見えません。ちょうどロータリーの真ん中に家を建てたと同然であります。こういう建物が建てられておるのでございまするが、これが東京観光協会、すなわ東京観光協会の会長は安井さんのはずであります。
この安井さんの会長である東京観光協会があの土地を東京都知事の安井さんから借り受けて、その借り受けた観光協会が新東京観光株式会社という営利を対象とする会社にこれを貸し与えて、この会社がそこに今家をつくっているのでございます。こういう面から考えましても、知事は都市計画を一面には進めながら、一面には埋立てによってあの広場ができたにもかかわらず、知事が関係しているところの観光協会の手を通じて民間業者に貸さなければならなかった理由をお尋ねいたしたいのであります。
 さらにもう一つは、観光協会が東京都に使用許可の申請をいたしましたのが昭和二十七年九月三十日でございます。九月三十日に観光協会が安井誠一郎氏の名前をもつて、東京都知事である,安井さん宛にこの使用の願出をしているのでございます。しかして十月三十日にこの許可がなされております。ところが一面、この東京観光協会が新東京観光株式会社に通達をしているものを考えますと、「昭和二十七年八月七日附をもつて申請に係る表記の件については本月三十日附東京都知事より写の通り許可になったから許可条件に反せぬよう厳重に留意の上施行されたい」という通達が行っているのでございます。こうなって参りますと、観光協会が都に対して使用許可申請をいたしましたより約一箇月と二十五日も早く、新東京観光株式会社から東京観光協会に対して貸してもらいたいという話合がなされておったのではないかと思うのであります。かような公共団体という美名に隠れて、しかも法の盲点といいますか、条例の盲点といいますか、そういう面を潜って、しかも営利会社であるところの新東京観光株式会社にこれを貸し与えている。それが東京都知.事であり、観光協会の会長であるといたしまするならば、この点についてどういうお考えを持っておられるか、これもひとつお聞きしたいのでございます。
 さらにお尋ねいたしたいのでありますが、それは三原橋の銀座寄りにありますところの十一坪の緑地帯であります。これも先ほど申上げましたように、都市計画課より中央区長宛に都市計画用地に変更するからという通達が来ているのであります。従ってあの土地は小公園あるいは緑地帯として都は建設して行かなければならぬにもかかわらず、鳥居とかいうその隣接地域を買った人にその土地をまた貸している。先ほど見て参りますと、そこへちゃんと家が建っている。しかも新東京観光株式会社の建築に用いました事務所がそのまま現存している。それをそのまま無償でもらって、都からは地所をそのまま無償で借りているのでありますから、あれはいわゆるそのまま既成事実をつくって、永久に所得託される結果が招来するのであります。私はあの繁華な、交通量の一番多い地区においては、一日も早く緑地帯をつくってもらわなければならぬ。ああいう壁のようなものをつくってもらったのでは交通上に大きな支障があることを憂えるために、この問題について知事に詳細な御答弁を願い、御説明を願いまして、説明のいかんによりましては再び質問に立ちます。

〔知事安井誠一郎登壇〕
○知事(安井誠一郎君)守本さんの只今の御質問に対しましては、事務上のことがこまかくわかっておりまする岡安副知事より御答弁を申上げますから、御了承願います。

〔副知事岡安彦三郎君登壇〕
○副知事(岡安彦三郎君)只今守本さんから都有財産の管理についての御意見がございましたが、それに関連して三原橋の貸付の問題、さらに橋台敷の緑地の問題の御質問がございましたのでお答え申し上げます。
 まず都有財産の管理でございまずが、これにつきましては先般来問題がございまして、すでに都議会におきましても調査委員会のありますことは御存知の通りであります。ただ都におきましては厖大な土地または家屋を持っておりますので、すでに二年来その調査をいたしまして、去年の暮から一応の線が出て参りましたので、最近おそらく財務委員会の方には御報告したのではないかと思いまするが、その数字によりますると不正確なのは一〇〇%のうち二%半か一%何分、さような数字になっております。しかしそれにしましてもなんとも善良なる管理者として管理すべきでございますので、今後につきましては一〇〇%間違いないようにやりたいということを考えておりますので、この点を申上げたいと存じます。
 そこで御指摘の三原橋の問題でございますが、二十三年にあの三十間堀を埋め立てまして、その土地を売却いたし、これをもって都市計画の財源にいたしましたことは事実でございます。また三原橋のあの.橋の附近は下を健全なる娯楽場にするか、あるいはこれを東京商品の見本の場所にするか、あるいはその際にロータリーにする、こういう話があったことも私は聞いております。しかしごらんになりましたように、あそこはロータリーにはちよつと急激になっておりますのでできかねると思うのであります。三原橋の下に入りますには相当傾斜面が強いのであります。従って今は段々になって中に入っているのであります。ただその橋脚の下を観光協会に貸しまして娯楽場にする、こういう点につきましてはすでに御案内の通り、ことに守本さんよく御存じの通りでございまするが、映画館があり、あるいは娯楽場の一つとしてのパチンコ屋がございます。それから飲み屋がございます。この点につきましては私らもはなはだ遺憾に存じております。従って観光協会を通じ、また新東京観光会社にもこの施設の撤回改善を命じているようなわけであります。そこでこの上の問題が只今出て参りましてが、その通りでございます。
現在約百坪にわたり五十坪五十坪両側になっておりますところに鉄筋コンクリートで二階建の建物が建っておりまするが、これは先ほども申しましたように東京観光協会、これは安井知事が会長でございます東京都のいわゆる外郭団体で、東京都の観光施設、東京都の商品を日本全国に宣伝する、こういう機関として設立していることは事実でございます。その理事には都議会議員の方もなっております。その観光協会にあの土地を貸まして、観光協会で建物を建て、観光宣伝に使うというのが建前でございまするが、御存じのように観光協会には今なかなか資金がございません。東京都から年々わずかでございまするが三十万円の補助をしておりますので、観光協会としましては三十万円では足りない。もっと年額二百万、三百万の補助金がほしい。こういうことになっておりまするが、都の財政上これが許しませんので、今そのままになっております。しかし今申しますように、何としましても都の外郭団体である観光協会をして、東京商品の宣伝、東京の観光施設をつくらせるということは、非常にいいことだと思います。しかし観光協会が自分の費用ではできませんので、新日本観光株式会社に事業委託をやらしたのであります。その結果、あそこに建物を建てました。今後できますれば、あそこで東京商品の陳列、東京へ参ります人に東
京の観光宣伝をする。あるいは東京に参りまする外国人または地方から参ります人に、東京の商品を販売する、こういう計画で建てておるのであります。ただこの間におきまして四千万円というお話がございますが、確かにあれがまともの地所でありますれば、坪三十万円、四十万円はしましよう。しかし御存じのようにこれは宙に浮いた土地であります。従ってこれを普通の土地にしますには相当の費用がかかるのであります。そういう点を勘案いたしまして、現在寄付金と申しますか、権利金等につきましては、観光協会あるいは新日本観光株式会社と折衝中でございます。そういうわけであそこにできまする建物は、私は考えますのに確かに東京の一つの名物に相なるつもりであります。また名物にしたいと思って語ります。東京に行けば観光事業として、こんなりっぱなものがあるという考えを持ってやっております。従ってこの新日本観光株式会社の運営につきましては、都の理事者、観光協会の役員、それと会社の者、この三者寄り集まりましたいわゆる協議会をつくりまして、これが運営につきまして万全を期して行きたい、こういうふうに考えておる次第であります。
 次に橋台敷の十一坪の緑地帯の話が出ておりますが、確かにあそこには昔便所がございまして、そのまわりを緑地帯とするということになったのは事実でございます。これは私らも必ず緑地帯にいたします。ただ現在では三原橋の上の建物のために、臨時に新日本観光株式会社にバラックを建てさせておりますが、これが完成の暁には、このバラックは当然取払わせる、もしも取払わなければ私らは強制執行をいたしまして、その上でこれは緑地帯にいたします。ただここで今回できまする三原橋のすぐそばに、今後指摘の鳥居なにがしが土地を買って語りますが、この人もやはり本建築をしたいので、本建築をする間、工事現場にするために二月でも三月でも貸してくれんかという話がございましたので私の方としましても、あれをすぐ取壊わす、いずれ三原橋の上ができ上れば当然きれいにすべき土地でございますので、その間臨時に、貸しておることは事実でございます。しかしこれも今申しますように臨時でございますので、決してこれに居座わられるとか、あるいはこれを鳥居なにがしに売るとか、こういうことは御懸念はございません。私どもは責任を持ってこれを取戻しまして、緑地帯にいたす、こういう考えでございます。
この点、御答弁申上げます。

〔五十六番守本又又雄君登壇〕
〇五十六番(守本又雄君)只今の御答弁によりますと、岡安さんに私の質問が少し徹底しないのではないかと思いますので申上げますが、いわゆる三十間堀の運営委員会という民意を反映したものに反して、なぜそこにそれを建てなければならないか、観光事業ということに対して、私どもはこれを軽視しておる者ではございませんが、観光事業を行うために、わざわざ地元民、あるいは今日中央区議会では、全面的に反対を表明して東京都議会議長あてに、その意見を聴取したいという書類が参っているはすだと思います。こういうように地元の人たちが反対し、そうした地元のいわゆる民意によって決定されたことをくつがえして、なぜあの三原橋の両側に、その建築をしなければならなかったのかということを、私はお聞きしておるのであります。ただ観光協会が観光事業として三原橋の両側にあれだけの建築をして、両方に壁をつくるのでありますから、なるほどそれは東京一のいわゆる名物になるでありましよう。しかしながらその周辺の商店は、それがためにどれくらいの迷惑をこうむるか、こういうことも私はあわせて考えてもらわねばならんと思うのでありまして、こういう点で私はお聞きしておるわけであります。
あそこを名物にするというならば、都市計画は何のためにやっておるのかということを私はお尋ねしたいのであります。わざわざ人が住んでおるところを、強制立退きで移動させて、しかもそこにわざわざ広場をつくっておる、この都市計画のあり方から考えましても、せっかく埋立てによって、広場ができておる、それをああいう建築をして、そこを狭めて行くといたしますならば、都市計画の将来に対して大きな障害が起るであろうと、私はこの点を杞憂するのであります。
さらに都民の健康の面から考えましても、衛生の面から考えましても、あの通風を妨げけような建物のあり方というものは、不健全な建物であると言わざるを得ないのであります。そういう意味から、いわゆる東京観光協会と東京都とのこの契約内容の中に、いわゆる本件の許可は周囲の利害関係に関する異議の申立てがあったとぎは、必要に応じて許可を取消し、契約者の負担において原状に回復させることにする。こういうようないわゆる条文が入っているのであります。従って今日三原橋のあの建築をめぐって、中央区議会が全面的にこれに反対しているのであります。さらに周辺の住民にいたしましても、あの防塞のような壁をつくられた場合、営業に相当な支障があるというので、反対を続けておるのでありますが、こういう反対が明らかにありました以上は、東京都としては、この許可に際して取消す意思がある.のかどうかということも、あわせてお伺いいたします。
.
〔議長退席、副議長着席〕
〔副知事岡安彦三郎君登壇〕
○副知事(岡安彦三郎君)重ねての御質問にお答え申上げます。都市計画の見地からいたしまして広場をつくり、あるいは道路を拡張する、この点につきましては異論のないところであります。ただあの場合にあそこにつくることは都市計画の見地から、私は決して不当ではないと考えたのであります。これは皆様ごらんをいただけばわかると思いますが、そこらの狭い所を広くする都市計画に反対する、あるいは広場をつくるのに反対する、こういう意味ではございません。あそこにつくりましても決して狭まるというようなことは考えておりません。
 それから三十間堀運営委員会の諮問事項でございますが、あれについては私はあの当時、たしか財務局長として一、二回委員会に出ましてお話は承ったのでありますが、あの時には別にあそこにそういうものを建ててはいかんというような諮問の意見はなかった。こういうふうに私は承知して語ります。それから隣り近所の反対、これは確かに観光協会に許可いたしました条件の一つでございますが、私らの申しますところの隣り近所の隣りといいますのは、今回許可いたしました場所とすぐ接続の地主、こういう意味に解釈して語ります。御指摘のようにそのすぐそばの地主さんは、かりに、あそこに大きな建物を建てますれば、非常に迷惑する。そのことは考えられましたので、その条件は確かにつけましたが、これはその関連の地主は、全部了承しておるような次第でございます。従って私はこういう点で、観光協会をして建てさせた、事業委託をさせた、こいうつもりでございます。御了承をいただきたいと思います。

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ご覧のとおり「露天商を収容する目的で地下街を造った」なんてことは一切書かれていない。
「これを読まずして三原橋地下街を語るなかれ」というような一次資料ではないだろうか、と思っていたら、これを入手した直後にもっと重要なのではないかと思われる資料の存在を知った。
東京都公文書館には下記の文書が保存され、閲覧できるらしい。これは行かねば。。
概要情報選択
1 【文書・資料群ID】東京都 【公開件名】【庁議】三原橋及び鍛冶橋の下の占用について 【文書記号・番号】第14号 【補助件名】庁議 【文書年度(和暦)】昭和25年~ 【起案年月日(和暦)】昭和25年01月17日 【文書年度(西暦)】1950年~ 【起案年月日(西暦)】1950年01月17日 【資料種別】公文書_件名_都 【記述レベル】item 【利用可否】利用可 【請求番号】328.A5.01 【収録先簿冊の資料ID】000145462 【マイクロフィルムリール番号 35mm】 (33)018
2 【文書・資料群ID】東京都 【公開件名】【庁議】「三原橋」問題の処理について 【文書記号・番号】第10号 【補助件名】庁議 【文書年度(和暦)】昭和31年~ 【起案年月日(和暦)】昭和31年02月25日 【文書年度(西暦)】1956年~ 【起案年月日(西暦)】1956年02月25日 【資料種別】公文書_件名_都 【記述レベル】item 【利用可否】利用可 【請求番号】328.A7.06 【収録先簿冊の資料ID】000145821
3 【文書・資料群ID】東京都 【公開件名】【庁議】「三原橋」問題の処理について 【文書記号・番号】第10号 【補助件名】庁議 【文書年度(和暦)】昭和31年~ 【起案年月日(和暦)】昭和31年02月28日 【文書年度(西暦)】1956年~ 【起案年月日(西暦)】1956年02月28日 【資料種別】公文書_件名_都 【記述レベル】item 【利用可否】利用可 【請求番号】328.A7.11 【収録先簿冊の資料ID】000145877
(追記) 上記公文書について調べてきました。あわせてご覧ください。

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2013年4月22日 (月)

日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義

※この項は、日経新聞に掲載された記事を検証することを主目的にしております。

「銀座の幻の地下街」の設立経緯等にご関心の方は、別項
東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html
をご覧ください。

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日経新聞の「東京ふしぎ探検隊」に、「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」という河尻定氏の署名記事が掲載されていた。

http://megalodon.jp/2013-0422-0253-00/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/

http://megalodon.jp/2013-0422-0254-04/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=2

http://megalodon.jp/2013-0422-0256-56/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=3

http://megalodon.jp/2013-0422-0257-20/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=4

三原橋地下街と歌舞伎座をからめて書いた記事で、今時ありがちな記事ではある。
ただ、私も今までそれなりに三原橋地下街について調べてきた目で見て、河尻定氏の記事の中身に疑義があるので、整理してみる。
IMG_4490


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三原橋地下街は、露店を収容するためのものだったのか?

河尻定氏の記事では、

東銀座周辺にはかつて三十間堀川が流れ、三原橋という橋が架かっていた。終戦後、戦災で生じたがれきの処分先として川は埋め立てられたが、なぜか橋桁だけが残った。1952年(昭和27年)に露天商を収容する目的で地下街を造った際も、橋桁を残したまま開業した。 

とある。

(※「橋桁だけが残った」と書いてあるが、じゃあその桁が載っている柱(下部工)はどこへいったんだ。自分の書いている記事に引用した図面に載っている柱はなんなんだ。)

戦後、銀座周辺のみならず、繁華街に多くの露店やマーケットが展開され、三十間堀川を埋め立てた三原橋付近に多くの露店があったのは事実である。
しかし、三原橋地下街がその収容先とすることを目的として作られたとは思いがたいのである。

当時の報道を確認してみる。

朝日新聞 1953(昭和28)年6月9日

近ごろ三原橋の地下街(中央区三十間堀埋立地)はパチンコ屋、飲み屋が軒なみにふえてきた。ところがこれは「都の観光事業のために使う」という約束で都が財団法人東京都観光協会(代表安井都知事)に貸したもので、地元の中央区議会では「まるでバクチ場みたいになってしまった。約束が違う」とカンカン。都観光協会、地元が三つどもえになって争っている。だが業者たちはどこ吹く風と涼しい顔だ。この紛争、いつ解決するか見通しもつかないようだ。

問題の三原橋下(253坪)は26年7月、東京都観光協会が観光案内所、全国の名物、商品陳列所などの観光事業に使用するといって金60万円余を寄付して東京都から借り受けた。
同協会はこれを同年8月新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)に又貸ししてしまった。このとき使用目的については都の三十間堀埋立運営委員会の決定に従わなければならないとの条件がついていたというのだ。ところが実際にはパチンコ屋、飲み屋が軒をつらね、最近はまた堂々とビルの建築がはじまった。
そこで三十間堀埋立運営委員会では、観光事業どころか風致風俗を俗悪化するばかりだ、と撤去を申し入れたがラチがあかないので、遂に地元中央区議会は「契約を無視した不法使用だ」といきまき、都議会に意見書を提出するほどこじれてしまった。 

朝日新聞 1953(昭和28)年8月29日

「明らかに使用目的違反だから撤去するよう申し入れる」と岡安副知事が言明した問題の三原橋下ゲームセンター(中央区三十間堀埋立地)は、それから2カ月半もたつというのに都当局や中央区議会をあざ笑うかのように相変わらずパチンコ屋、飲み屋が軒を連ねて大はんじょうだ。
「都の弱腰が業者にナメられているのだ」「イヤ、都と業者がグルになっているからだ」とうるさいウワサも飛んで都側の言行不一致と生ぬるい処置に地元はカンカンだ。

 一昨年、新東京観光株式会社(代表宮地知覚氏)が東京都観光協会(会長安井都知事)の委託で観光事業に使うという条件で、同地下街を借り受けたが、その大半をパチンコ屋、飲み屋にまた貸ししてしまったもの。これに強く反対した中央区議会では都議会に意見書を出したり、地元有志は「まるでバクチ場みたいだ」と憤っている。
 去る6月の都議会で地元選出の守本又雄議員(社)の「使用目的違反だから都側の善処を要望する」との質問に前記岡安副知事の言明となったもの。 都側がその直後、東京都観光協会同地下街運営委員会と共同で観光会社に対し「パチンコ、飲み屋営業は観光事業としてふさわしくないし、世間から批判されているので健全な施設に替えてもらいたい」と確かに申し入れたという。(都民室津野総務部長談)  

読売新聞 1954(昭和29)年10月30日

三原橋は三十間堀の埋立工事が行われたとき橋下もふくめて道路ということになった。ところが26年8月28日、東京観光協会の安井協会長名義で橋下を観光案内所と商品陳列所にしたいと都へ使用方が申請され、そのまま許可された。ついで27年9月30日、橋下では観光案内に不適当であるというので橋上の両側に2階建のビルを建てたいと同じく安井協会長の名前で申請され、同10月30日観光案内所、常設物産即売所として許可された。
ところがこれらの土地(総坪数359坪)は許可のあと年間約75万円の使用料で新東京観光株式会社(社長宮地知覚氏)に譲渡されてしまったのである。同社では橋下(253坪)は坪6万円の権利金(半額敷金)で店舗を作り業者に貸付け、橋上両側のビル(106坪)は坪60万円から75万円という八重洲口名店街以上の高い権利金で業者に転貸された。このため橋上ビルの1階に会社事務所兼用の直営案内所があるだけで物産即売所もなければ商品陳列所もなく、あるものは飲食店、パチンコ屋をはじめ20数軒の店舗ばかりとなった。
(中略)
観光協会の場合、橋下の商品陳列所と観光案内所の一部を映画劇場、娯楽場に使用目的を変更したいと申請しているに過ぎない。橋上の場合は申請もなければ、橋下の場合でも一部の変更を届け出て商店街に化けている。 

    これらの記事からは、「露天商を収容する目的で地下街を造った」どころか、「観光案内所や商品陳列所を設置する目的で橋下の占用許可を受けたが、目的に違反して、飲食店、パチンコ屋(これは後に映画館になる)に又貸し」して、地元行政が条件に違反していると「カンカン」という図式が読み取れる。

河尻定氏以外でも、多くの記事やウェブが「三原橋地下街は露店を収容する目的」と書いており、むしろ定説になっているようにも見受けられるのだが、実際には、「露店のような店舗を排除するはずだったのに、結果的に条件を違反する形で入られてしまった」というように考えられないか。

報道だけでなく、国会でも 昭和29年11月10日衆議院地方行政委員会において

三原橋の問題につきましては、「昭和三十三年、三十間堀埋立てに始り、代表的な市街を建設するため特に安井都知事を会長に都議会議員各派代表、関係都理事者、地元都議会議員、中央区議会代表者、区理事者、地元住民代表者二十九名をもつて三十間堀埋立運営委員会を組織し、衆知を集めて慎重に同地利用開発と健全発展方策を決定した。」三原橋下は「三原橋下は三十間堀埋立地の中心部であつて、観光都市東京にふさわしい施設たるべきものとし橋上周囲は緑地並にロータリーとすることに決定した。しかるに現在橋下はニユース館が一部を占めるのみで、他の大部分は不健全娯楽で営利を目的とする経営に充てられている。」  

という発言がある。

三原橋下は「観光都市東京にふさわしい施設たるべきもの」を目的としたのであって、残念ながら「露店を収容する」というのとは真逆なように思える。

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では銀座周辺や三十間堀川埋立地にあった露店はどこへいったのか?

朝日新聞 1953(昭和28)年9月22日

  追い立てられて、昨年4月から三原橋わき三十間堀川埋立地の空地(中央区東銀座5丁目三井不動産所有地)で仮営業していた銀座の露天商(銀座商業協同組合)440店が、いよいよ来月から同区東銀座1丁目に建築中の銀座館マートに移ることになった。これで都内の露天商は27年1月の禁止以来1年10カ月で事実上消える。 

三原橋付近に露天商は多くあったし、その収容を目的とした建物もあった。しかしそれは「銀座館」であって、三原橋地下街とは書いていない。

また、東京都議会1990(平成2)年3月15 日: 平成2年度_予算特別委員会の議事録には

◯西田委員 それでは、勝どき一丁目の都有地の、戦後から今日までの管理の状況について伺います。関係各局はご説明ください。

◯一ノ倉財務局長 (中略) それから昭和二十五年七月に、臨時露店対策本部が、中央区銀座四丁目三原橋の露店を撤去するため、代替地として、月島誠栄商業協同組合に本件土地を使用を許可しております。これは二十五年十月から三十九年九月まで、一年更新ということで許可をされておりました。 

とある。  三原橋付近の露天商は勝どきに移転しているのである。

このように、三原橋付近に露天商は多く営業していたし、それを収容する目的の建物もあったほか、移転先もあった。しかし、それは三原橋地下街ではなさそうである。

もっともこれらの記事には「三原橋下には絶対露天商は移転していない」とは書いていない。そこを河尻定氏はきっと証拠をお持ちなんじゃないかと期待している。

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(追記 8/24)

東京都の公文書等を調べたが、やはり「露店を収容」等とは一切書いていない。占用目的は他にちゃんと書いてある。(川尻氏は電車の公文書を探すのは大好きなようだが、こういう公文書はお得意でないらしい。)

当初占用許可時の公文書
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-3f36.html

東京都議会での答弁
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4930.html

東京都庁議
http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html

東京都史、中央区史、当時の安井都知事の自伝等にも目を通したが、露天の解決への取り組みの記事はあり、収容先の渋谷地下街や上野の西郷さんの下等にも言及しているが三原橋に収容という記事は見つけられなかった。

川尻定氏は、嘘を書いていると断言して良いのではないか。

ちなみに、川尻定氏は「川は埋め立てられたが、なぜか橋桁だけが残った。」と記載しているが、許可の公文書には「交通その他の事情を考慮し現状の儘当分これを存置」と書いてある。もちろん橋桁だけ残したわけではない。

(追記終わり)

三原橋地下街


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地下街に係る消防規制の強化が壁になり、三原橋の商店は「幻の地下街」へ移転できなかったのか?

河尻定氏の「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」の記事中、疑念がある箇所がまだある。

1960年代に地下鉄日比谷線を建設する際、当時の帝都高速度交通営団(現・東京メトロ)は、銀座から東銀座までの間の地下を4層構造とした。三原橋地下街を地下1階とすると、その下の地下2階部分を通路とし、地下鉄は地下4階を走る。地下3階部分には広大な空間を造った。 日比谷線開通後、地下街を管理する東京都が橋桁を撤去し、同時に地下街に入っていた店舗を新たに整備した空間に移す段取りだったようだ。
 しかし、思わぬ壁が待っていた。地下街に詳しい都市地下空間活用研究会(東京・文京)の粕谷太郎主任研究員によると、「日比谷線開通後、地下街で起きた火災事故を受けて消防法が変わり、地下街には地上に通じる出口が必要となった」という。 移転先を失ったことで三原橋地下街の取り壊しも宙に浮き、銀座の地下に広大な空間が残った。これが一部で噂されている「幻の地下街」だ。  

これを読むと、「日比谷線建設に合わせた三原橋地下街の「幻の地下街」への移転が、消防規制の強化のため予定どおりできなくなってしまった。」というように読める。
しかし、これも当時の報道と比較してみたい。

朝日新聞 1969(昭和44)年7月1日

1億81千万円の工費をかけ、40年3月に完成した銀座の地下商店街が、ついに倉庫に化ける。完成当時、都が入居してくれるはずと信じた三原橋会の商店16店舗は「人の通らない場所では商売ができない。地下には絶対、行かぬ」との態度を終始変えず、弱り果てた都が、ついに「とりあえず倉庫と会議室にする」ことにしてしまった。ズサンなお役所仕事が生んだこの地下街騒動、4年を過ぎたが、いまでも解決のメドすらついていない。 地下街が倉庫にかわるまでのいきさつは--。

 都がこの地下商店街を建設したのは、三原橋の晴海通り両側にある2階建ビルをたちのかせ、ここを緑地帯にする計画で、ビルにはいっている16店舗をここに移転させる計画だった。
 当時、帝都高速度交通営団が日比谷線の建設中で、地下1階はプロムナード、地下3階が日比谷線、地下2階が空いていた。都は「この地下鉄工事に便乗すれば、工費も安くすむし、三原橋からも近い。代替地としては理想的だ」として総工費1億8千万円をかけ、1年がかりで40年3月に完成させた。
 地下商店街は、銀座四丁目と日比谷線東銀座駅をつなぐ地下2階で、総延長167メートル、片側に約25平方メートルの店舗用敷地17戸がある。地下1階のプロムナードに出るための入り口は5カ所。
 都は「建設当時の責任者がかわってしまったので、はっきりしないが、移転については商店主の了解を得ていたはず・・・・・」という。一方、商店主たちは「相談なんてとんでもない。はじめに話があればやめろといった。商売人だから、地下商店街がいい場所なら喜んでいきますが、あそこはひどい。袋小路みたいなところを、わざわざ地下2階まで降りてくれるお客さんが何人いますか。とても商売になりません。それに換気が十分にできないというので、ガスも使えないというし・・・・・・」と、相手が何年待っても、絶対に地下には降りないといっている。  

これを読むと、三原橋地下街の商店が日比谷線上地下街に移転しなかったのは、消防規制が「壁になって」「移転先を失った」のではなさそうだ。

時系列で見てみると
・昭和40年に日比谷線上に「幻の地下街」が完成
・移転交渉を進めるも、三原橋地下街の商店側が拒否。
・昭和44年に暫定的に都が倉庫等として使用。

では、消防規制が強化されたのはいつかということなのだが、河尻定氏の記事には書いていないのだが、昭和49年の「地下街に関する基本方針」のことではないかと推測される。

(参考)
http://www.hiroi.iii.u-tokyo.ac.jp/index-genzai_no_sigoto-toshi_suigai-higai-chikagai.htm
http://www.sonpo.or.jp/archive/publish/bousai/jiho/pdf/no_222/yj22242.pdf

もしそうだとしたら、消防規制の強化の5年以上前に、三原橋店舗の「幻の地下街」への移転はとん挫しているのである。
消防規制が「壁になって」「移転先を失った」のではなく「移転を拒否されていたところ、消防規制の強化によってトドメを刺された」程度なのではないかというのが朝日新聞の記事を読んだ感想である。

※追記(4/25)

消防庁昭和45年12月1日付通達「地下街に対する防火対策の強化について」かもしれない。それにしても、倉庫利用の後だが。

(追記終わり)

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河尻定氏は、ウェブ上に書き散らかしている私のような素人とは違うだろうし、新聞社には過去の記事のデータベース等も簡単に検索できる環境もあるのだから、このような記事も見たうえで、それでも「三原橋地下街は露店を収容する目的で作った」「消防規制が壁になって三原橋の商店が幻の地下街に移転できなかった」と言える根拠がおありなのだと思う。
日経新聞という日本を代表するクオリティペーパーだ。朝日や読売のヨタ記事なんか問題にならないのだろう。私もいろいろ調べてきたので、是非その根拠が知りたいと切望している。

(そもそも、当初占用許可の条件に「許可満了時は、遅滞なく施設物を撤去し現状に回復すること」とあるのに、なぜ、条件どおりに撤去を命じることができないのか、なぜ、わざわざ税金で移転先を作ってやらなければならないのか、そこに何か事情(当時は「安井都政の七不思議」のひとつと言われていたらしい。)があったのではないか?ということに疑問をもって調べるのが新聞記者の仕事ではないだろうか。根拠もなく「三原橋地下街がこのまま取り壊しとなると、「幻の地下街」が脚光を浴びそうだ。」等と書いて煽るだけなら2ちゃんねるとかと変わらんよね。さすがゆとり世代ライターだww)

ところで、日経電子版というと、やはりみなさん、これを思い出しますよね。河尻定氏もきっとこんな感じの方なんでしょうね。

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