カテゴリー「貨物新幹線」の6件の記事

2020年12月31日 (木)

東北新幹線への貨物新幹線(荷物電車)導入は、約50年前に国鉄で決定済だった

 すわ、貨物新幹線の実装か!と一部業界では年末に盛り上がっているようだ。

 また「島技師長発案の世界銀行のためのダミーだった貨物新幹線が!」というコメントをしている方もいるようだ。

 ところで、世界銀行のためのダミーという人もいる貨物新幹線だが、東海道新幹線開通後も国鉄社内では継続して検討され、東北・上越新幹線への貨物新幹線(荷物電車)の導入も決定されていたというネタをご披露したいと思う。

新幹線建設委員会 (1)

新幹線建設委員会 (2)

 その検討舞台は、国鉄社内に設けられた「新幹線建設委員会」だ。詳細は上記の「交通技術」1970年8月号15頁記載文を読んでくれたまえ。

 で、その検討結果が取りまとめられている。

新幹線建設委員会1 (2)

 そこに貨物新幹線の継続検討状況やその結果が取りまとめられている。

 ざくっとした審議結果は下記のとおり。「従来のコンテナよりも荷物電車が有利じゃね?」というものだ。

東北新幹線の貨物新幹線案 (1)

 コンテナと荷物電車のどちらが有利かといった具体の検討経緯は下記のとおりだ。 

東北新幹線の貨物新幹線案 (2)  

東北新幹線の貨物新幹線案 (3)  

東北新幹線の貨物新幹線案 (4)  

東北新幹線の貨物新幹線案 (5)  

 コンテナだとフリークエンシーに劣る一方、荷物電車による高付加価値な荷物に限定すれば投資も少なく、他の輸送モードに対して勝負になるということか。 

東北新幹線の貨物新幹線案 (6)  

 この比較表で興味深いのは、新幹線によるコンテナ輸送では、オンレールでは速いが戸口から戸口までだと在来線の貨物とあまり変わらないという指摘がされている点である。 

山陽新幹線と貨物新幹線  

 山陽新幹線博多開業前の国鉄幹部の対談における泉貨物局長の発言(「国鉄線」1972(昭和47)年3月号8頁)と平仄がとれていることにも注目したい。(泉貨物局長は新幹線建設委員会の委員だったから当然といえば当然なのだけれども。) 

 コンテナによる貨物輸送は在来線に対してさほど有利ではないので、荷物電車方式で航空貨物等とも勝負できる高付加価値の荷物を運搬するという方向で国鉄の貨物新幹線戦略は方向づけられていたということでよいのではないか。 

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 ところで、表題にも係る東北・上越新幹線への荷物電車方式による貨物新幹線の具体案については下記のようになっている。 

東北新幹線の貨物新幹線案 (7)  

東北新幹線の貨物新幹線案 (8)  

東北新幹線の貨物新幹線案 (9)  

東北新幹線の貨物新幹線案 (10)  

東北新幹線の貨物新幹線案 (11)  

 ここでは、東北・上越新幹線には当初開業時から荷物電車方式を実装することとなれている。しかし実際には2020年になってやっと議論されたり、ジェイアール東日本物流によるお試し運行がされたりといった段階である。 

 この間何があったのか?オイルショックによる見直しでもあったのだろうか? 

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 JR東日本の深沢祐二社長は日経新聞のインタビューでこう答えている。


物流ニーズ開拓

 -新幹線の空きスペースを利用した荷物の輸送も話題を呼びました。

 「東北や新潟の海産物や果物を新幹線で運んだところ、『トラックよりはるかに速く首都圏の消費者に届けられる』と評判になった。これまで誰も気付かなかったニーズが眠っていたのだ。荷主の求めに応じて対象列車を増やし、定期輸送を開始した。今後は生鮮品だけでなく、電子部品も運びたい。

 

 月曜経済観測 鉄道の「新常態」 JR東日本社長 深沢祐二氏 日本経済新聞 2020(令和2)年11月2日付

 深沢社長のインタビューを赤ペン先生してみると「これまで誰も気付かなかったニーズが眠っていた」のではなく「50年前に国鉄で気付いたけれども(何らかの理由で)商業ベースに載せられなかったニーズが眠っていた」ということになる。

 当然ご存じだったとは思うけれど、それじゃあニュースバリューがないもんね。

 もちろん、思いつくだけならともかく、日々の商業ベースに載せる方がよほど大変なわけであるが。

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 JTBキャンブックス「幻の国鉄車両」53頁には、1982~85年頃に検討されたという0系先頭車改造の「新幹線物品輸送」「 郵便輸送」について触れられている。このあたりも、上記「新幹線建設委員会」の検討結果と整合がとれたものではないかと思われる。

 しかし、同誌の 福原俊一氏の解説によれば「パレットの積降ろし設備などの問題から実現せず、幻の計画で終わった。」とされている。

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 さて、東北新幹線における貨物新幹線の問題としては、「青函トンネル区間をどうするか?」という課題があるのはご承知のとおりである。 

 元JR東日本会長の松田昌士氏が「1つのトンネルを新幹線と貨物が取り合っているのは愚の骨頂だと思う。やはり、新幹線のスピードアップを最優先でやるべきだ。そのためであれば、貨物は他の手段で北海道と本州をつなぐしかない。船を使うべきだろう。」と語ったのを覚えている方もいらっしゃるだろう。 

https://www.sankei.com/region/news/170101/rgn1701010003-n1.html 

 実は、「青函トンネルは新幹線のみで、貨物は全部連絡船で」という案もこの「新幹線建設委員会」で検討されている。 

 これをやりだすとすごく長くなるのでサワリだけで。 

東北新幹線の貨物新幹線案 (15)  

 最下段の「全貨物航送案」がそれだ。ただし、青函連絡船だけだと将来の輸送量の伸びに対応できないとして、新たに八戸と室蘭を結ぶ貨物専用の国鉄航路を新設すべきだとしている。 

 松田氏が、このときの議論をどの程度念頭に置いていたかはともかくとして、当時からそのような案はあったわけだ。 

 ちなみに現在検討されている青函トンネルを広軌専用として貨物は積み替える場合については下記のような「ポンチ絵」が「新幹線建設委員会」の資料に添付されている。 

東北新幹線の貨物新幹線案 (13)  

東北新幹線の貨物新幹線案 (14)  

 決定稿ではなく、比較検討のためのタタキとしての案であることにご注意を。 

 ところで、青函間の貨物輸送の検討にあたって「青函トンネルの完成する昭和52年度末までに増加する需要に対しては、東京(有明12号地)・室蘭(室蘭国鉄さん橋)間にコンテナ船を就航させ、バイパス輸送を行うのが最適であるとの結論となっている」というのだ。 

東北新幹線の貨物新幹線案 (12)  

 この辺について、ご存じの方がいらっしゃれば、是非ともご教示いただけますと幸いです。 

 

 2020年のブログ更新はこれにて終了。 

 よいお年を。 

 

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2018年9月 2日 (日)

貨物新幹線の詳細な計画を国鉄新幹線総局OBが残していた

 「東海道貨物新幹線は世界銀行向けのダミー、ポーズだった」説に執拗に反論している私であるが、貴重な資料を収集したのでご披露申し上げる次第。

第13話=世銀借款

 

 この貨物問題に関しては、当初から国鉄側も頭を悩ませていた。技師長・島の頭には、のっけから貨物新幹線構想の「貨」の字もない。速度の違う旅客と貨物が同じ路線に混在するからこそ、東海道の輸送力がますます逼迫するのだ。(略)ハイウェイのように速度によって棲み分けさせることが新幹線の大前提である。しかし、国鉄内部にも根強い貨物新幹線論者が存在したし、なにより当時のアメリカでは、旅客輸送は「5%ビジネス」であった。鉄道輸送の95%は貨物であり、旅客はもっぱら自動車と航空機に移っていたのである。

 そこで、世銀への説明資料には、貨物新幹線の青写真も挟み込むことになった。将来は貨物新幹線も走らせたい・・・・・・という世銀向けの苦しいポーズである。当時のパンフレットや世銀向けの説明資料をみると、貨物新幹線のポンチ絵、つまり簡単な設計図が入っている。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 193~194頁から引用

 この高橋団吉のような一面的な見方をする方は割と多くいらっしゃるのだが、その根拠としては島秀雄氏の「D51から新幹線まで」だったりするのだろう。島秀雄氏はこの中で下記のように語っている。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (13)

 

 ところが、私が以前からブログにUPしているように貨物新幹線の実現に向けての現場の動きは着々と行われている。

 これについて実際に貨物新幹線を担当していた角本良平氏は、「角本良平オーラル・ヒストリー」において、下記のとおり述べている。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (14)

 この辺の経緯は、かつて「貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)」にまとめたところだ。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6d9d.html

 

 ところで、この角本版の貨物計画について、詳細に記している国鉄職員の手記があった。

 当時、国鉄新幹線総局に勤務していた高橋正衛氏による「新幹線ノート」である。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (1)

 ここに出てくる「開業準備委員会」は、

東海道新幹線開業準備委員会

 東海道新幹線開業後の運営に関する基本的事項及び工事過程における重要事項について総合的に調査審議するため、(昭和)37年10月設置した。

 

「昭和39年 交通年鑑」から

 ここで高橋氏が記述している場面は、十河総裁らが新幹線工事費不足等を原因に更迭されたことを受けて開業に必要(最小限)な範囲の工事範囲を議論しているものだ。新幹線の編成を6両編成にするような予算削減策も検討されたことがうかがえる。

 ここで「三、 旅客営業の開業に必要な主要設備とする。」という記載がある。つまり、「貨物は昭和39年10月の開業には含めない。」ということがここでオーソライズされたということではないか。

 よく「予算不足のため貨物新幹線は完成しなかった」と言われるが、その具体的な経緯がここに示されていると言えるのではないか?

 この後「新幹線ノート」の158頁にも「新幹線工事費の(略)最終予算額のなかに貨物輸送計画の予算は、一部貨物駅用地等の取得を除き含まれていない。」とある。

 例えば鳥飼貨物駅の用地買収費と、開通後に工事を行うことが困難な本線上空通過部分の構造物のみといった予算配分がなされたのではないだろうか?

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 ところで、東海道新幹線の建設誌(建設史)は、国鉄としての全体版がなく、各工事局毎にバラバラと出版されているのだが、これについても高橋氏は、全10巻(各500ページ)の東海道新幹線建設史の出版が部長会で承認されていたが、予算超過問題の中で無駄な出資を押さえるべきとの理由で中止され、後日各工事局で個々に発刊されることとなったとその背景に触れている。

 予算不足でできなかったのは、貨物新幹線だけではなかったのである。

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 閑話休題。貨物新幹線計画に戻ろう。

 高橋氏は角本氏から貨物輸送計画について聞き取りをしたり、資料を借りて書き写したりしている。それが「新幹線ノート」に掲載されているのである。

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (2)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (3)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (4)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (5)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (6)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (7)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (8)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (9)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (10)

 静岡の「抽木」は「柚木」の誤りであろう。

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (11)

 名古屋貨物駅の「日比津」は現在の車両基地である。当時の国鉄広報誌ではここも「貨物線用の工事」として紹介している。貨物新幹線用工事の名残は鳥飼だけではないのである。

 また、貨物新幹線は在来線とは直通できないわけだが、市中に「デポ(貨物取扱所)」を設けることでカバーしようとしていたということだろうか?

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (12)

 

貨物新幹線は世界銀行向けのダミーというのは嘘 (15)

 「M補佐」は、「角本良平オーラルヒストリー」に出てくる「貨物輸送設備・制度」担当の「森繁」氏のことであろうか。

新幹線総局

 島秀雄氏や高橋団吉氏のいうように貨物新幹線が世銀融資を獲得するための見せかけの方便にすぎないものであればこのような沈滞感は醸し出されないことであろう。

 世銀のためのダミーであれば、嘘をついた十河や島もいないし、何もせずに適当に世銀向けの言い訳だけ作っておけばよいはずである。

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 高橋氏が触れている貨物輸送計画であるが、運輸界1959年6月号「東海道広軌新幹線について」矢田貝淑郎(国鉄幹線調査室総務課) ・著 10頁にでてくるA案、B案、C案とは整合がとれていることを付言しておく。

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (1)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (2)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (3)

 

昭和34年5月現在の貨物新幹線計画 (4)

 

 なお、高橋氏の「新幹線ノート」によれば、佐藤大蔵大臣がIMF年次総会に出席の際に世銀の意向を打診したのが1959(昭和34)年9月、島氏も触れる世銀ローゼン氏が来日したのが1959(昭和34)年10月であるから、この矢田貝氏が執筆した貨物新幹線の計画は「世銀に言われてでっち上げた」にしては時空を遡りすぎであることを申し添える。

 

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(関連記事)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/10/post-d2af.html

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/01/post-a11f.html

貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6d9d.html

新幹線予算超過の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-6bd1.html

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2016年8月16日 (火)

恵知仁( @t_megumi )氏「幻の貨物新幹線」半世紀残った遺構、来年にも見納めに→いや、まだまだ残るわな

 「乗りものニュース」に、「幻の貨物新幹線」半世紀残った遺構、来年にも見納めに 東京〜大阪5時間半 という記事が載ったおかげでその瞬間から私のブログのアクセス数がガンガン増えたので喜んでいる次第である。

 「三島高架橋」で検索すると、阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅がヒットするもので。

 ところで、ライターの恵知仁氏は、「利用価値がないながら、管理の手間はかかるこの「貨物新幹線計画」の痕跡、あと1年ほどで消えてしまう見込みです。」としているが、実際のところは、貨物新幹線の「ジャンクション」はまだまだ現役であり当分消える見込みはないのである。

 大阪じゃなくて名古屋なのだが。で、今日なおバリバリ利用されている。

 東海道新幹線の貨物駅は、東京(品川(当初)→大井)、静岡(柚木)、名古屋(日比津)、大阪の4箇所に計画され、それぞれ用地買収も実施済だったのであるが、恵氏の記事同様、名古屋でも貨物駅への線路が新幹線の本線を跨ぐため、そこが工事され、完成しているのである。

 

 東海道新幹線の建設誌には、下記のような名古屋駅と貨物駅の配置図が掲載されている。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (1)

 実際には、貨物新幹線は実施されなかったため、全て旅客電車の基地に転用されているが、もともとは貨物線が新幹線の本線をオーバーパスするための構造物が本線の開通にあわせて建設されているのである。

 「交通技術」1963年7月号には「工事たけなわの新幹線名古屋地区」と題した記事が掲載されている。

 ホームをはずれるところから、名古屋貨物駅としての日比津ヤードとを結ぶ貨物線上下2線が分岐する(以下略)

 

「交通技術」1963年7月号34頁

 

 貨物ヤードは庄内川沿いの日比津に予定されており、貨物線は中村高架橋のところで新幹線の下り本線を乗り越す。貨物扱いは来年10月1日開業と同時に行わないことになっているが、ここでは上下本線に挟まれており、開業後では施工不能となるので、日比津への乗越部のところまで施工済である。

 

「交通技術」1963年7月号34頁

 掲載されている施工写真を見ると、まさに大阪で解体工事が進んでいる三島高架橋と同じような構造物が見て取れるのである。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (2)

 

 現在は下記のような状況である。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (3)

 東京方から大阪方面を望む。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (4)

 大阪方から東京方面を望む。右側の高架橋が貨物駅への分岐線となるはずだった。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (5)

 「日比津線」というのか。

 前掲の図面からすると赤丸のあたりである。

貨物新幹線名古屋駅遺構 (6)

 件の大阪の案件も完成していればこのような姿を見せていたのであろう。

 なお、余談ではあるが、恵知仁氏は記事中

 東京新聞が2013年に報じたところによると、インフレによる東海道新幹線の建設費増大も「断念」の理由とされています。

 としているが、インフレによる東海道新幹線の建設費増大は、上記の「交通技術」記事にも出てくる「貨物扱いは来年10月1日開業と同時に行わないこと」の理由というのが正当であろう。

 昭和40年3月の国会では、国鉄柴田常務理事(当時)が

 国鉄が新幹線を開業いたしますまでには、先生も御承知のとおりに予算不足の問題がございまして、昨三十九年の十月に旅客の輸送開始をいたすまでの間に、いろいろとやむを得ない予算上の事情から、計画の変更と申しますか、一部をおくらせざるを得なかったということがございまして、その結果として、貨物輸送は、できれば一番最初は三十九年の十月、昨年の十月同時に開業するという計画でございましたけれども、ただいま申しましたような事情でおくれざるを得ない、ただいまの予定では四十三年の秋、これはどうしてもその時期になるという事情がございます

との答弁をおこなっているところだ。

 また同様に

「いつの間にか貨物列車計画は立ち消えに」(公益財団法人 交通協力会『新幹線50年史』)なってしまいました。

 とも書いているが

 「国鉄線」1972年3月号では、下記のように明確に比較検討したうえで在来線の貨物で用が足りると判断されているようだ。

貨物新幹線をやらなかった理由

 恵知仁氏も、もうちょっとググってみるとかしてはどうか。

 「乗りものニュース」のビジネスモデルとしては、大手ポータルサイトへの転載によるレベニューシェアが柱だろうから、取材やライターに大したコストはかけられないだろうというのは理解しているのだけれども。

(参考)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

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2016年5月14日 (土)

新幹線予算超過の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その2)

 貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)で触れたのだが、元国鉄技術者の長・信州大元教授のウェブサイトから再度引用したい。

 東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない

(中略)

*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。

(中略)

 

高橋団吉著「新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語」について 長 尚のホームページ

 総裁の首が飛ぶほど予算が足りないにもかかわらず、「世銀への見せかけ」にすぎない(?)貨物輸送への投資(単に貨物駅の用地買収だけでなく、橋脚全体が貨物の荷重に耐えられる規格なのである。)ができるというこの矛盾。一体、新幹線の予算はどうなっていたのか?

 予算の積み上げの実態から不足に伴う予算改訂の状況についても角本氏は語っている。

二階堂 角本さんが担当されていた営業の資料というのは、この時期に新たにつくられたのか、それとも過去のものを踏襲したんでしようか。

角本 これは、過去のものをそのまま使わなきゃいけなかった。ということは、非常におかしい話ですけ ど、国内は建設開始以前の資料で理解しているわけです。そうすると、1900億円でできると了解している。 実際は、そのときもうインフレがかなり進んでいる。 しかし、過去の数字を変えると国内の信用を失う。それから、国外に対しても過去の数字を変えるわけにいかない。そのために、非常に苦しい説明を島さんと大石さんがしていたと思います。我々は、言われる数字をそのまま説明するということです。

二階堂 世銀に対しては、「こういう計画でやって、 お金がいくらかかって、いくらぐらいあなたのところから借りたい」というような建前にすると思うん ですが、それというのは、今までの計画の数字のなかから算出したわけですね。

角本 1900億あまりでできると言い切っていたわけです。

二階堂 この時点で新たに経理の方と打合せされたりとか、そういうことではなかったわけですね。

角本 この段階では全くありません。ということは、大変おかしい、詐欺行為ですよね。

 

角本良平オーラル・ヒストリー」224頁~225頁から引用

 

 たしかに昭和37年ごろまでは、世銀融資を受けている関係もあり、国際信用上、大幅な予算オーバーを公言しにくいという事情もあった。しかしこのころになると、新幹線建設が膨大な予算不足を抱えていることは、国鉄全体、政府・国会関係者の誰もが知る既成事実であった。

 だから、38年2月、国会の予算審議の場で、経理局経由の最終報告を受けて、十河はこう啖呵を切った。

「全部で2926億円で完成できる。これ以上は要求しない」

 ところが、この39年度予算が成立して間もない4月末日に、「計算し直してみたら、さらに874億円足りない」という情報が新聞にリークされ、国鉄周辺が騒然となる。事実、さらなる工事費不足874億円という報告が十河にも届いた。この十河引責の実弾を届けたのは、新幹線総局長の大石重成であった。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 233頁から引用

 この「島秀雄物語」だと、「世銀融資の額に引っ張られて、予算不足がなかなか公言できなかった」という趣旨の書き方だが、角本氏の話によると、既に世銀融資の段階で「もうインフレがかなり進んで」おり、予算オーバーすることは必定で、「1900億でできる」と世銀に説明したこと自体が「詐欺行為」だったと。

 また、予算修正の「計算し直したら再度不足」というのも、そもそも十河信二、島秀雄、大石重成、兼松學の三味線だったのではないかというのである。

 大石氏が「十河引責の実弾を届けた」もなにも、「4人で「小出しで行こう」 と判断したということ」と角本氏は語る。

二階堂 建設の予算の話に移りたいと思うんですが、1962年から63年に工事が本格化して、「当初の1900億では足りないな」ということが、内々にはおそらく気がつかれていたのではないかと思うんです。

角本 内々もない(笑)。みんながわかっていた。 だって、1957年価格で計算したものが、5年たって通用するなんてだれも思わないでしょう。ただし、世界銀行の手前があるという妙なことから、だれもそれを修正しようとはしなかった。それだけのこと です。

二階堂 なるほど。それで、来るところまで来て、まず1962年度の年度末に、まず2900億円に増やすと。 それから、数カ月後にまた1000億円ぐらい増えているんです。これ、「何で一気に3800億にしなかっ たのかな」と思うんですが、どうなんでしようか。

角本 それは、私にもわかりません。ということは、十河信二と島秀雄と大石重成、この3人でしょう。 それで横に兼松さんがいた。これで4人ですか。そういうことでしょう。

二階堂 彼らが何らかの判断を・・・・・・。

角本 何らかの判断をしたと。「小出しで行こう」 と判断したということでしょう。「小出しに行って、 最初乗り切れなかったら、次にもう一つ加える」と、そう彼らは判断していたんだと思います。

二階堂 やはり予算を1000億円ずつ増やすというのは、それなりに大変な作業を伴うものなんでしょうか。

角本 作業としては大したことない。「政治的に説明するのが骨が折れるかどうか」ということで判断したと思います。

二階堂 国会で予算を通すとか、それはかなり面倒なことは面倒なわけですよね。

角本 大蔵省の担当官の能力じやないんでしょう か。おそらく大蔵省が積極的な人で、理解力があれば一気にやれたはずです。 1900億で足りるわけがないどころか、5年前の単価で決めていることを、当時の物価上昇を考えたら 足りるわけないですよ。だから、だれが考えても足りるわけがない計算を、表向きもっともらしくやっ ていると。大変不思議なんですよ。

二階堂 遠藤さんがなさった最初の計算は、調査会に短期間のうちに出さなければいけなかった。それは、その当時できることとしてはかなり最大限のところまでやって、ある意味、それはそれで正確だったと、こういうようなお話を前回同いました。

角本 非常に正確です。ということは、最初は57年価格でしよう。当時の人件費と物価の上昇を考えてそれを掛ければ、最後は当然倍になるわけですよ。実際3800億ですから、ちょうど倍になっていますでしよう。逆に言いますと、57年の遠藤鐵二・大石重成の計算は非常に正しかった。恐るべ く正しかった

二階堂 物価の上昇なり、人件費の上昇以外にも、 土地が高くなったりとかもあったようですし、線路を高架にしたり、そういう要求が続出して、その分予想外の事態、不可抗力もあったと角本さんの著書に書かれているわけですね。

角本 それは、当然、加えなければいけません。 不可抗力でしよう。それから、私が東京駅に入れたということもあります。それは大きいと思います。

二階堂 そういうものは、当初から予想はできないわけですね。

角本 大計画を立てますとき、それをやるとできないと思います。だから、大計画というのは思い切って線を引く。黒板に白墨で大きな線を引く、そういうものだと思います。

二階堂  その線を、当初は2000億というところで 切ったわけですね。

角本 そう。それから、当初は「これ以内でやる」 ということにしておかないと、これはまた無限な要求が始まる。地元から次々物を言われたら、収拾がつかなくなると思います。

二階堂 「足りないんじゃないか」ということで、62年ころから建設のほうでも予算を色々節約しようという動きがあったと聞いています。

角本 それは、随分節約してくれたと思いますし、 逆に言うと頭を決めておいたことが節約効果になった。その意味では、大石重成というのは非常に偉い人だったと思います。大ざっぱに言いますが、彼ははじめ、1957年価格で3800億円と出たのを、半分に切ったんです。当時の土木の計算から言うと、「積み上げ計算を半分に切って、大体工事ができる」と いうのが常識だったと思います。積み上げ計算をする担当者は、それぞれ膨らませて持ってきます。査定するほうは半分に切る。それで大体できる。もちろん物価上昇は別ですよ。これが彼らの常識であって、もしも賃金と物価の上昇がなければ、1900億円でできていたはずなんです。 ところが、どうしたわけか、国鉄当局は十河さんを援護しなかった。大石重成を援護しなかった。島さんも援護しなかった。ですから、私が申し上げたような説明を私自身がすればよかったんだけど、それは越権行為になりますから、私もできなかった。 非常に残念なことです。

二階堂 このとき、建設費がどんどん増えて問題になって、1963年の5月に十河さん、島さん、大石さんが辞任されますよね。そのときの報告書、正式な名前は『東海道新幹線工事費不足問題特別監查報告書」というものが出ています。

角本 その責任者はだれだったですか。

二階堂  事務局は監察局になっているわけです。それをちょっと読んで私が驚いたのは、大石さんへの個人攻撃がかなり露骨に書いてあるんです。

角本 そうなんです。ですから、そのときの監査を目のある人がやっていたら、「上がったほうが正しかった、査定したほうも正しかった」となるはずです。物価の上昇というのは責任の外でしょう。ですから、「地価と物価の上昇を除けば、当初の査定が正しかったと」いう答えを出すべきだったんです。 それをなぜ出さなかったか。査定したほうに意地悪があったか、能力不足があったか、どちらかでしょう

二階堂 そこまで激しく大石さんの独断専行ぶりを批判する理由は、新幹線総局という体制に問題があって、彼が理事として全権を持っていたことが諸悪の根源だと、このような論法になっているわけです。

角本 諸悪ではないんです。当たり前に査定して、当たり前に物価並みに工事費が上がっただけなんで す。ですから、何も諸悪はなかった。そう言うべきだった。あの監査報告書は、 大石さんを目のかたきにした。あるいは「十河憎し」 という人たちがいた。そして、この監査報告書を認め たのが石田禮助であるかどうかなんです。

二階堂  この調査をはじめるときの監査委員長は石田さんのはずですよね。

角本 でしょう。そうすると、石田禮助というのはいかに悪者か、ということです。後世、石田禮助を褒める本ばかりが出ている。大変おかしいと思いますよ。

二階堂 このあと、吾孫子豊さんに代わって、副総裁には磯崎さんがなっているわけですが・・・・・・。

角本 磯崎さんは、「アンチ十河」の代表です。 計画決定前、自分は東海道新幹線に反対しているわけでしょう。それで、東海道新幹線という国鉄の功績が自分の枠外で出てしまっている。それに対する恨みというのは最後まであった。それで自分は、今度は山陽新幹線をつくるわけでしょう。それで大赤字の原因をつくっているということ。

二階堂 磯崎さんが新幹線にあまりいい思いをされていないというのは、角本さんは具体的にどういうところで感じられたんですか。

角本 どういうところというよりも、磯崎さんが 新幹線に反対であって、あるいは磯崎さん個人より も、当時の営業局が反対であったということは、57年の段階からはっきりしていたわけです。だから、 遠藤鐵二は非常に微妙な立場だったと思います。遠藤と磯崎は2年違いで仲が良かったということです けど、仕事上は意見が対立したという格好になっているわけです。

二階堂 このとき、瀧山さんも理事におられるわけです。

角本 これは一言で言うと、「どうにもならない人だった」ということです。

二階堂 瀧山さんは、新幹線計画についてどう思っていたんでしようか。

角本 絶対反対。瀧山さんがなぜ在来線増強にこだわったかというと、瀧山さんは審議室にいて1957年からたしか審議室長になったでしよう。それで在来線増強計画を立てていた。そこへ降って湧いたように新幹線がかぶさってきた。そのとき、磯崎さんと瀧山さんは転進できないんですよ。これは石頭と言うしかしょうがない。国鉄で石頭でない人は、菅さんだけ。ほかは皆、石頭 (笑)。

二階堂 では、瀧山さんは、十河さんに対してもある意味・・・・・・。

角本  絶対反対。だから、瀧山・磯崎は「アンチ十河」の2人ですよ。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」240頁~242頁から引用

 ここで冒頭の元国鉄技術者の長・信州大元教授の問いかけを振り返りたい。

 「貨物が見せかけならば、ただでさえ資金不足なのに貨物駅に投資するわけないだろう」という長氏の問いかけに対して「予算不足は最初からわかっていたことで、予算改定も小出しにして行けると思っていたからこそ貨物への投資もできたということなのではないだろうか?

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貨物新幹線の経緯はどのようなものだったのか?~「角本良平オーラル・ヒストリー」を読む(その1)

 「貨物新幹線は世界銀行向けの見せかけのものだ」という論がある。

第13話=世銀借款

 

 この貨物問題に関しては、当初から国鉄側も頭を悩ませていた。技師長・島の頭には、のっけから貨物新幹線構想の「貨」の字もない。速度の違う旅客と貨物が同じ路線に混在するからこそ、東海道の輸送力がますます逼迫するのだ。(略)ハイウェイのように速度によって棲み分けさせることが新幹線の大前提である。しかし、国鉄内部にも根強い貨物新幹線論者が存在したし、なにより当時のアメリカでは、旅客輸送は「5%ビジネス」であった。鉄道輸送の95%は貨物であり、旅客はもっぱら自動車と航空機に移っていたのである。

 そこで、世銀への説明資料には、貨物新幹線の青写真も挟み込むことになった。将来は貨物新幹線も走らせたい・・・・・・という世銀向けの苦しいポーズである。当時のパンフレットや世銀向けの説明資料をみると、貨物新幹線のポンチ絵、つまり簡単な設計図が入っている。

 

新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 193~194頁から引用

 他方、ご自身が国鉄の技術者として新幹線建設に従事した長・元信州大教授はこう述べる。

 東海道新幹線の計画から開業後の暫くまで、国鉄の責任者・関係者は貨物輸送を真剣に考えていたことは、次のような幾つかの事実から間違いない

*東海道新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)は、N標準活荷重(貨物列車荷重)とP標準活荷重(旅客列車荷重)とからなっていて、平成14(2002)年に改正されるまで、この基準は生きていた。

*貨物駅のための用地買収が各地でなされていた。

*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。

*東海道新幹線開業後の昭和40年3月15日の国会の法務委員会で、国鉄常務理事が「国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております」と答弁している。

 確かに、当時の技師長の島秀雄氏は開業後に「世界銀行に対しても一応本心は伏せて、新線でも貨物輸送をしないわけではないという態度でのぞむことにした」と語っているので、作者の高橋氏もそれに基づいて書いたのであろう。個人的に島氏がそのように考えていたかもしれないが、事実は上記したように、国鉄として旅客だけとする意思統一はまったくされていない 。そればかりか、開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていたことは間違いない。島氏は車両設計が専門で、新幹線建設工事や建設費などについては詳しくなく、基本的にこの問題には関わっていなかったはずである。

 

高橋団吉著「新幹線を走らせた男 国鉄総裁十河信二物語」について 長 尚のホームページ

 私も貨物新幹線についてはいくつかの記事を書いてきたところである。

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

 島の思いはどうあれ、貨物新幹線が実際に取り組まれていたのは間違いない。しかし、島の気持ちと現場の進み方のギャップがどうも腑に落ちない。

 そこに国鉄新幹線局営業部長等を歴任し、実際に新幹線の貨物計画に携わり、「新幹線開発物語」等の著書でも貨物新幹線に触れていた角本良平氏のオーラルヒストリーに出会ったので、貨物新幹線に関係する箇所を紹介していきたい。

 菅 世銀に対しては、少なくともこの時点では「貨物輸送もやる」という前提でお話されているわけですね。

角本 「徹底してやる」と。

菅 そのあたりのことも、角本さんがご担当されたんですか。

菅 そうです。私は旅客、貨物と両方やっていまして、前後を正確に言えませんけれども、1960年の秋にアメリカの貨物輸送を見てからは、世銀との関係も随分やりやすくなった

 ただ、世銀の相手もあまり馬鹿じゃないから、貨物輸送をやるかやらないかということについては、島さんはやるそぶりはみせていたけれども「これは本当かうそかわからないな」ということは、最後の段階で気がついていたと思いますね。

二階堂 角本さんが実際に貨物輸送を説明された感触として、そうじゃないかと。

角本 そう。

二階堂 ということは、角本さんの説明もある意味、旅客を重点にされていたということなんですか。

角本 いやいや、そうじゃない。私は、貨物駅の用地まで買っているわけだし、大井埠頭の海の上を買っているわけですから。その段階では、私はやるつもりでいます

二階堂 では、世銀の人がそう気づいたというのはどういう節で。

角本 島さんがあまりのり気じゃない様子がわかってきたんじゃないか。私は最後までやりたかったんです。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」226頁~227頁から引用

「1960年の秋にアメリカの貨物輸送を見てからは」というのはどういうことなのか。

二階堂 1960年の11月、アメリカに視察に行かれたときの話をちょっと伺いたいと思うんですが、これというのは生産性本部の視察団ですね。その報告書が出ていまして、メンバーを見ると貨物関係の方々がたくさんおられて、貨物の近代化の現状也をアメリカに見に行くという視察だったと思います、角本さんがこれに加わることになったきっかけというのは何だったんですか。

角本 私は個人的なつながりだと思います。この事務局をなさったのが、鉄道貨物協会の事務局長をしていた宮野武雄さんで、私の中学の7年ぐらい上の先輩で、昔、私が金沢管理部で見習いをしていたときの業務課長です。その人が私のことを知っていて、誘いがかかった。ただ名目から言えば「新幹線に貨物輸送をやる」というのが理由なんです。

(中略)

二階堂 では、そういう個人的なつながりで呼んでいただいて、角本さんはそのなかで、例えばピギーバックとか、大型コンテナとか、そういうのを・・・・・・。

角本 そう。「新幹線に応用できる技術がないか」ということで一生懸命見て歩いたということです。

(中略)

二階堂 これを見て、日本の新幹線計画にどういう見通しを持たれたか、そこをお聞きしたいんです。

角本 10何トンのピギーバックの大型コンテナはとても無理でした。日本の道路では動けません。ですから、「これを5トンコンテナの我々の計画に直して、同じアイデアで方式を決めればよい」と考えました。大きさを見にサイズ、大体3分の1にするという感じです。「新幹線について考えていた計画は変える必要はありません」と。

二階堂 コンテナやピギーバックというのは、トラック業界との「共同輸送」が盛んにできるという名目で計画されていたと思うんですが、日本だと通運業者との協力が必要ということになるわけです。その見通しというのは、当時どう思っていらっしゃったんですか。

角本 これは日本通運が既に5トンコンテナを試しで使っていましたし、当然やる気になると思っていました。(後略)

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」232頁から引用

 世銀借款が締結されたのは、1961(昭和36)年である。

 島隆が研修期間を経て本社に戻ってきたのは昭和33年である。(中略)隆は新幹線設計グループの1期生。(中略)

「貨物新幹線用のラフスケッチをもっともらしく描いてくれ」

 ある日、隆は幹線調査室の調査役から、こんなふうに頼まれた。(後略)

 

「新幹線をつくった男 島秀雄物語」髙橋団吉・著 小学館 194頁から引用

 これは、冒頭に引用した「貨物は世銀向けのポーズ」という文脈で髙橋氏が記載しているのだが、これで見ると「もっともらしく描いて」というところが「ポーズ」らしく読めるのだが、この「幹線調査室の調査役」は貨物も含めた営業担当調査役の角本氏ではなかろうか?車両担当の加藤一郎氏という可能性もあるが。後にアメリカに貨物新幹線のために視察に行った担当調査役が命じたとなれば意味合いは全く逆になってくるのではないか?そういう意味では髙橋氏はミスリードしている可能性がある。「島秀雄物語」では角本氏にも取材しているのに。。。

幹線調査室

 当時の幹線調査室はこのような体制だった。

 また、世界銀行融資決定後に国鉄法を改正して貨物新幹線に必要な通運体制を確立しようとしている。ダミーならこんなことしませんぜ。

○關谷委員 次に、今後対象となりますもの、これが業界あたりで非常に疑心暗鬼と申しますか、大へん心配をいたしておるところでありますので、一つお尋ねをいたしたいと存じます。(中略)

 第三は東海道新幹線荷役会社というふうなもの、東海道新幹線関係の荷役は、全部直営にするというふうにいわれておるのでありますが、それがどういうふうになるのか、その点もあわせて伺いたいと思います。第四はピギーバック会社、これはどういうふうなことになりますか、この点を業界あたりが間違えないようにはっきりとお答えを願いたいと思います。

○磯崎説明員 ただいま御列挙されました各事業につきましては、内容のはっきりしないものもございますが、一応今私どもの考えておる立場からだけ御回答申し上げます(中略)

 それから、三番目と四番目の、東海道の新幹線関係の貨物輸送でございますが、東海道新幹線関係の貨物輸送を私どもの方が直営する意向は全くございません。しかしながら、東海道新幹線の貨物輸送は、原則として、先ほど四番目のピギーバック、すなわち自動車の足のついたまま貨車に載せるという案よりも、むしろ足をとりまして、現在町中でごらんになるコンテナの輸送を考えておりますので、コンテナ輸送につきましては、通運業者と国鉄と合体した会社を作る必要があるのではないかということを今研究いたしております。

 

昭和37年3月16日衆議院 運輸委員会議事録から引用

 ピギーバックの扱いが角本氏の訪米視察の結果どおりとなっている点も興味深い。

二階堂 貨物営業のことについてちょっと伺いたいんですけども、貨物営業の計画というのは、この時期かなり具体的に進んでいますよね。例えばターミナルの用地の買い上げなどです。

角本 それが島さんと兼松さんはまことにずるい人で、私に対しては「貨物輸送は最後までやるよ」というような顔していた。私は、大まじめで大井ふ頭の土地を買いました。それから、静岡も名古屋も大阪も貨物駅の用地、みんな買ったんですよ。

二階堂 名古屋は日比津、静岡は柚木ですね。

角本 そう、柚木です。大阪は鳥飼。

二階堂 あとは、コンテナの規格を決めて、在来線は縦で新幹線は横にするとか、そういう具体的なことまで・・・・・・。

角本 そうそう。その寸法を決めて、在来線のコンテナ規格を決めるときに、「直角に曲げれば新幹線貨車に5個載せる」ということまで決めました。具体計画の直前まで決めて、担当者も私も大真面目でやっていた。世界銀行に対しても、「やらない、うそだ」ということは一言も言わなかった。

 ところが、島さんと兼松さんは、「それはうそである」ということを承知でやっていた。そこのところにギャップがあったということです。

二階堂 実際のところ、本当にやる気がなかったのか、あるいは旅客の二の次にしていたということでしょうか。

角本 いや、そうじゃない。彼らはずるいですから、本当にやる気がなかった。それでいて、私に大井埠頭の海の上を買わせたということです。

二階堂 では、完全に無駄な・・・・・・。

角本 それが無駄じゃない。あの大井埠頭の土地があったんで、今どれだけ助かっているか。あそこがなかったら、今は電車置く場所ないでしょう。それは、新幹線の旅客電車を置く場所でもあり、貨物のヤードでもあったということで、大きな土地を買った。そのうち新幹線旅客用は、今、そのまま生きていて、貨物用地のなかへ進入していったし、膨らませていった。だから今でもびくともしないということだと思います。

鈴木 当時、大井埠頭は将来のことまで考えて買ったんですか。貨物のために買ったはずなんだけれども、そのままだったら、本当に無駄になりかねなかったのではないでしようか。

角本 東京都にしてみれば、海の上ですから買い手がない。できるだけたくさん買ってくれるお客は大歓迎。こちらは、できるだけ広く買っておけば、 東京が伸びるから無駄にならない。両方の思惑が一 致した。だから海の上をでっかく買ったんです。そういう意味では、貨物のことだけではなく、将来のことを考えて買ったわけです。 ただし、「羽田のそばはやかましい」ということで、北のほうへずらして買った。そのとき、たしか南は 京浜二区という埋立地だった。「京浜二区では嫌だ、もうちょっと北のほうがいい」と言ったときに、東京都は何も言わなかった。ですから、品川からすぐ電車を入れられるという場所が確保できたわけです。これは、私がしたうちの一番いい仕事のうちの一つでしょうね。

渡邉 鳥飼基地というのは、もともと貨物営業用を想定して・・・・・・。

角本 貨物用として買ったと思います。

鈴木 あそこは、もともと何だったんですか。

角本 おそらく淀川の湿地帯じゃないでしようか。ほかの利用があまり進んでいなかったから買えたと思います。その意味では、名古屋の西のほうもそうだった。庄内川の西側でしょう。

菅 結局、新幹線の貨物ターミナルにはならなかったけど、みんな生きていますよ。名古屋は新幹線の車両の置き場になったし、静岡は在来線の旅客車を置いているのかな。

角本 静岡、柚木のところね。そうでしよう。

菅 大井は、お話があったとおり、新幹線の車両基地と東京貨物ターミナルになっているしね。それでも土地が余ったから、東京貨物ターミナルの一部は、一時ベトナム難民の収容キャンプみたいに使われたことがありましたね。

角本 ああ、そうですか。

渡邉 用地を買われたときに、車両基地だったら全く周囲と孤立した島みたいなものですけども、貨物駅になると、そこに通運の店が来たり、地域との関係も出てくるわけですね。ですから、土地を買うときにも、単なる車両置き場になるのか、それとも、そこに貨物駅ができて、周辺との物流との起点になるのかというのは大きな違いがあるように思うんで すが。

角本 買うときには、そこまで言わなかったと思います。ですから、貨物の場所、旅客電車の場所、 それぐらいの大まかな話だけをして、東京都と話がついたんじゃないでしようか。東京都としては売りたい一心ですから、私たちはお客様だったんです。 海だった、水の上を買ったわけですから。

渡邉 鳥飼についても、貨物だから売ったとか。

角本 いや、そういうことはないと思う。

菅 それは逆に、新幹線の車両基地が先にできて、隣接地はずっと長い間使われていなかったんですけれども、大阪に在来線の貨物ターミナルをつくることになりまして、実際につくって、今、稼働しているんですが、それについては結構反対運動があったんです。特に吹田操車場から持ってくる鉄道をこしらえなければいけませんね。これなんかはすごい反対運動を受けて、菅原操さんが大阪工事局長 として話をおさめるのに随分苦労されていますよね。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」244頁~246頁から引用

大井貨物駅跡

柚木貨物駅跡

日比津貨物駅跡

鳥飼貨物駅跡

 次に、島の「トリック」について引用してみる。

二階堂 貨物担当の補佐だった森繁さんが書かれた資料をちょっと拝見したことがあるんですが、1963年7月、要するに大石さんたちが辞めてすぐ、角本さんは貨物営業のことに関して石原常務に説明されているんですね。 そのときには、角本さんは「貨物をやるべきだ」 と言われているんですが、石原さんは「採算は多分 とれないだろう」というようなことを言われて、「それでもやる意義があるのか」と尋ねられて、角本さんは「トラックへ対抗するという意味、それから通運業者に対して国鉄の態度を示すという意味で、 貨物はやったほうがいい。将来性もあるんだ」というようなことを言われて、旅客営業から1年おくれ の1965年10月に貨物営業開始ということで、石原さんも合意された。そういう記録があります。 それに加えて、1964年の座談会なんかを拝見し ますと、当時の今村営業局長も「新幹線を使って貨物営業が早くできないか」ということを模索されていたようです。こういうことから考えると、先ほどのトリックというのは、ごく一部の方しか知らなかったということでしょうか

角本 大石さんがどうか知らないけど、島さんと 兼松さん、そこらでしょう

二階堂 遠藤鐵二さんはどうだったんでしょう

角本 中立でしよう。どちらでもつくと。

二階堂 角本さんは、営業部長退任のときまで、トリックということは全く気づかなかったわけですよね。

角本 気づかなかったし、たとえトリックであっ ても、逆に突破しようと思っていた

二階堂 「トリックなんじゃないかな」というようなことは、薄々は・・・・・・。

角本 思わなかった。私は突破できると思っていた。

二階堂 石原さんも、こうやって論破しているということで、それが「実際にはやる気がなかったんだな」ということがわかったのはいつだったんですか

角本 十河、島が辞めたときです。

二階堂 それは1963年になるわけですが、そのときも角本さん、大まじめに貨物のことをなさっているわけです。

角本 はい。私は自分で突破できると思っていた

二階堂 島さんの真の意思を知ったのは、どういう きっかけだったんですか。

角本 島さんが辞めるころ「島さんはやる気がなかったんだな、ごまかしだったな。兼松さんもごまかしだったな」ということは、私にはわかった。しかし私は「これはやるべきだ」と思っていました。 だから、中公新書の「東海道新幹線」に「貨物をこうやります」ということを書いたということです。 これは1964年の2月に出した本です。

二階堂 「突破できる」というのは、石原さんへの 説明にもあるように、「トラック対抗」ということ と「通運対策」ということなんですが、将来的に新幹線貨物をやればトラックに対抗できる根拠という のは、どういうことだと考えていらっしやいました か。

角本 時間です。ということは「夜遅く集めて、 朝早くに着く」という何本かの列車をつくっておけ ば、その分は貨物を確保できる。そう信じていた。 これは、トラックより断然速いし、しかも確実ですから、「これはやれる」と。

二階堂 「通運対策」というのは、具体的にはどう いうことですか。

角本 通運業者は、利益があればよいわけですから。自分のトラックであろうと、国鉄利用であろう と、彼らは利益があればやってくれる。

二階堂 では、「その利益を彼らに充分与えられる」と。

角本 そうです。「そうすれば、彼らもまた鉄道 に戻ってくるだろう」と。ですから、東京・大阪という地区について、雑貨がそれぞれに動くということで、大部分はトラックであっても、国鉄利用の部分も残ると考えていた。

二階堂 通運業者を通さず、国鉄がコンテナを直営するということは考えておられましたか。

角本 いや、直営というのは手足についてはでき ません。やはり荷主との直接接触は通運業者でない とできない。

二階堂 「貨物営業が経理の上では赤字になる」という石原さんの指摘についてはどうですか。

角本 私は赤字になるとは思わなかった。ということは、線路が既に存在するわけですから。それから、貨物用地も既に押さえてあるということですから。列車本数は限られている。だから、限られた列車本数を満たすだけの貨物は充分集められると考えていた。

二階堂 「途中のヤードでつないで、離して」ということではなく・・・・・・。

角本 「それでないから成功する」ということです。しかも、「ダイヤどおりにあなたの貨物は動きます」ということですから。

渡邉 その意味では、貨物列車は1日に1本でも2本でもよかったわけですね。

角本 そうです。

菅 貨物に関して、実際に需要の想定とか、運賃の試算といいますか、そういうことも当時なさいましたか。

角本 はい。ですから、貨物の担当で森さんはじめ3人か4人来ていたと思いますし、実際に貨物駅の用地は4駅とも買ったわけですから、それをそのまま利用して、しかも夜明けに列車を入れるという ことで充分できると思っていました

二階堂 九州方面や東北方面と、どうつなぐかとい うことは・・・・・・。

角本 そこまでは考えなかったと思います。九州まで考える余力はなかったし、山陽新幹線がいつできるかも当時はわからなかった。

二階堂 いえ、そうではなくて、大阪で在来線に積みかえてやるという形です。森さんの資料では、そういう内容も出てくるので・・・・・・。

角本 それはやっていたでしよう。我々は「貨物営業はやるものだ」と信じていて、それで上の人が 「やめろ」と言った。しかしこちらは「突破できるんだ」と思っていたということです。

 

「角本良平オーラル・ヒストリー」246頁~248頁から引用

 このあたりの経緯は、私の知る限りでは今まで明らかにされていないと思う。

 「島は貨物やる気ない」「現場は土地も買ったし準備工もやってる」「国鉄だけではなく通運業者も動いている」「開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていた」という矛盾が今まで繋がらなかったのだが、ここで繋がるわけだ。

 「島は貨物やる気ない」
 ↓
しかし、島は在任中は内外に「やる気ない」とは言わなかった(むしろ社内にも「最後まで貨物はやる」という姿勢を示していた(角本氏のいう「トリック」))
 ↓
現場は当然貨物の準備をする
 ↓
「現場は土地も買ったし準備工もやってる」
 ↓
角本営業部長(貨物担当)は、島が辞める頃にやる気がないと気づく
 ↓
それでも突破できる(すべき)と考え、島辞任後も貨物実現に向けて動く
 ↓
「開業後も暫くは貨物輸送を真剣に考えていた」
山陽、東北、上越新幹線も貨物走行可能な規格で建設
 ↓
島は国鉄を辞めた後に「貨物やる気なかった」と公言

という流れで宜しいんじゃないかと思う。

新幹線総局

 こちらは新幹線総局の組織図。ちゃんと「貨物担当の補佐だった森繁さん」がいらっしゃる。

 

 (その2)では、長氏の指摘する「*貨物列車を引き込むための本線を跨ぐ施設が造られていた。しかも大阪鳥飼の車両基地への貨物引き込み用の構造物は世銀からの借款の調印の昭和36年5月2日から一年後に着工している。もし世銀から融資を受けるためであるならば、予算膨張に悩んでいたので、前項の用地買収を含めてこんなに見え見えの無駄なことはしなかったはずである。」つまり予算超過問題について角本良平オーラル・ヒストリーから紹介してみたい。

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2015年1月31日 (土)

東海道新幹線開通後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等(貨物新幹線は世銀向けのポーズなのか)

阪神高速道路が直結するはずだった新幹線大阪貨物駅 において、「新幹線の貨物輸送は世界銀行の融資を受けるためのダミー(フェイク)」説について、主に建設時の国会議事録等を中心に検証してきたが、この項では、東海道新幹線開業後の貨物新幹線に係る国鉄の取り組み等を検証してみたい。

 この提案を受けて国鉄はさっそく世銀との接触を開始する。(中略)また、当時の世界では、鉄道は「経済動脈」として旅客と貨物をあつかうことが常識だった(世銀の本部が置かれるアメリカでは当時、鉄道輸送のじつに95%が貨物であった)ため、東海道新幹線による貨物輸送のプランも示す必要に迫られた。

 とはいえ、技師長である島の頭にははなから貨物新幹線構想などなかった。世銀への説明資料には貨物輸送の青写真も加えたものの、それはあくまでもポーズだった。このプランでは、新幹線における貨物輸送は、コンテナとピギーパック方式(トラックを直接貨車に積み込む方式)により、夜間輸送、東京~大阪を時速150キロ、5時間半程度で結ぶことが示されていた。

新幹線と日本の半世紀」交通新聞社刊、近藤正高著 76~77頁

 このように「世銀への説明資料には貨物輸送の青写真も加えたものの、それはあくまでもポーズだった」との趣旨で記す本は多い。また、当の島秀雄氏も下記のように語っている。

島はしみじみと回想する。

「私たちの新幹線に対する基本的な考え方は、東海道在来線の貨物を含む総輸送力を最も合理的に強化する方法として、新線を旅客中心にしてしまうということだった。つまり新線建設によって在来線には以前よりはるかに大きな貨物輸送力を確保することができるという、総合的な見地から決めたものであり、東海道輸送力増強の方策としてはわれわれの新幹線原案こそが最良最高のものであると考えていた。

  ところがこの考えを国鉄内部でも理解することなく、新線にも貨物輸送をすべきだと単純に発言する者もあり、まして世界銀行に理解してもらうには時間がかかりすぎるおそれがあった。

  したがって世界銀行に対しても一応本心は伏せて、新線でも貨物輸送をしないわけではないという態度でのぞむことにした。しかし、話し合っている最中にもつい本心が出てしまいそうで、はらはらしながらの交渉だった。日本語で日本人に話してさえなかなか理解してもらえないのに、外国人に外国諾で話すのではとても無理だろうな、と何度も思った。

  ところが私たちの話を聞いたローゼンさんのほうが、『そういうことであれば、在来の東海道線は貨物輸送を中心とし、新線は旅客中心でやることにしたほうが新線建設の意味も大きいのではないか』といってくれたので、ホッとした。(以下略)

超高速に挑む 新幹線に賭けた男たち」文芸春秋刊、碇義朗著 181~182頁

 また、JR東海元会長の須田寛氏は、下記のように述べている。

須田 (中略)しかし大きな課題は、新幹線の建設資金は世界銀行から約1億ドル借りることでした。

- 世界銀行というのは国際復興開発銀行(IBRD)のことですね。

須田 IBRDは開発途上国や戦災復興の援助を目的に設立された機構です。したがって貨物をやらないような鉄道には援助はできない、貨物も旅客もやってはじめて日本の開発になるのだから、Developmentになるのだから、旅客だけでは協力しにくいと言われたので、貨物をやりますと言わざるを得なくなってしまったのです。それでいずれは貨物もやることになって、鳥飼貨物駅を新幹線基地の横に造ったりしましたが、新幹線開通のころになると、貨物をすぐやる気持ちはほとんどなくなっていましたね。今のように新幹線と在来線で使い分けて東海道の線増効果を出そうとしたのが経緯でしょうね。

- 結果論ですが、東海道新幹線で夜行貨物列車を運転していたら、貨物の輸送シェアも変わっていたのかと思ったりします。

須田 輸送シェアはともかく、新幹線で郵便と新聞の輸送をやることは強く要請されました。これは貨車ではなくて電車でいいからと。しかしいざ実施となると、新幹線で輸送時間の厳しい新聞輸送をやるとダイヤが構成できないだろうということになってお断りしましたが、民営化の頃までこの要請はありました。一時期「RAIL GOサービス」をやっていましたが、あれはそのような要望の一部に応えたのです。(以下略)

須田寛の鉄道ばなし」JTBパブリッシング刊 68頁

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 しかしながら、上記の「定説」と異なり、東海道新幹線開業後も貨物新幹線の実施について検討した証拠は残っている。

 元日本国有鉄道総裁の仁杉巌氏は、東海道新幹線開業後の昭和43年に下記のように述べている。

貨物輸送

 新幹線は、いま貨物輸送をおこなっていませんが、将来それをおこなう考えは十分にあり、そのために最初からいろいろ研究していましたし、貨物駅の用地もすでに買入れてあります。

 はじめから貨物輸送をおこなわなかったのは、一つは、旅客輸送のための工事だけで資金がいっぱいだったことと、もう一つは、新幹線で大急ぎに荷物を運びたいという要望がまだそれほど高くなかったからです

 (中略)

 そこで、いずれ新幹線による貨物輸送をもとめる声も高くなってくるだろうと思いますが、そのときは、おそらく新幹線が関西よりももっとさきへのびたときではないかと考えられます。つまり、現在建設中の山陽新幹線が下関までのびたときとか、博多までのびたときとかです

 (中略)

 新幹線が日本を縦貫するようになったそのときこそ、新幹線は、直接、産業開発の一與もにない、日本の発展のために、もっともっと大活躍することになるのだろうと思います。

世界一の新幹線」鹿島研究所出版会刊、仁杉巌・石川光男共著 157頁

 この本は、子供向けに出版されたものなので、口調が子供向けに平易になっている。

 なお、この本が出版されたのは、昭和43年であり、新幹線が世界銀行からの融資獲得のためのポーズなら、わざわざリップサービスをする必要もないにもかかわらず、ポーズ説を否定し、貨物新幹線の将来構想について述べているのである。

 ちなみに、仁杉氏は、東海道新幹線建設にあたっては、名古屋幹線工事局長及び東京幹線工事局長を歴任しており、須田氏などよりも新幹線建設の実情を熟知していると思われる。

 同様に「山陽新幹線博多延伸時には貨物営業したい」旨のことは、昭和41年に出版された「国鉄は変わる」至誠堂刊、一条幸夫(国鉄審議室長)・石川達二郎(国鉄経理局主計課長) 著においても述べられている。

 このへんの面子が島氏のいう「この考えを国鉄内部でも理解することなく、新線にも貨物輸送をすべきだと単純に発言する者」なのだろうか?いずれにせよ、わざわざ島氏も言及するほど、国鉄社内における貨物新幹線に係るスタンスは一枚岩ではなかったということなのだろう。島氏の言い分だけ聞いて「貨物新幹線は世銀向けのポーズ」と断言してしまうのも一面的な取材にすぎないというわけだ。

 なお、東京大学名誉教授の曽根悟氏は、

幻の貨物新幹線

「十河総裁と「島技師長」対「その他国鉄首脳」との戦いはかろうじて総裁・技師長組の勝ちになったのだが,実現までにはさまざまな困難があった。

 まず,新幹線への最大の反対理由は,貨物輸送がネックになっているのに,貨車が直通できないことだった。これに対しては,今のコンテナ電車のような高速貨物列車を新幹線にも走らせることにした。こうして高速貨物電車の絵や図面は作られたのだが,どこまで本気でやる気だったのかは今となってはよく判らない。実際には,新幹線は開業直後から大人気で,旅客輸送だけで手一杯になり,開業後に貨物輸送の議論は全く立ち消えになった。

新幹線50年の技術史」講談社ブルーバックス 曽根悟著 24頁

と述べており、「国鉄内部での新幹線実施に向けた路線対立の収束のために貨物新幹線が検討された」との見解を示している。実際のところ、世銀との交渉以前に新幹線の諸規格が貨物新幹線ありきで決定されていることとも整合が取れるものである。

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 国鉄が発行した「新幹線十年史」には、山陽新幹線の建設にあたって下記の記述がある。

路線の有効長は、将来の貨物運行を考慮して500mとしている。

新幹線十年史」313頁

 世銀向けのポーズなら対応しなくてもよいと思われる山陽新幹線にも貨物用の規格が盛り込まれているというわけだ。ただ、この本には、貨物輸送についてはそれ以上のことは触れられていない。

 いろいろと調べていると、「旬刊通運」という交通出版社が発行していた運送業界誌の17巻33号(昭和39年11月発行)に「どうなるか新幹線の貨物輸送問題」という記事が掲載されており、ここに、東海道新幹線開業後の国鉄内部での検討状況が非常に詳しく記載されているので、紹介したい。

どうなるか新幹線の貨物輸送

-牛歩ながら検討は続行中-

旅客営業は順調にスタートしたが

 スピード時代に対応した鉄道の花形として、去る十月一日華々しくスタートを切つた東海道新幹線も、ようやく一ケ月を経過した。開業当初はパンタグラフの故障をはじめ、信号、ドアなどいろいろな故障が続発して、一時は前途に暗い影を投げかける一コマもあつたが、最近はこれら開業当初特有の部分故障も殆んど影をひそめるに至り国鉄当局もようやく焦眉を開いたというのが実情で、あとは悪質な妨害を防ぐことか当面の課題になつているようである。そんなわけで国鉄公約の「一年以内に東京-大阪間三時間運転の実現」は、見通しが明るくなつたとみられている。

 こうして東海道新幹緑は、未開の大地にようやく根を下した感があるが、これは旅客輸送の場合であつて、貨物輸送については未だに実施時期さえメドがついていない実情である。

 当初の計画では、先づ旅客輸送から営業を開始して、追つかけ一年後に貨物輸送を開始するということであつたし、事実そのような段収りで貨物輸送に関する検討も同時に進められてきたものだが、既に旅客営業は開始された現在に至るも、貨物輸送は何時、どのような形で実施するか、今もつてそれらの基本的方針さえ決まつていないというのが実情である

貨物輸送に対する消極論

 これには、新幹線の工事半ばで完成所要資金に対し八百数十億の不足を生じ、国会の問題にまでなつて、国鉄総予算中から優先充当等特別の資金手当をもつてやつと穴埋めをしたという過去のイキサツやら、開業期限に制約された事情(聞業予定の十月はオリンピツクの開催を控えていたので、面子のうえからも開業延期は許されないと、国鉄当局は背水の陣で臨んでいた〉から、資金面は勿論のこと、あらゆる点で当面は旅客輸送の開業体制確立一本ヤリで臨まざるを得なかつたものと思われる。

 つまり、これまでの状況から判断して貨物輸送の営業準備にまで手が廻わらなかつたのではないか、とする見方である。それに国鉄内部には、以前から新幹線で貨物輸送を行つてもあまり意義はないのではないか、とする消極論もある。これは、現在線から旅客の優等列車が新幹線へ移行すれば、現在線はそれだけユトリができるわけだから、その分を貨物輸送に充当するだけでも、輸送力はかなり増強できる、との観点に立つた考え方だが、その消極論というのは、東海道新幹線のような短い区間では、東京-大阪間に貨物の夜間運行をして早朝の三時、四時に着駅に着いても、即時引取りの受入体制を整えようがない実情なので、新幹線の一枚看板ともいうべきスピード化の効果が生かせないというのてある。

 そこから、強いて新幹線に貨物輸送を行うまでのことはなく、更らに輪送力増強の必要があるなら、現在線から 準急程度の旅客便も新幹線へ移し、線路容量に一層余裕をつくつて貨物輪送に振り向けた方が一挙両得だ、との議論も出ているのである。

 客貨分離の思想に通ずるもので、近年相次いで発生した重大事故を契機として、過密ダイヤの解消が大きくクローズアップするに至つた実情に微しても、その一環として客貨分離は必然の方向とも云えるわけで、考え方としては時宜を得たものと云える。

 しかし、これには日本の国情からみてゼイタクだとする反論のあることも事実で、理想的な鉄道経営のあり方と しては確かにそうあるべきだし、鉄道輪送をサービス本位に考え、事故の絶減を期そうとするには、少くとも幹線 ぐらいは客貨分離を図らねばムリなことはわかつているが、伝統的に客貨混合の過密ダイヤを基調として成り立つている国鉄の現行体制はそう簡単に改められるものではなく、又資金面でも厖大な投資を要することでもあるので国の強力なバックアップなくしては不可能なことだ。というわけである。

 それに、当初の計画では貨物列車は夜間だけ運転することになつている(但し、夜間一週に一回運転を休止して、保線作業の時間に充当する)が、開業後の実情はどうかというと、毎週一夜の予定の保線作業が毎夜行われているため、現状ではたとえ夜間であつても貨物列車を運転するユトリがなく、この面でも大きなカベに突当つている。勿論、線路の保守が軌道に栗れば毎夜保線作業を行う必要はなく、開業初期とあつて大事をとつた過渡的ソチには違いないのだが、何時常態になるか見通しがつかない現状だけに、問題点の一つになつていることは否めない。

 当初の基本構想

 しかし、だからと云つて貨物輸送の検討が全くなおざりにされているわけではない。囚みに三十七年当時まとめ られた一応の構想を掲げてみると次のとおりである。

(略)

白紙に戻して再検討に着手

 三十七年当時まとめた東海道新幹線の貨物輸送に関する基本構想は、概ね以上のようなもので、このうち停車場(取扱駅)の設置個所とか車両形式、輸送方法等の所謂基本事項は殆んどコンクリートしているようなものゝ、輸送計画に関する事項、即ち列車計画(運転計画)などは、概ね従来の基礎資料から試算したものに過ぎないので、新らたなデーターがまとまればそれに伴つて逐次修正することになつていると云われていた。

 そして、制度や施設等に関する具体的細目についても、新幹線総局(本年四月、新幹線支社に改組、貨物関係の担当者は営業局配車課へ配置換えをした)を中心に営業、運転等の関係各局担当者の間で逐次研究、協議することになつていた。

 ところが、前述のようにその後新幹線の建設それ自体に資金不足等の不測の事態が生じたことから、この際新幹線で貨物輸送を行うべきか否かという基本的問題に戻して、いわば白紙の状態で問題を検討すべきだとの意見が出され、それを契機として企面的に再検討することになつた。このため新幹線の貨物輸送に関する検討は一時中断も同然の状熊になつていたが、全線試運転の成功から旅客営業の予定期日開業の目鼻がつくに至つて、貨物輸送についても四十一年度乃至四十二年度の開業を目途に、輸送計画の具体的検討を再開することになつたもので、新幹線支社営業準備委員会、本社営業局配車課、貨物課などの担当者が逐次打合わせを行つている

コンテナ方式が有力

 現在検討されている新幹線の貨物輸送方式は、(一)フラットカーを使用する方式と(二)その他大型貨車による力式の二案があり、(一)案の中にも(イ)コンテナ方式、(ロ)フレキシバンを乗せる方式、(ハ)ピギーパツク方式(トレーラーを乗せる方式とトラックそのものを乗せる方式がある)などがあるが、このうち予算駅設備等の点で最も問題が少なく、現行のものと共用がでぎるという経済性の面からも五トンコンテナ方式が有力視されており、概ねこの方式を重点に検討を推進することにしているようである。

 コンテナ方式では電機牽引方式と電車貨車方式があるが.前者の場合は貨車一両当り六個積載、一列単二五両編成とし、後者なら五個積載の三〇両編成にすることが考えられている。

 とはいうものゝ、これらのコンテナ方式でも全く問題がないわけではない。一例をあげると、電気機関車牽引方式にしろ電車貨車方式にしても、積卸線に架線があつては積卸作業に著しく支障を来たすので、これをどう解決するかという問題がある。この点についてば、(一)積卸線にぱ架緑を設げず、列車が構内に入つたら積卸場所までデイゼル機関車に牽引して入、出線する。(二)コンテナの貨車積卸には従来のようにフオークリフトを用いず、コンベヤ方式で積卸しができるようにする……等の考え方があるが、具体的にば未だ何らの結論も出ていない。

 又、前述のように貨物輸送の予定時間帯となつている夜間は、毎夜線路の保守に当てられている現状では、貨物列車の運転のしようがないわけで、いずれは一週一夜程度の保守で間に合うようになるとしても、その時期は目下見当がつかないということだから、この点も大きな問題点に違いない。

 そこで、これらの問題点も含め、東海道新幹線の貨物輸送計画はどうなつているかについて、担当の営業局配車課堀本補佐に聞いてみた

 昼間運転も考慮

問 東海道新幹線の貨物輸送計画については、巷間消極論をはじめいろいろな説が流布されているが、当局の方針はとうなのか。

答 一応、実施することを前提にいろいろな角度から検討は続けているが決定した事柄は一つもない。

問 実施時期のメドはどうか。

答 四十年度の予算にはボカして一部を組入れて要求してあるので、そのまゝ大蔵省の承認が得られば四十一年度から営業を開始することもできるわけだ。予算ソチが整つても、開業までに二年かゝるというのが常識になつている。

問 貨物関係の所要資金としてどの位を見込んているか。

答 当面考えているように、電車によるコンテナ方式で開業当初は一日往復四列車でも間に合うという見通しが ハッキリすれば、取敢えずは東京(品川)と大阪(鳥飼)の二駅を設置するだけで用が足りるわけだから、既略九 〇億円ほど投貸すれば開業できる筈だ。しかし、取扱予想数量がこの程度の輸送計画では間に合わないとすれば東京の場合、品川では相応の施設をする用地のユトリがないので、設置場所を大井臨埠頭当りにかえなければならなくなるわけだから、この埋立費用だけでも相当な額に達するばかりでなく、途中静岡と名古屋にも駅を設ける必要があるので、一日往復二六列車を運行する規模に見積つて、所要経費はざつと六〇〇億門ほどかゝる計算になつている。

問 予定通り十月一日から旅客営業を開始してからかれこれ一月になるが大事をとる意味からか、夜間は毎夜保線作業が行なわれているという。このまゝでは夜間運転を予定している貨物輸送は不可能になると思うが

答 実はそれで弱つているわけだ。開業当初ではあり、安全運転のため過渡的ソチとしては止むを得ないことゝ 思うが、では、何時になつたら保守の手がゆるめられるかとなると、目下のところ皆同見当がつかない実情なのでこの点も一つの問題点になつているわけだ。消極論云々の話しがあつたが、資金などの問題もさることながら、幹部が貨物輸送に明確な基本方針を打出しかねているのも、こんなところにも理由があると思われる。

貨車の客車並み高速化を研究中

問 仮りに夜間の運行は先行きとも不可能になった場合には昼間運行に計画変更をせざるか得まいが、貨物の昼間運行を考慮されたことはないか

答 勿論、そういう考え方もあるがそうするにはスピードの問題から解決する必要がある。と、いうのはこれまでの観念によれば電車貨車方式では時速一三〇キロが限度なので、このような低速の貨車を新幹線に昼間運転するとなれば高速の旅客列車と時間調整をするため、要所々々に待避所を設置する必要があるが、新幹線には用地の面でそのようなユトリはないので不可能の実情にある。

 そこで、この解決策としては旅客列車並みに貨物列車のスピードアップを図る以外に方法はないわげだから、さき頃貨車を旅客列車並みにスピードアップすることができないものかどうか、技術陣に早急研究方を依頼したわけである。

問 旅客列車並みのスビードアップというと、時速二〇〇キロということか。

答 貨車の場合もこんな高速で運転している国は何処にもなく、全く未開の分野なので、技術的に果して可能性 があるかどうか、今後の研究に待たねばならないわけだ。しかし、これが完成すると、東海道新幹線では距離的に切角の高速も十分に生かし切れない憾もあるかも知れないが、将来山陽新幹線ができて東海道新幹線と直通運転するようになると、現在の「たから号」並みに夕方東京から発送するコンテナ貨物は、翌朝九州に到着してその日のタ方迄には荷受人に配達できるようになるから、驚異的な効果を発揮するものと思う。

問 最後に、新幹線の貨物輸送に関連して、通運体制をどうすべきかについて検討しているか。かつて、磯崎副総裁が常務理事当時(三十七年)、国会でこの点の質問を受けた際「新幹線の貨物輸送は、原則的にコンテナ輸送方式を採用するつもりなので、国鉄と通運会社の共同出資による新会社に任せることは考えられる」という意味の答弁をしたいきさつがあるが、こんなことがあつてから、業界内部には「国鉄はこの点についても内々研究しているのではないか」とみている向きも少なくないようだが。

答 新会社去々の問題は、当時磯崎副総裁が一つの考え方として述べたに過ぎないと思う。幹部はどう考えてい るか知らないが、われわれはその問題について検討したことは一度もない。しかし、新幹線でのコンテナ輸送と もなれば、その特殊性から云つても何らかの新方策を考えることは必要だろうから、いずればそう云つた間題とも 取組むようになるかも知れない。

 「貨物新幹線ポーズ論」の根拠の一つとして「夜間は保守を行っているのだから貨物輸送を行う余地はもともとなかった」というものがあるようだが、この記事を読むと、「当初は夜間の保守は週一日で、その日は貨物新幹線は運休する予定であった。しかしながら開業後想定外に毎夜保守を行うこととなってしまい、それが貨物運行の妨げになっている」旨の記載となっている。「夜間は保守を行っているのだから貨物輸送を行う余地はもともとなかった」という論は後付にすぎないもののようだ。なにより、昼間に旅客電車並のスピードで走行できる貨物電車の開発を検討しているのだから!

(※ 新幹線の開業後の保守体制等は上述の曽根悟氏「新幹線50年の技術史」に詳しい。)

 また、昭和39年11月時点でのこの記事では

「問 実施時期のメドはどうか。

答 四十年度の予算にはボカして一部を組入れて要求してあるので、そのまゝ大蔵省の承認が得られば四十一年度から営業を開始することもできるわけだ。予算ソチが整つても、開業までに二年かゝるというのが常識になつている。」

とのやりとりがなされているが、昭和40年3月の国会では、

国鉄が新幹線を開業いたしますまでには、先生も御承知のとおりに予算不足の問題がございまして、昨三十九年の十月に旅客の輸送開始をいたすまでの間に、いろいろとやむを得ない予算上の事情から、計画の変更と申しますか、一部をおくらせざるを得なかったということがございまして、その結果として、貨物輸送は、できれば一番最初は三十九年の十月、昨年の十月同時に開業するという計画でございましたけれども、ただいま申しましたような事情でおくれざるを得ない、ただいまの予定では四十三年の秋、これはどうしてもその時期になるという事情がございます

との答弁をおこなっている。

 国鉄幹線局調査役、新幹線総局調査役を歴任し、新幹線の企画から開業までを手掛けた角本良平氏は、中央公論新社のインタビューで下記のように答えている。

――本書にあるように、当初は新幹線も貨物輸送を想定していた?

 開業当時は、高速道路がまったく発達していなかった。東京から名古屋、大阪まで、トラックを動かすことは考えられなかった。その後、全国に高速道路網が張り巡らされた。結果的に、新幹線は貨物輸送をせずに正解だった。無駄な競争に参入しなくてよかった。

御年94歳、『新幹線開発物語』の著者・角本良平氏にきく。

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 ところで、山陽新幹線博多延伸時に実施されるはずだった貨物新幹線はどうなったのか?

 「国鉄線」昭和47年3月号(財団法人交通協力会発行)に「新幹線鉄道時代を迎えて - 21世紀の鉄道を目指して -」という国鉄局長級の座談会が掲載されている。ここで、泉幸夫貨物局長が、貨物新幹線の検討結果について下記のように述べている。

司会 さて、新幹線建設と関連して、貨物輸送をどうするかということも、国鉄としては非常に大きな問題だと思います。

泉 その前に、東海道新幹線を作りましたときに、将来は貨物もコンテナ輸送をやるという前提がありました。昭和34年に登場した5トンコンテナも、今縦積みにすれば、新幹線で使えるようにできているわけです。しかし、その後、100キロ貨車が開発され、東京~大阪間は、8時間で走るようになりましたから新幹線の貨物輸送は将来博多まで延びたときに、検討するという感じだったのです。

 その博多開業時期も大体きまってきたわけですが、貨物局を中心に勉強しまして、100キロ程度を出せるコキ車を使うと、博多から東京までといっても、そう時間に大きな差があるわけでもないことと、新幹線で5トンコンテナを運んでみたところでフリークェンシーに富んだ輸送は必ずしも期待できないこと等から、現時点では新幹線による貨物輸送は原則として考えていないのです。

 むしろ航空機が運んでいる-主として1トン以下の少量物品-あるいは現在旅客列車で輸送されている小荷物等を対象に、新幹線のもつ高速性が荷主さんに認められ、しかもフリークェントサービスが保てるならば、附随車を使って小型コンテナで迅速に積卸しのできる形態でやるぐらいのことが、新幹線での貨物輸送の範囲だと考えています。

 いざ検討してみたら、在来線の貨物に対しての貨物新幹線のメリットはなかったということですかね。いずれにせよ、島氏のいう「この考えを国鉄内部でも理解することなく、新線にも貨物輸送をすべきだと単純に発言する者」は相応の勢力があったということでしょうな。

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 以上、国鉄における東海道新幹線開業後の貨物新幹線に係る動きを整理してみた。近藤正高氏の述べるような単純なものではないことはお分かりいただけたかと思う。

 この他に、運輸省(当時)側の動きもあったようだ。運輸省系のシンクタンクともいえる「財団法人運輸調査局」において昭和40年3月に「東海道新幹線における貨物輸送方式」という調査報告がなされている。貨物新幹線がポーズであれば、こんな時期に運輸省が検討を行う必要はないはずだ。

 ちなみにその検討結果はというと

〔8〕結論

(略)

 現状においては、新幹線に直ちに全面的にコンテナ輸送を実施するためにはコンテナ輸送を応用するのは疑問とする要素が多い。この場合、新幹線において貨物輸送を実施するためにはコンテナ方式と電車貨車方式で行うことが方法としては最もふさわしいといえるが,これに要する莫大な投資に見合う利用財源,運賃問題,経済効果に疑問が多いばかりではなく,現在線の輸送力逼迫緩和にどれ程役立つか,また保守間合いをいかに生み出すか,フォークリフトなどの荷扱機械を如何にするか,通運業との関連をいかにするか,輸送速度をいかに調節するか,列車編成の問題をいかに処理するか等幾多の懸案が残されるので本格的に貨物輸送を開始するのは時期尚早であるというほかない。

 いずれにしても新幹線貨物輸送は一応採算を度外視して試行錯誤によつてやつてみることもよいが,これを本格的に実施することは余程慎重を期するというべきであろう。

調査資料第616号「東海道新幹線における貨物輸送方式 - 流通技術を中心として - 」財団法人運輸調査局 93頁

 となかなか辛辣である。

 同時期の昭和40年3月の国会における

国鉄といたしましては、新幹線を利用いたしまして高速の貨物輸送を行なうということが、国鉄の営業上どうしても必要なことでございまして、またその需要につきましても十分の採算を持っておりますので、なるべく早く新幹線による貨物輸送を行ないたい、こういうふうに考えて計画を進めております。

との国鉄側答弁と大きく異なっている。

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 ところで、東北・上越新幹線での貨物の取り扱いはどのようになっていたのか?

1.新幹線

【東北・上越新幹線】

1.17技術的諸課題解決に一歩前進

 全国新幹線鉄道ネットワークには、技術的に幾多の諸問題がある。つまり、ⅰ)東海道新幹線との建設基準の相違(標準活荷重・最高速度)、ⅱ)ネットワークとしての直通・分割・併合問題、ⅲ)豪雪・寒冷地域の高速運行、ⅳ)全国的な営業施策としての夜行運転・貨物輸送、などがそれである。これらの技術的課題については、新幹線整備の進捗に先立つて解決してゆくことが必要であるが、ネットワークの総合技術の第1段階として、東北および上越新幹線などを対象として、次項以下の方針を打ち出している。

(中略)

1.23 検討すすむ営業対策(夜行運転など)

(中略)

 一方、貨物輸送については、全国ネットを想定して、規格としては、東海道新幹線と同様N標準活荷重を採用することとなつているが、貨物輸送の要求する諸条件・新幹線的な高速度の必要性・航空貨物輸送との競合などの問題について検討した結果、数10年先の輸送構造の変化は予知し難いことなどから、線路設備としては対応できるものとしておくこととなった。

 

「交通技術」1972年10月増刊号、財団法人交通協力会発行 410・411頁から引用

 つまり、貨物を運ぶ具体的な見込みは当面ないけれど、未来永劫絶対ないとは言い切れないのでとりあえず貨物輸送には使えるように作っておく ということか。

 「世界銀行のためのダミー」であればここまでやる必要があるのだろうか??

4-2 車両限界と建築限界

車両限界

 車両限界とは、車両の断面寸法を一定の大きさに納める範囲の限界のことです。通常、在来鉄道の車両は肩部は丸い形状ですが、新幹線の肩部は四角い特別な形状となっており、しかもすべて直線からなる極めて単純な形状をしています。

 これは、新幹線の開発当初、旅客電車のほかに貨物輸送を考慮して、新幹線の車両限界が決定されたからです。後年、この大きな車両限界が生かされ、2階建て新幹線の誕生につながりました。

「図解入門よくわかる最新新幹線の基本と仕組み」秀和システム・刊、秋山芳弘・著 146頁から引用

 2階建て新幹線は貨物新幹線規格故に出来たということのようだ。

 

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 なお、元・信州大学教授で国鉄勤務時代に東海道新幹線建設工事に従事した長尚氏のウェブサイトによると、新幹線の建設基準にある活荷重(列車荷重)のうち、N標準活荷重(貨物列車荷重)は、2002年(平成14年)に改正されるまで、生きていた。つまり、それまでは貨物新幹線が走れるような構造で建設が続けられてきたのである。

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