カテゴリー「東急ターンパイク」の17件の記事

2016年5月 7日 (土)

道路収入の1割を稼ぐ「路下室」とは何か~東急ターンパイクの考察(その4)

 東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)において

「収入の約1割を「路下室賃貸料」つまり高架下建築による賃貸料を見込んでいることも注目すべきだ。」

と書いた。

東急ターンパイク免許申請書 (20)

 ではいったい「路下室」とは何か?

 当時の報文に図面が示されている。

東急ターンパイク路下室

「道路」1957年5月号「東急ターンパイクについて(その1)」(東急電鉄KK道路課・著)から引用

(東急に「道路課」という組織があったのだな)

 住宅の兼営

 東急ターンパイクの寄与に就ては交通効果の外に、路下室の提供を掲げなければならない。即ち渋谷-多摩川間8粁を主とする既成市街地区域では、ノンクロスを確保する関係上、道路は高架構造となり、路下に空間ができる。この空間をガレーヂ、倉庫、商店、事務所、住宅として利用するために約8億円の造室費が計上されている。

 その面積は約26,000坪であるから、平均二層構造に造るならば52,000坪。一戸当り15坪として約3,500戸の永久不燃家屋が提供されるわけである。一戸平均4人として収用人口は14,000人となる。実に一都市の全家屋に平均する膨大な造営である。一面に於て支障となる既成家屋の取りこわしが起るのは止むを得ないが、その個数は約500戸内外におさまる。

 東急ターンパイクは勿論交通を主眼とするものではあるが、以上の見地から眺めるならば、一定線上に計画的の不燃家屋を建てて、僅かにその屋上を道路として借用するものであるという事ができる。

 路下室の提供が7億円の特別造室費の支出と同時に年3億円の室料収入が既に見込まれている。

 併し現内閣が住宅問題を道路整備事業とともにその重要政策として取り上げている今日、3,500戸の家屋が都内に、而も自らの築き上げる交通の至便と共に実現することは、極めて大きく評価されねばならない。

 

道路総覧 昭和32年版466頁から引用

 

 類似計画

 東急ターンパイクの道路・住宅・バスの3事業兼営計画は、住宅金融公庫法の29年改正にもられた都心における既存建築物上部の遊休空間の利用法としての多層家屋建設の構想を、若干発展せしめたものであって、必ずしも新規のものではない。従ってこの類似計画としては、民間では、銀座-新橋間の屋上道路、屋下事務室、商店等の計画が既に着工しており、官公庁においては、九州北部に海上橋梁を建設して、路下遊休空間を共同住宅に使用する案、或は関門道路トンネル両端における路下住宅建設計画がある。尚外国では、フランスのコルビジエーがこれと同様の着想をもって幾多の参考とすべき設計を発表している。

道路総覧 昭和32年版468頁から引用

 流石「総合デベロッパーとしての東急」としての書きっぷりである。

 「銀座-新橋間の屋上道路、屋下事務室、商店等の計画」については、言わずと知れた東京高速道路と西銀座デパート、コリドー街等の商店である。

東京高速道路

 「九州北部に海上橋梁を建設して、路下遊休空間を共同住宅に使用する案」は、北九州市内の若戸大橋のことであろうか?(実際には共同住宅は建築されていない。)

若戸大橋

 また、「外国では、フランスのコルビジエーがこれと同様の着想をもって幾多の参考とすべき設計を発表している」については

 道路と建築が一体化された「ロードタウン」の系譜についていえば、チャンプレスの計画のほかには少ないが、ル・コルビジェがレザミ・ダルジェ主催の展覧会に出展した「オビュ計画」(1930年)と(中略)が代表的であろう。

 チャンプレスとル・コルビジェの計画では、屋上に配置された道路が建築と等しい断面を持つ矩形断面が採用された(略)。

 

自動車と建築」堀田典裕・著  84頁から引用

なんだそうだ。

 

 尤も、日本も戦前から高架下に住宅等を建築した例はある。

中津高架下 (8)

 私がいくつか記事を書いた中津の高架下建築群である。

大阪の中津高架下建築に係る現状のまとめ(その1)

大阪の中津高架下建築に係る現状のまとめ(その2)

大阪の中津高架下建築に係る現状のまとめ(その3)

 

 フランスまで飛んだりと、高架下建築の世界は奥が深いな。

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東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

(参考)

箱根ターンパイクがNEXCO中日本に買収されて子会社になっていた

東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった

「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があった

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)

東急ターンパイクに係る東京都庁議書類

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2016年5月 5日 (木)

伊東温泉球場(伊東スタジアム)と東急

 東急ついでに、東急が持っていたプロ野球チーム「東急フライヤーズ」と伊東温泉球場(伊東球場、伊東スタジアム)と東急の関係について書いておく。

 wikipediaの「伊東スタジアム」の頁を見てもその由来については大したことは書いていないが、先の東急ターンパイクの記事で都度都度引用した「東急建設の二十五年」に伊東温泉球場の由来が書いてあったので引用したい。

 そうした中で、追放中の五島慶太が関与して、東京建設工業(※引用者注:東急建設の前身)が昭和二十五年春に受注した伊東温泉野球場新設工事は、「当社の機械施工の本格的試験場」(安藤芳雄)として記憶 に留めるべきものであろう。

 同球場は、静岡県伊東市と東京急行電鉄が施主となり、伊東市の市民球場、並びに東京急行電鉄の関連会社が所有する東急フライヤーズのフランチャイズ球場として建設された。同球団は、昭和二十一年、「社員の慰安と士気の鼓舞を目的として」旧東京セネターズを買収、改名したもので、青パットの大下弘選手などを擁して球界に新風を吹込んだが、その後の成績は必ずしも芳しくなく、同球団強化のための球場設置が検討されていた。これがたまたま伊東市の野球場設置のニーズとマッチしたのである。

 建設場所は、伊東市西側の岡区広野地区。両サイド九十メートル、センター百三十メー トル、内外野席収容人員約五千名という規模である。着工は二十五年四月、途中、中断もあって竣工は二十六年九月となった。

「この工事では、当社ブル二台を持って行ったが、これは、牽引力はあるが押す力は弱い。そこで、もう一台、三島にあった建設省の土木技術員養成所から、進駐軍の払下げのD7というキャタピラーを借りて、造成にかかった。工事は順調に行ったが、途中で一度、施主の方から金がこなくなった。ちょうど球場の周囲のフェンスをコンクリート打ちしているところだったが、鈴木寅吉専務がやってきて、『金をくれないなら、現場を放棄 しろ』と言う。技術者としては、あとでコンクリートを打ち継ぐと、仕上がりが汚くなるので、どうしても打ち終わってしまいたい。私はとにかくやってしまったが、専務から は、『おれの命令に違反したから昇給停止だ』とひどく怒られた。造成中に、フライヤーズの安藤監督や大下選手などがやって来て大変喜んでくれた記憶もある。また、工事を視察に来られた五島慶太さんから金一封をもらったが、これが何と、みんなで一晩ドンチャン騒ぎをしても、まだ残りがあった」(安藤芳雄)。

 しかし、こうして完成した伊東温泉野球場も、東急フライヤーズのフランチャイズ球場としては十分な規模のものではなく、東急側では現在の世田谷区駒沢公園の位置する場所に別個の新たな野球場の建設を計画した。東京都ではこの地域を総合グラウンドとする計画を立てていたので、東急側では、「当社が公式野球場を建設して東京都に寄付する」という条件で、都と折衝した結果、両者間に協定が締結され、臨時建設部の事業の一環とし て、駒沢野球場を建設することが決まり、二十八年四月に工事が着工され、同年九月に竣工した。

 

「東急建設の二十五年」から引用

 例によって「今昔マップ」で確認してみると左図の空中写真に野球場が見える。現在は病院になっているようだ。

 電鉄会社の所有する球団が球場を作るのは、その沿線と相場が決まっている。近鉄バファローズなら藤井寺、南海ホークスならなんば、阪急ブレーブスなら西宮、西武ライオンズなら所沢である。東急フライヤーズも後には駒沢に作ったが、なぜ伊東なのか?

 東急ターンパイク伊豆へ でも書いたが、東急は戦後伊豆の開発に大変力を入れていた。その一環としての伊東への投資ということではないだろうか?

 球場わきを通る電車も東急系の伊豆急行である。

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 伊東スタジアムといえば、世間的には、東急フライヤーズのキャンプ地というよりは、ジャイアンツの長嶋監督時代の伊東キャンプが有名なんだろう。

 私は大洋ファンだから、関根監督の時代に始まった伊東秋季キャンプが印象深い。高木豊や屋鋪等のスーパーカートリオは、近藤監督時代に花開く前に関根監督時代に伊東で鍛えられていたのだ。月刊ホエールズで「地獄の秋季キャンプ」の様子を何度も見たものだ。

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 東急フライヤーズの本格フランチャイズとなった駒沢球場と、東京都の関係は上記ではあっさりと書かれているが、実際には東京都と東急のいくつもの癒着(渋谷地下街、砧ゴルフ場等)とあわせて物議をかもしたものである。

 「安井都政の七不思議」って結局どの七つなのか調べてみた。

 

 また、東急フライヤーズ(後に東映フライヤーズに。現:北海道日本ハムファイターズ)のオーナーは、東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2) において、「追放解除後間もなく五島慶太は、大川博東京急行電鉄専務ほか数名を欧米に派遣し、交通事情の視察を行わせた。」と出てくる「大川博」その人である。

 

(参考サイト)

BALLPARK 野球場研究所(カイリューズ様) 伊東スタジアムの頁

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/7539/yakyujosi/chubu/itou.htm

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何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

東急ターンパイクの経緯

 

東京急行電鉄50年史」626頁から引用

 皆さんご存知のとおり、東急が申請した東急ターンパイク(渋谷~江ノ島)、湘南ターンパイク(~小田原)、箱根ターンパイク(~箱根)の3つのターンパイクのうち、認可されたのは箱根ターンパイクのみである。

 自動車評論家MJブロンディこと清水草一氏は下記のように述べている。

続いて、玉川ICがなぜあんなところにあるのか、という質問ですが、もともと第三京浜は、東急グループが渋谷-江の島間に「東急ターンパイク」という名前で高速道路を建設しようとしたのが始まりです。

時は昭和29年。東急グループは、宅地・観光開発のために、非常に積極的に動いていました。箱根ターンパイクも、東急グループが観光のために建設した有料道路です。

東急ターンパイク構想は、その後建設省に横取りされてしまい、それが第三京浜となりました(仕方なく東急は田園都市線を造りました)。

 

第三京浜ってどうして安いの?玉川ICはなぜ中途半端なところにあるの?

 清水草一氏はその「横取り」の根拠は示していない。

 (その2)で引用したはまれぽの記事「1950年代に渋谷から二子玉川を経て江の島まで延びる「東急ターンパイク」という高速道路計画があったそうです。何かその痕跡が残っている場所があるかどうか気になります」では、やはり(その2)で紹介した近藤謙三郎氏の著書「一里塚」を引用している。

 その該当部分がこちらだ。

東急ターンパイクと第三京浜

 「一里塚」472頁から引用

 「東急ターンパイクを横取りして第三京浜道路にした」としているものは、多くがここを引用しているか、読みもせずに孫引きしているものと思われる。

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■第三京浜道路のルートはどのようにして決められたのか?

 近藤氏の言い分だけでなく、日本道路公団側の言い分も聞いておく必要はないのだろうか?

 「第三京浜道路工事報告」によると下記のようになっている。

第三京浜道路路線選定経緯 (1)

 第三京浜道路工事報告1-5頁から引用

第三京浜道路路線選定経緯 (2)

 第三京浜道路工事報告2-6頁から引用

 第三京浜道路はもともと中原街道の渋滞緩和のための日吉から横浜バイパス(現在の横浜新道)起点までのバイパス計画から始まっているとされている。

 それが、「京浜間の交通渋滞を一挙に解決すべく」東京都内を起点としたものとされている。

 なお、文中の「東京、小田原を結ぶ東京周辺道路」について報じる新聞記事を参考にあげておく。

東京周辺自動車道記事

 第三京浜道路のルート選定については、第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~ にも書いているのでそちらもあわせてお目通しいただけると幸いである。(下記は、「第三京浜道路調査報告書」から引用。)

第三京浜調査報告-21

※臨海高速道路とは、現在の首都高速横羽線のことである。内陸部の通過交通は第三京浜、臨海部分は横羽線とで分担する計画だったのである。

第三京浜調査報告-22第三京浜調査報告-4

 いずれにせよ、日本道路公団としては「もともと短距離のバイパスだったものが、その後玉川まで延伸された」という記録を残している。

 もし「公団が横取りした」と主張するならば、この点も紹介したうえで、自分がどちらが正しいと思ったかという根拠を述べる必要があるのではないか?(清水草一氏のように根拠も何も示さないのは論外であろう。)

 私の私見を述べるとすれば、「建設省:道路公団サイドとしては、東急ターンパイクはもともとありえないので眼中になく、既存のネットワーク等との整合を考えて自然体でルート検討を行ったらたまたま東急ターンパイクと似たようになった」ということではないだろうか?

 ※近藤氏は「東急路線とほとんど全く重複する路線を選んで横浜バイパスと名付けた」とするが、「横浜バイパス」は「横浜新道」の建設中の名称であり、第三京浜とは異なる。近藤氏が取り違えたのではないか?

横浜バイパス

 「日本道路公団5年の歩み」から引用

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■東京都も東急ターンパイクにはもろ手を上げての賛成ではなかった

 一般的に「建設省が反対した」「道路公団が横取りした」とばかり言われているのだが、地元自治体である東京都はどのような態度だったのか?

 これについては、以前、東急ターンパイクに係る東京都庁議書類 で紹介している。

 東急ターンパイクの免許申請前となる昭和28年に、4月28日に、首都建設委員会は「首都高速道路に関する計画」の勧告を発表した。

 その路線図が下記のものである。

昭和28年の首都高速道路計画図

 渋谷~玉川間については、東急ターンパイクの先に「2号玉川線」が公表され、競合していたのである。

 そのため、この免許申請については「将来高速道路網を一元的に経営する必要がある場合買収に応ずること」という条件がつけられているのだ。

 東急にとっては一番交通量が多く、東急王国の集客目的地となる渋谷に直結する区間をみすみす東京都(首都高速)に売り渡すこととなる。また、(その1)で指摘した「路下室賃貸料」も都内区間から発生するのであるから、残された区間からはほとんど賃貸収入は見込めなくなってしまう。

 斯様に、仮に建設省(日本道路公団)が東急ターンパイクを認めたとしても、東京都から召し上げられてしまう可能性が高かったと言えるのだ。

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 この他にも「世田谷区の地元が反対した」とか「そもそもターンパイクの規格は十分なものではなく、技術的な観点からも認可すべきではなかった」という記事を読んだような記憶もあるが元ネタが出てこない。また見つかれば追記したい。

(追記)

 「自動車と建築<」(堀田典裕・著)82頁に「残念ながら、地主による自動車道建設反対運動によって、東急田園都市線に取り換えられ、渋谷-玉川間は高架でなく地下に埋設されることになった。」とあった。なんか違和感があるなあ。ちなみに堀田氏はその論拠を示していない。

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東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

■何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

(参考)

箱根ターンパイクがNEXCO中日本に買収されて子会社になっていた

東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった

「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があった

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)

東急ターンパイクに係る東京都庁議書類

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東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

 (その1)では、東急ターンパイクの実際の書類について紹介した。

 この頁では、五島の計画は渋谷~箱根間にとどまるものではないということをご紹介したい。

 

 ところで、ここで我々は、五島の言う専業建設会社という概念の中に、いままで辿ってきたのとは別の、「道路会社」というイメージがあったことについて、振りかえっておかなければならない。

 五島は、鉄道事業を営むものとして、早くから道路に対する強い関心を持っていた。しかもその構想は雄大であった

 東京建設工業の取締役経理課長だった千葉胤比古は、「私が東京建設工業に入社する二十二年六月以前のことだが、その頃からすでに、五島さんは『弾丸道路』を作って自動車を走らせる構想を持っていた。五島さんはこの計画のため、マッカーサー司令部に出す申請書を作っており、英文ができたので、私に、校正を手伝わせた」と語っているし、また、 同じく東京建設工業時代から土木分野で働いた佐々木静も、「私も『弾丸道路』の計画地図を見た。私が入社したのは昭和二十一年の十一月だが、そのときはもう計画はできていた」と言う。

東急建設の二十五年」から引用

 五島が東急建設を設立した際のエピソードを引用したが、これは東急が弾丸道路を建設する道路会社をイメージしていたものだというのである。その弾丸道路とは何かをおさらいしてみると

戦前の高速道路計画網

 『日本道路公団二十年史』によれば、この「弾丸道路」という名称は、昭和十五年頃からあったようである。当時の内務省は、北は樺太・北海道から、南は九州・長崎へ達する総延長五千四百五十キロメートルに及ぶ全国的自動車国道網計画を検討していたが、その結果、「東京ー神戸間を最優先区間として、更に詳しい調査を行うため、十八年から『国道建設調査』という名で正式に調査が行われることとなった。この調査は、翌年の十九年まで続き、ルートの選定・踏査、千分の一地形測量、設計等が行われた」。この東京-神戸間の自動車国道が「弾丸道路」と俗称されていたのであった。

 昭和十九年と言えば、五島慶太が運輸通信大臣をつとめていた年である。この大計画を知らないはずはなく、千葉や佐々木が見たという計画地図は、この時作成されたものではなかったかと推定される。五島は、終戦によって国が放り出したこの大計画を、場合によれば自分が取上げて実現しようと考えたのであろう

 こうした五島が、東京建設工業を設立した時、道路建設事業を念頭に置かないはずがない。事実、当時の社員のうちには、五島の「道路会社になる」という言葉を耳にしたものが少なくなかった。

 

「東急建設の二十五年」から引用

 戦前から戦後直後にかけての高速道路の調査については、以前、清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)にまとめたのであわせてご参照いただきたい。

 また、この間もバスによる東海道連絡についても五島東急は構想していたのである。

東京神戸弾丸バス

(昭和22年4月29日付読売新聞)

 上記の記事からするとバス計画が世に出た昭和22年当時には弾丸道路についても「そのときはもう計画はできていた」のであり、五島東急は高速道路と長距離バスを同時並行で進めていたことになる。

 だが、戦後の経済事情と公職追放は、五島の野望を挫き、その間に建設省は、しばらく捨てて置かれた「東京神戸間高速道路調査」を再開した。調査の予算がついたのは昭和二十六年からである。おそらく、この追放期間中のことであろうが五島の許へ、日本中に有料高速道路網を建設する必要を各方面に説得するため奔走していた近藤謙三郎(のち当社取締役、東急道路株式会社社長)が、阪神急行電鉄元社長小林一三から、「道路をやるなら五島慶太だ」と言って、紹介されてきた。近藤は、東京帝国大学土木科卒、東京市道路 局出身の根っからの道路マンであり、戦時中満州国政府の土木分野で働き、引揚げ後、全国道路利用者会議事務局長として、活躍した人物である。

 

「東急建設の二十五年」から引用

 「近藤謙三郎」と言えば、杉並区阿佐谷北の「トトロの家」のもともとの持ち主でもある。

トトロの家

 以前、「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があったで近藤氏については取り上げている。

 近藤の記すところによると、この時の二人の話合いは、五島が鉄道マンらしく、「トン キロ、人キロ」で話をするのに対し、近藤が「車キロ」で話すというように食違ったまま終わったようだが、追放解除後間もなく五島慶太は、大川博東京急行電鉄専務ほか数名を欧米に派遣し、交通事情の視察を行わせた。彼らの帰朝報告は、「いずれ、わが国においても自動車の発達、観光地の広域化が進み、ターンパイクが将来性のある事業となるであ ろう」というものであった。

 ターンパイクとは、英国の馬車専用道路の出入口に備えられた横木のことで、転じて自動車専用道路の意味だが、この新しい言葉は、東海道弾丸道路の夢を捨てていなかった五島の心をとらえ、その手始めとして、まず、これを城西南開発計画と結びつけることを考えた。彼は、社内にターンパイクの検討を指示する一方、建設省関係の知人にも相談したらしい。話は、そのルートで、前記の近藤謙三郎のところへ回ってきた。近藤は再び五島 に会う。

 「五島老はいった。『湘南鉄道は東海道本線の隘路のために交通需要を満たすことができない。これを救うために渋谷から鎌倉まで自動車道路を造りたい。バス運営の黒字で補うならば何とか算盤に合うと思うが、お前はどう思うか』私は答えた『計画さえ正しければバス経営の援けはなくとも必ず算盤に合います』と。彼はまた問うた。『この出願は免許になると思うか、どうか』と。私は答えた『国民のためになると認めたら、免許しなければならんと法律に書いてある。だから免許になると思います』と」。その後間もなく、近藤は、東京急行電鉄の顧問に迎えられ、道路問題についてのアドバイスを行うことになった。

 

「東急建設の二十五年」から引用

 そして昭和29年3月に道路運送法に基づく一般自動車道の免許申請書を提出したのは(その1)に記したとおりである。

 三十一年一月、五島慶太は、この三つのターンパイクだけではなく、いまだに自らの手で弾丸道路を建設する構想を捨てていなかった。 「私は、我が国の現状に鑑み、早くから高速道路網の建設を念願しておりますが、その一環として、当社の手によって東京-神戸間のターンパイクロードを計画中であります。 ・・・・・・本計画の完成には、数百億という莫大な資金を要する国家的大事業でありますが、これらの資金については何ら心配するに当らないと思います。・・・・・・採算のとれる事業であれば百億や、二、三百億の資金は立ちどころに集って来るのであります」

 

「東急建設の二十五年」から引用

 と、渋谷~箱根間にとどまらない意欲を持っていたことが分かる。

東急ターンパイク伊豆へ

 「東京急行電鉄50年史」によると、伊豆半島開発においても伊豆急電鉄よりもむしろターンパイクを延長した自動車専用道路による開発を先行して検討していたことが分かるのである。

 

東急ターンパイク免許申請書 (19)

 交通経済1955年1月号から引用

 業界誌の新春対談の大見出しが「高速道路に邁進」なんである。この力の入れっぷり。

本社 併しこのターンパイクというのはできるんですか。

五島 できるよ、こんなもの。(全く自信満々というところ)

本社 一般では本当にできるかどうか非常にあやぶんでいると思うんですが・・・・・・。

五島 あやぶむほうがおかしい。頭がないんだよ。戸塚の専用道路(※引用者注:横浜新道戸塚支線、いわゆる「ワンマン道路」と思われる。)までは、これは93億かかるが、これはすぐやるよ。免許さえ受ければすぐやっちまう。戸塚までが一番儲かる。

本社 では資金の見通しは極めて楽観されておるわけですね。

五島 それは160億借金しなければできんけれども、あそこの専用道路までは93億、そんなものは君、何でもないんだよ。160億はちょっとすぐできない。これは外資導入をしようと思っている。今の愛知用水、佐久間ダム、皆そうだ。あれと同じような恰好で、向うの請負人に請負わせて、向うの請負人が地方銀行から借りるんだ。政府保証なんというものは面倒でしようがないからね。向うの請負人が地方銀行から借りるんだ。千万ドルで幾らだ。

本社 36億・・・・・・。

五島 その半分ぐらいはすぐできるよ。地方銀行で・・・・・・。

本社 貸してくれるというわけですね。

五島 向うの相当な請負人。佐久間ダムと愛知用水はアトキンソンだが、こっちは今トメラーという会社と相談しているがね。サンフランシスコのトメラーという請負会社と相談して、トメラーで借りてくれるよ

 

交通経済1955年1月号23頁から引用

 国道愛好家の松波成行氏は、はまれぽの「1950年代に渋谷から二子玉川を経て江の島まで延びる「東急ターンパイク」という高速道路計画があったそうです。何かその痕跡が残っている場所があるかどうか気になります」という記事において、英文による東急ターンパイクの資料を示し、「残念ながら提出先は不明ですが、英文で書かれているところから、外資系企業に向けてのものだったのではないかと推測されます」と述べているが、上記の五島会長の談によると外資導入に向けての米国建設会社との協議資料だった可能性が高いのではないか?

本社 (略)面も東海バスなんかも合併したいという以降もあるような話も聞いたんですが、伊豆半島というものに対しては相当やはり熱意を以てやられる予定ですか。

五島 そうそう。あれを見てくれ。(会長室の壁には東京から伊豆半島までの大きな地図が張られ、赤線で新計画のターンパイクが書きこまれている。)渋谷から箱根峠まで出願して、箱根峠から向うはいず開発のスカイライン、分水嶺を通って88キロある。これが25億かかる。箱根峠までに160億かかる。ということで、こんなものはすぐできるよ。一番楽なのは藤沢までだ。あそこまで先ずやって、それからあと小田原から箱根峠までが第二期工事で、これをやってみて、熱海専用道路までやってみて、あれから向うの88キロはちょっと考えるよ。あそこまでは一番先にやる。これは間違いなく算盤がとれるんだ。

本社 そうすると、伊豆半島そのものの開発ということはその次のわけですね。

五島 その次だけれども、伊豆半島の開発というものは国家的の問題で、これだけのものを、あそこの88キロ作ってから、ずっと天城から遠笠山まで行くが、この専用道路を作って見たまえ、ここはいつも1日か2日外人が行くのを認めるよ、2日にしたらどれくらい金を落とすか、国民のためだな、少なくとも1日に3万や5万は落としていくな、日本の金で・・・・・・。併しこれを一つ足を長くすれば10万は落とすよ、それだけのものを何人来るか知らんがみんな落とすんだから、どうしても伊豆の開発というものは実につまらんことだけれども、国家的に考えればこれはどうしても作らなければならない。(略)

 

交通経済1955年1月号24頁から引用

 その後、東急は鉄道新線敷設に切り替えていくのであるが、その経緯は下記のようなものである。

東急ターンパイクと田園都市線

 「東京急行電鉄50年史」447頁から引用

 まあ実際には、箱根ターンパイク部分にしか免許が下りなかったわけだが、その辺を(その3)で追ってみたい。

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東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

(参考)

箱根ターンパイクがNEXCO中日本に買収されて子会社になっていた

東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった

「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があった

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)

東急ターンパイクに係る東京都庁議書類

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東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

 東急ターンパイクといえば、今やNEXCO中日本の子会社となってしまった箱根ターンパイクと加えて、渋谷~江ノ島~小田原~箱根と結ぶ計画であった東急の有料道路である。

 そのうち渋谷~江ノ島について、運輸大臣及び建設大臣あての免許申請書を某図書館から発掘したのでご紹介したい。また、おって私なりの考察をその2その3で加えてみたい。

東急ターンパイク免許申請書 (1)

東急ターンパイク免許申請書 (2)

 この資料では日付等は入っていない。

 こうして、昭和29年3月、東京急行電鉄は、「国道1号線の混雑緩和を図ると同時に、城西地区の幹線道路とするため、渋谷-江ノ島間自動車専用道路(東急ターンパイク)を建設することとし、道路運送法に基づく自動車道事業経営免許申請書を運輸大臣・建設大臣あてにそれぞれ提出した。続いて、同年8月23日、富士箱根伊豆国立公園への観光ルート開発を目的として、小田原-箱根峠間(箱根ターンパイク)、ⅲ2年8月26日に藤沢-小田原間(湘南ターンパイク)の免許申請を行なった」。

 

東急建設の二十五年」から引用

東急ターンパイク免許申請書 (3)

東急ターンパイク免許申請書 (4)

 インターチェンジ(使用料金徴収所)の場所が明確に分かる。

 下に示すのは、「道路」1957年5月号「東急ターンパイクについて(その1)」東急電鉄KK道路課に掲載された梶ヶ谷料金所の図面である。

東急ターンパイク 梶ヶ谷インターチェンジ

東急ターンパイク免許申請書 (5)

東急ターンパイク免許申請書 (6)

東急ターンパイク免許申請書 (7)

 南横浜料金所は戸塚区平戸で国道1号と接続するということか。

東急ターンパイク免許申請書 (9)_stitch

 申請理由では、壮大な理念を述べている。

東急ターンパイク免許申請書 (10)

東急ターンパイク免許申請書 (11)

 都内区間は高架で神奈川県内は盛土ということかな?また、料金の単価も示されている。

 添付書類については抜粋してお見せしたい。

東急ターンパイク免許申請書 (13)

 路線図である。バス停の位置を明確にしている資料は見かけたことは無いぞ。

東急ターンパイク免許申請書 (14)

東急ターンパイク免許申請書 (15)

 収支見積の抜粋である。13年目の昭和44年度で単年度黒字となり、17年目の昭和48年度で累損解消との予定となっている。

 また、収入の約1割を「路下室賃貸料」つまり高架下建築による賃貸料を見込んでいることも注目すべきだ。「路下室」については別に紹介してみた

東急ターンパイク免許申請書 (20)

東急ターンパイク免許申請書 (16)

 IC間の車種毎の交通量の見込みである。IC間の距離も分かる。

東急ターンパイク免許申請書 (17)

 路線バスの計画である。

 1 渋谷-玉川 80往復

 2 渋谷-野沢 40往復

 3 渋谷-梶ヶ谷 20往復

 4 渋谷-西横浜 60往復

 5 渋谷-江ノ島 6往復

 6 渋谷-小田原 10往復

 等の渋谷(東急プラザがあった場所がバスターミナルとなるはずだった)を起点にする路線バスが計画されていた他、区間路線も予定されていたようだ。

渋谷駅 2階

 ※上図のみ、「汎交通」1958年5月号に掲載された「渋谷周辺の交通事情と東急の計画」(馬淵寅雄 東急電鉄常務取締役・著)から引用。

東急ターンパイク免許申請書 (18)

 IC間の車種別交通量とその収入だ。

 

 次いで(その2)では、東急五島慶太氏の自動車道構想の全体像について触れてみたい。

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■東京江之島間有料専用道路申請書が出て来た~東急ターンパイクの考察(その1)

東急五島慶太の自動車道計画の全貌~東急ターンパイクの考察(その2)

何故に東急ターンパイクの免許は認可されなかったのか~東急ターンパイクの考察(その3)

(参考)

箱根ターンパイクがNEXCO中日本に買収されて子会社になっていた

東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった

「トトロの住む家」が本社だった高速道路会社があった

第三京浜道路調査報告書を読む~玉川ICは、何故そこにあるのか?~

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)

東急ターンパイクに係る東京都庁議書類

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2016年4月 3日 (日)

バスタ新宿は国道20号そのもの?~立体道路制度の活用~

 バスタ新宿が4月4日に開業する。

 ところで、バスタ新宿の記者発表は国土交通省東京国道事務所が行っており、そのタイトルには国道20号の「おにぎり」が付けられている。

バスタ新宿は国道20号

 バスタ新宿は、国道20号(甲州街道)から分岐しているから?そうではなく、バスタ新宿自体が国道20号なのである。(多分。当日官報告示されたら確認するので確定はちょい待ち。)

 →オープン当日の官報で確認したら間違いなし!

 →https://kanpou.npb.go.jp/20160404/20160404h06748/20160404h067480008f.html

 バスタ新宿は「立体道路制度」を活用しているのだ。

 立体道路制度とは、ざくっというと、道路法の「道路内私権制限」と建築基準法の「道路内建築制限」を規制緩和して道路と建物を共存させる制度だ。

 詳しくは、国交省のサイトへ→http://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/ppp/kenkyu/pdf04/6.pdf

 立体道路第一号で有名なやつが阪神高速の梅田出口ランプだ。

阪神高速梅田出口立体道路 (2)

(詳しくは→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2011/01/post-2128.html

 バスタ新宿は、立体道路制度を利用して、JRの線路の上のうち進入路とバスターミナル等がある3階、4階だけを道路法の道路としたもの。そのため、道路財源を活用した旧建設省系の東京国道事務所の事業となっている。バスだからといって旧運輸省系の事業ではないのだ。

バスタ新宿と立体道路

https://www.hido.or.jp/study/files/pdf/application_02.pdf から引用。赤線は引用者が追記。

 

 東京国道事務所の記者発表資料から引用すると、下記【立面図】の赤線部分が「立体的な道路区域=国道20号そのもの」となるのだろう。(東京国道事務所で関係図面を閲覧して来れば確定できるが、趣味で本職の方の手を煩わせるのは本意ではないのでそこまではやる気なし。)

バスタ新宿は国道20号2

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 ところで、立体道路を活用したバスターミナルというと、大阪の湊町にあるOCATが印象的だ。

OCAT 立体道路

 ビルに入る直前にETCアンテナのガントリーがあるあたりが高速道路感が溢れていて猶更よいものとなっている。

下図のハッチの部分が道路(阪神高速道路)区域となる。

OCAT 立体道路

(財)道路空間高度化機構の「立体道路事例集」42頁から引用(御覧になりたい方は日比谷図書館で閲覧できますので是非。)

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 また、立体道路制度を活用した駅と道路の交通結節点ということであれば、JR小倉駅と北九州モノレールの関係も素敵だ。

小倉モノレール 立体道路

 以前の記事でも書いたが、都市モノレールのインフラ部分(橋脚等)は、道路法上の道路なので、JR小倉駅の中に「モノレール=道路区域」が設定されている。

小倉モノレールと小倉駅の道路区域(立体道路)

 (財)道路空間高度化機構の「立体道路事例集」115頁から引用

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 立体道路からは離れるが、渋谷の幻のバスターミナルということで「東急プラザは東急ターンパイクのバスターミナルになるはずだった」という記事を書いたこともある。

渋谷駅 2階

「汎交通」1958年5月号「渋谷周辺の交通事情と東急の計画」(馬淵寅雄 東急電鉄常務取締役・著)から引用

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 バスタ新宿関係の記事では、以前「【暗渠】玉川上水と新宿駅南口地区の開発について(その1)」という記事を書いた。

 バスタ新宿下には、もともと玉川上水が走っており、今回の工事に先立ち、移設しているのだ。

新宿駅南口地区基盤整備事業と玉川上水 (2)

 上図は、「日本鉄道施設協会誌」2008年1月号「新宿駅南口地区基盤整備事業に伴う玉川上水用地処理」森重達美、佐藤英明、柴田勇・共著(いずれもJR東日本東京工事事務所契約用地課)から引用のうえ加筆したもの。

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 また、バスタ新宿の下には、上越新幹線新宿駅ができるはずだった。(高島屋タイムズスクエアの下にあらず。)

 その辺は「上越新幹線新宿駅(地下3階)構想を図面で現認する (玉川上水と新宿駅南口地区の開発について・超番外編その3)」や「上越新幹線新宿駅は実際のところどうなっているのか? (玉川上水と新宿駅南口地区の開発について・超番外編その7)」あたりを見ていただければ幸いである。

 バスタ新宿の工事に伴い、上越新幹線新宿駅がどのように考慮されていたかが気になる方もいらっしゃるだろうが、筆者の考えは消極的で「今回の工事で新幹線駅はもう作れなくなったのではないか」というところである。

上越新幹線新宿駅位置図

「新宿駅貨物敷活用基本構想」から引用のうえ赤線を加筆したもの

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 ところで新幹線新宿駅といえば、往時の国鉄の「大新宿駅構想」であるが、「交通技術」1975年4月号「新宿副都心総合整備計画の概要」にバスタ新宿とJR新宿ミライナタワーのような絵面が見て取れる。

バスタ新宿とJR新宿ミライナタワーの前身?

そういう意味では40年前からの構想がようやく実現したということか。

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2015年5月17日 (日)

清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)

 今まで述べたことをおさらいするために年表にしてみた。

■おさらい

 

内務省・建設省

日本道路公団

東京都

首都高速道路公団

その他

1940年

昭和15年

「重要道路調査」を実施

石川栄耀「大東京地方計画と高速度自動車道路」

 

1941年

昭和16年

 

 

石川栄耀「高速度道路と國土防衞」

1942年

昭和17年

 

 

 

1943年

昭和18年

「自動車国道計画」を策定(東海道ルートあり)

 

 

1944年

昭和19年

 

 

 

1945年

昭和20年

 

 

 

1946年

昭和21年

 

 

 

1947年

昭和22年

 

 

 

1948年

昭和23年

 

 

 

1949年

昭和24年

 

 

「国土計画展覧会」で田中清一が縦貫道計画(田中プラン)を披露

1950年

昭和25年

 

 

「スカイウェイ構想」

1951年

昭和26年

東京神戸間高速道路調査再開

 

 

1952年

昭和27年

 

 

東京高速道路株式会社に一般自動車道免許

1953年

昭和28年

「弾丸道路着工」の新聞報道

首都建設委員会「首都高速道路に関する計画」(2号玉川線が東海道高速道路と接続)

 

1954年

昭和29年

建設省が「東京・神戸間高速有料道路建設計画概要書」取りまとめ(東海道ルート)

 

東急ターンパイク及び箱根ターンパイク一般自動車道免許申請

東京高速道路につき国会で審議

1955年

昭和30年

国土開発縦貫自動車道法提案も廃案

 

 

1956年

昭和31年

日本道路公団設立

ワトキンス調査団来日

 

 

1957年

昭和32年

国土開発縦貫自動車道法公布(中央道南アルプスルート)

名神高速道路施行命令

建設省「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」策定(首都高は概ね環状6号ま で)

湘南ターンパイク一般自動車道免許申請

1958年

昭和33年

第三京浜道路調査(菊名バイパス)開始

 

首都圏整備委員会「都市高速道路整備計画」を策定

産業計画会議「高速自動車道路についての勧告」

1959年

昭和34年

東京高速道路(戸越~汐留)着工→後に首都高へ引き継ぎ(2号線)

首都高速道路公団設立

東京オリンピック開催決定

1960年

昭和35年

「第三京浜道路調査報告書」

「中央道・東名論争」

中央自動車道の予定路線を定める法律・東海道幹線自動車国道建設法公布

「東京都市高速道路調査報告書」(3号線は第三京浜へ)

 

1961年

昭和36年

第三京浜道路に有料道路事業許可

東京都道路整備10ケ年計画(3号線は第三京浜へ)

東急ターンパイク申請取り下げ

1962年

昭和37年

東海道幹線自動車国道建設法施行令施行

(東名は渋谷起点)

東名高速初の施行命令

首都高速道路初の開通

「首都高速道路と都市間幹線道路との連絡に関する研究」(2号線は第二京浜を西へ、 3号線は東名へ、9号線が第三京浜へ)、

 

1963年

昭和38年

名神高速道路初の開通

2号線の第二京浜方面延伸及び9号線の第三京浜方面への延伸を割愛

 

1964年

昭和39年

国土開発縦貫自動車道法改正(中央道は諏訪回りルートへ)

第三京浜(玉川~川崎)開通

「羽田横浜高速道路建設計画」(3号線の延伸が城南線として東名と第三京浜の中間 へ)

東京オリンピック開催

1965年

昭和40年

第三京浜全線開通

 

 

1966年

昭和41年

東海道幹線自動車国道建設法施行令の廃止(高速自動車国道の路線を指定する政令に統 合され、起点は渋谷区から世田谷区へ変更)

 

東京高速道路株式会社線全通

1967年

昭和42年

中央高速道路初の開通

 

 

1968年

昭和43年

東名高速道路初の開通

第二次基本計画(2号線は第三京浜へ、3号線は東名へ)

 

 

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【参考文献】

道路」国会図書館にて閲覧

第三京浜道路調査報告書」川崎市立図書館にて閲覧

第三京浜道路工事報告」神奈川県立図書館にて閲覧

「東京都市高速道路調査報告書」首都大図書館にて閲覧

首都高速道路と都市間幹線道路との連絡に関する研究」東京都立図書館にて閲覧

首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」東京都立図書館にて閲覧

羽田横浜高速道路建設計画に関する資料-世界銀行提出」川崎市立図書館にて閲覧

時の流れ・都市の流れ」首都大図書館にて閲覧

東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」東京都立図書館にて閲覧

「東京・神戸間 高速自動車国道計画図」早大大学史資料センターにて閲覧

「伸びゆく首都高速道路」早大大学史資料センターにて閲覧

日本道路協会五十年史」東京都立図書館にて閲覧

道を拓く 高速道路と私」古書店にて購入

著者の肩書は、それぞれ文献公開当時のものである。

(古書購入費とコピー費と交通費で1万円くらいかかっとんのとちゃうか。。。)

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清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)

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清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)

 清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察を続ける。

1950年代、まだ日本の道路は恐ろしいほど貧しく、長距離輸送は旅客・運輸ともに鉄道が主役。東京~名古屋間をクルマで移動するなど夢物語でした。当時の自動車交通にとって、それよりはるかに重要なのは近距離移動。たとえば東京~横浜間でした。第三京浜はそこを強化するため東名より先に計画され、完成は東名より4年早い1965(昭和40)年です。よって第三京浜が3号渋谷線との接続を想定していたとしても、不思議はありません。

 

清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用

 

■第三京浜は東名より先に計画されていたのか?

 

 東名高速道路の計画は戦前から行われ、1953(昭和28)には、既に首都高速と接続する計画が公表されていた。

 他方、第三京浜道路の計画着手は1958(昭和33)年である。

第三京浜道路 菊名バイパスとして計画に着手

 第三京浜道路工事報告「第2節 着工までの経緯」1-5頁から引用

 

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■第三京浜は当初東名高速の一部だったのか?

 

 ちょっと脇道に逸れてみる。

 

国道研究家の松波さんはこう指摘する。

「第三京浜の工事記録である『第三京浜道路工事報告』によると、第三京浜は当初、東名高速の一部として考えられていました。東名高速の起点は玉川で、そこまでは首都高速がつなぐ構想でした」

「しかし東名のルートは最終的に、横浜経由ではなく厚木経由に決まり、用賀が起点となりました。首都高 も用賀へ向かい、その結果、本来東名の一部になるはずだった第三京浜が中途半端な道路となったのです」

東急ターンパイク計画の浮上で下火になっていた高速道路構想を、建設省がターンパイクつぶしのために蒸し返した。しかし急ごしらえで仕立て上げた第三京浜計画は結局、東名高速のルートとはならず、中途半端な状態で実現してしまった――。これが真相ではないか。そしてそのどちらにも近藤氏がかかわっていた。

 

「田園都市線のルーツは高速道路 東急、幻の計画」河尻定

2013/2/1 6:30 日本経済新聞 電子版

 

http://image02w.seesaawiki.jp/w/t/wkmt/a5a8a3790ee6d63e.pdfにUPされている。

 

第三京浜道路工事報告「第2節 着工までの経緯」1-6頁に下記の表記がある。

第三京浜建設誌から東名との関連部分

 

 この表記から「もともと東名高速は第三京浜を延長するはずだった」と考える人がいると推測しているのだが、ここだけ読んでいたのでは十分な理解には至らないのである。

 前述のように、1953(昭和28)年の段階で、東名高速は現在のルートで工事着工が新聞報道されるレベルであったのに、「なぜ1958(昭和33)年に計画を開始した第三京浜の延伸を東名高速の案として検討する必要があったのか?」というスタートの部分が第三京浜道路建設誌には書いていない。

 「道を拓く 高速道路と私」から『世銀借款交渉の日々』斎藤義治(元建設省高速道路課長:先の「道路」1961年11月号「東海道幹線自動車国道の計画について」の著者でもある。)著 153~154頁から引用する。

第三京浜と東名の関係

 

 先に青木一男氏が「東海道が交通渋滞して困るのならば、バイパスを建設してこれに対処すればよい」と述べていたのをご記憶だろうか?

 「建設省は、本当は既に調査が進んでいた東名をやりたいのだけど、中央道との論争の結果次第で東名に着工できない場合を想定して、第三京浜経由でも東海道の交通量増加に対処できるように手は打ってあった。そのためにも玉川ICは首都高速と接続できるよう対策しておいた。」ということであろう。あくまでも「場合によっては」という位置づけであったことを見落としてはならないのである。

 

東京周辺自動車道記事

 

 1960(昭和35)年2月27日付朝日新聞に「東京周辺自動車道は第三京浜道路終点の横浜から小田原方面に通る道で、公団は現在の東海道1号国道の北側を予定しているが、国会で問題化している東海道第二国道建設問題にからむのでルートの公表を避けている」との記事が報じられている。ここの部分が斎藤義治の著述と整合性がとれるのである。

 それが、「中央道対東名」の対決は同時着工で収束し、1960(昭和35)年7月に「東海道幹線自動車国道建設法」が成立したために、もうそんな備えが必要なくなったのであろう。

 

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第三京浜建設誌から東名との関連部分

 

 ちなみに「山手案」があれば「海岸案」があるのだが、それにご関心の方は、「産業計画会議第3次勧告「高速自動車道路についての勧告」 http://criepi.denken.or.jp/intro/matsunaga/recom/recom_03.pdf にお目通しいただきたい。

(松波さん、この辺は落ち着いたら是非一献やりましょうw)

 

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清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)

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清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)

 清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察を続けていこう。

 首都高3号線は結局、東名高速と接続されていますが、この第三京浜が計画された段階では、東名の計画はまだはっきりしていませんでした。

 

  というのも、戦後の都市間高速道路の計画において、まず構想されたのは東名ではなく中央道だったからです。計画された当初の中央道は、現在建設中のリニア中央新幹線とほぼ同じ南アルプス縦貫ルートが想定され、東京~名古屋間を最短距離で結ぼうと考えられました。そしてこれが実現した場合、東名は建設されないはずでした。

 

清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用

 

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■「戦後の都市間高速道路計画」はともかく、「戦前の都市間高速道路計画」で東海道路線を検討したことには触れなくてよいのだろうか?

 

 まずは、戦前から東名、中央道の計画が定まるまでの経緯を概括してみる。

斎藤義治_東海島幹線自動車国道の計画について

 「道路」1961年11月号「東海道幹線自動車国道の計画について」斎藤義治(日本道路公団計画部長)著854頁から引用

 

 戦前の高速道路計画はどのようなものだったのだろうか?

 昭和15年8月、時の近衛内閣は「基本国策要綱」の中で「日満支を通ずる総合国力の発展を目標とする国土計画の確立」を掲げ、わが国で初めて国土計画の必要性を述べた。昭和15年9月になると「国土計画設定要綱」が閣議決定され、続く昭和17年には「大東亜国土計画大綱素案」が策定された。この中では、共栄圏内の資源開発や物流、諸民族の生活向上が目標とされた。この様な中、内務省土木局は、昭和15年に「重要道路調査」を実施し、その成果として「自動車国道計画」を策定した(昭和18年)。本計画は、当時の国土計画上の重要拠点を設計速度120kmの高規格な道路で結び、中国や韓国等への連絡を志向した路線設定となっていた。 

 

戦前の高速道路計画網

JICE REPORT vol.5「高規格幹線道路網に係る国家政策の歴史的変遷」瀬尾卓也・島村喜一・丸山大輔著 http://www.jice.or.jp/report/pdf05/jice_rpt05_04.pdf23頁から引用

 上記の図からも東名高速道路に相当するような東海道を通る自動車国道の計画が戦前にあったことが分かる。

 

※戦前の道路政策全般については http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/1998/18-0123.pdf が詳しい。

 

 戦前に計画された東名高速道路相当区間のルートはどのようなものだったのだろうか?

片平信貴 戦前の東名高速調査に係るルート

「道路」1963年8月号「名神高速道路の一部完成までをかえりみて」片平信貴(日本道路公団高速道路第一部長)著から引用

http://www.katahira.co.jp/archives/img/mr_k_1_1.pdf

 

 「二級国道の東京沼津線」とは、現在の国道246号である。中目黒からR246へ抜けるということであれば、首都高速2号目黒線がそのまま東名高速道路に接続するようなものだったのだろうか?

 

 そして、戦後の調査状況はどうだったのか?

 前述の斎藤氏の報文では「昭和26年度より東京・神戸間の高速道路の本格的な調査を再開」とある。

三国国道新路線と高速度自動車道路計画について (1)

 「玉川田賀町」起点とあるが「玉川用賀町」の誤植だろうか?

三国国道新路線と高速度自動車道路計画について (2)

 東京~沼津間は、1951(昭和26)年時点で、現在のルートと大差ないようだ。

「道路」1951年7月号「三国国道新路線と高速度自動車道路計画について」松本  正雄(建設省関東地方建設局企画課長)著 226及び229頁から引用

 

 その後の経過がうかがえる新聞報道を紹介しよう。

弾丸道路東京御殿場間S28着工へ

1953(昭和28)年1月18日朝日新聞

 

弾丸道路スタートはしたが

1953(昭和28)年1月29日朝日新聞

 

 記事を見るとおおむね現在の東名・名神と同じルートのようだ。

 第三京浜道路の計画が始まったのは1958(昭和33)年であるから、「第三京浜が計画された段階では、東名の計画はまだはっきりしていませんでした」と言い切れるものだろうか。もっとも「実際には着工できていないし、こんな紙上の計画は、はっきりしたものというレベルじゃないのだ」と言ってしまえばそこまでかもしれないが。清水草一氏が何をもって「はっきりしていません」とするのか論拠を挙げていただけると「はっきり」するかもしれないが。

 

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■1953(昭和28)年の首都高速道路2号玉川線~東海道自動車道の接続構想

 

 前掲の1953(昭和28)年1月18日朝日新聞の記事の末尾に注目してほしい。「起点から都心への路線設定は目下首都建設委員会で研究しており」とある。

 同年4月28日に、首都建設委員会は「首都高速道路に関する計画」の勧告を発表した。

 その路線図が下記のものである。

 そこには、永田町から玉川へ延びる「2号玉川線」が設定されており、「東海道高速道路(中略)へ連絡せしめるよう策定した」とある。

 なお、この段階では第三京浜道路は計画にも着手していない。東急ターンパイクが道路運送法に基づき免許申請したのはこの後の1954(昭和29)年3月である。

昭和28年の首都高速道路計画図

昭和28年の首都高計画

 

「道路」1954年1月号「都市に於ける高速道路計画について」町田保(首都建設委員会事務局長)著7~8頁から引用

昭和28年の首都高速道路網図

(私が見やすいように路線を着色したもの)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/28-7e37.html

 第三京浜の計画開始(1958年)よりも東急ターンパイクの免許申請(1954年)よりも、首都高と東名高速道路が直結した計画が先行(1953年)していたわけである。

 

しかし、その構想は一旦消えてしまったようだ。

首都高速道路の計画と設計思想

土木計画学研究・論文集No2「首都高速道路の計画と設計思想」篠原修(建設省土木研究所主任研究員)著 40頁から引用

http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00041/1985/02-0037.pdf

近藤=近藤謙三郎氏、石川=石川栄耀氏

 

「東海道高速道路を二子玉川まで迎えにいっている(この点が後の計画では不明瞭となり、設計思想上の混乱を引き起こすこととなる)。」とあるが、何故不明瞭になり、設計思想上の混乱とは具体的にどのようなものだったのだろうか。教えてMJブロンディ!

 

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清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(2)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(3)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(4)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(5)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(6)
清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(7)

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清水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)

  2015(平成27)年4月5日付けで、乗りものニュース「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」清水草一(首都高研究家)著
http://trafficnews.jp/post/39257/
http://megalodon.jp/2015-0517-1117-15/trafficnews.jp/post/39257/2/
というレポートがネット上に発表されたので、私なりに調べた事、考えた事を述べて行きたい。

東名に相手を取られた第三京浜

 そもそも第三京浜は、なぜある意味中途半端な玉川ICが終点なのでしょう。

 建設当時の記録から読み取れることは、当初から玉川ICは暫定的な終点で、「そのへんにしておけば、あとあと都合がよかろう」という意図だった、ということです。具体的には、「いずれ首都高3号渋谷線との接続に好適」ということでした。

 

清水草一氏「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」から引用

 ところで清水草一氏は以前はこう言っていた。

続いて、玉川ICがなぜあんなところにあるのか、という質問ですが、もともと第三京浜は、東急グループが渋谷-江の島間に「東急ターンパイク」という名前で高速道路を建設しようとしたのが始まりです。

時は昭和29年。東急グループは、宅地・観光開発のために、非常に積極的に動いていました。箱根ターンパイクも、東急グループが観光のために建設した有料道路です。

東急ターンパイク構想は、その後建設省に横取りされてしまい、それが第三京浜となりました(仕方なく東急は田園都市線を造りました)

起点が玉川なのは、「暫定的に」という意味合いが強かったのだと私は推定しています。

実際、首都高2号線は、昭和30年代までは第三京浜まで延長される構想でした。その後沿道の宅地化が非常に進み、まったく不可能となって、現状のまま取り残されたような形です。

ただ、首都高2号線は、当初は第2京浜(国道1号線)上に延長する構想もあったようで、そのあたりははっきりしません

さらなる歴史の掘り起こしが必要だなぁ、と思ってます。

 

オートックワン 教えてMJブロンディ 「第三京浜ってどうして安いの?玉川ICはなぜ中途半端なところにあるの?」

http://autoc-one.jp/word/691238/

 

 この間に「歴史の掘り起し」が進まれたようだ。

 ちなみに、この両記事の間に、「第三京浜は首都高3号線と結ぶ計画があった」ということを言いだしたのは、私の知る限りでは、私のブログくらいしか無いと思う。清水草一氏が「読み取」ったという「建設当時の記録」とは何なのか?「私も是非読みたいので件名だけでもご開示いただけないかなー」と思う次第である。

 

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■当初は、第三京浜は自力で渋谷方面へ向かうはずだった。

 

昭和33年10月31日衆議院 - 建設委員会

○石塚説明員(首都圏整備委員会事務局計画第二部長) 東急が考えております、三軒茶屋から多摩川を通りまして江ノ島方面に参ります東急ターンパイクと称する有料道路がございます。これは、運輸省並びに建設省に申請は出ておるようでございますが、実はまだ認可にはなっておりません。この問題につきまして、首都圏道路網計画でどう考えていくべきかという問題がありしました。しかし、一方におきまして実はこれが国道網の整備計画と若干調整を要するという問題がございまして、私どもの方といたしましては、その調整さえつければ別に異存はないという考え方をとっておったわけでございます。これは、多々ますます弁ずという意味から異存がない。しかし、やはり交通道路網の一環として考えますと、できるだけこれは有効に、また効率的に考えて参らなければならぬと考えております。そこで、実は現在第三京浜と申します路線がございます。これは、横浜から三軒茶屋に抜ける路線でございますが、この第三京浜の整備という問題を私どもも幹線道路網計画で実はうたっておるわけでございます。ところが、戸塚線の道路公団で現在やっております有料道路、これが大体来年一応完成するわけでございまして、これを都内にさらにどう延ばすかという問題を現在道路公団でも検討中でございまして、第三京浜の交通量の調査を現在やっておるわけでございます。

 ここには、第三京浜について「横浜から三軒茶屋に抜ける路線」「都内にさらにどう延ばすかという問題を現在道路公団でも検討中」と述べられている。

19600818読売第三京浜

 1960(昭和35)年8月18日付読売新聞には「公団としては、将来玉川野毛町から渋谷までも同様の自動車専用道路を作って結ぶ考え」とある。

 

 「第三京浜道路調査報告書」3頁には

第三京浜はさしあたり玉川まで

とある。

 全体路線構想(渋谷~三軒茶屋~玉川~横浜)のうち「差し当り」玉川以西を事業化したということか。

 

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■東名高速は渋谷区起点だった時期がある。

 

 下記に示すように、東海道幹線自動車国道として最初に路線が指定された際には、起点は東京都渋谷区とされている。

東名が渋谷起点となっている政令

※余談だが、東名高速道路に路線番号12と13が割り当てられていることが分かる。現在では高速自動車国道に路線番号はない。

東名高速道路は首都高3号線とは独自に渋谷起点となるはずだった

※中央道も杉並区起点ではなく、新宿区起点だ。

http://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/DGDetail_0000001953

 そういう意味では、首都高3号線が第三京浜道路と接続していても東名高速道路は自力で都内(環状6号あたり?)まで入ることができるのだから特段の支障はなかったことになる。

 

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■環状6号線と環状8号線の間は、首都高速道路公団がやるのか日本道路公団がやるのかは明確ではなかった。

 

 1958(昭和33)年の首都高速道路の当初基本計画では羽田線以外は、環状6号線内の路線網であった。

当初の首都高速道路路線図

「伸びゆく首都高速道路」首都高速道路公団刊 21頁から引用

 

 そこから延伸していくにあたって、東京都・首都高速道路公団と建設省・日本道路公団の間でいろいろ綱引きがあったようだ。

 東名が決まってからだな。首都高速道路を延ばすか、東名をもっと中にもってくるという論争を建設省の尾之内由紀夫と僕の間で何回か往復したですね。その時ああいう道路を都心まで持ってこられちゃ迷惑だな。都市計画のことを考えないで持ってこられるから。それで都市内はこちらで引き受けると。

 

 外郭環状線の計画をつくっているから、それから中はこちらが引き受けるということにした。だから、外郭環状線を造ることを条件として、都市内高速と都市間高速を接続すると言う約束をしたんだが、約束を守ってくれないんだから困るんだな。都心まで持ってくる分を曲げれば、同じ金でできちゃうんだ。各都市間高速をね。

 

「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」 91頁から引用

 このように、建設省と東京都の間で調整がされ、外環まで及び外環は日本道路公団が、外環の内側は首都高速道路公団がそれぞれ分担することに決まったようだ。

 なお、前述の東名高速道路の起点が渋谷区から現在の世田谷区に変更されたのは、1966(昭和41)年7月30日の政令改正(建設省組織令の一部を改正する等の政令)による。

 

(余談だが、1961(昭和36)年3月23日付けの朝日新聞では、「東北自動車道へ第一歩 第1回調査まとまる」と題して東北道の路線計画を紹介しているが、その起点は「北区田端新町の都道環状5号線とする」としており、こちらは、東名高速、中央道の当初起点であった環状6号線よりも更に都心側に入り込んでいる。)

 

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清 水草一氏の「中途半端な目黒線と第三京浜、実は渋滞解消の特効薬? ヒントはパリに」に係る考察(1)
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