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2021年8月 8日 (日)

毎日新聞【⿊川晋史記者】「五輪が来たニッポン︓1964→2021 都市の姿、環境優先へ」とプロジェクトX「空中作戦」

 東京オリンピックにあたって前回の東京オリンピックとの比較する記事が幾つか見られた。毎日新聞にもこんな記事が載っていた。


五輪が来たニッポン︓1964→2021 都市の姿、環境優先へ

 

 戦後復興の象徴として記憶されている、1964年の東京オリンピック。⼤会を境に、⾼速道路や下⽔道など、都市環境は劇的に変化した。経済発展や利便性の向上が最優先だった時代から半世紀余り。2度目の東京五輪を迎えた今、都市を巡る状況を振り返ってみたい。

 

 64年五輪の開催が決まったのは59年。当時は本格的な⾞社会の到来で深刻な交通渋滞が懸念されていた。放置すれば五輪関係者の移動にも混乱が⽣じかねない。そこで渋滞緩和を目指して計画されたのが⾸都⾼速道路だった。

 ⽤地買収の⼿間を省くため川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮し、⾸都⾼は59年の基本計画決定からわずか5年間で4路線32・8キロが完成。五輪競技会場や⽻⽥空港を結ぶ動脈として⼤会を⽀えた。東京のシンボルの⼀つ「⽇本橋」の上を通るルートも、空中作戦の産物だった

 「我々が⽇本で初めての都市内⾼速道路を完成させる、との気概を持って仕事をしていた。『早く作れ』という社会全体の応援を感じた」。今年6⽉の建設関係の団体の講演会に、旧⾸都⾼速道路公団の技術者だった⼤内雅博さんは亡くなる直前、こんなメッセージを寄せた。都市の発展を願う世相と技術者の熱意が重なって、⾸都⾼建設は進んだ。

(以下 略)

 【⿊川晋史】

 

2021(令和3)年7月28日毎⽇新聞 東京⼣刊

 「革洋同の野郎、まーた『空中作戦』狩りかよ。もう飽きたよ。」

 とおっしゃる読者の方もいらっしゃるかもしれない。

 ただ、今回はいつものやつとはちょっと趣旨が異なる。

 

 私のブログを読んでいただいている方には

 「首都高の『空中作戦』は、おそらくNHKの『プロジェクトX』の造語ではないか?(それ以前の出版物等には出てきた事例を見つけられていない)」

 「首都高が川や道路の上に設けられたのは、五輪に間に合わせるためではなく、五輪決定以前から決まっていた」

 という話はおなじみかと思うので、ここでは詳細には述べない。

 

 過去の記事のリンクを貼っておくので、⿊川晋史記者等、馴染みのない方はあわせて下記をご参照いただきたい。

●プロジェクトXの首都高の回の決め文句「空中作戦」は、本当は言っていなかった

https://togetter.com/li/1432212

●「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-f51a.html

●古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

 

 一方で、NHKのプロジェクトXで首都高速の「空中作戦」についてどう扱われていたかは、当該番組の制作にあたった今井彰氏が下記に書いている。

「東京オリンピックへの光景 第六回 首都高速道路の空中作戦」style-arena

https://www.style-arena.jp/trend/270

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 まあ、ここまではいままでのブログのネタの繰り返しなのだが、ここからが今回の毎日新聞黒川晋史記者の記事の気になるところである。


五輪が来たニッポン︓1964→2021 都市の姿、環境優先へ

 

 (略)

 「我々が⽇本で初めての都市内⾼速道路を完成させる、との気概を持って仕事をしていた。『早く作れ』という社会全体の応援を感じた」。今年6⽉の建設関係の団体の講演会に、旧⾸都⾼速道路公団の技術者だった⼤内雅博さんは亡くなる直前、こんなメッセージを寄せた。都市の発展を願う世相と技術者の熱意が重なって、⾸都⾼建設は進んだ。

(以下 略)

 【⿊川晋史】

 

2021(令和3)年7月28日毎⽇新聞 東京⼣刊

 先に紹介した毎日新聞黒川晋史記者の記事の部分的な再掲である。

 太字で書いた「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」であるが、一般社団法人建設コンサルタンツ協会が2021(令和3)年6月22日に開催した「東京オリンピック1964に向けた首都高速道路の整備」ではないかと推測される。

 その講演記録が同協会のウェブサイトに公開されている。

https://www.jcca.or.jp/infra70/wp-content/uploads/2021/05/PJNO21.pdf

 上記PDFの「講演者」に「大内 雅博 元首都高速道路公団交通管制部長」というお名前が載っている。(この講演会はコロナの関係で延期され、2021年6月にweb講演の形で開催された。その間に大内氏が亡くなられたのだろうか?)

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (4)  

 「『我々が⽇本で初めての都市内⾼速道路を完成させる』との気概を持ち」という表現も同じであり、コロナ禍のなか講演会もそうそう開催されているわけではないので、黒川晋史記者が参考にしたのは、建設コンサルタンツ協会の講演で間違いないのではないか。 

 ところで、その講演ではこんなことも述べられている。

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (5)

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (6) 

 上記は、首都高速道路の構想が具体化していく時系列なのだが、これが、黒川晋史記者が書く「⽤地買収の⼿間を省くため川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮し、⾸都⾼は59年の基本計画決定からわずか5年間で4路線32・8キロが完成。」とは時系列の平仄がとれない。 

 


<プロジェクトXが誤解を広め、今般毎日新聞黒川晋史記者がのっかった首都高速道路建設の経緯>

 

・東京オリンピック開催決定

  ↓

・首都高速道路公団設立

  ↓

・オリンピックに間に合うように「空中作戦」で高速道路を川の上に

 

  

 


<毎日新聞黒川晋史記者が参考にしたと思われる「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」の講演録に載った首都高速道路建設の経緯>

1956(昭和31)年 東京都が「道路白書」を作成、「昭和40年に予想される道路交通危機」対策のため都市高速道路の導入等を訴える。

1957(昭和32)年7月 建設省が「東京都市計画都市高速道路に関する基本方針」を作成し、経過地の選定に不利用地、河川、運河等を利用すること等の方針が打ち出された。

1957(昭和32)年8月 東京都市計画地方審議会に、高速道路調査特別委員会を設置。

1958(昭和33)年1月 東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催。

1958(昭和33)年4月 国会でオリンピック東京招致決議案を可決(衆議院15日、参議院16日)

1959(昭和34)年1月 首都高速道路公団法が閣議決定され国会へ提出。

1959(昭和34)年4月8日 首都高速道路公団法成立(同14日公布・施行)

1959(昭和34)年5月 首都高速道路の都市計画決定に向けた取り組みが重ねられた最中に東京オリンピック開催決定

1959(昭和34)年6月 首都高速道路公団(現・首都高速道路株式会社)発足

1960(昭和35) 首都圏整備委員会で首都高速道路や都道が「オリンピック関連道路」として位置付け議決。

 

 斜字部分は私が参考までに追記

 大学の教授ならともかく、一般紙の記者に「首都高速道路公団●●年史の●頁に載っていることと違う!」なんて記事の水準は求めるべくもないが、通常の注意力があれば、自分が参考にした(であろう)「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」の話が、自分が参考にした(であろう)プロジェクトXと違うぞと気づくのを求めるのは酷だろうか? 

 ちなみに当該講演は実際には2時間、講演録で8頁である。締め切りに追われていたのかもしれないが、根拠があやふやな同業他社の造語である「空中作戦」にそこまで固執しなくてもよかったのではないだろうか。。。 

 ちなみに、当時の毎日新聞を調べてみるとこんな記事が載っている。 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (3) 

 「都内に(有料)高速道路 川の上など利用、八本」という題名で、添付されている「首都高速道路事業計画図」は、現在の路線図とほぼ同じだ。(厳密には羽田空港付近と人形町付近等が変更されている。) 

 ちなみに、この毎日新聞の記事の日付は、 東京オリンピック開催決定より約10箇月前の1958(昭和33)年8月24日夕刊である。記事中に「東京オリンピック」という言葉は見られない。

 黒川晋史記者の「64年五輪の開催が決まったのは59年。当時は本格的な⾞社会の到来で深刻な交通渋滞が懸念されていた。放置すれば五輪関係者の移動にも混乱が⽣じかねない。そこで渋滞緩和を目指して計画されたのが⾸都⾼速道路だった。⽤地買収の⼿間を省くため川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮」という記事と、黒川晋史記者の先輩が書いた記事を比較しての感想は如何であろうか? 

 黒川晋史記者を指導・教育する立場の上司の方が「黒川君、当時のわが社の記事のデータベースくらいチェックしておいたかい?」と一言かけてくれればこんなことにはならなかったのではないかと悔やまれる。  

  

 黒川晋史記者のために付言しておくと、実際に首都高の河川上等を利用した初期のルート決定は下記の形で決まっている。 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (1) 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (2) 

 ※このときは、まだ羽田空港には直結していない。 

 「昭和40年には、(略)交通能力が満度に達するものと想定されるので、都内の自動車の増加率並びに平面道路の交通処理能力からも極めて短期間に建設されることが必要であることを強く要望いたします。」が、昭和32年当時に首都高を急いで建設する理由とされている。

 黒川晋史記者の書く「64年五輪の開催が決まったのは59年。当時は本格的な⾞社会の到来で深刻な交通渋滞が懸念されていた。放置すれば五輪関係者の移動にも混乱が⽣じかねない。そこで渋滞緩和を目指して計画されたのが⾸都⾼速道路だった。」と比較してみては如何であろうか? 

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 黒川晋史記者は、 「名橋『⽇本橋』保存会」の中村胤夫会長のコメント等を通して、当初は「新しい物ができる期待感が強」かったが「そのうちに「圧迫感がある」「⽇陰ができて暗くなる」という声が上がり始める。」としている。

 当時(1959(昭和34)年2月23日)の毎日新聞で 黒川晋史記者の先輩は、そのあたりどう報道したのだろうか?

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する3 

 当時の毎日新聞では「都の高速道路に物いい」という見出しで都内の反対運動を報道している。 

 日本橋がある中央区内では「中央区内を通る高速道路はすべて地下式にしてしまえというわけだ。」とのこと。 ただし、この時点では首都高は日本橋の下を通っていたのだが(日本橋の上を通過するように変更されたのは狩野川台風による水害を踏まえてのもの)。

 日本橋のところで首都高が下を通る計画から上を通るように変更された経緯はこちら。いずれにせよ東京オリンピック決定前に日本橋の上を通るように変更されているのだが。

首都高速の日本橋附近は掘割型式で進めるはずだった3

 

首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅・著 45頁から引用。

 

 あわせて1960(昭和35)年4月13日付け読売新聞の報道も見てみよう。 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (10) 

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (7) 

 「名橋「日本橋」の上をまたいで四号線が通るのは反対、すれすれでよいから橋の下を通るべきだ。」と、実際には地元は日本橋の上を首都高が通過することを反対していたことが分かる。 

 ところで、毎日新聞の記事の日付に注目していただきたいのだが、1959(昭和34)年2月23日 である。

 黒川晋史記者は「川や道路の上に⾼架を通す「空中作戦」など、五輪に間に合わせるために奇策も使って⼯期を短縮」と書くが、中央区や港区が首都高の高架に反対したのは、黒川晋史記者の先輩の記事によれば東京オリンピック決定以前である。また、日本橋の上を首都高が通ることが決定(変更)したのもオリンピック決定前に狩野川台風による水害を踏まえてのものである。 

 やはり、黒川晋史記者を指導・教育する立場の上司の方が「黒川君、当時のわが社の記事のデータベースくらいチェックしておいたかい?」と一言かけておくべきだったのではないか。  

 また、上記の読売新聞によると東京オリンピック決定後も日本橋の上を首都高が通ることを反対しており、 「名橋『⽇本橋』保存会」の中村胤夫会長のコメントとはニュアンスが異なる。まあ、ここは「個人の感想です」といったところか。

 

 ちなみに「首都高研究家」の清水草一氏は「日本橋の上空を通過している首都高が、景観を悪化させていると言われ、地下化が決定しているが、建設当時、反対運動は皆無だった。」と述べている。

https://kurukura.jp/car/2021-0614-60.html

 ご参考まで。

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 ところで「東京オリンピックに間に合わせるために河川の上に高架」史観は、プロジェクトXや黒川晋史記者だけでなく、コミックの世界でも見られる。 

 毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (8)

 上記は、楠みちはる先生の「湾岸ミッドナイトC1ランナー」2巻9頁から台詞だけ抜粋したものである。 

 いちいち対比表は作らないが、私の言わんとしていることがご理解いただけるだろう。 

 なお、一般社団法人建設コンサルタンツ協会の「東京オリンピック1964に向けた首都高速道路の整備」の講演記録と比較すると、当初の開通路線も異なっている(都心環状線の東側か西側かの違いにご注目)。

毎日新聞⿊川晋史記者のオリンピックと首都高空中作戦記事 (1) 

 まあ、こちらはファンタジーだから、もっともらしく楽しめればよい話なので、時系列も路線図もあまり揚げ足を取るようなことは無粋かもしれないが、くれぐれも真に受けないようにといったところか。 

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 「じゃあ、首都高成立の経緯は何が正しいんだよ」とおっしゃる方には、これがお勧め。

「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」

https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010064301-00

 黒川晋史記者も竹橋から国会図書館はすぐなので一読してみては如何か?

 黒川晋史記者が参考にしたと思われる「今年6⽉の建設関係の団体の講演会」の檀上に立った方でもあるので、是非。

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2020年11月23日 (月)

『首都高が日本橋の上を通るにあたって、当時の技術者は「苦渋」「冒瀆」と感じた』と土木学会や佐藤健太郎はいうけれども本当だろうか

 相変わらず長い記事を書いてしまった。

 そこで今回は要約パワポを作ってみた。

首都高と日本橋の美観 (5)

佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (4)

 土木業界にありがちな「首都高と日本橋にまつわる、『本当は土木技術者もいいことを考えていたんだけど』風ちょっといい話」のエビデンスを検証してみたというわけだ。

 関心ある方は是非このままお進みくださいませ。

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首都高と日本橋の美観 (7)

首都高と日本橋の美観 (6)

 首都高速道路と東海道新幹線の開通50周年を記念した土木学会のイベントにおいて、家田仁東大教授(当時、現・土木学会会長)が、 首都高速の河川上の利用について「恐らく当時の道路計画者たちにとっても苦渋の選択であったものと思われる。」と述べている。

  

 他方、「国道者」において佐藤健太郎氏は、こう述べる。 

佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (2)  

「 オリンピック開催決定後5年では間に合わないので河川上空を使った」というのは大嘘なのだが、まあここは今日の本題ではない。

佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (3)  

 「 道路・橋梁のプロである彼らにとっても、日本橋は最大の聖地だ。そこを踏みつけにするかのような道路の建設は、冒瀆とも思えたことだろう」と記している。

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 私のいやらしい性格をご存じの方は、上記の土木学会現会長や、国道マニアのフリーライターが書いた「思われる」や「思えたことだろう」という微妙な書き方のところをガシガシとエビデンスを掘ってみようではないか!という今回の記事の目的と結論がもう見えたことだろう。

 断言できないのよ。連中は。

 本来は「土木の日」にあわせて書き上げようとしたが、怠惰な性格故に間に合わなかったことだよ。 

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 まずは、実際にオリンピック決定以前に、河川上の首都高速のルートをひいた当時の東京都局長の山田正男氏である。 

 出典は「東京の都市計画に携わって: 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く」である。 

首都高と日本橋の美観 (21)  

首都高と日本橋の美観 (22)  

 「高速道路の景観はそんなにおかしいか」「見るだけのために構造物を作っているんじゃないからな。そう圧迫感を感ずると僕は思わんから。」というあたりに、道路計画者の「苦渋感」や「冒瀆感」が満ち溢れていますね。 

 なお、佐藤健太郎氏が触れている日本橋付近を干拓して首都高をしたに通す話にも山田正男氏は触れているが、日本橋の景観の保全どころか、首都高と新幹線で二階建てで日本橋川に入れようと国鉄と話をしていたというのである。

首都高と日本橋の美観 (18)  

「東京都市高速道路の建設について」(1959年4月 東京都・刊)から抜粋。

 首都高における河床の掘割区間は上記のような考え方で設定されている。「最も望ましい構造」というわけだ。

 ところで、山田氏の対談で出てくる日本橋の下を通す案は1957年に出されたもので、それをあきらめた「神田川があふれんばかりの状況」は、狩野川台風(1958年9月)の被害状況である(「首都高速道路のネットワーク形成の歴史と計画思想に関する研究」古川公毅 44~45頁)。

 佐藤健太郎氏の言うような「1959年のオリンピック決定後に短期間で工事をするために河川を通さざるを得ないが、聖地日本橋を冒瀆しないために下を通すアイデアが出された」というのは時系列的にデタラメで破綻しているのだ。

 時系列はともかくとして、「最も望ましい構造」という一般的な意味以上に、「聖地日本橋のために河床を通す」という意思を示した文献を浅学ながら見かけたことがない。もしご存じの方がいらっしゃればご教示いただけると幸甚である。佐藤健太郎は本に書く以上はお持ちだと思うのだが。。。

 下記は、1962年に作成された当初の都市計画の案である

秋庭大先生2

 路線に四角いハッチがかけられている部分が「半地下部分」である。

 日本橋川については、三崎町付近から江戸橋までが半地下である。

 「聖地日本橋」を特別扱いしたのではなく、都心環状線の中央区・千代田区あたりは基本的に半地下扱いとみるのが妥当ではなかろうか?皆様のご意見はどうだろうか?

 

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 続いては、建設省、首都高速道路公団等で建設行政実務を経験し、のちに東京大学工学部名誉教授となった、井上孝氏である。 

 出典は「都市計画を担う君たちへ」である。 

首都高と日本橋の美観 (9)

 「ここで一番重要なのは、日本橋の上ですら高速道路をかぶせるというくらいの度胸が都市高速道路を計画していたグループにはこの時あったわけです。」と述べている。

 また、「首都高で東京の水辺が失われた」との批判に対しても「戦災復興で瓦礫を運河に捨てたときから失われている」と述べている。

 東大工学部の大先輩のこの言を踏まえて、家田仁氏は「道路計画者の苦渋」を感じとったのであろう。

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 これらは、技術者の「うちわ向けの昔語り」であり、世間向けには当時どう言っていたかを首都高速道路公団の広報誌「首都高速」No33(1964年2月15日号)から見てみよう。

首都高と日本橋の美観 (2)  

 NHKの大河ドラマ「いだてん」の冒頭に出てきたような首都高速道路が日本橋を跨ごうとしている写真が掲載されている。

 右上の煉瓦造りが山田正男氏が敬意を表して避けた帝国製麻か。

 右下に何か書いてあるので拡大してみよう。 

首都高と日本橋の美観 (1)  

 日本橋に首都高速4号線の高架が、もう間もなくオーバー・クロスする。そして「お江戸日本橋七つだち」にとうたわれたこの橋も、新二重橋として、東京の新名所になる日も、間近い

 「新二重橋として、東京の新名所になる日も、間近い」これこそが、当時の首都高速道路公団の道路技術者の心意気である。

 では、日本橋付近を通過する際に、美観は考慮されなかったのか? 


 首都高速道路公団では線形が決定した1960年12月橋梁設計会社20社から「このインターチェンジ(※引用者注:当時の首都高速の「インターチェンジ」は、現在の「ジャンクション」を意味する。)を如何なる構造にすべきか?」広くアイデアを募り,構造型式選定の資料とした。

 「江戸橋インターチェンジについて」西野祐治郎・和田宏造・前田邦夫「道路」1964年7月号517頁から引用

 と、当時の建設会社等からデザインを募集している。 

 詳細は「首都高の日本橋川区間のデザイン検討について-首都高日本橋附近の地下化関連(1)」を参照いただきたいが、

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (6)  

 民間企業からはこんなデザインも出て、「好評を得た」とのことである。まさに「新二重橋を日本橋に架けよう」という当時の官民問わない道路技術者の熱気が伝わってくるではないか。

首都高と日本橋の美観 (8)  

 日本橋に架かる首都高速道路の想像図は、上記のように首都高速道路公団の「顔」として、会社案内の表紙に採用されている。

 「苦渋感」や「冒瀆感」があれば、「会社の顔」「首都高の顔」に採用するだろうか? 

 これに対して、1962(昭和37)年12月24日付読売新聞は、「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」と報じている。 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)  

首都高と日本橋の美観 (12)

 「少年少女東京オリンピック全集4」94頁から引用。

 「大空間の美しさは、日本に新しい美観をそえたものと言えましょう」とまで言い切っているのだ。

 世間からも一定の支持を得ていたわけだ。 

 家田仁氏の言うような「苦渋感」や、佐藤健太郎氏の言うような「冒瀆感」は、後知恵のものと言えるのではないだろうか? 

首都高と日本橋の美観 (17)

 同じ首都高の広報誌に載ったこのあっけらかんとしたイラストを見よ。

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 もちろん、首都高の日本橋付近があのままでよいわけではないと思った人もいる。 

 同じ広報誌に首都高速道路公団理事長の神崎丈二氏と地元日本橋関係者らとの対談が載っているので、冗長となるが全文掲載したい。 

首都高と日本橋の美観 (13)  

首都高と日本橋の美観 (14)  

首都高と日本橋の美観 (15)  

首都高と日本橋の美観 (16)  

 諸橋雅之・首都高速道路株式会社 日本橋区間更新事業推進室長は、「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」 と語っているが、実際には色んな動きがあったことが分かる。

 注目すベきは、高松宮が「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというあたりとか、神崎理事長が「日本橋の左側の家屋を買収してということを無理を承知で調査させた」とか「日本橋をどうしても越さなければならないならもっといい型で越えたいと思いまして、ずいぶん権威者の考えを伺ったわけです。技術委員会や審美委員会の意見を聞き、完成予想図も30~40枚画いたんです。けれども、いま出来上がってみると私のイメージと少しちがうようですね。」といったあたりである。神崎理事長は、民間から来た事務系の理事長である。その彼が道路技術者に対して意見を聞き、いろんな完成予想図を画かせていたけどうまくいかなかったというのが首都高の記録である。 

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 土木屋、都市計画屋はダメでも、建築屋、都市景観屋は「苦渋感」「冒瀆感」を出していたのではないかという意見もあろう。 

 ここに興味深い座談会の記録がある。その名もズバリ「首都高速道路計画を語る」 

首都高と日本橋の美観 (3)  

「公共建築」1960年8月号ということで、既に首都高速道路公団も発足し、河川上のルートも決まって事業が動き出した後のタイミングである。 

 なかでも芦原義信氏は、日本の都市景観の第一人者だ。さぞかし、日本橋の上に架けようとする高速道路計画を批判していると思うだろう。

 ところが、8頁を費やしたこの対談に「日本橋のにの字」も出てこない

 それどころか、芦原義信氏は「わたくしは道路のことは素人ですが、道路を作っているのを見るのは希望や夢があって楽しいものですね」(同61頁)なんて言っている。(氏の名誉のために補足しておくと、個別の景観ではなく都市計画全体における首都高の位置づけについての発言が太宗であった)

 むしろ河川については「川の上をやたらつぶしてしまうと、この次に誰かが潰す時に何も潰すものがなくなっちゃう。少し早まっているんじゃないかということなんです。」という大塚全一氏(当時は建設省から首都高速道路公団計画課長として出向。その後任が井上孝氏である。大塚氏は後に早大教授。)の発言に対して誰もつっこまない。 

首都高と日本橋の美観 (4)  

 秀島乾氏は「わたくしは、形態的には、大体、高架線が市内を走るのは不愉快千番だと思います」と発言してるが、最後にそもそも銀座の川を潰して高架の東京高速道路(KK線)を計画したのは秀島乾だろうとつっこまれて、秀島がもそもそ言い訳をして対談を閉じるといった体なんである。

 「この次に潰すものがなくなっちゃう」という意味では、家田仁氏の言うような「苦渋の選択」であることは間違いないようだ。やっとエビデンスが出てきたぞ。

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 というわけで、都市景観屋も当時は注目すべき論点としてすら捉えていないのだ。 

首都高速道路と都市景観 (1)  

 「都史資料集成II 都制施行から昭和30年代までを対象にした東京都の歴史に関する資料集」の第2巻にある「図録東京都政2 「文化スライド」でみる東京~昭和30年代」でも「それにしてもすばらしい光景ですね」としているではないか。 

  

 家田仁氏は「恐らく当時の道路計画者たちにとっても苦渋の選択であったものと思(いたいんだけど、当時の実力者はそんなことは言っていないし、首都高の記録にもそんなことは残っていなさそうなんだけど、やっぱり道路計画者は今に通じる気持ちを持っていたと信じたいのは土木学会の聴衆のみんなは分かってく)れる。」と述べるべきだったのかもしれない。

 「すべての土木技術者が首都高が河川の上を走ることや日本橋の景観について遺憾に思うことはなかった」なんてことはないだろうけど、メインストリームはあまり重視していなかったのは間違いなさそうだ。

 「東大では、度胸と書いて、苦渋と読むんだ」とでもおっしゃるのだろうか? どうせ言うなら「恐らく~思われる」なんて憶測でものを言わないで、ちゃんとエビデンスだそうよ。大学教授の記念講演なんだからさ。

 エビなしに「恐らく~思われる」で「いいこと言った感」を出しちゃうのは、当時の制約条件の中で奮闘した諸先輩方に対してかえって失礼なんじゃないかねえ。

  

 当時と今では価値観も違うし、当時の価値観と諸制約条件のなかでは最善を尽くしたのは間違いないのだから、「今の価値観を当時の技術者が併せ持ちながら苦渋の気持ちでやった」ということに後付けでしなくてもいいじゃないと思うのだが、土木学会方面の方はそうではないのだろうか。 

 そこは、土木学会の「隙あればパッテンライ押し」と通じるものがあるのではないか? 

 「土木技術者が環境破壊の一翼を担った」「土木技術者が植民地支配の一翼を担った」という現実に対して、当時はこういう情勢のなかでこうだったと冷静に分析して今後の反省点を導き出すという緊張感に堪えられず、「土木技術者は本当はいい人だった。本当は今に通じる素晴らしい感覚を当時から持っていたのだけど苦渋の選択だった。土木技術者は悪くないんだ!」と言ってしまうのではないか? 

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 首都高の戦前の計画は、山田正男が1938年に「満洲で高速道路をやっていたので日本でも計画した」というものである。

 振り返ってみるに、国鉄の十河信二総裁、日本道路公団の岸道三総裁、表舞台にはあまり出てこないが、東急ターンパイク、道路利用者会議の近藤謙三郎(杉並区の「トトロの家」の持ち主でもある)、東京高速道路(KK線)の秀島乾、戦後のオリンピックに向けた復興には満洲人脈がつながっている。 

 新幹線や高速道路工事にちょっかいをかけてきた西武の堤康次郎も満洲人脈だ。 私が過去にブログの記事にしてきた、西武による「近江鉄道景観補償」「伊豆箱根鉄道下土狩線」「西熱海ホテル事件」「新横浜駅土地買い占め」といった新幹線工事にまつわる「係争ごと」に、国鉄の現場職員が筋を通そうとすると「大てい十河総裁や側近幹部の慰留で、徒労に帰せられた」と「運輸ジャーナル」127号にある。この裏には堤ー十河の満鉄時代のつながりがあったという話を聞いたことがある。

 この辺は大変気になる分野ではあるが、わたくし如きの力では到底手におえない。 

 上記のメンツと直接は関係ないが、最近「大東亜」を建設する  帝国日本の技術とイデオロギーという本が出版されたので、よろしければ是非。

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 話が時空を超えてとっちらかりすぎてしまったのでそろそろ閉めよう。 

 佐藤健太郎氏は「国道者」において下記のように述べている。 

 佐藤健太郎「国道者」と首都高速日本橋 (1)

 あなたは何が見えただろうか? 

 

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おまけ

 当時なりに「都市美にマッチした構造」と考えてやっているところは、誤解なきよう。

首都高と日本橋の美観 (11)

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2020年10月24日 (土)

世界銀行は新幹線への借款にあたり「東京オリンピックまでの開通」の条件をつけたのか検証してみる


1956年5月には島を会長とする「東海道線増強調査会」を国鉄に設置し、東海道線の将来の輸送量、輸送力、サービスの程度、動力方式、車両、保安施設などを検討させた。同会議では、(1)現在線併置案、(2)別線狭軌案、(3)別線広軌案などが検討されたが、(3)の別線広軌案を採用すべきであるという結論に達した。1957年8月には運輸大臣の諮問機関として運輸省内に「日本国有鉄道幹線調査会」を設置し、58年7月に新幹線に関する具体的な答申を運輸大臣に提出した。また同年秋ごろから世界銀行と接触し、東京オリンピックまでには開業するという条件のもとに総額8000万ドルの借款を受け入れ、1961年5月に調印した。これによって、東海道新幹線の建設は日本のいわば国際公約となった。

 

「日本の事業構想家 新幹線の生みの親 十河信二」老川慶喜(立教大学経済学部 教授)・著

ヤフーによるキャッシュデータがこちら

 


 島は世銀を訪れ、総額8000万ドル、年利5.75パーセント、3年半すえおき、20年償還という条件の借款を受け入れ、1961年五月に調印した。そのさいに、資金の5分の4は日本政府が負担し、1964年のオリンピックまでに完成させるという条件が付された

 

「日本鉄道史 昭和戦後・平成篇」149頁 老川慶喜・著 中公新書2530

 このような「世界銀行が東海道新幹線事業に融資するにあたって、オリンピックまでの開通を条件にした」という話を耳にした(目にした)方は割といらっしゃるであろう。

 

  しかし調印当時の記事を見てもそんな「条件」は書いていない。

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (10)  

  1961(昭和36)年5月3日付読売新聞

  どこかに世界銀行との借款の契約書の本文はないものかと探していたら、国立公文書館のデジタルアーカイブにあった。

 https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M0000000000001580713

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (7)

 ところが、契約書にはオリンピックの「オ」の字も出てこない。 

 

 東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (8)

 貸付金の引出期限が1964年9月30日となっており、償還計画の第1回支払期日が1964年11月15日となっているので、まあオリンピックが開催される1964(昭和39)年10月あたりに開通するイメージなんだろうなあとは思うが。 

 東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (9)

 ちなみに契約書附属書にある「対象事業の概要」では、「本事業は1964年なかばに完成するものと予定される」としか書いていない。 

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 もともと、東海道新幹線の工期は、オリンピック決定以前の1958(昭和33)年7月の国鉄幹線調査会の答申で、「工期は概ね五ヶ年で完了」とされている。 

古市憲寿氏東京五輪負の遺産 (6)  

 これは、最も困難な工事である新丹那トンネルの工期にあわせたものである。 

 東海道新幹線の工事は、オリンピック決定以前の1959(昭和34)年4月20日に起工式が行われており、そこから5年なので、オリンピックがあろうとなかろうと「1964年なかばに完成するものと予定」になっていた。

 なので、「1964年なかばに完成するものと予定」と契約書に書かれていたことが、直ちに「東京オリンピックまでには開業するという条件」であるとは断言できない。交渉記録にそう書いてあるというなら別だが。 

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 ということで、かねてから「東京オリンピックまでには開業するという世銀の条件」という”都市伝説”のソースを探してきたところ、ある方から「国鉄技師長だった瀧山養氏がそう語っている。」とご教示いただいた。 

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (6)  

 「証言・高度成長期の日本(上)」エコノミスト編集部・編 毎日新聞社・1984年刊

  「新幹線の推進」192頁

 確かに「64年のオリンピックまでに間に合わせるという条件で、承認されたんです」と語っている。 

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (3)  

 また、「交通技術」1974(昭和49)年10月号に掲載された島秀雄氏との対談「東海道新幹線10年を振り返って」においても、瀧山養氏は「世銀との間では、とにかくオリンピックまでに5年間でやること」と語っている。 

 (なお、世銀の調査団が来日したのは昭和35(1960)年なので、その段階ではあと4年なのであるが。)

 ところが、瀧山氏は、世銀借款の交渉を行った当事者ではなく、事前の事業調査に世銀の調査団が来日したときの説明員なんである。 

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (12)  

 むしろ瀧山氏は国鉄審議室勤務で在来線増強の立場からアンチ新幹線、アンチ十河だったと角本良平氏は語っている。 

  (「角本良平オーラルヒストリー」242頁)

 瀧山氏は 「証言・高度成長期の日本(上)」の196~197頁で、鈴鹿峠越えルートをややめたのも「オリンピックまでに間に合わせる」ためとしており、私個人としては非常に信憑性が低い。

(※鈴鹿峠越えルートとオリンピックの話は、ここでは関連性が低いので、関心ある方は→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat24240428/index.html) 

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 実際に世銀との交渉を現地で行っていた兼松学・国鉄常務(当時)は、「運輸と経済」1988(昭和63)年11月号に「歴史の中の鉄道 東海道新幹線と整備新幹線」という計8頁の報文を書いており、そのうち6頁が東海道新幹線建設までの経緯で、うち3頁が「外資導入」という題名の世銀との交渉経緯に詳しく触れている。 

 しかし、ここでは「オリンピック」という言葉は一切出てこない。 

  

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (1)  

 これは世銀との調印直後の「国有鉄道」1961(昭和36)年7月号に掲載された「時の話題 世銀に信用された新幹線ー世銀借款の調印を終えて」という記事中の「借款の条件」である。やはり「オリンピック」という言葉は出てこない。 

 こちらも3頁にわたってびっしりと世銀の交渉経緯も含めて解説しているのだが、一切「オリンピック」には触れていない。 

 それどころか「担保としては、政府保証以外になんら要求がございませんし、その他国鉄の経営に介入するとか、そういう条件は何もありません」としている。

  

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (5)  

 こちらは「運輸」1961(昭和36)年8月号に掲載された「国鉄の世銀借款」という畔柳今朝登氏(運輸省鉄道監督局国有鉄道部財政課)による報文による「国鉄世銀借款の内容」である。やはりオリンピックは借款条件に入っていない。 

 更に興味深いのは「五 むすび」にある「国鉄総裁の談話」である。 

 「私どもは、この工事の完成が、国連の機関である世界銀行に対しての、否、世界各国に対しての日本の国際的信用をかけたものであることを銘記いたしまして、予定どおり、昭和三九年の開業を目指しております。」 

 十河総裁も世銀融資とオリンピックは結び付けていないのである。この段階では。 

  瀧山養氏が「世銀との間では、とにかくオリンピックまでに5年間でやること」と語っているにもかかわらず、十河総裁も交渉にあたった兼松常務も運輸省の担当官も誰も契約時にオリンピックに触れていないのは極めて不自然ではなかろうか?

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東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (2)  

 これは、「国鉄線」1964(1934)年10月号「座談会 夢でなかった超特急 その回顧と展望」における遠藤鉄二氏、角本良平氏、加藤一郎氏、森茂氏による新幹線局の「中の人」達による振り返りからオリンピックに触れた部分である。 

 オリンピックは「全く考えていなかった」けどあとから「一つの目途」になったと。 

 彼らにとっては、オリンピックよりも前に決まっていた工期5年の新幹線計画が達成できればよかったのである。 

  

 ところがそんな呑気なことは言っていられなくなった。 

 新幹線の予算不足である。 

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (11)  

 「東京は燃えたか: 黄金の'60年代」塩田潮・著 講談社文庫 194頁から 

 

 世銀融資後の予算不足問題を突破するために、途中から「十河は新幹線をオリンピックに絡める作戦を思いついた」とある。 

  

 これなら納得できる。ここで「新幹線=オリンピック=世界銀行」と絡めて 「世界銀行が東海道新幹線事業に融資するにあたって、オリンピックまでの開通を条件にした」というストーリーを後から作ったのではないだろうか?

 瀧山氏の発言も、部外者として頓珍漢なことを言っているのではなく、十河氏の作戦変更の路線を後日になっても忠実に守っているということかもしれない。 

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《まとめ》 

・ 「世銀との間では、とにかくオリンピックまでに5年間でやること」「64年のオリンピックまでに間に合わせるという条件で、承認されたんです」という国鉄幹部の発言はある。

・ただしその国鉄幹部は借款交渉の当事者ではないし、開通10年後以降の話で、リアルタイムのものではない。 

・実際に世銀との交渉にあたった常務理事はオリンピックについて一言も触れていない。

・調印時には、国鉄も運輸省もマスコミも「オリンピックまでの開通が世銀の条件」とは言っていない。 

・予算不足突破のために、途中から「新幹線をオリンピックに絡める作戦」に出たとするルポがある。 

 →このへんを踏まえて各自ご判断を。 

 如何だろうか? 

  最後はエビデンスが弱い私なりの推論になってしまっているのだが、国鉄の世銀借款に関する一次ソースがあれば是非ご教示いただきたい。それに基づいて更に深堀できればと思う。

  

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 世銀借款に係る、新幹線局の「中の人」による記録としては、上記で触れたものの他に、高橋正衛氏による「新幹線ノート」 がある。

東海道新幹線を東京オリンピックに間に合わせるのは世界銀行の借款条件だったのか (4)  

これらの他に今回参考にしたもの

「国有鉄道」1959年2月号「世銀借款」

「国有鉄道」1960年4月号「世銀借款受け入れのための法律と予算」

「交通技術」1960年6月号「世銀調査団来日」

「交通技術」1960年7月号「世銀調査団帰米」

「交通技術」1960年8月号「世銀調査団を迎えて」

「運輸調査月報」1961年6月号「国鉄の世銀借款の調印」

「運輸と経済」1961年6月号「国鉄の世銀借款成立」

「鉄道通信」1962年2月号「世銀借款」

「東海道新幹線」角本良平

「東海道新幹線工事誌 土木編」 「世銀借款と国際入札」

 

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関連記事 

古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

 

東海道新幹線が予算オーバーした国鉄幹部は引責辞任したけど、東名・名神高速道路も予算オーバーしたのに道路関係者は辞めなかったのは、ズルイ?? 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/05/post-f53bfb.html 

山陽新幹線は世界銀行からの融資を断られていた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/08/post-31439f.html 

 

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2020年8月16日 (日)

波床正敏先生「この辺の話は,東海道新幹線の工事誌に公式に書かれている.」→「じゃあ見てみますか」の結果

波床正敏氏「鉄道で国づくり」の精度  

http://wr19.osaka-sandai.ac.jp/ce/rt/ByRail/?p=307 

 これは、大阪産業大学の波床正敏先生のブログ「鉄道で国づくり」に記載されているお話である。 

  世間でよく言われている「東海道新幹線は東京オリンピックに間に合わせるために鈴鹿峠からルートを変更した」というお話だ。

  波床正敏先生は「この辺の話は,東海道新幹線の工事誌に公式に書かれている.」とも書かれている。

  

 じゃあ、実際に東海道新幹線の工事誌にはどう書いているのだろうか? 

 

東海道新幹線が鈴鹿峠を通らない理由

 名古屋-京都間を直線で結べば標高1,000m級の鈴鹿山脈越えとなるのであるが、(中略)工期的に非常な難点のあることが明らかになった。一方関ケ原附近も地質的には鈴鹿越えと大差はないが、ずい道が比較的短くすむこと及び北陸との連絡に至便なことから、結局ここが最終案として本決まりになった。こうして全線の基本ルートが定められ、33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。

 

「東海道新幹線工事誌 名幹工篇」日本国有鉄道名古屋幹線工事局 編


 「こうして全線の基本ルートが定められ、(昭和)33年8月幹線調査事務所の発注によって航空写真測量が開始されたのである。」
 ご存知のとおり、東京オリンピック開催が決定されたのは、1959(昭和34)年である。

 そして、1958(昭和33)年8月に「全線の基本ルートが定められ」たとなれば、「鈴鹿峠をやめて関ケ原ルートに決定したのは、東京オリンピック開催決定前」である

 他にも裏取りのネタを探してみよう。国会ではどのように答弁されているのか?

東海道新幹線鈴鹿峠を止めて関ケ原経由にした理由

 名古屋と関が原と申しますか、米原の間のルートにつきましては、実は、昭和三十三年の夏ごろから、まだ正式に新幹線をつくるかつくらないかきまる前から、航空測量だけはいたしておりました。航空測量の結果、ルートといたしましては、名古屋から鈴鹿峠を越えまして京都に入るルート、もう一つ、それと非常に近いところで、名古屋から八風と申しますところを通りましてやはり京都に抜けるルート、もう一つは、濃美平野を真横に横切るルート、この三つのルートを航空測量で大体測量いたしまして、このいずれにすべきかということを検討したわけでございますが、前二者につきましては、非常にトンネルが多く、工事も非常にむずかしいということで、事務当局といたしましては、前二者を捨てまして、もっぱら濃美平野を横断するという案で具体的な検討を進めてまいったわけでございます。その後、昭和三十四年になりまして、徐々に東海道新幹線の問題が予算化され、また、各地におきまして地上の測量を開始したわけでございます。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/046/0514/04606020514020.pdf

 1958(昭和33)年に航空測量をして、鈴鹿峠は捨てて関ケ原経由とし、1959(昭和34)年から予算が付いたので地上の測量を始めたと磯崎国鉄副総裁(当時)が答弁している。やはりオリンピック決定前に鈴鹿峠は捨てられているのであった。

 

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2020年5月 9日 (土)

東海道新幹線が予算オーバーした国鉄幹部は引責辞任したけど、東名・名神高速道路も予算オーバーしたのに道路関係者は辞めなかったのは、ズルイ??

 また扇情的な題名をつけてしまった。

 ただ、実際に国鉄関係者にはそう思っている方がいらっしゃるようなのだね。

新幹線の予算と高速道路の予算 (1)

新幹線の予算と高速道路の予算 (2)

「鉄道ルート形成史―もう一つの坂の上の雲 」高松良晴・著 日刊工業新聞社・刊 84~85頁

 引用した末尾には、「東京・神戸間の高速道路建設総事業費は、(略)、概算工事費の(略)ほぼ3倍であった。この東京・神戸間高速道路の建設費の増額は、十河が国鉄総裁が(ママ)辞めた昭和38年(1963年)当時、すでに明らかになっていた。だが、十河も島も、東海道新幹線の出発式に招かれることはなかった。」とある。

 最後の「だが」が文章が繋がらないのだが、要するにこのブログの件名のようなことを敢えて??書かなかったから繋がらないのである。著者の高松良晴氏は、国鉄OBである。

 鉄道(国鉄)ばかり予算オーバーの責任をとって、高速道路は予算オーバーの責任をとらずズルイズルイなのだろうか?

 この東海道新幹線の予算騒動について、建設省の高速道路担当官がどう見ていたかについても残されているのであわせて見てみたい。

新幹線の予算と高速道路の予算 (3)

「道を拓く -高速道路と私-」全国高速自動車国道建設協議会・刊 184・185頁

 当該頁の執筆者は、小林元橡氏(元・建設省道路局高速道路課長)である。

 「国鉄は黙っていたからあんなことになったけど、建設省は都度都度関係者に説明して了解を得ていたもんね」ということか。

 新幹線の予算オーバーが国会で問題になったときに、当時の国鉄副総裁も予算オーバーについて知らなかったと答弁していたのだが、(実際に知っていたかどうかはともかく)関係者への根回しをちゃんとやっていた建設省と社内でも秘密になっていた国鉄との差である。

 まあ国鉄もそうせざるをえない事情があったのかもしれないが、高松氏のように高速道路を逆恨み??するのはお門違いであろう。

 

 1964(昭和39)年2月29日付毎日新聞に「企業の森(242) 批判と称賛 -「新幹線物語」-」という羽間乙彦氏の連載記事が掲載されている。

 そこでも東海道新幹線と名神高速道路の予算問題を比較している。

 新幹線の予算と高速道路の予算 (4)

新幹線の予算と高速道路の予算 (5)  大石重成新幹線総局長の気持ちも分からないではないが、そのような国鉄の体制に世間は納得しなかったという。

 

 なお、ソースは公開できないのだが、当時の官僚が「新幹線の予算オーバーの責任をとって、世界銀行の担当者が更迭された」旨を語っているのを読んだことがある。

 十河信二、島秀雄は自己責任だが、騙された世銀担当者はとんだトバッチリである

 その後、高速道路については、東名高速道路、首都高速道路及び阪神高速道路に対して世界銀行の融資が行われたが、国鉄は東海道新幹線が最初で最後の融資となっているのは単なる偶然だろうか?

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  ところで、小林氏の話にも出てくる名神高速道路の予算だが、実際に予算管理に苦労し、当初計画から削減されたりした部分がある。

 せっかくなので、そういった部分についても紹介したい。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (4)  

「名古屋-神戸高速道路の構想」日本道路公団・刊 

 「本書は、昭和32年7月16日 大阪クラブにおける当公団 岸道三総裁の講演を要約し、さらに、その後、「整備計画の決定」等事態の推移にともない、若干の補訂を加えたものであります。」との説明がついている。 

 「名神高速道路は名古屋市も神戸市も通っていない」というのは、一部ではネタになっている。名古屋は東名高速道路が通っているが、神戸市には、中国自動車道の神戸三田ICができるまでは高速自動車国道のインターチェンジはなかった。 

 実は、名神高速道路の西宮~神戸間は、予算超過の帳尻をあわせるために、カットされていたのである。 

 名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (5)

 これは、名神高速道路の初期の計画図の一部分である。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (2)  

 よく見ると、西宮~神戸間の路線が描かれている。 

 実際には、この区間は阪神高速道路として施行された。(この当時はまだ阪神高速道路の計画も阪神高速道路公団もなかった。)

 また、岸総裁は「長いトンネルや橋は当面暫定2車線(片側1車線・往復2車線)とする」とも語っているが、これは予算の手当てがついたのか実際にはそのような区間はなかった。

 もののついでに、「道を拓く」からも当該関係個所を引用してみよう。

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (3)  

  当該部分は、斎藤義治氏(元・建設省道路局高速道路課長)である。先に引用した小林氏の文中に出てくる「斎藤氏」である。

 実際に暫定2車線とする長大橋、トンネルの名前もあげられている。 

 国鉄の新幹線と同様に、「まずは当初計画を通すために削減したけど、そのうち復活させるつもりだった」という趣旨が共通するのは興味深い。

 ちなみに、世界銀行も暫定2車線による施工を検討することを融資条件としていたようである。 

名神高速道路は神戸まで行かないのはなぜ (1)  

  これも「道を拓く」からの引用であり、大塚勝美氏(元・建設省→日本道路公団理事)の執筆部分である。

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 名神高速道路の予算カット部分で随分寄り道をしたが、 

 昨今では、「自ら責任をかぶった悲運のリーダー」的に語られることが多い十河、島氏であるが、「当時の霞が関ではこんな風に見られていた」ということで。 

 国鉄に騙された世銀の担当者はかわいそうだが、語られることはほぼ無いようだ。 

 

※この記事を書くにあたっては、同じベイスターズファンのけんちん氏のご協力をいただいている。末尾ではあるが感謝の意を表したい。

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2020年2月18日 (火)

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか

 先週の日曜日は雨が降っていて外出する気にならなかったので、ちょいと前回の東京オリンピックとドボクのネタをまとめてみた。

 また、前々回の記事の際にTwitterでアンケートをとったところ、「レイアウトを工夫しない読みづらい」との声を結構いただいた。

 

 なので、今回はパワポ型式で作ってみたのでどうぞ。

 実際にこれでどこかプレゼンするという予定は一切ない。

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (1)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (2)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (3)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (4)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (5)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (6)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (7)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (8)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (9)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (10)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (11)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (12)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (13)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (14)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (15)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (16)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (17)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (18)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (19)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (20)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (21)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (22)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (23)

 

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (24)

 

 東京都庁議の詳細はこちら→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (25)

  ここは読みづらいので、テキストを抜き出しておこう


 

首都整備局長(山田正男君) 

 

(略)

 最後に、三原橋─日比谷間の地下の自動車道路計画の問題について、経緯のご質問があったわけでございます。実はこの問題につきましては、都心部の道路交通を解決いたしますために、地下鉄の二号線を建設いたします際に同時に地下の一階に自動車道路を作る必要がある、こういう立案をいたしまして、数年来営団当局と協議を進めて参ったわけでございますが、営団当局がどうしても同意をいたしませんために、この計画については、建設・運輸両省並びに首都圏整備委員会が問題を取り上げまして、この三者の間で都の案について検討が行なわれたのでございます。そうしてその三者の間で技術委員会を作っていろいろ検討いたしたわけでございますが、東京都の主張にもかかわりませず地下の一階に道路を作ることを否定いたしまして、地下鉄のレベルと同じ地下の三階に自動車専用道路全作ることが適当であろう、こういう決定がされたわけでございます。その決定の理由は、地下の一階に道路を作る費用と地下の三階に作る費用とは、それほど費用の差がないということが主たる理由のようであったわけでございます。そこで、この決定を受けまして、都といたしましては、はたしてその決定の通りであろうかどうか、費用がその程度でできるかどうかということを検討して参ったのであります。特に地下鉄二号線の建設を急ぎますので、営団当局と鋭意協議を進めて参ったのでございます。当初十八億余で地下の三階に自動車道路ができるということであったのでございますが、いよいよ実際に協議してみますと、あるときは二十五億円といい、あるときは三十六億円といい、最近に至っては五十億円もかかるというような申し出があったわけであります。これでは都といたしましては自動車道路を作る投資効率、投資に対する効果が少ない、こういうことで建設省当局に、一応そういう決定がされたけれども投資効率が少ないんだ、さてどうするか、こういう協議をいたしておる際に、たまたま河野建設大臣からのご注意がありました。そういう決定がかって行なわれたけれども、実際にそういう投資効率が低いならば、最初想定されたよりも工事費が非常に高いならば、もっと再検討するべきである、こういうご発言かあった次第であります。現在建設運輸両省及び首都圏整備委員会と東京都の間で検討いたしておる途中でございますが、おそらく三階に地下自動車道路を作ることは、投資効率の点からいって必ずしも採用すべき性質のものでないと考えております。しかし、この都心部の道路交通能力をこのままで放置しておくことは適当でないのでございまして、これにかわる対策を目下関係者間で協議中でございます。いずれ遠からず決定を見るものと存ずるのでございます。

 

1962.09.29 : 昭和37年第3回定例会(第14号) 

 

 

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (26)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (27)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (28)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (29)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (30)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (31)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (32)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (33)

 

 

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (34)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (35)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (36)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (37)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (38)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で(39)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (40)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (41)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (42)  

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (43)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (44)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (45)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (46)

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (47)

  

東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (48)  

  

 東京オリンピックに向けて銀座の地下で何が起こっていたのか (49)

  パワポで作ったからといって、どこかで講演するつもりもないのだが、まあお試しということで。

 HTMLをいじるよりも、ベタベタパワポで切り貼りしちゃった方が楽ちんなのだが、SEOとしては弱いやね。 

  

 ---関係ブログ---

 アド街・日比谷特集記念/日比谷地下道はなぜ一方通行なのか?

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/06/post-f494.html

三原橋地下街に係る疑獄について(その1)

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/cat23477491/index.html

 三原橋地下街に係る疑獄について(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-554e.html 

三原橋地下街と銀座シネパトス さようなら 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-60c3.html 

三原橋地下街 銀座シネパトス最終日 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-f962.html 

日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0de1.html 

 三原橋地下街や観光センターの経営者の新東京観光株式会社についてのメモ

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-8445.html

三原橋地下街や橋上のビルに係る経緯の公式見解(都議会議事録)にたどり着いた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-4930.html 

三原橋地下街等をめぐる経緯を年表にしてみた 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-2781.html 

三原橋地下街の当初占用許可に係る東京都庁議公文書 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-3f36.html 

昭和31年2月28日東京都庁議「三原橋」問題の処理について→関係局間においてなお検討すること 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/31228-d1e1.html 

 三原橋(6月15日時点)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/615-23dc.html 

三原橋の建物は、地元から撤去せよとの訴訟を起こされていたというお話 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/post-81bb.html 

東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/03/--4890.html 

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その1) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-7702.html 

 三原橋地下街 カレーコーナー三原最終営業日

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-8f73.html 

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その2) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/post-30b7.html 

三原橋ビル(三原橋観光館)解体中(その3) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-7114.html 

 「安井都政の七不思議」と山田正男と三原橋地下街

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-740c.html

斉藤 理 山口県立大学准教授の「川がない橋が秘めた東京の履歴」を読んで 

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-924f.html

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2020年2月 7日 (金)

福川裕一千葉大名誉教授監修の「ニッポンのまちのしくみ」が酷い

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (6)

 こんな本をみかけた。

 お子様向けにまちづくりの仕組みを解説する本のようで、千葉大学工学部名誉教授の福川裕一氏が監修しているという。

 

 ただ、その中身がヒドイのだ。

 

 

 まずは、首都高。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (3)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (4)

 ここでも「オリンピックに合わせて急いで高速道路を通す必要があったから空いていたお濠の上を通した」「渋滞だらけの町を世界に見せるわけにはいかなかった」と書いている。

 へー、千葉大学工学部名誉教授様は流石言うことが違う。事実と。

 

 首都高を河川や道路等の公有地の上に通す方針を決めたのは、1957(昭和32)年7月。

 現在の河川の上を走るルートは、1957(昭和32)年12月だ。

 

 ちなみに、東京オリンピック準備委員会・設立準備委員会及び第1回総会開催は、1958(昭和33)年1月である。

 オリンピックの招致活動を開始する前からルートは決まっていたのである。

首都高と東京オリンピック  

 上記は、東京都技監等を歴任した鈴木信太郎氏の「私の都市計画生活 -喜寿を迎えて-」山海堂刊36頁からの引用である。

 首都高については「たまたまオリンピックが決定したので、始めからオリンピックの為ということは絶対なかったといえる。」と明言している。

 首都高のルートとオリンピックの関係については、以前にもブログにまとめているので、詳細はそちらを参照していただけると幸甚である。

・「首都高をオリンピックに間に合わせるためには『空中作戦だ』」のアンビリバボーを検証してみる 

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/04/post-f51a.html

 ・古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

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 また、東京の暗渠を説明しているところも怪しい。

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (1)

福川裕一監修「ニッポンのまちのしくみ」が酷い (2)

 東京の暗渠は、オリンピックがきっかけで、観光客が集まる大イベントに変なものがあったら恥ずかしいだからだそうですよ。

 

 

 東京の河川の暗渠化は、1961(昭和36)年の「36答申」がきっかけである。


 1960年代に入ると、高度経済成長期に突入した東京では人口1000万人を突破、さらなる人口集中と都市化が進む。市街地がさらに拡大し、森林や田畑、未舗装地が減少していくことで、各地の湧水は涵養源を失って涸れていく。用水路も灌漑の使命を終えて送水が停止される。こうして河川の水源は枯渇していった。

 一方で、急増する生活排水に下水道整備が追いつかず、自然の水と入れ替わるように川に流入する家庭や工場の排水量が増えていく。その結果、川の「主水源」が下水であるといったような事態が発生する。また、土地の貯水機能が消失したことで、降雨時の急激な増水も多発するようになった。

 このような状況を背景に、昭和36年(1961)、東京都市計画地方審議会河川下水道調査特別部会より「東京都市計画河川下水道調査特別委員会 委員長報告」、通称「下水道36答申」がまとめられ、中小河川の暗渠化・下水道転用が打ち出されることなる。

 暗渠化の理由としては、①河川を下水に転用することでコストや時間、技術面でのメリットを享受できること(河川の水路と自然勾配の転用)、②別途下水道を整備した場合、川は「水源」を失うことになってさらに環境が悪化すること、③流域住民からの苦情や強い要請、といったことがあげられている。

 

 「東京暗渠学」 本田創・著、洋泉社・刊 107-108頁から引用

 

 ひょっとしたら、著者は分かり易くするためにオリンピックをダシにしたのかもしれないが、暗渠マニアの方の本の方がよっぽど36答申の時代背景とあわせてきちんと分かり易く書けている。 

 オリンピックが推進力になった部分があるだろうが、オリンピックのために恥ずかしいものを隠すために「臭いものにふたをした」というのは短絡的にもほどがあるのではないか?

  

 ちゃんとした?学会の論文を読みたい方はこちらなどもどうぞ。

 「36答申における都市河川廃止までの経緯とその思想」中村晋一郎・沖大幹・著 水工学論文集,第53巻,2009年2月

 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00028/2009/53-0095.pdf

 興味深いのは、この論文では「オリンピック」という言葉が一言もでてこないのだ。なんでもかんでもオリンピックのせいにする福川裕一氏と専門家の論文は対照的である。

 

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 東京オリンピック時に東京都で局長として大活躍した山田正男氏は下記のように語っている。 

首都高速道路と東京オリンピックと空中作戦


対談「東京都における都市計画の夢と現実」 「時の流れ都市の流れ」403頁
 「オリンピックのために道路をつくるとかそんなことは夢にも考えておりません。」「この際年度を一年くりあげるということはあり得るけれども、それはオリンピックのためではなく、当然の事業であると考えてやっております。」と。

 

 発行元の「淡交社」は、茶道の本で有名だが、歴史を大事にしないと千利休が泣いているぞ。

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2019年12月15日 (日)

「いだてん」最終回記念~東海道新幹線東京駅乗入れと東京都、首都高との駆け引きをオーラルヒストリーから探る

 話題を呼んだNHKの大河ドラマ「いだてん」も今日で最終回だ。

 そこで、今回は

「東海道新幹線東京駅乗入れと東京都、首都高とがそれぞれ東京オリンピックに間に合わせるための駆け引きを関係者のオーラルヒストリーから探る」

 というやつをやってみよう。

 東海道新幹線が東京に乗り入れる際に、そのターミナルをどうするか?今の東京駅八重洲口に決まるまでに、皇居前とか新宿とかいろんな案があったのは、私のブログの読者様であればご存知だろう。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (5)

 東海道新幹線建設を担当した国鉄東京工事局の横山浩雄氏は下記のとおり語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (3)

 当初は皇居前地下や新宿が有力だったが、営業の要望で東京駅八重洲口に決まった旨語っている。

 では、当時国鉄新幹線局で営業担当の調査役だった角本良平氏はどう語っているのか?

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (10)

 土木の技術屋が決めるのなら事業費の関係で品川だったかもしれないが、営業サイドは東京駅がよいと。

 ところで、角本良平氏はこんなことも語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (7)

 東京都から山田正男(当時東京都建設部長)が交渉に出てきたら、あと3年は余計にかかったのではないかと。

 いわゆる「山田天皇」である。なるほど難関であっただろう。

 では、当の山田正男氏はどう語っているのか?

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (6)

 実は、山田正男氏は、別口で国鉄と交渉していたのだ。相手は当時国鉄東京工事局長だった好井宏海氏。

 それもルートは、新宿から日本橋川を通って東京駅に入ると。そして日本橋川は首都高と新幹線の二階建てだというのだ。昨今、日本橋の景観を首都高が壊しているとして話題になっているし、「いだてん」でも触れられていたが、実際にはもっとどでかい構造物が日本橋川を覆う計画を立てていたのである。

 

 東海道新幹線も首都高速道路も、概ねの計画自体は、東京オリンピック決定前に決まっていたが、工事を実際にオリンピックに間に合わせることが厳守となるとまた現場の話は変わってくる。

 そんな国鉄と東京都・首都高との駆け引きを井上孝東大名誉教授(当時は首都高課長)が語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (1)

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (2)

 井上孝氏は、技術屋といっても「都市計画屋」さんなのだが、都市計画サイドからすると都心の一極集中を防ぐためには、東海道新幹線の東京駅乗入れは了解し難いと。国鉄の営業と土木のどっちの好みといった問題ではない。国鉄との「戦争」とまで言い切っている。

 一方、首都高が国鉄の営業中の線路をまたぐ場合は、「国鉄が首都高から工事を受託して、線路の上空部分だけは工事は国鉄が担当する」ことになっているが、国鉄は「年に1か所」くらいしかできないと主張するので、オリンピックに首都高の工事が間に合わない。

 で、都は「東海道新幹線の東京駅乗入れを認める」、国鉄は「頑張って首都高の受託工事をオリンピックに間に合わせる」という取引が成り立ったようだ。

 

 これで上手くいくかというとそれはそれで用地交渉の相手がいる話だ。前述の国鉄東京工事局の横山浩雄氏はこう語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (9)

 有楽町付近の用地取得は、東京都が区画整理によって捻出するはずだったが、到底間に合わないので、新幹線の高架橋を建設するのに支障となる「寿司屋横丁」の寿司屋の二階を切り取りながら新幹線の工事を進めたというのだ。

実際に国鉄で寿司屋横丁の交渉を担当した西川正典氏はこう語っている。

東海道新幹線東京駅乗入れに係る東京都や首都高との駆け引き (4)

 「寿司屋を見るのも嫌になった」と。

  

 そんな関係者の成果は、神奈川県公文書館のウェブサイトの「オリンピック東京大会会場案内地図」で見ることができる。

 https://archives.pref.kanagawa.jp/archives/detail?cls=09_collect_govtpubl&pkey=3199612281

 https://archives.pref.kanagawa.jp/archives/mediaDetail?cls=09_collect_govtpubl&pkey=3199612281&lCls=04_media_govtpubl&lPkey=G000004000&detaillnkIdx=0

 <出典>

  横山浩雄氏・西川正典氏 「東工90年のあゆみ」別冊

  角本良平氏 「角本良平 オーラル・ヒストリー」

 山田正男氏 「東京の都市計画に携わって : 元東京都首都整備局長・山田正男氏に聞く 」 

  井上孝氏 「都市計画を担う君たちへ」

  

<関連> 

  古市憲寿氏「東京五輪“負の遺産” 首都高とモノレール 五輪に間に合わせた急ごしらえの代償」を検証する。

  http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2019/08/post-97a48d.html

  前回の東京オリンピックの際の首都高速道路公団職員の声

  http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-422f.html

 

  なお、本当は日本道路公団もオリンピック関連事業として第三京浜道路を建設したが、多摩川を暫定二車線で渡る部分しかできなかった。

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2019年11月26日 (火)

「せっかく買ったものをNHKにやるのは遺憾千万」~「いだてん」と「ワシントンハイツ」と「NHK」

NHK大河ドラマ『いだてん 〜東京オリムピック噺(ばなし)〜』

 

第42回「東京流れ者」2019年11月10日放送

 

1961年。3年後のオリンピック開催に向け、開発が進む東京。田畑(阿部サダヲ)は、政府が埼玉県内で進める選手村建設計画を中止させ、競技場に近い都心部に場所を確保しようと奔走する。田畑の意を受けた平沢和重(星野 源)が、代々木の米軍基地を返還するようアメリカに訴えるが、それが大きな波紋を呼ぶ。政府によってオリンピック担当大臣に任命された大物政治家、川島正次郎(浅野忠信)が田畑に忍び寄る。

 

https://www.nhk.or.jp/idaten/r/story/042/

 

 ということで、この回の「いだてん」では、選手村を朝霞から代々木のワシントンハイツに持ってくるために主人公たちが奮闘した話が描かれている。

 上記リンク先から見ることができるダイジェスト動画にも出てくるが、ワシントンハイツの移転費用の支出を渋る政府・池田首相に田畑が「この際NHKを移転して、カラーテレビ放送に備えるべし」と進言することで、政府もその気になるというものであった。

 

 ところで、これに対する東京都の実際の言い分は異なる。

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (7)

 これは、当時東京都で首都高建設等とともにオリンピックに向けてインフラ整備を担当していた山田正男氏の「時の流れ・都市の流れ」に書かれたものである。

 「いだてん」のストーリーと異なり、国と都がワシントンハイツを返還させ、五輪後は全面公園とすると決めた後にNHKが割り込んできたとある。

 また、既にNHKは麻布に移転先を確保していたとある。麻布でもカラーテレビは放送できなかったのか?

 

 山田正男氏は、「東京の都市計画に携わって 元東京都首都圏整備局長・山田正男氏に聞く」においても、この件について触れている。

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (5)

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (6)

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (3)

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (4)

 

 まあ、本件は「国の立場」「東京都の立場」「組織委員会の立場」「NHKの立場」によってそれぞれ言い分があるのだろうが。

 で、次に持ち出すのが、鈴木俊一東京都副知事(当時。後に都知事。)である。鈴木氏はもともと内務官僚であり、オリンピック知事の東氏に行政実務経験が無いことから、それを補佐するために国から送り込まれてきた能吏と受け止めてもらってよいかもしれない。「国のイヌ」とも呼ばれたらしいが。いずれにせよ、国と都の両方の立場を理解している者である。

 その鈴木氏の談によると下記のとおりである。

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (1)

いだてんとワシントンハイツとNHKの嘘 (2)

 「回想・地方自治50年」鈴木俊一

 

 「せっかく買ったものをNHKにやるというのは、まことに遺憾千万」「この件で一番もうけたのはNHKである。」と述べている。

 

 別に「NHKの大河ドラマは歴史に忠実でないとけしからん」等と言うつもりはないが、「NHKがホワイトナイト役になるようなドラマをNHKが作るのは、もにょもにょするなあ」ということで。

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2019年10月20日 (日)

首都高 諸橋雅之室長の「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」発言を検証してみる

「施工の神様」という建設業界向けのウェブサイトがある。https://sekokan-navi.jp/magazine/

 

 そこに「50年前の青空を取り戻す―。事業費3200億円の「首都高地下化」で日本橋を再生する」という題名で、諸橋雅之氏(首都高速道路株式会社 日本橋区間更新事業推進室長)のインタビュー記事が載っていた。

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901

 

 その中で「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」という項がある。

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901/2#anc-1

 詳しく見ていこう。

 


「オリンピックをやろうというときに、建設反対なんてヤボだ」

――首都高は「渋滞の解消」が至上命題だったんですね。

 

 諸橋室長 現在ある日本橋は1911年に完成しました。日本の道路元標があって、日本の道路網の始点になっており、大変土木にゆかりの深い場所です。1963年、この日本橋の上に首都高が架かりました。

 

 この区間は、首都高ネットワークの中心でもあります。都心環状線は「都心部のロータリー」で、郊外からやってくる車を処理する出入り口の集合体なんです。日本橋はこの都心環状線にあるわけです。日本橋の区間は、東京オリンピックでも重要なルートでした。

 

 日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。

 

 当時はとにかく、「東京の渋滞を解消する」ことが至上命題だったので、施工スピードが求められたと聞いています。時間のかかる用地買収を伴うルートではなく、運河や幹線道路などの公共空間上のルートを利用しました。

 

 銀座付近では、築地川を干上がらせて、河川の中に道をつくりました。現在の擁壁は当時の護岸なんです。日本橋に首都高を通す際、日本橋川を干上がらせて、日本橋の下を通す案もあったようです。

 

 ただ、ここの日本橋川は神田川とつながっていて、治水上、日本橋川を干上がらせることはできなかったので、やむなく日本橋の上に架けることになりました。ところが、実際に橋が架かると、景色が激変してしまったので、反対する声が上がりました。

 

 https://sekokan-navi.jp/magazine/30901/2#anc-1

 

 

 私が気になるのは「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。ただ、地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」といいう諸橋室長の発言部分だ。

 この辺は過去にブログで何回か取り上げているが、せっかくの機会なので、新資料も含めて整理してみよう。

 

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「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認し」たのか?

 

 果たして、「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」なんてことを「地元の方々」は言っていたのか?

 

 以前、このブログで「名橋「日本橋」保存会副会長、細田安兵衛氏の「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」というのは本当か?」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-d4c6.html

 という記事を書いたことがある。そこから一部再掲していこう。


 

 ――建設前に、地元で議論とか反対とかなかったのですか。

 

 「全然、記憶にないね。当時、私の父も含めて日本橋の旦那衆は、高速道路なんて見たことなかったんだ。私のじいさんなんて『なんだ、高速道路はもっと(背が)高いのかと思ったよ。随分低いんだな』と。そんな笑い話もあるくらい、よく知らなかった。むしろ便利になるからいいことだと。手塚治虫さんが描いた未来都市のイメージで、『羽田空港から日本橋まで15分で着いちゃうらしいぞ』『それは、すごいね』なんて気楽な話をしていた。『国策として大事な時に、お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』という思いもあった。そんな時代だよ」

 

NIKKEI STYLE 2020年から見える未来

「日本橋に首都高いらない」 地元重鎮が地下化に異議

「栄太楼総本舗」6代目、細田安兵衛さんに聞く

https://style.nikkei.com/article/DGXMZO20830810W7A900C1000000

(オリパラ編集長 高橋圭介)

 

 

 首都高速道路の日本橋附近の地下化において、ネット上では大変多くRT等されている記事である。

 『お上のいうことに反対するなんてみっともねえじゃないか』あたりが、なんとなく「いかにも江戸っ子らしい」イメージとも合致する。

 

 ところが、この細田安兵衛氏は、身内の名橋「日本橋」保存会の本の中では違うことを言っているのだ。

 

 名橋「日本橋」保存会が1992(平成4)年3月に発行した「日本橋架橋80周年記念誌」に掲載された対談「21世紀の日本橋を考える」において、細田安兵衛氏はこのように語っている。

日本橋は首都高に反対していた (1)

 

日本橋は首都高に反対していた (2)

 

 


 細田■日本橋のほうは橋の上に高速道路を掛けるときもいま一つ反対の声が弱かったし、金融機関の進出にも何ら異議を唱えなかったし、そのあたりの意識からちょっと違うんですね。

 まあ日本橋の旦那衆は大まかというか、人がよすぎるというか(笑)、仲良く遊ぶことは好きだが、この点は反省部分がありますね。

 

「日本橋架橋80周年記念誌」 名橋「日本橋」保存会・刊

対談「21世紀の日本橋を考える」103~104頁

 

 

 反対してるじゃん。「今一つ反対の声が弱かったのは反省部分」だって自分で言ってるじゃん。

 

 名橋「日本橋」保存会や地元関係者のいろんな言い分は、ブログにまとめているので併せてご覧いただきたい。http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2018/10/post-d4c6.html

 

 そこでは、「八木長本店 八木長兵衛会長によると、首都高建設に当地元は大反対だったが、オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺したという。」といった、諸橋室長の「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていた」との発言と随分ニュアンスが違う記事も紹介させていただいている。

 

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では、実際の日本橋地区の対応はどうなっていたのだろうか?

 

 あまりいつものネタを使いまわすのも芸がないので、今までのブログで使っていないネタをご紹介しよう。

 

 ネタ元は、山田正男元首都高速道路公団理事長(当時は東京都建設局計画部長)の対談集「明日は今日より豊かか 都市よどこへ行く」政策時報社・刊 である。

 

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する1

 

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する2

 

 オリンピック決定前の1958(昭和33)年12月に日本橋公会堂に呼び出されて、反対派の罵詈雑言を浴びたそうである。さすが日本橋の江戸っ子は小粋である。

 

 ちなみに、灰皿を投げられてネクタイを掴まれたのは港区で、これは首都高2号線である。

 先日、ブラタモリの白金の放送回で、「白金の住民が自然を守るために首都高に反対してルートを変更した」って言っていたじゃないすか。あれが港区の首都高2号線なのである。。

 

 結果的に首都高2号線は東京オリンピックに間に合わなかった。本来は第二京浜(国道1号)の渋滞緩和のために真っ先(オリンピック決定前)に建設に着手した重要路線なのに。

 

首都高速と東京オリンピック (4)

 

 当時首都高2号線を担当した現地所長さんの発言(首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載)がこれである。

 

 

 「江戸っ子は、オリンピックに協力するために首都高には反対しなかった」というのは、印象操作かファンタジーなんすよ。「江戸しぐさ」と同類。もちろん八木長兵衛さんのように「オリンピックのためという雰囲気に気持ちを押し殺した」という方はいらっしゃったけども。

 

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 参考までに補足すると、当時の報道でも、日本橋上への架橋について地元が反対している旨の記事が掲載されている。

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する3

 1959(昭和34)年2月23日付毎日新聞

 

 中央区は「区内全線地下化」を要望したとある。

 

清水草一が知らない首都高反対の動き3

 

 これは、オリンピック決定直前の1960(昭和35)年4月13日付読売新聞に掲載された日本橋附近の「絶対反対」を報じる記事である。

 

 私の調べた範囲では、日本橋がある中央区だけでなく、港区、品川区の議会が首都高反対の決議をしているようだ。都の事業に複数の区議会が反対決議をするとは異例の事態といえないだろうか?中央区や港区に住むような人はヤボだということだろうか?やはり江戸しぐさの人がいうように本物の江戸っ子は虐殺されてしまったのだろうか?

 

 なお、首都高速道路公団においても「地元ではこの橋の下を隧道で通るように強く要望された」と記している。

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (10)

 「首都高速1・4号線の開通に当って」西畑正倫(元・首都高速道路公団理事)「高速道路と自動車」1964(昭和39)年9月号27頁から引用。

 

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 また、宮様が日本橋の上に首都高をかけることについて当時の首都高理事長に懸念を伝えていたという話もある。

首都高と日本橋 (3)

 これは首都高速道路公団の広報誌「首都高速」に掲載された対談「仁丹の広告塔も見ゆ橋も見ゆ」からの抜粋で、「神崎」は当時の首都高速道路公団理事長神崎丈二氏である。

 高松宮が東京都を通して首都高理事長に「日本橋はどうにかならないものか」という「残念というか複雑な気持」を伝えていたというのである。

 

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 諸橋雅之室長は、施工の神様の記事では、「ところが、実際に橋が架かると、景色が激変してしまったので、反対する声が上がりました。」と語っているのだが、橋が架かった後どころか、東京オリンピック決定前から地元に反対されていることがお分かりだろうか?

 まあ、諸橋雅之室長も、「首都高速道路公団の歴代理事長が言っている話なんてみんなひっくりかえしてみせるぜ」というだけの物証を社内で押さえているのかもしれないのだが、その辺の判断は皆様にお任せする。

 

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 建設当時新聞は反対したのか?

 ところで、諸橋雅之氏は、「施工の神様」のインタビュー内で「日本橋の上に首都高を通すことに対しては、建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。」と語っている。これはどうなのか?

 

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (14)

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (13)

 

首都高速の日本橋川に架かる高架橋のデザイン等  (12)

 首都高が日本橋の上に架かることを報じる1962(昭和37)年12月24日付読売新聞

 「橋脚や街燈は原型損なわない」という見出しに
「感傷も吹き飛ばすように工事が近づいてきた日本橋」「スマートになる完成予想図」というキャプションがついている。

 当時の読売にとっては、日本橋なんかは感傷にすぎなかったと。

 読売は、徹底していて、首都高完成後にもこんな記事を書いている。

 1962(昭和37)年1月25日付読売新聞夕刊では

河川活用による高速道路建設

・「首都高の河川敷利用が少ないため用地買収等に必要以上の経費がかかっている」

 

・「河川が不要になったら干拓して掘割式の自動車道路を建設したり、河川を廃止できなくても高架の自動車道路を建設したりするのが世界各国の大都市における実情」

 

・「一日も早い道路整備が必要」

 

と主張しているのである。今はこんなことを社説で主張している読売新聞が。

 

首都高日本橋 (2)

 東京オリンピック開催を間近に控えた1964(昭和39)年1月1日の朝日新聞の正月特集の一面で日本橋川を塞ぐ首都高の写真を国立競技場よりも大きな写真で紹介している。

日本橋川をふさぐ首都高を「美しい曲線」とする朝日新聞 (2)

 「ビルの谷間に美しい曲線を描く江戸橋インターチェンジ」である。日本橋川は「ビルの谷間」で首都高は「美しい曲線」なのである。

 

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 ということで整理すると

 首都高 諸橋雅之室長「建設当時から新聞などである程度の反対はあったようです。」→新聞は建設後さえも反対していなさそう。

 首都高 諸橋雅之室長「地元の方々は「国を挙げてオリンピックをやろうというときに、建設に反対するなんてヤボだ」ということで、容認していただいていたようです。」→日本橋公会堂に東京都局長を呼び出して罵詈雑言。中央区議会も反対決議。

 

 名橋「日本橋」保存会副会長 細田安兵衛氏「(首都高が日本橋の上に架かることへの反対は)全然、記憶にないね。」→自分で「反対した」と言っている。地元の反対証言が複数あり。

 という結果になってしまった。

 

 最後に首都高速道路公団広報誌「首都高速」における神崎理事長(当時)との対談で語られた日本橋の地元の声を載せておこう。

首都高諸橋雅之氏の日本橋ヤボ発言を検証する4

 

  まあ、橋本室長は、事業を進めるのが仕事であって、歴史の語り部が仕事ではないのだから、私のような窓際サラリーマンの言うこと等気にせず、業務に邁進していただきたい。

 

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