カテゴリー「本州四国連絡橋/四国新幹線」の10件の記事

2020年5月20日 (水)

昭和22年に田中清一が作成した初期縦貫道案~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(4)~

 読者の方は、そろそろ7600km構想に行くんじゃないかなーなんて思われるかもしれないが、実は、更に時間を遡るのである。

 第3回は、田中清一が1949(昭和24)年に昭和天皇に縦貫道の「田中プラン」を説明した話を書いたが、そこに至る前段としてはこんな話がある。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (12)

「中央自動車道建設をめぐる政治力学ー田中清一プランを中心としてー」栗田直樹 愛知学院大学論叢第39巻第1号10~11頁から

引用文献の(6)は、「東久邇宮日記 日本激動期の記録」東久邇宮稔彦・著 徳間書店・刊 232頁

 

 田中清一は、1945(昭和20)年の敗戦直後から各方面に働きかけをしていたのである。

 ということで、今回お見せする図面は、田中清一が東久邇宮に説明してから昭和天皇に説明するまでのちょうど間になる、1947(昭和22)年のものである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (5)

(以下、青焼き図面は、富士製作所において保管されている資料を閲覧、撮影させていただいたもの)

 ※左上の「国土」の字が2回出てきたりするのは、複数枚に分けて撮影した写真を「image composer」でひっつけたときに上手くいかなかったものである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (13)

 「国土開発自動車道予定路線及び接続主要道路又は一般自動車道」という題名。

 「縦貫自動車道」ではない。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (4)

 「昭和22年3月23日著作」とある。

 ざくっと見ると、今まで見てきた縦貫道の路線図のなかで一番まともというか現実の高速道路に近いというか既存の鉄道路線に近いというか。。。といった感想をお持ちになったのではなかろうか?

 田中清一は、5万分の1地形図を丹念に調べ、実際に現地を踏破しながら縦貫道の案を練り上げていったというが、初期はそんな余裕もなく、既存の鉄道路線が記載された地図を見ながら高速道路網を落としていったためではないだろうか?

 その後、「背骨と肋骨」といった思想が優先されていったのではないだろうか?(地図の題名にも「縦貫」と入っていないし。)

 また、例によって各地方毎に見ていこう。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (7)  

 北海道は、道東へ向かう路線が、 勇払から日高山脈を越えることになっている。日勝峠と日高横断道の中間くらいだろうか?旧国鉄富内線よりも更に南か?

 長万部~札幌間は、最初からぶれずに中山峠経由の最短路だ。

 それ以外は基本的に国鉄の路線をなぞっているような感じである。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (8)  

 北東北地区も各地への「肋骨」路線の曲がり方が国鉄っぽい。 また、津軽半島と下北半島の両方へ支線が伸びている。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (6)  

 新潟へは、関越自動車道ルートと磐越自動車道ルートの二本が引かれている。 

 最も注目すべき点は、東北道が「西東京(調布あたりか?)」から、関越道の更に西側を北上し、熊谷、舘林あたりを巻いたループを描きながら宇都宮に至る点である。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (3)  

 身延から静岡へ抜ける肋骨線は、以降の絵では直進しているが、この線はあきらかに国鉄身延線に影響されているであろう。田中清一氏は、戦前に沼津に富士製作所を移設して以来、静岡東部には特に地理感があると思われるが、それでもこの頃は直進していない(いわんや、東北、北海道をや)というところだろうか。 

 紀伊半島に三本の支線が伸びているが、当時はまだ国鉄の紀勢本線は東線、西線に分断されており、国鉄ですら一周していない頃である。林業開発等に期待を寄せていたのだろうか?

田中清一の縦貫道構想(最初期) (2)  

 中国地区は、山陽道がないくらいで、今のネットワークに近い。 

 注目すべきは四国である。今まで、高松が四国自動車道の本線から離れた支線扱いという冷遇ぶりを説明してきたが、最初期は、徳島が起点ではなく、高松起点(本州とは 、玉野ー高松で連絡)となっているのである。

 それが、何等かの理由で、少なくとも1949(昭和24)年以降は、「徳島が起点で高松は支線」という扱いになっている。本四間の連絡を神戸ー鳴門ルートに一本化した故なのかもしれない。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (1)  

 九州も、東九州自動車道が無いことを除けば、今の高速道路ネットワークに近い。 

 興味深いのは、長崎への路線が、西海橋経由となっているところである。ただし、実際に西海橋が着工したのは、1952(昭和27)年、竣工したのは1955(昭和30)年である。 

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 全国図はこれくらいにして、中央道の古いバージョンの青焼き図面も保管されていたので紹介したい。 

田中清一の縦貫道構想(最初期) (9)  

 「国土開発中央自動車道案略図」である。

田中清一の縦貫道構想(最初期) (10)  

 八王子ー横浜間に国鉄横浜線に沿った支線状のものが見られるが、他には支線のような記載がない。 

 先にあげた1947(昭和22)年の「国土開発自動車道予定路線及び接続主要道路又は一般自動車道」よりも古い図面である可能性がある。 

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田中清一の縦貫道構想(最初期) (14)  

 また、「TOKYO-KOBE SUPER HIGHWAY ROUTE」と題された青焼き図面も保存されている。

 栗田氏の論文にあるGHQへ説明したものだろうか?

 この図面で注目すべき点は、東名高速道路ルートが「SEPARATELY PLANNED ROUTE」とされていることだ。

 田中清一氏をはじめとする「縦貫道派」は、「東海道派」と激しく対立した(当時の敗戦国日本の体力では二本同時に施工することは困難とみられていたことも背景にある)のだが、この図面が作成された頃は、東海道への高速道路の建設も「SEPARATELY PLANNED ROUTE」扱いとなっていたということである。

 それが、どこかの段階で対立する敵対案に変わっていったわけだ。

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田中清一の縦貫道構想(最初期) (11)  

 前の図面は「国土開発中央自動車道案略図」であったが、この冊子は「資源開発中央道の建設に就て」である。

 後に縦貫道派の中でも「あまり資源開発いうな」という点で問題になったのであるが、それは別途。

 この冊子の「新日本の建設と世界の楽園」というキャッチが気になった方もいらっしゃるかもしれない。

 次回はその辺に逸れてみよう。

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2020年5月19日 (火)

昭和24年に田中清一が昭和天皇に説明した縦貫道計画のルート案~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(3)~

 第1回、第2回と「日本縦貫高速自動車道協会」による、縦貫道のネットワーク図をご紹介してきたが、今度はそれを遡る昭和20年代の田中清一氏によるネットワーク図だ。

田中清一の縦貫自動車道初期案 (1)

 このポスターは、田中清一氏が興した富士製作所(沼津市)に現在も保存されているものである。(※特別に見学の許可をいただいた方からお声かけいただいて、ご一緒させていただき、閲覧等させていただきました。)

 ポスター右上に田中清一氏の写真が載っている。参議院議員との肩書がついている。田中氏が参議院全国区に自民党から立候補し、当選したのは、1959(昭和34)年であるが、このルート自体は、田中氏のご子息が設立した「財団法人 田中研究所」作成のパンフレット「大いなる先見」に1949(昭和24)年に昭和天皇に「田中プラン」を説明したとするネットワーク図をその後も使い続けてきた(字面だけはアップデートした)ものと推測される。

田中清一の縦貫自動車道案の説明、講演 (3)  

田中清一の縦貫自動車道案の説明、講演 (2)  

写真は、富士製作所所蔵のもの 

説明文は 、「大いなる先見」財団法人田中研究所・刊 2頁から引用

 

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 そんな能書きはいいから早く細かい路線図を見せろと言われそうなので、どんどんアップしていく。

田中清一の縦貫自動車道初期案 (6)

 北海道については、本線の縦貫道部分は、其の後の「縦貫道協会」のものよりも、むしろ現在に近い。

 支線も数は多いが、第2回に紹介した支線よりもまともな(工事がしやすそうな)ルートのように見える。

 国鉄名羽線マニアにとっては、「高速道路にも名羽線が未成線として計画された時期があったのか」と感銘を受けるかも。それだけ炭鉱へのアクセス改善が重要視されていたということなのだろうが。追分、富良野周辺の支線網がやたら細かいのも炭鉱へのアクセスを考慮したのだろうか?

 北海道の福島まで、青森の三厩までの支線が計画されているのは、その間をフェリーで結ぶ構想とセットなのだろうか?

田中清一の縦貫自動車道初期案 (2)  

 東北地区は、三厩への支線と岩船への支線が他の構想には見かけないくらいか? 

 新潟へは、関越道と同じようなルートであるが、逆にこれは後の縦貫道協会の案では消えている。技術的に困難だったのだろう。 

田中清一の縦貫自動車道初期案 (3)  

 この絵で、特徴的なのは、飯田~松本~軽井沢~高崎~宇都宮と結ぶ本線、そして、関ケ原~敦賀~和田山の本線である。縦貫道法に取り込まれていない本線である。前者は 旧・中山道の高規格化という位置づけだろうか?後者は、関ケ原から列島を「横断」したり、若狭湾沿いを走ったりと「縦貫道」の定義からはずれているので、支線としてはともかく、本線扱いは不可解である。

 前者は、実際には、中央道、上信越道、北関東道等で具体化されているが、松本~軽井沢間だけは高速道路としてはネットワークされていない。三才山トンネル有料道路が結んでいる。奇しくも、武部健一氏が「道路の日本史」で追加を提唱している区間である。 

 このほかに注目すべき路線は、松本~富山間である。安房峠手前から国道471号沿いに抜けていくのだろうか?

 

田中清一の縦貫自動車道初期案 (4)

 ここで目をひくのは、中国道である。大阪から一旦和田山まで北上してから津山へ折り返している。大阪よりも下関から敦賀を直結することを優先した思想なのかもしれない。 

 四国については、神戸~徳島が本線扱いだ。当該区間は、第1回で紹介した1956(昭和31)年の縦貫道協会の案では、支線扱いで、第2回で紹介した1957(昭和32)年の案では、支線からも落とされている。 

 また、法律で定められた四国自動車道は、徳島~高知~松山というV字型ルートだが、当初は途中高松を経由し、宇和島へ 降りるM字型ルートだったことが分かる。これが「縦貫道」として「純化」していく中で、高松と宇和島が本線から落ちたということだろうか?

田中清一の縦貫自動車道初期案 (5)

 九州では、福岡~佐世保がわざわざ脊振山地を本線として「縦貫」している点が注目点か。縦貫道法はなぜか長崎ではなく佐世保を重視している。 

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田中清一の縦貫自動車道初期案 (8)

「国土建設一円会本部」の字が見えるだろうか?

 

 これは、敗戦国で金が無かった当時の日本で、縦貫道等の田中清一が提案する施策を実現するために、国民に毎日一人一円の貯金を呼び掛けたものである。

 田中清一の縦貫自動車道初期案 (7)

1956(昭和31)年3月29日付朝日新聞から  

 この記事によると、この一円貯金の運動には、「片山哲、藤山愛一郎、杉道助、神野金之助、清瀬一郎、河合弥八、松方三郎、郷古潔、大野伴睦、石井光二郎、下村海南、鶴見祐輔、三浦伊八郎の諸氏ら政界、財界の名士が就任」とある。 

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田中清一の縦貫自動車道案の説明、講演 (1)  

 田中清一が全国を講演して自分のプランの実現を訴えていた様子が写真に残されている。 

※「大いなる先見」財団法人田中研究所・刊 23頁から引用

 背景の路線図は、このバージョンである。

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 せっかく路線図のバージョン違いを貼るのだから路線計画の趣旨もバージョン違いを貼っておく。「縦貫道協会」によるものではなく、田中清一個人名で書いた報文である。

 田中清一の縦貫自動車道初期案 (9)

「縦貫道路による国土の改造」田中清一・著 「資源」1956年1月号 34頁から引用 

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2020年5月17日 (日)

1957年国土開発縦貫自動車道建設法のルート思想とは? ~日本の戦後高速道路ネットワークの推移(1)~

 これからシリーズもので、日本の戦後高速道路ネットワークの推移を追っていきたいと思う。

 ざくっと流れを追うとこんな感じだ。

●1957(昭和32)年 「国土開発縦貫自動車道建設法」の制定

 民間の田中清一等を中心にした「田中プラン」を元に議員立法した3,000キロの国土を縦貫する自動車道

●1966(昭和41)年 「国土開発幹線自動車道建設法」の制定

 新たに7,600kmのネットワーク

●1969(昭和44)年 「新全国総合開発計画(いわゆる「新全総」)

 7,600kmに9,000kmを追加する構想

●1987(昭和62)年 「第4次全国総合開発計画(いわゆる「四全総」)

 14,000kmの「高規格幹線道路」

●1987(昭和62)年 「国土開発幹線自動車道建設法」の改正

 14,000kmのうち、11,520kmを高速自動車国道に指定

 

(参考)

https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/hw_arikata/pdf9/3.pdf

 これらを数回に分けて、どのような思想でどのような路線を形成していったかを整理していきたい。 

国土を拓く縦貫道路  

「国土をひらく縦貫道路」小松崎茂 「こども家の光」1957(昭和32)年11月号

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(第1回)「国土開発縦貫自動車道建設法」の制定 

  

 早速だが、縦貫道法のネットワークは下記のとおりである。 

国土開発縦貫自動車道  

 後に北陸自動車道を追加。東名高速道路は「東海道幹線自動車国道建設法」として、別の法律で1960(昭和35)年に制定。 

 この縦貫道案を推進するために、「日本縦貫高速自動車道協会」が設立されていた。 

 ここでは、「縦貫道協会」が1956(昭和31)年に作成した「国土開発縦貫自動車道建設計画概要(改訂版)」を基にその思想等を紹介したい。

 国土開発縦貫自動車道ネットワーク (2)

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (1)  

 長くなるが、その思想を理解するために、「縦貫道法案」を国会に提案した際の「提案要旨」を抜粋する。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (8)  

 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (9)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (10)

 縦貫道法というと、中央道が南アルプスをぶち抜くルートが有名だが、そういったルートをとった趣旨が赤枠部分に書かれている。「外に失った領土を、内に求める」ために「未開後進の山岳高原地帯をも縦横断する」ことで「人の住むに値する領域」を拡大するためである。 

 この冊子には「農家の二男、三男対策」という言葉は出てこないが、戦前は農地を相続できない「農家の二男、三男」を海外植民地に送り込んできたのだが、敗戦によりそれができなくなったため、縦貫自動車道によって新たに「二男、三男」を送り込むべき土地を切り拓くという趣旨も含まれている。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (11)  

 そして「国民の完全雇用を期するための就労対策事業」である。 

 「ナチスドイツのアウトバーンが失業対策事業として行われた」と世界史の授業で習った人も多いかもしれないが、それは「ナチスのプロパガンダ」に過ぎないものとして、現在では経済効果としては否定する説も多い。 

(例)https://www.express-highway.or.jp/info/document/rpt2017001.pdf の17~18頁

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 また、その趣旨の1つとしての「国土の普遍的開発の促進」についても抜粋しておく。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (12)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (13)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (14)  

 「この国土の普遍的開発を促進することにより、各地方における適地産業の立地促進、新都市及び新農村の建設をはかり、国民生活の領域の拡大を期することができる」「国土開発縦貫自動車道が国土開発を冠する所以である」とある。 

 既存の幹線の飽和対策ではなく、あくまでも地方の新都市及び新農村の建設を図るための「開発道路」なのである。 なので東海道を外して敢えて山間部を通しているのだ。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (15)  

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 ここまでが「思想」の部分。これから「それを具体化するためのルートの考え方」をご紹介。 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (3)  

 「中国自動車道が、なぜ山陽道筋ではなく、山間部を通るルートが先行したか」については②の「表日本及び裏日本の両方えの連絡を容易にし、できるだけ巾広い勢力圏をもたせ」というあたりを体現しているのだろうか。 

 また、③の「地形の許す限り、未開発後進の資源地帯、山地高原地帯をも貫通させ、高速自動車交通による国土開発の徹底をはかる」というのが先に述べた「国土開発を冠する所以」の具体化である。 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (4)  

 ④の「農耕地の潰廃を極力避け」「村落及び都市の中心を通すことを避け」というのは敗戦後10年しか経っておらず、食料供給にも不安があった時期を反映している。都市も戦災でせっかく焼け残ったのに、せっかく復興したのにそこを立ち退くのかという観点があるのではないか。(※首都高が河川や運河等の公有地の上を通すことを選択したのもこういった戦後の背景を考慮したものでないか。) 

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 これらの方針に沿って、縦貫道の予定路線が決まっている。

 また、下記のように、「支線となるべき主要な一般道路又は一般自動車道の路線」についても提言されている。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (7)  

 これらをあわせてご紹介したい。 

○中央自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (1)  

中央自動車道  

 現在なお建設中である三遠南信自動車道や中部横断自動車道の前身というような路線が支線としてあげられている点が興味深い。 

  

○東北自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (2)  

東北自動車道  

 新潟への支線が磐越自動車道ルートである。当時の技術では現在の関越自動車道で関越トンネルをぶち抜くのは困難だったことのあらわれであろうか? 

 

○北海道自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (3)  

北海道自動車道  

 「洞爺湖の西北方を通り最短距離で札幌市附近に至る」あたりが現在と大きく異なる。また、支線の表にはかいていないが地図には載っている浦河への支線は日高山脈を横断する難易度の極めて高いルートだ。北海道は本線支線含めて「安易な態度は棄てゝ思い切って自然を克服する」にもほどがあるチャレンジ精神極まるルートどりだ。 

  

○中国自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (4)  

中国自動車道と四国自動車道  

 「中央部を行くことにより(山陽山陰の)両地域を勢力圏におさめる」「両地域の開発に同時に資するため多少地形上の不利を忍んで敢えて本路線を選んだ」を読めば、なぜ中国道が真ん中を通っているのかがお分かりであろう。 

  

○四国自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (5)  

 現在、ほぼその形を残していないのが四国自動車道である。比較路線の那賀川~物部川ルートも含めて「ヨサク」並みの酷道ルートだ。確かに四国の未開発の山地開発にはよいかもしれないが。 

 また、高松ではなく徳島が起点となっている背景には、「神戸~洲本~徳島」の支線による本四連絡が念頭にあったことが推測される。 

  

○九州自動車道 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (6)  

九州自動車道  

 九州道のルートの特色は「直方市附近を経て南下し、鳥栖市と日田市の中間」を通って「門司~鹿児島の最短路線」をとるところである。九州最大の都市である福岡市を経由するつもりはないのだ。 

 その後の建設省の資料では、犬鳴峠を経由する案等があったようだ。もし犬鳴峠を九州自動車道が通過していれば、怪談や肝試しも減ったかもしれない。 

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 以上が、「国土開発縦貫自動車道建設計画概要(改訂版)」による高速道路ネットワークの概要である。 

  

  同書では、この他に「自動車道」とは何か?、「高速道路」と何が違うのか?についても触れている。

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (16)  

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (17)  

 ネット上でも、少なくない方が「自動車道と高速道路の違い」について定義づけようとチャレンジしていると思われるが、一応これが「公式回答?」である。 

 背景を解説するなら、当時の道路法では「自動車専用道路」といった規定はなかった。道路法第48条の2が追加されたのは1959(昭和34)年である。 

  「縦貫道協会」では、建設省が所管する道路法では自動車専用の道路はできないので、道路法に基づく「高速道路」では自動車以外を排除できない。運輸省と建設省が共管する道路運送法に基づく「自動車道」として整備すべきだとしているのだ。

 素人からすると、「自動車道と高速道路の違いは、役所の管轄争い」とでもすべきところなのだろうか?? 

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 このようなルートの「縦貫道」は技術的な困難を伴うこと等から、「国土開発幹線自動車道建設法」等でルート変更されていく。最も有名なのが、中央自動車道の諏訪回りへの変更であるが、建設省道路局長・事務次官等を歴任した高橋国一郎氏は、高速道路調査室長在職時を振りかえってこう語っている。 

国土開発縦貫自動車道ネットワーク (18)  

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義 : 高速道路に焦点をあてて 」高橋国一郎編101頁から引用。 

 九州道や東北道を山から都市に下ろすのに苦労したが、中国道は無理だったと。仙台宮城インターチェンジが仙台市内から離れた旧宮城町にあるのもその名残で、本当は仙台の東を通したかったと。現在の仙台東部道路、仙台北部道路が高橋氏が想定した変更ルートなどだろうか? 

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 こんな感じで手持の高速道路資料の虫干しをやっていく予定です。 

 宜しくお付き合いのほどを。 

 

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2020年5月 2日 (土)

ブルートレイン瀬戸を3分割して高松、松山、高知へ直通させる構想があった

 先日、サンライズ瀬戸の四国内分割構想がtwitterに流れていたが、ブルートレイン時代の瀬戸でも高松、松山、高知への三分割の運行構想が世間に出ていた。


ブルートレイン瀬戸


1987(昭和62)年3月7日付毎日新聞から


 新聞記事を貼るだけではアレなので、往時の写真でも。


ブルートレイン瀬戸


 1970年代末の国鉄横浜駅で撮影したもの。


ブルートレイン瀬戸


 まだ、客車の方にはマークが入っていないころ。


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2020年4月30日 (木)

明石海峡大橋を四国まで新快速が走り、鳴門線が複線電化されるなんてどこから出てくるの?~本四架橋神戸-鳴門ルートに四国新幹線が決まった経緯~

 「明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-98f1.htmlは、私のブログでも、多くのアクセスをいただいている人気記事なのだが、これはあくまでも「やめた理由」である。

 そこで、この記事では「神戸ー鳴門ルートに新幹線を載せることになった理由」「在来線は載せなかった理由」「瀬戸大橋よりも建設が後になった理由」等を整理してお披露目したい。 

 

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (1)

 若干、扇動的な題名であるが、「前の記事との対比で、SEO上、喰い合いにならないようにした方がいいかなー」なんて思ったりした次第である。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (2)

 ということで、いつもどおり?過去の文献から切り貼りしていきたい。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (3)

 ご覧のとおり、神戸ー鳴門ルート(本四淡路線)は、児島ー坂出ルート(本四備讃線)と異なり、新幹線一択なのだが、何故か「在来線が走るはずだった」という声が聞こえる。

 「妄想鉄」を自覚している人はいいんですよ。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (4)

 実際には、神戸ー鳴門ルート、児島ー坂出ルート共に、四国新幹線と在来線の両方が検討はされている。上記は、その対比が分かる図面である。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (5)

 で、検討の結果、神戸ー鳴門ルートには、四国新幹線しか載せないということになった。その理由が上記に書かれている。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (6)

 まあ、ネット世論の諸兄の期待を裏切る理由で、新幹線一択となっていたのである。

 ところで、「在来線では、高松、松山への時間短縮が見込めない」というのは、後に出てくるが、当時は瀬戸大橋には新幹線を載せるつもりはあまりなくて、「瀬戸大橋は、将来新幹線も載せられるように場所はあけておくけど、基本的には貨物輸送用」、「神戸鳴門ルートは、貨物を載せられないので新幹線の旅客用」と住み分けをしていたため、新幹線による時間短縮が望まれていたためである。

 淡路島の通勤を考慮したという資料は見たことが無い。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (7)

 「鳴門駅が古いままなのは、四国新幹線ができるときに改築するはずだったので」という声も聴いたことがあるが、残念ながら四国新幹線は鳴門駅を通らない。

 本四淡路線を在来線が走るときには、鳴門駅接続も検討されていたようではあるが、それは最終的には消えているので。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (8)  

  では、起点側はどうなっているか?

 同様にネット上では「新神戸駅だ」とか「トンネルが続くので西明石駅から戻ってくる」とかいろいろあるが、公式資料上はこうなっている。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (9)  

 白川峠とはこのあたりだろうか? 

 

 ちょうど山陽新幹線にも明かり部分がある。 

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (10)  実際に明石海峡大橋の計画、建設に従事された島田喜十郎氏の「[新版]明石海峡大橋」には、鉄道ルートの図面が小さく載っていて大変興味をそそられるのであるが、本当に小さいんですよ。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (11)  

 新幹線は、舞子から高架橋で北上する予定で、環境上の問題となっていたと、それが新幹線をやめたことでトンネル構造が可能となったと。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (12)  

 新聞では「三田コース」という計画が報道されたこともある。

 三田??さすがにこれは三木の誤植だと思いたいのだが。三木なら、山陽道から神戸淡路鳴門自動車道が分岐していくルートと合致するので、それなりに整合性はある。 

 

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (13)  

 先にも触れたが、神戸ー鳴門ルートは新幹線、児島ー坂出ルートは貨物中心の在来線という住み分けがされていた。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (14)  

 明石海峡大橋の径間が長いので複々線ができないから新幹線単独と書いているのも注目すべき点かと。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (15)  

 「児島ー坂出ルートは、当面貨物専用路線」と。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (16)  

 四国新幹線が神戸―明石ルート一択だったのは、上記のように第二国土軸的な発想の「西日本縦断新幹線」があったというのも注視すべきであろう。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (17)  

 その「西日本縦断新幹線」のルートが「新宿ー甲府ー高山ー小牧ー奈良ー大阪ー明石ー鳴門ー高松ー松山ー佐多岬ー大分」という気宇壮大なルートである。高山!!??名古屋をとばして高山??こりゃまた壮大な「名古屋飛ばし」である。

 記事中、田中は田中角栄首相(当時)、鈴木は鈴木善幸自民党総務会長、鉄道建設審議会会長(当時:のちに首相)である。

 角栄の上越新幹線のみならず、東北新幹線も鈴木善幸の政治路線と言われたものである。(採算的には仙台までが妥当とされたが、岩手を地盤とする鈴木善幸が盛岡まで伸ばしたともいわれる。)

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (18)  

 新幹線の基本計画を定める際に、当初は四国新幹線は神戸ー鳴門ルートのみだった。

 前述の住み分けでいけば首肯できる。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (19)  

 ところが、最後の最後にもうちょっと路線を追加できそうだというところで、紀勢新幹線や中国横断新幹線(松江ー広島)、常磐新幹線等との争いの中で、松江―岡山ー高知の路線が追加されたのである。

 どういう政治力学が働いたのかは不勉強ながらたどりつけていないが、ここで最後の一押しがなければ、今の四国新幹線誘致の姿も随分変わっていたことであろう。

 なお、この辺のお話が好きな方は、「全国新幹線鉄道網の形成過程角一典・著 https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/34003/1/105_PL105-134.pdfをご覧いただくと大層具合がよい。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (20)  

 ここからは、どうして神戸ー明石ルートは児島ー坂出ルートよりも建設が後になったのかを整理してみる。

 ネット世論では「四国と関西を最短で短絡する神戸―明石ルートに先に鉄道が開通していれば、JR四国の採算も改善されていたはずだったのに」という声も聞かれるところである。

 

この辺は、「明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-98f1.htmlのおさらいにもなるのだが、工事上の難易度の違いがある。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (21)  

 

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (22)  

 明石海峡大橋には重量貨物を載せられないことから、神戸ー鳴門ルートを先行すると「神戸ー鳴門ルートの新幹線」と、「貨物輸送の宇高航路」を並存させる必要が出てくる。

 また、現行の貨物輸送体系が宇高航路を中心に構築されているので、瀬戸大橋に貨物輸送を託すことで、既存の貨物インフラをそのまま活用できるメリットもあるわけだ。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (23)  

 そんなわけで、鉄道側は「真ん中のルートを強く希望した」のであろう。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (24)  

 ところで、今の若い子は知らないかもしれないが、本四架橋についてはこんな流れがある。

 いろんな「大人の事情」で、3ルート同時着工
  ↓
 オイルショックに伴う需要抑制で3ルートとも工事中止
  ↓
 「1ルート4橋」のみ工事再開で、本州と四国を結ぶルートとしては、児島ー坂出ルートのみを建設。
 上記記事の「他ルートは部分橋」ということで、神戸ー鳴門ルートは大鳴門橋のみ工事再開。
  ↓
 中曽根臨調で、整備新幹線や残りの本四架橋は凍結。
 瀬戸大橋線(本四備讃線)の工事中止も検討されるが、建設債務をJRに引き継がないことで工事続行。

 

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (25)  

 その中で、児島ー坂出ルートのみが選ばれた理由は、こちらの記事にある。

 記事中の「金丸長官」は、田中派の金丸信国土庁長官(当時)である。田中派ですらこれが精一杯だったのである。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (26)  

 で、最後に「明石海峡に鉄道が通っていれば、ドル箱路線になって、JR四国の採算は改善されたはずだったのに」という点を整理してみる。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (27)  

 今となっては、1路線を除いて大赤字で、いつ黒字転換するかメドがつかないという計画を通してしまう「鉄道建設審議会」とは。。。という思いが強い。

 それだけ田中角栄首相をはじめとした自民党の鉄道族(運輸族)の力は強大だったのだろう。田中角栄-鈴木善幸ラインの賜物である。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (28)  

 しかし、本四架橋の鉄道建設費は、本四公団の借金で作って、国鉄が利用料を払って返済するというスキームである。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (29)  

 当時、瀬戸大橋の建設費返済だけでも、国鉄四国総局の収入の倍以上だったことが問題視されている。ここに神戸ー鳴門ルートの鉄道施設建設費の返済がオンされたらいったいどうなるのか?

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (30)  

 瀬戸大橋と大鳴門橋の場合は、他のローカル線建設費と同様に国鉄長期債務にぶちこんで、JR負担をなくしたのだが、民営化後に開通する明石海峡大橋の場合はそうはいかない。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (31)  

 山根孟・元本州四国連絡橋公団総裁も「役に立っているけど投資に比べてどうか」「備讃線でもういっぱい」と語っている。

 明石海峡大橋の鉄道はまさに「役にたつけど投資に比べてどうか」の典型であると言えるのではないか。

 なお、ここから先は、お遊びなのでスルーしてもらって結構です。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (32)  

 ということで、算数遊びをしてみる。遊びなのでマジレスはご勘弁を。。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (33)  

 

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (34)  

 

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (35)  

 ということで、超雑な結論。。。

明石海峡大橋と鉄道・新幹線架設の経緯 (36)  

 

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2020年4月 6日 (月)

大鳴門橋の四国新幹線関係鉄道資産の簿価は1円だった。

 「減損」ってご存知だろうか?

 最近経済記事で「買収した会社が予想通りの業績をあげないので、のれんを減損した」というような記事がDeNAとかソフトバンクとかで流れたりするが、鉄道資産も減産したりするというお話。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった6

小学3年生1985(昭和60)年4月号から

 きっかけは以下のツイートである。

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JR瀬戸大橋線は、国鉄民営化の際には、工事中止が議論されたくらいなのに、どうして今は黒字なのか?

 ああ、またクドイ、長い題名をつけてしまった。

 

 先日の国土交通省からJR四国への経営改善の指導をきっかけに、JR四国の経営について、ネットでも議論が飛び交っているところだ。

 その際に、「JR四国の唯一の黒字路線は瀬戸大橋だ。」というのがよく引き合いに出されている。

 ところで、私の過去の記事で「JR30周年記念:国鉄改革で本四備讃線(瀬戸大橋線)は建設中止になるはずだった!?」というものがある。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/jr30-0cd3.html

 行政改革、国鉄民営化の議論の際には、「瀬戸大橋線は作っても赤字だから建設を中止せよ」という議論がなされていたのだ。

  

 瀬戸大橋線は赤字か黒字か

「瀬戸大橋にかける夢」石合六郎(山陽新聞社記者)・著 国際交通安全学会誌 14巻1号9頁から引用 

 https://www.iatss.or.jp/common/pdf/publication/iatss-review/14-1-02.pdf

  

  上記の記事を一読して理解できた方は、これから下の部分は読まなくても大丈夫。

  これから私なりに「瀬戸大橋線は黒字なのか赤字なのか」を整理してみたい。

 JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (1)

  そもそも、本四公団とJR四国と国鉄はどのような関係なのか、ざくっとパワポ一枚にぶちこんでみた。

JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (2)  

  そして、これが本四架橋における道路と鉄道の費用負担の考え方だ。

 JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (3)

 JR四国は、橋を所有する本四公団(今は高速道路保有・債務返済機構)に対して利用料を払って鉄道施設を利用するのだが、もともとその利用料が、四国の鉄道に対して莫大なものだったのだ。 

 JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (4)

  本来は現在のJR四国の鉄道売り上げの倍の利用料を払う必要があったのだ。こんな事業が民営化された一般企業で成り立つわけがない。だから建設中止が臨調で議論された。

JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (5)  

  結局その利用料相当額はJR四国ではなく、国民が負担することとなった。

 JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (6)

 左下に「本四公団債務」とあるのがそれだ。 

 JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (7)

 本四公団が民営化されるまではこのような仕組みでお金が動いていた。大鳴門橋で先行して建設された鉄道部分は、JRのような収入が発生しないので、維持費用も含めて税金で対応している。 

 JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (8)

 実際には、国鉄清算事業団を通して金が動いている。 

 JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (9)

  国民負担になった金額はこちら。 「四国の人が払った税金も使って他の地方では整備新幹線を作ったのだから、今度は四国に全国の人の税金を使って四国新幹線を作る順番ですね」といった主張を目にすることがあるが、実は、大鳴門橋の新幹線施設部分と瀬戸大橋の新幹線施設部分には、国鉄が支払うはずだった利用料の代わりに、既に全国の国民の税金が使われているのである。

 JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (10)

  今度は、JR四国のサイトから。「瀬戸大橋線の加算運賃100円は、建設費の回収ではなく維持管理費」と明記してある。結構ここを知らない人が多い。100円で建設費も回収していると誤解しているのだ。

JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (11)  

  では、建設費も含めた加算運賃は幾らになるか、ザックリ試算してみよう。

 「こんな加算運賃では、他の交通機関に対してJRが勝負にならないじゃないか?鉄道のことを重視すべき」と考える方もいらっしゃるかもしれない。逆に言うと、他の交通機関に対して、JRが税金でこれだけゲタをはかせてもらっているのだ。 

 JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (12)

 一応、裏取りも兼ねて、JR四国のサイトからも利用料関係の頁をご紹介。 

JR瀬戸大橋線は赤字なのか黒字なのか (13)  

 現在の鉄道施設利用料の根拠はこちら。 

  「JR四国の経営が苦しいから、利用料を減免してもらうべき」という声もあるようだが、ご覧いただいて分かるように、現在の利用料の内訳は、瀬戸大橋のメンテナンスに係る費用や公租公課といった実費の道路と鉄道の費用分担の自己負担分なのである。じゃあ、誰が肩代わりするのか?

 なお、冒頭の「瀬戸大橋にかける夢」では、利用料の分は三島基金に上積みされているとある。それであれば、減免の要望が仮にあったとしても、よほどその額が乖離していない限りは難しいのではないか? 

 

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2017年9月10日 (日)

本四橋・大鳴門橋への四国新幹線架設は本来中止するはずが徳島の政治家が復活させた?

 先日読売新聞にこんな記事が報道された。

 

大鳴門橋の下部、観光活用へ…トロッコ列車案も

 

 兵庫県南あわじ市は、淡路島と四国を結ぶ大鳴門橋(1629メートル)に鉄道を敷設するため造られた橋の下部について、観光への活用の可能性を探る調査を始めた。

(中略)

 大鳴門橋は、上部が自動車専用道路、下部は新幹線規格の鉄道を通す計画で建設された2層構造の道路・鉄道併用橋。神戸淡路鳴門自動車道として1985年に開通したが、鉄道の敷設計画は具体化していない。

 

(中略)

 一方、紀淡海峡をまたいで本州と四国を結ぶ新幹線の整備構想があることを踏まえ、「四国の経済界は今も新幹線の実現に期待しており、下部の他用途転用はそれを遠ざけると受け取られないか。安全性の観点からも慎重な検討が必要だ」との声もある。(高田寛)

 2017年09月06日 20時50分 http://www.yomiuri.co.jp/economy/20170906-OYT1T50051.html

 

 本州四国連絡橋神戸・鳴門ルート関連の鉄道はこのように建設されるはずであった。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (4)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (6)

 「道路」1973年1月号「本州四国連絡橋の計画」本州四国連絡橋公団 から引用。

 明石海峡大橋に鉄道を架けるのをやめた話は、先日「明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/08/post-98f1.htmlに書いたところである。

 ネットやTwitterでは、「明石海峡大橋を道路専用にしたため、大鳴門橋の鉄道施設が無駄になった。」「四国新幹線が建設できなくなったせいでJR四国の経営が悪化した。」といった書き込みが見られる。

 そもそも大鳴門橋だって新幹線設備は建設せずに道路専用橋とすることで政府の方針は固まっていたのだが、徳島の政治家(三木武夫元首相)がひっくり返したのである。当時四国新幹線のアテはほぼ無くなっていたにもかかわらず。

 昭和54年版「交通年鑑」の、昭和53年3月9日の項に、「大鳴門橋を鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方針を固めた」とある。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった

 

 当時の報道も確認してみよう。

本四橋⼤鳴門橋は鉄道はずし「道路単独橋」に――3省庁、建設促進で⽅針固める。

 

 建設、運輸、国土省庁は9日、本州四国連絡橋の神戸・鳴門ルートにかける大鳴門橋を当初計画の「道路鉄道併用橋」から「道路単独橋」に変更する方針を固めた。「国鉄財政が悪化しているのに、開通の見込みの立たない鉄道を併設するのはおかしい」との異論が以前から政府部内にあったが、政府は公共事業促進の一環として、道路単独橋にして完成を急ぐことになったもので、4月中に鉄道建設審議会に諮って正式決定する。

 

1978(昭和53)年3月10日付 ⽇本経済新聞


 この報道の後、国会質疑でも大鳴門橋への鉄道架設の件が取り上げられているので紹介したい。

○二宮文造君 ところで、やっとこのごろに到達したんですが、去る三月の七日に建設、運輸、国土、この三省庁の事務当局者の話し合いで、神戸-鳴門間のいわゆるAルートですね、これの大鳴門橋を、ずっと進んできた道路、鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方向で合意に達したというふうな報道がされておりますが、この件はどうでしょうか。

○政府委員(浅井新一郎君(建設省道路局長)) 御指摘の点でございますが、新聞情報でそういうようなことが流れております。事実、事務当局間で会ったことはございますが、これは大鳴門橋の建設に絡みまして、先ほどもございました、従来併用橋ということで工事がずっと進んでまいっておりまして、いよいよ塔の発注時期を迎えておるわけでございます。ただ、鉄道橋併用問題につきましては後ほど御説明あると思いますが、新幹線問題についていろいろな運輸当局の考え方もあるようでございます。そういうことを絡めまして情勢分析をするために集まったわけで、その席で方針が決められたというようなことはございません。

○二宮文造君 じゃ、新聞報道はうそですか。困りますか、答弁に。

○政府委員(浅井新一郎君) うそというわけでもないんですが、話し合いをしただけのことでございまして、結論を確認したわけでも何でもないわけでございますので、結論を出したというようなふうに報道されるのは、ちょっと大げさな報道ではないかというふうに考えます。

(中略)

○二宮文造君 新聞等を見ますと、国鉄さんいよいよ登場ですが、新聞報道を見ますと、国鉄の方、いわゆる運輸関係ですね、こちらの方が一おりたで、採算上の理由で、非常に強硬な御意見でこの会合をリードされて、それがいわゆる道路単独橋に踏み切ったと、こういうニュアンスになったと思うんですが、鉄道側の事情、いわゆる道路単独橋に至る鉄道側の事情を、ちょっとでなく詳しく説明いただきたい。

○政府委員(山地進君(運輸省鉄道監督局国有鉄道部長)) 国鉄が再三の財政援助を仰ぎながら毎年巨大な赤字を計上していることは先生方の御承知のとおりでございまして、昨年の運賃法定制度の緩和ということをやっていただいたのもその一連の助成の中の一つでございまして、五十年以降運賃を五〇%も値上げするというような非常にドラスチックなことをやったにもかかわらず年間九千億にも上る赤字を計上しておりまして、今回の運賃の法定制度を緩和したということを軸にする再建の基本方針というのは昨年の十二月の二十九日に政府で決定したわけでございますけれども、今後の国鉄再建については並み並みならぬ努力が必要だろう、これは政府の助成もさることながら国鉄自身の経営というものを立て直さなければならないという事態になったわけでございます。このような国鉄の再建というものを今後五十三年、五十四年にわたりまして五十年代中に何らかのめどをつけたいというような中でこの本四の架橋の併用部分を考えてみますと、四国新幹線、いまの大阪から大分に至る新幹線というのがいつできるかということについては非常に見通すことがむずかしい問題の一つになってきております。いま整備五線というすでに整備計画のできているものについても、一体これは財源問題も含めましてどういうことになっていくのかということで議論されているわけでございますが、その他の計画路線についてはさらに時間がかかる問題だろうと思うわけでございます。
 こういうことを考えてみると、一体その併用部分の金というもの、まあ六百億ぐらいの負担を国鉄がせざるを得ないわけでございますが、これが四国新幹線ができない間、まさに何らの効果も生まないままに置くということは金利が毎年積み重なってまいりますので、これは国鉄、それから本四公団についても大変な圧迫要因になる。こういうことを考えまして、一体この併用橋というものについてもう一回見直すべきじゃないだろうかという議論をわれわれの方でいたしまして、今後も本四における鉄道部分というのは、新幹線で行くにしても併用橋であることが必要なのかどうかということで、とりあえず私どもとしては、単独橋の考え方というものは一体いままでの経緯から見て認められるものかどうか、かような観点で国土庁並びに建設省といろいろお話をしているというのが現状でございます。

(中略)

○二宮文造君 運輸省にお伺いしますが、結論は、鉄建審に諮問をして、その最終決定を得て方針が決まると、こういうことですが、鉄建審への諮問はいつと考えていますか。また、やっていますか。

○政府委員(山地進君) 鉄道建設審議会にかける部分と言いますのは、先ほど御説明いたしました本州四国連絡橋公団法に基づいて基本計画を決めた神戸-鳴門ルートについて併用橋ということが出ておりますので、それを直すための諮問を鉄建審にかけなければならない。それからもう一つ、新幹線鉄道網の整備に関する法律の基本計画というのはこれは何ら変更がないわけでございます。したがって、こちらの部分は鉄建審にはかけなくてもいいと、こういうのが事情でございます。私どもとしては、できるだけ早く鉄建審も開いていただいてこの問題の結論を得たいと、かように考えております。

 

1978(昭和53)年3月28日 参議院予算委員会

 ざくっというと、「四国新幹線なんかいつできるかアテもつかないのに大鳴門橋に鉄道施設を造っても600億+金利がかかるばかりなので道路単独橋にしたい。」ということであろう。

○森下委員 (略) 三月二十八日の参議院の建設委員会で運輸省の山地国鉄部長は、四国新幹線の問題でこういうふうに答弁をしております。要旨は「四国新幹線大阪-大分間の完成など見通しを立てるのも難しい。大鳴門橋の新幹線併用部分に対する国鉄の分担金は、金利だけでも国鉄を圧迫するので、併用を見直すべきだという議論を内部でしてきた。」それから「大鳴門橋の計画から新幹線併用を外すため、鉄建審にかけるよう、関係者間のコンセンサスを得る努力をしている。しかし新幹線整備法に基づく四国新幹線の基本計画はなんら変更するものではない。」こういうふうに答弁をされております。

 それから四月十四日に住田鉄監局長は、紀尾井町の赤坂プリンスホテルで開かれました高知県関係者との懇談会でこういうふうにおっしゃっておるようです。「大鳴門橋に新幹線を通すのは国民経済的にも問題があり計画を変更したい。その際四国新幹線はトンネルにすることになるので単独橋が正式決定されれば、明石-鳴門のトンネル調査を始めたい。」それから「計画変更を鉄道建設審議会に諮る際は徳島、高知など関係県の了解を得ることを前提にする」こういうふうに実はおっしゃっております。

 その内容を見ますと、現在の国鉄の財政内容を見ましても、併用橋の場合は六百億ばかりの巨額の金を運輸省が負担するわけでございますから、これも大変でございますし、大阪から淡路を通って四国それから大分県、これが四国新幹線のルートでございますけれども、これができ上がるには二十年も、遅ければ三十年も四十年もかかるのではなかろうか。残念ながらわれわれ自身もそういうふうに予想をされるわけです。そのために運輸省の持つべき六百億の負担金、これが金利等を考えますと、現在の貨幣価値でも二千億も三千億もかかる。効率的に非常によくない。われわれも、決算面から考えましても、併用橋ができて早く開通できればいいと思いますけれども、現実はそう簡単なものじゃないということを考えまして、最善よりもむしろ次善の策をとって、そして単独橋でもいいから早く橋をかけてもらいたい。いろいろ条件はあると思いますけれども、実はそういう方向で進んでもらいたいと私は思うのです。

 そこで、いろいろお聞きになっておると思いますけれども、運輸大臣に次のことをずばりお聞きしたいわけでございまして、ひとつ明快にお答え願いたい。
 まず、大阪から四国を通りまして大分へ参ります四国新幹線、これはすでに豊後水道、大分と愛媛県の間ではトンネル調査をやっております。運輸省で予算を二億円ばかり毎年つけておりますから実績がございます。そういうことで、併用橋問題は別にして、四国新幹線は絶対に断念しないのだ、あくまでもやるのだ、これをまずお聞きしたい。

 それから、鉄建審、先ほど私が申し上げました鉄監局長や国鉄部長の発言の内容にも、鉄建審とか閣議でこれは前に併用橋ということで決めておりますから、これをおろすのはそう簡単にいかないと思うのです。その点やはり運輸大臣の決断によって早く決まる。しかも、不景気なときでございますから、早く公共事業をやらなくてはいけないし、下部構造は大鳴門の場合はできておりますから、上部構造にかかる場合に併用か単独かということが非常に問題になりますし、どうしても六月までに決めないとまた一年延ばされる。実は昨年も予算をそのまま使わずに置いてあるようなことでございまして、これも決算から見ましてもまことに効率の悪い問題でございますから、ひとつ大臣の方からお答え願いまして、また具体的な問題は鉄監局長の方から補足していただいても結構でございますから、大臣からよろしくお願いします。

○福永国務大臣 まず四国新幹線の件につきましては、お話にもありましたように、これの計画には変更は別にないわけでございます。率直な話、やりようにもよりますけれども、どっちが先になるか、これはなかなか、世に急がば回れというような言葉等もございますので、今後どうなるかと思います。そういうように私は思いますけれども、いずれにしてもその四国新幹線につきましては、考え方を変えるものではなく、推進していきたいと存じます。

 それから、鉄道建設審議会との話等につきましては、いま閣議で決めたかのようにお話がございましたが、これはどっちでも大した差はないと言えばそれまででございますが、閣議で決めたのではなくて運輸大臣が決めたことになっております。いずれにいたしましても、それについて変更する措置を講じなければならないことは、これはもう御指摘のとおりでございます。

 なかなかこの節、運輸省に振りかかってまいります問題が多い。一方においてはやれとおっしゃるし、一方においてはやるなと言う方が実は多いのでございます。気の弱い小生、いろいろ悩んでおりますが、いずれにいたしましても、お話のように決めるべきことは決めていかなければならない。せいぜい努力をいたしたいと存じます。

○住田政府委員(運輸省鉄道監督局長) 鳴門大橋と明石大橋の併用橋でございますが、これは閣議了解とか閣議決定ということではなくて、運輸大臣が鉄道建設審議会に諮問いたしまして、その答申を得て、本四公団に併用橋でやるように基本計画で指示をいたしたものでございます。

○森下委員 鉄道建設審議会ですね、四月の上旬ということでわれわれ非常に期待しておったのですが、いろいろな問題が起こったものですから延びておるし、いろいろ関係府県とも連絡を意欲的にやっておるようでございますけれども、私は、でき得ればこの四月中にぜひお願いしたい、またやるべきである、こういうふうに実は思っておるのですが、大臣の方で、非常にむずかしい問題がございます。一〇〇%了解を得るということは非常にむずかしいと思うのですけれども、少なくとも四月中にできなければ連休明けぐらいにはひとつ鉄道建設審議会を開いていただきまして、前向きでやるという私はお約束を得たいと思います。この点、どうでございますか。

 もう六月からこれやってもらわないと、また一年延びますからね。景気浮揚ということで公共事業で大型予算をつけておるわけでございますから、その点ひとつでき得れば四月の下旬でも、どうしてもぐあい悪いときには連休明け直ちに、ぜひ私は鉄建審ではっきりしてもらいたい。どうでございますか。

○福永国務大臣 森下さんお話しのように、私どもも実は四月、なるべく早くやりたいというような気持ちがあったことは事実でございます。正直に申します。いろいろございまして、そういうように運んでいっていないということを大変残念に思いますが、いま、いつ開くということを申し上げると、すぐこれまたいろいろなことになりますので、よく森下さんのお話を伺っておいて……というように存じます。いずれにしても、できるだけ早いことが望ましいと思っていることに変わりはございません。御了承いただきたいと存じます。

○森下委員 この併用橋か道路橋かという問題は、地元の国会議員もわれわれも含めまして十数年前から論議されておる問題でございまして、運輸省だけの責任じゃなしに私どもの責任も実はございます。しかし、政治家である以上、やはり決断すべきときには決断して、県民なり選挙民からの非難を受けることもあるだろうし、先見性がいかになかったかということの批判を受ける場合もあると思うのです。しかし、やはり決断すべきときには決断して、そして後の批判を受けていくのが、批判を避けて通れないのが政治家の一つの宿命でございますから、あえて私も申し上げるわけでございます。
 そういうことで、はっきり言いにくい点もよくわかりますが、ひとつ意欲的にそういう方向でぜひお願いしたい。これは尖閣諸島の問題や成田の問題よりは、国内の問題でございますから簡単にいけるし、われわれ自身も、関係機関、また関係民に呼びかけて了解を得るように努力をしていきたいと思います。

 

1978(昭和53)年4月18日 衆議院決算委員会


 この森下元晴代議士は自民党で徳島県選出である。大鳴門橋の地元議員が、「さっさと鉄道建設審議会にかけて大鳴門橋に鉄道を架けないことを決めて道路単独橋でよいから早く造ってくれ」と政府に申し出ているのである。

 他方、運輸省も「本四架橋では新幹線はできなくても、別途本四間に新幹線用のトンネルを掘るからいいじゃないか」と高知県に申し出ていたことも分かる。

 1978(昭和53)年6月5日付毎日新聞は、その後の駆け引きを下記のとおり報じている。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった2

 先の国会答弁では、持って回った言い方だった運輸省だが、この記事ではもっとズバズバ発言している。

 方針転換の理由を運輸省の住田鉄道管理局長(※引用者注 後のJR東日本社長)は、「新幹線の併用橋を造るには、全部の新幹線計画が決まらなければならない。大鳴門橋はともかく世界最長のつり橋になる明石海峡大橋に新幹線を乗せることは、騒音対策も含め、技術的に極めて困難だ。それに新幹線はいつできるかわからない。21世紀までむずかしいという見方もある。併用橋にすると赤字の国鉄が約4割の費用を負担し、利子だけでも大変。21世紀まで通らないなら、そのときに別にトンネルを掘った方が安くつく」と説明する。

 この考え方で運輸省は建設省、国土庁、大蔵省と事務レベルの根回しを始めておおむねの了解を取り付け、関係県の国会議員も大部分が「道路だけなら早くできる」と単独橋に傾いた。

 ところが、ここで大きく「待った」をかけたのが地元徳島選出の三木前首相。

(中略)

 この動きを横目に見ながら運輸省は「三木さんは併用橋を造っておけば、将来、新幹線を引く”人質”になる、とお考えのようですが、たとえ併用橋になっても人質にはなりませんよ。本土―四国間の新幹線計画は神戸―鳴門ルートのほかに、岡山―坂出―高松―高知ルートの計画もあります」と冷ややかだ。

 

1978(昭和53)年6月5日付毎日新聞


 ネット世論では「なんで明石海峡大橋を道路単独にしたのだ。そのせいで新幹線ができなかったじゃないか」と言わんばかりだが、実際には大鳴門橋建設の段階で国は四国新幹線はできないから大鳴門橋だって鉄道施設は不要であるとしていたのである。

 そこをひっくり返しにかかったのは、地元徳島出身の三木武夫前首相(当時)である。記事にもあるが、この騒動の2年前である1976(昭和51)年に大鳴門橋を少々強引な形(それゆえに四国新幹線の神戸―鳴門ルートへの敷設については正式なオーソライズを得ていない形でもある。)で着工に持ち込んだのは首相在任中の三木である。その後いわゆる「三木おろし」で党内派閥争いに敗れ首相の座をひきずりおろされた後に、政敵の福田内閣が大鳴門橋への鉄道工事を中止させようとするのである。

 今の人は知らないかもしれないが、三木首相は「金権」田中角栄内閣が世論の批判をあびて倒れた後に「クリーン三木」として脆弱な党内基盤にもかかわらず登場時は国民から一定の人気を得ていた政治家である(いわゆる「バルカン政治家」でもあったが。)。そのクリーン三木が地元利益のためになりふり構わず動いたのである。

 この記事によると、淡路島を含む兵庫2区を地盤とし、明石海峡大橋建設に力を入れていた原健三郎(ハラケン)代議士が中曽根派であることもあり、中曽根康弘(当時鉄道建設審議会会長)の支援を受けたようだ。当時の自民党はいわゆる「三角大福中」の派閥争いの真っ最中であり、中曽根にとっては、福田の敵の三木は「敵の敵は味方」ということになるのだろうか。

 ところで、中曽根は首相在籍時には国鉄分割民営化を実施している。その際、本四架橋については、瀬戸大橋に架かる国鉄線「本四備讃線」の建設を中止しようとする動きすらあった。

 その動きは「JR30周年記念:国鉄改革で本四備讃線(瀬戸大橋線)は建設中止になるはずだった!?」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/jr30-0cd3.htmlに書いてある。

 中曽根氏も国鉄改革の際には偉そうなことを言っていたが、自分もちょっと前には党利党略というかそれ以前の党内派閥利益の駆け引きために鉄道建設審議会会長の座を悪用?して国鉄の赤字を増やしていたのである。

 1978(昭和53)年7月31日付朝日新聞でも同様の動きが報じられている。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった3

 

 徳島県では当初、運輸省のこんな計画変更案に対し「やむをえない」との空気が支配的だった。武市恭信同県知事も3月の県議会で「早期完成が最優先」と弱気の答弁をしたほどだ。あまり新幹線にこだわって、橋そのものの完成が遅れたのではもとも子もなくなる、との心配も手伝って、橋の運命は「単独橋」に決まったかに見えた。

1978(昭和53)年7月31日付朝日新聞


 地元徳島県も四国新幹線をあきらめかけていたというわけだ。

 ここで当時の日経新聞の関連記事の見出しを追ってみよう。

 

大鳴門橋問題、道路単独への変更は流動的――武市徳島県知事語る。 1978/03/19  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋、道路単独なら条件付き、近く6団体で協議――徳島県知事示唆。 1978/03/23  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県、強まる大鳴門橋の「道路単独」に強く反発――架橋資金調達の縁故債拒否も。 1978/04/15  日本経済新聞 地方経済面 四国 

徳島県、議会で大鳴門橋の道路単独橋への変更受け入れを示唆、57年度完成変えず。 1978/04/20  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県と徳島県、大鳴門橋の新幹線併用橋実現で意見一致。 1978/05/10  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋の新幹線併用橋建設は厳しい情勢――徳島県議会特別委員長ら語る。 1978/05/27  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋の新幹線併用の見通しは明るい――運輸省などに陳情の徳島県会委員長ら語る。 1978/07/15  日本経済新聞 地方経済面 四国

徳島県、大鳴門橋建設問題で併用橋推進へ高知・兵庫両県知事と意見集約へ――知事談。 1978/07/18  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋は道路新幹線併用橋――自民党四国開発委が決定。 1978/07/21  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋、政治決着にメド、新幹線併用で前進――高知県知事語る。 1978/07/22  日本経済新聞 地方経済面 四国

本四架橋の大鳴門橋は道路・鉄道の「併用橋」に――建設相、経団連会長に意向表明。 1978/08/01  日本経済新聞

大鳴門橋は新幹線併用橋に――三木武夫前首相、徳島市で語る。 1978/09/05  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県、大鳴門橋鉄道併用問題で国の負担での早期着工を建設・運輸両省に強く要請へ。 1978/09/08  日本経済新聞 地方経済面 四国

大鳴門橋は基本方針通り併用橋――中曽根康弘自民党総務会長、徳島で語る。 1978/10/15  日本経済新聞 地方経済面 四国

本四架橋神戸―鳴門の「大鳴門橋」は道路だけの単独橋に――自民調査会が決議。 1978/12/13  日本経済新聞

大鳴門橋はあくまで併用橋で――国鉄基本問題調査会の単独橋決議で徳島県知事語る。 1978/12/14  日本経済新聞 地方経済面 四国

高知県、国鉄基本問題調査会の大鳴門橋「単独橋」決議で対応策迫られる。 1978/12/14  日本経済新聞 地方経済面 四国

 このように、自民党も揺れるし地方も揺れていたのである。徳島県は一時期弱気になるのだが、高知県が強気だったという。

 

 高知県はこれに猛反発した。鉄道併用橋は高知県民の願いであった。ルート争いでは神戸―鳴門ルートを支持してきたのに簡単にあきらめるのかと徳島県を厳しく非難した。

 

本州四国連絡橋神戸―鳴門ルートの計画史 羽田野剛士、近藤光男、近藤明子

https://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00039/200411_no30/pdf/232.pdf

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった4

 上記の記事は、自民党の国鉄基本問題調査会が道路単独橋決議したことを報じる1978(昭和53)年12月13日付読売新聞記事である。

 この記事では2点興味深い点がある。

 一つ目は、厳しい国鉄財政を踏まえて、運輸省だけでなく国鉄も鉄道併用橋に反対しているという点である。

 二つ目は、道路橋を所掌する建設省は併用橋を主張しているという点である。日頃から「鉄道と違って道路はお金があってズルイズルイ」と言っている鉄道マニヤ諸氏には不思議であろう。そこには、本四架橋については、道路と鉄道が費用按分して事業を進めているという事情がある。つまり鉄道が撤退してしまうと全額道路が負担しなくてはならなくなる。また単純に道路だけの問題ではなく、本四公団に出資している国、関係地方公共団体の出資金の追加負担が出てくるのではないかという問題もある。そのために「国鉄が赤字だからといって、自分の都合だけで撤退しちゃいかんよ」と釘を刺しているのではなかろうか。この辺はあてずっぽうの推測にすぎないのだが。

 

 最終的には現在あるように大鳴門橋は鉄道併用橋で決着がついた。下記は、それを報じる1979(昭和54)年1月5日付読売新聞記事である。

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった5

 この記事によると

・もともとは道路と鉄道は、(応力比率に基づき)59:41で、総工費1,527億円のうち、道路901億円、鉄道626億円を負担するはずだった。

・このときの見直し(経費削減)と負担比率の見直しで、総工費1,527億円を1,325億円に下げるとともに、89:11の負担比率とし、道路1,175億円、鉄道150億円の負担となった。

 結果的に増額となった道路分274億円については、その後、本四道路の料金で返済することになっていると思われる。

 また、このときの経費削減のなかで「新幹線は「単線載荷方式」をとることとし、複線にはするものの、上下線の電車がいっしょに通らないように配慮し、工事費を切り詰めることにした。」のである。

 

 wikipediaの「大鳴門橋」では

また、着工後に四国新幹線建設の見通しが不明確なことと建設費の圧縮を理由として、一度に1列車しか橋上を通過できない「単線載荷」への設計変更が1980年になされているため、仮に鉄道が敷設されても大鳴門橋の区間は実質的に単線運行となる。(参考:参議院建設委員会議事録1981年6月2日)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%B4%E9%96%80%E6%A9%8B 2017年9月10日閲覧

 とだけあるが、そこに至るまではこれだけ長い前振りがあったのである。

 それを知らない鉄道マニヤが「予算をけちったせいで単線運行しかできないものができた」等というのである。

 wikipediaついでに指摘しておくと

1978年(昭和53年)3月 - 関係大臣により大鳴門橋と明石海峡大橋の道路単独橋への変更が合意。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%B3%B4%E9%96%80%E6%A9%8B 2017年9月10日閲覧

とあるが、実際の国会答弁では

○二宮文造君 ちょっと大臣にお伺いしますがね、この三省の事務当局者の会合というのは大臣御承知の上で行われたんでしょうか、知らないうちに事務当局で話し合いしたんでしょうか。簡単で結構です。

○国務大臣(櫻内義雄君) これは、私が指示をしたことのないことだけは事実でございますが、しかし、事務当局者間で必要があってそういう会合をしておる、それを私が不必要だということではございません。私が指示したんではないということは事実です。

○二宮文造君 じゃ、その事務当局の会合があった報告は大臣受けられましたか。非常に大事な問題でこういう三省の話し合いが行われたんですと、報告は受けられましたか。建設も国土も兼ねていらっしゃるんですから、どっちかから入るんじゃないかと思いますが。

○国務大臣(櫻内義雄君) 新聞報道をちょうど見た後に、ちょっとこの報道の真相は違いますと、三者が会いまして、いまの公共投資の、先行投資の必要があるので協議をいたしましたと、こういう報告を受けました。

 

1978(昭和53)年3月28日 参議院予算委員会

 と「大臣は知らずに事務方だけの会合だった」とされている。

 ということでwikipediaの当該箇所は嘘だと思われるので、どなたか直しておいてください。

 

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大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった6


 これは、1985(昭和60)年6月8日大鳴門橋開通を前にした、小学3年生1985(昭和60)年4月号の挿絵である。

 しかし、上記の経緯を踏まえ、1981(昭和56)年6月に建設省から本四公団に、明石海峡大橋の道路単独橋の可能性について検討するよう指示がなされ、大鳴門橋開通の2箇月前である1985(昭和60)年4月に「明石海峡大橋は道路単独橋で技術的にも採算的にも可能である」旨の調査報告がなされている。

 「新かん線も走る!大鳴門橋」とのキャプションはこの時点で実現可能性はかなり厳しくなっていたと言ってよいだろう。

 これを受けて同年8月27日、河本嘉久蔵国土庁長官、山下徳夫運輸大臣、木部佳昭建設大臣の間で、「明石海峡大橋は道路単独橋に変更し、本州・淡路島間の鉄道計画については、別途検討する」旨の合意がなされた。

 

本州四国連絡橋神戸―鳴門ルートの計画史 羽田野剛士、近藤光男、近藤明子

https://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00039/200411_no30/pdf/232.pdf

 その後紀淡海峡経由のルートの検討等が行われたのはご存知のとおりである。

 

伊東 明石海峡大橋を鉄道は通さないことにして、あと別ルートを考えるとすれば、どんなことが今考えられているのですか。

山根 トンネルにする案では、水深一○○mの明石海峡の下をトンネルで通っても、明石海峡大橋に乗せても、鉄道の規格にもよりますが、 神戸の駅に取り付かないのですね。

伊東 そうなのですか。たわみがすごくなるということですか。

山根 そうではなくて。

伊東 取り付けの問題なのですか。

山根 そうです。方法としては紀淡海峡を抜ける案が考えられます。

伊東 経営上はどうですか。

山根 備讃線でもう精一杯ではないでしようか。備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

山根孟氏(元建設省道路局長・元本州四国連絡橋公団総裁)

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大鳴門橋の鉄道事業分のお金は結局誰が負担しているのだろうか?

 建設費については、本州四国連絡橋公団から道路公団民営化委員会に提出された資料http://www.kantei.go.jp/jp/singi/road/dai4/4siryou4-1.pdfによると「鉄道の事業費は平成13年度までに国鉄清算事業団(現鉄建公団)の負担により償還済。」とのこと。

 維持管理費については、http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/hyouka/honsyu_a.htmによると

 本州四国連絡鉄道事業のうち、明石海峡大橋が道路単独橋とされたため(昭和60年8月)、本四淡路線の鉄道事業は凍結状態となっている。このため、これと一体をなすものとして先行して建設された大鳴門橋の鉄道部分(資産価額331億円)が未利用のままとなっている。

 この大鳴門橋の鉄道部分の維持管理費については、負担分を賄う収入の途がないため(本来は、鉄道開通の際に旧国鉄から得られる予定であった。)、一般会計からの補助金(昭和62年度から平成8年度の累計額1億9,100万円)により賄っている。今後、大鳴門橋が鉄道施設として利用される可能性は低いものとなっており、このままでは、公的資金の投入が累増することとなる。

としている。この後はどうなったのだろうか。

 

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2017年8月 5日 (土)

明石海峡大橋に鉄道が建設されなかった経緯等

 これは本四高速の明石海峡大橋の車道の下の管理用通路の部分である。

 先日、ここの写真をTwitterにUPしたところ、「新幹線が通るはずだったところ」といった指摘をいただいたので、ちょっとその辺の経緯を調べてみた。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (8)

 まずは、調査の経緯から。国鉄→鉄道建設公団による鉄道の調査と建設省→日本道路公団による道路の調査が並行して行われている。これが本州四国連絡橋公団が設立されて一本化されたわけだ。

 

 明石海峡大橋部分の鉄道(本四淡路線)の調査は、1950(昭和30)年4月に開始されている。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (9)

 本四公団設立にあわせて鉄道と道路の基本計画(調査)指示がなされている。

 

 そして1972(昭和47)年に本四公団から調査報告書が出ているのだが、そのうち明石海峡大橋に係る部分を抜粋してみる。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (4)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (6)

 冒頭にUPした動画の管理用通路のところに複線の鉄道が予定されていたことが分かる。(当然構造は異なるが。)

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (5)

 「図2」を見ると「鉄道(本四淡路線)」と「鉄道(新幹線)」の2種類のルートが引いてあるのが分かるが、当時は在来線か新幹線かどちらかになるかが決まっていなかったため両論併記となっていたということだろうか。

 

(新幹線が徳島市内に入らず、高徳本線吉成駅あたりに接続しているように見えるのも興味深い。世が世であればここが新幹線の「新徳島駅」だったのだろうか?)

 

※ ここまでの図面や文章の引用元は、「道路」1973年1月号「本州四国連絡橋の計画」本州四国連絡橋公団。

 ここまで見ると、今にでも明石海峡を新幹線が通りそうなものだが、実際には技術的なハードルは高かったようだ。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (2)

 「道路」1985年6月号「大鳴門橋の開通にあたって思う」村上永一・著によれば上記のように「明石海峡大橋の架橋の困難さは他の橋梁に較べて格段の差があった。」「早期に完成すべき道路鉄道併用ルートを選ぶとすれば,児島・坂出ルートなりと受け止めてもよい。」としている。

 

 そこにオイルショックによる工事中止や国鉄改革等が重なった。1981(昭和56)年には、社会経済情勢、国鉄の財政事情等を勘案し、関係省庁協議のうえ「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させており、「道路単独橋は「技術的にも採算性の面からも可能」との報告が大鳴門橋開通の2か月前となる1985(昭和60)年4月に行われている。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (1)

 「道路」1985年6月号「最盛期を迎えた本州四国連絡橋」花市 頴悟(本州四国連絡橋公団企画開発部長)著

 

 ここで興味深いのは神戸・鳴門ルートに建設するはずだった鉄道利用客が道路に転換することで道路の利用客が増えて採算性が取れるようになるという点である。巷間言われるように「予算削減するために鉄道をやめた」のではなくて、「41%(11%は誤植と思われ)費用負担するはずだった鉄道が「撤退する」って言ってるけど、道路単独の費用負担でペイできるかどうか」の検討をしたのではないか?

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (7)

 「道路」1986年4月号「大規模プロジェクトの新たな展開」溝口忠(建設省道路局有料道路課建設専門官)著 によると、本四公団からの調査結果の報告を受けて、1985(昭和60)年8月に、国土庁長官、建設大臣、運輸大臣による道路単独橋として整備する方針が合意されている。

 これだけだと、政治的、経済的理由で鉄道の建設を取りやめたように見えるが、前述のとおり技術面でも厳しい部分があったようだ。

伊東 鉄道をやめたのはどんな理由なのですか。当初、三橋とも鉄道が併設されるという話でしたね。

井上 西は違っていたと思います、鉄道はなし。

伊東 真ん中と明石海峡。

井上 それで、真ん中ももうできましたし、鉄道もできていますが、東の明石海峡をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、 たわみが大きくて、吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめましたけれども。

伊東 技術的な理由で。

井上 ええ。まあ、克服できないものではないと思いますがね。あそこしかないとなったらやるでしょうけれどもね。鉄道もあそこはあきらめるということで、割にすんなりといきました。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

井上孝氏(元建設省事務次官・元参議院議員・元国土庁長官)

 鉄道橋を明石海峡に架けるのが難しいのなら、鉄道単独でトンネルを掘ればよいと思う方もいらっしゃるかもしれないが、それもまた難しいようだ。

伊東 明石海峡大橋を鉄道は通さないことにして、あと別ルートを考えるとすれば、どんなことが今考えられているのですか。

山根 トンネルにする案では、水深100mの明石海峡の下をトンネルで通っても、明石海峡大橋に乗せても、鉄道の規格にもよりますが、 神戸の駅に取り付かないのですね。

伊東 そうなのですか。たわみがすごくなるということですか。

山根 そうではなくて。

伊東 取り付けの問題なのですか。

山根 そうです。方法としては紀淡海峡を抜ける案が考えられます。

伊東 経営上はどうですか。

山根 備讃線でもう精一杯ではないでしようか。備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。

伊東 止めようというのは、鉄道だけでは採算性がとれないということですか。

山根 四国の中の鉄道のお客さんが本当に少なくなってしまって、しかし役に立っていますよ。役に立っているけれども、投資に比べてどうかという話になると、なかなか大変ではないでしょうか。でも、それは45対55で45分は負担してもらっていますからね、今。備讃線がなければ、ますます四国の鉄道はだめになるのではないですかね。

 

土木史研究におけるオーラルヒストリー手法の活用とその意義:高速道路に焦点をあてて

山根孟氏(元建設省道路局長・元本州四国連絡橋公団総裁)

 

 山根氏のいう「備讃線でさえ止めようと話が出たくらいですから。」については、以前ブログで記事を書いたので参照されたい。

「JR30周年記念:国鉄改革で本四備讃線(瀬戸大橋線)は建設中止になるはずだった!?」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/04/jr30-0cd3.html

 つまり、技術的にも採算的にも神戸・鳴門ルートの鉄道は困難だったということか。

瀬戸大橋 (2)

 「明石海峡大橋に鉄道を架設しなかったのはけしからん」、「大鳴門橋の鉄道投資が無駄になった」等との話をよく目にするが、実際には大鳴門橋建設中に「やっぱ鉄道やめよっかな」という話になっていた。

明石海峡大橋に鉄道(新幹線)が建設されなかった経緯 (3)

 これは「道路」1985年6月号に掲載された「大鳴門橋の建設を振り返って」という対談からの抜粋である。

 

 発言しているのは、布施洋一(建設省道路局高速国道課長)、遠藤武夫(本州四国連絡橋公団工務第一部長)、松崎彬麿(元本州四国連絡橋公団副総裁・トピー工業(株)常任顧問)の各氏である。

 

 1977(昭和52)年の段階で、神戸・鳴門ルートの鉄道建設については「やめるかもしれない」ということになっていたというのだ。

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 道路側の発言だけでなく、鉄道側の発言の裏もとってみよう。

 

大鳴門橋も鉄道(新幹線)建設をやめるはずだった

 

 昭和54年交通年鑑の、昭和53年3月9日の項に、大鳴門橋を鉄道併用橋から道路単独橋に変更する方針を固めた」とある。いや鉄道さん全然やる気ないじゃないですか。

 

 そして、実際の施工にあたっては「単線載荷」にする等必要最小限の工事だけにしている。もうこの段階で明石海峡大橋への鉄道の施工は実体的にはほぼ可能性がなくなっていたのだろうな。

 前述のとおり、1981(昭和56)年に「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させているのは、この大鳴門橋の問題を踏まえて、とどめを刺す(あるいは関係者に言い含める)ための手順だったということだろうか。

新全総新幹線

 ※ 参考 1967「(昭和44)年5月30日に新全総(新全国総合開発計画)が閣議決定されており、そこに記された新幹線計画の抜粋

「東京発成田経由仙台行常磐新幹線~未成新幹線を国立公文書館デジタルアーカイブからまとめてみる」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-855c.html

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 言い出したヤツは誰だ?地元の声はどうだっただろうか?

 明石海峡大橋と新幹線

1979(昭和54)年7月27日付朝日新聞 

  よく、徳島県をはじめとした四国にお住まいの方が、「明石海峡大橋が鉄道との併用橋だったならば。。。」てなことをおっしゃるが、徳島県知事が、大鳴門橋建設真っ最中の1979(昭和54)年に「徳島県としては鉄道併用橋より道路単独の方がいいと思う」と「方向転換」している。

 1981(昭和56)年に「道路単独橋の可能性等」を本四公団に検討させたのは、この徳島県知事の発言がトリガー(の1つ)になった可能性はある。

  ということで、神戸ー鳴門ルートに鉄道が載っていないことを嘆く徳島県人の方は、ヨソを恨まず、徳島県を、そんな知事を選んだ自分の親を恨んでください。

 

明石大橋、道路単独で早期着工――促進議員連が総会決議。

 

 本州四国連絡橋の明石海峡大橋の早期実現を目指し、大阪、兵庫、徳島、高知各府県選出の国会議員(自民)で組織している明石・鳴門架橋促進議員連盟(原健三郎会長)は十七日午前、東京・永田町のホテルで総会を開き、政府に対し同大橋を道路単独橋として早期着工するよう求めた要望を決議した。

 総会には三木元首相、後藤田総務庁長官、河本経済企画庁長官、水野建設相、細田運輸相、稲村国土庁長官、日向関経連会長、中内神戸商工会議所副会頭ら政財界の実力者をはじめ、関係者約百六十人が参加、熱気に包まれた総会となった。

 冒頭あいさつに立った原会長は「明石海峡大橋を早期に完成を図る橋として、六十一年度に策定される第四次全国総合開発計画(四全総)にぜひとも盛り込んでほしい」と述べた。

 このあと来賓として水野建設相らがあいさつに立ったが、なかでも細田運輸相は「明石大橋は四国新幹線を通す道路、鉄道併用橋の計画だが、現在の国鉄の財政事情、鉄道の採算性からすると併用橋は非常に困難である。道路単独橋にするのに足を引っ張ることは避けたい」と計画変更もやむを得ないとの考えを示した

 また、河本企画庁長官は「政府資金で明石大橋を進めるには現在の財政事情からすれば難しい問題だ。しかし、民間には資金が余っており、これをいかに活用するかが課題だ」と民間活力を導入しての早期着工実現を訴え、注目された。

 この後、後藤田総務庁長官、坂井兵庫県知事らがあいさつし、最後に(1)本州四国連絡橋神戸・鳴門ルートを早期に完成を図るルートとして四全総に位置づける(2)明石海峡大橋を道路単独橋として、早期着工を図る(3)鉄道についてはトンネル工法を採用し、その実施調査を促進する――との政府に対する要望を決議。議員連盟の代表らが自民党や関係省庁に陳情した。

 

1984(昭和59)年10月18日付 日本経済新聞 地方経済面 四国

 「現在の国鉄の財政事情、鉄道の採算性からすると併用橋は非常に困難である。道路単独橋にするのに足を引っ張ることは避けたい」と運輸大臣が語っているのは大きい。「予算不足」ではなく「鉄道の採算性」が課題だったわけだ。

 ネットでは「明石海峡大橋に鉄道をひいていればJR四国の採算は改善されたはず」とか「ドル箱路線だったはず」といった声が聞かれるが、当の運輸大臣は「鉄道の採算性からすると非常に困難」と言っているのだ。

 そういうと「いや関西から徳島まで鉄道が直結すると相当の需要があるはずだ」という反論が予想されそうだが、問題は明石海峡大橋の建設費なのである。道路と鉄道の荷重比で分担しているのだが、道路分は有料道路料金で返済する一方、鉄道分はJRの売り上げから橋の使用料という形で返済していく。その額は本四備讃線(JR瀬戸大橋線)で、年間550億円と国会で答弁されており、JR四国の年間売上高をはるかに上回っている。しかし、瀬戸大橋及び大鳴門橋の場合は、国鉄民営化にあわせて建設費は他の債務と同様JRは引き継がなかった。ところが明石海峡大橋は今更そうはいかない。JR西日本なのか四国なのかは分からないが、明石海峡大橋の建設費を毎年数百億円単位で負担する必要がある。大赤字プロジェクトとなるのは必須であろう。

 また、「鉄道が重視されていなかったから道路単独になった」「道路のような族議員がいなかったから」といった意見もネットでは見られるが、「鉄道の採算性からすると非常に困難」と発言した細田吉蔵運輸大臣は、運輸省OBの運輸族議員の重鎮である。そして、国鉄改革に取り組んだ中曽根内閣においては、細田氏は国鉄改革に消極的(現状維持)な姿勢を示していたことで知られている。(「国鉄改革」草野厚・著 中公新書を見よ)

 神戸ー明石ルートの鉄道(四国新幹線)計画は、そんな国鉄護持的運輸族重鎮に見切られていたのである。

 また、大鳴門橋を道路単独にしようとしたときにはあんなに抵抗した三木元首相もあっさりその場に並んでいることにも注目したい。

 そして、その後道路単独橋と正式に決められた経緯は下記のとおり。

建設省・国土庁、明石海峡大橋の建設凍結を解除――道路単独橋に変更。 

 建設省と国土庁は内需振興の目玉になるプロジェクトとして明石海峡大橋を六十一年度に着工するため、政府の建設凍結方針を改める。現在は道路と鉄道の併用橋として認可されている工事計画を道路単独橋に変更し、年末の六十一年度予算案決定までに閣議にかけて正式に凍結を解除する。このほど運輸省も加えた三省庁で協議を始めた。

 明石海峡大橋は兵庫県神戸市と淡路島を結ぶ世界最大級のつり橋。政府・自民党は六十一年度着工の方針。しかし(1)本州四国連絡橋公団が建設、運輸両省から四十八年十月に認可を受けた工事実施計画は新幹線規格の鉄道と道路との併用橋となっているため、費用がかさむ(2)臨時行政調査会が五十六年七月の第一次答申、五十八年三月の第五次(最終)答申で本四架橋を一ルート四橋にとどめるよう求め、政府も五十八年五月に「臨調答申を最大限尊重する」と閣議決定した――の二点が着工するのに問題となる。

 このため建設省と国土庁はまず道路単独橋への計画変更を急ぐことにした。本四公団の試算によると、道路単独橋の場合、工事費用は併用橋に比べて二六%少ない三千七百四十億円ですみ、風による影響が減って安全性が高まる。建設省、国土庁は早ければ八月にも運輸省との間で道路単独橋への変更について合意したいとしている。運輸省も原則的に応じる構え。

 続いて、臨調答申尊重を決めた閣議決定の変更に取りかかる。臨調答申は財政再建を目標とし政府支出の増加には反対している。臨調答申通り本四架橋を一ルート四橋にとどめるとすると、すでに四橋は決まっているので、明石海峡大橋は着工できないことになる。

 中曽根首相は明石海峡大橋など大規模プロジェクトは民間活力を導入することを条件に六十一年度の着工を支持している。そこで建設省、国土庁は建設費用をできるだけ民間資金でまかなうことにして臨調答申尊重の閣議決定を“修正”したい考え。総事業費の九割程度を民間資金でまかなう案がでている。修正する場合、新たに閣議決定するか、閣議了解を求めるか今後検討する。

 

1985(昭和60)年7月22日付 日本経済新聞 朝刊

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  そして国会ではどう答弁されているか?

 

○新井(彬之)委員 次に、明石海峡大橋の問題についてちょっとお伺いしますが、建設省からきのう大々的に新聞に発表なさったわけでございまして、江藤大臣になってこういう決定をしていただいた、こういうことで、今までにもずっと経過はあったわけでございますが、やはりそのときの大臣のお力、そういうことで地元の方としては非常に喜んでおるわけでございます。起工式、それから大橋関連区間のルートの発表、それから明石海峡大橋の橋梁計画、こういうことについては資料をいただいておるわけでございまして、本来十三年かかるものが、大臣のお力といいますか誠意、あるいはまた本四架橋公団、あるいはまた建設省の方々の努力によって十年になるということでございます。

 非常に感謝申し上げるわけでございますが、一つだけちょっと聞いておきたいのは、これは初め道路、鉄道併用橋であった。その後いろいろと検討をなされまして、昨年の八月に道路単独橋という方針が決まったわけでございます。我々はその経過はよくわかるわけでございますが、ほかの方はやはり一車線でもいいから汽車が通る、淡路島で幾らでも交代ができるわけでございますので、そういうこともあわせて希望していた方も大分あると思いますが、それについてわかっていることがありましたら、こういうわけで一応道路だけになったのだということをお伺いしたいと思います。

 

○萩原(浩 建設省道路局長)政府委員 いわゆる明石−鳴門ルートにつきましては、先生今御指摘のとおり、本来、道路と新幹線規格の鉄道が通るということで計画をされまして、大鳴門橋は既にそういう計画で完成をしているわけでございます。ところが、明石海峡大橋は道路単独橋として昨年の夏に御決定をいただきましたけれども、それの経緯の中では、大鳴門橋が完成をいたしまして、そのままでは非常に効用が落ちる、やはり明石海峡大橋をつなげなければ効果は半減以下になるという問題がございます。ところが、現在国鉄の財政状況が非常に逼迫をいたしておりまして、この打開というものは容易ではない。したがって、その解決を待っていたのでは大鳴門橋の非効率性というものが非常に長く続くおそれがある。そういういろいろな情勢の変化のもとに、今回、道路単独橋として明石海峡大橋を架橋するという御決定をいただいたわけでございます。

 しからば、それでは鉄道はどうなっちゃうのか、そういうあれでございますが、これは私の立場で申し上げるべきことではないかもしれませんけれども、鉄道につきましては何らかの形で大鳴門橋とつなげていただくということで、今いろいろな調査が行われているというふうにお聞きをいたしておりまして、計画の熟成にはまだしばらく時間がかかるものであるというふうに理解をいたしておる次第でございます。

 

1986(昭和61)年4月9日 衆議院 建設委員会

 「現在国鉄の財政状況が非常に逼迫をいたしておりまして、この打開というものは容易ではない。したがって、その解決を待っていたのでは大鳴門橋の非効率性というものが非常に長く続くおそれがある。」との政府の答弁である。

 実際問題、現在に至っても整備新幹線以外の新幹線については未だに着工の目途は立っていない。そこの打開を待っていたら未だに明石海峡大橋は架かっていなかった。

 

 「明石海峡大橋が道路単独になったので、四国新幹線ができなかった」のではなく、「四国新幹線の実現のアテがないため、道路単独となった」。「ドル箱路線になるはずが予算不足でできなかった」のではなく、「鉄道の採算性が困難なため、道路単独となった」。そのあおりで、「道路と鉄道の割り勘にするはずの投資額も道路が負担することとなった」というのが正解である。

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 ※ ときどき「バブルがはじけたため予算が不足したから新幹線ができなくなった」、「阪神淡路大震災で予算が不足したから新幹線ができなくなった」とか「阪神淡路大震災で主塔がずれたから新幹線ができなくなった」という珍説を目にするのだが、取りやめたのは、バブルが弾けたり、阪神淡路大震災が発災するより前の1985年なので、全くのデマである。

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2017年4月 5日 (水)

JR30周年記念:国鉄改革で本四備讃線(瀬戸大橋線)は建設中止になるはずだった!?

 時流に乗って国鉄分割民営化ネタで書こうと思っていたら、すっかり遅くなってしまった。神宮球場に横浜大洋の開幕シリーズを2回応援に行って2回とも負けたりしていたからだ。

 

 というわけで超今更感があるのだが、一応準備していたので。

 お題は、表題の如く、瀬戸大橋線の建設中止勧告である。例の如く当時の新聞記事を引用してみる。

国鉄監理委、本四橋児島―坂出ルート「鉄道」中止提言へ。

 国鉄再建監理委員会(亀井正夫委員長)は二十日、本州四国連絡橋三ルートのうち唯一の道路・鉄道併用橋である児島・坂出ルートの鉄道敷設工事をとりやめるよう中曽根首相に提言する方針を固めた。八月初めに打ち出す「緊急提言」に盛り込む。これは、財政が悪化している国鉄は年間五百億円にものぼる連絡橋利用料を負担する能力がないので、このまま敷設計画を進めれば、将来国鉄を分割・民営化する際の大きな障害になると判断したもの。首 相はこの提言を尊重する義務があるが、同ルートから鉄道がなくなれば、連絡橋の工費約七千六百億円はすべて道路部門でまかなわれ、地元自治体の負担が二倍近くに増えるだけに影響は大きい。

 国鉄再建監理委員会は現在、緊急提言をとりまとめている。提言のねらいは「六十二年以降、円滑に分割・民営化するための対策」を打ち出すこと。同監理委員会は五十七年度末で十八兆円に達した借入金をこれ以上増やさない施策が最も重要と判断、設備投資の抑制に重点を置いており、本四連絡橋児島・坂出ルートの鉄道敷設中止は緊急提言の目玉になる。

(中略)

 このため、同監理委員会は、このまま計画を進めれば、四国などの国鉄分割会社が 当初から膨大な赤字を背負うことになり、分割・民営化の大きな障害になるとして、敷設中止を求める方針を固めた。しかし、現在、地元自治体は連絡橋の道路部分の工事約四千二百億円のうち三分の一を負担しており、鉄道部分がなくなれば、この負担は二倍近くになる計算。また、五十八年度末までに同ルート連絡橋 (鉄道と道路)工事の契約率は六三%に達する見込みだったので、鉄道敷設工事が中止されると、関係業界は大きな影響を受けるため反発は必至である。

 

1983(昭和58)年7月21日付 日本経済新聞から引用

 国鉄再建監理委員会の「緊急提言」の目玉としてJRに負担を増やさないために中止を求める考えだったという。

 

瀬戸大橋「鉄道」中止の動き、地元に大きな衝撃。

 

 多額の赤字を抱えている国鉄の立て直し策を検討している国鉄再建監理委員会が、建設中の瀬戸大橋(本四架橋児島―坂出ルート)の鉄道建設を中止する方針を固めたことについて、四国四県、岡山県など関係行政機関や経済界の首脳は大きなショックを受けている。今のところまだ正式に決まったわけではなく、「あり得ないこと」という見方もあるが、関係筋に問い合わせる動きも。こうした方向が出たことに対して多く
は「瀬戸大橋は道路・鉄道併用橋というのが既定路線。新幹線は将来の問題にしても万一、在来線までたな上げされては架橋の意味がない」と戸惑いをみせながら衝撃を受けている様子。今後同委員会の動向に注目、関係機関一致して“巻き返し策”を進める動きも出ている。しかし青函トンネルの鉄道敷設計画中断の動きが表面化しているだけに、四年後の完成を前にした瀬戸大橋計画変更を危ぶむ声も少なくない。

(略)

 

1983(昭和58)7月22日付 日本経済新聞から引用

 私の記憶には残っていないのだが、青函トンネルも建設中止が議論になっていたのか。

 

瀬戸大橋の行方、全住民が関心を――鉄道部間の中止問題に思う(四国の目)

 六十二年度完成をめざして順調に進んでいる瀬戸大橋(本四架橋児島―坂出ルート)の鉄道部門を中止する問題がクローズアップされている。国鉄再建監理委員会(亀井正夫委員長)が国鉄の財政立て直し策を検討している中で出てきたものである。八月二日に予定される同委の“緊急提言”でどう取り扱われるのだろうか。

 瀬戸大橋は道路、鉄道併用橋で四国の離島性脱却の第一歩になる大事業。このうちの鉄道部門が宙に浮くことは大変なこと。今のところ国鉄監理委の提言では「瀬戸大橋の鉄道建設中止」とはっきり明記しないが、“抑制”することを求めるニュアンスの表現になるといわれる。

 国鉄財政は膨大な赤字で“満身創痍(まんしんそうい)”。大半の路線が赤字で走ればそれだけ損する状態だ。四国総局管内の年間赤字額も五百二十億円を超える。瀬戸大橋の鉄道も赤字路線になるのは確実。それどころか年間約五百億円の連絡橋使用料を負担しなければならない。こういう事実を突きつけられると、瀬戸大橋も国鉄にとっては“お荷物”。監理委は「いくら経営立て直しのために知恵を絞っても、新しく赤字を生み出す事業を見逃していては……」というわけだろう。

 ただ国鉄経営という立場からだけではなく、「日本の国づくりの一環」「地域整備の重要なプロジェクト」という位置づけで瀬戸大橋をとらえたい。前川香川県知事も「国鉄を救って四国を見殺しにするのか」と鉄道部門切り捨て論に反対したのも当然である。山口・四国経済連合会会長も「第二次臨時行政調査会をクリアーした事業で鉄道中止なんてあり得ないこと」と語っているし、まず鉄道部門がたな上げされることはないだろう。

 しかし国の財政も国鉄同様、厳しい状態が続いている。一度決まったことであってもどんな情勢の変化が起こるかもしれない。四国約四百万人の住民すべてがこの問題の行方に鋭い目を向け続けたい。

 

1983(昭和58)7月31日付 日本経済新聞から引用

 実際には「緊急提言」には瀬戸大橋線の建設中止は明記されなかったようだ。

 

国鉄監理委の本四橋と東北新幹線東京乗り入れ投資抑制提言――戸惑いと反発と。

 国鉄再建監理委員会(亀井正夫委員長)が今月初め中曽根首相に提出した緊急提言が各方面に波紋を広げている。もっとも論議を呼んでいるのは「今後の設備投資は緊急度の高いものを除き原則停止」という“投資抑制命令”。「東北新幹線の東京駅乗り入れ工事は本当に中止されるのか」「本州四国連絡橋の工事はこれからどうなるのか」――など関係の地方自治体に不安が広がっている。緊急提言の読み方をめぐり、我田引水や“ひがみ”などが交錯し、これに政治家の動きもからんで、関係者は疑心暗鬼。「監理委員会にわからないように、工事をこっそりやってしまえ……」という勇敢な逆提言? も飛び出す始末。今月末には運輸省、国鉄が来年度予算の概算要求を大蔵省に提出するが、どの工事を継続してどの工事を中止するか、国鉄“秋の陣”は政府、地元、国鉄の思惑がからんだ複雑な展開になりそうだ。

 「東北新幹線の東京駅乗り入れ工事がだめで、なぜ本四架橋は良いのか」。監理委員会が緊急提言を提出した直後、ある東北出身の代議士は運輸省の幹部にこうかみついてきたという。

 東京駅乗り入れというのは東北新幹線上野駅―東京駅間四キロで進められている工事のことだが、実はこの工事どころか本四架橋の工事も緊急提言の本文では直接的には一言も触れていない。にもかかわらずこのふたつの大工事が問題になるというのは、緊急提言を読むと、このふたつの工事の先行きがどうしても気になってくるからだ。

 緊急提言は、国鉄の投資全般について「緊急度の高いものを除き原則として停止すべきである」とうたい、続いて「なお書き」がある。それは「東北新幹線上野乗り入れ及びこれに関連する通勤別線についてはその特殊事情を考慮し、工事の継続もやむを得ないものとする」という文章だ。

 これをすなおに読めば、東北新幹線は上野駅乗り入れまでは工事を進めても良いが、上野駅から東京駅間の工事は「原則停止」の対象というわけだ。

 一方、本四架橋については緊急提言の中にこういう文言がある。「国鉄以外の事業主体が行う国鉄関係の設備投資についても徹底した見直しを行い、さらに工事規模の抑制及び工事費の節減に努めるべきである」。「国鉄以外の事業主体」というのは本州四国連絡橋公団(高橋弘篤総裁)と日本鉄道建設公団(仁杉巌総裁)のことだが、両公団の工事についてははっきりダメとは言っておらず、「徹底した見直し」とか「抑制」の意味をどう解釈するかで、工事続行を認めているようにも読める。

 緊急提言がこんなに含みのある文章になったのは、政治的な配慮からだ。国鉄大手術に挑む監理委員会のメンバーにすれば、「これから新しい線路を敷くなどは論外」。東京駅乗り入れも、本四架橋の鉄道敷設も、国鉄再建にメドがつくまではいずれも工事中止を命令したいのが本音。ところが、監理委員会でこのふたつの大工事をめぐる論議が表面化するや、地元の自治体や関連業界から政治家などを通して猛烈な陳情攻勢が続いた。このため監理委員会としては、緊急提言の文章は中曽根首相に政治的な判断をゆだねるため含みのある表現にせざるを得なかったわけだ。

 首相に裁量の余地を残しながらも、このふたつの工事の取り扱いに差ができたのは、本四架橋問題が東北新幹線よりもはるかに難しい側面を持っているからだ。

 本四架橋の児島―坂出ルートの工費七千六百億円のうち四五%は鉄道部門が、五五%は道路部門が負担することになっており、鉄道敷設の中止は架橋そのものの中止という大きな政治問題にまで発展しかねない。そこでいきなり「中止」を提言するのではなく、国鉄にとって大問題のこの橋をどうするか、国民的な合意を形成するために「まずは計画の見直しを」と慎重な提言をしたわけ。

(中略)

 しかし、“天下の国鉄”が政府や監理委員会の目を盗んで、こっそり工事をやるわけにもいくまい。国鉄の設備投資について「原則停止」や「徹底した見直し」を迫られた政府は、年末にかけての来年度予算編成の過程で、どの工事にストップやブレーキをかけ、どの工事を進めるかなどを決断せねばならない。東京駅乗り入れ、本四架橋以外にも、鉄建公団が建設している青函トンネルの問題など、国鉄にからむ工事はたくさんある。そのなかで下手をすると大きな政治問題になりかねないのが東京駅乗り入れと本四架橋の工事の行方だ。総選挙がらみの秋の政局を控え、中曽根首相は“行革内閣”の看板があせないようにこの工事をどう処理すべきか頭の痛いところだろう。

 

1983(昭和58)年8月19日付 日本経済新聞から引用


 政治的配慮の玉虫色で生き残ったというわけか。その辺のかけひきは、下記の記事でも読み取ることができるのでこちらも是非。

http://www.iatss.or.jp/common/pdf/publication/iatss-review/14-1-02.pdf

 ついでなので、明石海峡大橋に鉄道がかかるはずだったころのポンチ絵を貼っておく。

瀬戸大橋 (2)

 なお、明石海峡大橋への鉄道の架設については、井上孝氏が

明石海峡大橋をやめたのは、やはりあれだけの長大吊り橋になると、たわみが大きくて、吊り橋のジョイントというのか、あそこで非常に危険があるというようなのが最後の決め手になったみたいでやめました。

まあ、克服できないものではないと思いますがね。あそこしかないとなったらやるでしょうけれどもね。鉄道もあそこはあきらめるということで、割とすんなりといきました。

 

土木史研究におけるオーラル・ヒストリー手法の活用 -高速道路に焦点をあてて--実践編 井上孝氏- 191頁 から引用

と語っている。

 

 ところで、よく見ると、児島・坂出ルートのうち一部の橋が現在と形式は違う。

瀬戸大橋 (3)

瀬戸大橋 (1)

 櫃石島橋と岩黒島橋は、イギリスのフォース鉄道橋のような形式(正確にはちょっと違う)になるはずだったのだ。

 

 ※橋の科学館展示物から

 

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