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2021年7月11日 (日)

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる~幻の成田新幹線市川市内ルートはどこに~

 上記は、千葉県市川市の東西線行徳駅から東側に向かった箇所である。

 左側に見える高架橋は、東京メトロ東西線である。

 昨今ネット等では、「ここが成田新幹線の遺構である」といった話を見聞きするので、今回はそのネタを検証してみたい。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (1)

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (2)

 当該区間を、成田新幹線の建設主体である日本鉄道建設公団が1974(昭和49)年に発行した「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」で見るとこんな感じである。

そして、上空から見るとこんな感じである。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (3)

 確かに立派な側道ではある。

 「東京メトロ東西線の行徳駅付近の遊歩道付きの側道が立派なのは、ここに成田新幹線が通るはずだったからで、この立派な側道は成田新幹線の遺構である。」といった話を上記の写真とセットで聞かされると、合点する方もいらっしゃるかもしれない。
 

 一方で、下記のような資料もある。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (4)  

 これは、市川市議会の議事録の抜粋である。 

 成田新幹線の工事実施計画について運輸大臣から日本鉄道建設公団へ認可されたのは、1972(昭和47)年2月である。 

 その直後の「3月議会」ということになる。 

 質問している近藤喜重議員は、行徳地区と関わりがあるようだが、成田新幹線が「東西線より50m海寄りを通る」と発言している。 

 果たして成田新幹線はどこを通る計画だったのか?

 まずはそこから資料を整理してみたい。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (5)  

 私の可能な範囲で、成田新幹線の市川市内のルートに関係する資料を集めてみた。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (6)

 まずは、本家本元の日本鉄道建設公団である。

 公団の「成田新幹線工事の概要」では、「区画整理事業に出来る限り支障しないよう技術的に可能な限り地下鉄5号線(現・東京メトロ東西線)に近接することとしております。」と書いており、東西線と成田新幹線をどの程度離すかの具体の数字は書いていない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (7)


 公団職員が業界誌に寄稿した報文「成田新幹線の建設計画」では、「地下鉄5号線の南側に殆ど並行して葛西・浦安・行徳を経て」とこれまたビミョーな書き方をしている。

 

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (8)

 一方、浦安町誌では「東西線と50メートルの間隔をおいて住宅街を縦断する。」と記載している。市川市内については具体の記載はなく、そのまま「船橋市の市街地はトンネル」としている。そのまま読めば、浦安から船橋まで変化なしということであれば、市川市内も「東西線と50メートルの間隔」と読めなくもない。

 では、市川市内ではどの程度離れていたのだろうか?

 具体的に言及したものはあるのか?

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (9)

 冒頭にあげた市川市議会での議事録である。

 成田新幹線は「地下鉄東西線より50m海寄りを通るということでは、その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言し、通過地点も具体的に、南行徳、行徳、妙典、田尻、原木と書いてある。

 ここで「南行徳第1、第2、第3、行徳土地区画整理組合」という言葉が出てくるので、覚えておいていただきたい。後ほど説明する。  

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (10)  

 近藤喜重議員は、成田新幹線の買収対象となる関係地権者数を具体的にあげているが、後述するように、当時は(今も?)詳細な図面が公になっていないため、11m50cmの想定される用地買収幅員(高架橋の構造物幅員11m+施工余裕幅左右25cmずつ?)から、市川市か議員が独自に算出したものと思われる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (11)

 富川進・市川市長(当時)が、サンケイ新聞の取材に対して「新幹線は、東西線と並行に走るため、東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地は、騒音と振動公害に悩まされ買い手がなくなる」とコメントしている。

 先に、近藤市議が「その間にはさまった4倍にもなる土地は全く死に地になってしまうわけであります。」と発言していることと平仄があう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (12)

 一方、昨今のネット等で主流のような「東西線の側道部分に成田新幹線が走る計画」と、市川市長、市川市議会議員の発言は平仄がとれない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (13)

 また、日本鉄道建設公団が千葉県に対して、新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」と示したと伝える記事もある。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (14)

 日本鉄道建設公団が公開している図面や資料では詳細には分からないはずなのに、市川市長や市川市会議員が「東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地」とか「東西線より50m海寄り」とか発言しているのは、何が根拠なのだろうと不思議だったのだが、上記の毎日新聞の記事によれば、公団が千葉県にその旨説明したようだ。

 なお、1972(昭和47)年2月15日付千葉日報によると、同年2月14日(上記毎日新聞記事の3日前)に、公団が千葉県に対する第1回の説明会を行っている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (15)

 ちなみに、江戸川区内でも「東西線の南側約50メートルを並行して走り、高架で抜ける」との報道がされている。

 当時の報道では、東西線沿いの高架区間は、江戸川区・浦安町・市川市と一気通貫で「東西線の南側約50メートル」に成田新幹線が通ることで揃っていることになる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (16)

 なお、江東区と江戸川区を結ぶ清砂大橋は、東西線の南側に近接して架設されており、「本当はここは清砂大橋ではなく成田新幹線が来るはずだった」といった話も仄聞されるが、東西線の設計時に、清砂大橋が近接して架設されることを前提に東京都と営団地下鉄が協議していたことが営団地下鉄が発行した「東西線建設史」から分かる。

 おって、「清砂大橋を避けたから、東西線の50m南に新幹線が計画されたかどうか」については、判断できる資料を見つけられていない。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (17)

 ここまでは、成田新幹線と東西線が約50メートル間隔を空けている旨の報道を紹介してきたが、そうでない説も紹介しておく。

 草町義和氏は「鉄道ライターのなかでも、廃線跡や未成線跡の調査を専門としている」(「全国未成線ガイド」宝島社・刊の監修者紹介欄から)とのことだ。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (18)

 草町義和氏は、鉄道ファン2008年8月号に掲載された「幻の成田新幹線をたどる」に

昭和47年計画の線路平面図を見る限りでは,江戸川区内と浦安市内は東西線から少し離れた場所を通っているように思われ,実際に東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形になっていたのは市川市内だけだったようである.

 と書いている。

 その判断の根拠としては、「昭和47年計画における線路平面図(縮尺5万分の1)や線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料(同著112頁)を入手されたうえで現地を検証しているとのことである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(19)当時の報道等と草町義和氏の著書の比較

 「おさらい」として、今まであげてきた成田新幹線と東西線の位置関係に係る報道・記事を時系列で並べてみた。

 如何だろうか?

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (20)

 ところで、鉄道建設公団、市川市会議員、市川市長等と草町義和氏の主張の差を判別できる資料はあるのか?

 

 「ここに、日本鉄道建設公団が作成した超詳細な図面があって、正しいのはこちらでした!」と言えれば一件落着なのだが、私の探した範囲ではそこまでのものは見つけられなかった。

 地元自治体の資料等を読んでいると、地元住民等は「用地買収の対象を示せ」と要求しているが、公団側は「実際に現地を測量しないと示せない」と回答し、そして関係自治体と地元住民は公団による現地測量は阻止しているので、詳細な図面は公開されないままになっているようだ。

 1972(昭和47)年2月18日に実施された公団による地元市町村長への説明会においても5万分の1の地図で計画を説明したとの報道がある。( 1972(昭和47)年2月19日付千葉日報)



東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(21)

 草町義和氏は、成田新幹線の工事実施計画を入手しているようだが、そこにはどんな資料が含まれているのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (22)

 こちらが全国新幹線鉄道整備法施行規則に定められた、新幹線の工事実施計画に係る書類の抜粋である。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる(23)

 先にもあげたところであるが、この図面が実際に日本鉄道建設公団が作成した5万分の1の平面図である。

 工事実施計画にこの地図が使われたかどうかは分からないが、縮尺としてどのようなレベルのものかはイメージしていただけるだろう。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (24)

 ご覧いただいたとおり、5万分の1の平面図では、50mの離隔はなかなか判別できないと思われる。

 5万分の1だと、50mは1mmしかない。私は老眼なのでわからんちんである。草町義和氏は判別できたようであるが。

 また、東西線と成田新幹線の「構造物の外側同士」が50m離れているのか東西線と成田新幹線の「中心線同士」が50m離れているのか?といった点が記事等だけでは明確でないというところもある。どちらかによって具体の離隔が10mほど変わってくる。

 市川市長は「間にはさまれた区画整理の土地は、買い手がなくなる」と語っているので、売却できるほどの幅があったということだろうか。

 草町義和氏は、「線路縦断面図(縮尺横2万5000分の1,縦2000分の1)」「昭和49年計画」といった資料も持っておられるようなので、それらも含めた総合的判断をされたということだろうか。

上記は、草町義和氏のツイッターから。 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (25)

 「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(「幻の成田新幹線をたどる」113頁)という記述を判別できるような図面等を私は見つけられなかった。

 一方で、上記のような主張をする方は、当時の市川市長の発言や市川市議会議事録に残るやりとりに対してどう考えるのかをあわせて表明する必要があるのではないだろうか?

 「反日マスコミには騙されない」とか

 「市川市議会議員は反対を煽るため、話をふくらませているだけだ」とか

 「国策である新幹線に反対するような”プロ市長”よりも、鉄道ファン誌に掲載される鉄道ライターの方が鉄道知識は詳しいに決まっている」とか

 「日本鉄道建設公団がそう地元に説明したという新聞記事があるからといっても、全部の区間が50m離れていたとは書いていない。市川市内だけはそんなに離れていない区間があってもおかしくはない。」とか

 でもいいと思うのだが、当時の新聞報道や市議会でのやりとりを打ち消す決意表明(できればその決意を補強する物証も添えて)をしていただければよろしいのではないかと。

 もちろん、5千分の1等の縮尺で、実際に「50m空いている空いていない」が判別できる詳細な工事用平面図をお示しいただければ言うことはないのだが。

「そんなん、当時の都市計画の図面見たら分かるんちゃうのん?」と思う方がいらっしゃるかもしれない。

 ところが、当時の成田新幹線も東北新幹線も都市計画決定の手続きは一切取っていない。住民や地元行政との擦り合わせの手続き一切なしで、「運輸大臣の認可が取れたので路線発表する。ただし今後変更は一切ない。」とやったので大反発を買ったのだ。

 「でも最近の新幹線はちゃんと都市計画決定の手続きを取ってるのだし、当時もそうなんちゃうのん?」と思う方もいらっしゃるかもしれないが、過去の反省を踏まえて都市計画決定するようになったのだ。 

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (26)

 ところで、東西線と側道の関係はこんな感じに並んでいる。

 市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」では、東西線と側道の関係がよく分かる写真が掲載されている。

 こんなガクガクした側道を成田新幹線が走れるのだろうか?

 「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)というと、埼京線と東北新幹線のような位置関係をイメージしている方がいらっしゃるかもしれない。

 埼京線と東北新幹線の関係はこんな感じ。

 これは武蔵浦和駅付近であるが、東北新幹線はまっすぐ走りつつ、埼京線のホームは右側(東側)に膨らんで、新幹線の直進を妨げないような構造になっている。 

 一方で、東西線と成田新幹線の関係はどうか。 

 

 これは行徳駅付近であるが、東西線は直進し、ホームはその両外側に膨らむ形で設けられている。これでは、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形」(草町義和氏「幻の成田新幹線をたどる」113頁)だとすると、東西線のホームの幅だけ成田新幹線がそこをカーブして膨らんでいく形になってしまう。それとも成田新幹線建設の際には東西線を北側に移設する構想だったのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (27)

 ただでさえ、東西線は成田新幹線の直進を妨げるような線形となっていることに加えて、更に東西線行徳駅には拡張計画がある。 

 営団地下鉄の「東西線建設史」には、「浦安、行徳両駅は相対式ホームとし、将来両外側に1線ずつ線路が増設できるように計画した。」と書いている。 

 先にあげた区画整理組合記念誌掲載の写真の東西線ホームと側道の間の草地は将来線予定地ではないだろうか?東西線行徳駅付近の膨らみは、現状よりも更に拡がる余地がある。

 埼京線と東北新幹線のような新幹線の高速走行を損なわないような位置関係とはいかない可能性がある。

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (28)

「でも、東西線のあんな立派な側道は、成田新幹線のためとしか思えないんですけど?」 

 こんなことを思う方もいらっしゃるかもしれないので、次にそこを検証してみよう。

 あの東西線の側道はいつだれがなんのために作ったのか?

 ※草町義和氏が「この側道は成田新幹線のため」と言っているのではない点にはご留意を。

 ただし、「この側道は成田新幹線のため」とネットに書いている方にお尋ねすると「草町義和氏の鉄道ファンの記事を読んだ」という回答を頂戴したという経緯があったのでご参考までということで。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (29)

 市川市長や市川市会議員の発言に出てくる市川の区画整理事業であるが、左図を御覧のように、東西線(成田新幹線)経過地の殆どが区画整理事業が行われた箇所である。

 市川市ウェブサイトの「市川市の土地区画整理事業」には、上図のような位置図が公開されている。

 https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000355873.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (30)

 市川市南行徳第二土地区画整理組合が1974(昭和49)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」には、東西線の両側に「11mの側道を配置した」とある。

 成田新幹線とは関係なく、元々区画整理事業の一環として整備されたのである。

 上記の区画整理の模型で東西線に側道が設けられていることが確認できる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (31)

 こちらは、市川市行徳土地区画整理組合が1975(昭和50)年に発行した「記念誌 区画整理のあゆみ」から。

 個人サイト等で、成田新幹線の名残で立派な緑道が東西線沿いにあるという趣旨の記述があるが、もともと区画整理事業の一環として「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道的性格を持たせる」とあるのだ。

 成田新幹線の工事凍結は、1983(昭和58)年である。もしこの緑道が新幹線の遺構、名残であれば、 1975(昭和50)年に「幅員11mの側道を配置し散策に適した緑道」と書いた区画整理記念誌が発行されることはありえない。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (32)

 東西線の側道は、成田新幹線の計画の遺構ではなく、東西線建設にあわせて施行していた区画整理事業によって、成田新幹線公示凍結前に整備したものである。

 東西線の駅前広場用地等も同時に減歩によって確保された。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (33)

 行徳地区に限らず、江戸川区から市川市にかけて多くの地区で、東西線建設用地自体が側道とともに、地元の区画整理の協力で捻出された。

 営団地下鉄の「東西線建設史」では、

荒川を越えた小島地区から西船橋に至る区間は(略)この膨大な土地買収を効率的に実施するため,営団は,東西線の計画決定を契機に,同線経過地に,土地区画整理組合(以下区整という)の設立機運が高まっていることに着目し,この区整を対象とした,保留地先買方式による集団交渉方式を採用する方針を決定した。

 と述べている。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (34)

 また、同様に「東西線建設史」では、

「南行徳第1、第2、第3区整においても,前述の区整地区とほぼ同様の手続きにより用地買収を行った。行徳区整は,区整の設立準備も整っていない地区であったが,営団は市川市とともに,地元民に対し区整事業の必要性を説き,準備委員会を発足させ,これと折衝に入り,難航していた土地の価格統一にも成功し,これを盛り込んだ保留地先買方式による買収を組合成立認可申請前の準備組合の段階で行った。」

 と述べている。こんなに鉄道事業促進に協力した行徳地区等の人々に対して「たまたま自分の趣味が公共的機関だったことを奇貨として、自分の考え方が公共的だと勘違いした方々」が「プロ市民」呼ばわりしたりするのであるが。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (35)

 これは、東西線建設史及び南行徳第一区画整理組合記念誌から作成した、東西線と行徳地区の区画整理事業の時系列である。

 約10年をかけて、東西線の計画から建設にあわせて行徳地区が区画整理事業を実施し、その建設用地を提供できるように取り組んできたことがお分かりになるかと思う。

 その最後の仕上げの清算の段階で、成田新幹線が事前調整全くなしに飛び込んできたのである。だから地元が反発したのだ。

 川島令三氏や草町義和氏の本ばかり読んでいてはこういう話は出てこないのであるが。区画整理事業のことは理解できなくても、鉄道マニアならせめて東西線の建設史だけでも読んでみると違うのだが。

 

 ちなみに区画整理事業について知りたい方は、上記の動画等を見るのもよいかもしれない。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (36)

 これは、先にあげた近藤喜重・市川市議会議員が市川市議会で行った質問からの抜粋である。

 上の年表では、1964(昭和39)年の営団地下鉄の免許申請からスタートしているが、実際には、1963(昭和38)年から地元との調整が始まっていることが分かる。

 約10年間の東西線建設と地元の街づくりの調整の歴史が最終段階になって調整なしに乱入してきた成田新幹線によってひっくり返されようとしている経緯がお分かりになろう。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (37)

 これは近藤議員の質問に対する市川市土木部長からの答弁である。

 「せっかくいままでお骨折りをいただきまして、解散の時期に来ているわけでございますが、この時期もおのずから延びるということで、私ども区画整理を担当してる者といたしましてこの成田新幹線問題はたいへん困った問題ということで苦慮しているわけでございます。

 単に「プロ市民」の声が大きいのではなく、行政としても「たいへん困った問題ということで苦慮」しているのだ。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (38)

 先に

「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」(「幻の成田新幹線をたどる」113頁)という記述を判別するような図面等を私は見つけられなかった。

旨書いたが、それとこれとは別で、現在存在する東西線の立派な側道と成田新幹線の計画は全く関係ないことがお分かりいただけたのではないかと思う。

 仮に、「東西線と成田新幹線がぴったり張り付くような線形になっていた」としても、それは今の側道とは切り離して、改めて建設されるべきものである。

 江戸川区内の葛西地区等も精査すれば同様の事情が明らかになる可能性があるのではないかと思われる。

 

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (39)

 「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」

という考えを持つ方もいらっしゃるかもしれない。

 それならば、東西線の側道が成田新幹線の高架が収まるだけの幅を確保している必要があるのではないか?

 ここからは

「そもそも、東西線の側道の幅に成田新幹線は収まるのか?」

について検証してみたい。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (40)

 上記は、1972(昭和47)年6月9日参議院運輸委員会における長浜正雄氏(日本国有鉄道理事)の答弁であるが、

 新幹線の側道について「側道を4メートル片側、あるいは地域によりましては両側につくるようにしております」と答弁している。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (41)

 そして、上の図面は、「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊に掲載されていた成田新幹線の標準的な構造物の横断図面である。

 国鉄長浜理事の答弁によれば当時の、新幹線の標準的な側道の幅員は4メートルとのことであるから、実際の用地買収の幅は、側道が片側のみの場合15メートル、側道が両側に設けられる場合は19メートル以上となる。

 これが東西線の今の側道におさまるのだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (42)

 なお、市川市議会議員の質問にもあったように構造物の実測値に50cmを加えて用地買収を考えていたようである。

 実際には、側道等の条件は地元と協議してからでないと確定しないものである。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (21)  

 上記は、JR東海のリニア建設手順の説明用の資料からの抜粋である。

 ここにいう「鉄道と交差する道路や水路の付け替えについて地元と協議」のうえ決まるものであり、この質疑の段階ではそんな協議は当然進んでいないので、新幹線の高架橋の部分だけの幅が取り上げられたのだろう。実際にはこのような協議にまでは至らずに新幹線工事は断念されたと思われる。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (43)

 新幹線が収まるためには、片側に側道込みなら15メートル、側道なしでも11.5メートル、両側に側道ありなら19メートル必要と思われるが、東西線の側道の幅はそんなにあるのか?。

 市川市のウェブサイトで道路幅員を調べてみる。よろしければ、下記のリンク先からみなさんもどうぞ。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/roa02/1111000057.html

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (44)

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf

 11.5メートル以上の幅はなさそうですね。。。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (45)

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238999.pdf

 10メートルちょっとしかない区間もありますね。側道がなくても成田新幹線の高架橋自体が収まりませんね。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (46)

 「成田新幹線計画が頓挫したので、その用地を側道に転用した」という趣旨の話をネット等で見聞きするが、もしそうであれば、東西線側道の幅員は最低でも11.5メートルは欲しいところだ。

 しかし、実際には11.5メートルどころか、10メートルちょっとしかない区間もあり、成田新幹線の側道なしの高架橋だけの幅を考えたとしても、東西線の側道には収まらない。

 ここに成田新幹線の側道4メートルを加えれば、片側だけでも15メートル以上となり、今の東西線側道から更に約5メートル広げる(=追加用地買収する)必要があることになる。

 ということで

 「成田新幹線計画がおおっぴらにされていなかっただけで、実は地元の反対を呼ばないように水面下で調整して、側道の名目で土地を確保していたんじゃないか」

 という考えは否定されたと言っても過言ではないだろう。

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東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (47)

 最後にもう一つ、行徳地区と成田新幹線の話題を検証してみよう。

 最近私のブログでは、土地の登記簿をとってネタを検証してみる試みをやっており、一部では好評をいただいているようなのであるが、

 成田新幹線建設用地と言われるマンション「レールシティ行徳」の土地の登記簿を例によって閲覧したので、分析してみた。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (48)

 「また,行徳駅の少し先にはごくわずかではあるが,成田新幹線用の建設用地を買収した記録が残っており,現在その場所にはマンションが建っている.ただ,この建設用地に成田新幹線の高架橋をそのまま建設すると,東西線と成田新幹線の間に側道を挟みこむ形になってしまう.これでは側道の意味をなさないので,実際には建設用地として買収した土地を側道と交換したうえで,成田新幹線の高架橋を建設することになったのではないだろうか.」

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著

「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号 113頁から

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (49)

「(略)市川市に入ると東西線行徳駅の少し先に、ごく僅かではあるが成田新幹線の建設用地を買収した記録が残っていた。現在その場所には「レールシティ」という名前のマンションが建っている(略) 」

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著

「鉄道未完成路線を往く」講談社・刊 28~29頁から

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (50)

 草町義和氏が「成田新幹線建設用地」とするレールシティ行徳の位置を、さきほどご紹介した市川市のウェブサイトから紹介するとこちらである。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/000238974.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (51)

 同様に、市川市ウェブサイトの区画整理事業の頁から拾うと、上記の38街区③-1、③-2、③-3である。

https://www.city.ichikawa.lg.jp/common/cit02/file/0000360551.pdf

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (52)

 で、当該レールシティ行徳の所在地の土地の不動産登記簿をとってみた。

 上記の区画整理事業の③-1~3はあくまでも区画整理事業の土地の表示であって、実際の不動産登記簿では「市川市末広町一丁目15番11~13」で、現在は3つの筆を15番11に合筆している。

 ここで注目したいのは、右上「原因及びその日付」の項の「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」という記載である。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (53)

 「土地区画整理法による換地処分により保留地設定」とはなんぞやということだが、他の土地区画整理事業の説明資料からコピペしてきたらこんな感じ。

 「土地区画整理事業による市街地の整備は、受益者負担に基づき地権者からの土地の提供(減歩)により行われる。減歩により新しく生み出された土地は、公共用地(道路や公園)と売却する土地とに分けられるが、売却し事業費の一部に充てる土地が保留地である


 減歩により新しく生み出された土地のうちの「公共用地」の例が、先に上げた東西線用地やその側道である。

 レールシティ行徳の土地は、減歩により新しく生み出された土地のうち、「売却し事業費の一部に充てる土地」だったのである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (54)

○土地区画整理事業は、道路、公園、河川等の公共施設を整備・改善し、土地の区画を整え宅地の利用の増進を図る事業。

○公共施設が不十分な区域では、地権者からその権利に応じて少しずつ土地を提供してもらい(減歩)、この土地を道路・公園などの公共用地が増える分に充てる他、その一部を売却し事業資金の一部に充てる事業制度。(公共用地が増える分に充てるのが公共減歩、事業資金に充てるのが保留地減歩

○事業資金は、保留地処分金の他、公共側から支出される都市計画道路や公共施設等の整備費(用地費分を含む)に相当する資金から構成される。これらの資金を財源に、公共施設の工事、宅地の整地、家屋の移転補償等が行われる。

https://www.mlit.go.jp/crd/city/sigaiti/information/budget/budget/images/H20kg1.pdf

 これは、土地区画整理事業を所轄する国土交通省のウェブサイトからひいてきた。

 ちなみに、行徳土地区画整理事業の場合の減歩率は19.44%。自分の土地の2割をそれぞれが道路、公園や事業費用に売却する保留地のために差し出して作った街並みなのである。

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (55)

 で、その保留地はどのように売却していたかというと、

1972(昭和47)年2月20日付読売新聞(千葉版)では「毎月1回、組合の保留地を分譲しており、5倍の競争率で飛ぶように売れている。」とある。

 競争による売却というと、価格競争(入札)か、定価による抽選等が考えられるが、「5倍の競争率」ということであれば、抽選で売却していたのだろうか。

 その「飛ぶように売れている保留地」が新幹線公害で売れなくなると、既に施工した区画整理事業の事業費が回収できなくなってしまうから地元は深刻なのである。

 上記の記事の後になる、1972(昭和47)年3月24日付毎日新聞では、「入札の客が激減」、「買いたたかれピンチ」、すでに保留地を買った人から「新幹線を隠して売った」「とんだ土地を買わされた」などの苦情も出ていると報じている。

  なお、何度も紹介している近藤議員の質疑があった市川市の昭和47年3月議会において「陳情57号 成田新幹線通過反対に関する陳情」は反対なく採決されている。プロ市民ならぬプロ市議会ですな。

(※こういう経緯を知らないと、成田新幹線への反対運動は理解できないと思う。)

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (56)

 ということで、レールシティ行徳の土地は、区画整理事業費に充てるために売却された「保留地」なんである。

 保留地だからといって何なんだよというのはこれから説明したい

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (57)

 通常の用地買収なら、土地の測量をして高架橋等の設計図と照らし合わせて、必要な土地の範囲を確定し、その土地の所有者等と売買の交渉をして、合意すれば土地売買契約を締結することになる。

 しかし、レールシティ行徳の土地は、保留地=「区画整理事業の事業費に充てるために売却された土地」である。

 つまり、「元々公募等により広く一般に売却する予定だった土地を、成田新幹線の鉄道施設本体建設のために必要ではない土地として何らかの名目で鉄道建設公団が抽選に参加する等の経緯を経て買収した可能性」を否定できない。

(例)鉄道施設敷地として買収が必要な土地の「代替地」として交換するために予め買収しておく。    

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (58)

 もちろん、「保留地を建設用地として買ってはいけないきまり」があるわけではないので、例えば詳細な高架橋や側道の設計図等をもとに、「成田新幹線の建設用地(側道の交換用地等を含む)として必要な土地が、保留地として売りに出されたので、これ幸いとばかりに鉄道建設公団が買収したのだ」ということを立証することも可能だ。グッドな公文書等があれば。

 また、先に上げたように、東西線用地は「区整を対象とした,保留地先買方式」であることを説明したが、これはまさしく鉄道事業者と地権者が事前に交渉・合意して、東西線用地を他の区画整理用地から先行して決めてしまって工事の早期施工を実施可能としたものだ。

 レールシティ行徳の用地でもそのような取り決めをした可能性は否定できない。しかし、成田新幹線に猛反対していた地元事情からは、それを立証するのは並大抵ではないように思うのは私だけだろうか?

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (59)

 ちなみに、東西線の側道の幅が約11メートル、レールシティ行徳の土地の奥行きが上図から約20メートルなので、日本鉄道建設公団が千葉県に説明した(と報道されている)ように成田新幹線は「東西線に沿って高架で浦安町にはいり、東西線の南側50メートルを東進、京葉道路をまたぐ」 ルートをとっているのであれば、この筆は成田新幹線にはかからないことになる。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (60)

 なお、今回取得した登記簿は、電算化する前の記録が省略されているため、鉄道建設公団が本件土地を取得する前に、他の不動産業者等が契約のうえ、公団に転売している等の可能性はある。

 (新横浜駅の土地をダミーの不動産業者を使って買い占めた堤康次郎のような事例もある。)

 登記簿上の「所有権敷地権」が「順位6番の登記を移記」とあるが、

 1)区画整理組合→2)鉄道建設公団→3)国鉄→4)清算事業団→5)レールシティ開発→6)レールシティ行徳

 くらいかなあ。3)の国鉄は、中間省略登記されているかもしれないから、他の者(当初の保留地売買にからんだ不動産業者?)が入るのかなあ?

 引き続き調査を行い、判明したものは追記したい。そういう意味では保留地云々の部分は「とりあえず気が付いたのでブログ読者の皆様に課題を共有しておく」といった位置づけである。

 ただし、レールシティ行徳の土地がそこにあるからというだけでは、「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形」であることの証拠としては、弱いと言えるのではないかと私は考えている。

 

 

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 と、長々と成田新幹線の行徳地区通過ルートや伝・建設予定地について触れてきたが、最後にまとめに入りたい。

 

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (61)

〇 成田新幹線は、「東西線より50メートル南」と市川市議会での問答がある他、市川市長も新聞記事で「東西線と新幹線にはさまれた区画整理の土地」が出てくると発言している。

〇 しかし、「東西線の高架橋にぴったり張り付くような線形」であるかどうかを完全に判定するほどの図面等は今のところ私は見つけていない。

〇 東西線の側道は、成田新幹線計画以前に地元の区画整理事業によってつくられたもので、成田新幹線とは関係ない。

〇 東西線の側道は、成田新幹線の高架橋の幅が収まらない箇所がある他、行徳駅等の形に沿ってカクカクと曲がっている。また、行徳駅は更に外側に線増の計画がある。

〇 レールシティ行徳の土地は、もともと区画整理組合の一般売却用の保留地であって、新幹線建設(側道交換)用地とは断言できないかもしれない。

  

東西線の行徳付近の側道は成田新幹線の遺構なのか検証してみる (62)  

 引き続き確認が必要な点としては、下記のような課題が残っている。 

〇成田新幹線の平面図は、公的には5万分の1の縮尺のものしか世間に出ていないと思われるが、より詳細な公式図面が出てくれば不明な点が分かってくる。

〇閲覧したレールシティ行徳の土地の登記簿は、電算化前の記録が省略されているので、そこの内容を確認すると、新たに分かるものがあるかもしれない。(私の見立てが間違っていることが分かるかもしれない。)
 

  

 長文お付き合いいただきありがとうございました。 

  

 

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<参考文献> 

「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」日本鉄道建設公団

「成田新幹線工事の概要」日本鉄道建設公団東京支社・刊  

「成田新幹線の建設計画」 延原陽(日本鉄道建設公団新幹線部)・著 「電気車の科学」1972(昭和47)年4月号

浦安町誌 

市川市議会議事録 

「東西線建設史」帝都高速度交通営団・刊 

「幻の成田新幹線をたどる」草町義和・著 「鉄道ファン」2008(平成20)年8月号  

「鉄道未完成路線を往く」草町義和・著 講談社・刊  

「全国未成線ガイド」草町義和・監修 宝島社・刊 

「鉄道計画は変わる」草町義和・著 交通新聞社・刊 

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第一土地区画整理組合・刊 

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第二土地区画整理組合・刊

「記念誌 区画整理のあゆみ」南行徳第三土地区画整理組合・刊

「記念誌 区画整理のあゆみ」行徳土地区画整理組合・刊

「江戸川区区画整理事業四十年の歩み」江戸川区土地区画整理事業団体連合協議会・刊

 その他 各種新聞、国会議事録等 

 

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<「成田新幹線」関係記事> 

「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/06/post-cd1945.html

成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-8bc927.html

船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html

成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.html

京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.html

新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その2)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1)

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html

 

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2021年6月 9日 (水)

「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

「船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html

「新宿西口甲州街道交差点 なぜ南側の一角だけビルの背が低いのか等を登記簿から探る」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/05/post-c9067d.html

 と、登記簿ネタでブログを書いてみたら、私の弱小ブログにしてはご好評をいただいたので、調子に乗ってまた登記簿をとってみた。

 また成田新幹線である。

 それも東京駅だ。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (1)

 「京葉線の東京駅は、成田新幹線用に確保した用地に作った」という人が多いから登記簿をとってみた

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (2)

 「京葉線の東京駅はどうしてあんなに遠いのか?」という問いに対して

「成田新幹線の東京駅のために買収してあった用地を転用/活用したから」といった趣旨の答えをネットでは多く見かけるので、

京葉線東京駅の敷地の登記簿をとってみた。

 果たして、成田新幹線の東京駅としての用地買収はされているのであろうか?

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (3)

 京葉線東京駅の地下の権利に係る部分を拡大してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (4)

 東京地下駅の権利の設定は、1985(昭和60)年11月20日だ。

 成田新幹線の凍結は、1983(昭和58)年と言われるから、その後だ。

 残念。

京葉線東京駅敷地の登記簿

 見やすくするために大きい画像も貼っておこう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (5)

 というわけで、船橋二和高校南側の空き地に続き、また登記簿で成田新幹線に係る都市伝説を終了させたということでよいのではなかろうか。

 これだけではアレなので、もう少し成田新幹線や京葉線の東京駅の権原(けんばら)について解説してみよう。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (6)

 今回登記を取ったのは、旧・都庁(現・東京国際フォーラム)敷地の地下の部分である。

 ヤフーマップ等で見るよりも実はがっつりと道路から東京国際フォーラム敷地内に京葉線東京駅がはみだしている。この筆だけでも438㎡もある。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (7)

 地上は東京都の持ち物だが、京葉線東京駅が存在する地下2m40cmから38m45cmの間だけ、日本鉄道建設公団(現在は鉄道建設・運輸施設整備支援機構)の権利(区分地上権)が設定されている。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (8)

 「都庁地下の権利が設定されたのが成田新幹線凍結後だからといって、成田新幹線の東京駅の敷地がそこまでかかっていたか分からないじゃないか。判断するのは早計だ。」

とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれないが、成田新幹線時代の東京駅の図面でも「道路巾37m以内に納まらず東京都庁内に侵入せざるを得ない。」と国鉄職員が書いているので間違いないだろう。

 成田新幹線東京駅としては用地は買えなかったのである。

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (9)  

 では、「道路巾37m以内」における京葉線東京駅の権原の設定はどうなっていたのか。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (10)  

 道路法第32条に基づき、道路管理者(この場合は、東京都)の道路占用(占有じゃないよ)許可を得る必要がある。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (11)  

 上記1972(昭和47)年3月29日付朝日新聞の記事にも紹介されているが、東京都は、成田新幹線東京駅への道路占用を拒否していたのである。反対なので。 

 「〇〇のプロ市民と過激派のせいで成田新幹線ができなかった」と憤る方がいらっしゃるが、東京都民の場合はまず自問自答された方がよいかもしれない。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (12)  

 尤も、新幹線と東京都が相性が悪いのは成田新幹線に限った話ではないのであるが。 

 その話は、それはそれでネタが結構あるのだが、閑話休題にしてはあまりにも収拾がつかないのでやる気が起きればまた別の機会に。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (13)  

 1983(昭和58)年7月に京葉線の工事実施計画変更認可があり、道路占用の協議に17カ月を要したというのだから、区分地上権を設定した1985(昭和60)年11月の前後に京葉線東京駅に係る道路占用許可もあわせて取得したのではないか??
 

 そんな感じでほぼ同一歩調で都道下の道路占用許可と旧・都庁地下の区分地上権設定が進んだのではないかなあと「推測」する次第である。

 これはあくまでも「推測」なので、間違っているという証拠があれば是非ご教示いただきたい。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (14)  

 今回の本論から話は逸れるが、1983(昭和58)年6月に京葉線の工事実施計画変更認可申請にあわせて、日本鉄道建設公団から運輸省へ「成田新幹線工事の凍結申請」が行われ、同年7月に回答があったという点も注目される。

 同じ場所に同じ公団が成田新幹線と京葉線という違う鉄道の工事実施計画の認可を受けるのは具合が悪かったのであろう。

 公文書上の正式な成田新幹線凍結は昭和58年7月5日とすべきなのかもしれない??

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (15)  

 詳細な凍結時期はともかく、それまでの間に、日本鉄道建設公団は成田新幹線東京駅の工事に必要な土地の権利設定ができていなかった。 

 権利が無いのだから工事なんかできないのである。国鉄敷地内の地下通路を除いては。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (16)  

 成田新幹線東京駅の工事もできないし、土地の買収(地下の権利設定)もできていないのであれば、「じゃあなんで京葉線東京駅はあんな遠くにあるんだ」ということになる。 

 だって成田新幹線のしがらみは幸か不幸か一切ないのだから。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (17)  

 鉄道建設公団の公式の工事誌ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (18)  

 JR東日本の社員が書いた報文ではこんな理由だ。 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (19)  

 まあ、成田新幹線の遺構があろうがなかろうが「永代通りも八重洲通りも先客がいるのだから鍛冶橋通りしか空いていませんでしたよ」ということなのだろう。 

 なお、成田新幹線の計画が生きているころの京葉線(当時は「総武・中央開発線」)は、鍛冶橋通りの更に外側になる外濠通りを通って、新橋駅で山手線や東海道線等と接続する構想があった。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (2)

 「第27回停車場技術講演会記録」307頁から

 その辺にご関心がある方は

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

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 ここで、未成線研究としては外せない川島令三氏はここについてどう語っているかを見てみよう。 

 

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (20)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (21)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (22)  

  

京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (23)  

 年を追うごとに、成田新幹線東京駅の完成度合いが後退していっているのが大変興味深い。 

 なお、「旅鉄CORE」とは、鉄道ジャーナル社から「旅と鉄道」を引き継いだ株式会社天夢人が「鉄道の世界を趣味として、知識として知見を広めるための一歩踏み込んだシリーズ」ということで、その栄えある第一号が川島令三氏の「全国未成線徹底検証 国鉄編」ということのようだ。
 

 川島令三氏の発言の推移については、「川島令三の上越新幹線新宿ルートの変遷を追う」という記事も書いたことがある。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/04/post-159396.html 

  

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京葉線東京駅の登記と成田新幹線東京駅 (24)  

 これは余談なのだが、「京葉線東京駅は成田新幹線駅の遺構なので、広いのだ」という話を聞くことがあるが、成田新幹線東京駅のホームよりも、京葉線東京駅のホームの方が広かったでござる。

 

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 これは全くの蛇足なのだが、今回の記事を書くためにネットも含めいろいろ調べていたのだが、こんな記事を見つけた。 

「東京駅の「京葉線ホーム」があんなに遠いワケ 新幹線の夢の跡に生まれた地下ホーム」 

https://toyokeizai.net/articles/-/220360

 この記事の日付が2018年5月13日 5:00 

 

そして、私がまとめた 

「<JR京葉線>東京駅はなぜ深くて、なぜ遠くて、なぜ有楽町線には乗入れないのか?」 

https://togetter.com/li/1163391 

 これをまとめた日付が2017年10月22日である。 

 もにょもにょ。 

 

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2021年4月11日 (日)

あまり知られていない成田空港関連の国鉄未成線

 また成田空港関連である。

 今度は成田空港関連で国鉄のあまり知られていない未成線構想があったというお話。

成田空港への国鉄未成線 (1)

1967(昭和42)年8月23日付毎日新聞から

 成田空港建設資材輸送用に、新東京国際空港公団が土地を買収し、成田線から分岐する鉄道を建設する。

 これを利用して国鉄が成田空港への旅客輸送を図る「空港線(仮称)」を新設する。

というもの。

 

 同様の報道は他にもある。

成田空港への国鉄未成線 (2)

1967(昭和42)年10月6日付朝日新聞から

 こちらには「成田市土屋」と具体の地名が出ているので、今の成田エクスプレス等が利用している線と同様なのかな?

 これが計画どおり実施されていれば成田空港開港から在来線経由の東京直行の鉄道ができたのになあ。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (4)

1967(昭和42)年9月1日付読売新聞から

 時を同じくして、「首都圏高速鉄道=通勤新幹線」構想も動いていたので、両方を検討した結果、成田新幹線とすることになったのだろうか?

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 成田とは話が変わるが、工事資材用の運搬線路と国鉄、新幹線の他公団との協定にこんなものがある。

 

 埼玉県川口市にある日本住宅公団川口芝園団地の敷地は、元々は鉄道車両を製造していた「日本車輌」の工場であった。

 日本車輛が国鉄線まで引き込み線を持っていたのを転用したのか、公団住宅建設のために新設したのかは不明であるが、蕨駅から「日本住公団専用線」を分離させ、資材搬入に活用したようで、国鉄と住宅公団の間で締結した覚書が残されている。

 その中で興味深い条項があって

・新幹線建設工事着工のため専用線を使用できるのは昭和50年3月まで

・住宅公団は団地入居者の募集にあたり新幹線計画を周知させ、苦情があったら適切な措置をとる

・新幹線建設工事で移転する一般の者の入居に住宅公団は協力する

といったようになっている。

 蕨駅を新幹線が通る計画なんてあったんですね(すっとぼけ)

上越新幹線 新宿-大宮間ルート (1)

1976(昭和51)年1月 「交通技術」1976年1月号「”ひかり”を北へ 東北・上越両新幹線建設計画の概要とその現況」から

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2021年4月10日 (土)

成田新幹線の南ルートと北ルート ~千葉ニュータウンを通るのは既定事項ではなかった~

 また、成田新幹線のルートの話をやります。

  ネットの鉄道関係記事では、成田新幹線と千葉ニュータウンの関係について下記のように書かれている。

 千葉ニュータウンが構想されたのは1960年代のことで、1966年5月に千葉県が整備構想を発表。続いて同年7月には、成田市三里塚に新しい国際空港を整備することを政府が閣議決定し、東京都心と新空港を結ぶ「高速電車」の運行も同時に決まった。これが成田新幹線計画の起源になる。

 千葉県はニュータウンの造成に際し、2路線分の鉄道用地を確保することにした。通勤鉄道用地は当初から確保する方針だったが、構想の発表から2カ月後に「高速電車」が閣議決定されたため、高速鉄道用地も確保することにしたようだ。国鉄発行の『日本国有鉄道百年史』第13巻(1974年2月)にも、以下のように記されている。

 成田新幹線については、当面、新空港と東京都心とをできるだけ短い時間で結ぶことがおもな使命となるが、途中に1か所だけ、将来のニュータウン予定地に駅を設けることとした(中略)ニュータウン計画当初から、この中に通勤鉄道と高速鉄道のそれぞれ複線分の用地が予定されていたためである。

  

「成田新幹線用地が「日本最長メガソーラー」に 京王線も来るはずだった千葉ニュータウン 」草町義和

東洋経済オンライン 鉄道最前線 都会に眠る幻の鉄路

https://toyokeizai.net/articles/-/185355?page=3 

 ところが、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうかは、1971(昭和41)年4月の整備計画決定及び日本鉄道建設公団への建設指示の段階でも確定事項ではなかった」「千葉ニュータウンを通らない世界線もあった」(←「世界線」って使ってみたかったw)

と書くと

 「北総線の横にあるソーラーパネルのところの土地は、千葉ニュータウンを作るときからずっと成田新幹線用に空けて待ってたんだぞ。何言ってんの!?」

と突っ込まれそうだが事実なんである。

 そこのところを例のごとく物量で雪隠詰めにしていきたい。

 

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 成田新幹線のルーツといえば、「通勤新幹線」であることをご存じの方もいらっしゃるだろう。

通勤新幹線

「交通技術」1968年1月号「東京周辺の改良工事施工上の諸問題」菅原操・著35頁から

 

 そもそも、「通勤新幹線」とはなんぞやということになるのだが

 

 第二の柱である東京周辺の都市交通対策の構想では、東京を中心に放射状の通勤新幹線5本(このうち1本は東北新幹線の宇都宮付近までの線で兼用)を建設する。最高時速は160キロ、駅間距離は30キロ以上、車両は現在の新幹線より1両あたり50人多い6人掛け25列、150人乗りで、原則として全員が座れるようにする。1線1時間あたりの輸送量は3万6000人で、100キロ以内の首都圏に住む人は50分足らずで都心に出られることになる。

 路線は、東京から千葉県の新東京国際空港付近(50キロ)に至るもの、東京から茨城県の中央部(100キロ)、東京から群馬県の南部(100キロ)、東京から神奈川県の湘南地区(70キロ)に至るものと、前記東北新幹線兼用の5つ。

「R」1966年11月号「10年後の国鉄 -鉄道網整備の基本構想-」21頁から引用

 当初の通勤新幹線時代にこんな記事がある。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (4)  

 1967(昭和42)年9月1日付読売新聞 

 「なんや、こら、 北千葉ニュータウン経由って書いてあるやんけ!」と思われるかもしれない。

 まあ、もうしばらくお付き合いください。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (1)  

「成⽥ニュータウン計画における商業企画に関する研究報告」小林輝⼀郎・著  「⽇本経営診断学会年報」1970年2巻から

 「なんや、こら、 千葉ニュータウンに「高速鉄道」が走ってるやんけ!」と思われるかもしれない。

 まあ、もうしばらくお付き合いください。

 

  

 成田新幹線の建設手続きは下記のとおりである。 

1971(昭和46)年1月18日 東北・上越・成田新幹線の基本計画を決定・告示

1971(昭和46)年1月19日 東北・上越・成田新幹線の調査を国鉄及び鉄道建設公団へ指示

1971(昭和46)年1月30日 東北・上越・成田新幹線の調査報告書を運輸大臣に提出

1971(昭和46)年4月1日 東北・上越・成田新幹線の整備計画決定及び建設指示

1971(昭和46)年10月12日 東北・上越新幹線の工事実施計画認可

1972(昭和47)年2月10日 成田新幹線の工事実施計画認可

 

 御覧のとおり、よーいドンで始まった東北・上越・成田新幹線のうち、成田新幹線の工事実施計画認可だけが東北・上越新幹線よりも遅いのである。(なお、認可の翌日から反対運動が巻き起こるのだがそれは別の機会に。)

 なぜか。

 その間に、「成田新幹線が千葉ニュータウンを通るかどうか」その他諸々が揉めていて決まらなかったためである。

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 その辺の経緯を追っていきたい。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (3)

1971(昭和46)年10月19日付朝日新聞夕刊 8

  先ほど、成田新幹線は通勤新幹線がきっかけの旨書いたが、通勤路線とするのか、全国網の幹線鉄道ネットワークの一部とするのかで、国鉄と鉄道建設公団が了解できなくて、その路線の性格をどのようにルートに反映させるかも決まらないので、東北・上越新幹線に比べて工事実施計画の策定が遅れているという話である。

 国鉄は、成田新幹線は成田空港利用客だけでは採算がとれない赤字路線になるので、ニュータウンに停車して利用客を稼ぎたいが、鉄道建設公団は余計な駅には止めたくないという対立のようだ。 

  ちなみに、国鉄としては、北ルートの場合は千葉ニュータウンに、南ルートの場合は幕張等の京葉線沿いのニュータウンに停めたかったようだ。

 SNSで「もし成田新幹線ができていたら、(湾岸沿いの)ニュータウンにも停まって、ラッシュの混雑緩和できたかもしれないのに」という書き込みが見られると、未成線マニアは「成田新幹線はそっちじゃなくて、千葉ニュータウン経由だよ。これだからニワカは。」的な態度を取りがちだが、実はニワカの方が正しかったりするのである。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (2)  

1971(昭和46)年11月7日付毎日新聞 

 そこをなんとか北ルートで決定して、元サヤの?千葉ニュータウン経由となった。 

  

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 先ほど、「成田新幹線は通勤新幹線か否か」という性格論争があったと書いたが、その詳細が示されている資料があるのであわせて紹介しておきたい。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (5)  

「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」国鉄新幹線建設委員会 1972(昭和47)年3月刊から 以下同じ 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (6)  

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (7)  

 ここでいう「首都圏高速鉄道」が、いわゆる「通勤新幹線」である。我々マニアにとっては新幹線だろうが通勤新幹線だろうが大した違いはないようなのだが、当事者にとっては大きな問題なのであろう。

 他の部分も読んでみると、「ここで成田新幹線に通勤定期的な割引を認めてしまうと、他の新幹線への影響が大きい」という課題があるようだ。今では新幹線定期は普通に販売しているが、当時はそこは大きな壁だったということなのだろう。 

  更に、これらの資料に続き、国鉄の監督官庁である運輸省による成田新幹線の位置づけペーパーが添付されている。

 

 成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (8)

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (9)  

 ここで注目したいのは、3問題点 (1)ルートについて 中の箱書きの中である。 

〇 北千葉ニュータウン内には複々線の鉄道用地が確保されており、この部分を経由することも考えられる。」 

 この一文から分かる成田新幹線のルート問題への重要な国のスタンスが分かる。 

1) 成田新幹線は北ルート(=千葉ニュータウン経由)となることは、この会議が開催された1970(昭和45)年7月段階では確定事項ではなかった。むしろ「考えられる」程度のレベル感であった。 

2) 千葉ニュータウン内に確保されていた複々線は、当初から成田新幹線用に準備されていたものではなかった(少なくとも運輸省はそうは受け止めていなかった)。

 それが実際に北ルート(=千葉ニュータウン経由)と決定したのは、新聞報道によると 1971(昭和46)年11月ということなんである。

 さあ、対立していた国鉄と鉄建公団が北ルートで合意したからには、事業促進に突き進むかというとそうではなかった。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (10)  

1972(昭和47)年5月3日付朝日新聞から   

 工事実施計画認可後に千葉県がルート問題を蒸し返したのである。北ルート反対、南ルートなら検討と。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (12)  

 そして、南ルートを今から建設するには時間もかかるので、その間は「都営新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備すべきとした。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (13)  

1972(昭和47)年5月13日付読売新聞から

 そして千葉県の友納知事は東京都の美濃部知事と組んで「都営地下鉄新宿線(10号線)-千葉県営鉄道-成田空港」の鉄道アクセスを整備を改めてぶちあげた。

 都営新宿線の整備促進に繋がるのであれば、成田新幹線反対の急先鋒である江戸川区も賛成である。 

 

 千葉県の友納知事の千葉県営鉄道への熱の入れ方については、サークル「高砂第一工廠」さんの「千葉県営鉄道北千葉線のあゆみ」https://akaden.org/mat/his/ktcb/his01.htmlを読むとよいだろう。

 友納知事にとっては、京成=北総開発鉄道と競合しながら千葉ニュータウンに千葉県営鉄道をねじ込もうとしているところ、更にライバルになる成田新幹線は排除したかったのだろうか?

 これは全くの個人的な思い付きのレベルだが、「成田新幹線が挫折したのは、プロ市民のせいだ、サヨクだパヨクだ」なんてネットで書かれることがあるけど、千葉県が一番悪玉だと思うんだけど。如何??

 先日UPした「成田新幹線凍結前に、承知のうえで、船橋二和高校の南側に成田新幹線と競合する都市計画道路を都市計画決定した」のも千葉県の仕業だし。

 ご存じのように友納知事は保守派の土木利権大好き知事である。反権力で公共事業反対したのではない。

 その証拠に、同時期に成田空港に向けて整備された東関東自動車道(新空港自動車道)は無事に開通している

Wikipedia「中央自動車道」の変な記述を検証 (16)

「道路」1971(昭和46)年11月号から引用

  

 ただし、自分のナワバリに手を突っ込まれたら、公団だろうが国だろうが言うことは聞かないよということなのだろうか。

 その辺は、葛西周辺の区画整理事業を台なしにされそうになった江戸川区の中里区長と同じなのかもしれない。

 

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 ところで成田新幹線が北ルートか南ルートかがギリギリまで決まらなかったとすれば、千葉ニュータウンが空けておいた「新幹線用地(現・ソーラーパネル用地)」は一体何を考えて作られた(空けておいた)のだろうか?

 ヒントになる新聞記事を紹介したい。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (14)

 1967(昭和42)年12月19日付朝日新聞から

  冒頭にあげた通勤新幹線の記事の直後の報道である。

 陸の孤島であった千葉ニュータウンへの鉄道敷設のために入居者負担を検討するものだ。(余談だが、その後一部路線が宅地開発公団→住宅都市整備公団の鉄道となっていくので、「一種の入居者負担」ではある。)

 その中に注目すべき部分がある。

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (15)  

 ザクっというと、「通勤電車だけでは入居者負担はしんどいので、成田空港行きの電車等も設定することで負担軽減に資するようにしよう」ということだ。

 単純に国策協力として成田新幹線用地を空けて待っていたのではなく、入居者の負担軽減のために新幹線に限らず長距離輸送に係る鉄道を積極的に誘致していこうという姿勢がここには見られるのである。

 

 

 結果的には、成田新幹線も千葉県営鉄道も共倒れに終わった。

 成田新幹線凍結後のAルート、Bルート、Cルートの話は比較的有名だが、実はそもそもスタートからルート問題で躓きっぱなしだったのが成田新幹線だったわけだ。 

 

 (とりあえずここで本題終わり)

 

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 (ここからは余談) 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (7)  

 先にあげた「新幹線建設委員会の審議概要(その1)」資料にこんな記載がある。 

 成田新幹線を「全国新幹線鉄道のみ建設」し、「首都圏高速鉄道(=通勤新幹線)としての建設は行わない」場合、すなわち、「長距離輸送に専念して、通勤輸送は行わない」場合の「欠点(問題点)」の(2)として「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」があげられている。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (16)  

 都市交通審議会といえば、未成線マニア等にとっては有名な上図の路線網を決めるところだ。 

 (せっかくなので、千葉県営鉄道が10号線として位置づけられているやつを。。。ちなみにまだ埼京線がないので、都営三田線(6号線)が、東北線の西側を大宮方向川越線まで走っている。) 

 そこのメンツを潰すような振る舞いになってしまうということだろうか? 

  

 国鉄で新幹線建設等に携わった角本良平氏が下記のようなことを語っている。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (17)  

交通選書 「新幹線 希望と展望」交通新聞社・刊 154頁から 

「成田新幹線は(略),東京のターミナルは当時の都庁前(現在の京葉線ホームの位置)に予定された。そのため,そこに計画されていた地下鉄有楽町線は南の方(有楽町駅寄り)に移された。今日この線が銀座線などと連絡が悪いのはこの措置が原因であった。」 

 成田新幹線は、もともと予定されていた有楽町線を追い出して鍛冶橋(当時の都庁前)に駅を計画したというのである。 

 だから通勤輸送をやめたときに「都心部ルート(都庁前鍛冶橋通り)を確保したいきさつに対する都市交通審議会、東京都等の反応」が気になるのだろう。 

 推測にすぎないがその「いきさつ」には、「成田新幹線は長距離客だけでなく通勤輸送もするので、有楽町線はどいてくれ」という経緯があったため、今更通勤輸送はやりませんとは言えないということではないだろうか? 

  

 また、「この鉄道には自治体側の協力がなく、結局計画は消滅した。その背後には関連の民鉄の反対があったという。」とある。 

 関連する民鉄とはいったいどこだろう?皆様の脳裏には、目つきの悪いパンダを思い浮かべる人もいるかもしれない。いやそれしかいないだろう。 

  

 千葉ニュータウンへの鉄道敷設で千葉県と争った京成電鉄は、成田新幹線代替路線のルートで今度は国鉄と争った。 

成田新幹線ルートと千葉ニュータウン (18)  

1980年10月25日付朝日新聞から 

 ご存じのように、成田新幹線代替の鉄道アクセスは京成に軍配が上がり、多くの鉄道マニアがスカイライナーを「成田新幹線」と呼んでいる。 

 印旛地方をめぐる、千葉県、国鉄、京成の三つ巴の鉄道ルート争いは、京成が最終的に勝利を迎えたということだろうか。 

  

 

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<関連記事> 

●船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2021/04/post-305c8a.html 

●成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.html 

●新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html 

●新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その2) 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

●東北新幹線大宮以南の速度が遅いのは、「プロ市民」のせいなのか、線形のせいなのか検証してみる

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-0f2f22.html

 

 

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※ ブログの内容を、youtube動画、「ゆっくり解説」的な動画に転載することはご遠慮ください。

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2021年4月 3日 (土)

船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線のために買収した土地の名残だと言われるが、不動産登記簿を閲覧したらそんな売買取引の記録はなかった。

 成田新幹線について調べていると、「あそこが未成だった土地だ」「成田新幹線用地として買収したが、事業中止となったために売却されて活用している土地に違いない」という話がでてくる。

 新京成電鉄の公式ツイッターもそんなことをつぶやいてる。

 

 実際にそのような事例はないわけではない。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (2)

 上の広告の①と②は、そのような事例だった可能性はある。

 

 そういった中で有名な箇所の一つが、千葉県船橋市二和西一丁目にある千葉県立船橋二和高校と日大グランドの間の微妙な隙間である。

 以前、このブログでも「成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2020/03/post-cbaceb.htmlという記事を書いて、日本鉄道建設公団が作成した路線図をうpしているが、確かにこのあたりを通っているように見えなくもない。

成田新幹線計画図面 (2)

 


注釈 5

^ 途中、千葉県立船橋二和高等学校脇を通る。日本大学二和グラウンドとの境界(道路)が北東に伸びているのはその名残。

 

Wikipedia 「成田新幹線」 2021年4月1日閲覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E7%94%B0%E6%96%B0%E5%B9%B9%E7%B7%9A

 また、船橋二和高校の西隣にある船橋二和グリーンハイツの南側にある駐車場についても同様の話が出ている。


■千葉県船橋市二和地区・謎の細長い駐車場

(中略)

画像の駐車場は、用地買収したものの計画中止となって後に売却された土地と思われる。

 

「にょほほ電鉄」成田新幹線 2021年4月1日閲覧

https://www.nyohohodentetsu.com/railjnrnarita.html

 とは言っても、物証があるのか?というところである。

 それをやってみようというのが今回の記事である。そして成田空港反対運動における意外な事実が浮かび上がってきたのだった。

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 実は小生、不動産の登記簿等からある程度の証拠を集めて推測するくらいはできる。

 ネットで見る限り、それをやって確かめた人はいないようなので、やってみよう。

 

 「不動産登記簿?何やそれ?」という方は、こちらの不動産関係サイトでも見てほしい。

 

 先に結論を言うと、

 「船橋二和高校や船橋二和グリーンハイツと日大グランドの間の空間の土地において、日本鉄道建設公団が土地を売買した記録は見つけられなかった。」

ということである。すべての筆を確認したわけではないが、代表的なポイントの筆の全部事項証明書を閲覧した範囲では、「成田新幹線が事業中の間に普通の民間建設会社が土地を売買していた」のである。

  

  以下、それを説明していこう。

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 では、まず調べた土地を紹介していこう。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (14)  

 船橋市地図情報システム いきいきふれあいマップ https://webgis.alandis.jp/funabashi12/portal/toshi/index.htmlに注記を入れたもの

  ここで、成田新幹線関係の土地(=日本鉄道建設公団が用地買収したものの計画中止となって後に売却された土地と思われている土地)は、②戸建て住宅、③細長い道路、④怪しい空き地、⑥怪しい小屋、⑦細長い駐車場であろう。

  

 まず、この辺の土地はもともと大蔵省(現・財務省)が所有していた畑が広がっていたようだ。 

 大蔵省が畑を持っているということについて違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれないが、森友事件でも話題になったように、国有財産の管理も大蔵省(財務省)の所轄である。

 


江戸時代、下総の台地には広大な幕府の馬牧が置かれていました。牧場の数は時期によって変りますが、江戸時代後期には小金五牧、佐倉七牧で計十二の牧場がありました。牧場は一つ一つが広大で、大人が一日かがりでも廻りきれないものもあったそうです。 二和地域がある船橋の中央台地は小金五牧のうちの「下野牧」で習志野市北部を経て千葉市西端まで至る細長い牧場でした。

 明治維新によって東京府下を中心に多くの失業者が生じ、政府と東京府により人々を下総台地の旧幕府牧へ移住させて開墾農村を作る計画が立てられました。

 

船橋市「二和の歴史」 2021年4月1日閲覧

https://www.city.funabashi.lg.jp/shisetsu/toshokankominkan/0002/0016/0002/p009555.html

 

 このあたりは上記のような由来があるそうなので、それで「国有の畑」が残っていたのかもしれない。

 余談だが、開墾した順に、初富、二和、三咲、豊四季、五香、六実といった地名をつけていったということで、五つ子の女子高生に囲まれるハーレムラブコメマンガみたいですね。

 これを切り売りしていった記録が下記のとおりである。

①船橋二和高校

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (12)

 昭和51年1月7日分筆  昭和54年2月19日売買

 高校のウェブサイトによると「昭和54年4月14日 創立」とある。 

 売買自体は開校直前の日付だが、実際には昭和51年の分筆後に工事は着工していたものと思われる。

  

 ②戸建て住宅

 個人の所有地なのでプライバシー保護の関係から登記簿はUPしない。 

  昭和50年に、船橋二和グリーンハイツを建設したA建設が取得し、その後複数の建設会社等経て、平成になってから個人に売却されている。

  

③細長い道路 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (9)

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (18)

 上記②の土地と一緒に昭和50年に、A建設が取得し、道路を造成後、昭和60年に船橋市へ寄付している。 

 宅地開発業者が、団地、宅地等を造成し、完成後に道路を行政に寄付することは一般的に行われており、珍しいことではない。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (3)

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (7)

 ↑「財産移管」云々とポップアップが出ているのがお分かりだろうか?開発業者から市に道路の財産が移管されたということである。 

 ストリートビューで見ると、左から「①船橋二和高校」「③細長い道路」「②戸建て住宅」「④怪しい空き地」である。

④怪しい空き地 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (8)

  今でも大蔵省(財務省)所有のままである。

 ただし、新幹線事業であれば、大蔵省名義のまま土地を貸し付ける形で処理することも想定される。

 

 

⑤日大グランド 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (11)

 昭和52年に日大が取得している。 

  

⑥怪しい小屋 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (15)

 今でも大蔵省(財務省)所有のままである。

 

⑦細長い駐車場 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (10)

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (4)

 昭和51年に、船橋二和グリーンハイツを建設したA建設が取得している。 

 ストリートビューで見ると、左から「⑥怪しい小屋」「⑦細長い駐車場」「A建設から市に寄付された道路」「船橋二和グリーンハイツ」である。

 おさらいすると下記のようなことになる。これらの取引が昭和50~52年ごろに立て続けに行われたことになる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (1)

 成田新幹線は、昭和47年に日本鉄道建設公団が工事実施計画の認可を受け、昭和58年に事業凍結、昭和61年に国鉄民営化にあわせて失効したとされている。 

 その間の通常に鉄建公団が用地買収を行っている時期に、「成田新幹線が通ったかもしれない土地」を建設業者が普通に買収して普通に開発しているのが実態であった。 

 繰り返しになるが、全ての筆を調べたわけではないのだが、代表的な筆に係る不動産登記簿の全部事項証明書を閲覧したところ、日本鉄道建設公団が船橋二和高校と日大グランドの間の空間の土地を売買した記録は見つからなかった。 

 言い換えると「ここに成田新幹線が通る計画があった可能性は相応に高いが、実際に日本鉄道建設公団が用地買収をしていたかというと可能性はかなり低い」ということだ。

 これで成田新幹線に係る「都市伝説」を一つ潰したと言って差し支えないのではないか? 

 異議のある方は、是非私が調べていない筆を虱潰しに調べ上げていただければよいかと思う。 

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 ところで、上記の「船橋市地図情報システム いきいきふれあいマップ」に二本の茶色いラインがあるのに気づいた方がいらっしゃると思う。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (2)

 未成線マニアの方は「これこそ成田新幹線の計画を示すものではないか!」「やはり船橋二和高校と日大グランドの間の空間は成田新幹線じゃないか!」と小躍りしてしまうかもしれない。 

 しかし違うのである。 

 この茶色いラインは、千葉県/船橋市の都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」なのである。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (1)

 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (17)

 https://www.pref.chiba.lg.jp/tokei/toshikeikaku/documents/kuiki_master_zu_funabashi.pdfから

 すると、未成線マニアの方は「成田新幹線計画跡地を転用して道路計画に再利用したのだ!」とまた小躍りしてしまうかもしれない。 

 しかし違うのである。 

 「3.1.37馬込町古和釜町線」が都市計画決定されたのは、昭和56年11月20日(千葉県告示)である。

船橋の都市計画2020~令和2年版~ 31頁に記載

 先ほど、成田新幹線の経緯として、昭和47年工事認可、昭和58年凍結、昭和61年失効という流れを述べた。 

 なんと、成田新幹線工事凍結前の「バリバリに工事中の期間に、道路を都市計画決定している」のである。 

 ちなみに日本鉄道建設公団が作成した成田新幹線の図面(上段)と、船橋の都市計画図面(下段)を並べてみたらこうなる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (6)

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 ここで船橋市議会の議事録を紹介したい。 


昭和五十六年第一回船橋市議会定例会会議録(第二号)

昭和五十六年三月十六日(月曜日)

◆三十六番(川崎忠治君) 二月十五日号、「広報ふなばし」で、国道二九六号線バイパス案について発表が行われました。これによりますると、中野木交差点を起点として、県道船橋─我孫子線、これを北上して馬込町で右折をし、神保町に至りましてからさらに右折をいたしまして、金堀町を通り八千代市に至るものだということが、船橋内の計画線として発表されたわけであります。その延長が市内で十一・七キロメーター、この間、四十メーターと三十メーターの幅員になるという構想であります。
 市の計画図を見てみますると、中野木から馬込町までは大部分が現在の道路が利用されますので、幅員の拡張のみで済まされる、こういう計画であります。馬込町から金堀町までは新しく宅地や農地、山林等が買収されることになります。この通過予定地は四つの農業振興指定地域があります。五十六年度もまた一カ所指定されようとされています。また、この地域には公共施設、医療施設もあり、住宅も追いついてきております。以上の地域環境の中で生活している住民が、広報を見て驚き、このバイパス反対の陳情が今議会にも提出されておるわけであります。こういう意味から、私はこのバイパス問題を取り上げまして、具体的に理事者にご質問申し上げたい、このように思うわけであります。
 私は、具体的に何点かの問題を提起いたしますので、この点について細かくご答弁くださるようお願いをいたしておきます。

(略)

四点では、成田新幹線との関係です。いま成田新幹線は各地で住民の大きな反対に遇い、計画が一時ストップになっております。しかし、この計画は完全に白紙撤回されたものではありません。いつまたこの事業決定がなされるかわからないというのが現状であります。現在、佐原線から成田空港に向けて工事が進められていると言われております。いわゆる在来線の延伸であります。これは、この間の新幹線の計画ルートをそのまま使っているということであります。これを考えてみると、この新幹線がまた浮かび上がってくるということは、住民としては非常に危惧として持つのは当然ではないかというふうに思います。仮に四十メーターから三十メーターのバイパスができるということになりますならば、幅員十一メーターあれば足りるところの軌道幅、これがこのバイパスの中にすっぽりとはめ込まれるということになるわけであります。住民はこの新幹線との関連でも非常に心配を持っております。この点についてどのようにお考えになるか、お答えを願います。
 

◎企画部長(成田知示君) 三十六番議員さんのご質問にお答えをいたします。

(略)

次に、成田新幹線との関連でございますけれども、ご存じのように成田新幹線につきましては、地元の公共団体がこぞって反対をいたしておるわけでございます。もちろん県につきましても反対をいたしております。そういう中で、私どもといたしましては、あくまでも新幹線については反対の立場を通していくということは、すでに決まっておるわけでございます。そういうことを承知の上で、私どもとしてはこのバイパスルートを選定したわけでございまして、新幹線が将来この路線と競合して取るんじゃないかというようなことでございますけれども、私どもとしては新幹線についてはあくまでも反対の立場を貫いていくということでございます。

 

 この議事録に出てくる「国道二九六号線バイパス案」が、船橋二和高校と日大グランドの間の空間に引かれた茶色い線=都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」である。 

 都市計画決定(昭和56年11月)の前に市民に路線の説明をしたことに係る質疑というわけだ。 

 この議員と船橋市の企画部長のやりとりを誤解を恐れずにざくっとまとめると 

議員「住民は成田新幹線に反対してきたが、R296BP(都計道)の幅が40mもあるのであれば、そこに成田新幹線が入ってくるのではにないかと危惧している」 

部長「成田新幹線は千葉県も県内自治体もこぞって反対している。そういうことを承知の上でR296BP(都計道)のルートを選定し、新幹線に反対を貫いていく」 

 つまり「千葉県と県内自治体は、成田新幹線反対を貫く前提で、成田新幹線のルートにバイパスのルートを設定した」ということではないだろうか?(違ったらごめんなさい。) 

 この都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」は、船橋市が「はねっかえり」で設定したルートではなく、このまま東側の八千代市に伸びて、現在八千代バイパスが施工されているところへ接続するものだ。 

 「バイパスの都市計画道路を成田新幹線にあてて都市計画決定することで、千葉県こぞっての新幹線反対の姿勢を確かなものにした」そう見ることもできるのかもしれない。

 単純に「昔からバイパスの検討はしてきたので、成田新幹線が来ようが来るまいが、千葉県としての事業は変わらずそのまま進めるよ」ということかもしれない。

 あまり知られていないが、船橋市も強硬な新幹線反対派だったのだ。 東北新幹線の戸田市や浦和市は地下化を求めたのだが、船橋市は地下化の検討のボーリングすら拒否したと報じられている。ある意味埼玉県南よりも強硬な反対自治体である。

 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (1)

1976年2月10日付朝日新聞から

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 「バイパスの都市計画決定を成田新幹線のルートに重複させたら、新幹線の都市計画と矛盾するのではないか?」と思う方もいらっしゃるかもしれない。 

 しかし、その心配はご無用である。 

 なぜなら、成田新幹線は都市計画決定は一切やっていないから。 

 逆に、地元自治体等と一切ルートの調整はせずにルートを公表し、「これが日本鉄道建設公団が考えた最良のルートです。一切変更しません。」という進め方をしたからこそ、東北新幹線も成田新幹線も地方自治体の長をトップとした異例の反対運動に直面したのである。 

 (例えば、江戸川区は、東西線沿いのルートを湾岸線側に変更できないかという交渉をしているが、突っぱねられている。) 

 その反省を踏まえてなのか、その後の整備新幹線では都市計画決定を行っているようだ。

  

 それにしても、新幹線ルートの上に「そういうことを承知の上で、このバイパスルートを選定」して都市計画決定してしまうというやり方は、初見である。

 大学時代に行政法第二部の講義で成田新幹線訴訟の話を聞いて以来、個人的に「公共事業への反対運動、法廷闘争」といったものに関心を持ってきたのだが、官製のこんなやり方は他にはないのではないか? 

 

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 ここで改めて経緯を整理してみよう。 


1971(昭和46)年 成田新幹線の基本計画告示 

1972(昭和47)年 成田新幹線の工事実施計画認可 →このとき、はじめてルートが公開される。

1975(昭和50)~1977(昭和52)年頃 船橋二和高校、船橋二和グリーンハイツ、日大グランド関係の土地が売却される。 

1977(昭和52)年9月 成田新幹線用地買収を中止(会計検査院参照

1979(昭和54)年 船橋二和高校開校 

1981(昭和56)年2月 船橋市議会「そういうことを承知の上で、このバイパスルートを選定」

1981(昭和56)年11月 都市計画道路「3.1.37馬込町古和釜町線」告示

1981(昭和56)年11月 船橋二和グリーンハイツ竣工 

1983(昭和58)年 成田新幹線凍結 

1986(昭和61)年 成田新幹線計画失効

平成XX年  ②の戸建て住宅竣工

  

 成田新幹線凍結後ではなく、成田新幹線凍結前に色んな興味深い動きがあったということである。 

 

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 ここで気になるのが、1975(昭和50)~1977(昭和52)年頃の分筆の意図である。

 

 船橋二和高校と日大グランドの間を斜めに切る必然性があるような地型ではない。 

 成田新幹線なのか都計道バイパスなのか、何等かの事業を考慮して土地を切り分けたのは間違いないだろう。 

 それが成田新幹線なのか都計道バイパスなのかを確定できる資料にはたどり着いていない。 

  

 あくまでも私個人の推測にすぎないのだが、「千葉県立」船橋二和高校と「千葉県」の都市計画道路ということで、双方千葉県の事業と同士が事前調整して今の土地の切り分けに繋がったのではないだろうか? 

 都市計画決定自体は1981(昭和56)年 と成田新幹線のルート公表の9年後であるが、都市計画道路のルート決定には10年くらいかかるのは珍しい話ではない。千葉県や船橋市は新幹線には反対していたので、それを考慮することなく、千葉県の学校と千葉県の道路で棲み分けをしたというのが私のヤマ勘である。如何だろうか?

 

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※ここからエビデンスのない妄想

 ここでちょっと脱線というか、裏付けは全く取れなかったのだけど、思いついたことがあるので、参考までに皆様にご披露してみる。

 もし、皆様が何か関連資料をお持ちであれば、ご一報を。

 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (2)

 都市計画道路は幅員40mで決定されている一方で、成田新幹線の高架だけなら11mしかいらない(側道等はこのさい無視)。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (3)

 日大グランド側に、あまり有効に活用されていなさそうな大蔵省名義の土地が今でも残っていることが引っかかっている。

 「ひょっとしたら、これは11m幅の新幹線用地は大蔵省名義のままで、A建設に売却せずに残してあるんじゃね??」

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (4)

 しかし、すぐ気が付いた。

 「東側の宅地分譲しているところは、船橋二和高校から日大グランドまで一括してA建設に売却してるじゃんか。」

 はい、妄想終了。

 

 ところで、この「11m幅の新幹線用地は大蔵省名義のままで、A建設に売却せずに残してあるんじゃね??」という妄想がもし正当なものであったらこんなことが起きてしまう。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する 2 (5)

 多くの未成線マニアの方が「ここは成田新幹線のために用地買収したものの計画中止となって後に売却された土地」に違いないと注目する、あの「細長い駐車場」が、成田新幹線の想定幅から外れてしまうのである。

 「成田新幹線のために用地買収した」ということは都市伝説にすぎなかったことは今回実証したが、この妄想が正当なら、「成田新幹線計画地」だったことも都市伝説確定してしまったかもしれない。

※エビデンスのない妄想 終わり

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 ちなみに、船橋二和高校南側の空間と同じように、「成田新幹線用地として買収したが、事業中止となったために売却されて活用している土地に違いない」と言われている道路が、ここから西側の船橋市立馬込霊園付近にもある。 

 

 

 

 実は、ここも都市計画道路3.3.7「南本町馬込線」(ここも国道296号バイパス想定で昭和56年に都市計画決定)のラインにあてはまる。 ここも「そういうことを承知の上で、私どもとしてはこのバイパスルートを選定した」のだろう。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (5)

 流石にここの土地の登記簿を閲覧する気にはならないので、「ここが成田新幹線買収済用地の転用だ」と主張される方は是非ご自分で閲覧していただきたい。 

 一回334円の登記簿閲覧ガチャは高いんですよ。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (13)

 この記事書くだけで二千円以上登記情報提供サービスに支払っているのだよ。とほほ。 

 

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<結論>

・船橋二和高校と日大グランドの間の土地は、成田新幹線の事業凍結前に千葉県が都市計画道路として決定した空間である。

・この空間を形づくる1975(昭和50)~1977(昭和52)年頃の土地の売買は、成田新幹線を踏まえたものなのか、都市計画道路を踏まえたものなのかを明らかにする資料は私は見つけられていない。

・この空間の土地は、成田新幹線買収の名残等と言われることがあるが、日本鉄道建設公団が土地を売買した記録は不動産登記簿からは見い出せない。一方成田新幹線凍結前に船橋二和グリーンハイツを開発した建設業者がここの土地を買って「細長い駐車場」等を作っている。

 

 実は、成田新幹線の用地買収は、JR成田線以東の、現在成田エクスプレス等が乗り入れている区間を除いてはほとんど進んでいない。 


 京成電鉄関係者にいわせると、「国鉄は成田新幹線を完成させるための努力を、ほとんどやっていない。空港地下駅に着手したのは、空港第一期工事がほぼ終り、反対派の妨害が下火になってからだった。また、東京寄りの区間で用地買収の努力をしたという話を聞いたことはない」とさんざんである。

(略)

 また、用地買収は、52年9月までに(それ以降中止)要取得面積約136万平方メートルのうち、空港ー土屋間の20万平方メートルを含めて約22万平方メートル(全体の16%)
しか行っていないが、その費用は約59億3千万円。

 

「話題追跡レポート 800億円のムダ「成田新幹線」の利用法」 実業界 1984年4月1日号

 

 成田線以東の買収済用地は、わずかに2万平方メートルである。(おそらく千葉ニュータウン付近の用地は、鉄道建設公団ではなく住宅公団あたりが取得することになっていて分母に含まれていないと思われる。) 

 2万平方メートルを高架橋の幅員11メートルで割ったら1818メートルだ。延長にして1.8km分の土地しか買えていないのだ。

 そうそう「成田新幹線買収済用地」があちこちに出てくるわけはないのだ。 

 

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 <ご注意>

 

 ※ここからは二和地区の新幹線の土地とは全く関係のない一般論です。

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 先ほど 

 そうそう「成田新幹線買収済用地」があちこちに出てくるわけはないのだ。

 

と書いたのだが、鉄道用地が買収されるまでを見てみよう。 

 ちょどJR東海が「環境影響評価から工事開始までの流れ」https://company.jr-central.co.jp/chuoshinkansen/efforts/briefing_materials/library/_pdf/H25lib17.pdfという資料を公開している。 

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (20)  

 上がざっくりとした全体の流れで、この後個別の作業の説明が出てくる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (21)  

 先ほど成田新幹線の高架部分の標準的な幅員が11mだという公団の資料をお示ししたが、じゃあまっすぐ11mの幅で買い進めていけばいいのかというと全くもってそうではない。

 新幹線が出来ることによって既存の道路や河川が支障となって付け替え工事が出てくる場合がある。大型車が出入りする工場があったりすれば引き続き出入り出来るような道路を再設置しなければならないし、耕作をしていれば水がきちんと流れる用排水路を再設置しなければならなない。

 また、地元住民には必要なくても新幹線建設工事用の重機が入れる道がなければ、それも作らなければならない。

 この辺もひっくるめてどれだけ用地買収をしなければいけないかが決まってくる。

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (19)  

https://www.city.iida.lg.jp/uploaded/attachment/32826.pdf 

 上記は、実際にリニア建設にあたって地元と「設計協議」している土地だ。リニアは高架だけど、「調整池」や「機器室」も買収することになっていることもわかる。アセスメントの際の図面には、こういったものまでは載っていないと思われる。

 この絵ズラについて、全ての関係者が了解して、初めてどの土地を買収するかが決まってくる。

 船橋市については、先にお示しした新聞記事にあるように、「成田新幹線の地下化を検討するためのボーリングすら許さない」姿勢だったと伝えられており、このように「新幹線が通ることを前提にした協議」が進んでいたとは思い難い。

 ということは、「高架橋の設計はある程度できていても付随する施設や支障移転する公共施設等は全く決められていない状況」だったのではないだろうか?

船橋二和高校南側の空間は成田新幹線買収済用地なのか検証する (22)  

 そして、用地買収する箇所が図面上で決まったとしても、それが「誰の所有の土地に何平方メートルかかるのか」が確定しないと売買の契約書は作れない。

 そのために、関係する用地を一筆ずつ測量し、関係地権者の了解を求めていく。

 これが一筋縄ではいかないのだ。

 2ちゃんねるの家庭板やそのまとめサイトなどで、「隣の家が建てた塀がウチの敷地に入っている。文句を言いにいったら、向こうは自分の土地だと言っている→驚きの結果に!」みたいな話を読んだことがある方もいらっしゃるだろう。

 それが新幹線建設用地内で発生しない保証は一切ない。いや金がからんでくるから今まで我慢してきた不満がこの際爆発するかもしれない。

 また、登記簿の所有者の名義が亡くなった先代の爺様のままで、確認したら「兄弟の相続争いで何十年も揉めたままでいつまでたっても決まらない」といった場合もある。(まとまらないままブラジルに移民した兄弟が一人いる、なんてオプションがついたりもする。)

 こんなことになると、仮に新幹線の工事に伴って立ち退くことを了解していたとしても、土地の売買の契約書が作れない。

 そこを公団等の用地買収担当が説得してなんとかまとめていくのである。

 

 とまあこんな過程を経て公共事業の土地は買収されているのである。大筋は鉄道もダムも道路も変わらない。

 であれば、そうホイホイと「成田新幹線で買収済だった土地」が出てくるわけがないというのがお分かりになるだろうか?

 少なくとも

 ・関連する公共事業等の付け替えがあろうがなかろうが用地買収の範囲は影響ない。

 ・隣接地主との境界争いや相続争いがない。

 ・そして用地買収価格に不満がない。

 といった条件をクリアしないと進まないのだ。

 (ただし、「反対派の中に楔を打ち込む」といった意味で、多少の事務的な合理性は敢て目をつぶって契約しちゃう場合もないわけではない。 )

 ネットでは「用地買収に応じると過激派から攻撃されるから」といった言説も見られるが、三里塚はともかく、船橋等ではそれ以前の問題だったと思われる。

 

 なお、こういった公共事業の用地買収のお話がお好きな方はこちらもあわせてどうぞ

 →https://www.hosyoukikou.jp/cgi-bin/journal/login.cgi

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2020年4月12日 (日)

1974(昭和49)年の大新宿駅構想の元となる運輸省調査報告書と上越新幹線新宿駅や国鉄東北・東海道開発線ホームなどなど

 上越新幹線の新宿駅乗入れについては、過去多くの記事を書いてきて、まあ部外者によるネット記事では第一人者であろうと自任しているのであるが、またまた新ネタ(旧ネタ??)を見つけてきた。

 過去には、大きく分けて二つの時代の図面をご紹介してきた。

「大新宿構想時代(昭和50年前後)の上越新幹線新宿駅地下ホーム等の図面」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-bfa5.html

「上越新幹線新宿駅(地下3階)構想を図面で現認する (玉川上水と新宿駅南口地区の開発について・超番外編その1)」

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6225.html

  

 今度は、カラーによる上越新幹線新宿駅+代々木駅だ。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (31)

 新宿駅南口の甲州街道附近 右下に新幹線ホームが見える。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (32)

 そしてこれは代々木駅の地下を走る新幹線だ。大新宿駅構想は地下の上越新幹線コンコースで新宿駅と代々木駅を直結するものだが、中央総武開発線(左下)や東京メトロ副都心線もホームを持つ一大ターミナルとなっている。

 いままではモノクロの新宿駅構想図しか見たことがなかったが、今度はカラーだ。それも最古のものである。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (1)

  以前ご紹介したものは、

「大新宿構想時代(昭和50年前後)の上越新幹線新宿駅地下ホーム等の図面」⇒1976(昭和51)年

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-bfa5.html

「上越新幹線新宿駅(地下3階)構想を図面で現認する (玉川上水と新宿駅南口地区の開発について・超番外編その1)」⇒1985(昭和60)年

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6225.html

  なので、把握している限り最古の上越新幹線新宿駅の図面となる。

  尤も、上越新幹線の新宿駅乗入れの話は、1971(昭和46)年頃から報道されているので、そちらが気になる方は

「新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1)」 

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html 

  を、併せてご覧いただきたい。

  で、運輸省の「新宿副都心総合整備計画調査報告書」の中身を紹介していこう。

 昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (2)

 前書きはこんな感じで。 

  別に上越新幹線新宿駅の構想を作ろうというものではなくて、それも含めて新宿副都心の開発等色々構想があるから、運輸省として総合的なターミナルの計画を建てておこうということか。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (3)  

 検討メンバーはこんな感じ。八十島、井上と学会の重鎮が勢ぞろいだ。東京都からは鈴木信太郎とか岡本堯生等が顔を出している。(敬称略) 

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (4)  

 このブログの記事を読みに来る人の多くは鉄道マニアだと思うので説明は不要かもしれないが、鉄道網整備計画としては、上越新幹線の乗り入れの他、地下鉄10号線(都営新宿線)、12号線(都営大江戸線)、13号線(営団・メトロ副都心線)その他について考慮した新宿副都心のターミナル計画や淀橋浄水場跡地の副都心等を踏まえた総合整備計画を作成すると。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (5)

 昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (6)

  ちょいと飛ばして、読者のニーズであろう、「鉄道施設の現況と問題点でも。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (8)  

  そして「対象地域に関する諸計画」である。道路計画や鉄道計画に触れている。

 「まえがき」にもあるように、前年度にもこの調査は行われており、これらについては下記には概略しか掲載されていないというと。前年度の報告書についてご存知の方は是非ご教示ください。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (7)

 10号線(新宿線)は、千葉県営鉄道乗り入れで千葉ニュータウンまで、13号線(副都心線)は、渋谷から羽田空港を目指す往時の計画ですな。 

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (9)  

  読者の皆様が一番気にしそうな国鉄の計画はこちら。

  上越新幹線、北陸新幹線、成田新幹線だけでなく、中央新幹線、第二東海道新幹線、常磐新幹線についても新宿への乗り入れが検討されているとしている。リニアモーターカーは、この段階では中央新幹線ではなく、第二東海道新幹線の方だったはず。常磐新幹線は、成田新幹線と合流して東京駅方面から新宿に来るという絵を他で見たことがある。

  また、在来線では、東海道・東北方面開発線(現在の湘南新宿ライン)及び中央・総武開発線(現在の京葉線新宿延伸構想)に触れている。そのホームをどこに設置するかについては後に出てくる。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (10)  

  「国鉄山手線と環状6号線の中間に地下鉄新宿線の計画がある」とするが、これは10号線のことではなく、所謂「地下鉄山手線」のことか。後に出てくる「図8-1」では「地下鉄山手線」と書いてある。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (11)  

 昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (13)

 「昭和65年における需要予測」という言葉があるが、もし関心があれば、こちらもご覧いただきたい。地下鉄山手線のルートも出ている。 

「約50年前に計画された首都圏鉄道網を網羅した「昭和65年鉄道網配分交通量図」が面白い」

 https://togetter.com/li/1404375

 「東北・上越・北陸の第2ターミナル」という言い方が興味深いが、国鉄の文書でも東北新幹線も新宿駅へ乗り入れると書いてあったのでその構想を裏付けるものと言えよう。

 また、成田新幹線の新宿乗り入れは考慮しないが、中央新幹線は考慮するというのも興味深い。

 「成田新幹線の東京駅が鍛冶橋下にあるのは、新宿駅乗入れのため」という説があるが、どうやら「成田新幹線の新宿乗り入れとは関係なく鍛冶橋下に決まって、その後に新宿乗り入れが決まった」ようなのだね。

 

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (38)  

 ところで、国鉄の開発線とは、このような構想である。

国鉄開発線の構想

インフラ整備70年 講演会(第6回)〜戦後の代表的な100プロジェクト〜「五方面作戦 〜今日の首都圏都市鉄道の基盤を築いた国鉄による空前絶後の通勤鉄道改善プロジェクト〜」から引用 https://www.jcca.or.jp/infra70/wp-content/uploads/2019/11/PJ-No06.pdf

 昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (15)

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (37)  

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (14)  

  「中央新幹線」の字が原宿駅の南側に見える。川島令三の著書には、中央新幹線は、中央本線に沿って中野方面に伸びるように書いているが、この計画では新宿から原宿を経て山梨方面に伸びるようだ。どちらを信じるかはご自由に。

  在来線については、「東北・東海道開発線」が13号線(副都心線)と一緒に明治通りを走っている。この頃は、副都心線の下に東北・東海道開発線を建設する予定だったようだ。現在では、山手貨物線を湘南新宿ラインとして走っているが。

  また、「中央・総武開発線」はこの頃は代々木経由である。この辺の経緯についてご関心のある方は下記をどうぞ。

  http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.html

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (17)  

 「新宿周辺鉄道網平面図≪構想,検討路線も含む≫」である。そしてそれぞれの「地下断面図」が下記のとおり。 

 昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (18)

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (19)

 この「地下断面図」が、凡例もないし、色もついていないし全く分からんちんですよ。ひょっとしたら前年の調査結果を見れば分かるのかもしれない。 

 昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (16)

 昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (20)

 文中「三光町」は、現在の新宿三丁目駅である。 

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (21)  

 で、やっとお待たせの各駅の図面にたどり着くので、しばしお待ちを。。 

 「新交通システム」の文字が気になる人もいるかもしれないが、これは気が向けば別稿で。とりあえずここではあまり触れない。 

 昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (23)

 「階層別計画概念図」は、先ほどの「地下断面図」よりはるかに分かり易い。 

 12号線(大江戸線)は、この図では、現在と違い、地下4階となっている。 

 また、京王プラザホテルの更に西側の地下5階に「地下鉄山手線ホーム」がある。 

  明治通りの下には、地下3階に13号線(副都心線)が走り、地下5階に国鉄東北・東海道開発線が走っている。

  なお、これは私の根拠なき妄想だが、池袋以北については、明治通りの下を上越新幹線と東北・東海道開発線が同様の地下2階建てで王子へ進むのではないかと睨んでいる。(東北・東海道開発線の王子以北は、現在は地下鉄南北線である。)

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (22)  

 「各ターミナルの計画」がこちら。

 そして、新宿地区の各ターミナルを一枚にして、各地下階層毎の図面が展開される。 

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (25)  

 </p>「GL」は、多分、グランドレベル=地表のことだ。

 「NTS」 は、前述の新交通システムのことであろう。新宿の東西南北を結ぶ歩行者支援のためのシステムが検討されていたようである。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (24)  

地下1階 

  現在工事中の東西自由通路は、この頃から構想があったことがうかがえる。

  また、新宿駅から代々木駅を結ぶ新幹線コンコースが計画されている。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (26)  

地下2階 

 これだけ見せられても位置関係が分からないが、「4」とあるのは、地下鉄4号線(丸ノ内線)の新宿駅と新宿3丁目駅であろう。 

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (27)  

 地下3階 

 JNRのホームが二つある。東(右)側が東北・東海道開発線で、西(左)側が上越新幹線だ。 

 「13」は、副都心線の新宿3丁目駅と代々木駅だ。 

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (28)  

 地下4階 

  「10」は新宿線の新宿3丁目駅と新宿駅。「12」は大江戸線の代々木駅。この頃は大江戸線は新宿駅はなく、代々木駅から都庁前駅に直行していた。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (29)  

 地下5階 

  「JNR」は、中央・総武開発線の代々木駅だ。この頃は新宿駅は経由しないことになっていたようだ。

  

  そしてやっとやっと駅の構想図である。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (30)  

 「中央ターミナル鳥観図」だ。じゃーん。 

  オレンジが道路で、青が線路のようだ。

  右が渋谷方面、左が池袋方面、上が東口、下が西口だ。

 バスタ新宿と新宿ミライナタワーっぽいビルがある。 

  ミライナタワーと線路の間を左右に走る細い高架橋が「新交通システム」だろうか?

 昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (31)

 「中央ターミナル構成図」 

 JNRはもちろん国鉄のこと。地下に新幹線ぽい車輌と2面4線のホームが見える。右下を逸れていくのは東北・東海道開発線、左下を逸れていくのは中央・総武開発線だろう。 

  西(左)側の「KTR」は、京王帝都電鉄、「OER」は、小田急電鉄だ。

  新幹線の真上に「新交通システム」らしき白いチューブが走る。トラムといった軽車輌ではなく、動く歩道的な歩行支援システムであることがうかがえる。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (32)  

 「代々木・ターミナル構成図」 

  地下を東(右)側から、「13」=副都心線代々木駅、「JNR」=東北・東海道開発線、中央新幹線、西(右)側には、「JNR」=中央・総武開発線代々木駅、「12」=大江戸線代々木駅だろう。

  地上には、新交通システムの高架橋が代々木駅から新宿駅東口のマイシティまで続いている。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (33)  

 「副都心・ターミナル構成図」 

  大江戸線の都庁前駅。現在と違って上下にクロスしている。

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (17)  

 もう一度この路線図を見ればイメージが湧くであろう。 

昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想 (34)  

  「三光町ターミナル構成図」

  新宿三丁目駅である。緑色は歩行者天国を塗り分けているのだろうか?

  「4」の丸ノ内線、「10」の新宿線、「13」の副都心線の実現した地下鉄路線の下に「JNR」東北・東海道開発線のホームも見える。

  

 ※写真、図面の名づけに「昭和48年の上越新幹線新宿駅ホーム構想」としておりますが、「48年度」とすべきところ、写真をUPしてから間違いに気が付きました。お許しくださいませ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2020年3月 6日 (金)

成田新幹線の詳細なルート図面をうpしてみる

 最近、成田新幹線関係のルートの話がTL上を流れていったので、資料をうpしてみる。

 

 未成となった成田新幹線の経路って未だによく分からない扱いをされているようなのだが、それなりにあるところにはある。

 成田新幹線は、日本鉄道建設公団によって建設されることになっていた。

 その鉄建公団が1972(昭和47)年に発行した建設概要資料の抜粋でも。

成田新幹線計画日本鉄道建設公団 (1)

 成田新幹線の必要性を説いている部分でもどうぞ。

成田新幹線計画日本鉄道建設公団 (2)

 

成田新幹線計画日本鉄道建設公団 (3)

 「成田新幹線が来るから」と京成の成田空港駅を遠くに追いやっておいて、「京成は1キロ離れていてバスへの乗り継ぎが必要」だから、成田新幹線を建設しなければならないとする理屈はなんとも。。。

成田新幹線計画日本鉄道建設公団 (4)

道路に出てくる「第二京葉道路」については、「幻の「第二京葉道路」の痕跡を探る」https://togetter.com/li/1468959もあわせてどうぞ。

成田新幹線計画日本鉄道建設公団 (5)

 理屈としては、道路も鉄道も当時計画中のものも含めてマヒするから成田空港への輸送には約に立たないので、成田新幹線が必要という理屈だ。

 

 続いては、成田新幹線のルートである。

成田新幹線計画日本鉄道建設公団 (6)

 

成田新幹線計画日本鉄道建設公団 (7)

 もっと海岸の方へ持っていけと言われたことに対して一応反論しているようだ。実際には京葉線が建設できているので、今となってはあまり説得力がないようにも思える。

 

 標準的な断面がこちら。

成田新幹線計画日本鉄道建設公団 (8)

 よく「ここは成田新幹線の遺構では?」みたいな話があるが、幅が11mあるかどうかが真偽を判断する基準となりそうだ。

 

 この「成田新幹線工事の概要」に付いている路線図がこちら

 成田新幹線と上越新幹線新宿延伸ルート図面 (9)

 明確に上越新幹線の新宿延伸区間への接続を示しているところが興味深い。 

 上越新幹線の新宿-大宮間の経緯については、こちらもあわせてご参照いただきたい。

 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-6d67.html

(ところで、yahoo!知恵袋で「成田新幹線は中央新幹線へ乗り入れる計画でした」って自信満々に書いている回答が多いのだけど、何が根拠なのだろう。。。※そういう構想があったこと自体は承知じておりますが。)

  とりあえず鉄建公団の「成田新幹線工事の概要」からの抜粋はおしまい。

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  成田新幹線のルートについては、上記資料よりも詳細なテキストがある。

  

 「電気車の科学」1972(昭和47)年4月号 に日本鉄道建設公団新幹線部の 延原陽氏が「成田新幹線の建設計画」という報文を載せている。

  そこから成田新幹線のルートについての説明部分を抜粋してみる。

 成田新幹線ルート図面 (1)

  長くてすまんな。

  しかしこれではイメージできない方も多かろう。

  

 ということで、決定版の成田新幹線の路線がよく分かる素面をUPしよう。 

  その名もずばり「成田新幹線東京・成田空港間線路平面図」である。

  日本鉄道建設公団が1974(昭和49)年に作成したものだ。

  なお、皆様は北総鉄道等と並走している部分は今更興味もないだろうから、東京駅から千葉ニュータウンの間の図面を公開しよう。

 成田新幹線ルート図面 (3)

 画面の関係から図面の縦横を逆にしてみた。 

  見づらいかもしれないので、切り出してみよう。

成田新幹線ルート図面 (2)  

 成田新幹線の東京都中央区、江東区附近の路線計画図面 

 成田新幹線ルート図面 (4)

 成田新幹線の東京都江東区、江戸川区附近の路線計画図面 

 成田新幹線ルート図面 (5)

 成田新幹線の東京都江戸川区、千葉県浦安町(浦安市)、市川市附近の路線計画図面 

成田新幹線ルート図面 (6)  

 成田新幹線の千葉県市川市、船橋市附近の路線計画図面  

 成田新幹線計画図面 (1)

 成田新幹線の千葉県市川市、船橋市附近の路線計画図面

 成田新幹線計画図面 (2)

 成田新幹線の千葉県船橋市、鎌ヶ谷市附近の路線計画図面

 成田新幹線ルート図面 (7)

 成田新幹線の千葉県船橋市、白井町(白井市)附近の路線計画図面

成田新幹線ルート図面 (8)  

 成田新幹線の千葉ニュータウン附近の路線計画図面

  

  とりあえずこんなところで。

  

  皆様、今まで想像していたルートとの相違等如何だろうか?

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ところで、成田新幹線が東京駅の地下に入っていた構想が生きている間、京葉線はどこに入るはずだったかというと新橋駅の地下である。 

 京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (2)

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html 

 

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2017年2月25日 (土)

京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。

 京葉線の新宿乗り入れについては、かつて「京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.htmlで記事にしたところである。

 ところで、京葉線の東京駅はかつての成田新幹線構想に基づく東京駅の空間を利用したものであった。  では、成田新幹線構想が生きていたころの京葉線の都心への延伸はどうなっていたのか?それが分かる資料が国鉄に残されていたので紹介したい。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (2)

 「第27回停車場技術講演会記録」307頁から引用

 まあ、上図をご覧のように新橋駅経由だったわけだが。

 出典は国鉄で1976(昭和51)年12月8日及び9日に開催された「第27回停車場技術講演会」における「総武開発線計画について」で、国鉄東京第一工事局調査課の林良一氏によるものである。

 この頃は、「京葉線」はあくまでも貨物線の名称であり、旅客線は「総武開発線」と呼び分けていたようだ。

 上図では駅をどこに設置するかはよく分からないが、別図では下記のとおりとなっている。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (3)

 「第27回停車場技術講演会記録」308頁から引用

内房線の蘇我駅から中央開発線の三鷹までの間に、新幕張、若松町、新浦安、新砂町、有明、新橋、赤坂見附、新宿、弥生町、新浜田山の駅が予定されていたようだ。蘇我-新橋間が総武開発線、新橋-三鷹間が中央開発線という区分である。

 若松町は、現在の南船橋駅のことか?

 新砂町は、現在の新木場駅のことか?

 弥生町は、下記のとおり中野区にある。

 新浜田山駅が設置されるということは、新宿-吉祥寺間は方南通り、井の頭通りの地下に設置する計画ということか。

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 ルートの考え方は下記のとおりである。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (1)

 「第27回停車場技術講演会記録」306頁から引用

 「汐留駅をターミナルとし、第二東海道新幹線」云々(でんでんじゃないよ)とあるが、これについてはおって詳細に紹介したい。→http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-67ee.html

 蘇我から三鷹までの縦断図は下記のとおりである。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (5)

総武開発線の都心付近の拡大図はこちら

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (6)

中央開発線の都心付近の拡大図はこちら

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (7)

 それぞれ「第27回停車場技術講演会記録」311頁から引用

 新橋駅は、既に総武快速・横須賀線の地下駅を設置しているため、その下に設置するようで標高約35m(地下約43m)と大変深い位置に計画されていた。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (8)

 「第27回停車場技術講演会記録」312頁から引用

 なお、新橋駅の位置については、案3まで掲載されている。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (11)

 「第27回停車場技術講演会記録」321頁から引用

 また、中央開発線の縦断図では新宿駅で上越新幹線の下を通っていること等が分かる。

 新宿駅のホームや詳細な位置取りは、以前「大新宿構想時代(昭和50年前後)の上越新幹線新宿駅地下ホーム等の図面」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-bfa5.htmlで紹介しているので、併せてご覧いただきたい。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (4)

 「第27回停車場技術講演会記録」371頁から引用

 「横十字」が中央・総武開発線である。

大新宿構想時代の上越新幹線新宿駅地下ホーム (3)

 「第27回停車場技術講演会記録」377頁から引用

 左右に伸びる地下ホームが上越新幹線新宿駅であり、その下(地下5階)に上下に伸びるホームが、中央・総武開発線である。

 中央開発線の三鷹駅が地下に計画されていたことも分かる。

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 「京葉線は、貨物と旅客の複々線とする予定であった」と言われるが、その計画が分かる図面もある。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (10)

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (9)

 「第27回停車場技術講演会記録」320頁から引用

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■地下鉄有楽町線への乗り入れの検討

 昨今、京葉線とりんかい線の相互乗り入れによる新宿直通案の具体化が図られているが、当時営団地下鉄有楽町線(8号線)との相互乗り入れが検討されていたようだ。

京葉線の都心新宿三鷹方面への乗り入れ計画 総武開発線 (12)

 有楽町線乗り入れが実現されていれば、もっと早くに都心への直通が実現できていたと思われるが、特急、快速等が運行しづらいことや、ホームが10両しかないこと(快速は15両を想定していた)、何より、有楽町線が海浜ニュータウン方面(幕張、稲毛付近)への延伸が想定されていたことを排除するために?有楽町線乗り入れを排除していたようだ。

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■採算的には困難?

 松本市長がJR東日本に中央東線の輸送力増強について要望にいった際に「巨額な設備投資を伴うため、JR単独の整備は不可能」という回答があったとのことである。

 

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 次は「リニアモーターカー(第二東海道新幹線)と京葉線のターミナルとなるはずだった汐留駅」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-67ee.html

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2016年4月11日 (月)

京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~

 去る4月7日に、国土交通省の交通政策審議会 陸上交通分科会 鉄道部会の「東京圏における今後の都市鉄道のあり方に関する小委員会」が開催され、首都圏の鉄道網の整備方針案が示された。

 そこに「<16> 京葉線の中央線方面延伸及び中央線の複々線化(東京~三鷹~立川)」として 「・東京から三鷹までは京葉線を地下で延伸し、三鷹駅において中央線と相互直通運転を行う。」ことが盛り込まれた。

京葉線延伸新宿駅計画 (2)

http://www.mlit.go.jp/common/001126948.pdf から引用

 ここでは、過去の国鉄資料に表れた京葉線(中央開発線、中央新線)の新宿駅設置予定資料を検証しようとするものである。

 まあ、ぶっちゃけ、過去の上越新幹線新宿駅ネタの使いまわしなのであるが。

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 そもそも東京~三鷹の新路線については、昭和40年代くらいから(詳細は不勉強につき不知)とりざたされており、例えば「交通技術」1975年5月号に下記のような図が掲載されている。

中央開発線

 また、「東工」90年のあゆみ(日本国有鉄道東京第一工事局)1987年1月刊 にも下記のような図が示されており、『開発線計画は、需要追随的な鉄道計画から脱皮し、沿線の都市計画、ニュータウン計画等の都市建設を積極的にリードするものでリニア・モータ方式などの新しい技術を取り入れた21世紀型の鉄道の建設を目指す必要がある。新線計画は、既存の鉄道を補完するとともに積極的に沿線の開発を目指すものである。」とある。

京葉線延伸新宿駅計画 (1)

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 おって、成田新幹線も新宿駅乗入れ計画を持っていた。これも以前、「新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その2)」という記事にまとめたところである。

http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

成田新幹線新宿駅乗入れ (1)

読売新聞 1971(昭和46)年11月26日 朝刊 から引用。

 成田新幹線が断念されるまでの間は、東京~新宿の地下に新幹線と中央開発線の2本の地下新線が予定されていたことになる。

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 ところで、新幹線新宿駅といえば、以前「上越新幹線新宿駅(地下3階)構想を図面で現認する」のシリーズで取り上げたアレである。

上越新幹線新宿駅構想 (1)

 「新宿駅貨物敷活用基本構想」である。これには、上越新幹線の新宿駅だけでなく、中央新線(=中央開発線≒京葉線延伸)の新宿駅も想定されているのである。後述のとおり今も有効なのかどうかは疑問が持たれるところであるが。

 そこでは中央新線の位置付けとしてこう述べている。

京葉線延伸新宿駅計画 (8)

 1985(昭和60)年の段階で中央線と京葉線の直通運転を想定していたことがわかる。また、上述の「交通技術」1975年5月号とのルートの違いも説明されている。

京葉線延伸新宿駅計画 (4)

 新宿駅近辺のルートは下記のとおり。

京葉線延伸新宿駅計画 (5)

ポンチ絵は下記のとおり。地下3階の上越新幹線と地下5階の京王新線との間を走ることとされている。

京葉線延伸新宿駅計画 (7)

 断面図は下記のとおり。

京葉線延伸新宿駅計画 (6)

 ホームが設置される地下4階のフロア図

京葉線延伸新宿駅計画 (9)

 コンコースが設置される地下3階のフロア図

京葉線延伸新宿駅計画 (10)

 地下2階には中央新線≒京葉線に沿って東西自由通路が設置される。

京葉線延伸新宿駅計画 (11)

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(追記)

 Twitterで、本件について非常に貴重な指摘をいただいた。

 下図は、「大江戸線建設物語」100頁掲載の新宿駅断面図である。代々木方に、何も説明を書いていないが、地下の謎空間がある。

京葉線新宿駅延伸と都営大江戸線新宿駅謎の空間 (1)

 これに、「新宿駅貨物敷活用基本構想」に記載された地下4階の京葉線(中央新線)ホームを重ねてみる・

京葉線新宿駅延伸と都営大江戸線新宿駅謎の空間 (2)

 まあ、大江戸線新宿駅の謎の地下空間と京葉線(中央新線)新宿駅ホームがいい感じにあたってくるのではないか?

 こうやって見ると、JR東日本本社ビルの地下4階あたりに、京葉線のホームがありそうな気がしないでもない。建築雑誌でJR東日本本社ビルの報文を探したのだが見当たらない。どなたかスネーク(略

(追記終わり)

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 ただし問題は下記の図だ。

京葉線延伸新宿駅計画 (12)

 中央新線≒京葉線のホームが設置される部分だけ再開発ビルの荷重制限がかかるようになっている。つまり「地下に構造物ができるので上にあまり重たいものを置かないでね」ということである。しかしこの絵と異なり、この部分には既に高島屋タイムズスクエアビルががっつりと荷重制限も何もないかのように建てられている。

 また、タイムズスクエアビルは地下には機械式駐車場が設置され、とても地下4階にホームなど入り込む余地は無さそうだ。

タカシマヤタイムズスクエア

 (これは「上越新幹線新宿駅は高島屋タイムズスクエアの下に準備されている」というのはデマであるということでもある。)

 私が邪推するに、「新宿駅貨物敷活用基本構想」が出来てから実施されるまでの間に「中央新線の実現可能性」と再開発ビルの荷重制限をすることの是非が議論され、中央新線については考慮しないということになったのではなかろうか。。。

 高島屋と紀伊国屋の間の「設備トレンチ」の下の空間も気になるが。。。

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 ところで、4月4日にオープンしたバスタ新宿と中央新線≒京葉線の駅の関係はどんな塩梅だろうか?

 Yahoo!地図と「新宿駅貨物敷活用基本構想」の図面を合わせてみると。。。

京葉線延伸新宿駅計画 (3)

 ああ、なんかバスタ新宿が中央新線≒京葉線の新宿駅を避けているように見えませんか?

 タイムズスクエアの下を当初通り地下3階に通すのは無理にしても、この辺に空けて待っているのかなあというロマンだけ抱いておくことにしましょうか。。。

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(参考)

 こちらも併せてご覧ください。

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

「リニアモーターカー(第二東海道新幹線)と京葉線のターミナルとなるはずだった汐留駅」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-67ee.html

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(追記)

「京葉線延伸による《新宿-立川間の高速化》について、巨額な設備投資を伴うため、JR単独の整備は不可能」ということらしいですな。

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(余談)

 中央線の地下化というとこんな計画もあった。

中央線複々線化1

中央線複々線化2

土木学会誌 第45巻 第11号から引用

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 <上越新幹線新宿駅関係記事>

 その1 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6225.html

 その2 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6883.html

 その3 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-d383.html

 その4 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-f365.html

 実際のところどうなっているのか? http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-9452.html

 国会でどのように答弁されてきたのか? http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-6db4.html

 報道をまとめてみた(その1) http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html

 報道をまとめてみた(その2) http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.html

 「完全版 新宿駅大解剖」(横見浩彦・監修 宝島社・刊)表紙トップの上越新幹線ネタを検証してみる http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-7007.html

大新宿構想時代(昭和50年前後)の上越新幹線新宿駅地下ホーム等の図面http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-bfa5.html

やっぱりバスタ新宿の基礎で上越新幹線新宿駅はできなくなっちゃったんじゃないの?http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1df5.html

上越新幹線 新宿-大宮間ルートの経緯を整理してみるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-6d67.html

上越新幹線の池袋駅はどうなっていたのかhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-2c6b.html

大宮駅付近に見る上越新幹線新宿-大宮ルートの痕跡http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1c4d.html

東北新幹線は浦和市営モノレールの導入空間を空けて今でも待ってるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-0765.html

上越新幹線新宿駅-大宮駅間ルート「川島令三案」を徹底検証してみたhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/--a64d.html

上越新幹線新宿駅と都営地下鉄新宿線及び大江戸線との位置関係を確認してみるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-3b1a.html

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

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2016年1月11日 (月)

新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その2)

 新宿駅への上越新幹線・成田新幹線の乗入れについて報道をまとめてみた(その1)では上越新幹線の新宿駅乗入れに係る報道をまとめてみたが、本頁では、成田新幹線の新宿駅乗入れに係る報道をまとめてみる。といっても2本しかないけど。

成田新幹線新宿駅乗入れ (1)

成田新幹線の新宿起点、年内に結論 国鉄と公団

 国鉄と日本鉄道建設公団は、新東京国際空港(千葉県成田)と都心を結ぶ成田新幹線の工事計画について近く協議会を開くが、席上同新幹線のターミナル駅を上越新幹線と同様将来は新宿駅に設けることを検討する。これが実現すると、新宿-成田間の直通運転はもちろん、上越新幹線と東海道新幹線の直通運転も可能となり、新宿駅は一躍全国新幹線網の大拠点となる。国鉄と同公団は年内に結論を出す方針。

 これまで成田新幹線の東京都内のターミナルは東京駅八重洲口側の鍛冶橋の国鉄用地に地下で設けることに内定していたが、これを将来新宿駅に移すという構想が篠原武司同公団総裁らの主張によって浮かび上がってきた。この主張の根拠は●鍛冶橋をターミナルとすると、同新幹線が東京-成田だけを結ぶいわば枝線的な変則新幹線となってしまう●それよりも成田-鍛冶橋-新宿と結べば、上越新幹線や、計画中の中央、北回り両新幹線が将来完成した際、これら新幹線と東京国際空港を結ぶことができ、さらに新宿駅を結節点として上越新幹線と東海道新幹線とを直通運転することも技術的に可能になり、成田新幹線が文字通り全国新幹線網の一つとして生きる、というもの。

 新宿駅は東京外環状線が52年に全線開通すれば、山手貨物線で現在結んでいる貨物がすべて外環状線に移されるので現在駅南口の新宿貨物駅があく。この跡地を利用して上越新幹線のターミナルができるが、これを広げて成田新幹線のターミナルを兼ねることは可能だという。これに中央、北回り両新幹線などのターミナルを加えることになれば、新宿貨物駅跡は全国新幹線網の表玄関となる。

 ただ、成田新幹線のターミナルを将来新宿に置くとすれば、鍛冶橋-新宿間を地下鉄道で結ぶことは避けられないが、それには膨大な費用が必要となる。東京国際空港の利用客が乗客の中心となる成田新幹線のためにそこまでの費用をかけるべきか否か疑問を投げる関係者もあり、国鉄と同公団の協議会ではこれらの点も含めて検討されることになる。

読売新聞 1971(昭和46)年11月26日 朝刊

 これを読むと、一旦成田新幹線の東京駅は鍛冶橋(現在の京葉線東京駅がある場所)と内定した後に鉄建公団が新宿延伸(そして上越新幹線や中央新幹線との乗入れ)を言い出したことになる。

 ウソペディアwikipediaによると

東京駅

将来の新宿方面への延伸を考慮し、東海道本線と鍛冶橋通りが交差する地点(東京駅 - 有楽町駅間のほぼ中間)の地下に、成田新幹線用の駅施設が計画された。

成田新幹線 - Wikipedia

とあるが、これでは順番が異なることになるうえにwikipediaには参考文献も書いていない。

 まあ、実際には将来延伸のノリシロ込みで鍛冶橋に内定しておいて、後出しで新宿駅延伸を言い出したんじゃないかなーと邪推するのだが。

 ちなみに読売新聞記事中の「北回り新幹線」は現在の北陸新幹線だ。

成田新幹線新宿駅乗入れ (2)

成田新幹線、年内申請見送り

 篠原武司日本鉄道建設公団総裁は25日、丹羽運輸大臣と会い「成田新幹線(東京-新東京国際空港間65キロ)の工事実施計画を年内に提出することはむずかしい」と報告した。

 建設公団は同新幹線について今月中旬●ルートは、東京都江東区越中島を経て千葉県印西地区に同県が建設する予定の千葉ニュータウンを通る北回りとする●途中駅は、同ニュータウン内一駅とする●都内のターミナルは東京駅八重洲口の鍛冶橋とするが、将来は新宿駅とする、との構想をまとめ、年内に申請、年明け早々に着工する計画だった。しかし、最近になって国鉄から「営業政策の面から現在の国鉄成田線成田駅にも停車させ、途中停車駅を二つにすべきだ」という強い要望が出された。これに対して建設公団は、新東京国際空港と成田駅の間は7キロしかないので、停車させれば新幹線の特性である高速性が発揮できなくなるとして反対しており、この調整がつかないため、年内の申請を見送ることとした。

読売新聞 1971(昭和46)年12月26日 朝刊

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 報道ではないが、これらの記事をさかのぼる1年ほど前に、1970(昭和45)年3月11日に鉄道建設審議会が全国新幹線整備法案の検討を決議している。その別表路線網では成田新幹線は常磐新幹線の一部として扱われている。

新幹線鉄道整備法案要綱別表

 ご関心のある方はこちらのファイルを開いてみていただきたい。

http://jpimg.digital.archives.go.jp/pdf/H1530a00870000/024704398137.pdf

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 で、成田新幹線はご存知のとおり未成線に終わったわけだが、ネットでは「サヨクガ―」「プロ市民が-」みたいなことを書き散らかしている御仁もいらっしゃるが、一番強烈な反対は土着保守とも言える江戸川区長ご本人である。「江戸川区住民が訴訟を起こした」みたいなことを書く方もいらっしゃるが、それは嘘でバリバリ保守の江戸川区長が江戸川区住民をまとめて反対運動を起こしていったようだ。

 ご関心のある方は小久保 晴行・著「地方行政の達人」

http://www.japanpen.or.jp/e-bungeikan/study/pdf/kokuboharuyuki.pdf

にお目通しいただきたい。

 新幹線については31頁以降に書いてある。

 もっとも、その前の26-30頁を見ると、運輸省の飛行機騒音に係る対応に非常に不満を持っていたことが分かる。それがようやく解決の糸口が見えて来たところにまた問答無用で新幹線を持ちこまれたという意識が強かったのか。

 ちなみに江戸川区は運輸大臣を相手どって「日本鉄道建設公団に対してした成田新幹線東京・成田空港間工事実施計画その1に関する認可を取り消せ」との行政訴訟を提起している。

 これは法学部で行政法を学ぶ際には絶対出てくる超基本判例である。

 裁判所のウェブサイトに判決文が掲示されているので是非見てみよう。

・昭和47(行ウ)52  行政処分取消請求事件 昭和47年12月23日  東京地方裁判所

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/154/018154_hanrei.pdf

・昭和47(行コ)95  行政処分取消請求控訴事件 昭和48年10月24日  東京高等裁判所 

http://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/099/018099_hanrei.pdf

 私の記憶が確かならば江戸川区はずーっと保守区政だったと思うのだが、今でも江戸川区のサイトには

 その後、葛西地区ごみ公害問題・航空機騒音問題・成田新幹線区内通過問題の、いわゆる三大公害問題が発生しましたが、環境浄化対策協議会を中心とした区民と行政一体の根強い活動により、いずれの問題も解決に至りました

環境をよくする運動とは:江戸川区ウェブサイト

とある。

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 <上越新幹線新宿駅関係記事>

 その1 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6225.html

 その2 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-6883.html

 その3 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-d383.html

 その4 http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/11/post-f365.html

 実際のところどうなっているのか? http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-9452.html

 国会でどのように答弁されてきたのか? http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-6db4.html

 報道をまとめてみた(その1) http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-d5ec.html

 報道をまとめてみた(その2) http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-a27d.html

京葉線の中央線方面への延伸と新宿駅予定地~上越新幹線の下に準備。そしてバスタとの関係は?~http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/04/post-f4a3.html

 「完全版 新宿駅大解剖」(横見浩彦・監修 宝島社・刊)表紙トップの上越新幹線ネタを検証してみる http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2016/12/post-7007.html

大新宿構想時代(昭和50年前後)の上越新幹線新宿駅地下ホーム等の図面http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-bfa5.html

やっぱりバスタ新宿の基礎で上越新幹線新宿駅はできなくなっちゃったんじゃないの?http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1df5.html

上越新幹線 新宿-大宮間ルートの経緯を整理してみるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-6d67.html

上越新幹線の池袋駅はどうなっていたのかhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-2c6b.html

大宮駅付近に見る上越新幹線新宿-大宮ルートの痕跡http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-1c4d.html

東北新幹線は浦和市営モノレールの導入空間を空けて今でも待ってるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/01/post-0765.html

上越新幹線新宿駅-大宮駅間ルート「川島令三案」を徹底検証してみたhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/--a64d.html

上越新幹線新宿駅と都営地下鉄新宿線及び大江戸線との位置関係を確認してみるhttp://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-3b1a.html

「京葉線はかつて新橋経由で都心(新宿、三鷹)に乗り入れる計画だった。」http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-1315.html

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